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🧑‍🎨|世界屈指の美術館のコレクションから日本絵画を92点選りすぐり。MIHO MUSEUMにて企画展…


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世界屈指の美術館のコレクションから日本絵画を92点選りすぐり。MIHO MUSEUMにて企画展…

 
内容をざっくり書くと
この展示会ではそのコレクションの中から日本美術品92点を借り受け、雪村周継、狩野山楽、狩野山雪、俵屋宗達、伊藤若冲、与謝蕪村、曾我蕭白、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、酒井抱一、谷文晁、狩野芳崖、河鍋暁斎などの作品を展示します。
 

9/18~12/12、MIHO MUSEUMにてイベントが開催予定です。 今回のイベントは事前予約制… →このまま続きを読む

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狩野山楽

狩野 山楽(かのう さんらく、永禄2年(1559年) - 寛永12年8月19日1635年9月30日)は、安土桃山時代から江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野山雪の養父。

経歴

浅井長政の家臣・の子光頼として近江国蒲生郡に生まれる。母は伝承では益田氏。のちの林鵞峰は「佐々木氏の末裔か」と記している。父・永光は余技として狩野元信に絵を習っていた。

浅井氏織田信長によって滅ぼされてからは豊臣秀吉に仕え、秀吉の命により狩野永徳の養子となり狩野姓を名乗る。山楽はこの時、武士の身分を捨てることを躊躇し多くの役職を務めたという。天正年間には、安土城障壁画や正親町院御所障壁画(現南禅寺本坊大方丈障壁画)の作製に加わる。永徳が東福寺法堂天井画の制作中に病で倒れると、山楽が引き継いで完成させた。このことから、永徳の後継者として期待されていたことが伺える(天井画は明治時代に焼失し現存しない)。以後、豊臣家の関係の諸作事に関わり、大阪に留まって制作に励んだ。豊臣氏には淀殿をはじめとして浅井氏旧臣が多く、山楽が重く用いられたのも、浅井氏に縁のある山楽の出自が理由だと思われる。慶長末年には大覚寺宸殿障壁画制作に腕をふるっている。

あまりに豊臣家と深く関わったため、大坂城落城後、豊臣方の残党として嫌疑をかけられてしまい、男山八幡宮松花堂昭乗の元に身を隠した。その後、九条家の尽力もあり、山楽は武士ではなく一画工であるとして恩赦を受け助命される。九条家との繋がりは以後代々受け継がれ、幕末まで続くことになる。駿府の家康に拝謁、京都に戻り徳川秀忠の依頼で四天王寺の聖徳太子絵伝壁画などを制作した。晩年は筆力の衰えを隠せず、弟子に代作させることもしばしばであった。長男・光教(孝)が早世したため、門人・狩野山雪を後継者とした。なお、380年の間謎とされてきた山楽の息子、伊織「狩野山益」であるが、知恩院塔頭良正院本堂(重要文化財)襖絵を描いていた事が近年判明した。大阪芸術大学の教授の調査による。福岡市美術館所蔵の源氏物語屏風に狩野伊織と署名、山益の落款。画風の一致。これにより同一人物であることが確定した。

狩野探幽(永徳の孫)らが江戸に移って活動したのに対し、山楽・山雪の系統は京に留まったため、「京狩野」と称される。永徳様式を最も良く継承しており、大画様式に優れた才能を魅せ、雄大な構図を持つ作品が多い。それらは永徳画に比べると装飾性豊かでゆったりとした構成を取る。こうした方向性は、後の絵師たちに強い影響を与えた。

代表作

作品名技法形状・員数寸法(縦x横cm)所有者年代落款・印章文化財指定備考
龍虎図屏風紙本金地著色六曲一双京都・妙心寺京都国立博物館寄託無款記重要文化財
厳子陵虎渓三笑図屏風紙本金地著色二曲一双京都・妙心寺(奈良国立博物館寄託)無款記重要文化財
文王呂尚・商山四皓図屏風紙本金地著色六曲一双京都・妙心寺(東京国立博物館寄託)無款記重要文化財これら屏風は、同じく妙心寺にある海北友松の屏風と一括して、通称「妙心寺屏風」と呼ばれる。一般的な屏風絵と比べて縦に25cm弱ほど大きいのが特徴である。これらは落款がなく、寺伝では友松筆とされていたが、土居次義の研究により山楽筆だと明らかにされた。
大覚寺宸殿障壁画55面京都・大覚寺重要文化財山楽筆とされるのは、宸殿にある金碧画の紅梅図8面(紅梅の間)と牡丹図18面(牡丹の間)、正宸殿にある水墨画の山水図16面(御冠の間)と松鷹図13面(鷹の間)
四季耕作図襖[1]紙本墨画金泥引襖16面ミネアポリス美術館元は大覚寺障壁画の一部。綴プロジェクトで制作された高精細複製品が大覚寺に寄贈されている。
正伝寺方丈障壁画 楼閣山水図京都・正伝寺重要文化財
養源院障壁画京都・養源院重要文化財
聖徳太子絵伝全17面大阪・四天王寺元和9年(1623年)重要文化財
鷙鳥図襖絵紙本墨画六曲一双個人重要文化財
犬追物図屏風紙本金地著色六曲一双文化庁重要文化財
松図(旧天球院方丈仏壇壁貼付)紙本金地着色9面京都国立博物館寛永8年(1631年重要文化財
車争図紙本著色四曲一隻175.7x370.8東京国立博物館重要文化財
黄石公張良[2]・虎渓三笑図屏風[3]紙本金地著色六曲一双148.5×352.7(各)東京国立博物館
帝鑑図押絵貼屏風[4]紙本墨画六曲一双129.7x52.1(各)東京国立博物館
西湖図襖8面サントリー美術館重要美術品黒田侯爵家旧蔵
繋馬図絵馬2面滋賀・(京都国立博物館寄託)寛永2年(1625年)
花鳥図屏風紙本著色六曲一双164.5x373.3(各)フリーア美術館
牧場図屏風六曲一双ギリシャ国立コルフ・アジア美術館元和年間
羯鼓催花図屏風[5]紙本金地著色六曲一双159.1x357.6(各)ボストン美術館伝狩野山楽
二十四孝図屏風[6]紙本金地墨画六曲一隻150.6x360.8ボストン美術館
藤原惺窩17.5x14.1冷泉家時雨亭文庫林羅山賛。下冷泉家にとって非常に重要な遺品を集めた手鑑の中の1図[7]

脚注

参考資料

  • 『週刊アーティスト・ジャパン第45号 狩野山楽』 同朋舎出版、1992年
  • 土居次義編『日本の美術172 山楽と山雪』至文堂、1980年

関連項目

与謝蕪村

与謝 蕪村(よさ ぶそん、享保元年(1716年) - 天明3年12月25日1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人文人画南画)家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」はで、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」「謝寅(しゃいん)」など複数ある。

経歴

摂津国東成郡毛馬村(けまむら)(現:大阪府大阪市都島区毛馬町)に生まれた[1]。京都府与謝野町(旧丹後国)の谷口家には、げんという女性が大坂に奉公に出て主人との間にできた子供が蕪村とする伝承と、げんの墓が残る。同町にある施薬寺には、幼少の蕪村を一時預かり、後年、丹後に戻った蕪村が礼として屏風絵を贈ったと口伝されている[2]

20歳の頃、江戸に下り、早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事して俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。俳諧の祖・松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見る。しかし江戸の俳壇は低俗化していた。

寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(現:茨城県結城市)の(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。その際の手記で寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。

その後、丹後に滞在した。天橋立に近い宮津にある見性寺の住職・触誉芳雲(俳号:竹渓)に招かれたもので、同地の俳人(真照寺住職の鷺十、無縁寺住職の両巴ら)と交流。『はしだてや』という草稿を残した。宮津市と、母の郷里で幼少期を過ごしたと目される与謝野町には蕪村が描いた絵が複数残る(徐福を画題とした施薬寺所蔵『方士求不老父子薬図屏風』、江西寺所蔵『風竹図屏風』)。一方で、与謝野町の里人にせがまれて描いた絵の出来に後悔して、施薬寺に集めて燃やしてしまったとの伝承もある[2]

42歳の頃に京都に居を構え、与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。45歳頃に結婚して一人娘くのを儲けた。51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴き、多くの作品を手掛ける[3]。再び京都に戻った後、島原(嶋原角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。

現在の京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている[4]辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。

作家論

松尾芭蕉小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の大成者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰」を唱え、絵画用語である「離俗論」を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。

絵は独学であったと推測されている[2]

後世からの評価

俳人としての蕪村の評価が確立するのは、明治期の正岡子規『俳人蕪村』、子規・内藤鳴雪たちの『蕪村句集講義』、昭和前期の萩原朔太郎『郷愁の詩人・与謝蕪村』[5]まで待たなければならなかった。

旧暦12月25日は「蕪村忌」。関連の俳句を多く詠んだ。

  • 蕪村忌に呉春が画きし蕪かな 正岡子規
  • 蕪村忌の心游ぶや京丹後 青木月斗

2015年10月14日、天理大学附属天理図書館が『夜半亭蕪村句集』の発見を発表した。1903句のうち未知の俳句212句を収録[6]

与謝野町は「蕪村顕彰全国俳句大会」を2012年から開いている[2]

俳諧の主な編著

  • 蕪村七部集
    (其雪影、明烏、一夜四歌仙、続明烏、桃李、五車反古、花鳥篇、続一夜四歌仙)
  • 明烏
  • 夜半楽
  • 新花摘(俳文集)など。

作品

俳句

  • 春の海 終日のたりのたり哉
  • 柳散り清水涸れ石処々
  • 鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな
  • 花いばら故郷の路に似たるかな
  • 不二ひとつうづみのこして若葉かな
  • 牡丹散りて打かさなりぬ二三片
  • 夏河を越すうれしさよ手に草履
  • ゆく春やおもたき琵琶の抱心
  • 易水にねぶか流るゝ寒かな
  • 月天心貧しき町を通りけり
  • さみだれや大河を前に家二軒
  • 菜の花や月は東に日は西に
  • 笛の音に波もよりくる須磨の秋
  • 涼しさや鐘をはなるゝかねの声
  • 稲妻や波もてゆへる秋津しま
  • ところてん逆しまに銀河三千尺
  • 古庭に茶筌花さく椿かな
  • ちりて後おもかげにたつぼたん哉
  • あま酒の地獄もちかし箱根山
  • 鰒汁の宿赤々と燈しけり
  • 二村に質屋一軒冬こだち
  • 御火焚や霜うつくしき京の町
  • 寒月や門なき寺の天高し
  • さくら散苗代水や星月夜
  • 住吉に天満神のむめ咲ぬ
  • 秋の夜や古き書読む南良法師
  • 朝霧や村千軒の市の音
  • 休み日や鶏なく村の夏木立
  • 帰る雁田ごとの月の曇る夜に
  • うつつなきつまみ心の胡蝶かな
  • 雪月花つゐに三世の契かな
  • 朝顔や一輪深き淵の色

絵画

  • 山水図(出光美術館)六曲一双 重要文化財 1763年
  • 十便十宜図川端康成記念会)画帖 国宝 1771年 池大雅との競作。蕪村は十宜図を描く。
  • 紅白梅図(角屋もてなしの文化美術館)襖4面、四曲屏風一隻 重要文化財
  • 蘇鉄図(香川・妙法寺)四曲屏風一双(もと襖) 重要文化財
  • 山野行楽図(東京国立博物館)六曲一双 重要文化財
  • 竹溪訪隠図(個人蔵)掛幅 重要文化財
  • 奥の細道図巻(京都国立博物館)巻子本2巻 重要文化財 1778年
  • 野ざらし紀行図(個人蔵)六曲一隻 重要文化財
  • 奥の細道図屏風(山形美術館)六曲一隻 重要文化財 1779年
  • 奥の細道画巻(逸翁美術館)巻子本2巻 重要文化財 1779年
  • 新緑杜鵑図(文化庁)掛幅 重要文化財
  • 竹林茅屋・柳蔭騎路図(個人蔵)六曲一双 重要文化財
  • 春光晴雨図(個人蔵)掛幅 重要文化財
  • 鳶烏図(北村美術館)掛幅(双幅) 重要文化財
  • 峨嵋露頂図(法人蔵)巻子 重要文化財
  • 夜色楼台図(個人蔵)掛幅 国宝
  • 富嶽列松図(愛知県美術館)掛幅 重要文化財
  • 柳堤渡水・丘辺行楽図(ボストン美術館)六曲一双 紙本墨画淡彩
  • 蜀桟道図(シンガポールの会社) 1778年

上記の他に、蕪村の俳諧の門弟でパトロンでもあった寺村百池の家に伝わった絵画、短冊書状等の遺品一括が「与謝蕪村関係資料」として重要文化財に指定されている(1987年指定、文化庁保管)。

画集

近年刊の図版本
  • 『蕪村全集 第6巻 絵画・遺墨』(佐々木丞平ほか編 講談社、1998年)
  • 『水墨画の巨匠 第12巻 蕪村』(早川聞多・芳賀徹編、講談社、1994年)
  • 『与謝蕪村 新潮日本美術文庫9』 河野元昭解説(新潮社、1996年)。入門書。
  • 『蕪村 放浪する文人』 佐々木丞平・佐々木正子ほか解説(新潮社とんぼの本〉、2009年)。入門書。
  • 『与謝蕪村 画俳ふたつの道の達人』(藤田真一[7]監修、平凡社〈別冊太陽 日本のこころ〉、2012年)
展覧会図録

全集

尾形仂・丸山一彦ほか編の『蕪村全集』全9巻が、講談社で1992年5月より刊行開始、(後半2巻が遅れ)17年かけ2009年9月に完結[8]

  • 『第1巻 発句』 初回配本
  • 『第2巻 句集・句稿・句会稿』
  • 『第3巻 連句
  • 『第4巻 俳詩・俳文』
  • 『第5巻 書簡』
  • 『第6巻 絵画・遺墨』
  • 『第7巻 編著・追善
  • 『第8巻 関係俳書』
  • 『第9巻 年譜・資料』 最終回配本

文庫作品集

  • 『蕪村俳句集』 尾形仂校注、岩波文庫、1989年[9]
  • 『蕪村書簡集』 大谷篤蔵・藤田真一校注、岩波文庫、1992年
  • 『蕪村句集 現代語訳付』 玉城司訳・校注、角川ソフィア文庫、2011年
  • 『蕪村文集』 藤田真一校注、岩波文庫、2016年

関連項目

脚注・出典

  1. ^ 門人宛の書状による。同地に大阪市が生誕地の碑を建てている。与謝蕪村と都島大阪市都島区(2019年11月2日閲覧)より。
  2. ^ a b c d 「与謝野蕪村/遅咲きの文人 丹後の寄り道」『日本経済新聞』朝刊2019年10月6日9-11面(NIKKEI The STYLE)。
  3. ^ 『別冊太陽 与謝蕪村 画俳ふたつの道の達人』平凡社、p.170、2012年。
  4. ^ 山形大学名誉教授、杉浦守邦(公衆衛生学)の鑑定による。
  5. ^ 新版は 『俳人蕪村』は岩波文庫・講談社文芸文庫、『与謝蕪村 郷愁の詩人』は岩波文庫、『蕪村句集講義』は平凡社東洋文庫(全3巻、佐藤勝明校注)で刊
  6. ^ 読売新聞』2015年10月15日 36面掲載。
  7. ^ 『蕪村』(岩波新書、2000年)、評伝『蕪村余響 そののちいまだ年くれず』(岩波書店、2011年)の著者。
  8. ^ なお「蕪村全集」は大正期に潁原退蔵(尾形の岳父にあたる)が編み、有朋堂書店(全1巻、初版1925年)で出版。
  9. ^ ワイド版岩波文庫も刊。旧版は潁原退蔵編・校注。
  10. ^ 朱衛紅、「佐藤春夫「春風馬堤図譜」の模倣とオリジナリティ」『国際日本文学研究集会会議録』 2004年 27号 p.169-184, 国文学研究資料館

外部リンク



 

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