ポータルフィールドニュース

ポータルフィールドニュース

in ,

🎥|2020年注目!イケメンおじさん俳優は?出演予定のドラマや映画も紹介


写真 

2020年注目!イケメンおじさん俳優は?出演予定のドラマや映画も紹介

 
内容をざっくり書くと
現在はNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、主演の明智光秀を演じています。
 

おじさんと呼ばれる年代なのに、若い時からのイケメンの魅力はそのまま。経験を積み重ねることによって、さ… →このまま続きを読む

 amy happy days

国内外のハッピーな話題だけを厳選。​
あなたの暮らしに笑顔を届ける​ニュースメディアです​。

ここへきたら、世界で起きているハッピーなできごとに出会える。​
​​見た人が共感し、誰かにシェアすることで​​ふたたび笑顔や喜びが生まれ、小さな幸せが循環していく。​
​いつでも、どこでも​みんなが笑顔になれるニュースをお届けします。​


Wikipedia関連ワード

説明がないものはWikipediaに該当項目がありません。

大河ドラマ

大河ドラマ』(たいがドラマ)は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKテレビドラマシリーズ。略称は大河

1984年から1986年にかけて放送された新大型時代劇2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。

概要

NHKにおけるドラマの枠の総称である。放送形態は1回45分・日曜夜・1年間(50回前後)放送。第1作放送開始以来、枠としての中断は一度もない。『連続テレビ小説』と並んで、NHK、ひいては日本のドラマの代表格としてメディアでも取り上げられ、視聴率の変遷がネットニュースなどで頻繁に取り上げられる。

作品内容は、日本史上の人物の生涯を描く一代記がほとんどである。ただし、架空の人物が主人公や主要登場人物を占める場合もある。主人公男性であることが多いが、2000年代以降女性主人公の作品も多く作られている。一方で天皇は登場こそするものの後白河天皇後醍醐天皇明治天皇など日本史において欠かすことのできない人物であっても主役となったケースはこれまで一度もない。

歴代作品一覧

放送期間:放送年のみ記載の作品は、その年の1月から12月の1年間。ただし『花の生涯』『炎立つ』『花の乱』は9か月間。『琉球の風』は6か月間。『天地人』『龍馬伝』『江〜姫たちの戦国〜』は11か月間[注釈 1]

主人公:太字=女性。*=架空の人物。()=別名或いは旧姓。

タイトル/月原作脚本時代主人公主演
1花の生涯1963/4-12舟橋聖一北条誠幕末井伊直弼尾上松緑
2赤穂浪士1964大佛次郎村上元三江戸大石内蔵助長谷川一夫
3太閤記1965吉川英治茂木草介戦国 - 安土桃山豊臣秀吉緒形拳
4源義経[1]1966村上元三村上元三平安 - 源平内乱源義経尾上菊之助[注釈 2]
5三姉妹1967大佛次郎鈴木尚之幕末永井家 三姉妹
(むら・るい・雪)*
岡田茉莉子
藤村志保
栗原小巻
6竜馬がゆく1968司馬遼太郎水木洋子幕末坂本龍馬北大路欣也
7天と地と1969海音寺潮五郎中井多喜夫
須藤出穂
杉山義法
戦国 - 安土桃山上杉謙信石坂浩二
8樅ノ木は残った1970山本周五郎茂木草介江戸原田甲斐平幹二朗
9春の坂道1971山岡荘八杉山義法安土桃山 - 江戸柳生宗矩中村錦之助
10新・平家物語1972吉川英治平岩弓枝平安 - 源平内乱平清盛仲代達矢
11国盗り物語1973司馬遼太郎大野靖子戦国 - 安土桃山斎藤道三
織田信長
平幹二朗
高橋英樹
12勝海舟1974子母澤寛倉本聰
中沢昭二
幕末勝海舟渡哲也
松方弘樹
13元禄太平記1975南條範夫小野田勇
小幡欣治
土橋成男
江戸柳沢吉保石坂浩二
14風と雲と虹と1976海音寺潮五郎福田善之平安平将門加藤剛
15花神1977司馬遼太郎大野靖子幕末大村益次郎中村梅之助
16黄金の日日1978城山三郎市川森一
長坂秀佳
戦国 - 安土桃山呂宋助左衛門市川染五郎[注釈 3]
17草燃える1979永井路子中島丈博源平内乱 - 鎌倉源頼朝
北条政子
石坂浩二
岩下志麻
18獅子の時代1980なし山田太一9幕末 - 明治平沼銑次*
苅谷嘉顕*
菅原文太
加藤剛
19おんな太閤記1981なし橋田壽賀子(作)戦国 - 江戸ねね佐久間良子
20峠の群像1982堺屋太一冨川元文江戸大石内蔵助緒形拳
21徳川家康1983山岡荘八小山内美江子戦国 - 江戸徳川家康滝田栄
22山河燃ゆ1984山崎豊子市川森一
香取俊介
7昭和天羽賢治*
天羽忠*
松本幸四郎[注釈 4]
西田敏行
23春の波涛1985杉本苑子中島丈博8明治 - 大正川上貞奴松坂慶子
24いのち1986なし橋田壽賀子(作)6昭和岩田(高原)未希*三田佳子
25独眼竜政宗1987山岡荘八ジェームス三木安土桃山 - 江戸伊達政宗渡辺謙
26武田信玄1988新田次郎田向正健戦国武田信玄中井貴一
27春日局1989なし橋田壽賀子(作)安土桃山 - 江戸春日局(おふく)大原麗子
28翔ぶが如く1990司馬遼太郎小山内美江子9幕末 - 明治西郷隆盛
大久保利通
西田敏行
鹿賀丈史
29太平記1991吉川英治池端俊策
仲倉重郎
鎌倉 - 南北朝足利尊氏真田広之
30信長
KING OF ZIPANGU
1992なし田向正健(作)戦国 - 安土桃山織田信長緒形直人
31琉球の風
DRAGON SPIRIT
1993/1-6陳舜臣山田信夫安土桃山 - 江戸楊啓泰*東山紀之
32炎立つ1993/7-1994/3高橋克彦中島丈博平安 - 源平内乱藤原経清
藤原清衡
藤原泰衡
渡辺謙
村上弘明
33花の乱1994/4-12なし市川森一(作)室町 - 戦国日野富子三田佳子
34八代将軍吉宗1995なしジェームス三木(作)江戸徳川吉宗西田敏行
35秀吉1996堺屋太一竹山洋戦国 - 安土桃山豊臣秀吉竹中直人
36毛利元就1997永井路子内館牧子戦国毛利元就中村橋之助[注釈 5]
37徳川慶喜1998司馬遼太郎田向正健幕末徳川慶喜本木雅弘
38元禄繚乱1999舟橋聖一中島丈博江戸大石内蔵助中村勘九郎[注釈 6]
39葵 徳川三代2000なしジェームス三木(作)安土桃山 - 江戸徳川家康
徳川秀忠
徳川家光
津川雅彦
西田敏行
尾上辰之助[注釈 7]
40北条時宗2001高橋克彦井上由美子鎌倉北条時宗和泉元彌
41利家とまつ
〜加賀百万石物語〜
2002竹山洋竹山洋(作)戦国 - 江戸前田利家
まつ
唐沢寿明
松嶋菜々子
42武蔵
MUSASHI
2003吉川英治鎌田敏夫江戸宮本武蔵市川新之助[注釈 8]
43新選組!2004なし三谷幸喜(作)幕末近藤勇香取慎吾
44義経2005宮尾登美子金子成人平安 - 源平内乱源義経滝沢秀明
45功名が辻2006司馬遼太郎大石静戦国 - 江戸千代
山内一豊
仲間由紀恵
上川隆也
46風林火山2007井上靖大森寿美男戦国山本勘助内野聖陽
47篤姫2008宮尾登美子田渕久美子幕末天璋院(篤姫)宮﨑あおい
48天地人2009/1-11火坂雅志小松江里子戦国 - 江戸直江兼続妻夫木聡
49龍馬伝2010/1-11なし福田靖(作)幕末坂本龍馬福山雅治
50
〜姫たちの戦国〜
2011/1-11田渕久美子田渕久美子(作)戦国 - 江戸上野樹里
51平清盛2012なし藤本有紀(作)平安 - 源平内乱平清盛松山ケンイチ
52八重の桜2013なし山本むつみ
吉澤智子
三浦有為子
9幕末 - 明治新島八重綾瀬はるか
53軍師官兵衛2014なし前川洋一戦国 - 江戸黒田官兵衛岡田准一
54花燃ゆ2015なし大島里美
宮村優子
金子ありさ
小松江里子
幕末 - 明治杉文井上真央
55真田丸2016なし三谷幸喜安土桃山 - 江戸真田信繁(幸村)堺雅人
56おんな城主 直虎2017[2]なし森下佳子戦国 - 安土桃山井伊直虎柴咲コウ
57西郷どん2018[3]林真理子中園ミホ幕末 - 明治西郷隆盛鈴木亮平
58いだてん
〜東京オリムピック噺〜
2019[4][5]なし宮藤官九郎明治 - 昭和[4]金栗四三
田畑政治
中村勘九郎[注釈 9]
阿部サダヲ
59麒麟がくる2020[7]なし池端俊策
前川洋一
岩本真耶
戦国 - 安土桃山明智光秀長谷川博己
60青天を衝け2021予定[8]なし大森美香幕末 - 昭和渋沢栄一吉沢亮
61鎌倉殿の13人2022予定[9]なし三谷幸喜源平内乱 - 鎌倉北条義時小栗旬

番組内容

題材

井伊直弼原田甲斐平清盛平将門柳沢吉保北条政子足利尊氏日野富子明智光秀等々、一般的には歴史上ネガティブなイメージを持たれた人物を主人公に据え、新解釈によってその人物の人間的側面を掘り下げて魅力的に描く手法(そういった原作を採用する事)が度々採られてきた。一方、主人公をヒーロー/ヒロインまたは現代的感覚を持った人物として描こうとするため、その人物の暗い側面に関しての描写が曖昧であったり、歴史学上の定説と離れた演出が加えられることもある。このことに関し、NHK側は「大河ドラマはドキュメンタリーではなくあくまでドラマであり、演出も必要である」と述べている。なお、『いだてん〜東京オリムピック噺〜』のように、「このドラマは史実を基にしたフィクションです」という注釈テロップが付けられることもある[10]

大坂城」や「屋敷門の炎上」、「関ヶ原の戦い」など、過去の作品で使用した場面が何度も使われるケースがある。題材となる人物やテーマに所縁のある地方とタイアップする事も多い。

スタイルとしては一代記形式が多く、序盤には子役を立てて主人公の出生から始める形が多いが、初期には主人公の壮年期からスタートするものもあった。また、忠臣蔵もの(特に最初の『赤穂浪士』)など、比較的短時日のドラマを1年間かけて描くものも少数ながら存在する。

山河燃ゆ』と『いのち』の2作品は例外で、完全なフィクションの現代劇に分類されていた。

名称の由来

第一作とされている『花の生涯』放送開始時には、「大型時代劇」という名称で呼ばれていたが、同枠のドラマが本数を重ね、さらに次第に歴史ドラマとして注目されるようになると「大型歴史ドラマ」の名称が用いられるようになった[11]。シリーズ15周年を記念して発売された2枚組LPレコード『NHK大型歴史ドラマの15年 花の生涯から花神まで』(ポリドール)のタイトルにもそれが現れている。

一方、第二作の『赤穂浪士』放送直前の1964年(昭和39年)1月5日の読売新聞が『花の生涯』と『赤穂浪士』を「大河小説」になぞらえて「大河ドラマ」と表現し、その後一般でも「大河ドラマ」の名称で呼称されるようになった。1977年(昭和52年)3月、NHKでシリーズ15周年記念番組『大河ドラマの15年』を放送。これがNHKが公式に「大河ドラマ」の名称を用いた最初である。

その後、1978年の『黄金の日日』の頃には「大河ドラマ」の名称が定着し、レコードや書籍にも「大河ドラマ」の名が使われるようになり、やがて本放送時にも「大河ドラマ」とシリーズ名が明示されるようになった。なお 「大河ドラマ」という表記自体が大河ドラマでテロップもしくはそれに準ずる形で初めて登場したのは、第40作『北条時宗』の副音声解説である。テロップではその翌年の第41作『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』の冒頭、オープニングタイトルでは、第43作『新選組!』からである。

放送サイクル

原則1年1作で、1月初回、12月最終回である。初期は年内いっぱいの52回放送していたが、のちに正月3が日と12月下旬は特別番組に枠を譲り、50回放送が典型となった(年末年始2週間は放送休止する計算となる)。2018年以降は、NHKの働き方改革の影響を受け、47回放送となり、特別編の挿入や選挙などの報道特別体制時に番組休止を挟むようになった。

1990年代前半には、大河のスリム化が図られ、放送サイクルが変則的になった。連続テレビ小説と同じ年度別2作品の方式とするべく、第31作『琉球の風』を6か月(1993年1月-6月)、第32作『炎立つ』を9か月(1993年7月-1994年3月)にそれぞれ短縮し、以降は半年ずつの放送サイクルとするはずであった。しかしこの計画が不評だったためか、第33作『花の乱』も9か月(1994年4月-12月)とし、第34作『八代将軍吉宗』(1995年)からは再び1年1作のサイクルに戻った。このほかに、第30作『信長 KING OF ZIPANGU』以降はNHKの子会社であるNHKエンタープライズに制作が委託されていたが、『八代将軍吉宗』でNHK東京本部の単独制作に復帰した。

出演者

出演者は、通常のドラマでは主役級の俳優・女優が共演することが多く、これに名脇役と呼ばれる俳優や舞台俳優・歌手アイドルお笑い芸人など多彩なキャストも加わるため、普段は見られない顔合わせがよく見られる(このことは連続テレビ小説でも同様に言える)。

番組初期は五社協定により映画会社所属の俳優はテレビ出演が制限されていたため、新劇の俳優や歌舞伎俳優が多く起用された。

第3作『太閤記』では緒形拳高橋幸治石坂浩二ら無名の新人俳優が抜擢され、一躍人気スターとなった。

五社協定消滅後も、第21作『徳川家康』で織田信長役を演じた役所広司や、第25作『独眼竜政宗』で主演した渡辺謙は番組がきっかけで一躍有名になり、2000年代に入ってからは『北条時宗』に出演した北村一輝、『新選組!』に出演した山本耕史堺雅人、『真田丸』に出演した高木渉などが、大河ドラマに出演したことをきっかけとして活躍の場を広げることになった。

番組の構成

各作品、クレジットはオープニング時に表示され、その時にオープニングのテーマ曲が流れる(約3分)。テーマ曲は原則オーケストラ(NHK交響楽団)により演奏されるオリジナル曲。また、クレジットの最初に出るタイトルは原則手書き[注釈 10]で、製作者は「題字」として出演者よりも先にテロップされる。

独眼竜政宗』以降の作品では、オープニング前に図解や写真などを用いた史実の解説などを行うアバンタイトルで始まるパターンが多い。

本編では全般的に序盤はロケシーンが多く、中盤から後半にクライマックスがあり、終盤は登場人物も代替わりして若手俳優が増え、またスタジオ撮影のシーンが多くなるのが特徴である。近年、合戦シーンなどではコンピュータグラフィックス(CG)を用いることも多い。

本編終了後に次回予告(30秒程度)が流れ、その回の放送内容の舞台となった地や重点的に取り上げられた人物のゆかりの地を紹介する「紀行」コーナーが入る。最終回では本編終了後に「紀行」コーナーが先に入って作品自体はそこで終了し、その後に次作の予告が入る(30秒-2分程度)。作品によっては、最終回のみオープニングをカットして、エンディング(「紀行」の直前、本編ラスト)にテーマ曲とテロップが流れる。

放送日データ

  • 総合テレビ・デジタル総合テレビ - 本放送 日・20:00-20:45
    • 第40作の北条時宗からは初回・最終回の放送時間を延長するときにも開始時刻は20:00に固定し、終了時刻を延長している。
    • 衆議院議員総選挙参議院議員通常選挙統一地方選挙などの重要な選挙の投開票日は投票締め切りの20時から開票速報を放送するため、放送時刻が変更される。
      • 1991年『太平記』は、第12回統一地方選挙投開票日は19時台に繰り上げて放送したが、その後は重複日は大河ドラマは放送休止していた。
      • 2000年『葵 徳川三代』以降は、19時台に繰り上げて放送した。2014年の第47回衆議院議員総選挙投開票日は『軍師官兵衛』の最終回拡大版の放送日であったため19時台に収めることが出来ず、翌週に延期された。
      • 2018年『西郷どん』以降は、回数減に合わせて、放送を休止するようになった。
    • その他、オリンピックやサッカーワールドカップなどのスポーツ中継、重大ニュースによる報道特別番組の編成などにより、放送休止、もしくは変更されることがある。
    • 2020年3月1日以降は、NHKプラスでインターネット同時配信・見逃し配信が行われている。
  • 再放送 土・13:05-13:50(本放送の6日後)
    • 高校野球等のスポーツ番組、国会中継実施[注釈 11]等の特別番組放送で放送時間が変更されることがある。
    • 最終回は、年末の番組編成の都合上、放送時間が変更される例があるが、再放送しなかった例もある。
  • BSプレミアム - 日・18:00-18:45(先行放送)[注釈 12]
  • NHK BS4K - 日・9:00-9:45(先行放送)※2019年の第58作より[12]
    • 再放送 日・8:00-8:45
  • NHKワールド・プレミアム - 日・20:00-20:45(オリンピック開催期間中はニュース番組の時差放送による特別編成の関係上、19:15-20:00に放送時間を繰り上げる。よって、オリンピック開催期間中は総合テレビより早く放送されることとなる。選挙開票速報がある場合も同様。2010年6月20日は20:00からNHKニュース7の時差放送を行う関係で20:15-21:00に変更[注釈 13]
    • 再放送 月・3:10-3:55(メンテナンスによる放送・配信休止の場合は5:10-5:55に変更。2010年3月22日は放送・配信休止に加え、5時台に大相撲中継の1時間ダイジェスト版が組まれる関係上、6:15-7:00に変更)、土・13:05-13:50
  • テレビジャパンアメリカカナダプエルトリコ。衛星放送またはケーブルテレビ)
    • 本放送 東海岸:日・20:05-20:53 西海岸:日・17:05-17:53 ハワイ:日・15:05-15:53(米本土の夏時間期間は14:05-) 番組前後にCM有
    • 再放送 東海岸:月・1:15-2:00 西海岸:日・22:15-23:00 ハワイ:日・20:15-21:00(米本土の夏時間期間は19:15-)
    • 再々放送(英語字幕付。約3ヶ月遅れ)
      • 標準時期間 東海岸:土・18:18-20:03 西海岸:土・15:18-16:03 ハワイ:土・13:18-14:03
      • 夏時間期間 東海岸:土・17:15-18:00 西海岸:土・14:15-15:00 ハワイ:土・11:15-12:00
  • KIKU-TV(ハワイ。地上波で英語字幕付。なおCMが有る。長年約3か月遅れ放送だったが、『篤姫』からは約50日(およそ7週間と少し)、『天地人』からは37日遅れ(2009年2月10日初回放送)に短縮)
    • 本放送 - 火・20:00-21:00
    • 再放送 - 日(本放送5日後)・19:00-20:00

なお、2004年と2005年の大河ドラマ『新選組!』および『義経』はデジタル総合テレビにて13:00-13:45(2005年4月からは13:05-13:50)に限定先行放送を始めたが、2006年(『功名が辻』)から再びその放送はなくなった。

放送時間の推移

本放送
期間放送時間(日本時間備考
1963.041964.03日曜 20:45 - 21:30(45分)
1964.041964.12日曜 21:30 - 22:15(45分)歌のグランド・ショー』放送開始のため繰り下げ
1965.011969.04日曜 20:15 - 21:00(45分)
1969.04現在日曜 20:00 - 20:45(45分)歌の祭典』放送短縮のため繰り上げ
再放送
期間放送時間(日本時間備考
1964.011964.03土曜 14:05 - 14:50(45分)
1964.041965.03土曜 13:15 - 14:00(45分)
1965.041989.03土曜 13:25 - 14:10(45分)
1989.04現在土曜 13:05 - 13:50(45分)

ダイジェスト版

  • 2009年度よりNHK教育テレビジョンの「ワンセグ2」(2014年度終了)で月曜日に5分間の『(作品名)ダイジェスト』を放送したが、これを2011年4月(『江〜姫たちの戦国』の途中)から、月曜0:05-0:10(日曜深夜)に、NHK総合テレビジョンでも放送される(解説放送はなし)。(のちに2014年4月から水曜22:45-22:50に移動)。2015年からは番組名を『5分でわかる(作品名)』もしくは『5分で(作品名)』に変更。2017年より月曜0:05-0:10(日曜深夜。2020年3月22日までは近畿広域圏では放送なし)に再び移動。2020年3月30日からは月曜0:10-0:15(日曜深夜)ほかに放送。
    NHKワールド・プレミアムでは金曜20:45-20:50に放送されている。

総集編

年末には総集編(ダイジェスト版。全部で3、4時間程度)も製作される(作品によっては翌年正月に放送する場合もある)。また、近年は本放送に区切りがつくごとにその時点までの総集編が番宣も兼ねて放送されることがある。

姉妹番組

新大型時代劇

1984年から1986年にかけての「近代大河3部作」(『山河燃ゆ』、『春の波涛』、『いのち』)が放送されていた時期に、従来の時代劇路線の大河ドラマのファンのためにそれまで軽い内容で娯楽系の『水曜時代劇』が放送されていた水曜日の20時台に新たに設けられた[13]。放送曜日と予算は大河ドラマと異なるが出演者に大河ドラマ出演者が多く、1年間の放送であったことから大河ドラマに準じる連続大型時代劇として扱われることも多い。

1986年の『武蔵坊弁慶』は翌1987年1月から大河ドラマが『独眼竜政宗』で時代劇路線に戻ることもあり、約9ヶ月間の放送で終了した。

再び現代が舞台となった「いだてん〜東京オリムピック噺〜」が放送された2019年には当枠に代わる番組は編成されず、NHK地上波の連続時代劇枠は一時的ではあるが土曜日の「土曜時代ドラマ」1枠のみとなった。

作品

宮本武蔵(1984年4月4日 - 1985年3月13日、全45話)
原作 / 吉川英治、脚本 / 杉山義法、音楽 / 三枝成章
出演 / 役所広司宮本武蔵)、古手川祐子(お通)、中康次佐々木小次郎)、竹脇無我柳生宗矩)、丹波哲郎平田無二斎)、石坂浩二本阿弥光悦
吉川英治原作の小説『宮本武蔵』の完全ドラマ化を目指した作品。宮本武蔵が剣の道に生き、剣豪として巌流島で佐々木小次郎と対戦するまでを描いた。
真田太平記(1985年4月3日 - 1986年3月19日、全45話)
原作 / 池波正太郎、脚本 / 金子成人、音楽 / 林光
出演 / 渡瀬恒彦真田信之)、草刈正雄真田幸村)、遥くらら(お江)、岡田茉莉子淀君)、中村梅之助徳川家康)、丹波哲郎真田昌幸
武蔵坊弁慶(1986年4月9日 - 1986年12月3日、全34話)
原作 / 富田常雄、脚本 / 杉山義法ほか、音楽 / 芥川也寸志(オープニングテーマ)、毛利蔵人(本編)
出演 / 中村吉右衛門武蔵坊弁慶)、川野太郎源義経)、荻野目慶子(玉虫)、芦田伸介平清盛)、菅原文太源頼朝)、萬屋錦之介藤原秀衡

続編の放送

2006年1月には大河ドラマとしては初めて続編が製作、放送された。これは2004年制作の第43作『新選組!』のその後を描いた作品で、大河ドラマでは局長・近藤勇が主役だったが、続編『新選組!! 土方歳三 最期の一日』では副長・土方歳三にバトンタッチし、土方の最期の一日を描いた。

スペシャルドラマ「坂の上の雲」

2009年から2011年にかけての毎年12月に、当初「21世紀スペシャル大河」として企画され1話90分・全13話で放送された。そのため、第48作『天地人』から第50作『江〜姫たちの戦国〜』までの3作品は11月で放送が終了している。

作品

坂の上の雲2009年11月29日 - 12月27日2010年12月5日 - 12月26日2011年12月4日 - 12月25日、全13話)
原作 / 司馬遼太郎、脚本 / 野沢尚ほか、音楽 / 久石譲
出演 / 本木雅弘秋山真之)、阿部寛秋山好古)、香川照之正岡子規)、菅野美穂正岡律)、石原さとみ(秋山季子)、加藤剛伊藤博文)、高橋英樹児玉源太郎)、渡哲也東郷平八郎

備考

上述のように、大河ドラマはNHKの看板番組の扱いを受けており、NHKも1年間、その年の放送内容に関する番組を随所で放送する。例えば、『その時歴史が動いた』、『歴史秘話ヒストリア』などNHKの歴史教養番組、娯楽番組では、主人公およびその時代が度々取り上げられる。また、放送開始直前のNHK紅白歌合戦には、主演俳優はほぼ必ず出演する(ほとんどはゲスト審査員であるが、司会者に他に適任者がいないときは司会に、歌手としての活動も盛んに行っている場合には出場歌手に名を連ねる場合もあり)。

放送年の2月3日には、出演者が大相撲力士と共に成田山新勝寺節分の豆まきの来賓ゲストとして出席する[14]のが恒例である[注釈 14]。また、主要出演者(主演者に限らず)が中央競馬NHKマイルカップのゲスト出演や表彰プレゼンテーターをする場合がある。

日本国内のNHKでの放送では、デジタルで放送されるデジタルBSプレミアムとデジタル総合テレビでは副音声で視覚障害者向けの解説放送がある[注釈 15]。また、デジタル総合テレビとデジタルBSプレミアムは連動データ放送がある。この解説放送はステレオ2音声放送で、アナログ総合テレビとアナログBSプレミアムならびに海外向けテレビ番組配信のNHKワールド・プレミアムでは行われていない(通常のステレオ放送のみ)。これらはBSデジタルの放送開始翌年の『北条時宗』より行われた。

海外向けでは、日本人が多く住む地域でNHKワールド以外の放送局で放送されている(字幕付き)。2000年代以降では、CS専門チャンネル(ファミリー劇場時代劇専門チャンネル衛星劇場等)で放送されている。

2001年から2005年まではアナログ放送とデジタル放送では番組内容は同じでもそれぞれ編集映像比率内容が異なっていた。アナログ放送用(NHKワールド・プレミアムも含む)では本編は4:3で放送されるが番組最後の紀行の部分のみレターボックスで放送されていた。2006年からアナログ・デジタル同時送出のため、アナログ放送(NHKワールド・プレミアムも含む)ではレターボックス14:9(上下黒帯幅がやや小さく、4:3画面でも違和感がないもの)で放送されるようになった(他の番組では16:9レターボックス放送は行われるようになった中、本番組では2010年7月11日以降も『龍馬伝』最終回・総集編まで14:9サイズでの放送が続いていた)。これにあわせて同年の『功名が辻』と翌年の『風林火山』の中ではスタッフ・キャストのテロップを横書き表示に変更した。2008年以降の作品については再び縦書きクレジットの作品が増えているが、2009年の『天地人』、2010年の『龍馬伝』、2014年の『軍師官兵衛』では横書きでクレジットされた(もっとも、画面サイズとは関わり無く、『山河燃ゆ』『春の波涛・総集編』等、過去の作品でも横書きクレジットタイトル表示だった作品は少数ながら存在する)。2011年に入ってからレターボックス16:9に移行した。

スタジオでの全収録が終了するクランクアップの時には出演者・スタッフの労を労ってスタジオにくす玉が吊るされ、主演者がそれを割ったり出演者のスピーチも行われ、翌年の大河の主役の俳優からその年の主役の俳優に花束を渡し引継ぎを行う等、その模様はスポーツ新聞やNHK広報番組、NHKオンラインこれ見て!ムービーで取り上げられることが多い。

製作費について

2005年以降、NHKの不祥事がクローズアップされたため透明性を明かすために『功名が辻』以降、毎年の決算概要に1話分の平均製作費[16][17]について公表している。以降の作品は、『義経』が6,440万円、『功名が辻』が6,110万円、『風林火山』が6,080万円、『篤姫』が5,910万円など。ほとんどの支出がセットなどの美術費であるとのことである[18]

観光への影響

1年間にわたって大河ドラマの舞台となった地域は、たとえ複数(主人公の生育地、成年後の生活地が異なる場合が多い)であっても、その観光への影響力は大きい。関連するビジネス団体や、地方公共団体においてもその誘致に、組織的な努力がなされることが一般化している。テーマ、地域、時代、主人公プロフィールなどの偏りに配慮するNHKの判断を見越して、多くの地域で多大な誘致活動が行われている。

自治体や地元経済団体等により臨時の展示施設を開設することも多く、NHK側もドラマで使用された衣装・小道具やドラマの筋書・歴史的背景などを紹介するパネル展示、出演者を招いたイベント実施などの協力を行うほか、自ら関連会社により展覧会を東京都江戸東京博物館や関連府県で開催している。

”大河ドラマのまち”と銘打って自治体や地元経済団体等が地域活性化を図るケースは多く、例えば2002年の『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』が高視聴率を博したことで石川県の観光振興に大きく貢献しているとされる。一方で、集客力はドラマ本体の評価に左右される面もあるとされ、長野県上田市に開館した『真田丸』(2016年)の「大河ドラマ館」が目標を大きく上回る入館者を集めるなど盛況を博し観光振興に大きく貢献した[19][20][21][22]一方で、『花燃ゆ』(2015年)ではドラマ人気が低調であったため、観光への影響が予測を下回り「不完全燃焼」であると報道された[23][24]

このほか、毎年秋に各地で開催される菊人形展では大河ドラマをテーマにする事例が多く、著名なものとしては「ひらかた大菊人形」(ひらかたパークで開催)があった。このイベントは技術者の高齢化や後継者の不足などを理由に2005年(『義経』)をもって終了したが、市民からの復活の要望および主催企業である京阪電気鉄道の創業100年を記念して2010年のみ復活開催され、この時も大河ドラマ(『龍馬伝』)をメインテーマに選定している。

無形文化遺産であり、東北地方最大級の神事とされ毎年8月に実施されている八戸三社大祭青森県八戸市)では、2005年から大河ドラマの出演者が中日の合同運行に参加している。

作品の現存状況

1970年代までのNHKでは、テレビドラマの再放送自体ほとんど行われず、映像ソフト化も思慮の外だったため、マスターテープは本放送終了後に内容を消去して他番組の収録に使い回していた。これは著作権絡みの問題や、マスターテープとして使用されていた放送局用ビデオテープ2インチVTR、テープ幅5センチ)が、輸入品に限られた故に非常に高価だったことも関係している(当時の価格で1本約100万円。高級車1台の価格に相当していた)[25]。現代の感覚では多額の制作費をかけた映像作品を消去することは重大な資産の損失であると考えられるが、当時の感覚は逆であり、非常に高価で保管にも費用のかかるビデオテープを再利用しない方が損失であると考えられていた。

当時はNHKに限らず民放でも同様の問題からテレビ番組の保存があまり行われていなかったが、民放で放送されたフィルム撮影のアニメ特撮や一部のドラマは割合現存している。これはテレビ局自身が制作した物ではなく、外部の制作会社に発注された作品であり、一定の期間が過ぎると制作を発注したテレビ局との放送権が切れ、放送権料さえ支払ってもらえばどこのテレビ局でも再放送ができるようになり、その権料が制作会社の収入になることを見越していたためである。

こうした事情から大河ドラマに関しては、『元禄太平記』(1975年)以前の作品および『花神』(1977年)、『草燃える』(1979年)のマスターテープの大半が失われており、映像資料用として保存されていた一部の放送回のみ(作品によっては総集編も)現存している。同様の理由で既に存在していないと思われていた『風と雲と虹と』(1976年)については全映像の現存が確認され、後に完全版DVDが発売された。これが全話映像ソフト化された作品のうち最も古いものとなっている。

当初は高価だった放送局用ビデオテープも、家庭用ビデオデッキの登場によって遙かにコストが下がったため、次第に番組を保存するように方針が変わり、『黄金の日日』(1978年)は全話現存している。そして『獅子の時代』(1980年)以降の歴代作品は、通常放送回・総集編ともに全ての映像をNHKが保存している。

NHKではマスターテープが失われた過去の放送番組の収集を進めており[26]、その結果、制作関係者や一般視聴者がビデオ(当時は大変高価だった)で録画保存していたものが発見されて寄贈されることもある。例えば『樅ノ木は残った』(1970年)はNHKに総集編の映像しか残されていなかったが、近年になって通常放送回の大半の回を録画したビデオテープ(白黒映像)が見つかっている。『春の坂道』(1971年)は総集編を含めてNHKに全く映像が残されておらず、「幻の大河ドラマ」と呼ばれていたが、後に最終回のみモノクロの家庭用VTRで録画された映像が発見されて、NHKアーカイブスに収蔵されている(ただし本作はカラー作品なので本来の形での放送回は厳密には現存していない)。同様に通常放送回のマスターテープが全て失われていた前述の『草燃える』は、寄贈されたビデオテープによって全放送回の映像が揃えられたが、一部の回の映像に欠損している箇所があるので、今のところ完全な形では揃っていない(詳細については草燃える#映像の保存状況などを参照)。そして2015年11月、それまで唯一通常放送回の映像が1本も残っていなかった[27]国盗り物語』(1973年)の本編2話分が寄贈されたことで[28]、全作品の通常放送回が最低1話は現存していることになった。

現存している作品の幾つかはDVDで販売され、NHKアーカイブスで視聴することも可能である。また一部作品はビデオ・オン・デマンド(VOD)による配信もされている。現在、現存している初期作品のデジタルリマスター化がアメリカで行われている。

データ放送

総合テレビ、BSプレミアムでは番組連動型データ放送のサービス[29]を展開している。

データ放送の基本画面(LANケーブルを接続しなくても視聴可能)では、その日のあらすじや出演者・その役柄についての説明など基本情報を収録。更にNHKデータオンライン(LANケーブルを接続して視聴可能)を利用することによって、出演者インタビューや収録の裏話・トピックス、作品の時代背景や物語の舞台となった土地、登場人物の略歴といったドラマ関連の情報を見ることができる。

さらにNHKネットクラブ(2019年終了)会員に登録することによって、ドラマ放送中の時間帯(再放送を含み、「5分で(作品名)」は対象外)に実施されるスタンプラリーに参加することで、ネットクラブの会員ポイント(1視聴につき1点。1週間につき最大3点)をためることができ、またキャンペーン期間中には作品関連グッズプレゼントへの応募権利が与えられる特典もあった[30]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 2009年から2011年の3年間は12月に大型ドラマ『坂の上の雲』が放送されたため。
  2. ^ 4代目尾上菊之助(現在の7代目尾上菊五郎)。
  3. ^ 6代目市川染五郎(現在の2代目松本白鸚)。
  4. ^ 1978年度の『黄金の日日』の主演を務めた6代目市川染五郎は1981年に9代目松本幸四郎を襲名した。
  5. ^ 3代目中村橋之助(現在の8代目中村芝翫)。
  6. ^ 5代目中村勘九郎(後の18代目中村勘三郎)。
  7. ^ 2代目尾上辰之助(現在の4代目尾上松緑)。
  8. ^ 7代目市川新之助(現在の11代目市川海老蔵)。
  9. ^ 6代目中村勘九郎で、1999年度の父:5代目中村勘九郎(18代目中村勘三郎)に続く父子二代の大河主演[6]
  10. ^ 彫刻などの場合もある(『真田丸』など)が、ほとんどの作品が揮毫による手作り。例外として『山河燃ゆ』『北条時宗』『いだてん〜東京オリムピック噺〜』はレタリング・フォントを元にした題字を用いている。
  11. ^ 第2作赤穂浪士から第27作春日局で発生。
  12. ^ BSプレミアムでは独自のポイントサービスであるBSドラマイル→BSマイル対象番組の一つとして扱われていた(2016年サービス終了)。
  13. ^ 2012年のロンドンオリンピック期間中は7月28日は総合テレビと同じ通常時刻で(ただし総合テレビは21:00(その後柔道の中継延長で22:02に変更)開始のため国際放送単独放送)、8月5日は20:20-21:05に放送される。8月12日は国内向け・国際放送向けとも大河ドラマの番組自体が休止。
  14. ^ 例外として1976年に放送された『風と雲と虹と』の出演者は成田山新勝寺の節分会に参加しなかった。これは新勝寺自体がこの作品の主人公でもある平将門を調伏するために下総国公津ヶ原(現在の成田市並木町付近)で不動護摩の儀式を行ったのが開基の由来となっており、将門の怨敵とされているため[15]
  15. ^ アナログ放送では地上波・BSともにステレオ放送のみを実施し、解説放送はなかった。NHKでは地上波・BSをふくめ、デジタル放送の普及に合わせる形で、それまで視覚障碍者を扱った作品と、帯ドラマのみで実施したドラマ番組(一部除く)での解説放送を強化している。

出典

  1. ^ 大河ドラマ 源義経 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
  2. ^ 再来年の大河ドラマは「おんな城主 直虎」”. NHK (2015年8月25日). 2015年8月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月22日閲覧。
  3. ^ “2018年の大河ドラマは「西郷どん」!”. NHKドラマトピックス. (2016年9月8日). http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/252141.html 2016年9月8日閲覧。 
  4. ^ a b “2019年の大河ドラマは「オリンピック×宮藤官九郎」!”. NHKドラマトピックス. (2016年11月16日). http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/257134.html 2016年11月16日閲覧。 
  5. ^ “2019年 大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」主演は中村勘九郎さん、阿部サダヲさん!”. NHKドラマトピックス. (2017年4月3日). https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/266692.html 2017年4月3日閲覧。 
  6. ^ “中村勘九郎「いだてん」タイトルバックに感慨 天国の父思い「少しは“勘九郎孝行”できたかな」”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2019年1月6日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/01/06/kiji/20190106s00041000242000c.html 2019年1月6日閲覧。 
  7. ^ “長谷川博己さんが明智光秀役! 2020年大河ドラマ「麒麟がくる」”. NHKドラマトピックス. (2018年4月19日). http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/295435.html 2018年4月19日閲覧。 
  8. ^ “2021年大河ドラマ「青天を衝け」 製作開始と主演・吉沢亮さんを発表!”. NHKドラマトピックス. (2019年9月9日). http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/412103.html 2019年9月9日閲覧。 
  9. ^ “再来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」主演は小栗旬さん”. NHKニュース. (2020年1月8日). https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200108/k10012238891000.html 2020年1月8日閲覧。 
  10. ^ “来年大河「いだてん」、異例の注釈「史実を基にしたフィクション」”. スポーツ報知. (2018年12月14日). https://www.hochi.co.jp/entertainment/20181214-OHT1T50195.html 2019年1月13日閲覧。 
  11. ^ NHK雑学”. 2012年10月16日閲覧。
  12. ^ 大河ドラマ いだてん~東京オリムピック噺~
  13. ^ 大原, 誠. 舞台裏インタビュー ディレクター編:大原 誠さん(元・NHKディレクター). (インタビュー). NHKアーカイブス日本放送協会).. https://www.nhk.or.jp/archives/search/special/backstage/ 2019年3月6日閲覧。 
  14. ^ “成田山新勝寺 恒例の豆まき”. NHKニュース (日本放送協会). (2013年2月3日). オリジナルの2013年2月6日時点におけるアーカイブ。. http://megalodon.jp/2013-0206-1337-02/www3.nhk.or.jp/news/html/20130203/t10015259841000.html 2013年2月6日閲覧。 
  15. ^ 全国有数の初詣スポット成田山新勝寺。巨大寺院の謎と秘密に迫る!”. 日本気象協会(2016年1月3日作成). 2020年2月6日閲覧。
  16. ^ p.11 チャンネル別予算 <ジャンル別の番組制作費> - NHK 平成26年度 収支予算と事業計画の説明資料
  17. ^ 莫大な経済効果 朝ドラ「マッサン」1話あたりの制作費は? - 日刊ゲンダイ、2014年11月5日
  18. ^ NHKが制作費公表 「功名が辻」6,110万・「きょうの料理」170万… - 読売新聞、2006年3月28日
  19. ^ “大河ドラマ館 入館100万人 上田市 08年以降最多”. 信濃毎日新聞. (2017年1月5日). http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20170105/KT170105FSI090002000.php 2017年1月5日閲覧。 
  20. ^ 鈴木基顕 (2017年1月16日). “長野)真田丸大河ドラマ館が閉館”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/articles/ASK1H46J7K1HUOOB002.html 2017年2月9日閲覧。 
  21. ^ “「真田丸大河ドラマ館」これにて幕 1年間の入館者、103万人超 長野”. 産経新聞. (2017年1月16日). http://www.sankei.com/region/news/170116/rgn1701160027-n1.html 2017年2月9日閲覧。 
  22. ^ “「真田丸」イベント大盛況の理由、仕掛け人が明かす成功の鍵は「スマホと地方紙」”. スポーツニッポン. (2016年12月14日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/12/14/kiji/K20161214013901190.html 2016年12月21日閲覧。 
  23. ^ “「花燃ゆ」終了 不完全燃焼、ご当地も”. 毎日新聞西部朝刊. (2015年12月24日). http://mainichi.jp/articles/20151224/ddp/041/200/006000c 2016年11月26日閲覧。 
  24. ^ “「花燃ゆ」燃えず…「真田丸」展は約1カ月で1万8000人 群馬の「上州沼田真田丸展」”. 産経新聞. (2016年5月3日). http://www.sankei.com/premium/news/160503/prm1605030011-n3.html 2016年11月26日閲覧。 
  25. ^ 発掘って何?(NHKアーカイブス 番組発掘プロジェクト)
  26. ^ NHKアーカイブス 番組発掘プロジェクト
  27. ^ こんな番組探しています!2014年7月の特集(NHKアーカイブス 番組発掘プロジェクト)
  28. ^ 杉良太郎さんから『国盗り物語』大発掘!(NHKアーカイブス 番組発掘プロジェクト)
  29. ^ ネットにつなごう!「軍師官兵衛」
  30. ^ NHKネットクラブ「軍師官兵衛スタンプラリー 1月5日スタート!!」

関連項目

  • 奈良岡朋子 - 出演回数が多く、第1作と第50作という節目に登場する出演者となった。
  • ラジオ深夜便 - 2011年の『江-姫たちの戦国-』から2013年『八重の桜』まで、原則として毎月最終月曜未明(日曜深夜)の1時台に、番組関係者がパーソナリティーとして、ドラマに関したあらすじの紹介を取り上げていた。2014年6月からは関西発の第1・3金曜日に始まる土曜日1時からの放送(中村宏)の中で、「大河ドラマの主題歌をさかのぼる」のコーナーを開始。
  • 空想大河ドラマ 小田信夫 - NHK自身による大河ドラマのセルフパロディ作品。

NHKのほかの時代劇番組

大河ドラマと同様、史実より娯楽性を重視したもの(5-10回程度の中・長編が主)を放送している。なお地上波・総合テレビでは一時期娯楽時代劇の放送を休止した時期(2011年度)がある。

外部リンク

NHK総合 日曜20:45 - 21:30枠
前番組番組名次番組
大河ドラマ
(1963年4月 - 1964年3月)
若い季節
※20:15 - 21:00
【15分繰り下げ】
NHKニュース
※21:00 - 21:15
【30分繰り上げ】
ニュースの焦点
※21:15 - 21:30
【30分繰り上げ】
NHK総合 日曜21:30 - 22:15枠
NHKニュース
※21:30 - 21:45
【30分繰り上げ】
ニュースの焦点
※21:45 - 22:00
【30分繰り上げ】
日本の素顔
※22:00 - 22:30
大河ドラマ
(1964年4月 - 1964年12月)
ある人生
※21:30 - 22:00
看護婦物語
※22:00-22:50
NHK総合 日曜20:15 - 21:00枠
大河ドラマ
(1965年1月 - 1969年3月)
大河ドラマ
※20:00 - 20:45
【15分繰り上げ】
報道特集
または
にっぽん探訪
※20:45 - 21:30
NHK総合 日曜20:00 - 20:45枠
大河ドラマ
※20:15 - 21:00
【15分繰り上げ】
歌の祭典
※19:30 - 20:14
【15分繰り上げ】
大河ドラマ
(1969年4月 - )
-
NHK総合 土曜13:05 - 13:50枠
不明
大河ドラマ
(再放送枠・開始年不明)
-

明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名

生涯

出自、生年、出身地、青年期

清和源氏の土岐氏支流[注釈 9]である明智氏に生まれる。父は江戸時代の諸系図などでは明智光綱明智光国明智光隆、明智頼明など諸説がある。また、父親の名前も伝わらない低い身分の土岐支流とも言われている[11]

光秀は自身の出自に関する証言はほとんど残していないが、『松雲公採集遺編類纂』所収の「戒和上昔今禄」という記録には、天正5年(1577年)に発生した興福寺と東大寺の相論の奉行を務めた光秀が「我、先祖致忠節故、過分ニ所知被下シ尊氏御判御直書等所持スレトモ」と発言したことが記されている。この記述に従えば、光秀の祖先が足利尊氏に仕えてその書状を光秀が持っていたということになる[12]

生年

生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず、不詳である[1]。ただし、後世の史料によるものとして、『明智軍記』などによる享禄元年(1528年)説、および『当代記』による永正13年(1516年)説の2説がある[1]。また、近年その存在が広く紹介されるようになった津山藩森家の記録である『』[13]所収の「古今之武将他界之覚」(巻一)では享年七十と記されており、逆算すると永正10年(1513年)となる。また、江戸時代には大永6年(1526年)生まれとする説もあったという[14]。一方、橋場日月は『兼見卿記』にある光秀の妹・妻木についての記述から、光秀の生年は大幅に遅い天文9年(1540年)以降と推定している[15](この場合、天文3年(1534年)生の織田信長より年下となる)。

生誕地、幼少期の土地

生地は美濃国の明智荘の明智城(現・岐阜県可児市)と言われる[16][注釈 10] 少なくとも、美濃国(岐阜県南部)あたりで生まれたことは事実であるとみられている[1]。このほかに近江国出生説もある[19]。井上優(滋賀県教育委員会文化財保護課主幹)は、江戸時代前期に刊行された『淡海温故録』の記述から、光秀の祖先が土岐氏に背いて六角氏を頼り、近江国犬上郡で生まれた可能性を指摘。同郡の多賀町佐目(さめ)には「十兵衛屋敷跡」(十兵衛は光秀の異名)と呼ばれてきた場所がある。岐阜県瑞浪市説や、後述する同県大垣市上石津町説を含めて、出生地とされる地域は6ヵ所ある[20]

青年期

青年期の履歴は不明な点が多い。光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族[注釈 11][注釈 12]で、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる。

その後、光秀は越前国朝倉義景を頼り10年間仕えたとも言われる[注釈 11]。越前国に在住していた傍証は、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、天正元年8月22日(1573年9月18日)付け光秀書状[注釈 13]がある[23]

光秀の躍進

2016年時点で判明している限りでは、「米田文書」(個人蔵)に含まれる『針薬方』が光秀の史料上の初見である[24]。これは2014年に熊本藩細川家の家臣で医者だった米田貞能の、熊本市にある子孫の自宅で発見された医学書で[25]、光秀自身が「高嶋田中籠城之時(高嶋田中城に籠城)」に語った内容を含んでおり、永禄9年10月20日(1566年12月1日[注釈 1])に米田貞能(米田求政)によって作成された写本である[24]。その後の調査の結果、明智光秀が若き日に語った医学的知識を、人づてに聞いた米田によりまとめられたものだと推測されており、出産やの対処法など、当時としては高度な医学的知識に関する記述などが見られ、この古文書を一般公開した熊本県立美術館は、光秀が信長に仕える前は医者として生計を立てていた可能性があることを推測させる貴重な資料だとしている[25]。確定はできないものの、光秀の「高嶋田中籠城之時」は、永禄8年5月9日(1565年6月7日[注釈 1])に室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺された(永禄の政変)直後であると考えられる[24]が、前述の朝倉義景仕官時代と重なる恐れがある。田中城は現在の滋賀県高島市安曇川町にあった湖西から越前方面へ向かう交通の要衝で、かねてからここを拠点に活動していたと見れば、後の元亀2年(1571年)に滋賀郡に領地を与えられるのも理解しやすくなる[26]

足利義昭との関係

その後、義輝(13代将軍)の弟・義昭が姉婿である若狭国守護・武田義統の下に逃れた。その直後から義昭は織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促し、細川藤孝が使者に立ち信長は了承したが、当時は美濃国平定前であった。義昭側は永禄9年(1566年)4月に織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたが、信長がこれを破る形で同年8月29日(1566年9月12日[注釈 1])に出兵したことで流れた[注釈 14]

義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。しかし義昭が上洛を期待しても義景は動かない。光秀は「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧め、そこで義昭は永禄11年6月23日(1568年7月17日[注釈 1]。『細川家記』)、斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した[28]。2回目の使者も細川藤孝だが、信長への仲介者として光秀が史料にまとまった形で初めて登場する。この記事に「信長の室家に縁があってしきりに誘われたが大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」と紹介している[29]。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている[30]。また、従兄妹でなくても何らかの血縁があったと推定される[31]斎藤利治も末子(弟)で同様との指摘もある[32]

小和田哲男は、将軍・義輝の近臣の名を記録した『永禄六年諸役人附』「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」(『群書類従』収載)に見える足軽衆「明智」を光秀と解し、朝倉義景に仕えるまでの間、足軽大将として義輝に仕えていたとする[33]。しかし『永禄六年諸役人附』は、記載された人名から前半の義輝期と後半の足利義昭の将軍任官前の二部に分かれ、「明智」の記載があるのは後半部であり、義昭時代から足軽衆として仕え高位ではなかったとも言われる[注釈 15][10]。 なお、この足軽衆とは雑兵ではなく、行列などの際に徒歩で従うのことである[35]。これは末尾に名字だけで記載され、当時の義昭にとって光秀は取るに足りない存在だとうかがわせる。室町幕府では、土岐氏は三管領四職家に次ぎ諸家筆頭の高い家格で、十余支族も幕府奉公衆となり、土岐明智氏などは将軍家と結んで独自の地位を築いた。その奉公衆や外様衆などの高位に就いてきた「土岐明智氏」の家系に連なる者を、形式的な伝統を重んじ家格に配慮する義昭が、足軽衆に格下げして臣従させたことになり、「土岐明智氏」なのか疑問がもたれている[10]。また、光秀を奉公衆「土岐明智氏」と直接結びつけた現存の系譜の信憑性に疑いを持って「土岐明智氏」が事実だとしても傍流出身であったとする説もある[36]。ただし、現在残されている番帳(『永禄六年諸役人附』)は原本とは見なされず、足軽衆「明智」は後世の追記と見る説もある[37]。また、永禄の変で父子とも死亡記録のある室町幕府奉公衆の実力者のの子の進士藤延だけが生き残り、改名して進士藤延が明智光秀になり、光秀妹の妻木は義輝の側室小侍従、光慶は義輝の子の尾池義辰だと小林正信は主張している[38]

細川藤孝と朝倉家との関係

本能寺の変後に、ルイス・フロイスの『日本史』や英俊の『多聞院日記』には、光秀は元は細川藤孝に仕える足軽中間であったと記すが、これは両者の地位に大きな差があったということで、当時には何らかの上下関係があったと見てよい[10][1]。信長への仕官の初祿は『細川家記』では500貫文で朝倉家と同額としており、これは雑兵ら約百人を率いて馬に乗り10騎位で闘う騎馬うまのりの身分であり[29]、通説となってきた。しかし、太田牛一の『太田牛一旧記』では、朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」と、特色の無い部下のいない従者1人だけの家臣だと記述している[39][注釈 16]

足利義昭・織田信長への両属状態から織田直臣へ

その後、義昭と信長の両属の家臣となり、永禄11年9月26日(1568年10月16日[注釈 1])の義昭の上洛に加わる。永禄12年1月5日(1569年1月21日)、三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲した(本圀寺の変)。防戦する義昭側に光秀もおり、『信長公記』への初登場となる。同年4月頃から木下秀吉(後に羽柴へ改姓)、丹羽長秀中川重政と共に織田信長支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行う[41]。同年10月、信長と義昭が意見の食い違いで衝突して信長が突如として岐阜に戻ってしまう。永禄13年(1570年)正月に信長は義昭の権限を規制する殿中御掟を通告するが、宛先は光秀と朝山日乗で、義昭は承諾の黒印を袖に押し信長へ返している。同日、信長名で「禁裏と将軍御用と天下静謐のために信長が上洛するので、共に礼を尽くすため上洛せよ」との触れが全国の大名に出される。続いて同年3月1日(1570年4月6日[注釈 1])、信長は将軍から離れた立場で正式に昇殿し、朝廷より天下静謐執行権を与えられる[42]

元亀元年4月28日(1570年6月1日[注釈 1])、光秀は金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に池田勝正隊3,000人を主力に、秀吉と共に殿を務めて防戦に成功する[注釈 17]。同年4月30日(1570年6月3日[注釈 1])には丹羽長秀と共に若狭へ派遣され、武藤友益から人質を取り、城館を破壊して5月6日帰京する。またこの頃、義昭から所領として山城国久世荘(現・京都市南区久世)を与えられている(『東寺百合文書』)。同年9月の志賀の陣にも参陣しているが、兵力は300人から400人と大きくなく、戦の小康状態の時に宇佐山城を任され、近江国滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当した[44]

元亀2年(1571年)には、三好三人衆四国からの攻め上りと同時に石山本願寺が挙兵すると、光秀は信長と義昭に従軍して摂津国に出陣した。同年9月12日の比叡山焼き討ちで中心実行部隊として(和田秀純宛「仰木攻めなで切り」命令書)[45]武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、間もなく坂本城の築城にとりかかる。柴辻俊六は光秀と他の幕臣及び織田家家臣との文書の連署状況や、滋賀郡の拝領が信長に没収された延暦寺領の処理の一環として佐久間信盛らと同時に与えられていることから、宇佐山城に入った時点の光秀の身分は幕臣であったが、滋賀郡を与えられたのを機に織田家の家臣に編入されたとみる[46]。同年12月頃に義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出すが(曾我助乗宛暇書状)、不許可となる[47]。なお、暇願い提出の原因として旧延暦寺領の支配を任された光秀が信長と敵対したことを理由に所領の押領を図り、義昭の怒りを買ったからとする説があり、結果的に信長と義昭の対立の一因を光秀が引き起こした可能性もある[48]。元亀3年(1572年)4月、河内国への出兵に従軍した折では、まだ義昭方とする史料がある[注釈 18]

元亀4年(1573年)2月、義昭が挙兵。光秀は石山城、今堅田城の戦いに義昭と袂を別って信長の直臣として参戦した。信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、松永久秀の妨害で破綻する[50]。同年7月にまたも義昭が槇島城で挙兵し、光秀も従軍した。義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。旧幕臣には伊勢貞興ら伊勢一族や諏訪盛直など、その後、光秀に仕えた者も多い[51]。同年、坂本城が完成し、居城とした。天正元年(1573年)7月に村井貞勝京都所司代になるが、実際には天正3年(1575年)前半まで光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出し単独でも少数出している。京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収している[52][53]。朝倉氏滅亡後の8月から9月まで、羽柴秀吉や滝川一益と共に越前の占領行政を担当し[54]、9月末から溝尾茂朝三沢秀次)、木下祐久津田元嘉が代官として引き継いだ[55]

天正3年(1575年)7月に、(これとう)の賜姓と、従五位下日向守に任官を受け、惟任日向守となる[56]。同じ日に塙直政は原田、丹羽長秀は惟住の名字を与えられており、光秀は彼らと同格、すなわち織田氏の重臣層に加えられたことを意味していた[57]

丹波攻略と畿内方面軍の成立

光秀は、天正3年(1575年)の高屋城の戦い長篠の戦い越前一向一揆殲滅戦に参加する[56]。そして丹波国攻略を任される[56]。丹波国は山続きで、その間に国人が割拠して極めて治めにくい地域であった。丹波国人は親義昭派で、以前は信長に従っていたが義昭追放で敵に転じていた[58]。ただし、丹波国人全てが一致していた訳ではなく、桑田郡宇津頼重船井郡内藤如安は親義昭・反信長の姿勢を早くから示していたが、彼らと勢力争いをしていた船井郡のは早くから信長に協力的で光秀とも面識があった。また、桑田郡の川勝継氏も小畠の説得で織田方に転じていた[59][60][61]。7月に入ると、まず光秀は小畠・川勝の協力を得て宇多頼重攻めを始めるが、途中で信長より越前・丹後方面への援軍を命じられて離脱したところ、8月には宇津頼重に織田方の・を攻められるなど苦戦する。また、丹後出兵に背景には信長の丹波攻略に対して曖昧な姿勢を示しながら、山名氏領である但馬の出石城・竹田城への攻略を進める氷上郡の赤井直正に対する牽制の意図があったという[62]。一旦坂本城に戻った光秀は10月に改めて丹波攻略を開始すると、宇津頼重は戦わずに逃亡し、続いて竹田城攻略を断念して帰還した赤井直正の黒井城を包囲するが、天正4年(1576年)1月15日に八上城主・波多野秀治が裏切り、不意を突かれて敗走する[63][64][65]。この結果、直後に信長から朱印状を与えられている小畠・川勝以外の国人の多くが離反したとみられている[66]

天正4年(1576年)4月、石山本願寺との天王寺の戦いに出動するが、同年5月5日に逆襲を受けて司令官の塙直政が戦死する。光秀も、天王寺砦を攻めかかられ、危ういところを信長が来援し助かる。23日には過労で倒れたため、しばらく療養を続けた[67]。同年11月7日(1576年11月27日[注釈 1])には、正室の煕子が坂本城で病死する[68]。この頃、光秀は余部城を丹波の本拠にしていたが、安定した本拠地として亀山に城を築くことを決めて、翌天正5年(1577年)1月より準備を進めている[69]

天正5年(1577年)、雑賀攻めに従軍する。同年10月、信貴山城の戦いに参加して城を落とす。同月に丹波攻めを再開して翌月には籾井城を落とすが一時的なもので、以降は長期戦となる。そして難敵となった八上城を包囲し続け、その後も丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返す。

天正6年3月に赤井直正が病死すると、再度丹波に出陣して園部城の荒木氏綱を降伏させる[70]が、4月29日(1578年6月4日[注釈 1])には、毛利攻めを行う秀吉への援軍として播磨国へ派遣され、同年6月に神吉城攻めに加わる。ところが9月に入ると丹波国人の大規模な反乱が発生して亀山城防衛の要地であったまでも一時占拠され、光秀は急遽亀山城に入ると奪われた城を奪回した[71]

同年10月下旬、信長に背いた荒木村重を攻めて有岡城の戦いに参加する。ところがこの段階では亀山城は完成しておらず、村重の乱を知った波多野軍は一時八上城を包囲する明智軍に攻勢をかけている[72]

光秀の三女・玉子(ガラシャ)と細川忠興が勝竜寺城で結婚する。主君信長の構想に基づく命令による婚姻であったことに特徴がある[73]

天正6年8月11日、信長が光秀に出した判物があり(『細川家記』)、光秀の軍功を激賛、細川幽斎の文武兼備を称え、細川忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた光秀の娘玉子と細川忠興との政略結婚であったことが知られるが、ただ懸念されるのは、この判物の文体が拙劣であり、戦国期の書式と著しく異なっていることである[74]。このことから偽作の可能性が高い古文書とされている[75]

天正7年(1579年)、丹波攻めは最終段階に入っていたが、1月には波多野軍の反撃で丹波の国人では数少ない一貫した親織田派であった小畠永明が討死する。光秀は永明の遺児に明智の名字を与えて、小畠一族には一時的な名代を立てるのは許すが、将来は必ず永明の子を当主に立てることを命じている[76][77][78]。しかし、同年2月には包囲を続けていた八上城が落城。同年8月9日(1579年8月30日)、黒井城を落とし、ついに丹波国を平定。さらに、すぐ細川藤孝と協力して丹後国も平定した[79]。信長は感状を出し褒め称え、この功績で、天正8年(1580年)に丹波一国(約29万石)を加増されて合計34万石を領する。さらに、本願寺戦で戦死した塙直政の支配地の南山城を与えられる[80]亀山城周山城を築城し、横山城を修築して「福智山城」に改名した。黒井城を増築して家老斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れた。同年の佐久間信盛折檻状でも「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と信長は光秀を絶賛した。

また丹波一国拝領と同時に丹後国の長岡(細川)藤孝、大和国筒井順慶等の近畿地方の織田大名が光秀の寄騎として配属される。これにより光秀支配の丹波、滋賀郡、南山城を含めた、近江から山陰へ向けた畿内方面軍が成立する[81]。また、これら寄騎の所領を合わせると240万石ほどになり、歴史家の高柳光寿は、この地位を関東管領になぞらえて「近畿管領」と名付けている[3]

天正9年(1581年)には、安土左義長爆竹と道具の準備担当をして、それに続く京都御馬揃えの運営責任者を任された[82]。同年6月2日(1581年7月2日)、織田家には無かった軍法を、光秀が家法として定めた『明智家法』[注釈 19]後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く。さらに翌年1月の茶会でも「床の間に信長自筆の書を掛ける」とあり(『宗及他会記』)[注釈 20]、信長を崇敬している様子がある[87]

天正9年8月7・8日(1581年9月4・5日[注釈 1])に、光秀の実妹か義妹の「御ツマキ」が死去し、光秀は比類無く力を落とした(『多聞院日記』同年8月21日条)[注釈 21]公家等の日記に、ツマキ・妻木は散見する[注釈 22]。これら『多聞院日記』ほかの妻木・ツマキの各自が同一人物なのか全く不明である。『多聞院日記』には御ツマキは信長の「一段ノキヨシ」とあり、歴史学者の勝俣鎮夫は「一段のキヨシ」を「一段の気好し」として、光秀の妹は信長お気に入りの側室で、その死去で光秀の孤立化が進み、本能寺の変の遠因となったとの説を立てている[91]。だが「一段のキヨシ」を安土城の奥向きを束ねる地位にいた、とする見解もある[90][注釈 23]

天正9年12月4日(1581年12月29日[注釈 1])、『明智家中法度』5箇条を制定。大きくなった家臣団へ織田家の宿老・馬廻衆への儀礼や、他家との口論禁止及び喧嘩の厳禁と違反者即時成敗・自害を命じている[92]

天正10年3月5日(1582年3月28日[注釈 1])、武田氏との最終戦である甲州征伐では信長に従軍する。先行していた織田信忠軍が戦闘の主力で、今回は見届けるものであり、4月21日に帰還する。

本能寺の変

天正10年(1582年)5月、徳川家康饗応役であった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられ、同年6月2日(1582年6月21日[注釈 1])早朝に出陣する。その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれる。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かったという[93]

本城惣右衛門覚書』によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、本城も信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた。光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害したとされている。信長の死体は発見されなかった。

その後、二条御所にいた信長の嫡男・信忠と従兄弟の斎藤利治[注釈 24]が、二条新御所において見事な防戦(奮戦)をしているのを確認し、をしたとされるが、利治は忠死を選んだ(『南北山城軍記』)[注釈 25]、応援に駆け付けた村井貞勝と息子の村井貞成村井清次や信長の馬廻りたちを共に討ち取った。また津田信澄(信長の弟・織田信行の子)は光秀の娘と結婚していたため、加担の疑いをかけられ大坂神戸信孝らに討たれた。

山崎の戦い

光秀は京都を押さえると、すぐに信長・信忠父子の残党追捕を行った。さらに信長本拠の安土城への入城と近江を抑えようとするが、勢多城主の山岡景隆[注釈 26]瀬田橋と居城を焼いて近江国甲賀郡に退転したため、仮橋の設置に3日間かかった。光秀は、まず坂本城に入り同年6月4日(1582年6月23日[注釈 1])までに近江をほぼ平定し、同年6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えるなどした。

同年6月7日には誠仁親王は、吉田兼和勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持を任せている。京都市中が騒動し、混乱を憂いてのことと思われるが、この時に兼和は「今度の謀反の存分儀雑談なり」と記し「謀反」としている[94]。光秀はこの後、同年6月8日に安土を発って、同年6月9日には宮中に参内して朝廷に銀500枚を献上し、京都五山大徳寺にも銀各100枚を献納、勅使の兼見にも銀50枚を贈った[95][96]

だが、光秀寄騎で姻戚関係もある丹後の細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶した。『老人雑話』には「明智(光秀)、始め(は)細川幽斎の臣なり」とあり、両者の上下関係は歴然としていることから、細川幽斎には光秀の支配下に入ることを潔しとしない風があったとされている[97]

また、同じく大和一国を支配する寄騎の筒井順慶も秀吉に味方した。ただし筒井に関しては秀吉が帰還するまでは消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力していた[98]。また、詳細は後述するが、高山右近ら摂津衆を先に秀吉に押さえられたことが大きいとフロイスが『日本史』で指摘している。

本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、事変から11日後の同年6月13日(1582年7月2日[注釈 1])、天王山の麓の山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で新政権を整える間もなく迎え撃つことになった[99]

決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千人(池田恒興4,000人、中川清秀2,500人、織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆ら8,000人。但し4万人の説もあり)に対し明智軍1万7千人(1万6千人から1万8千人の説もあり、さらに1万人余りとする説[100]もある)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間の狭い地域には両軍とも3千人程度しか展開できず、合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。羽柴軍の主力は備中高松城の戦いからの中国大返しで疲弊しており、高山右近や中川清秀等、現地で合流した諸勢の活躍に期待する他はなかった。

当日、羽柴秀吉配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して戦術的に大勢を定めると勝敗が決したとの見方がある。だが、これは『太閤記』や『川角太閤記』『竹森家記』などによるものであり、良質な史料(『浅野家文書』『秀吉事記』)にはこの天王山占拠が記されていないため、現在では創作とされている[101]。また他には、秀吉側3万5千人に対し、各城にも兵を残したため実数1万人程度で劣勢であり、戦いが始まると短時間で最大勢力の斎藤利三隊3千人が包囲され敗走し、早くも戦いの帰趨が決まった、との見解もある[100]

同日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中[注釈 27]落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負ったため自害し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠したという[102][注釈 28]。 光秀の首は発見した百姓により翌日、村井清三を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされた。その後同月17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口(現・京都府京都市東山区・左京区)に首と胴をつないでさらされた後、同年6月24日に両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれた(『兼見卿記』)[103]。『太田牛一旧記』によれば、小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道を、光秀ら十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びたで腰骨を突き刺されたとする。その際、最期と悟った光秀は自らの首を「守護」の格式を表す毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで知恩院に届けてくれと言い残したという[39]

一説では、落ちていく途中、(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも[103]、致命傷を受けて自害したともされる[102]

安土城で留守を守っていた明智秀満は、同年14日に山崎での敗報を受けて残兵とともに坂本城へ戻ったが、多くが逃亡。やがて坂本城が包囲され、光秀が集めた財宝が失われるのを惜しみ、目録を添えて包囲軍に渡した(『川角太閤記』)[104]。籠城戦も無理だと判断して、光秀の妻子と自分の妻子を殺し、城に火を放って自害した[105]

人物・評価

  • 従来の説では光秀は『天台座主記』[106]に「光秀縷々諌を上りて云う」とあるように、信長の比叡山延暦寺焼き討ちに強く反対し、仏教勢力とかなり親密であったとされてきた。だが信長の命令とは言え延暦寺焼き討ち、石山戦争などの対宗教戦争に参戦しているほか、自領の山門の領地を容赦無く没収(門跡領も含めて)しているため、宗教に対して必ずしも保守的ではなかったとする見方[107]があった。これを補強して従来の諌止説を覆したのが、叡山焼き打ち10日前の9月2日付けの雄琴の土豪・和田秀純宛の光秀書状で、比叡山に一番近い宇佐山城への入城を命じ「仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」と非協力な仰木(現・大津市仰木町)の皆殺しを命じており、叡山焼き打ちの忠実かつ中心的な実行者だと判明した[108]
  • 高柳光寿は、光秀は従来から言われるような保守主義者ではなく合理主義者であり、だからこそ信長に重用されて信任されたとしている[109]
  • 主君・織田信長を討った行為については、近代に入るまでは“逆賊”としての評価が主であった。特に儒教的支配を尊んだ徳川幕府の下では、本能寺の変の当日、織田信長の周りには非武装の共廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、変後に神君・徳川家康伊賀越えという危難を味わったことなどから、このことが強調された。
  • 本能寺の変後、光秀と関係の深い長宗我部元親斎藤利堯姉小路頼綱一色義定武田元明京極高次等が呼応する形で勢力を拡大している。織田政権が崩壊したことで各地に支配の空白が生じ、家康と後北条氏上杉氏らが甲斐国信濃国を争奪した天正壬午の乱紀伊伊賀国人衆蜂起などが起きた。
  • 『フロイス日本史』中には、
    • 「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」
    • 「裏切りや密会を好む」
    • 「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」
    • 「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」
    • 「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ」「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」
    • 「刑を科するに残酷」「独裁的でもあった」「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」
    • 「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」
等の光秀評がある。鈴木眞哉藤本正行は共著『信長は謀略で殺されたのか』の中で、『フロイス日本史』での信長評が世間で広く信用されているのに対し、光秀評は無視されていると記し、光秀に対する評価を見直すべきとしている。信長の筆頭家老であった佐久間信盛が失脚し、その軍団は光秀が引きついでいるが、『佐久間軍記』には「誰かの讒言があったのではないか」という意味のことが書かれており、『寛政重修諸家譜』の信盛の子・信栄(正勝)の項には「光秀の讒言があった」と書かれている。
  • 宗教面に関しては「悪魔(=神道仏教)とその偶像の大いなる友」で、イエズス会に対しては「冷淡であるばかりか悪意を持っていた」とフロイスは書いているが、特にキリシタンに害を加えたという記述はない。また本能寺の変の時、光秀の小姓の1人が宣教師たちを宿泊させている(宣教師に、キリシタンの高山重友を説得させるためではあったが)。
  • 志賀郡で一向一揆と戦った時、明智軍の兵18人が戦死した。光秀は戦死者を弔うため、供養米を西教寺に寄進した[110]。西教寺には光秀の寄進状が残されている。他にも、この戦で負傷した家臣への光秀の見舞いの書状が2通残されていて、家臣へのこのような心遣いは他の武将にはほとんど見られないものであった[111]
  • フロイスは本能寺の変の後、摂津国に軍を向けて諸城を占領し、諸大名から人質を取らなかったことが秀吉に敗北した原因であるとしている[注釈 29]。ただしこれは結果論であり、当時の光秀の立場を無視しているとも言われる[113]。光秀は、近江方面の平定から始めている。これは常識的な判断である。そして秀吉の「中国大返し」という思わぬ事態にそれ以上の展開を阻まれたのである[114]。しかし、4日から8日まで5日間も安土に留まり朝廷工作を優先していたと思われ、これは大きな失敗である[115]
  • 光秀は信長を討った後、味方に付く大名がほとんどいなかったため、なりふりかまわぬ行動をしている。特に縁戚関係にあった細川藤孝・忠興父子に対しては「家老など大身の武士を出して味方してくれれば、領地は摂津か、但馬・若狭を与え、他にも欲しいものがあれば必ず約束を履行する。100日の内に近国を平定して地盤を確立したら、十五郎(光秀嫡男)や与一郎(忠興)に全てを譲って隠居する」などと6月9日付で出された書状「覚」が『細川家記』収載「明智光秀公家譜覚書」にある[116]。しかしながら、この「覚」について、立花京子は「花押の上部の中央線が他に例のないほど太く、しかもそれの延長であるべき下部になると段差的に細くなり、他の花押には決して見られない不自然な筆の運びとなっている。筆跡の鑑定などを必要とする要検討文書と考える」と結論づけている[117]
  • 諸学に通じ、和歌茶の湯を好んだ文化人であった。
    • 光秀の連歌会参加の初見は永禄11年(1568年)だが、詠んだ句は6句と少なく依然未熟であった。しかし勉強したのか2年後の元亀元年(1570年)には8句を詠み、その後の天正2年(1574年)には連句会を初主催して発句と脇句を詠み、それを含め計9回も主催した。他の催した連歌会の参加は11回にも及ぶ。また当時の連歌の第一人者・里村紹巴とその門派たちと交流し、天正9年(1581年)には細川藤孝親子の招きで紹巴たちと9月8日に出発して天橋立に遊び、12日に連歌会を行っている[118]
    • 信長は「許し茶湯」を家臣管理に使用し、茶道具を下付された家臣に茶会主催を許可し、『信長公記』では天正6年(1578年)正月に始められ許可者12名が総覧され、光秀は選ばれている[119]。この時、八角釜を拝領し、津田宗及に師事し、12回も茶会を催している[120]。初回は慣れないのか、主催の亭主の行い事を全て津田宗及が代役している[121]
  • 内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。
    • 現代に至る亀岡市[注釈 30]福知山市の市街は、光秀が築城を行い、城下町を整理したことに始まる。亀岡では、光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行われている。福知山には、「福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と光秀を偲ぶ福知山音頭が伝わっている。
  • 前述のように光秀は江戸時代には謀叛人として非難の対象となっていたが、荻生徂徠は「光秀の本能寺の変の直後に京都での地子銭免除を認めたことが先例となって京都は勿論のこと大坂や伏見、江戸に至るまで地子銭免除の慣例が出来てしまったとし、このため幕府や藩が財政に窮しても豊かに暮らす町の町人からは税が取れず、農村からの年貢の増徴に頼るしかなくなってしまっている」として、光秀は主君を殺しただけでなく、農民を苦しめる悪政をもたらしたと激しく非難している[122]
  • 稲葉一鉄のもとから斎藤利三を高禄をもって引き抜いた。さらにも引き抜こうとして訴訟沙汰まで起こしていた。光秀の人材登用にかける思い入れの深さと姿勢が見られ、光秀の経営の真骨頂と評価される[123]
  • 光秀の大河ドラマ放映に自治体などが運動し、2020年大河ドラマが明智光秀が主人公の群像劇『麒麟がくる』になり、実現した[124][125][126][127]

江戸期の編纂書・軍記や伝承不明の説話

  • 光秀は享禄元年(1528年)に父は明智光隆、母は武田義統の妹の間に美濃多羅城で生まれたとの説がある(『明智系図』[注釈 31])。一方、大垣市は、『明智一族宮城家相伝系図書』(東京大学史料編纂所)などを基に、明智光綱(光隆)の妹が美濃国石津郡の多羅(現在の大垣市上石津町多良)を領した進士信周に嫁いで産んだうちの次男を光隆の養子として、長じて光秀となったとしている[129]。(「系譜」「光秀の謎」も参照)
  • 20歳位の頃、芥川で光秀は大黒天の像を拾った。それを見た家臣が「大黒を拾えば1,000人の頭になれるそうです」と述べて喜んだが、光秀は「ならばこれは必要ない」と捨ててしまった。驚いた家臣が尋ねると、「わしは1,000人の頭になることくらいで終わるつもりはない。もっと大きくなる」と述べて大志があることを示したという(山鹿素行『山鹿語類』)。
  • 明智軍記』によれば、弘治2年(1556年)に美濃を出て越前大野に行き、いったん上洛し妻子を寺に預けてから永禄3年(1560年)から2年間で奥州盛岡から薩摩まで日本全国を回り、各地の城構えや民政を見聞したとする。ただし、その内容は吉田郡山城にいた毛利氏が安芸広島城にいたり、永禄3年(1560年)5月に桶狭間の戦いで死んだ今川義元が年末に生存していたり、伊達政宗が当時無関係の陸奥大崎にいたり、でたらめである[11]
  • 流浪時代に毛利元就に仕官を求めた際に、元就は「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。(光秀の才気は並々ならぬものがあり非常に魅力的ではあるけれども、彼の中にはもう一つのような一面が眠っている。利益と同じだけの災いをもたらす可能性も大きい。)」と言い断ったという(『太閤記』上和編)。
  • 永禄5年(1562年)に加賀で浪人していた光秀は一向一揆と戦うの軍師として参戦した。一揆の動きを見た光秀は景行に対して「夜討ちに備えるべき」と進言した。多くの者は飛び入りの光秀を快く思わず意見を聞き流したが、景行のみは半信半疑ながらも夜討ちに備えた。すると光秀の進言どおりに一揆が夜討ちをかけてきたが、備えを布いていた朝倉軍は一揆に大勝した。景行は光秀の慧眼と非凡な器を知り、光秀に義景への仕官を勧めたという(小瀬甫庵『太閤記』)。
  • 鉄砲の名手で、朝倉義景に仕官した際、一四方の的を25(約45.5メートル)の距離から命中させたという。当時の火縄銃弾丸の性能を考えると、驚異的な腕前である。そのほかにも、飛ぶ鳥を撃ち落としたという逸話もある。
    • 「一百の鉛玉を打納たり。黒星に中る数六十八、残る三十二も的角にそ当りける」(『明智軍記』)。
  • 光秀は大力の持ち主であった。馬上で太刀打ちとなった時、光秀は相手の馬の橋を引いて切って捨てた。また、家臣が敵に組み敷かれているのを見た光秀は、敵のの下部をつかんで引き倒したという(『明智軍記』)[130]
  • ある合戦で対陣中の光秀の下に、塩瀬三右衛門という者が陣中見舞いとして光秀の好物を持参した。光秀が喜んで食べていると敵軍の鬨の声が聞こえてきたため、光秀は慌てながら残りを急いで食べると指揮を執った。あまりの急ぎぶりに光秀の口周りは汚れたままで、これを見た家臣は「殿(光秀)ほどの御方でも心遅れされるとは無様なものよ」と呆れたが、心ある者は「名将となる者は軍のことのみを心がけており、寝食など忘れるもの。殿は食事などこだわらず、軍に心を委ねている証である」と述べたという(『太閤真顕記』)。
  • 夫婦仲は非常に良かったとされ、「結婚直前に疱瘡にかかり、左頬にその後が残ってしまった煕子を光秀は気にせずに迎えた」、「弘治2年(1556年)、斎藤義龍によって明智城が落とされると、光秀は身重の煕子を背負って越前へ逃亡した」などの逸話がある[131]
  • 愛宕百韻の際、愛宕神社で意中の籤が出るまで三度おみくじを引いたと伝えられている。ただし、神籤を三度引いて三角に置き、銭を三枚放り投げて一枚だけ表裏異なる位置の神籤を神意として読むという擲銭法による占いは当時は一般的に行われていたものであった。
  • 本能寺の変で信長を討った後、光秀は京童に対して「信長は紂王であるから討ったのだ」と自らの大義を述べた。しかし京童や町衆は光秀が金銀を贈与していたから表面上は信長殺しを賞賛したが、心の中では「日向守(光秀)は己が身を武王に比している。笑止千万、片腹痛い」と軽蔑していたという(『豊内記』)。
  • 『信長公記』や秀吉の書簡、日記などの文書史料には無い、光秀を刺したという百姓の名前が江戸時代の随筆に2名(中村長兵衛[132]、小栗栖の作右衛門[133])登場するが、信憑性はない。
  • 辞世

    光秀の辞世とされるや句が残っているが、いずれも後世の編纂物によるものである。

    • 順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元
      (順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す)『明智軍記[注釈 32]
    • 心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ[134]

    伝承史跡

    本能寺の変~山崎の戦い関連

    • 明智藪
    • 胴塚:明智藪から街道筋を坂本城の方向へ2km北上した京都市山科区勧修寺御所内町にあり、光秀の胴体部分を埋葬したと伝わる。江戸時代に広まった『明智軍記』の載る、で刺され深手を負った光秀がしばらく進んで絶命したという記述に基づき、明智藪から近距離に後世に里人が作った供養塔だと評されている[135]
    • 首塚
      • 京都府亀岡市宮前町の谷性寺に、溝尾茂朝が光秀の首を持ち帰って埋葬したと伝わる[135][136]
      • 京都府宮津市喜多の盛林寺境内。細川家の旧領内で娘ガラシャの元へ運ばれた首が埋葬されたと伝わる[135]
    • 三好宗三が和泉に勢力を誇っていた時、その弟・三好長円が現在の大阪府泉大津市に「蓮正寺」を建て、境内に仁海上人が「助松庵」を建立し、その助松庵に光秀が隠棲したと口碑に伝えられている。大阪府高石市の「光秀(こうしゅう)寺」門前の由来によれば、その助松庵が現在の「」の地に移転したと書かれており、門内の石碑には「明智日向守光秀公縁の寺」と書かれている。この地域に残る『和泉伝承志』によれば、本稿「山崎の戦い」に書かれている光秀とされる遺体を偽物・影武者と否定し、京都妙心寺に逃げ、死を選んだが誡められ、和泉貝塚に向かったと書かれている。光秀と泉州地域との関連では、大阪府堺市西区鳳南町三丁にある「丈六墓地」では、昭和18年(1943年)頃まで加護灯籠を掲げての光秀追善供養を、大阪府泉大津市豊中では徳政令を約束した光秀に謝恩を表す供養を長年行っていたが、現在では消滅している。
    • 光秀が愛宕百韻の際に亀岡盆地から愛宕山へ上った道のりは「明智越え」と呼ばれ、現在ではハイキング・コースになっている。
    • 本能寺の変の際、摂丹街道まで行軍していた丹波亀山城からの先陣が京都へ向かって反転した法貴峠(亀岡市曽我部町)には、「明智戻り岩」が残されている。

    出生関連

    • 岐阜県恵那市の旧明智町には、を汲んだ井戸、幼少期の学問所などがあったと伝承されている[17]

    光秀の謎

    出自

    光秀は美濃の明智氏の出身とされるが、前半生が不透明なこともあって以下の出自説が存在する。

    愛宕百韻の真相

    愛宕百韻とは、光秀が本能寺の変を起こす前に京都愛宕山愛宕神社)で開催した連歌会のことである。

    光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。また歴史研究者・津田勇の説では「五月」は、以仁王の挙兵承久の乱元弘の乱が起こった月であり、いずれも桓武平氏平家北条氏)を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされる。

    しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い(信長も和歌の教養は並々ならぬものがあり、本意を知ればただでは置かないはずである)。また、愛宕百韻後に石見国の国人・福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料[138][注釈 35]が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。

    なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある(ただし、第2句の読み手は光秀ではない)。まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長が平氏であることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。「庭」は古来、朝廷という意味でしばしば使われている。「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。したがって、この第2句は、源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。

    橋場日月は『明智光秀 残虐と謀略』の中で、第23句の「葛の葉の みだるる露や 玉ならん」の葛の葉が「裏見=恨み=不平・不満」を表す言葉であることなどに注目し、信長との方針の違いが歌に込められていると解釈した。

    本能寺の変の原因

    本能寺の変でなぜ光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されているが、確固たる原因や理由が結論として出されているわけではない。以下に現在主張されている主な説を記す。

    怨恨説
    主君の信長は短気かつ苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたという説。以下はその代表例とされるもの。
    • 信長に七盃入りの大きい盃に入った酒を強要され、下戸の光秀が「思いも寄らず」と辞退すると、信長に「此の白刃を呑むべきか、酒を飲むべきか」と脇差を口元に突き付けられ酒を飲んだとしている(湯浅常山常山紀談』)[注釈 36]
    • 同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭(禿頭の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もある)。
    • 天正7年(1579年)6月、丹波八上城に自身の母親を人質として出して、本目の城(神尾山城か)に招いた八上城主の波多野秀治秀尚兄弟や従者11人を生け捕りにして安土に移送したが、信長の刺客に襲われた秀治は殺害され、秀尚以下残った者は磔にされた。これに激怒した八上城の家臣は光秀の母親を磔にして殺害してしまった。殺害された母親の死体は、首を切断され木に縛られていたと言われる[139]
      しかしこれは他の史料とは一致せず創作である[注釈 37]。『信長公記』では光秀は八上城を前年より一年間包囲して責め立てて兵糧攻めで丹波兵を餓死させ、諦めて最後の出撃に出た敵を悉く討ち取ったとある。捕虜にした波多野兄弟3人は同年6月4日に安土の慈恩寺(現在の浄厳院の付近)の町外れで磔にされたが、既に観念して神妙な最後を遂げたとある[140]
    • 天正10年(1582年)、信長は武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城において家康を饗応した。この時の本膳料理献立は「天正十年安土御献立」として『続群書類従』に収録されている。光秀は家康の接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長に因縁をつけられて任を解かれ、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまう。この時の解釈にも諸説あり、安土大饗応の時、実は信長は光秀に対して徳川家康を討てと命じたが光秀がそれを拒否した為に接待役を免ぜられたという説、「魚(肴)が腐っている」というのは毒を入れろと言ったのになぜ入れなかったのかという信長の怒りという説、信長自らがわざわざ鷹狩の途中に立寄って材料の魚鳥を吟味したが、肉が腐っていると草履で踏み散らし、光秀が新たに用意していたところ「備中へ出陣せよ」と下知されたが、忍びかねて叛いたとしている(『常山紀談』)。
    • 中国2国(出雲国石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられたこと。(『明智軍記』)
    • 甲州征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓森成利(森蘭丸)に鉄扇で叩かれ恥をかいた(『明智軍記』)。
    • フロイスは、「人々が語るところによれば密室で信長が口論の末光秀を1、2度足蹴にした」と記している(『フロイス日本史』)。これを元に桑田忠親は著書『明智光秀』で、面目を失ったためと「本能寺の変 怨恨説」を唱えた。
    野望説
    光秀自身が天下統一を狙っていたという説。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会であった」という意見がある。高柳光寿著『明智光秀』はこの説を採用している。
    恐怖心説
    長年信長に仕えていた佐久間信盛林秀貞達が追放され[注釈 38]、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説。これは怨恨説など諸説の背景としても用いられる。
    もしくは、今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説。
    理想相違説
    信長を伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法(一向宗勢力、伊賀の虐殺等)で天下の統一事業を目指したと歴史解釈した上で、光秀は衰えた室町幕府を再興し[142]、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした、と考えたところから発生した説[注釈 39]
    この説は、光秀は信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切ったと主張する。そして光秀も自らの手でその理想を実現することは叶わなかったが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きにわたって続き、光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現されたと主張する。
    なお、光秀は自身も教養人であったが、近畿地区を統括していた関係上、寄騎大名にも名門、旧勢力出身者が多い。特に両翼として同調が期待されていた細川氏(管領家の分流)、筒井氏(興福寺衆徒の大名化)は典型であり、こうした状況もこの説の背景となっている。
    将軍指令説 / 室町幕府再興説
    光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説[143]。光秀が義昭を奉じるのは大義名分があるが、直接の指令があったのかどうかも含めて、義昭の積極的関与を示すような証拠は依然として存在しない。ただし、藤田達生は紀州の武将・土橋重治に充てた光秀直筆の書状から、光秀が本能寺の変の後に義昭を京に迎え入れ、室町幕府を再興するという明確な構想があったことを指摘している[144][145]。上記の理想相違説に通じる部分がある。
    朝廷説
    「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説。この説の前提として、天正10年(1582年)頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された安土城本丸御殿の遺構から、安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られたという意見を掲げる者もいる。
    立花京子は『天正十年夏記』等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王近衛前久がこの変の中心人物であったと各種論文で指摘している。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった『天正十年夏記』(『晴豊記』)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏の勧修寺晴豊の日記の一部であり、史料としての信頼性は高い。立花説の見解に従えば、正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実としても、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立たない。三職推任問題等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになる。
    朝廷または公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師・里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されている。ただし、立花説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、『晴豊記』の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈など問題も多い(立花は「非挙(よくない企て)」と解釈しているが、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの津田倫明、橋本政宣らの指摘がある)。
    一時期は有力な説として注目されていたが、立花が「イエズス会説」に転換した現在、この説を唱える研究者はほぼいない。
    四国説
    比較的新しい説とされ、野望説と怨恨説で議論を戦わせた高柳・桑田の双方とも互いの説を主張する中で信長の四国政策の転換について指摘している。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、天正8年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになった。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃したとする。藤田達生から光秀・元親ラインと羽柴秀吉・三好康長ラインの対立の結果だと主張されている[146]。橋場日月は、四国ルートで九州に進む光秀の構想が、秀吉の中国ルート構想に敗れたことが変を呼んだとする四国説のバリエーションを唱える。
    イエズス会説
    信長の天下統一の事業を後押しした黒幕を、当時のイエズス会を先兵にアジアへの侵攻を目論んでいたキリスト教会、南欧勢力(スペインポルトガル)とする。信長が、パトロンであるイエズス会及びスペイン、ポルトガルの植民地拡張政策の意向から逸脱する独自の動きを見せたため、キリスト教に影響された武将と謀り、本能寺の変が演出されたとする説[147]。この説には大友宗麟豊臣秀吉の同盟関係が出てくるが、他にイエズス会内の別働隊が、キリシタン大名と組んで信長謀殺を謀ったとする説も出てきている。いずれも宗教上の問題以外に硝石、新式鉄砲等の貿易の利ざやがあったとされる。しかし、イエズス会の宣教師が本国への手紙で「日本を武力制圧するのは無理です」と書いている事柄からすると、「商業主義」を政策として行っていた信長政権をイエズス会が倒すのはデメリットになる。
    この説を唱える立花京子の史料の扱い方や解釈に問題があり、歴史学界ではほとんど顧みられていない。キリシタン大名との関係では、朝廷と同じように関係を継続していこうとする光秀の考えと、信長の武力による天下統一の考え方に大きなズレが生じたとする傾向の説が出ている。

    南光坊天海説

    光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍したで、その経歴には不明な点が多い。

    異説の根拠として、

    1. 日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋[注釈 40]が象られている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数ある。
    2. 日光明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある[注釈 41]
    3. 童謡かごめかごめ』の歌詞に隠された天海の暗号が光秀=天海を示すという説[注釈 42]

    系譜

    明智氏は「明智系図」(『続群書類従』所収)によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族であるとされており、おおよそ伝記・系図類ではこの見解は一致している。ただしその詳細な系譜や近親者については史料によって相違が甚だしく、並列に扱うことが難しい。

    発祥の地は、美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市または恵那市の旧明智町)とされる。

    系図

    続群書類従』所収の「土岐系図」による。『続群書類従』所収の「土岐系図」は美濃国守護の土岐家の系図で、そこには土岐支族の系図も書かれており、明智家の系図も含まれる。頼尚以前と土岐定政の系統は『上野沼田 土岐家譜』とも共通する。

    土岐頼貞
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    頼遠
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    明智頼重1
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    光秀11
     
    土岐定政
    • 系図纂要』所収の「明智系図」では土岐頼清の系譜とされている。頼清の嫡男である頼康の子・を明智氏初代とする。その7代目の子孫が明智光継であり、その子を光綱、そしてその子が光秀とある。
    • 『明智氏一族宮城家相伝系図書』では頼清の子・頼兼を明智氏初代とし、頼重は頼兼の養嗣子であったとする。また頼弘の子が頼典となっており、頼典は後に光継と改名したという。欠落した頼定と頼尚は、それぞれ頼典の弟とその長男となっており、頼明は頼尚の弟とされる。

    父母兄弟等

    • 父親は名を光綱・光隆・光国と諸説ある。『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると光隆から光綱と改名したとされる。『明智物語』[150]では、光秀の養父は明智頼明とある。
    • 母親は若狭武田氏の出身で名をお牧の方と伝わる。『』などの軍記物では、光秀が老母を敵方へ人質に差し出す話が伝わっているが、事実かは不明。
    • 光秀に兄弟がいたとする、『鈴木叢書』収録の「明智系図」によると、次弟・信教は後の筒井順慶、三弟・康秀は三宅左馬助と号し、後に左馬助を称したという。いずれも別人の存在が明らかであり、事実との相違が甚だしい。『明智物語』では、光秀には定明、定衡の義兄がいたとある。
    • 光秀の出自を明智氏としない俗説も多い。
      • 『明智氏一族宮城家相伝系図書』では母を光綱の妹とし、実父を山岸信周(進士信周)としている。熊本県菊池市の安国寺蔵「土岐系図」でも、光秀を信周の四男としている。
      • 『若州観跡録』では、若狭国の刀鍛冶・冬広の次男としている。
      • 『明智光秀の乱』(著者:小林正信)では、明智光秀の前半生がわからないのは名前を改姓した事によるものだとして、明智光秀になり得る者を室町幕府の奉公衆の中にいる人物と断定し、僧体から還俗した進士知法師に注目した。進士氏は鎌倉時代より続く名門であり、包丁式進士流を伝える家柄で、御膳奉行を務めることでも知られている。永禄の変で死んだ足利義輝の側室で小侍従の父がであった。永禄の変で殉死した筈の進士晴舎の嫡子であるこそが明智光秀になった人物だと特定し、明智光秀の家臣では実弟で進士氏の家督を継いだとした。永禄の変で死んだ筈の妹の小侍従は明智光秀の妻である妻木氏(煕子)なり、小侍従の身籠った子供も明智光慶になったとしている。ただし同書の説はあくまで著者による憶測である。

    妻室

    正室は『明智軍記』などに記載のある糟糠の妻・妻木氏(煕子)。俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という側室がいたともある。本室の前に、山岸光信(進士光信)の娘(千草)に未婚で庶子を産ませたとする説もある[151]

    子女

    子女については俗説が非常に多い。逆に言えば、史料のしっかりした定説は存在せず、確たる証拠のある男系子孫も存在しない。後述されるように「光秀の子孫」を名乗る者が散見されるが、これもまた俗説や自称の域を出ないことに留意すべきである。光秀の書状などにより確認できる男子は「十五郎」であり、当時の史料の上で十五郎の諱は明らかではない。

    • 『鈴木叢書』所収の「明智系図」では側室の子も含めて6男7女があったとする。
      • 長女:菅沼定盈の妻 - 養女(実父・)
      • 次女:桜井家次の妻 - 養女(実父・三宅長閑)
      • 三女:織田信澄(津田信澄)の妻
      • 四女:細川忠興の妻(細川ガラシャ)
      • 五女:筒井定次の妻[注釈 46]
      • 六女:川勝丹波守の妻
      • 長男:玄琳[注釈 47] - 妙心寺に入る。
      • 次男:安古丸 - 山崎の戦いで戦死。
      • 三男:不立 - 天龍寺に入る。
      • 七女:井戸三十郎の妻
      • 四男:十内[注釈 48] - 坂本城落城の際に死亡。
      • 五男:自然[注釈 49] - 坂本城落城の際に死亡。
      • 六男:内治麻呂 - 喜多村保之(喜多村弥平兵衛)。家伝に拠れば光秀の末子で、伊賀国柘植氏分流の北村(喜多村)保光の娘の子と伝わる。のち江戸幕府の江戸町年寄。
      • 不明:定頼
    • 大阪府岸和田市にある本徳寺の開基とする南国梵桂は、一説に光秀の子とされるが定かではない。また光慶と同一人物とする説もある。
    • 宣教師ルイス・フロイスは光秀の長子のことを「非常に美しく優雅で、ヨーロッパ王族を思わせるようであった」と伝えている。
    • 自然はの茶会記で実在が確認される。
    • 「光慶」の諱は『連歌総目録』『集連』などの愛宕百韻の写本などにその名が残るが、いずれも後世の書である。

    縁戚

    叔父叔母
    • 『明智軍記』では光安、、の3人の叔父と、その家族の名がある。
    • 『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると、上記に加えて叔父・、叔母に岸信周の室、岸信周の後室、斎藤道三の室・小見の方[注釈 50]など5女があったという。
    従兄弟
    • 『明智軍記』では、光安の子に光春(秀満)、光久の子に光忠、光廉の子にがあるとする。
    • 『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると、上記に加えて光安の子に、柴田勝定の室、ほか二女があったという。

    子孫

    山崎の戦い明智家は滅んだとされるため、確証のある光秀の子孫は他家へ嫁いだ光秀の娘たちの女系子孫たちである。細川忠興へ嫁いだ珠(細川ガラシャ)の子孫は細川家の他、令和天皇家にもつながる。

    細川家

    光秀の娘、珠(細川ガラシャ)細川忠興の間に忠隆忠利、多羅(稲葉一通室)などが生まれる。

    天皇家

    明智光秀の9代後の子孫である仁孝天皇と10代後の子孫である正親町雅子の間に孝明天皇が生まれている。

    竹田家(旧皇族竹田宮家)

    織田家信勝系昌澄流

    光秀の娘と津田信澄の間に昌澄などが生まれる。昌澄は大坂の陣で豊臣方に加わるが助命され、のちに旗本となり家を残す。

    その他

    伝承、自称または創作等、落胤説・明智氏の子孫・系統不明の子孫
    • 坂本龍馬 - 坂本城に由来するという坂本家の家紋は組み合わせ角に桔梗だが、坂本姓以前の大浜姓の頃の紋は丸に田の字なので明智氏との関係はない。子孫説を広めたのは後世の作家の創作。
    • クリス・ペプラーALAN J - 兄弟どちらもタレント。母方の祖母が明智光秀の実子説がある土岐頼勝[153]の子孫。ただしこの説は自称による結論ありきの巷説・珍説でしかなく、良質の史料上では証明・確認できない。
    • - 歌手。母はイタリア系メキシコ人。
    • 明智滝朗、明智憲三郎 - 残党狩りを逃れた光秀の子・於隺丸(おづるまる)の子孫との伝承を持つ。主な著書に前者は『光秀行状記』、後者は『本能寺の変 431年目の真実』。ただし於隺丸なる人物は史料上に一切確認できない。
    • 三宅艮斎 - 蘭方医。お玉ケ池種痘所(現・東京大学医学部の起源)の開設に携わる。
    • 三宅秀 - 三宅艮斎の長男。東京大学医学部初代学部長。帝国大学医科大学長。日本初の医学博士の一人。
    • 三宅鑛一 - 三宅秀の長男。東京大学医学部教授。
    • 三宅仁 - 三宅鑛一の長男。東京大学医学部教授。

    家臣

    祭礼・イベント

    知行地

    出生伝承地

    • 光秀まつり(岐阜県恵那市の旧明智町、5月3日)[17]

    明智光秀を主題とした作品

    人形浄瑠璃歌舞伎
    戯曲
    小説
    書籍(ノンフィクション)
    • 信原克哉 『明智光秀と旅』ブックハウスHD、2005年
    映画
    テレビドラマ
    楽曲
    漫画
    テレビ番組
    舞台
    コンピュータゲーム

    脚注

    [脚注の使い方]

    注釈

    1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u ユリウス暦による。
    2. ^ 森乱丸の弟の家系である美作森家津山藩)家臣・木村昌明が記した史料。岡山大学附属図書館所蔵池田家文庫に収められている。
    3. ^ 『明智軍記』では没年が天正10年6月14日(1582年7月3日[注釈 1])の享年55。『武家聞伝記』[注釈 2]では享年70。『明智系図』(『続群書類従』第5輯下)では生年月日が享禄元年3月10日(1528年3月30日[注釈 1])、『明智一族宮城家相伝系図書』では享禄元年8月17日(1528年8月31日[注釈 1]))。これ以外の説には『細川家記』の大永6年(1526年)、また『当代記』の付記に記された67歳から逆算した永正13年(1516年)などもある[2]
    4. ^ 生年を1528年とするのは確かな根拠があるものではなく、光秀の年齢はわからないとする説もある[3]
    5. ^ 『明智物語』では天文18年(1549年)に光秀は元服前であったことが書かれている[4]
    6. ^ 漢字で書けば金柑頭(「ん」は通例読まない)で、金柑のように禿げた頭をさす一般的な表現で、特に光秀を指すわけではない。また、金華頭ともあてられることもあり、いわゆる藤原病でもある。
    7. ^ 土岐定政の父。
    8. ^ 前室・側室があったとの説もあり。
    9. ^ 土岐氏は建武の新政から美濃国で200年余り守護を務め、数十家の支族を輩出した[10]
    10. ^ 他に、明知城(現・岐阜県恵那市明智町[17]や、山県市美山出身などの伝承もある。前者は遠山氏の築城した城でもあり、後者は20世紀を下る記録は無い[18]
    11. ^ a b 『遊行三十一祖 京畿御修行記』(遊行同念の天正8年(1580年)7-8月の旅行記、随行者が記述)天正8年正月24日(1580年2月9日[注釈 1])条に、阪本城の光秀へ南都修行のために筒井順慶への紹介状を称念寺僧を使者にして依頼し、知人として「惟任方はもと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家の牢人であったが、越前国朝倉義景を頼り、長崎称念寺門前に十年居住していた。そのため称念寺使者僧とは旧情が深くて坂本にしばらく留め置かれた」と記述[21]
    12. ^ 同時代の朝廷の武士との連絡役の役職者である立入宗継の『立入左京亮入道隆左記』にも、光秀を「美濃の住人とき(土岐)の随分衆也」と記述[22]
    13. ^ 「朝倉氏滅亡時の混乱の中で光秀と縁の深い、越前にいた竹という者の面倒を見て命を救った様子の感謝と服部七兵衛を百石加増した」内容
    14. ^ ただし、信長の出兵は義昭の要請に応えた上洛軍で、和睦を破ったのはこれを阻止した斎藤側だとする研究も存在する[27]
    15. ^ 前半に永禄6年(1563年)正月〜翌年2月頃の奉公衆、後半に永禄9年(1566年)8月〜翌年10月頃の奉公衆を列挙したもので、後半は足利義昭が編纂を命じたものという説がある[34]
    16. ^ 「一僕の身」は中世から江戸時代にかけての慣用句で、小身の「一人奉公」の侍を貶めた言い方である[40]
    17. ^ 『』所収一色藤長書状による[43]
    18. ^ 『年代記渉節』に公方衆として記載している[49]
    19. ^ 『明智家法』については長く福知山の御霊神社にしか伝えられておらず偽文書説が有力であったが、平成8年(1996年)に同じものが尊経閣文庫から発見されたことから真書説が有力となり、確定したと断定する記述もある[83]。しかし、その一方で『明智家法』に書かれた軍の編成が江戸時代のものに酷似していることから、山本博文や堀新のように依然として偽文書説を採る研究者もおり、その根拠として「戦国期の主要な兵器である弓に関する編成の規定がない」「当時の軍法の基本的な規定である『(戦闘時の)抜け駆け禁止』や家臣の従者の統制に関する規定がない」「制定日が本能寺の変のちょうど1年前という不自然さ」などを挙げている。堀は光秀の名誉回復の動きがあり『明智軍記』が編纂された17世紀後半の制作の可能性を指摘している[84][85]
    20. ^ 茶室の床の間は貴人の座の象徴である[86]
    21. ^ 「御ツマキ」が、実妹か義妹かは、論が分かれる。また苗字ならなぜ「御」が付くのか、「妹御」の誤りか[88]、名前と間違えたのか、などの疑問も言われる [89]
    22. ^ 『兼見卿記』天正6年(1578年)6月14日、信長祇園会見物の日に「妻木所」へ「台の物、肴色々・2つの瓶を使者に持ち遣わした」。天正7年4月18日条に、「妻木惟向州(光秀)妹が参詣するときの生理事のことを、書状で尋ねてきたので回答した」。また、同年9月25日条には「惟任姉妻木が在京の時に双瓶と食物を籠に入れて持参したが他の用で不在で「女房館」へ渡し帰る」とある[90]。さらに『言経卿記』天正7年5月2日条で「父言継の死去に伴う信長への挨拶の際に近所の女房衆のツマキ・小比丘尼・御ヤヽへ帯2本を進物する」
    23. ^ 妹がもしも妻木なら、光秀の本姓も土岐明智でなく土岐妻木であった可能性がある[88]。妻木家から明智家に養子入りした仮説もありうる[89]
    24. ^ 利治は病で加治田城において静養していると考えていたようである。
    25. ^ 「班久勇武記するに遑あらず且諸記に明らけし、終に忠志を全ふして天正十壬午六月二日未刻、京師二条城中において潔く討死して、君恩を泉下に報じ、武名を日域に輝かせり」
    26. ^ 実弟・山岡景猶が光秀の寄騎近江衆の一員であった。
    27. ^ 場所は小栗栖あるいは本経寺付近の竹薮、または醍醐か山科と当時の各日記でも場所は分かれている。
    28. ^ 8日浅野長政宛て秀吉書状でも「明智め山科の藪の中へ逃れ入り、百姓に首をひろわれ申し候」としている(『浅野家文書』)[103]
    29. ^ 「明智が信長を殺した頃、津の国の殿たちや主だった武将らは毛利との戦いに出陣していたから、同国の諸城の占領をすぐに命じなかったのは、明智が非常に盲目であったからで、彼の滅亡の発端であった。それらの諸城は、信長の命令によってほとんど壊された状態にあり、しかも兵士がいなかったので、500名あまりの兵をもって、人質を奪い、彼らを入城せしめることは、彼にとって容易な業だったはずである」「明智は勘違いして、(高山)右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていたからである。そこで彼はジュスタ(右近の妻)に対して、心配するには及ばない、城はあなたのものだ、と伝えさせた。高槻の人たちは、彼に美辞麗句をもって答えた。それは時宜に処した偽りのものであったが、明智はそれを聞いて無上に喜び、人質を要求しようともせず、また同様の目的で、我々(イエズス会員)に手出しすることもなかった。しかもジュストが敵になった後においてさえ、その態度は変わらなかった。彼は、信長がかつて荒木(村重)に対して行ったことを知っていたし、そのようなことを彼はなすことができ、高槻の人々をなんら苦労しないで捕らえ得たはずであった。彼の都地方の全キリシタンが明智が死ぬまで抱いていた最大の苦悩と心配の一つは、もしかすると、明智は、我々を人質として捕らえはしまいかということであった」[112]
    30. ^ 亀岡市は亀山城の城下町。伊勢亀山との混同を避けるため、明治2年(1869年)に改称した。
    31. ^ この系図は江戸時代の物で、しかも美濃多羅(現・岐阜県大垣市)が、まったく明智に縁が無い土地で、しかもこの系図の人物は研究が進んでいるが「明智」の土地を伝領した形跡がなく、信用できないとの指摘がある[128]
    32. ^ 江戸時代に起きた「越後騒動」で自害したの辞世の偈「五十余年夢 覚来帰一元 載籤離弦時 清響包乾坤」を真似た偽作との説もある。
    33. ^ 天野信景の随筆集。元禄元年(1688年)刊。
    34. ^ 著、宮部書房、大正4年(1915年)
    35. ^ 支援を求める内容ではなく、「光秀は信長の上洛の日程をあらかじめ把握していた」と読み解くことができる、すなわち突発的な襲撃ではない、と推測することもできる、そのような史料である。また、この数日後に同じ使者が美濃の西尾氏に送られている。この距離の移動は現実的ではないため、どちらかの書状が日付に誤り、もしくは偽文書である可能性がある。
    36. ^ 『フロイス日本史』およびフロイスの書簡には「信長は酒は飲まない」と記されている事や、この逸話を記している『柏崎物語』では本能寺l変の1ヶ月前の出来事としており、柴田勝家が同席している描写があるのだが、当時、勝家は北陸前線で釘付けの状態であり、酒宴に参加できる状態ではなかった。こうした事などから、疑問視する声もある。(二木謙一など)
    37. ^ 前の話は『絵本太功記』などによる創作とされる。
    38. ^ 光秀の讒言であったとの説がある[141]
    39. ^ この説には信長の大艦隊による海外進出計画も根拠として用いられる。
    40. ^ 内側の花が桔梗で明智光秀を表していると解釈して、光秀=天海説の根拠の一つとされることがある。ただし、桔梗紋の花弁と木瓜紋等に用いられる唐花とは花弁先の尖り具合が異なり、随身像の紋は桔梗紋というよりは木瓜紋の唐花に近い。
    41. ^ 天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある[148]
    42. ^ 光秀の出身地である岐阜県可児市から天海の廟所がある日光の方向を向くと「後ろの正面」が日本で唯一明智光秀の肖像画を所蔵している本徳寺(元は現在の大阪府貝塚市鳥羽にあった海雲寺が、岸和田藩主岡部行隆の命で現地に移され、寺号も本徳寺と改められた。)がある大阪府岸和田市貝塚市)になる[149]
    43. ^ 『明智軍記』では当初より光春の室としているが、『綿考輯録』では元は荒木村安の室で、荒木氏没落の際に離縁し、光春に再嫁したという。
    44. ^ 愛宕百韻」でも名前が見られ、実在の人物であると言われる。
    45. ^ 光秀滅亡の際に死亡したとされているが、岐阜県山県市に伝わる伝承では荒深氏を称し、荒深小五郎と名を変え生き延びた光秀とともにこの地に土着したという。
    46. ^ 一説に織田信長の三女・秀子と同一人物とされる。
    47. ^ 『明智軍記』における光慶と同人とする説もある。また安国寺蔵「土岐系図」では、(同系図では光秀の実兄)の後身とする。
    48. ^ 経歴は『明智軍記』における十次郎と、明智光春のものを混同している。
    49. ^ 『明智軍記』における十次郎の幼名。
    50. ^ 濃姫姉小路頼綱の室の生母
    51. ^ 複数の主君に仕えたが、山崎の合戦では明智方の将として福島正則の隊に捕縛された記録が残る。
    52. ^ シェイクスピアの『マクベス』を翻案とし、本邦初の歌舞伎新劇の合同公演にて上演。四幕七場。初演は1957年8月、東横ホール。出演は八世松本幸四郎一座と文学座
    53. ^ 池波正太郎のオリジナル脚本による映画化で、『絵本太功記』や『明智軍記』の数々のエピソードを組み入れて構成した大作。
    54. ^ タイトルに『太閤記』となっているが、主人公は光秀。光秀と秀吉(間寛平)が幼馴染で、出世を重ねる秀吉に信長(オール巨人)が自らの地位を脅かされる危惧し、秀吉を夜襲する計画を立てる。最後は、事前にその計画を察知した光秀が秀吉を守るために信長を討つという新たな設定・展開に基づく喜劇。

    出典

    1. ^ a b c d e 早島 2016, p. 173.
    2. ^ 谷口克広『信長と消えた家臣たち』中央公論新社、2007年。ISBN 978-4-12-101907-3
    3. ^ a b c 高柳 1958.
    4. ^ 関西大学中世文学研究会編 『明智物語』 和泉書院、1996年、13頁。 
    5. ^ 続群書類従』 明智系図
    6. ^ 近藤瓶城編 国立国会図書館デジタルコレクション 『義残後覚』 第7巻 近藤出版部〈続史籍集覧〉、1930年、24頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1259252/17 国立国会図書館デジタルコレクション 
    7. ^ 『義残後覚』天保15年 国文学研究資料館
    8. ^ 盛林寺(京都府宮津市喜多)
    9. ^ 天竜寺(日本一184mの位牌)、首塚石碑
    10. ^ a b c d 谷口研 2014, pp. 15, 30-33, 82-83.
    11. ^ a b c d e 桑田 1983.
    12. ^ 柴(総論) 2019, pp. 9.
    13. ^ 編者は津山藩士のとされる。後に『森家先代実録』の原史料にもなった。
    14. ^ 柴(総論) 2019, pp. 8.
    15. ^ 橋場日月『明智光秀 残虐と謀略』〈祥伝社新書〉、2018年。ISBN 978-4-396-11546-3
    16. ^ 小和田 1998, pp. 20-21.
    17. ^ a b c 明智光秀公ゆかりの地公益財団法人日本大正村(2019年1月20日閲覧)。
    18. ^ 小和田 1998, pp. 19-21.
    19. ^ 明智光秀、出生地の通説に異論 鍵を握る一族の口伝とは 来年大河ドラマで注目2019年12月28日京都新聞(2018.12.28access)
    20. ^ 【be report】明智光秀、出生地伝説が続々/産湯の井戸は4ヵ所も、深まる謎『朝日新聞』be(土曜日朝刊別刷り)2019年4月27日・4面、2019年6月17日閲覧。
    21. ^ 谷口研 2014, pp. 34-35.
    22. ^ 谷口研 2014, p. 14.
    23. ^ 高柳 1958, pp. 14-16.
    24. ^ a b c 早島 2016, pp. 173-174.
    25. ^ a b NHK NEWS WEB - “明智光秀は医者だった?” 古文書公開 熊本県立美術館 2020年1月9日 18時59分”. 2020年1月10日閲覧。
    26. ^ 細川ガラシャ展実行委員会編 『細川ガラシャ展』 熊本県立美術館、2018年8月4日、34頁。 
    27. ^ 村井祐樹「幻の信長上洛作戦」『古文書研究』第78号、2014年。
    28. ^ 小和田 1998, pp. 49-50.
    29. ^ a b 高柳 1958, pp. 6-9, 20.
    30. ^ 小和田 1998, pp. 47-48.
    31. ^ 桑田 1983, p. 47.
    32. ^ 富加町史編集委員会 1980.
    33. ^ 小和田 1998, p. 46.
    34. ^ 長節子「所謂『永禄六年諸役人附』について」『史学文学』4巻1号。
    35. ^ 藤本 2010, p. 48.
    36. ^ 柴(総論) 2019, pp. 8-9.
    37. ^ 小林正信『明智光秀の乱』里文出版、2014年、154頁。
    38. ^ 小林正信『明智光秀の乱』里文出版、2014年、134頁。
    39. ^ a b 金子拓『『信長記』と信長・秀吉の時代』 P.214 収載『太田牛一旧記』P.310-312 勉誠出版 2012年
    40. ^ 藤木久志『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』〈朝日選書〉、2005年、116-117頁。
    41. ^ 谷口克 2005.
    42. ^ 谷口克 2002, pp. 78-82.
    43. ^ 藤本 2010, p. 51.
    44. ^ 谷口研 2014, pp. 69-72.
    45. ^ 小和田 1998, pp. 74-76.
    46. ^ 柴辻俊六「明智光秀文書とその領域支配」『織田政権の形成と地域支配』戎光祥出版、2016年、181-187頁。ISBN 978-4-86403-206-3
    47. ^ 小和田 1998, pp. 69-70.
    48. ^ 柴 2018, pp. 32-34.
    49. ^ 高柳 1958, p. 69.
    50. ^ 谷口克広『信長と将軍義昭』中央公論新社、2014年、136-149頁。
    51. ^ 歴史読本編集部 2014, 早島大祐「第1部「徹底追跡!明智光秀の生涯」"幕府官僚伊勢家を家臣団におさめる"」.
    52. ^ 谷口克広『信長の天下所司代』中央公論新社、2009年、53-54頁。
    53. ^ 谷口研 2014, pp. 113-117.
    54. ^ 谷口研 2014, p. 100.
    55. ^ 『福井県史』通史編3 近世1「織田信長と一向一揆 信長と越前支配」信長の本知安堵北庄三人衆「福井県文書館」HP 2015年3月7日閲覧
    56. ^ a b c 早島 2016, p. 178.
    57. ^ 柴(総論) 2019, pp. 19-20.
    58. ^ 藤本正行『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』洋泉社、2010年、54頁。
    59. ^ 柴(2019総論) 2019, p. 20-21.
    60. ^ 大槻(柴) 2019, p. 155-156.
    61. ^ 仁木(柴)) 2019, p. 203-207.
    62. ^ 仁木(柴)) 2019, p. 207.
    63. ^ 柴(2019総論) 2019, p. 22-23.
    64. ^ 大槻(柴) 2019, p. 156.
    65. ^ 仁木(柴)) 2019, p. 208-209.
    66. ^ 仁木(柴)) 2019, p. 209-210.
    67. ^ 早島 2016, p. 181.
    68. ^ 谷口研 2014, pp. 128-129.
    69. ^ 仁木(柴)) 2019, p. 210-211.
    70. ^ 仁木(柴)) 2019, p. 213-214.
    71. ^ 仁木(柴)) 2019, p. 214.
    72. ^ 仁木(柴)) 2019, p. 217.
    73. ^ 田端 2004, p. 88.
    74. ^ 米原 2000, p. 87, 宮本義己「細川幽斎・忠興と本能寺の変」.
    75. ^ 米原 2000, p. 88, 宮本義己「細川幽斎・忠興と本能寺の変」.
    76. ^ 柴(2019総論) 2019, p. 23.
    77. ^ 大槻(柴) 2019, p. 172.
    78. ^ 仁木(柴)) 2019, p. 218.
    79. ^ 谷口克 2002, pp. 188-194.
    80. ^ 谷口克 2005, pp. 204-206.
    81. ^ 谷口克 2005, p. 204.
    82. ^ 小和田 1998, pp. 134-136.
    83. ^ 藤田達生「織豊期大名軍制と交戦権」『織豊期研究』10号(2008年)
    84. ^ 山本博文『続日曜日の歴史学』(東京堂出版、2013年)
    85. ^ 堀新「明智光秀〈家中軍法〉をめぐって」(初出:山本博文 編『法令・人事から見た近世政策決定システムの研究』(2015年)/柴裕之 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第八巻 明智光秀』(戒光祥出版、2019年)ISBN 978-4-86403-321-3) 2019年、P300-319.
    86. ^ 『角川茶道大辞典』
    87. ^ 歴史読本編集部 2014, 桐野作人「"文化人"としての光秀」.
    88. ^ a b 谷口研 2014, p. 217.
    89. ^ a b 桐野作人ブログ「膏肓記」2007年3月15日コメント2018年5月12日閲覧
    90. ^ a b 谷口研 2014, pp. 215-217.
    91. ^ 勝俣鎮夫 2003, pp. 3-4.
    92. ^ 歴史読本編集部 2014, 早島大祐「第1部「徹底追跡!明智光秀の生涯」"本能寺の変への道"」.
    93. ^ 谷口克 2007, pp. 42-48.
    94. ^ 谷口克 2007, p. 65.
    95. ^ 小和田 1998, p. 214.
    96. ^ 高柳 1958, pp. 223-229.
    97. ^ 米原 2000, p. 95, 宮本義己「細川幽斎・忠興と本能寺の変」.
    98. ^ 高柳 1958, pp. 244-245.
    99. ^ 谷口研語『「地形」で読み解く日本の合戦』PHP文庫 2014年、 pp.157-160
    100. ^ a b 小和田 1998, pp. 230-231.
    101. ^ 高柳 1958, pp. 249-250.
    102. ^ a b 高柳 1958, pp. 250-251.
    103. ^ a b c 谷口研 2014, pp. 202-207.
    104. ^ 藤本 2010, p. 222.
    105. ^ 谷口研 2014, pp. 204-205.
    106. ^ 『続群書類従』所収
    107. ^ 高柳 1958, p. 272.
    108. ^ 小和田 1998, pp. 75-76.
    109. ^ 高柳 1958, pp. 272, 287-288.
    110. ^ 小和田 1998, p. 86.
    111. ^ 小和田 1998, pp. 84-86.
    112. ^ 『完訳フロイス日本史3』・第58章(第2部43章)
    113. ^ 高柳 1958, pp. 251-252.
    114. ^ 鈴木眞哉; 藤本正行 『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変謀略説を嗤う』〈洋泉社新書y〉、2006年。 
    115. ^ 小和田 1998, pp. 210-211.
    116. ^ 高柳 1958, pp. 243-244.
    117. ^ 立花京子「明智光秀花押の経年変化と光秀文書の年次比定」、『古文書研究』46号、1997年。
    118. ^ 谷口研 2014, pp. 217-220.
    119. ^ 歴史読本編集部 2014, 桐野作人「"文化人"としての光秀」(研究引用元は竹本千鶴『織田政権における茶の湯』)
    120. ^ 谷口研 2014, pp. 320-324.
    121. ^ 桑田 1983, pp. 230-231.
    122. ^ 桑原三郎「明智光秀の民政」(初出:『社会経済史学』7-11(1938年)/柴裕之 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第八巻 明智光秀』(戒光祥出版、2019年)ISBN 978-4-86403-321-3) 2019年、P241-245.
    123. ^ 宮本義己「絶頂期への軌跡-天下の面目をほどこし候-」『俊英 明智光秀』学習研究社〈歴史群像シリーズ【戦国】セレクション〉、2002年。
    124. ^ “20年大河、長谷川博己さんが明智光秀役「麒麟がくる」”. 朝日新聞. (2018年4月19日). https://www.asahi.com/articles/ASL4M4WB4L4MUCVL01R.html 2019年5月13日閲覧。 
    125. ^ “大河ドラマわが町に 誘致準備会発足 長岡京など7市”. 京都新聞 (京都新聞社). (2010年11月20日). オリジナルの2010年11月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20101122223325/http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20101120000042 
    126. ^ “光秀とガラシャの大河ドラマ実現へ 7市町が協議会”. 『京都新聞』 (京都新聞社). (2011年3月29日). オリジナルの2011年4月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110401150553/http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20110329000054 
    127. ^ NHK大河ドラマ誘致推進協議会ホームページ 2015年1月24日確認
    128. ^ 谷口研 2014, pp. 18-19.
    129. ^ 「明智光秀生誕の地 上石津」PR事業について岐阜県大垣市(2018年11月16日)2019年1月20日閲覧。
    130. ^ 『俊英 明智光秀』学習研究社〈歴史群像シリーズ【戦国】セレクション〉、2002年、74頁。
    131. ^ 柴 2018, p. 116.
    132. ^ 天野信景随筆集『塩尻』
    133. ^ 山口幸充『嘉良喜随筆』、中山三柳『醍醐随筆』
    134. ^ 『』六編巻之十五「明智光秀坂本へ帰る事」
    135. ^ a b c 歴史読本編集部 2014, 室井康成「明智光秀の「首塚」- その伝承が語る人間像」
    136. ^ 谷性寺
    137. ^ 小林正信『明智光秀の乱』里文出版、2016年[要ページ番号]
    138. ^ 「福屋金吾旧期文書」『阿波国古文書 三』
    139. ^ 湯浅常山国立国会図書館デジタルコレクション7 『常山紀談』 巻之1-8巻 三教書院〈袖珍文庫 ; 第30編〉、1911年、205頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778092/119 国立国会図書館デジタルコレクション7 
    140. ^ 『信長公記』 巻12 天正7年 6月4日
    141. ^ 佐久間軍記』『寛政重修諸家譜
    142. ^ 密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ”. 『毎日新聞』 (2017年9月12日). 2017年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年9月13日閲覧。
    143. ^ 藤田達生『本能寺の変の群像』雄山閣出版、2001年。
    144. ^ 本能寺の変、目的は室町幕府の再興だった? 明智光秀直筆の書状から分析”. ねとらぼ (2017年9月12日). 2017年9月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年9月13日閲覧。
    145. ^ 本能寺の変後、光秀の直筆手紙 紀州の武将宛て”. 『朝日新聞』 (2017年9月12日). 2017年9月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年9月13日閲覧。(有料記事のため全文閲覧は出来ません)
    146. ^ 藤田達生 「織田信長の東瀬戸内支配」、小山靖憲編 『戦国期畿内の政治社会構造』 和泉書院、2006年。 
    147. ^ 立花京子『信長と十字架 ―「天下布武」の真実を追う―』集英社、2004年。
    148. ^ 日光観光協会編 「明智平」 『日光パーフェクトガイド』 下野新聞社、1998年3月30日。ISBN 4-88286-085-6http://www.nikko-jp.org/perfect/chuzenji/akechidaira.html2012年4月19日閲覧 
    149. ^ 西塚裕一『陰謀と暗号の歴史ミステリー』笠倉出版社、2008年。
    150. ^ 関西大学中世文学研究会編 『明智物語』 和泉書院、1996年、134頁。 
    151. ^ 黒川真道 国立国会図書館デジタルコレクション 『美濃国諸旧記・濃陽諸士伝記』 国史研究会〈国史叢書〉、1915年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948838/96 国立国会図書館デジタルコレクション 
    152. ^ 番組公式サイトより
    153. ^ 史実では土岐頼次の長男。頼次の玄孫である高家旗本土岐頼泰が泥酔傷害事件を起こし、日頃の不行状も含めて改易配流処分し断絶
    154. ^ “2020年NHK大河ドラマ 明智光秀主人公「麒麟がくる」主演は長谷川博己、脚本は池端俊策氏”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2018年4月19日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/04/19/kiji/20180419s00041000217000c.html 2018年4月19日閲覧。 

    参考文献

    • 小泉策太郎『明智光秀』、裳華書房、1897年※近代デジタルライブラリー
    • 奥村恒次郎『明智光秀』、国立国会図書館、1910年※近代デジタルライブラリー
    • 高柳光寿『明智光秀』日本歴史学会、吉川弘文館〈人物叢書1〉、1958年。ASIN B000JATNXQ
    • 高柳光寿、日本歴史学会編『新装版明智光秀』、吉川弘文館(人物叢書日本歴史学会編集)、1986年、299p
    • 桑田忠親『明智光秀』講談社〈講談社文庫〉、1983年。ASIN B00ORO650Y
    • 青木晃[ほか]編『畿内戦国軍記集(和泉選書 ; 39)』、和泉書院、1989年、238p - 年代記・軍記の4作品を影印・翻刻により紹介している書。明智光秀叛逆の原因からその遺骸のはりつけまでを述べた「山崎合戦記」(聖藩文庫本)を収録。
    • 小和田哲男『明智光秀 つくられた「謀反人」』PHP研究所〈PHP新書〉、1998年。ISBN 978-4-56-960109-0
    • 永井寛『明智光秀』、三一書房、1999年
    • 勝俣鎮夫「織田信長とその妻妾」『愛知県史のしおり』愛知県〈愛知県史 資料編11〉、2003年。
    • 谷口克広『織田信長合戦全録 - 桶狭間から本能寺まで』中央公論新社〈中公新書〉、2002年。ISBN 978-4121016256
    • 藤田達生『謎とき本能寺の変』講談社〈講談社現代新書#1685〉、2003年、200頁。
    • 谷口克広『信長軍の司令官―部将たちの出世競争』中央公論新社〈中公新書〉、2005年。ISBN 4-12-101782-X
    • 『歴史群像 No.70』、学研、2006年- 史伝 明智光秀
    • 谷口克広『検証 本能寺の変』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー232〉、2007年。ISBN 978-4642056328
    • 藤本正行『本能寺の変〜信長の油断・光秀の殺意〜』洋泉社〈歴史新書y 9〉、2010年。ISBN 978-4862486387
    • 谷口研語『明智光秀』洋泉社〈歴史新書y〉、2014年。ISBN 978-4800304216
    • 早島大祐「明智光秀の居所と行動」『織豊期主要人物居所集成 第2版』思文閣出版、2016年。ISBN 978-4784218332
    • 『図説 明智光秀』戎光祥出版、2018年。ISBN 978-4864033053
    • 柴裕之『第八巻 明智光秀』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究〉、2019年。ISBN 9784864033213
      • 柴裕之「惟任(明智)光秀論」『第八巻 明智光秀』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究〉、2019年。ISBN 9784864033213
      • 大槻昌行「明智光秀の丹波平定」『第八巻 明智光秀』柴裕之、戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究〉、2019年。ISBN 9784864033213(初出:『福知山市史』第2巻近世編第一章第二節、1982年)
      • 仁木宏「明智光秀の丹波統一」『第八巻 明智光秀』柴裕之、戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究〉、2019年。ISBN 9784864033213(初出:『新編亀岡市史』本文編 2 第三章第一節、2004年)
    • 歴史読本編集部編 『ここまでわかった!明智光秀の謎』 KADOKAWA〈新人物文庫〉、2014年。ISBN 9784046010315 
    • 田端泰子 『細川ガラシャ』 ミネルヴァ書房、2004年。ISBN 978-4823105289 
    • 米原正義編 『細川幽斎・忠興のすべて』 新人物往来社、2000年。 

    外部リンク


     

     

    【Twitterを使って感想を簡単に書けます!】
     
    下のボタンを押して「記事の感想: 」の後に書いてツイートするだけ!その際、最初から入力されているものは消さずに、URLには文章がつながらないよう感想の後にスペースを入れて下さい。
     
    PORTALFIELD News公式アカウントでも、ご感想を拡散(フォロー・いいね・リツイート)します。ツイート後、ご自分で拡散したり削除などはご自由ですのでお気軽に感想をお寄せ下さい!皆さまのご協力をお願い致します。
    Twitterに寄せられた、この記事への感想ツイートを見ることができます。
    Back to Top
    Close