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🎭|岡部平太の劇を創ろう いとしまハローピースアクト 夏公演へ新メンバー募集


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岡部平太の劇を創ろう いとしまハローピースアクト 夏公演へ新メンバー募集

 
内容をざっくり書くと
昨年は、東京五輪を契機に小説や舞台の題材としても注目された岡部平太に向き合う予定だったが、コロナ禍で企画が持ち越しとなっていた。
 

広島原爆の日に、子どもたちと平和劇などの舞台を重ねてきた福岡県糸島市の市民団体「いとしまハローピース… →このまま続きを読む

 西日本新聞


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コロナ禍

コロナ禍(コロナか)とは、2019年末からの新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行による災難や危機的状況を指す言葉である[1]

コロナ禍」のうち、「コロナ」は「新型コロナウイルス[2]、「」は「災い」や「災難」「不幸なできごと」を意味することば[3]で、さまざまな名詞に後置されて「○○禍(か)」という複合語[4]を形成する(他の例:水禍、戦禍など)。

新型コロナウイルス感染症の流行が拡大するとともに、2020年(令和2年)3月半ば頃から新聞やネット上において広く用いられるようになった[5][注釈 1][注釈 2]

大辞泉が選ぶ新語大賞2020

小学館による「大辞泉が選ぶ新語大賞 2020」では、次点として「コロナ禍」が選出され、大辞泉編集部による語釈が発表サイト上に掲載された。

選出理由について、特別選考委員を務めた明治大学国際日本学部教授・田中牧郎は「今の世界の状況を言い表す言葉で、これを克復しよう、新しい生活様式を見出して、なんとか切り抜けていこうという願いを共有するのに、大事な言葉になっています。その思いへの応援も込めて次点としました」と説明している。

また田中は、日本語学の観点からは.「○○禍」が造語成分として今後派生するかどうかも注目に値するとしている[6]

脚注

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注釈

  1. ^ 行政によるネット上の発信では、 など。
  2. ^ 新聞報道では、全国紙5紙すべてに登場。 など。ブロック紙では、 など。県紙では、ブロック紙に準ずると評価されるものでは、 など。一般の県紙では、など。

出典

  1. ^ 滝島,2020,ll.1-2.
  2. ^ 滝島,2020,l.2.
  3. ^ 滝島,2020,l.1.
  4. ^ 滝島,2020,ll.24-25.
  5. ^ 滝島,2020,ll2-4.
  6. ^ “国語辞典『大辞泉』が選ぶ今年の新語大賞は【三密】に決定! 次点は【コロナ禍】 最多投稿数は【経年美化】” (プレスリリース), 小学館, (2020年12月1日), https://kyodonewsprwire.jp/release/202011287823 2020年12月1日閲覧。 

参考文献

関連項目

岡部平太

岡部 平太(おかべ へいた、1891年9月10日 - 1966年11月7日)は、日本のスポーツ指導者であり、日本で最初のアメリカンフットボール紹介者。柔道8段、剣道5段。

福岡県糸島郡芥屋村(現在の糸島市)出身。

経歴

生い立ち

1891年(明治24年)養蚕業と櫨ろう業を営む農家の9人兄弟の長男として生まれる。

1908年(明治41年)福岡師範学校(現・福岡教育大学)入学。学校では持前の運動神経を発揮し、柔道、剣道、相撲、軟式テニス、陸上、野球、ボートと多岐にわたり活躍する。

1911年(明治44年)当時の武道界最大の大会で、京都武徳殿で開かれた「青年大演武会」準優勝(柔術の16歳以上20歳未満 選抜勝負の部。金光弥一兵衛宇土虎雄も出場)。 福岡市の柔道場双水執流隻流館でも腕を磨き、1912年(明治45年)2月16日「千本取り」(自由に技を掛け合う「乱取り」を千本続けて行う修行で、通常8時間はかかる)に挑み、岡部は5時間で成し遂げる。

1912年福岡師範学校卒業後、久留米市の男子高等小学校の教員に赴任。

東京高等師範学校入学、講道館に入門

1913年(大正2年)特別推薦により嘉納治五郎が校長を務める東京高等師範学校(現・筑波大学)体操専修科に入学。同時に柔道講道館にも入門。入学して間もなく、講道館の紅白試合で初段を相手に5人抜きを行い、二段を授与。翌年の紅白試合では7人抜きを行い、四段(当時、学生で講道館四段という高段者は岡部ただ一人)に昇進する。このころ、嘉納治五郎師範について各地を回り、模範実技を行う。比類なき猛者として武道を目指す少年達の憧れであったという。

1916年4月(大正5年)東京高等師範学校 研究科に進学。その夏、東ステと結婚。

米国留学で科学的スポーツ理論を学ぶ

1917年(大正6年)東京高等師範学校卒業後、「東京奠都(てんと)五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」(日本最初の駅伝大会)、第3回極東選手権競技大会(東京で開催)に大会役員として運営に関わる。

この年の6月、嘉納治五郎、内田信也の援助により、単身でアメリカ留学に出発。 留学先のシカゴ大学エイモス・アロンゾ・スタッグ教授よりバスケットボール水泳陸上競技アメリカンフットボール、体育理論とコーチ理論を実地に学ぶ。アメリカンフットボールに関しては、実際に岡部は大学や近くのクラブチームでプレーを経験した(シカゴの地元新聞『シカゴ・トリビューン』に顔写真付きの記事がある)。後に自著「世界の運動界」(1925年出版)の中で、日本で最初と思われるアメリカンフットボール解説を書いている。

また、留学中、岡部はあらゆる競技に興味を示し、ボクシング・ジムやレスリングの道場に通い、サッカー野球テニス等 片っ端から挑んだ。ペンシルベニア大学ではスポーツ生理学、ハーバード大学では女子体育の理論、体育史を学ぶ。米国で科学的なコーチ法を目にした岡部は、それまで精神主義一辺倒だった日本のスポーツの近代化に精力を傾けるようになる。

サンテル事件、師 嘉納治五郎との決別

1920年(大正9年)に帰国後、内田信也に請われて旧制水戸高等学校のグラウンドを設計し、日本初の400mトラックを作る。

この年、米国プロレスラー アド・サンテル(ルー・テーズの師匠の一人)から講道館への「プロレス柔道」の異種対抗試合の申し込みを巡り、黙許という形で受け入れようとする嘉納治五郎と意見が対立し、講道館を去る。 (岡部は米国でのレスラーと対戦経験から、ルールが異なるものが対決してもスポーツとして意味がなく、また、興業的試合をすればプロ団体とみられ、世界のアマチュアスポーツ界での柔道の振興がかなわなくなりかねないと強く反対したが、嘉納は意見を変えなかった。しかし、岡部が去った後、講道館は幹部の多くが反対したこともあり、サンテルと館員の試合を正式に禁じた。)

1921年(大正10年) 4月、水戸高等学校講師となる(教え子には後の三井不動産会長 江戸英雄もいた。江戸は岡部を、実技の点ではもとよりだが精神的な面で水戸に残した足跡は大きいと評している)。しかし、半年後に突如 水戸高を辞め、満州(現在の中国東北部)に渡る。

満州でスポーツ指導者として活躍

1921年(大正10年)10月、南満州鉄道株式会社(満鉄)に体育主任として入社。

1922年(大正11年)満州体育協会を創設、理事長に就任。以後11年間在職する。

1923年(大正12年)12月、海外の体育事情視察の為、8カ月間の旅(アメリカ、カナダ、イギリス、デンマーク、スウェーデン、フィンランド、ドイツ、フランス等)に出発。

1924年(大正13年) アメリカで若き日のジョニー・ワイズミュラー(後の金メダリストでターザン俳優としても有名)からクロールを教わる。カナダのモントリオールではスキースケートスキージャンプを体験。アイスホッケーの試合を見学した他、スケートリンクの作り方を習得。

フィンランド(当時の陸上競技強国)では、パーヴォ・ヌルミの走りを見学。ヤーッコ・ミッコラ(陸上競技コーチ)から、三段跳びの理論やインターバル走等 科学トレーニングを学んだ。 この夏、フランスでパリオリンピックを視察。

1925年(大正14年)マニラで行われた第7回極東選手権競技大会の陸上チーム総監督となる[1]。この大会では審判の不公平なジャッジが横行し、憤った岡部は日本の陸上競技代表選手全員を率いて棄権退場した[1]

1928年(昭和3年)大連運動場で日本とフランスの国際対抗陸上競技会(日本初の国際スポーツ大会で織田幹雄南部忠平らが参加)を提案し成功させ、1929年には張学良と協力して日独支対抗陸上競技会を行う。また、コーチとしては陸上の岡崎勝男(1924年パリオリンピック5000メートル競走で日本初の決勝進出、後に外務大臣)や南部忠平(1932年ロサンゼルスオリンピック三段跳金メダリスト)らを育て、当時のスポーツ界に大きく貢献した。

この頃の岡部について人見絹枝(陸上選手で日本人女性初のオリンピックメダリスト)は、自著「スパイクの跡」の中で、「岡部さんの顔は何回みてもこわい。でもあの顔で仲々情に脆く、熱すればすぐ涙を流される。そこに言い知れない親しみがある。あの岡部さんの顔をみると凡てのものを見通しているかと思われる位、断乎として人に譲らない所がある。自分の意見をどこまでも主張する人である。女子の斯道(しどう)にもこんな大先輩があったらと羨ましく思われる。」と記している。

1930年(昭和5年)第9回極東選手権競技大会に陸上総監督として出場。

関東軍に逮捕される

1931年(昭和6年)満州事変勃発の際、馮庸(ひょうよう:張学良の義兄弟)を逃亡させた疑いで、関東軍に睨まれ逮捕される。一時は処刑の危機に瀕したが、釈放される。 しかし、この事件がもとで満鉄を退職。スポーツ関係のすべての職も退き、1932年レークプラシッドオリンピックの団長も辞退した。

1934年(昭和9年)満州陸上競技革新連盟を設立。

1938年(昭和13年)1940年東京オリンピックの陸上コーチに就任。(その後、東京オリンピックは日中戦争の影響で開催返上)

1939年(昭和14年)中江丑吉中江兆民の長男で中国古代思想研究者)に北京滞在を勧められ、北京国立師範大の体育専任教授に就任。

1945年(昭和20年)4月、長男 平一が特攻隊で戦死(享年23歳)。6月、郷里の福岡県芥屋村に引き揚げ、農業に従事。

福岡国体誘致、ボストンマラソンの勝利

1947年(昭和22年)第3回国民体育大会の福岡誘致の為、準備委員長に就任。

1948年(昭和23年)第3回国民体育大会福岡国体)国体事務局長に就任。福岡県体育協会理事長就任。(県体協のシンボルマークは岡部がデザイン)

1950年(昭和25年)金栗四三らと戦後のマラソン界再建の為「オリンピックマラソンに優勝する会」を発足させ、各地の有力選手を発掘すると共に、合宿による徹底指導を行う。(田中茂樹西田勝雄広島庫夫山田敬蔵浜村秀雄貞永信義ら第一級選手を育成)

1951年(昭和26年)第55回ボストンマラソンに向けて結成された派遣団の日本代表監督に就任[2]田中茂樹選手が優勝(日本人初参加での快挙)。

1951年10月から1952年(昭和27年)6月にかけて福岡県立修猷館高等学校で講師を務め[3]、1952年福岡学芸大学(1966年に福岡教育大学に改称)専任講師に就任、拓殖大学教授を兼任する。以後、主に研究・執筆活動に入る。 著書に『スポーツと禅の話(あがる心理の究明と克服)』(1957年、不昧堂出版)、『コーチ50年』(1960年、大修館書店)がある。

70歳で医学博士、そして再び東京五輪コーチに

1956年(昭和31年)ブリヂストン社長の石橋正二郎に招かれ、久留米市の石橋文化センター体育部長に就任[4]

1961年(昭和36年)70歳で論文「年齢別にみた水泳のエネルギー代謝」によって、久留米大学より医学博士の学位を授与される。(岡部は早くから水泳における記録と年齢の相関に注目しており、特に、女子は年齢が低いことが記録に有利に働くことを戦前から気づいていた。) また、この年1964年東京オリンピックの陸上競技強化本部の強化コーチを委嘱される。

1962年(昭和37年)1960年ローマオリンピックマラソン優勝者アベベ・ビキラの強さの秘密は高地にあると考え、高地トレーニングを提唱。単身でアベベの出身地エチオピアに視察に行き、現地の選手が標高2,500m以上の高原で練習している事を知る。帰国後、信州等で人体実験を行い有効性を実証した。

1963年(昭和38年)マラソンを中心に多年スポーツ界に尽くした功労で 昭和37年度『朝日賞』を受賞。授賞式では盟友である金栗四三が祝辞を述べている。4月、九州産業大学教授に就任。8月、脳溢血で倒れる。

1966年(昭和41年)11月7日、3年間の闘病の末に75歳で病没。 病床での最後の言葉は「あゝ運動場に立つだけでも良いから、一度いきたい」であったという。

岡部平太と平和台

岡部はその活動の破天荒さ、革新性ゆえ「スポーツ界の奇才」「在野の巨人」「風雲児」などと称され、組織原理や精神主義に重きをおきがちな体育団体とぶつかることも多かったが、近年その業績が再評価されつつある。

現在の福岡市平和台陸上競技場は、1948年(昭和23年)の福岡国体(第3回国民体育大会)当時、国体事務局長であった岡部が、国体の主競技会場(福岡城址の一角にあった旧日本陸軍兵営跡地)に、「兵(つわもの)どもの夢の跡を平和の台(うてな)にする」として、英語で「Peace-Hill」(平和の丘)を意味する「平和台」と名付けたことが由来である。

1992年平成4年)3月、平和台陸上競技場内に岡部の胸像が建立される。又、平和台球場跡地を囲むフェンスには『平和台の名付け親は「近代スポーツの父」岡部平太』として「平和台」の由来と岡部の写真(米国留学時のアメリカンフットボールのユニフォーム姿)が説明プレートで掲示されている。

脚注

  1. ^ a b 杢代 2018, pp. 269-271.
  2. ^ 「来月一日空路出発 ボストン・マラソン選手」『朝日新聞』昭和26年3月26日4面
  3. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館215年記念』全日制旧職員22頁
  4. ^ 70歳で博士号、水泳界に一石”. 論座 (2019年11月30日). 2021年2月16日閲覧。

参考文献

作成にあたって下記書籍を参照した。

  • 『福岡県百科事典 下巻』西日本新聞社、1982年
  • 田中舘哲彦『日本スポーツを救え 野人 岡部平太のたたかい』平凡社、1988年
  • 山口昌男『「挫折」の昭和史 』岩波書店、1995年
  • 別冊宝島『マラソンに勝つ。 』宝島社、1999年
  • 西日本新聞文化部『唯我独創の国から 』、2000年
  • 『岡部平太 小伝 日本で最初のアメリカンフットボール紹介者 -附 改訂版 関西アメリカンフットボール史-』関西アメリカンフットボール協会、フットボール史研究会、2004年
  • 『はやての女性ランナー -人見絹枝賛歌-』、2005年
  • 講道館柔道対プロレス初対決―大正十年・サンテル事件』、2006年
  • 松原一枝『幻の大連』新潮社、2008年
  • 『変わりゆく日本のスポーツ』世界思想社、2008年
  • 『岡部平太伝 平和台を創った男』西日本新聞 朝刊連載記事、2019年
  • 杢代哲雄『評伝 田畑政治 オリンピックに生涯をささげた男』国書刊行会〈新装版〉、2018年6月25日、289頁。ISBN 978-4-336-06267-3
  • 橘 京平『Peace Hill(下) 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語』幻冬舎、320~325頁(岡部平太 年譜) 2019年11月
  • 高嶋 航『国家とスポーツ 岡部平太と満洲の夢』KADOKAWA、2020年03月27日

 

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