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🍴|【弘前市】33年ぶりの御開帳「五國山 観音院 久渡寺」


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【弘前市】33年ぶりの御開帳「五國山 観音院 久渡寺」

 
内容をざっくり書くと
(拝観料1000円)また、御開帳を記念して四国八十八箇所霊場のお砂踏み巡礼も体験できます。
 

NO.157 カテゴリー: おでかけ 【弘前市】33年ぶりの御開帳「五國山 観音院 久渡寺」[ 五國… →このまま続きを読む

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四国八十八箇所

四国八十八箇所(しこくはちじゅうはっかしょ、四国八十八ヶ所[注釈 1]とも表記される)は、四国にある空海(弘法大師)ゆかりの88か所の仏教寺院の総称で、四国霊場の最も代表的な札所である。他に「八十八箇所」「お四国さん」「本四国」などの呼称がある。四国八十八箇所を巡礼(巡拝)することを四国遍路遍路といい、また四国八十八ヶ所霊場会では「四国巡礼」といい、他に「四国巡拝」などともいう。俳句では春の季語となり、地元の人々は巡礼者を「お遍路さん」と呼ぶ。また、札所に参詣することを「打つ」(「納札」で後述)、巡礼に親切にすることを「お接待」と表現する。

阿波国(現・徳島県)の霊場は「発心の道場」で23か寺、土佐国(現・高知県)の霊場は「修行の道場」で16か寺、伊予国(現・愛媛県)の霊場は「菩提の道場」で26か寺、讃岐国(現・香川県)の霊場は「涅槃の道場」で23か寺が、88の霊場寺院の内訳である。寺院には長い歴史の中で栄枯盛衰があり、選定された時点では88の寺院はいずれも札所として遜色のない立派な伽藍であったであろうが、戦乱や火災により衰退の時期もあった。現在はそうした寺院も復興を果たしている。

2015年(平成27年)4月24日には、日本遺産の最初の18件の一つとして「四国遍路ー回遊型巡礼路と独自の巡礼文化」が文化庁により認定された。2019年10月29日には、同庁により「歴史の道百選」に「四国遍路」が選ばれた[注釈 2]

概要

四国八十八箇所は単に88の寺院の総称ということだけでなく、室町時代以降に定められたとみられる88の寺院と急峻な山や深き谷を巡り、その間にある仏堂を残らず巡る488修行のことであり、江戸時代頃から一般庶民も巡礼するようになってからは現生利益を求めて88の寺院を巡る300有余里の札所巡拝のことである[1]。また、江戸時代頃から西国三十三所観音霊場、熊野詣善光寺参りなど庶民の間に巡礼が流行するようになり、そのうちの一つが四国八十八箇所である。これを模して全国各地に大小様々な八十八箇所の巡礼地が作られた。これらは「移し」または「写し」とも呼ばれ、「新四国」と掲げる霊場もあるように、四国八十八箇所隆盛の証左ともいわれている。その具体例は下記の地四国・島四国・新四国の項に記述する。

霊場寺院を結ぶ歩き道を遍路道といい、八十八箇所を通し打ち(後述)で巡礼した場合の全長は1100[2] - 1400km程である。距離に幅があるのは遍路道は一択ではなく、選択する道により距離が変動するためである。自動車を利用すると、打ち戻りと呼ばれる来た道をそのまま戻るルートや遠回りのルートが多いので、徒歩より距離が増える傾向にある。一般的に、全ての札所を徒歩で巡拝する歩き遍路[注釈 3]の場合は40日程度、自動車や団体バスによる車遍路では8日から11日程度で一巡できる。さらに、高速道路の整備により、最短で巡拝する者は6日で一巡する。

巡拝方法

遍路は順番通り打たなければならないわけではなく、各人の居住地や都合により、どの寺から始めてもよく、移動手段や日程行程なども様々である。一度の旅で八十八箇所の全て廻ることを「通し打ち」、何回かに分けて巡ることを「区切り打ち」といい、区切り打ちのうち阿波、土佐、伊予、讃岐の4つに分けて巡礼することを特に「一国参り」という。また、順番どおり廻るのを「順打ち」、逆に廻るのを「逆打ち」という。近年は順序にこだわらず打つことを「乱れ打ち」という。一般的には順打ちによる道案内がなされており、逆打ちは道に迷うといった苦労も多いため多くの御利益があるともいわれていたが[3]、現在はどちらからでも見やすいように標識が設置され、さらにカーナビゲーションの普及によりどこからでも回れるようになっている。俗説によれば、巡錫中の弘法大師に無礼を働いた伊予の豪商衛門三郎が大師に許しを請うため遍路に出たが、20回以上順打ちで巡礼しても追い付けず、閏年申年に逆回りを試して出会えたという伝承がある[3]。このため、閏年の逆打ちは御利益が3倍あるとの考えから、閏年には逆打ちが平年に比べ多くなるといわれ、逆打ちのツアーを組んでいる旅行会社もある[3][注釈 4]。 なお、故人は命日より七日ごとに閻魔大王から裁きを受け四十九日に結論が出ると云われるが、極楽へ行けなかったとき、もう一度最後に裁かれる百箇日のため、残された者が四十九日と百箇日の間に追善供養の遍路をとの考え方がある。

参拝方法

遍路(巡拝者)は札所に到着すると、およそ決められた手順(宗派や指導者によって多少異なる)に従って参拝する。それは、山門前で合掌礼拝一礼し、手水舎でお清めをしたのち[注釈 5]、表示などで可能であれば鐘楼堂にて梵鐘を一回突く(参拝後には突かないこと)。そして、本堂において燈明・線香賽銭奉納をして納札(おさめふだ、後述)を納める、また、写経を納めることもある。続いて般若心経本尊真言、大師宝号などの読経を行い、祈願する。次は大師堂に向い燈明・線香・賽銭奉納をして納札を納め、般若心経や大師宝号などの読経を行い、祈願する。なお、最近は唱える者は希になったが本堂では寺の御詠歌を、大師堂では弘法大師の御詠歌を唱える。

その後、境内にある納経所にて、持参した納経帳や掛軸白衣に、札番印、宝印、寺号印の計3種の朱印と、寺の名前や本尊の名前、本尊を表す梵字の種字などを墨書してもらい、各寺の本尊が描かれた御影(おみえ)を頂き、納経料を支払う。この一連の所作を納経という。なお、納経帳への納経は一人につき1冊で、同時に掛け軸も1幅、白衣も1着ずつであり、一日に一度限りである(翌日以降なら可能)。白地に黒印字の御影は漏れなく頂けるが、カラー御影は、別途有料で販売している。 最後は山門前にて合掌礼拝一礼し、次の札所へのお参りとなる。

八十八箇所を全て廻りきると「結願(けちがん)」となり、どの札所から初めてもよいので88番目の札所が結願寺となる。その証明書を任意(いずれも有料)で作ってくれる札所があり、88番の大窪寺と43番の明石寺では「結願」の証、75番の善通寺では「満願」の証、1番の霊山寺では「四国八十八ヶ所霊場満願之証」である。また、納経帳に、讃岐国分寺では「願行成満」、白峯寺では「大願成就」と記帳してもらえる。その後、お礼参りとして結願寺から高野山奥の院御廟に詣でて、全ての札所を参ることができたことを弘法大師に報告・感謝をして満願成就となる。これは特に定められたものでないものの、納経帳や掛軸に高野山奥の院の項があるので参拝して納経するのが一般的である。さらに、東寺(教王護国寺)に足を伸ばせば「成満証」を希望により(有料)作ってもらえる。なお、諸般の事情で高野山に行けない場合、88番の大窪寺を参拝の後、阿波北岸十ヶ寺(10番切幡寺から1番霊山寺)を逆打ちで参拝してお礼参りの代わりとするすべもある。

歴史

修行の地・四国

古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。

四国遍路の成立

信仰上は、空海が42歳の厄年弘仁6年(815年)に四国霊場を開創したとされているが、史実ではない。ほかに、空海死後に弟子の真済(800-860年)が遺跡を巡拝したとあるが、伝承の域である。その後、平安時代末期に『今昔物語集[注釈 6]や『梁塵秘抄[注釈 7]に四国辺地修行したことを記載する。聖宝(832-909年)や重源(1121-1206年)も四国で辺地修行をし、西行は1167年に崇徳上皇を祀った白峯御陵(白峯寺)参拝をしているが、成立している形跡はない。 鎌倉時代に入ると、(1178-1252年)が『南海流浪記』に、空海遺跡を参拝したことが書かれており、一遍(1239-1289年)も遺跡を廻ったことを記載する。これらは断片的で、全体としての成立がなされていないことを示している。室町時代になると僧侶の修行としての巡拝だったのが、庶民にも広がったと云われている。[4] なお、1350年前後に善通寺を再興した宥範が、また、道隆寺天皇寺の住職を務め四国の多くの社寺を復興した増吽(1366-1452年)が四国遍路の成立や88箇所の選定に関わっている可能性がある。誰だったにしろ、弘法大師が88箇所を定めたと空海に仮託し、自らの名を残していない。

「辺路」の初出は、弘安年間(1248-1288年)の醍醐寺文書で「四国邊路、三十三所諸国巡礼」と記されている。また、永正10年(1513年)80番国分寺に「四国中辺路同行二人」の落書きが残されている。

戦国時代長宗我部元親による四国平定の戦(1578年頃より)から豊臣秀吉軍による四国攻め(1585年)までの一連の戦で、阿波の札所16箇寺、伊予の札所8箇寺、讃岐の札所14箇寺[注釈 8]が壊滅的な影響を受けたことが伝えられ、それから、数十年後に訪れた澄禅承応2年(1653年)に巡拝した記録『四國辺路日記』[注釈 9]に、徳島の数箇所において、復興が遅れ「礎のみ残り」「小さな草堂」と表現される寺院でも札所であることから、戦国時代以前から札所として選ばれていたと思われる。

江戸時代初期になると、賢明の寛永15年(1638年)に巡拝した記録『空性法親王四国霊場御巡行記』には、現在とほぼ同じ札所がほぼ同じ順番[注釈 10]で記されている。澄禅の日記(1653年巡拝)には、井戸寺からスタートしたものの[注釈 11]文中に「大師は阿波の北分十十ケ所、霊山寺を最初にして阿波土佐伊予讃岐と順に…」とあるように、番号こそ記載はないが、霊山寺が最初の札所であるのが慣例であったと見なされる。 そして、澄禅が巡拝途中に阿波海部で『辺路札所ノ日記』[注釈 12]を購入しているが、それは、現存している元禄9年(1696年)に重版された『奉納四國中邊路之日記』[5]の先行版のことであるとみられ、札所番号こそ記載がないが、次の札所までの距離・本尊・御詠歌が88の項目の表として記載、澄禅が巡拝する以前から、既に八十八箇所が確定していたことがわかる。

その後、真念によって1687年出版された『四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)』[注釈 13]には札所番号が記され、札所間の内容や本尊・寺の状況が端的に記されている。真念の情報により書かれた寂本の『四国遍礼霊場記』(1689年)は詳しく由緒が書かれ、境内状況が描かれた絵が載せられ、読み物としても興味深い。これらの本の流布により修行者が行っていた遍路が一般人にも開かれた。それまでは四国の辺々を歩いて回りながら修業をすることが意識されている巡礼から、ある決まった寺を参拝して回るということが四国遍路であるというふうに四国遍路のあり方が変わり、それが後の時代に引き継がれていった[6]。また、手の形の矢印で順路を示した遍路道の石造の道しるべも篤志家によってこの時期に設置され始めたといわれる。

1854年に発生した大震災(安政南海地震)とみられる要因により土佐17箇所[注釈 14]翌年にはさらに宇和島藩南予4箇所に遍路入国禁止となり、伊予国の番外寺院で代理納経が行われる事態が起こっている。また、幕末の動乱で入国の制限が阿波で起きるなどあったほか、明治初期には廃仏毀釈の影響を受けた。世情が安定してからは遍路入国禁止は解除になり、明治5年以降は高知県の札所も納経が行われている。

四国遍路が確立した以降

修行僧や信仰目的の巡礼者以外にも、疾病、犯罪などの理由により、故郷を追われた、もしくは捨てざるを得なかった者たちが施しを受けながら四国遍路を終生行う「職業遍路[7]」が存在した。もっともこれらの者たちも、信仰によって病気が治るのではないかという期待や、信仰による贖罪であったので、信仰が目的であったともいえる。また、信仰によって病気や身体の機能不全が治るのではないかと一縷の望みをかけ、現代でいう視聴覚障害者や身体障害者が巡礼することも始まった。その後、地区によっては一種の通過儀礼として村内の若衆が遍路に出ることもあったとされる。 四国遍路は信仰者の義務ではなく、修行者や僧侶、後には庶民や窮民が祖霊供養や宗教心を深めるために自ら決意して実行してきたものである。他の巡礼地と比べて現世利益よりも病回復、懺悔や死などのイメージが強い。途中で行き倒れて遍路道に葬られる巡礼者も多かった。近代でも四国霊場が他にない神秘性とほの暗さを湛えていたのは、悩みを抱えた巡礼者が死装束に身を包み、病や疎外感を抱えて祈りながら歩く遍路道だったからである。一方、現代ではその暗さは無くなり、供養や当病平癒や心願成就に加え、健康維持や余暇の充実のための遍路に変化している。

明治の神仏分離・廃仏毀釈の影響

明治初頭の神仏分離令及びそれをきっかけに起こった廃仏毀釈運動により、それまで札所だった神社から別当寺などへ札所を移したり、神仏習合の寺が神社と分離独立したり、寺そのものが廃寺になったりするなど四国八十八箇所霊場の一部が大きく変わっていった。特に影響を受けたのは高知県と愛媛県の今治西条地区で、のちに同じ場所に再興されたり別の寺が札所になったりするなど徐々に復興していった。また、明治政府による上知令による寺領の没収や離檀により多くの札所が経済的困窮に追い込まれた。例を挙げると、52番太山寺では96余の広大な寺領が1町2反余に、50番繁多寺では4町8反余が4反余とされた。さらに、無檀家の寺は廃寺にすべしとの命令が出て無住寺になる札所も出た。そして、神仏分離から100年以上経った1993年に第三十番札所が確定したときに、現在の霊場の形に落ち着いた。

影響を受けた札所

  • 13番札所: 一宮神社が札所だったが、本地仏十一面観音を別当の大日寺に移して本尊とし、当寺が札所となる。
  • 27番札所: 神峯観音堂が札所だったが神社となり、本尊・十一面観音と札所は金剛頂寺に預けられるも明治20年(1887年)に本尊と札所を帰還させ元の地から少し下った憎坊跡に再興。1912年(大正元年)、神峯寺として寺格を持つ。
  • 28番札所: 大日寺は廃寺になるも、明治17年(1884年)に再興された。
  • 30番札所: 土佐一ノ宮高賀茂大明神が札所で納経は別当寺の神宮寺で行っていたが、塔頭の観音院善楽寺とともに廃寺となり、いち早く再興した安楽寺に札所と本地仏・阿弥陀如来が預けられていた土佐国分寺から移った。1929年(昭和4年)に善楽寺が再興されて札所を名乗るようになり、30番札所が2か所存在し混乱することになるが、1993年(平成5年)元日から30番札所は善楽寺とし、安楽寺は奥ノ院と定められた。
  • 33番札所: 雪蹊寺は廃寺になり、31番竹林寺に札所を預けていたが、再興して札所も戻る。
  • 37番札所: 仁井田五社が札所だったが、本地仏5体と札所は別当寺の岩本寺に移る。
  • 41番札所: 龍光寺本堂の稲荷明神像と観音堂の本地仏・十一面観音は下段に新築した本堂に移され上段は神社に下段は寺院に分けられた。
  • 55番札所: 別宮大山祇神社が札所であったが、本地・大通智勝如来像は別当寺の南光坊薬師堂に移り札所も当寺に移る。
  • 57番札所: 石清水八幡宮が札所で栄福寺は別当寺であったが、神社と寺は分離独立し、寺は山頂から麓に移転して札所を引き継ぐ。
  • 60番札所: 横峰寺は廃寺になり札所は麓の清楽寺に移るが、1880年(明治13年)に大峰寺の名前で再興。1885年(明治18年)に札所は戻り、1909年(明治42年)に横峰寺の寺名に戻る。
  • 62番札所: 一ノ宮が札所で別当寺の宝寿寺は廃寺になるも1877年(明治10年)に再興され札所となり、1921年(大正10年)に現在地に移転した。
  • 64番札所:前神寺は石鈇山蔵王権現の祭祀の破棄と石鉄神社への衣替えの命令を受けるがこれを拒否し抵抗するも、その最中、火災に遭い現在地にあった塔頭の医王院へ移転。廃寺通告を受けるも、その地で1879年(明治12年)より再興していった。
  • 68番札所: 琴弾八幡宮が札所だったが、本地阿弥陀如来図を別当寺の観音寺西金堂へ移し、観音寺の院号であった神恵院を寺名として観音寺が68番の札所も引き継いだ(元々68番の納経も観音寺がしていた)。
  • 79番札所: 摩尼珠院妙成就寺は廃寺になり札所は塔頭の高照院が引継ぎ、1887年(明治20年)に天皇寺高照院として摩尼珠院のあった現在地に移転する。
  • 81番札所:白峯寺は当寺管理の白峯御陵は宮内省の管理となり、上知令により塔頭は当寺以外は廃寺となり当寺は無住持となり当寺も廃寺の危機を迎えるが乗り越えた。しかし次は頓証寺部分が金比羅宮の神社として多くの宝物とともに獲られることになるも苦難のすえ寺地とごく一部の宝物を取り返して現在に至る。
  • 札所の数とせずといへども皆往参する霊境:篠山観世音寺地図は廃寺となり、月山霊場は 月山神社となり、本式の遍路なれば大三島へ渡り大山積神社へ往参していたが、明治以降はいずれも遍路としては行かなくなった。

近代における遍路の「観光化」

昭和30年代頃までは「辺土」と呼ばれ、交通事情も悪く、決して今日のような手軽なものではなかった。今日でこそその心理的抵抗は希薄になっているが、どこで倒れてもお大師の下へ行けるようにと死に装束であり、その捉え方も明るいイメージではなかった。しかしながら、次第に観光化の道を歩み始める。

近代以降、四国遍路は様々な場面で取り上げられることとなった[8]。1908年には現在の『毎日新聞』の前身である『大阪毎日新聞』で、四国遍路の巡礼競争が企画された。全国紙での企画ではこれが最初のものであるらしい。1930年代には乗り物を用いて、旅館などに宿泊する巡礼者が登場した。彼らは「モダン遍路」と呼ばれた。四国遍路は観光としてみなされたのだった。

観光として四国遍路を捉える人々に対して、伝統的な四国遍路を主張する「遍路同行会」が1929年に東京で誕生した[注釈 15]。ただし実質的な活動はしておらず、本格的な組織は1942年に善通寺を中心とした「四国八十八ヶ所霊場会」である。この霊場会の組織に先立って、高野山電気鉄道を子会社に持つ大阪の南海鉄道によって「四国八十八ヶ所出開帳」というイベントが1937年5月5日から6月16日まで大阪の助松遠州園・金剛園の2か所で行われた。それまで全寺院が協力して何かを成し遂げることなどなかったが、このとき初めて全寺院が団結して出開帳を成功させた。この経験が、1942年の霊場会の成立と関わっているのではないかとされている。なお、その時に造られた出開帳用本尊は各寺に返され、「前立ち仏」として鎮座している。

現代

現代においては、従来の信仰に基づくものや、現世・来世利益を期待する巡礼者も引き続き大勢いるが、1990年代後半からは信仰的な発心よりも、いわゆる自分探し、癒やしとしての巡礼者が増えたといわれている[9]。一時期減ったといわれる、歩き遍路も同じ頃から増えた。徳島大学今治明徳短期大学など、四国の大学・短期大学の中には歩き遍路を自分を見つめ直す機会ととらえ、教育課程に組み込んでいる学校もある。

遍路をするに当たり予約や届け出などをする必要がなく、いつどの札所から始めても終わっても自由である。統計が取れないため人数は定かではないが、巡礼者数は年間10万[10] - 30万人(うち歩き遍路が2500[11] - 5000人)ともいわれる。

外国人も増加傾向にあるとみられる。87番長尾寺と88番大窪寺の間にある四国遍路に関する資料館[12]でゲストブックに[13]記入した外国人遍路は2013年度の160人、2014年度は404人、2015年度は429人、2016年度は448人。アメリカ合衆国フランス台湾、カナダの順で多かった。また、外国人遍路へのサポートとして各札所への英会話カードの配置を進めている人[14]も現れた。

米紙『ニューヨーク・タイムズ』が2015年1月に掲載した世界の観光地ベスト52で「四国と遍路」が35位にランクされている[15]

2018年11月に四国経済連合会などが行った調査では、国内の巡礼者は10年前比で平均38%減少しており、70%減少していると回答した寺もある。一方、外国人巡礼者が「増えた」と回答した寺は9割以上であった[16]

2020年、新型コロナウイルスの蔓延で全国に緊急事態宣言が出たことにより、同年4月18日霊場会は各札所に納経所の閉鎖を要請[17]、4月中旬より順次79箇所の札所が納経所などを閉鎖し、そのうち3箇所は閉山した。このような事態は霊場会が発足した以降は初めてのことである。その後、同年5月11日に75箇所の札所が納経所を再開。その後も再開が広がり、6月1日より全札所は元通りに戻った(霊場会公式ホームページより)。

霊場一覧

以下に四国八十八箇所霊場の一覧を国(県)ごとに示す。この表の注意事項・解説は表の下に記する。

阿波(発心の道場)

徳島県にある1 - 23番までの寺院一覧。

No.山号山号の読み院号寺号寺号の読み宗派本尊所在地
1竺和山じくわざん一乗院霊山寺りょうぜんじ高野山真言宗釈迦如来鳴門市
2日照山にっしょうざん無量寿院極楽寺ごくらくじ高野山真言宗阿弥陀如来鳴門市
3亀光山きこうざん釈迦院金泉寺こんせんじ高野山真言宗釈迦如来板野町
4黒巖山こくがんざん遍照院大日寺だいにちじ東寺真言宗大日如来板野町
5無尽山むじんざん荘厳院地蔵寺じぞうじ真言宗御室派勝軍地蔵菩薩板野町
6温泉山おんせんざん瑠璃光院安楽寺あんらくじ高野山真言宗薬師如来上板町
7光明山こうみょうざん蓮華院十楽寺じゅうらくじ高野山真言宗阿弥陀如来阿波市
8普明山ふみょうざん真光院熊谷寺くまだにじ高野山真言宗千手観音菩薩阿波市
9正覚山しょうかくざん菩提院法輪寺ほうりんじ高野山真言宗涅槃釈迦如来阿波市
10得度山とくどざん灌頂院切幡寺きりはたじ高野山真言宗千手観音菩薩阿波市
11金剛山こんごうざん藤井寺ふじいでら臨済宗妙心寺派薬師如来吉野川市
12摩盧山まろざん正寿院焼山寺しょうさんじ高野山真言宗虚空蔵菩薩神山町
13大栗山おおぐりざん花蔵院大日寺だいにちじ真言宗大覚寺派十一面観音菩薩徳島市
14盛寿山せいじゅざん延命院常楽寺じょうらくじ高野山真言宗弥勒菩薩徳島市
15薬王山やくおうざん金色院国分寺こくぶんじ曹洞宗薬師如来徳島市
16光耀山こうようざん千手院観音寺かんおんじ高野山真言宗千手観音菩薩徳島市
17瑠璃山るりざん真福院井戸寺いどじ真言宗善通寺派七仏薬師如来徳島市
18母養山ぼようざん宝樹院恩山寺おんざんじ高野山真言宗薬師如来小松島市
19橋池山きょうちざん摩尼院立江寺たつえじ高野山真言宗延命地蔵菩薩小松島市
20霊鷲山りょうじゅぜん宝珠院鶴林寺かくりんじ高野山真言宗地蔵菩薩勝浦町
21舎心山しゃしんざん常住院太龍寺たいりゅうじ高野山真言宗虚空蔵菩薩阿南市
22白水山はくすいざん医王院平等寺びょうどうじ高野山真言宗薬師如来阿南市
23医王山いおうざん無量寿院薬王寺やくおうじ高野山真言宗薬師如来美波町

土佐(修行の道場)

高知県にある24 - 39番までの寺院一覧。

No.山号山号の読み院号寺号寺号の読み宗派本尊所在地
24室戸山むろとざん明星院最御崎寺ほつみさきじ真言宗豊山派虚空蔵菩薩室戸市
25宝珠山ほうしゅざん真言院津照寺しんしょうじ真言宗豊山派延命地蔵菩薩室戸市
26龍頭山りゅうずざん光明院金剛頂寺こんごうちょうじ真言宗豊山派薬師如来室戸市
27竹林山ちくりんざん地蔵院神峯寺こうのみねじ真言宗豊山派十一面観音菩薩安田町
28法界山ほうかいさん高照院大日寺だいにちじ真言宗智山派大日如来香南市
29摩尼山まにざん宝蔵院国分寺こくぶんじ真言宗智山派千手観音菩薩南国市
30百々山どどさん東明院善楽寺ぜんらくじ真言宗豊山派阿弥陀如来高知市
31五台山ごだいさん金色院竹林寺ちくりんじ真言宗智山派文珠菩薩高知市
32八葉山はちようざん求聞持院禅師峰寺ぜんじぶじ真言宗豊山派十一面観音菩薩南国市
33高福山こうふくざん高福院雪蹊寺せっけいじ臨済宗妙心寺派薬師如来高知市
34本尾山もとおさん朱雀院種間寺たねまじ真言宗豊山派薬師如来高知市
35醫王山いおうざん鏡池院清瀧寺きよたきじ真言宗豊山派薬師如来土佐市
36独鈷山どっこざん伊舎那院青龍寺しょうりゅうじ真言宗豊山派波切不動明王土佐市
37藤井山ふじいざん五智院岩本寺いわもとじ真言宗智山派五仏[注釈 16]四万十町
38蹉跎山さださん補陀洛院金剛福寺こんごうふくじ真言宗豊山派三面千手観音菩薩土佐清水市
39赤亀山しゃっきざん寺山院延光寺えんこうじ真言宗智山派薬師如来宿毛市

伊予(菩提の道場)

愛媛県にある40 - 65番までの寺院一覧。

No.山号山号の読み院号寺号寺号の読み宗派本尊所在地
40平城山へいじょうざん薬師院観自在寺かんじざいじ真言宗大覚寺派薬師如来愛南町
41稲荷山いなりざん護国院龍光寺りゅうこうじ真言宗御室派十一面観音菩薩宇和島市
42一か山[注釈 17]いっかざん毘盧舎那院佛木寺ぶつもくじ真言宗御室派大日如来宇和島市
43源光山げんこうざん円手院明石寺めいせきじ天台寺門宗千手観音菩薩西予市
44菅生山すごうざん大覚院大寶寺だいほうじ真言宗豊山派十一面観音菩薩久万高原町
45海岸山かいがんざん岩屋寺いわやじ真言宗豊山派不動明王久万高原町
46医王山いおうざん養珠院浄瑠璃寺じょうるりじ真言宗豊山派薬師如来松山市
47熊野山くまのざん妙見院八坂寺やさかじ真言宗醍醐派阿弥陀如来松山市
48清滝山せいりゅうざん安養院西林寺さいりんじ真言宗豊山派十一面観音菩薩松山市
49西林山さいりんざん三蔵院浄土寺じょうどじ真言宗豊山派釈迦如来松山市
50東山ひがしやま瑠璃光院繁多寺はんたじ真言宗豊山派薬師如来松山市
51熊野山くまのざん虚空蔵院石手寺いしてじ真言宗豊山派薬師如来松山市
52瀧雲山りゅううんざん護持院太山寺たいさんじ真言宗智山派十一面観音菩薩松山市
53須賀山すがざん正智院圓明寺えんみょうじ真言宗智山派阿弥陀如来松山市
54近見山ちかみざん宝鐘院延命寺えんめいじ真言宗豊山派不動明王今治市
55別宮山べっくさん金剛院[18]南光坊なんこうぼう真言宗御室派大通智勝如来今治市
56金輪山きんりんざん勅王院泰山寺たいさんじ真言宗単立地蔵菩薩今治市
57府頭山ふとうざん無量寿院栄福寺えいふくじ高野山真言宗阿弥陀如来今治市
58作礼山されいざん千光院仙遊寺せんゆうじ高野山真言宗千手観音菩薩今治市
59金光山こんこうざん最勝院国分寺こくぶんじ真言律宗薬師如来今治市
60石鈇山いしづちざん福智院横峰寺よこみねじ真言宗御室派大日如来西条市
61栴檀山せんだんざん教王院香園寺こうおんじ真言宗単立大日如来西条市
62天養山てんようざん観音院宝寿寺ほうじゅじ真言宗善通寺派十一面観音菩薩西条市
63密教山みっきょうざん胎蔵院吉祥寺きちじょうじ真言宗東寺派毘沙聞天西条市
64石鈇山いしづちざん金色院前神寺まえがみじ真言宗石鈇派阿弥陀如来西条市
65由霊山ゆれいざん慈尊院三角寺さんかくじ高野山真言宗十一面観音菩薩四国中央市

讃岐(涅槃の道場)

香川県にある66 - 88番までの寺院一覧。ただし、66番は香川県・徳島県境の徳島県側にある。

No.山号山号の読み院号寺号寺号の読み宗派本尊所在地
66巨鼇山きょごうざん千手院雲辺寺うんぺんじ真言宗御室派千手観世音菩薩三好市
67小松尾山こまつおざん不動光院大興寺だいこうじ真言宗善通寺派薬師如来三豊市
68七宝山しっぽうざん神恵院じんねいん真言宗大覚寺派阿弥陀如来観音寺市
69七宝山しっぽうざん観音寺かんのんじ真言宗大覚寺派聖観音菩薩観音寺市
70七宝山しっぽうざん持宝院本山寺もとやまじ高野山真言宗馬頭観音菩薩三豊市
71剣五山けんござん千手院弥谷寺いやだにじ真言宗善通寺派千手観音菩薩三豊市
72我拝師山がはいしざん延命院曼荼羅寺まんだらじ真言宗善通寺派大日如来善通寺市
73我拝師山がはいしざん求聞持院出釈迦寺しゅっしゃかじ真言宗御室派釈迦如来善通寺市
74医王山いおうざん多宝院甲山寺こうやまじ真言宗善通寺派薬師如来善通寺市
75五岳山ごがくざん誕生院善通寺ぜんつうじ真言宗善通寺派薬師如来善通寺市
76鶏足山けいそくざん宝幢院金倉寺こんぞうじ天台寺門宗薬師如来善通寺市
77桑多山そうたざん明王院道隆寺どうりゅうじ真言宗醍醐派薬師如来多度津町
78仏光山ぶっこうざん広徳院郷照寺ごうしょうじ時宗阿弥陀如来宇多津町
79金華山きんかざん高照院天皇寺てんのうじ真言宗御室派十一面観音菩薩坂出市
80白牛山はくぎゅうざん千手院國分寺こくぶんじ真言宗御室派十一面千手観音菩薩高松市
81綾松山りょうしょうざん洞林院白峯寺しろみねじ真言宗御室派千手観音菩薩坂出市
82青峰山あおみねざん千手院根香寺ねごろじ天台宗単立千手観音菩薩高松市
83神毫山しんごうざん大宝院一宮寺いちのみやじ真言宗御室派聖観音菩薩高松市
84南面山なんめんざん千光院屋島寺やしまじ真言宗御室派十一面千手観音菩薩高松市
85五剣山ごけんざん観自在院八栗寺やくりじ真言宗大覚寺派聖観音菩薩高松市
86補陀洛ふだらくざん清浄光院志度寺しどじ真言宗善通寺派十一面観音菩薩さぬき市
87補陀洛ふだらくざん観音院長尾寺ながおじ天台宗聖観音菩薩さぬき市
88医王山いおうざん遍照光院大窪寺おおくぼじ真言宗単立薬師如来さぬき市
  • 1番から23番は阿波国(徳島県)、24番から39番は土佐国(高知県)、40番から65番は伊予国(愛媛県)、66番から88番は讃岐国(香川県)に位置する。ただし、66番雲辺寺は、行政区画上は徳島県に属する。
  • この他に、東寺では「四国八十八箇所の出発寺」として案内している[19]、。また、「四国(八十八箇所)総奥之院」として、大窪寺とも人的交流があり88番を打った後訪れる遍路もいた時代があったことから大瀧寺が、伊予国関所寺の奥之院であることから伊予国総奥之院としての仙龍寺が、かつて近隣の港への航路が遍路で賑わった頃に多くの人がお礼参りに訪れたことから與田寺[20]が、そのように名乗っている[注釈 18]。そして、中国西安市青龍寺は、空海ゆかりの寺ということで「四国零番札所」とされている(元霊場会会長[要出典]蓮生善隆による)。以上の番外寺院についてはこの一覧には掲載しない。
  • 寺号とは別に通称の寺名のあるところ。24 最御崎寺:東寺(ひがしでら)、25 津照寺:津寺、26金剛頂寺:西寺、32 禅師峰寺:峰寺、67 大興寺:小松尾寺、79 天皇寺:高照院
  • 神仏分離令以外の理由で巡拝順が変わったことのある札所は、(60番目→62番目)宝寿寺は一宮で中山川河口北岸にあり、洪水で流されることが度々あったので僧房のあった現在地に移転した、(63番目→64番目)前神寺は石鈇山で標高1400m付近に寺があったが遍路の便宜のため標高70m付近に里寺納経所を設置したのが後に本寺になった、そのため吉祥寺が64番目だったのが63番目に、それらのため横峰寺が62番目から60番目になった。37番岩本寺は明治の一時期に八幡浜の吉蔵寺に札所権が移って43番の後が37番になっていたが元に戻った。

地図で場所を確認したい場合、表中の左の寺の番号 (No.) に各々の寺の地図がリンクし、また右の「座標を示した地図」では全て(または県別)の寺の地図一覧ができる。

いろいろな巡礼手段

徒歩

伝統的には、四国遍路は「徒遍路」「歩き遍路」と呼ばれる「歩き」で、1日30km歩いても約40日を要する。一時期は峠道や山道などの旧来の遍路道である旧遍路道も廃れ、幹線道路を歩くところが多くなっていたが、寺院や自治体や地元の人たち、へんろみち保存協力会などの尽力によって、昔ながらの姿を留めている旧遍路道の復元作業が各地で進展し、道しるべの設置や道の修繕が行われた。国や自治体では、遍路道とは別に、四国八十八箇所やその他の史跡や自然を辿る道を「四国のみち」として各種整備している。「四国のみち」と旧来の遍路道は一体となっているわけではないが、重複部分は、「四国のみち」として案内板や登山道の整備などがなされている。

遍路の中には先を急ぐあまり夜間も歩行する者がいるが、街灯のない遍路道も多く、遍路道しるべを見逃して、遭難事故が発生している[21]。歩き遍路は朝早くに出て、夕方までには宿に着くのが基本である。歩き遍路のルートを解説した書籍も何点か販売されている。

  • 渡し船
江戸期の巡礼では河川や湾口の通行に渡し船を使うことがあり、吉野川浦戸湾(32番から33番の間)、浦ノ内湾(35番から36番の間)、四万十川(37番から38番の間)などにあった。|巡礼者が渡し船を使うと、たいていは渡し賃が無料であったと伝えられている。現在では浦戸湾の種崎・長浜間の渡し船(県営フェリー)が残るのみである[22]

公共交通機関の利用

体力や身体的な理由などで全てを徒歩で巡礼するのは無理だが、できる限り歩きつつ公共交通機関を利用する巡礼者もいる。2006年から四国運輸局では、公共交通を利用した四国遍路のためのガイドリーフレットを作成、配布している[23]。ただし、公共交通機関が無い区間や、電車やバスの本数が少なく不便な地域も多い。

バスによる団体巡礼

昭和40年代からの四国内の道路事情の改善もあり、大型観光バスによるお四国巡りの団体巡礼が企画催行されている。何泊もしながら1回で回り切る本格的なもの、一国参りといって1つの県内を回るもの、原則日帰りで、1回で10か寺程度ずつお参りし、何回かのツアーに参加して結願となる手軽なものなど、さまざまである。地元の会社が主催する四国発着の団体巡礼もあるが、大手ツアー会社が主催する関西や中国地方からの団体巡礼も多く、近年では関東などからの団体巡礼も増えている。団体巡礼では本堂や大師堂での読経は先達(後述)や僧侶が先導してくれ、納経帳に判を貰うのは添乗員が代行してやってくれる。このようなツアー会社やバス会社主催の団体巡礼以外にも、札所や寺院、各地の参拝団(講)が主催する団体巡礼もある。小規模な団体や大型バスが通行できない札所への参拝は、マイクロバスやジャンボタクシー等も利用される。

自動車・オートバイでの巡礼

マイカーやレンタカーなどの自動車、オートバイを利用して巡礼する人も多い。自分の休日を利用して少しずつ計画的に回る人もいる。今では車道の整備が進み、ほとんどの札所で境内に隣接した駐車場まで行けるようになり、太龍寺と雲辺寺ではロープウェイを、八栗寺ではケーブルカーを利用することができ、境内まで徒歩が必要な区間が長いところは、約20分かかる焼山寺と横峰寺、約30分かかる岩屋寺くらいになった。そして、高速道路を利用すれば、四国の主要都市から全ての札所へ日帰りが可能である。ただし、境内が広く山の斜面にあるため弥谷寺のように本堂までの高低差が大きい所も少なくない。

自転車での巡礼

自転車を趣味とする人や、歩きでは時間的・体力的に無理でも自分の力で巡礼をしたいという人が自転車を利用している(いわゆる「チャリンコ遍路」)。山間部の登りは押して上がることも多いが、おおむね10日から14日で結願できる。

自転車としては、変速ギアを装備し長距離走行に向いた車種[注釈 19]が多いが、シティサイクル(ママチャリ)や電動アシスト自転車、折りたたみ自転車等も使用されている。 関連書籍も発売されている[24]自転車の修理道具は持参してなければ店舗での対応は難しい。[要出典]

四国遍路に因む文化

人物

衛門三郎
衛門三郎は、四国を20回以上巡り空海に詫びを伝え息絶えたと云われる四国霊場にまつわる伝説上の人物。
真念法師
貞享4年(1687年)に『四国遍路道指南』を刊行した。発見されているそれまでの書物は遠慮があり番号を付けてなかったが、真念は下級僧ゆえ遠慮無く寺に番号を付け、宿泊所情報なども盛り込み、巡拝者には重宝なガイドブックとなっている。
中務茂兵衛(なかつかさもへい)大先達
弘化2年(1845年周防国(現在の山口県)生まれ、本名は中司亀吉、法名は義教。四国八十八箇所巡礼を慶応2年(1866年)から大正11年(1922年)まで歩きで280回巡拝し、しるべ石を230余基を建立した。大正10年(1921年)に76歳で遍路中に没した。
宮崎建樹導師
自身の病がきっかけで1978年に歩き遍路を始め、その不便さを感じ、多くの道しるべや遍路石を設置。さらに旧遍路道の整備や復元作業をし、当時はなかった歩き遍路のための地図と160ケ所の番外を示した『四国遍路ひとり歩き同行二人 』を1990年に出版した。
だが、2010年11月8日、高縄山系の福見山へ一人で調査に行って帰らぬ人になった。

装束・持ち物

白衣(びゃくえ)
笈摺(おいずる。おいずり)とも呼ばれる。巡礼者が着用する白い着衣。四国八十八箇所の寺院や門前の店で購入すると、弘法大師を表す梵字と「南無大師遍照金剛」と背中に書かれたものが一般的である。袖があるものを白衣、袖無しのものを笈摺とする説明もある。宝印を受領するためだけの実際には着衣しない白衣は判衣とも呼ばれる。巡礼の途中でいつ行き倒れてもいいように死装束としてとらえる説もあれば、巡礼といえども修行中なので清浄な着衣として白を身につける、どんな身分でも仏の前では平等なので皆が白衣を着るとする説もある。四国では、全ての札所で判を戴いた判衣を亡くなったとき着せて送り出す風習があり、その判衣を着て遍路をする者もいるがそれは自由である。なお、霊場会では、(作務衣の上に白衣を着たとしても)作務衣やジーパンでの遍路は好ましくないとされている。
輪袈裟(わげさ)
輪袈裟は袈裟の略式で、遍路には欠かせない法衣である。トイレに行くときや食事の際は外すのが決まりで、着けたままだと見知らぬ先達であろうが注意されることがある。しかし、くれぐれも用を足した後に忘れて行かないように。
金剛杖(こんごうづえ)
木製ので、空海が修行中に持っていた杖に由来する。巡礼者が持つ金剛杖は弘法大師の化身ともいわれるほどで、宿に着いたら杖の足先を清水で真っ先に洗い、部屋では上座や床の間に置くなどの扱いをするのがならわしである。巡礼中、行き倒れた巡礼者の卒塔婆として使用されたといわれる。市販されているものは「同行二人」「南無大師遍照金剛」や頭部に「地」「水」「火」「風」「空」の五輪を表す梵字が書かれ、頭部の五輪は直接手で触れない様に金襴を巻いて持つ、般若心経が書かれているものもあり、橋の上ではついてはならない(後述)。
菅笠(すげがさ)
日光や風雨から頭部を守る。笠には「迷故三界城」「悟故十方空」「本来無東西」「何処有南北」と「同行二人」と梵字が書かれている。梵字が前になるようにかぶるのが一般的。遍路笠を身につけた巡礼者は、境内で笠を脱がないでお参りすることが許される。堂内でも履物を脱がないの土間の部分なら笠を脱ぐ必要はない[注釈 20]。読みは「迷うが故に三界は城、悟が故に十方は空、本来は東西は無く、何処に南北有らん。」。
納札(おさめふだ)
札所などにお参りし、納経した証に収める札。般若心経写経したものを納める(経を納める)のが正式とされているが、読経したのちに自分の名前を書いた納札を納めてもよい。衛門三郎が自分が空海を探しているということを空海に知らせるために(空海が立ち寄ると思われる)寺にお札を打ちつけたのが始まりとされる。かつては木製や金属製の納札を山門や本堂の柱などに釘で打ちつけていた。このことから、遍路自体や、札所に参拝したことを「打つ」ともいう。現在では、お寺の建築物の損傷を避け、持ち運びの利便性を考え、紙製の納札を納札箱に入れることになっている。また、接待をしてもらったら、その人にお礼の気持ちも込めて納札を渡すのが決まりである。結願した回数によってお札の色が変わる。1 - 4回が白、5 - 7回が緑、8 - 24回が赤、25回以上で銀、50回以上で金、75回以上で権錦、そして100回以上で錦の札となる。なお、それらの色札を使える回数になっても白の納札を使ってもよく、100回以上回っても白の納札を使う人もいる。また、公認先達は、札所寺院を通じて霊場会に申請することによって25回以上から公認の銀納札と四国を型どった銀色のバッジを、50回以上から公認の金納札と金色のバッジを授けられ使用できる。

用語

同行二人(どうぎょうににん)
仮に一人で四国八十八箇所を巡っても、同行二人と言って常に「お大師さん」(弘法大師)と一緒にいる想いで巡礼している。「同行二人」は参拝の道具にも記されている。同行二人の巡礼者ともう一人は弘法大師以外でも、亡くなった家族や先祖、帰依する如来菩薩などのことを想ってもよいとする教えもある。
南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)・宝号
「南無」は「帰依する。信じる」という意味。「遍照金剛」は、空海の師・恵果から灌頂を受けたときの投華得仏が大日如来で、その密号である遍照金剛が空海に授けられた。宗派によっては「南無遍照金剛」と唱えるところもあるが、当霊場では「南無大師遍照金剛」と唱える。現在では「空海」「弘法大師」または「お大師」と呼ぶのが一般的であるが、本人は遍照金剛の名を好んだとみえて自身の著作にはこの名を使い、天皇に上奏する時は謙って空海と記しているという見解もある。
十善戒(じゅうぜんかい)
遍路が守るべき10の
お接待
道中、お遍路さんに対して地元の人々から食べ物や飲み物、手ぬぐいや善根宿、ときには現金を渡す無償の提供がなされる伝統。これに対し、遍路は持っている納札(おさめふだ)を「お接待」してくれた人に渡すことになっている。こうした文化のおかげで、昔は比較的貧しい人であってもお参りができたといわれる。今日でも四国西南部ではお接待の場ともなった「茶堂」が残っている。「お接待」の心は、接待することによって功徳を積む、巡礼者もまた弘法大師のある種の化身であるという言い伝えからや、一種の代参のようなものなど様々である。観光振興や観光従事者の研修等では「もてなしの心」と拡大解釈されることがある。元々は関西西国三十三所観音霊場の修行者、巡礼者に対して始まったとされるが、観光化・俗化したために関西では早くに廃れたといわれている。四国以外の地域でも、接待講と呼ばれるを組み、浄財を集め、四国で遍路に対して接待をするということも行われた。また、どこに行けばお接待が受けられるなどの情報が流れると遍路が集まり、善意の気持ちで行われるお接待が義務化され負担になってしまうことから、へんろみち保存協力会では善根宿などのお接待の情報は掲載せずに「縁をたずね歩いてほしい」と伝えている[25]
善根宿(ぜんこんやど、ぜごんやど)
善人宿とも呼ばれる。広義では自宅の前を通った遍路に「一晩泊っていきなさい」と一夜の宿を提供するのも善根宿といわれる。一般的には「お接待」の心で善意で用意された簡易宿泊施設である。施設を提供するのは個人や企業、地域ぐるみなど様々である。
通夜堂(つやどう)
本来は寺院内で夜を徹して読経や真言を唱える修行をするための施設(お堂)だが、四国八十八箇所においては霊場が巡礼者に対して用意した簡易宿泊施設という意味合いが強い。宿坊とは違い寝るだけの最低限の設備しかない[注釈 21]。かつては通夜堂を持つ霊場が多かったが、旅館などの宿泊施設が増えたことや、利用者のマナーなどの問題により減少し、現在では通夜堂を持つ霊場[注釈 22]は2割程度である。
いざり車
歩行不可能、困難な巡礼者はかつて「いざり車」に乗って巡礼した。これは現代でいう車椅子にあたるもので、小さいものは台車のようなものだが、大きなものは小屋に両輪がついたようなもので、この中で寝泊りできたという。遍路では主に後者の小屋タイプが使われていた。村によっては、いざり車を見かけると隣村まで押していく、という決まりごとがあったと伝えられている。
土佐は鬼国
江戸時代、土佐国(現・高知県)では巡礼者の入国、出国は甲浦(現・東洋町甲浦地区)と松尾峠(現・宿毛市)の関所2か所のみとされた。入国してからも札所以外の立ち寄りは禁止など厳しい制限がかけられた。また遍路狩りのようなこともあったといわれている。また、四国で最も廃仏毀釈が激しかったのは土佐であり、このようなことから、巡礼者の間では「鬼国土佐」などと呼ばれることもあった。といっても、入ってしまえば、草の根を分けてでも取り締まることはそうそうなく、気候温暖で過ごしやすく、民衆の接待は他の国と同様であったため、冬には乞食遍路が集まってきたといわれている。そのため晩秋の頃からは遍路に対しては関所を閉じるということもあった。
橋の上では杖をつかない
現在の愛媛県大洲市付近で空海が一宿を求めたがどの家からも断られ、仕方なく橋の下で寝ることとなった。寒さと旅人が杖で橋を突く音でまったく眠れず、一夜が十夜にも感じられた、という和歌が残っている。このため巡礼者は橋の下には空海がいるかも知れないから橋を渡る時は杖を突いてはならないというならわしがある。すぐそば、国道に面して永徳寺(番外霊場)があり、お参りする人も多い。現在、その橋は「十夜ヶ橋(とよがはし)」と呼ばれ国道56号の一部となり、交通量の多いコンクリート橋になっているが、橋の下で空海を偲びつつ野宿することができる。雨期には冠水する場合もあり、夏季はが多い。
地四国・島四国・新四国
四国八十八箇所のことを略して「お四国参り」あるいは「お四国」「お大師さん」と呼ぶことがあるが、日本の各地には民衆信仰としての地四国あるいは「ミニ四国」「新四国」と呼ばれるものがある。離島では島を四国に見立てて、八十八箇所を再現した島四国瀬戸内海を中心に存在し、小豆島や伊予大島が代表例である。また、愛知県を中心とする周辺(東海地方)では新四国に対して四国八十八箇所を「本四国」と呼ぶ。
島四国として江戸時代より小豆島には小豆島八十八箇所霊場、江戸には御府内八十八箇所霊場、九州には篠栗八十八箇所霊場、また、仁和寺京都市)の「御室八十八ヶ所霊場」(OMURO88)、矢田寺奈良県大和郡山市)八十八ケ所霊場巡り[26]大師山寺(奈良県吉野郡吉野町上市)新四国八十八ヶ所霊場のように裏山や境内の一角に造られ一寺で完結する霊場など全国各地に大小様々な巡礼地が作られている。明治以降に開拓が本格化した北海道でも、天塩川流域の天塩新四国八十八ヶ所霊場、恩穂山新四国八十八ヶ所霊場(美深町)が設けられた[27]
関所寺
邪悪な心の者はそこから先に進めぬという関所寺が各県に1箇所ずつあり、徳島県は19番立江寺、高知県は27番神峰寺、愛媛県は65番三角寺[28]、香川県は66番雲辺寺とされている[29]。なお、40番観自在寺は四国裏関所寺、43番明石寺は本関所寺[30]といわれる。愛媛県は48番西林寺[31][32]であるという説もある。

四国八十八箇所霊場会

概要
四国八十八箇所霊場会(以下、四国霊場会)とは四国八十八箇所霊場の寺院の住職が発起人となり1958年(昭和33年)に発足し、2017年6月1日に一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会(現・畠田秀峰会長[第6番安楽寺住職])として法人化した[33]。本部は善通寺の敷地内に設置されている。なお、7番十楽寺と12番焼山寺は参加していない。
公認先達
四国霊場会が先達を公認する制度で、4回の巡拝により結願し霊場寺院に申込み審査の上、毎年12月に善通寺で行われる先達研修会に参加すると新補先達になる。その後、2年経過後2結願で権中、2年2結願で中、3年3結願で権大、3年3結願で大、その後は、特段貢献した者が表彰され、その後に準特任(定員30名)そして、特任(定員10名)になる。なお、寺持ち住職がなれる元老もある。
2021年12月時点の公認先達の有効総数は8,725人で、2019年の新規先達数は254人、2020年は140人、2021年は185人である[34]。 
開創1200年記念事業
空海(弘法大師)が42歳のとき四国を巡錫したとされる年を起点に1200年目に当たる2014年に、各寺院が普段は公開されない秘仏の本尊や秘蔵の仏像を公開したり、本堂や大師堂の開扉や入堂が許されたり、特別法要や公演が行われた[35]
行事の一つとして、「お大師さまと歩む四国遍路」と称した徒歩練行は2013年2月4日に善通寺を起点に全札所を25回の区切りで一巡し、2014年5月9日に善通寺において結願するとともに、開創1200年記念法要が行われた。
また、2013年3月には中部国際空港、4月には東京・丸の内、5月には仙台空港で出開帳が行われた。それに使われた八十八の出開帳本尊と等身大の弘法大師立像は、平成18年に松本明慶工房で製作され開眼されたもので、善通寺遍照閣1階に常設されている。
開創事業は50年毎に行われたようで、50年前の納経帳に記念スタンプが押されたものが残っていたり、59番国分寺の境内入口門柱に「為四国開創一千百年記念建立」と刻まれたりしていることが示している。
徒歩練行は、翌年の2015年(平成27年)4月22日から、高野山、吉野、奈良、京都へと続けられ、2017年6月21日善通寺に帰るまで断続的に行われた。
記念御影・記念散華
昭和63年の「瀬戸大橋開通記念」は門脇俊一画伯による版画[注釈 23]と御詠歌が書かれた札が、平成10年の「明石海峡大橋開通記念」は青地に金の梵字の御影が、平成11年の「西瀬戸自動車道開通記念」は銀地に青の梵字の御影が、平成26年の「四国霊場開創1200年記念」は赤地に白の梵字の御影が納経したとき配布された。なお、平成26年は納経帳に同記念スタンプも押印され、昭和59年(1984年)「弘法大師御入定1150年御遠忌」以来の記念スタンプであった。
平成28年の「日本遺産の認定記念・閏年限定」は記念散華が納経をしたとき配布され(四国霊場会のHPより)、各寺には、日本遺産の石碑が設置された(宝寿寺を除く八十七ヶ寺)。
賜弘法大師号1100年記念として、令和元年5月1日より令和4年5月31日まで御詠歌御影札が配布、また、令和2年元旦より大師納経が行われる。
弘法大師御誕生1250年記念として令和4年6月15日より今後2年半にわたって行われる弘法大師の生涯を絵に表したカードの配付と記念スタンプの納経帳への押印が始まった。
四国霊場会が関連した裁判
  1. 四国霊場会はある写真家の写真集に収録された霊場会お砂ふみ本尊の写真を著者に無断で複写し、「霊場会彩色御陰」として各札所寺院で販売することにした。そのため著者である写真家が不正競争防止法をもとに平成19年に東京地方裁判所に提訴した。原告の写真家は御陰を販売することがない、元々の本尊の図像著作権は別の画家から霊場会が数千万円で購入したもの。このような理由で原告が一審、控訴審で敗訴。現在、「四国88か所彩色お御陰」は各札所寺院で販売されているが、「一言、写真家の了解を得て」複写すれば問題が生じなかったものを(地裁の判決では「ただ乗り」と表現)裁判闘争の果てに販売されたものであることを知る人は少ない[36]
  2. 四国霊場会は六十二番札所の宝寿寺の住職が同会に入会せず会則に従わなかったため、宝寿寺の住職に対して2015年3月に高松地方裁判所民事訴訟を起こしたが、霊場会が敗訴した。高松地裁の判決によると「四国霊場会は住職個人が会員となる任意団体」であり住職個人に入会を強制できない。また「宗教的人格権を有する団体でなく札所寺院の経済的目的から運営されている団体」であるから宗教的人格権をもとに札所寺院の住職に規約にしたがうことを強制できない。とある[37]。なお、2019年12月より宝寿寺は霊場会に復帰した。詳細は宝寿寺#霊場会退会と再加入を参照。

文化財

国宝
  • 二王門(51番石手寺)
  • 本堂(52番太山寺)
  • 本堂(70番本山寺)
  • 金銅錫杖頭(75番善通寺)
  • 一字一仏法華経序品(75番善通寺)
名勝
  • 阿波国分寺庭園(15番国分寺)
  • 竹林寺庭園(31番竹林寺)
  • 岩屋(45番岩屋寺)
  • 星ヶ森=横峰寺石鎚山遥拝所(60番横峰寺)
特別史跡
  • 讃岐国分寺跡(80番国分寺)
史跡
  • 阿波遍路道 - 2010年指定、以後2021年にかけて追加指定[38]
大日寺境内(板野町)、地蔵寺境内(板野町)、焼山寺道(神山町)、一宮道(神山町)、常楽寺境内(徳島市)、恩山寺道(小松島市)、立江寺道(小松島市)、鶴林寺道(勝浦町)、鶴林寺境内(勝浦町)、太龍寺道(勝浦町および阿南市)、かも道(阿南市)、太龍寺境内(阿南市)、いわや道(阿南市)、平等寺道(阿南市)、平等寺境内(阿南市)、雲辺寺道(三好市)
  • 土佐国分寺跡(29番国分寺)
  • 土佐遍路道 - 2016年指定、以後2021年にかけて追加指定[38]
清瀧寺境内(土佐市)、青龍寺道(土佐市)、竹林寺道(高知市)、禅師峰寺道(高知市)、観自在寺道(宿毛市)
  • 伊予国分寺塔跡(59番国分寺)
  • 伊予遍路道 - 2016年指定、以後2021年にかけて追加指定[38]
観自在寺道(愛南町)、稲荷神社境内及び龍光寺境内(宇和島市)、仏木寺道(宇和島市)、明石寺境内(西予市)、大寶寺道(西予市)、岩屋寺道(久万高原町)、横峰寺道(西条市)、横峰寺境内(西条市)、三角寺奥之院道(四国中央市)、
  • 八幡浜街道笠置峠越(西予市側約0.5km、八幡浜市側約1.1km)
  • 讃岐遍路道 - 2013年指定、以後2021年にかけて追加指定[38]
曼荼羅寺道(善通寺市・三豊市)、善通寺境内(善通寺市)、根香寺道(坂出市・高松市)、大窪寺道(さぬき市)
重要文化財 国の登録有形文化財
重要文化財
彫刻
  • 本尊・木造阿弥陀如来坐像(2番極楽寺)漆箔・古色、像高84.0cm、鎌倉時代作
  • 本尊・木造釈迦如来坐像(寺伝薬師如来)(11番藤井寺)の一木造り、素地、像高86.7cm、平安時代末期作
  • 木造十一面観音立像(17番井戸寺)榧の一木造り、彩色、像高197.0cm、平安時代初期作
  • 本尊・木造地蔵菩薩立像(20番鶴林寺)寄木造、彩色、像高63.3cm、平安時代後期作
  • 石造如意輪観音半跏像(24番最御崎寺)大理石、像高82.4cm、平安時代後期作
  • 木造薬師如来坐像(24番最御崎寺)漆箔、像高86.3cm、平安時代後期作
  • 木造月光菩薩立像(24番最御崎寺)漆箔、像高101.6cm、平安時代後期作
  • 銅造観世音菩薩立像(26番金剛頂寺)像高22.0cm、飛鳥時代後期作
  • 木造阿弥陀如来坐像(26番金剛頂寺)の寄木造、古色、像高88.0cm、平安時代後期作
  • 板彫真言八祖像(26番金剛頂寺)木造板彫、彩色、88.6cm〜85.5cm、鎌倉時代作
  • 本尊・木造大日如来坐像(28番大日寺)檜の寄木造、古色、像高144.5cm、平安時代後期作
  • 木造聖観音立像(28番大日寺)檜の一木造、素地、像高170.5cm、平安時代後期作
  • 木造薬師如来立像(29番国分寺)檜の一木造、古色、像高99.5cm、平安時代中期作
  • 木造薬師如来立像(29番国分寺)寄木造、漆箔、玉眼、像高35.5cm、鎌倉時代作
  • 木造阿弥陀如来坐像(30番安楽寺)ヒノキの寄木造、玉眼、漆箔、像高68.5cm、13世紀頃作
  • 本尊・木造文殊菩薩および侍者像 5躯(31番竹林寺):騎獅文殊菩薩、善財童子、優填王、仏陀波利三蔵、最勝老人の5躯、各楠の一木造、彩色、文殊像の像高60.4cm、平安時代後期作 侍者像4躯と文殊菩薩台座の獅子は竹林寺宝物館保管
  • 木造大威徳明王像(31番竹林寺)彩色、160.0cm、鎌倉時代作、以下13件(14躯)は竹林寺宝物館保管
  • 木造阿弥陀如来立像(31番竹林寺)彩色古色、98.0cm、平安時代後期作
  • 木造増長天立像・多聞天立像(31番竹林寺)素地、増長天93.5cm、多聞天91.5cm、平安時代後期作
  • 木造愛染明王坐像(31番竹林寺)古色、102.0cm、鎌倉時代作
  • 木造千手観音立像(31番竹林寺)檜の寄木造、古色、88.5cm、鎌倉時代作
  • 木造薬師如来坐像(31番竹林寺)桜の一木造、素地、94.5cm、平安時代後期作
  • 木造十一面観音立像(31番竹林寺)檜の一木造、素地、48.8cm、平安時代中 - 後期作
  • 木造釈迦如来坐像(31番竹林寺)古色、51.8cm、平安時代後期作
  • 木造勢至菩薩立像(31番竹林寺)古色、106.8cm、平安時代後期作
  • 木造阿弥陀如来坐像(31番竹林寺)漆箔、86.3cm、平安時代後期 - 鎌倉時代作
  • 木造白衣観音立像(31番竹林寺)古色、100.8cm、室町時代作
  • 木造馬頭観音立像(31番竹林寺)古色、玉眼、99.9cm、室町時代作
  • 木造大日如来坐像(31番竹林寺)古色、63.2cm、鎌倉 - 室町時代作
  • 木造金剛力士立像2躯(32番禅師峰寺)古色、玉眼、阿形142.5cm・吽形145.0cm、1291年作
  • 本尊・木造薬師如来および両脇侍像(33番雪蹊寺)檜の寄木造、漆箔、玉眼、中尊像高140.0cm、鎌倉時代作(附指定:木造十二神将立像10躯 檜の寄木造、彩色、玉眼、像高89.8cm〜82.8cm、鎌倉時代作)
  • 木造毘沙門天および脇侍吉祥天・善膩師童子(33番雪蹊寺)檜の寄木造、彩色、玉眼、鎌倉時代作
  • 本尊・木造薬師如来坐像(34番種間寺)漆箔、像高140.3cm、平安時代後期作
  • 本尊・木造薬師如来立像(35番清滝寺)檜の一木造、彩色、像高153.4cm、平安時代後期作
  • 木造愛染明王坐像(36番青龍寺)寄木造、彩色、玉眼、像高111.9cm、鎌倉時代作
  • 木造空也上人立像(49番浄土寺)彩色、玉眼、像高121.5cm、鎌倉時代作
  • 本尊・木造十一面観音立像(52番太山寺)像高155.4cm、古色、平安時代後期作
  • 木造十一面観音立像6躯(52番太山寺)2躯は檜材、4躯はカツラ材の一木造り、像高156.3cm〜143.8cm、平安時代後期作
  • 本尊・木造千手観音坐像(66番雲辺寺)檜の一木造り、素地、42臂、像高103.3cm、平安時代後期作
  • 木造毘沙門天立像(66番雲辺寺)彩色、154.5cm、1184年作
  • 木造釈迦涅槃仏像(69番観音寺)檜の寄木造り、彫眼、像長74.0cm、鎌倉時代作
  • 木造地蔵菩薩立像(75番善通寺)素地、像高115.5cm、平安時代後期作
  • 木造吉祥天立像(75番善通寺)檜の一木造、古色、像高135.0cm、平安時代後期作
  • 本尊・木造千手観音立像(80番国分寺)彫眼、彩色、四十二臂、像高524cm、平安時代末期作
  • 本尊・木造千手観音立像(82番根香寺)桜材の一木造、漆箔、像高163.3cm、平安時代作
  • 本尊・木造千手観音坐像(84番屋島寺)榧の一木造、漆箔、像高94.3cm。平安時代中期作
  • 本尊・木造十一面観音立像および両脇侍(86番志度寺)中尊:榧の一木造り、彩色、像高147.0cm、藤原時代作
絵画
  • 絹本着色釈迦三尊像(19番立江寺)
  • 絹本著色聖衆来迎図(66番雲辺寺)
  • 絹本著色琴弾八幡本地仏像(69番観音寺)
  • 絹本著色琴弾宮絵縁起(69番観音寺)
  • 絹本著色不動明王二童子像(69番観音寺)
  • 絹本著色智証大師像 有賛(76番金倉寺)
  • 絹本著色星曼荼羅図(77番道隆寺)
  • 絹本著色十一面観音像(86番志度寺)
  • 絹本著色志度寺縁起6幅(86番志度寺)
建造物
  • 大塔(10番切幡寺)
  • 本堂(29番国分寺)
  • 本堂(31番竹林寺)
  • 大師堂(45番岩屋寺)
  • 本堂:附厨子(49番浄土寺)
  • 本堂(51番石手寺)
  • 鐘楼袴腰造(51番石手寺)
  • 三重塔(51番石手寺)
  • 護摩堂(51番石手寺)
  • 訶梨帝母天堂(51番石手寺)
  • 五輪塔(51番石手寺)
  • 二王門(52番太山寺)
  • 本堂:附厨子棟札(69番観音寺)
  • 二王門(70番本山寺)
  • 金堂:附棟札1枚(75番善通寺)
  • 五重塔:附棟札2枚(75番善通寺)
  • 本堂(80番国分寺)
  • 石造十三重塔2基、お堂九棟(81番白峯寺)
  • 本堂:附厨子(84番屋島寺)
  • 本堂:附棟札2枚(86番志度寺)
  • 仁王門(86番志度寺)
  • 経幢2基(87番長尾寺)
工芸品
  • 漆塗台盤2基(24番最御崎寺)
  • 銅鐘(高麗)(26番金剛頂寺)
  • 金銅密教法具 一具(26番金剛頂寺)
  • 金銅旅壇具 一具(26番金剛頂寺)
  • 梵鐘(29番国分寺)
  • 銅鐘(39番延光寺)
  • 銅鐘(51番石手寺)
  • 金銅五鈷鈴(71弥谷寺)
  • 銅鐘(80番国分寺)
  • 木造頓證寺勅額(81番白峯寺)
  • 梵鐘(84番屋島寺)
書籍典籍・古文書
  • 大毘盧遮那経7巻・金剛頂経3巻(26番金剛頂寺)
  • 善通寺伽藍並寺領絵図(75番善通寺)
国の登録有形文化財

[5番地蔵寺]

  • 本堂
  • 不動堂
  • 大師堂
  • 経蔵
  • 五百羅漢堂(奥の院)

[6番安楽寺]

  • 方丈

[14番常楽寺]

  • 本堂
  • 大師堂

[21番太龍寺]

  • 本堂
  • 大師堂
  • 御影堂
  • 護摩堂
  • 多宝塔
  • 六角経蔵
  • 本坊
  • 仁王門
  • 鐘楼門

[43番明石寺]

  • 仁王門
  • 本堂
  • 大師堂
  • 地蔵堂
  • 楼堂
  • 客殿
  • 手水舎
  • 石段および石垣(仁王門前)
  • 石段および塀(本堂前)

[70番本山寺](平成26年登録)

  • 大師堂:寛政7年(1795年)作、明治16年改修、入母屋造屋根の三間堂
  • 十王堂:宝暦9年(1759年)作、平成5年改修、五間堂
  • 大日堂:江戸時代中期作
  • 宝蔵:天保4年(1833年)作
  • 鐘楼:江戸時代中期作
  • 大門:江戸時代後期作、大正3年移築
  • 冠木門:明治43年作

[75番善通寺]

  • 釈迦堂
  • 天神社
  • 龍王社
  • 鐘楼
  • 南大門
  • 中門
  • 誕生院奥殿
  • 誕生院御影堂
  • 誕生院御影堂前廻廊
  • 誕生院聖霊殿
  • 誕生院護摩堂
  • 誕生院地蔵堂
  • 誕生院護摩堂廻廊
  • 誕生院閻魔堂および渡廊下
  • 誕生院宸殿
  • 誕生院大玄関および小玄関
  • 誕生院南土蔵
  • 誕生院仁王門
  • 誕生院番所
  • 誕生院勅使門
  • 誕生院太鼓塀
  • 誕生院極楽堀石積
  • 誕生院弁天社
  • 誕生院二十日橋
  • 誕生院勅使橋
重要美術品
  • 絹本著色釈迦三尊像(20番鶴林寺)
県指定の文化財

[2番極楽寺]

  • 絹本著色両界曼陀羅図 - 縦157cm横107cm

[8番熊谷寺]

  • 仁王門附石碑:高さ13.2m、間口9m、1687年建立
  • 木造弘法大師坐像
  • 大師堂
  • 多宝塔
  • 中門
  • 鐘楼
  • 大師堂内厨子

[12番焼山寺]

  • 弘法大師坐像:像高79cm寄木内刳玉眼、1400年彩色の銘
  • 梵鐘:銅鐘、103cm、径51cm、1649年作
  • 焼山寺文書 3通:宗秀奉下文、寺領寄進状目録、佐伯守安寄進状
  • (県指定天然記念物)スギ並木:境内の杉の巨木は樹齢数百年といわれる
  • (県指定天然記念物)フジの群生地

[15番国分寺]

  • (県指定の史跡)阿波国分寺跡

[17番井戸寺]

  • 日光・月光菩薩立像:重文の十一面観音の脇仏

[18番恩山寺]

  • (県指定天然記念物)恩山寺ビランジュ

[20番鶴林寺]

  • 絹本著色地蔵来迎図
  • 三重塔 - 文政十年(1827年)、銅板葺、高さ23m

[21番太龍寺]

  • (県指定の史跡)太龍寺の丁石:住所は阿南市加茂谷町居谷・一宿寺

[22番平等寺]

  • 紙本金地著色秋草図 4面:襖貼図、狩野内膳筆

[24番最御崎寺]

  • 虚空蔵菩薩坐像懸仏

[26番金剛頂寺]

  • 金剛頂寺の仏画
  • (県指定天然記念物)ヤッコソウ自生地:高さ10cm内外の小型の植物で、花季は11月下旬〜12月上旬

[29番国分寺]

  • 本堂の厨子・須弥壇
  • 絹本著色両界曼陀羅 - 室町時代作

[31番竹林寺]

  • 客殿:主屋と玄関は享保20年(1735年)建造、車寄せは文化13年(1816年)建立
  • 梵鐘:総高78cm、口径46cm、鋳造は弘安7年(1284年)
  • 文殊菩薩座像懸仏

[32番禅師峰寺]

  • 梵鐘:鋳銅、総高81cm、口径57cm徳治3年(1308年)在銘

[34番種間寺]

  • 木造薬師如来立像:一木造り、像高32.3cm、平安時代後期作
  • 石造手水鉢:高さ38cm直径55cm、延宝5年(1677年)作

[35番清瀧寺]

  • 銅造鏡像:懸仏4面
  • (県指定の史跡)高岳親王塔

[38番金剛福寺]

  • 本尊・木造三面千手観音立像および両脇侍立像(不動明王・毘沙門天)
  • 木造二十八部衆立像
  • 木造風神・雷神像
  • 愛染明王坐像:檜の寄木造、彫眼彩色、像高84.0cm平安後期作
  • 高野大師行状図画五巻:高野山の僧、柘宝が応永22年(1415年)に描いた十巻のうちの五巻

[42番仏木寺]

  • 本尊・木造大日如来坐像:像高120.2cm、膝張り92cm、カヤ材、建治元年(1275年)作
  • 木造弘法大師坐像:像高87.5cm、ヒノキ材の寄木造り、正和4年(1315年)作

[44番大寶寺]

  • 三十三燈台:鉄製の燈明台
  • (県指定の名勝)菅生山

[51番石手寺]

  • 木造金剛力士立像:阿形253.3cm、吽形251cm、鎌倉時代後期
  • 木造不動明王および二童子立像(護摩堂安置):不動51.8cm、童子27cm、27.6cm、一木造、鎌倉時代中期
  • 木造天人面(宝物館蔵)
  • 木造獅子頭(宝物館蔵)
  • 木造菩薩面(宝物館蔵):24面
  • 大壇
  • 礼盤
  • 銅三鈷鈴
  • 絹本および毛髪地著色仏涅槃図:縦206.5cm横157.5cmの掛軸仕立、鎌倉時代作

[52番太山寺]

  • 絹本著色弘法大師像 - 鎌倉時代中期以前の作とされる、縦113cm、横118cm
  • 梵鐘 - 高さ116cm、直径61cm、鋳銅製、1383年作

[53番圓明寺]

  • 八脚門:三間一戸、一重、入母屋造、一軒疎垂木、本瓦葺
  • 厨子:一間厨子で、入母屋造、板軒、室町時代作
  • 木造阿弥陀三尊像のうち両脇侍立像:観音菩薩立像60.2cmm勢至菩薩立像60.6cm、寄木造、玉眼、1250年頃作

[59番国分寺]

  • 紙本金地著色柳橋図:1双
  • 国分寺文書:3巻

[60番横峰寺]

  • 本尊・木造大日如来坐像:本尊の金剛界大日如来像、檜の寄木造、漆箔、彫眼、像高93.5cm、平安時代末期作
  • 金銅蔵王権現御正体 - 銅製鍍金、高さ22.2cm、幅14.0cm、平安時代末期作

[62番宝寿寺]

  • 孔雀文磬 1面:肩幅17.2cm、裾張り18.8cm、中央高7.8cm、縁厚0.8cm、鋳銅製、鎌倉時代初期

[65番三角寺]

  • 本尊・木造十一面観世音立像:像高168cm檜、一木造り、10世紀頃作

[67番大興寺]

  • 本尊・木造薬師如来坐像:檜の寄木造り、像高84cm、平安時代作
  • 木造天台大師坐像:像高77.2cm、檜の寄木造り、天台宗第三祖智顗の像、1276年法橋佐慶作
  • 木造金剛力士像:3.14m、伝・運慶作、鎌倉時代作
  • 木造「大興寺」扁額:縦76.3cm、横45.4cm、厚さ5.2cmの桧材、文永四年(1267年)藤原経朝の書
  • (県指定自然記念物)小松尾寺のカヤ:樹高20m、胸高幹周3.92m樹齢およそ1200年
  • (県保存木)大興寺の大クス:樹齢700年余、樹高25m、幹囲6.7m

(※自然記念物は、「香川県自然環境保全条例」により指定されるもの)

[69番観音寺]

  • 本尊・木造大日如来坐像および脇仏薬師如来坐像と釈迦如来坐像:中尊-伝聖観音、像高103.0cm、平安時代作
  • 絹本著色両界曼荼羅図

[71番弥谷寺]

  • 仏説観仏三昧海経 巻第二
  • (県指定の史跡)弥谷寺信仰遺跡:賽の河原、獅子窟、比丘尼谷の磨崖仏、比丘尼谷の墓地大小無数の五輪塔

[72番曼荼羅寺]

  • 木造聖観音立像:平安時代後期作

[75番善通寺]

  • (県指定の史跡)善通寺旧境内
  • (県指定の史跡)香色山経塚群
  • (県指定天然記念物)境内の大グス - 東院の五社明神の後ろの楠

[78番郷照寺]

  • 本尊・木造阿弥陀如来坐像:檜材寄木造り、玉眼
  • 絹本著色釈迦三尊二声聞図:鎌倉時代後期作

[81番白峯寺]

  • 木造吉祥天立像:台座も含めて榧の一木造り、像高44cm、台座6cm、平安時代作
  • 石造笠塔婆(摩尼輪塔):角礫凝灰岩製、元応3年(1321年)2月18日建立
  • 五重塔:花崗岩製、高さ2.15m、客殿の裏庭にある。鎌倉時代作
  • 石燈籠:花崗岩製の6角形、総高1.9m、鎌倉時代作

[82番根香寺]

  • 五大明王像 - 不動、降三世夜叉、軍荼利夜叉、大威徳夜叉、金剛夜叉。不動は南北朝時代作、他の4躯は鎌倉時代作
  • 木造智証大師坐像 - 本堂の向って左脇陣に安置、元徳3年(1331年)作

[86番志度寺]

  • 閻魔堂
  • 奪衣婆堂
  • 木造如来形坐像 - 五重塔内
  • 木造金剛力士立像

[88番大窪寺]

  • 本尊・木造薬師如来坐像:像高89.3cm、本体はカヤ一木造り、彫眼、奈良時代末期作
  • 鉄錫杖
  • (香川の保存木)大窪寺のイチョウ
  • (香川の保存木)大窪寺のサザンカ

ギャラリー

その後

世界遺産化をめぐる動き

1000年を越える歴史を有する巡礼を基礎とした文化であり、世界遺産への登録を目指す動きが四国にはある。特に香川県[39]が意欲的であるものの4県の中でも温度差があったが、2006年11月、文化庁に対して「四国八十八箇所霊場と遍路道」の「暫定リスト」への登載を求め、要望書を提出した[40][41]

また、民間で遍路道を含めて世界遺産登録に向けた活動を行っている団体があり、その活動に積極的に関わっている札所もある。ただし、霊場会全体で見解が統一されているわけではない。ちなみに、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路や日本の紀伊山地の霊場と参詣道は世界遺産登録されている。

結局、2007年1月には採択されなかったが、四県関係者は今回の関係者の認識統一や採択に向けた課題も整理でき一歩前進と受け止めている。

2008年9月、文化審議会文化財分科会の審議でカテゴリーIaの評価を受ける。

2010年3月16日「四国八十八箇所霊場と遍路道」世界遺産登録推進協議会(四国4県・関係58市町村・8機関・27団体)が設立[42]

関連作品

書籍

入門書・解説本・ガイド
  • 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人 地図編』 第11版 2016年
    • 『同 解説編』 第7版 2007年(へんろみち保存協力会、初版 1990年6月25日)
一般書籍販売ではないが、通販か一部の札所(下記)・門前店で購入が可能。
1621242637404344455175番 ほか
  • 永井吐無『四国霊場八十八ヵ寺』(講談社、2001年)
  • 串間 洋『四国遍路のはじめ方』(明日香出版社、2003年)
  • 藤岡直樹『愛媛へんろ道ウオーキング7コース』(アトラス出版、アトラス地域文化新書、2005年)
  • 桜井恵武『四国名刹』(明報社、2008年)
    • 『秘仏写真集 四国霊場 仏像を訪ねて』(宮帯出版社、2014年)
上巻「(香川・徳島)涅槃・発心の道場編」・下巻「(高知・愛媛)修行・菩提の道場編」
以下は体験記(主に新書判)
  • 辰濃和男『四国遍路』(岩波新書、2001年)
  • 月岡祐紀子『平成娘巡礼記 四国八十八カ所歩きへんろ』(文春新書、2002年)
  • 加賀山耕一『お遍路入門・人生ころもがえの旅』(ちくま新書、2003年)
  • 黛まどか『奇跡の四国遍路』(中公新書ラクレ、2018年)
  • 石川文洋『四国八十八カ所 わたしの遍路旅』(カラー版岩波新書、2008年)
  • 家田荘子『四国八十八カ所つなぎ遍路』(ベスト新書、2009年)
  • 佐藤孝子『四国遍路を歩く』(日本文芸社・新書、2002年、新版2007年) 
  • 須藤元気『幸福論』(ネコ・パブリッシング、2005年)
  • 本田 亮『ママチャリお遍路1200km - サラリーマン転覆隊』(小学館、2008年7月)
  • 牛山 泰博『四国遍路 はにほへと』(美巧出版、2010年5月)
  • 桂木 正則『山と海と風と潮 四国八十八カ所歩き遍路旅』(宮帯出版社、2016年5月)
  • 柴谷宗叔『四国遍路こころの旅路』(慶友社、2017年4月)
研究書
  • 五来重『四国遍路の寺』〈上下〉(角川書店、1996年/角川ソフィア文庫、2009年)
  • 頼富本宏・白木利幸『四国遍路の研究』(国際日本文化研究センター、2001年)
  • 頼富本宏『四国遍路とはなにか』(角川選書、2009年)
  • 愛媛県生涯学習センター『四国遍路のあゆみ-平成12年度遍路文化の学術整理報告書』
『遍路のこころ-平成14年度遍路文化の学術整理報告書』(非売品)
  • 藤沢真理子『風の祈り-四国遍路とボランタリズム』(創風社、風ブックス004、1997年)
  • 武田和昭『四国へんろの歴史-四国辺路から四国遍路へ』(美巧社、2016年11月)
  • 森正人『四国遍路の近現代 - 「モダン遍路」から「癒しの旅」まで』(創元社、2005年)
  • 森正人『四国遍路 八八ケ所巡礼の歴史と文化』(中公新書、2014年)
  • 愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター『四国遍路の世界』(ちくま新書、2020年)

テレビ

この節には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(德光和夫の「德」(徳の旧字体))が含まれています(詳細)。

ラジオ

映画

演劇

  • 『夢へんろ 〜どんな時も希望をすてず〜』(前進座、 2007年6月)

漫画

  • 『めぐる88』全3巻(2011年 初版発行)岡本一広(電撃ジャパンコミックス)
  • 『アルキヘンロズカン』上・下(2012年 初版発行)しまたけひと(アクションコミックス)
  • 『おまいりんぐ』(Webコミック 2012年8月8日 - )愛媛のWeb制作会社OpenDesignによる四国ご当地企画。原作小説を元に河原デザイン・アート専門学校漫画クリエイター科の学生とコラボレーションにより更新。四国八十八箇所霊場公認先達の監修[49]
  • おへんろ。』(徳島新聞朝刊 2013年10月14日 - )アニメ制作会社ufotableが徳島新聞朝刊にて毎週火曜日に連載しているイラストストーリー[50]

楽曲

  • 『お遍路お札巡り』藤圭子 - LP『圭子のにっぽんひとりあるき』(1974年)に収録
  • 『88』打首獄門同好会 - 水曜どうでしょうの企画「四国八十八ヶ所完全巡拝」をモチーフとした楽曲。(楽曲動画
  • 『風に抱かれて』本谷美加子 - オカリナ奏者本谷美加子が四国巡礼のなかで、祈りをテーマに創作したアルバム。
  • 『時の旅人』池田綾子/作詞・作曲・歌 - 四国遍路1200年テーマソング
  • 『四国ガチンコ!お遍路道修繕プロジェクトCD』藤田賀子(よちこ) - よかった、その先へなど5曲。

脚注 

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 行政機関などは「四国八十八箇所」を使用するが、霊場会は「四国八十八ヶ所」を公式に使用している。
  2. ^ 1996年に78件が選ばれ今回36件が追加選定され114件になった。
  3. ^ 本来は「徒遍路(かちへんろ)」と云う。
  4. ^ 杖杉庵縁起によると衛門三郎が弘法大師に出会えたのは天長8年10月20日とされているが、衛門三郎伝説の初見とされる石手寺刻版(1567年)で「天長八年辛亥載」と記されている通り、天長8年(831年)は申年ではない。また、831年はユリウス暦及び太陰太陽暦では閏年に当たらない。なお、現代日本の暦では申年は閏年に当たる。
  5. ^ 新型コロナウイルスの感染が拡大した際およびそれ以降、感染予防のために手水舎を廃止してアルコール消毒に切り替えた札所もある。
  6. ^ 「四国の辺地を通る僧が知らぬ所に来て、馬に打ちならさるはなし」で、四国を廻っている三人の僧が宿を所望した山中の家で次々と馬に変えられ最後の者が逃げ出した話。1200年頃。
  7. ^ 「我らが修業せし様は忍褥袈裟をば肩に掛け を負ひ衣はいつとなくしほたれて四国の辺地をぞ常に踏む」1180年
  8. ^ 影響を受けた寺を札所番号で表示すると、1,2,5,6,7,9,11,13,14,15,16,17,18,19,21,22,44,47,55,59,61,62,63,65,67,70,71,72(慶長の兵火),74,76,77,80,82,83,85,86,87,88『江戸初期の四国遍路』(柴谷宗叔著)による。
  9. ^ 「辺」は正しくは「鳥にしんにょう」
  10. ^ 44番大宝寺をスタートし、68番琴弾と69番観音寺が逆転しているが、それ以外は現在と全く同じ順番で巡拝し43番明石寺で終了している。
  11. ^ 澄禅の巡拝順を札所番号で表すと、17-16-15-14-13-11-12-18-19〜59-62-61-60-63-64-65-66-67-69-68-70~88-10〜1の順である。
  12. ^ 澄禅の日記では『世間流布ノ日記』との表現であるが、初版は現存していない『辺路札所ノ日記』のこととされる。
  13. ^ その後の改訂版では『四國徧禮道指南』と名称を変えているが、これは、寂本の意見もあり従来使われていた辺路ではなく、広くゆきわたりあまねくとの意味で「徧」を、単なる道ではなくて人として生きる道という意味を含む「禮」を使用して、人の道を求める修行者の意味を込めている。なお以下、一般的な『四国遍路道指南』 と表記する。
  14. ^ 24番から39番および番外札所月山。
  15. ^ 同書によると、現在のような四国霊場会は存在しなかったが、1910年頃に小林正盛という人物が組織化を模索した形跡があるとされる。
  16. ^ 阿弥陀如来、観音菩薩、不動明王、薬師如来、地蔵菩薩
  17. ^ 一か山 の「か」は王偏に「果」
  18. ^ 各寺の入口の寺名の石板に表記されている。
  19. ^ ロードバイククロスバイクマウンテンバイクシクロクロスランドナーなど。
  20. ^ ケガや病気また故郷を追われた者など顔を晒したくない者でも受け入れたことに由来する。
  21. ^ 布団も基本的にはない。
  22. ^ 小屋やガレージなどを一時的に利用してもよいとする霊場を含む。
  23. ^ 門脇画伯が4年間に亘り自ら各霊場を巡って制作したもので、昭和41年から44年まで4回に渡って東京三越本店で発表されたものである。
  24. ^ 第3弾では、鈴井貴之、大泉同じくTEAM NACS安田顕森崎博之が一部参加。
  25. ^ 本企画の前に、「試験に出るどうでしょうシリーズ」という、全国各地に直接赴いて社会科の勉強をする企画があり、その企画の最終日に行われる試験で受験者(第1弾では大泉、第2弾では安田、第3弾では鈴井・安田)が合格点を取れなかった際に、大泉が全責任を取って巡礼を命じられている。
  26. ^ ほとんどの寺院で先述の巡拝の手順を踏襲していないことが多く、夜間にも巡礼を続行することや短期間で制覇しなければならないという制約などから、寺院や山門を背景に撮影したことで「巡礼」と見なしている。

出典

  1. ^ 『四国遍路道指南 真念』の巻末より。
  2. ^ 『四国八十八ヶ所を歩く旅』(山と渓谷社、2008年)は1108km、へんろみち保存協力会『四国遠路ひとり歩き同行二人 地図編』第9版(2010年)p1では1116kmと記述している。
  3. ^ a b c “逆打ち遍路に脚光 ツァーの予約好調”. 徳島新聞. (2016年1月31日). http://www.topics.or.jp/localNews/news/2016/01/2016_14542170556781.html 2016年2月3日閲覧。 
  4. ^ 柴谷宗叔・著『四国遍路こころの旅路』130Pより
  5. ^ その中に「札所八十八ヶ所 道488里…など」内容が一致している。
  6. ^ 『四國徧禮道指南』全訳注:稲田道彦・著
  7. ^ お遍路のススメ・遍路とは
  8. ^ 以下は、森正人の『四国遍路の近現代 - 「モダン遍路」から「癒しの旅」まで』(創元社)による。
  9. ^ 「現代四国の〈歩き遍路〉に見る「癒し」の一様相」帆苅猛 人間環境学会『紀要』第13号 Feb. 2010
  10. ^ 愛媛県生涯学習センター 四国遍路のあゆみ(平成12年度) (1) 戦後の遍路 (2)(エ)「車遍路」と「歩き遍路」
  11. ^ NPO法人 遍路とおもてなしのネットワーク 前山おへんろ交流サロンにて配布される「遍路大使任命書」数より
  12. ^ 前山おへんろ交流サロン(香川県さぬき市
  13. ^ モートン常慈徳島大学准教授カナダ出身)の分析による。
  14. ^ 埼玉県から愛媛県に移住した会社員。「四国遍路/宗教超えて出会う素朴な日本」『日本経済新聞』朝刊2017年11月19日20面(NIKKEI The STYLE Advertising)。
  15. ^ 「2015年に行くべき世界観光地52ヵ所」『ニューヨークタイムズ』
  16. ^ 「お遍路さん10年で38%減」NHK News Web
  17. ^ 愛媛新聞 4月23日付
  18. ^ 光明寺
  19. ^ 食堂内 納経所”. 東寺. 2009年6月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月2日閲覧。
  20. ^ 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人 地図編 第8版』(へんろみち保存協力会、2007年)p.87
  21. ^ いっぽ一歩堂・遍路客に遭難注意のチラシ 阿南署配る
  22. ^ 【高知市】無料で乗れる渡船「龍馬」に乗ってみた。”. ありんど高知 (2018年8月19日). 2021年11月20日閲覧。
  23. ^ 四国遍路を列車・バスなど公共交通機関で巡るためのハンドブック「四国88NAVI」の発行について 四国運輸局交通政策部、2020年11月20日更新
  24. ^ 本田亮『ママチャリお遍路1200km - サラリーマン転覆隊』(小学館、2008年7月)、小林建一『旅好きオヤジの自転車巡礼記 - 四国八十八ヶ所とスペイン巡礼』(えい出版社、2008年12月)
  25. ^ へんろみち保存協力会 皆様の声
  26. ^ 【学んでお得】富士塚・ミニ遍路 行ってみよう/ご利益スポット 気軽に『日本経済新聞』土曜朝刊別刷り日経+1(2020年2月22日)3面
  27. ^ 写真家露口啓二【四国から北海道へ】コミュニティとしての霊場(上)北の「八十八ヶ所」と歴史の亀裂『北海道新聞』夕刊2021年4月2日2-3面
  28. ^ 三角寺本堂の前に掲示されている由緒書きに「…殊に四国霊場中當山を伊予の関所として尊信おかざるは偏に御本尊威徳力の如からしむ處と謂うべし。」とある。
  29. ^ 『GajA はじめて遍路』((株)エスピーシー2018年11月30日発行)72p、168p、174p
  30. ^ 『四国八十八ヶ所霊場めぐり』(講談社1993年発行)56ページ
  31. ^ 川崎一洋著『四国 弘法大師の霊跡巡り』(2012年12月18日発行)188ページ
  32. ^ 『旅の森 四国八十八ヶ所霊場巡り』(昭文社、1996年発行)112ページ
  33. ^ (一社)四国八十八ヶ所霊場会とは”. 四国八十八ヶ所霊場会. 2020年6月7日閲覧。
  34. ^ 中外日報(京都市南区東九条東山王町9) 2022年3月23日刊より
  35. ^ 『平成26年 四国八十八ヶ所霊場 開創1200年記念事業日程』(四国八十八ヶ所霊場会)現地各寺での配布パンフレット
  36. ^ 知的高裁平成20年12月24日判決文 - 不正競争防止法判例ケース
  37. ^ 平成27年(ワ)第34号 妨害予防等請求事件 平成29年3月22日判決 (PDF) - 裁判所 裁判例情報
  38. ^ a b c d 令和3年3月26日文部科学省告示第48号
  39. ^ 香川県政策部文化振興課世界遺産グループ
  40. ^ 徳島県 四国八十八箇所「遍路文化」を世界遺産に
  41. ^ 四国新聞社「世界遺産に 四国遍路 名乗り」
  42. ^ 四国遍路世界遺産登録推進協議会
  43. ^ BS-TBS 徳さんのお遍路さん 四国八十八カ所 心の旅
  44. ^ NHK BSプレミアム 歩く、歩く、歩く 〜四国遍路道〜 Archived 2012年11月23日, at the Wayback Machine.
  45. ^ 四国遍路1200〜NHK四国4局キャンペーン〜
  46. ^ おへんろ。〜八十八歩記〜 公式サイト
  47. ^ BS12 小島よしお&狩野英孝のチャリお遍路
  48. ^ [1]
  49. ^ おまいりんぐ 公式ホームページ
  50. ^ おへんろ。 公式ホームページ

関連項目

外部リンク

千円紙幣

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千円紙幣(せんえんしへい)は、日本銀行券(日本銀行兌換券を含む)の1つ。千円券(せんえんけん)、千円札(せんえんさつ)とも呼ばれる額面1,000紙幣1994年平成6年)4月以降、発行されている日本銀行券の中で最小額面である。

発行中の千円紙幣は、2004年平成16年)から発行されている野口英世肖像E号券である。

この他にかつて発行された甲号券、B号券、C号券、D号券があり、これまでに発行された千円紙幣は全5種類存在する。このうち甲号券以外の4種類は現在法律上有効である[1]

甲号券

1942年(昭和17年)4月16日の大蔵省告示第178号「兌換銀行券千圓券發行」[2]で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り[3]

  • 日本銀行兌換券
  • 額面 千圓(1,000円)
  • 表面 日本武尊建部神社本殿、兌換文言
  • 裏面 、断切文字
  • 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉文書局長、発行局長
  • 銘板 内閣印刷局製造
  • 記番号仕様
    • 記番号色 黒色
    • 記番号構成 〈記号〉組番号:「{」+数字1桁+「}」 〈番号〉通し番号:数字6桁
  • 寸法 縦100mm、横172mm[2]
  • 製造実績
  • 発行開始日 1945年(昭和20年)8月17日[5](告示上:1942年(昭和17年)4月20日[注 1]
  • 通用停止日 1946年(昭和21年)3月2日[6](証紙貼付券に限り1946年(昭和21年)10月31日[7]
  • 失効券

第二次世界大戦後のインフレーション抑制を目的とした金融緊急措置令などに基づく新円切替が行われる以前(旧円)の最高額紙幣である。

戦時インフレ発生の懸念から更なる高額券の準備が必要となったため1941年(昭和16年)に製造を開始した[8]1942年(昭和17年)の大蔵省告示で様式と発行開始日が公示されたが、これは1942年(昭和17年)2月の日本銀行法施行に伴い、1942年(昭和17年)5月1日以降はそれ以前から発行されている券種を除き「兌換銀行券」の名称を用いた新たな銀行券を発行できなくなるため、既に製造されていた甲千圓券が発行できない状況に陥らないようにすることを目的とした形式的なものである[8]。そのような事情で発行されたため、発行後数年間は日本銀行に死蔵されることになる[8]

そして終戦直後の1945年昭和20年)8月17日に他の新紙幣の発行とともに流通が開始されたが[8]、新円切替に伴い発行から1年も経たず、1946年(昭和21年)3月2日限りで失効した[6]。製造数は8,100,000枚(うち発行数は不明)[4]。失効後も証紙を貼り付けて臨時に新様式券(新円)の代わりとする「証紙貼付銀行券」が発行され流通・通用したが[9]、この「証紙貼付銀行券」も新円の流通拡大に伴い1946年10月末に失効した[7]

表面右側には福井県吉田郡永平寺町にある二本松山古墳から出土した古墳時代の「金銅製」および「短甲」を身に着けた日本武尊の肖像が描かれている[8]。なお日本武尊の肖像は、文献資料や絵画・彫刻を参考にしつつ帝室博物館学芸員関保之助の考証を基に、高松宮宣仁親王をモデルとしてデザインしたものとされる[8]。表面左側には滋賀県大津市にある建部神社(現・建部大社)の本殿[注 2]が描かれている[8]。輪郭には唐草模様の他に、勾玉、宝相華、桐紋が散りばめられており、地模様として八稜鏡型の輪郭と、その外側に瑞雲、宝相華、菊花があしらわれている[8]。「日本銀行兌換券」と表記されているものの、実質的な発行開始時点で既に1942年(昭和17年)5月の日本銀行法施行により金本位制が廃止されていたため、実質的にも法的にも不換紙幣として扱われており金貨との兌換は行われていなかった[10]

裏面には彩紋と共に、宝相華、唐草模様などが印刷されている[8]。裏面右端には「日本銀行」の断切文字(割印のように券面内外に跨るように印字された文字)が配置されている[8]

透かしは「1000」の文字と鳳凰の図柄である[8]。透かし模様が確認しやすいよう、透かしの入った中央部分は文字と淡い印刷色の地模様のみの印刷となっている[11]

使用色数は、表面7色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様4色、印章1色、記番号1色)、裏面4色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様2色、印章・断切文字1色)となっている[12][3]

なお額面金額1000円のA号券(A千円券)は検討が行われ、後述の通り2種類の図案が考案されたものの結局発行されなかった[13]

このように甲千圓券は短命な超高額券であった。発行枚数が少なく、かつ高額券ゆえほとんど回収されたため、現存数は多くない。2014年(平成26年)現在の価格に換算すると約180万円ほどの額に相当する。またこの紙幣の現代の古銭的価値も数万円以上の値がつくことがある。

製造された甲千圓券の一部は台湾銀行に引き渡され、裏面に銀行名や印章の加刷を行ったうえで1945年(昭和20年)8月の終戦直後に台湾でも発行された[8]。このほか朝鮮銀行に対しても同様に終戦直後に甲千圓券の一部が引き渡され、台湾同様に現地で発行するため表面に題号の加刷が行われたものの、こちらは発行準備のみで実際の発行には至らなかった[14]

B号券

1949年(昭和24年)12月28日の大蔵省告示第1048号「昭和二十五年一月七日から発行する日本銀行券千円の様式を定める件」[15]で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り[3]

  • 日本銀行券
  • 額面 千円(1,000円)
  • 表面 聖徳太子
  • 裏面 法隆寺夢殿
  • 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉発券局長
  • 銘板 日本政府印刷庁製造
  • 記番号仕様
    • 記番号色 黒色
    • 記番号構成 記号:英字1 - 2文字+通し番号:数字6桁+記号:英字1文字
  • 寸法 縦76mm、横164mm[15]
  • 製造実績
  • 発行開始日 1950年(昭和25年)1月7日[15]
  • 支払停止日 1965年(昭和40年)1月4日[1]
  • 有効券

1946年(昭和21年)2月に終戦直後のインフレーション抑制を目的とした新円切替が実施され、切替用の新紙幣としてA号券が新たに発行されたが千円券(A千円券)の発行は計画されていたものの結果的に見送られた[13]。しかし新円切替をもってしてもインフレーションの進行は抑えきれず、当時の最高額面券であったA百円券の発行量が著しく増大して1949年(昭和24年)頃には発行枚数の95%以上を占めるほどになったため、金融機関の処理や高額の現金決済に支障を来たすようになり更に高額面の紙幣が必要とされるようになった[16]。当時の切迫した状況から極めて短期間のうちに検討から製造まで行わざるを得ず、不十分な出来栄えで粗末な作りとなっていたA号券の偽造が横行したこともあり、B千円券は他のB号券に先駆けて1950年(昭和25年)に発行された[16]

表面右側には乙百圓券の検討時に作成された原画を基にして新たに彫刻された聖徳太子の肖像が描かれ[17]、肖像の下には甲百圓券を最後に途絶えていた肖像の人名表記が復活している[18]。肖像を囲む円形の枠には法隆寺の古瓦模様、中央上下には宝相華の唐草模様、地模様には法隆寺が所蔵する玉虫厨子の「透金具の天平模様」があしらわれている[16]。裏面左側には肖像の聖徳太子に因んで奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺夢殿を、右端には正倉院御物の「四騎獅子狩文錦」の織物の図柄の一部分を描いている[16]。かつての乙百圓券やい百圓券ほどではないものの、肖像の聖徳太子にゆかりのある法隆寺や正倉院に関連する図柄が多く採用されている[16]。なおこのデザインは、当初五百円券として準備が進められていたものを転用したものである[17]

記番号はアルファベット1桁または2桁+数字6桁+アルファベット1桁の形式、すなわち「A123456B」や「AB123456C」のような形式が採用された初の日本の紙幣であり、それがそのままC号券・D号券・E号券でも用いられている[17]

透かしは「日銀」の文字と桜花の図柄であるが、他のB号券同様印刷と重なっていることもあり確認しにくい[16]。当初の紙幣用紙は第二次世界大戦以前と同じく三椏のみを原料としたものであったが、のちに三椏の需給が逼迫したことからマニラ麻木綿尿素樹脂が混合されるようになった[18]。この影響により発行途中で紙質が変化しており前期はクリーム色紙、後期は白色紙である。なお製造効率向上のためにA号券までに発行されていた日本銀行券の高額券とは異なって券面の寸法が横長となっており[18]、以降もこれに近いスタイルが受け継がれている。

使用色数は、表面5色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様2色、印章1色、記番号1色)、裏面3色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様1色、印章1色)となっている[19][3]。第二次世界大戦後初の表裏両面が凹版印刷された本格的な銀行券である[16]

なおい号券からA号券までは、戦時中・終戦直後ということもあり、印刷局のみならず一部を民間の印刷会社に委託して製造していたが、様々な問題[注 3]があったこともありB号券以降は再び全量が印刷局で製造されている[20]

C号券

1963年(昭和38年)3月5日の大蔵省告示第55号「昭和三十八年中に発行を開始する日本銀行券千円の様式を定める件」[21]で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り[3]

  • 日本銀行券
  • 額面 千円(1,000円)
  • 表面 伊藤博文[21]
  • 裏面 日本銀行本店本館
  • 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉発券局長
  • 銘板 大蔵省印刷局製造
  • 記番号仕様
    • 記番号色 黒色/青色(製造時期により2種類あり)
    • 記番号構成 記号:英字1 - 2文字+通し番号:数字6桁+記号:英字1文字
  • 寸法 縦76mm、横164mm[21]
  • 製造実績
    • 印刷局から日本銀行への納入期間 1963年(昭和38年)5月17日 - 1984年(昭和59年)1月27日[3]
    • 製造枚数 [4]
      • 12,960,000,000枚[記番号:黒色]
      • 12,478,000,000枚[記番号:青色]
  • 発行開始日 1963年(昭和38年)[21]11月1日[22]
  • 支払停止日 1986年(昭和61年)1月4日[1]
  • 有効券

B千円券は戦前からの印刷技術や紙幣製造設備の延長線上で作られたものであったため、印刷技術の向上によりチ-37号事件などでB千円券の偽造が多発し精巧な偽造券が見られるようになったことから、当時ようやく近代化が進められつつあった紙幣製造設備の能力をフル活用して新たな印刷技術や偽造防止技術を盛り込んだ紙幣として発行された[23]

デザイン決定については東京大学心理学教室の調査結果などを参考に決定された[23]。デザイン決定の経緯については、A案の聖徳太子続投、B案の渋沢栄一、そしてC案の伊藤博文があったが、A案は聖徳太子の続投はC一万円券およびC五千円券でも肖像として採用されておりおかしいとの理由で不採用となった。B案の渋沢栄一は最終選考に残ったものの、当時は偽造防止に主に肖像にヒゲがある人物が用いられていたため不採用となり(後に一万円紙幣の肖像として採用)、最終的にC案の伊藤博文が採用された[23]。採用を見送られたB案のデザインはお札と切手の博物館の展示物で確認することが可能である。この他にも当初の肖像人物の候補の中には過去の天皇文化人なども見られるが、天皇が中間券種に登場するのは疑問があること、文化人は一部の年代には人気があるもののこの時点では銀行券としての重々しさに欠けるとされたことからいずれも対象外とされた[23]

表面右側には初代内閣総理大臣である伊藤博文の写真を基にした大型の肖像、下部には菊花を描き、地模様として中央には宝相華模様と法隆寺所蔵の「橘夫人念持仏厨子」の光背、左上や右側に桜花があしらわれている[23]。裏面中央には日本銀行本店本館が描かれており、同じ題材を用いたC五千円券とほぼ同じ構図ではあるものの、前庭の樹木や建物の窓の様子、屋上の通信用アンテナなどに細かな差異が見られる[23]。従来の日本銀行券に存在した額縁状の重厚な輪郭枠を完全に取り去った、今までにない非常に開放的なデザインとなっている[23]

記番号は現在発行中の紙幣と同じアルファベット1桁または2桁+数字6桁+アルファベット1桁の形式である。初期の記番号の色は黒色だった[21]が、この形式の記番号としては史上初めて129億6千万枚を発行して記番号が一巡したため、1976年(昭和51年)7月1日発行分[24][25]から記番号の色が青色[26]に変更された[23]

C千円券の変遷の詳細を整理すると下表の通りとなる。

発行開始日日本銀行への納入期間[3]記番号色変更理由
1963年(昭和38年)[21]11月1日[22]1963年(昭和38年)5月17日 -
1976年(昭和51年)4月2日
黒色[21]
1976年(昭和51年)[26]7月1日[24]1976年(昭和51年)4月2日 -
1984年(昭和59年)1月27日
青色[26]記番号の組み合わせ枯渇

透かしも伊藤博文の肖像であるが、表面右側に印刷された肖像とは違い横顔になっている[23]。B号券以前の透かしよりも精緻で明瞭となったほか、B号券とは異なりその部分には印刷がされていないためこれを容易に確認できる。 伊藤博文の横顔を映した写真が存在しないため、国会議事堂中央広間内にある伊藤博文の銅像を側面から見たものをモデルとしている[23]。紙幣用紙については強度を向上するため、強靭なマニラ麻を主体に木材パルプなどを混合しており、三椏は2割程度の配合となっていることから従来の紙幣用紙とは色調や感触が異なっている[27]

B号券では製造効率の向上のためにB五十円券を除き縦方向の寸法を同じにして、横方向の寸法のみを額面金額が上がるにつれて8mm間隔で長くしていたが[18]、C号券では券種識別性向上のために額面金額が上がるにつれて縦方向に4mm、横方向に5mmずつ長くする形式に変更された[28]

使用色数は、表面10色(内訳は凹版印刷による主模様2色、地模様6色、印章1色、記番号1色)、裏面5色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様3色、印章1色)となっている[29][3]。従来の紙幣と比べて明るい色調やグラデーション模様などをふんだんに用いた券面となっている[23]

黒色記番号の紙幣には、沖縄本土復帰に伴う通貨交換第五次通貨交換)用の特殊記号券が存在し、記番号の英字の組み合わせのうちごく一部の特定のものがこれに当たるが、その現存数は非常に少ない。

D号券

1984年(昭和59年)6月25日の大蔵省告示第76号「昭和五十九年十一月一日から発行する日本銀行券壱万円、五千円及び千円の様式を定める件」[30]で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り[3]

  • 日本銀行券
  • 額面 千円(1,000円)
  • 表面 夏目漱石[30]
  • 裏面 タンチョウ(丹頂)
  • 印章 〈表面〉総裁之印(ミニ改刷後は特殊発光インキ) 〈裏面〉発券局長(ミニ改刷後は特殊発光インキ)
  • 銘板 大蔵省印刷局製造/財務省印刷局製造/国立印刷局製造(製造時期により3種類あり)
  • 記番号仕様
    • 記番号色 黒色/青色/褐色/暗緑色(製造時期により4種類あり)
    • 記番号構成 記号:英字1 - 2文字+通し番号:数字6桁+記号:英字1文字
  • 視覚障害者用識別マーク 丸印が1つ(透かし・左下隅)
  • 寸法 縦76mm、横150mm[30]
  • 製造実績
    • 印刷局から日本銀行への納入期間 1983年(昭和58年)8月18日[3] - 2003年平成15年)
    • 製造枚数 [31]
      • 12,960,000,000枚[記番号:黒色]
      • 5,832,900,000枚[記番号:青色]
      • 12,960,000,000枚[記番号:褐色]
      • 1,341,900,000枚[記番号:暗緑色・大蔵省銘]
      • 4,980,000,000枚[記番号:暗緑色・財務省銘]
      • 245,200,000枚[記番号:暗緑色・国立銘]
  • 発行開始日 1984年(昭和59年)11月1日[30]
  • 支払停止日 2007年(平成19年)4月2日[1]
  • 有効券

C千円券の発行開始から約20年が経過しC号券で使用された紙幣製造技術や偽造防止技術が陳腐化してきたことや、飛躍的な印刷技術の向上を背景に1980年代初め頃から精巧な偽造券が散見されるようになったことから、偽造防止対策強化のためにD号券が発行された[32]D一万円券D五千円券、D千円券の3券種同時の改刷であるが[32]、日本銀行券で3券種が同日に改刷されるのは第二次世界大戦以降では初めてである。またこの頃にはATM両替機自動販売機自動券売機)といった紙幣取扱機器も広く普及し始めていたことからこれも念頭に置いたうえで改刷が行われた[32]

D号券では各額面の人物肖像に文化人が採用された[33]。世界的な傾向として国家元首政治家だけでなく、文化人も紙幣肖像に採用されるようになったことがD号券で文化人が採用された理由である[33]。千円券の肖像には小説家の夏目漱石が選ばれ、表面右側に肖像が描かれている[34]。原画の写真は明治天皇崩御から間もないころに撮られたものであり、漱石自身が明治天皇の熱烈な崇拝者でもあったことから服喪中の黒ネクタイを着用した肖像となっている[34]

裏面には中央の空白を挟んで両側に特別天然記念物である釧路湿原の丹頂のつがいを描いており、左側が、右側がである[35]。また券面中央の透かし部分の楕円形の空白は丹頂のの形状をイメージしたものである[36]。この楕円形の空白の輪郭は、表裏両面で位置が一致するよう印刷されている[36]。なお日本銀行券では日本銀行行章は裏面にのみに印刷されているものが多い中、このD千円券は表面の額面金額の文字に重なっている所にも日本銀行行章が入っている数少ない例の一つである。

初期の記番号は黒色で印刷されていた[30]が、129億6千万枚を発行して記番号が一巡したため、1990年(平成2年)11月1日発行分から記番号の色が青色に変更された[37]1993年(平成5年)12月1日発行分からは記番号の色を褐色に変更する[38]とともに、「ミニ改刷」と呼ばれる一部改造券を発行した[39]。従来のデザインはそのままに、追加でマイクロ文字特殊発光インキ紫外線照射により発光するインキであり、表面印章「総裁之印」のオレンジ色発光と、裏面印章「発券局長」の赤色発光が確認できる。)等の偽造防止技術が施されている[39]。なおミニ改刷前の青色記番号は記番号の組み合わせを全部使い切っていなかった。この褐色記番号も129億6千万枚を発行して記番号が一巡したため、2000年(平成12年)4月3日発行分から記番号の色が暗緑色に変更された[40]

中央省庁再編及び独立行政法人化に伴う製造者の名称変更に伴い、暗緑色記番号の紙幣の製造者名の銘板表記については、当初は「大蔵省印刷局」[30]2001年(平成13年)5月14日発行分から「財務省印刷局」[41]、2003年(平成15年)7月1日発行分から「国立印刷局[42]と3度変更されている[39]

D千円券の変遷の詳細を整理すると下表の通りとなる。下記の6タイプに分かれる。

発行開始日記番号色マイクロ文字印章銘板(製造者名)変更理由
1984年(昭和59年)11月1日[30]黒色[30]なし[39]特殊発光なし[39]大蔵省印刷局製造[30]
1990年(平成2年)11月1日[37]青色[37]記番号の組み合わせ枯渇
1993年(平成5年)12月1日[38]褐色[38]あり[39]特殊発光あり[39]偽造防止力向上のための様式変更(ミニ改刷)
2000年(平成12年)4月3日[40]暗緑色[40]記番号の組み合わせ枯渇
2001年(平成13年)5月14日[41]財務省印刷局製造[41]製造者の組織変更
2003年(平成15年)7月1日[42]国立印刷局製造[42]製造者の組織変更

透かしは肖像と同じ夏目漱石であり、従来よりも大型で白黒の階調のはっきりしたすき入れとなっている[36]視覚障害者が触覚で容易に券種を識別できるよう、表面から見て左下隅に識別マークとして点字の「あ」を模した「丸印が1つ」透かしにより施されている[36]。透かしによる視覚障害者用識別マークは世界初である[36]

B千円券とC千円券は同じ寸法であったが、D千円券ではサイズの縮小が行われ[32]それらより横幅が14mm短くなった(縦方向は変更なし)。これは世界的な紙幣の小型化の流れに合わせたものであるほか[32]、製造能力の向上や省資源化[43]、機械等での取扱上の利便性などを考慮したものである[44]。同時に改刷されたD号券3券種で比較すると縦方向の寸法は同じで、横方向の寸法のみを額面金額が上がるにつれて5mmずつ長くする形式となっている[32]。E千円券以降もこのD千円券のサイズを踏襲している。

使用色数は、表面9色(内訳は凹版印刷による主模様2色、地模様5色、印章1色、記番号1色)、裏面4色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様2色、印章1色)となっている[30][3]複写機イメージスキャナなどでの色分解を困難にするため、なるべく原色を避け中間色を多用した印刷となっている[45]

E号券

2004年(平成16年)8月13日の財務省告示第374号「平成十六年十一月一日から発行を開始する日本銀行券壱万円、五千円及び千円の様式を定める件」[46]で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。

  • 日本銀行券
  • 額面 千円(1,000円)
  • 表面 野口英世[46]
  • 裏面 富士山本栖湖に映る逆さ富士)と
  • 印章 〈表面〉総裁之印(特殊発光インキ) 〈裏面〉発券局長
  • 銘板 国立印刷局製造
  • 記番号仕様
    • 記番号色 黒色/褐色/紺色(製造時期により3種類あり)
    • 記番号構成 記号:英字1 - 2文字+通し番号:数字6桁+記号:英字1文字
  • 視覚障害者用識別マーク 横棒(深凹版印刷、左下隅・右下隅)
  • 寸法 縦76mm、横150mm[46]
  • 発行開始日 2004年(平成16年)11月1日[46]
  • 発行中
  • 有効券

D号券3券種の発行開始からおよそ20年が経過し、印刷技術の革新や複写機イメージスキャナコンピュータ画像処理ソフトウェアなどの普及・高性能化を背景に2002年(平成14年)頃から偽造券の発見が急増するようになってきたことや[47]、諸外国でも新たな偽造防止技術を盛り込んだ紙幣が1990年代末期以降続々と発行されており、日本だけが旧世代の紙幣の発行を続けると国際的な偽造団による標的となる恐れがあることを踏まえ[48]E一万円券E五千円券、E千円券の3券種が同時に改刷された[48]

表面右側に細菌学者の野口英世の肖像が描かれており[49]、裏面左側には日本を代表する山である富士山および本栖湖に映る逆さ富士の風景が描かれている。これは写真家岡田紅陽山梨県南巨摩郡身延町の本栖湖畔で撮影した「湖畔の春」という写真を基にしたものであり[50]、原画はD五千円券と同じではあるものの、風景の細部が若干異なるほか左側にあった赤松に代えて桜花が描き加えられている[51]。この他、地模様として裏面右端の方にも桜花があしらわれている[51]

偽造防止技術にはD二千円券に新たに採用されたもののほとんど[注 4]が採用されたが[52]、このうちパールインクはE一万円券、E五千円券と同様に券の左右両端に配置されている他、E千円券ではさらに左下の潜像模様に重ねて「千円」の文字として印刷されている[53]。また新たに表から見て右側に用紙を薄くしてすき入れした「すき入れバーパターン」が採用され、E千円券には肖像の右側付近に縦棒のすき入れが1本入っている[53]特殊発光インキについては表面の印章および地紋の一部に紫外線発光インクを採用しており、ブラックライトを照射すると表面の印章「総裁之印」がオレンジ色に発光する他、表面・裏面の地模様の一部が黄緑色に発光する[53]。ミニ改刷後のD号券と異なり裏面の印章「発券局長」は発光しない。なおE一万円券、E五千円券と異なり、ホログラムは採用されておらず[53]、D二千円券で採用された光学的変化インクも使用されていない。

公式に発表されていないが、表面と裏面に「ニ」「ホ」「ン」(日本)の片仮名がシークレットマーク(暗証)として入っていることが確認できるほか[51]、D二千円券に引き続いてユーリオンも採用されている。

記番号は発行当初黒色で印刷されていた[46]が、129億6千万枚を発行して同色刷の記番号の組合せが枯渇したため、2011年(平成23年)7月19日より記番号が褐色の券の発行を開始した[54][55][56]。さらに、この褐色記番号の券も129億6千万枚を発行してその組合せが枯渇したため、2019年(平成31年)3月18日発行分より紺色に再変更された[57][58][59]。日本銀行券において、記番号の組み合わせ枯渇によって2回連続で記番号の印刷色が変更されるのは史上初めてである[注 5]

E千円券の変遷の詳細を整理すると下表の通りとなる。

発行開始日記番号色変更理由
2004年(平成16年)11月1日[46]黒色[46]
2011年(平成23年)7月19日[54]褐色[54]記番号の組み合わせ枯渇
2019年(平成31年)3月18日[57]紺色[57]記番号の組み合わせ枯渇

視覚障害者触覚で券種を識別できるようにした識別マークについてはD一万円券D五千円券D千円券で採用されていた透かしによるものから変更され、紙幣の表面下端の左右に深凹版印刷によりインクを盛り上げて凸凹を感じられるようにした方式が取られている[60]。E千円券には「横棒」の識別マーク[注 6]が施されている[60]。また国立印刷局によりスマートフォンで金種の判別・読み上げができるアプリ「言う吉くん」を提供されている[61]

透かしは肖像と同じく野口英世である。紙幣用紙は三椏マニラ麻などを調合したものが用いられている[52]

使用色数は、表面13色(内訳は凹版印刷による主模様2色、地模様9色、印章1色、記番号1色)、裏面7色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様5色、印章1色)となっている[46]。基調となる色はD号券と同系統の色調を受け継いでおり、E千円券はD千円券と同じく青色系の色合いとなっている[62]

2024年度発行予定の新紙幣

  • 日本銀行券
  • 額面 千円(1,000円)
  • 表面 北里柴三郎
  • 裏面 葛飾北斎筆 「神奈川沖浪裏」(富嶽三十六景より)
  • 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉発券局長
  • 銘板 国立印刷局製造
  • 記番号仕様
    • 記番号色 黒色
    • 記番号構成 記号:英字2文字+通し番号:数字6桁+記号:英字2文字
  • 視覚障害者用識別マーク 右上隅・左下隅に斜線の連続模様(深凹版印刷)
  • 寸法 縦76mm、横150mm
  • 発行開始日 2024年(令和6年)上期予定
  • 未発行

2024年(令和6年)上期を目処に、偽造抵抗力の強化やユニバーサルデザインへの対応など目的として[63]一万円券五千円券・千円券の3券種が同時に改刷される[64]。これまでの例に従えば「F号券」と呼ばれると推測される。

刷新後の千円紙幣はD千円券E千円券と同様の青色系を基調とした色合いで[65]、表面の肖像は医学者の北里柴三郎、裏面は世界的に著名な浮世絵である富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」(葛飾北斎筆)に変更予定である[66]

表面の肖像画・透かし・額面の基本的なレイアウトは変更されていないものの、D号券・E号券では漢数字で額面が記載されていた箇所にアラビア数字で「1000」と大きく描かれ、漢数字による額面の「千円」は左上隅に、従来右上隅にあった「1000」の額面は右下隅に入れ替わる形で配置されている。裏面の右上隅のアラビア数字も非常に大きく描かれており、従来の日本銀行券とは印象が大きく異なる。またこの紙幣に使われている「1000」のアラビア数字の「1」の字体は新一万円券と異なり縦棒1本となっている。

記番号も9桁から「AA000001AA」のような形式の10桁に変更される[66][注 7]

公表されている新たな偽造防止技術としては、高精細すき入れ模様とパッチタイプのホログラムが導入される予定である[67]。高精細すき入れは、北里柴三郎の肖像の透かしの背後に緻密な格子模様をすき入れたものである[68]。ホログラムの図柄は3Dホログラムで、見る角度によってホログラムの図柄の北里柴三郎の肖像の顔の向きが連続的に変化して回転しているように見えるものであり、紙幣の偽造防止対策として採用されるのは世界初である[68]。この他、E号券でも搭載されていた、マイクロ文字特殊発光インキ深凹版印刷潜像模様、パールインク、すき入れバーパターン等の偽造防止技術も引き続き採用される[69][70]

視覚障害者のための識別マークは券種識別性向上のため形状が変更され、左右隅に深凹版印刷による斜線の連続模様が配置されている[67]。また券種ごとにホログラムや透かしの位置を変えるなど識別マーク以外でも区別しやすいよう考慮されている[67]

寸法については、変更すると自動販売機ATMなどの紙幣取扱機器への影響が大きいため、従来通りとなっている[65]

2019年(平成31年)4月9日に改刷が発表され[64]2021年(令和3年)9月10日より新千円券の製造が開始された。発行予定日の5年も前に改刷が発表され2年半ほど前から製造されたのは、前回のE号券への改刷時に準備期間が短かったために自動販売機やATMの改修が間に合わず半数程度しか対応できなかった反省から[71]、自動販売機やATMその他の新紙幣を扱う各種機器の改修の際にテストを入念にし、障害やトラブルが起きないようにするためとされる[72]

2021年(令和3年)9月に発表された新千円券の見本のデザインでは、2019年(平成31年)4月の改刷発表当時に公表された当初のラフスケッチ[64]からの変更点として、表面の額面金額の大きなアラビア数字「1000」の下の発行元銀行名「日本銀行」の文字の更に下に「BANK OF JAPAN」の発行元銀行名の英語表記が追加されているほか、視覚障害者のための識別マークの斜線が9本から11本に増やされている[73]

その他千円紙幣に関する事項

  • 千円紙幣の市中での流通枚数は一万円紙幣に次いで多く、キャッシュレス化が進みつつある2010年代以降も継続的に微増し続けている[74]
  • 日本では、千円紙幣に対して一般的に「高額紙幣」は一万円紙幣や五千円紙幣[注 8]を指す。一般に流通している紙幣の両替機には千円紙幣のみ対応しているものと全紙幣に対応しているものがあり、後者を「高額紙幣対応両替機」などと呼び前者の両替機と区別することがある。
  • 対面での支払の他、自動販売機自動券売機などでも広く使用されている。飲料たばこ等の自動販売機や路線バスの両替機などでは千円紙幣のみに対応しているものが一般的であるが、鉄道駅の券売機などでは全紙幣に対応しているものも多い。
  • 流通している千円紙幣の寿命は、つり銭などのやりとりが多く傷みやすいため、平均1-2年程度とされる。
  • 甲号券は現存数が少なく古銭的価値が評価され取引されているのに対し、B号券・C号券・D号券は日本の現在発行されていない旧紙幣の中では現存数が非常に多いため、珍番号やエラーなどの条件がない限り古銭商が買い取りすることはほぼない。

透かし

偽造などを防止するため、透かしが使用されている。

未発行紙幣

い千圓券
肖像は日本武尊[19]1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終戦直後の急激なインフレーションによる紙幣需要の急増に対応することを目的とした、当時としては超高額券でありながらオフセット印刷の簡易的な紙幣である[75]
第二次世界大戦最末期に敗戦などを想定して発行が企画され、終戦直後の混乱の中で製造には着手したものの、視察中の大蔵大臣が偶然印刷中の紙幣を目の当たりにし、余りにも粗末でみすぼらしい出来栄えの紙幣であったことから、これを発行することはかえって国民のインフレ心理を煽り日本の国力の衰退を印象付ける恐れがあることや、偽造が懸念されるといったマイナスの影響を勘案し公示と発行を見送ったとされる[76]
図柄は表面右側に日本武尊の肖像、左側には建部神社本殿が描かれており、地模様には八稜鏡型の輪郭と、その外側に瑞雲、宝相華などがあしらわれているが、これは甲千圓券の版式を変更の上で流用したデザインである[75]。変更点は題号の「日本銀行券」への変更の他に、兌換文言の削除、発行元銀行名の位置変更、銘板の記載変更、印章の位置と数の違い(「総裁之印」・「発券局長」の2つを表面に印刷)と、地模様の刷色変更および簡略化である。裏面には彩紋と共に、宝相華、唐草模様などが描かれているが、これも表面同様に甲千圓券の版式を変更の上でほぼそのまま流用したデザインである[75]。変更点は題号の変更や下部の英語表記(「YEN」)の削除、および刷色の変更程度である。寸法も甲千圓券と同じく縦100mm、横172mmである[3]。記番号は組番号(記号)のみの表記で赤色で印字されており通し番号はなく、銘板は「大日本帝國印刷局製造」となっている[3]
透かしの図柄の白透かしによるちらし透かしである[3]
使用色数は、表面3色(内訳は主模様1色、地模様1色、印章・記番号1色)、裏面1色となっている[19][3]
1945年(昭和20年)11月10日から同年11月13日にかけて組番号(記号)1から3までの440万枚が製造された[3]が、発行計画が中止となったことにより製造済の通用券は全て廃棄処分されて現存しておらず、見本券のみが現存する[75]
A千圓券(1次案)
肖像は伐折羅大将[77]1945年(昭和20年)に終戦直後の猛烈なインフレーションの抑制策として、政府が極秘裏に検討していた預金封鎖に向けて準備されていた紙幣である[78]
券面を左右に二分した図柄が特徴的であり、表面左側には十字型の枠内に新薬師寺の伐折羅大将像の顔部分を、右側には四角い輪郭枠の中に法隆寺の古鏡の鳳凰胡蝶の図柄を描いたものであった[77]。裏面には正倉院御物の古代裂から採った睡蓮宝結びの模様を描いている[77]。デザインについては、新紙幣の図案公募が行われ民間企業の凸版印刷株式会社が提案した図案の1つである[77]
しかしながら当時は連合国軍占領下であり、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のインフレーションや闇取引助長の懸念により発行の承認が得られず、印刷や発行は行われなかった[79]。デザインはA十円券に流用された[注 9][79]
A千圓券(2次案)
肖像は日本武尊[80]1946年(昭和21年)の新円切替に向けた新紙幣に関して、偽造防止の観点から高額券には凹版印刷を用いるべきとのGHQの意向を受けて準備された紙幣である[80]
凹版印刷による新たなデザインを用意する時間的余裕がなかったため、凹版印刷を用いていた既存の甲千圓券の図柄をほぼそのまま流用し、刷色を変更して表面中央に赤色の新円標識(瑞雲桜花[注 10]を加刷しただけのデザインとなっている[80]。その他の変更点は表面に「総裁之印」・「発券局長」の2つの印章を配し裏面の印章を取りやめたことである[3]。寸法も甲千圓券と同じく縦100mm、横172mmであり、銘板は「内閣印刷局製造」となっている[3]
透かしの図柄の白透かしによるちらし透かしである[3]
使用色数は、表面5色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様2色、印章・新円標識1色、記番号1色)、裏面2色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様1色)となっている[19][3]
デザインや発行についてのGHQの承認は得られており製造に着手していたものの、超高額券発行によるインフレーション助長の懸念が拭えず、甲千圓券そのままの「日本銀行兌換券」表記であることや金貨兌換を謳う兌換文言が残存していたため兌換請求が行われた場合に対応に困るということで最終的に発行は見送られた[81][注 11]。流用元となった甲千圓券が兌換券であることは明らかなことであり、それを無視してでも発行準備を急いで進めなければならない程にまで事態が切羽詰まっていたことの証左でもある[82]
1946年(昭和21年)2月1日から3月6日にかけて組番号(記号)1から6までの540万枚が製造された[3]ものの、発行見送りとなったことにより製造済の通用券は全て廃棄処分されて現存しておらず、見本券のみが現存する[80]

変遷

C号券以降は概ね20年程度の間隔で改刷が行われ、図柄を改めると同時に最新の偽造防止技術を導入することで偽造防止力を確保している。

(この間は額面金額1000円の法定通貨紙幣硬貨)の製造発行なし)

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 1942年(昭和17年)4月16日付け大蔵省告示第178号「昭和十六年法律第十四號第三條ノ規定ニ依リ兌換銀行券條例第三條ニ規定スルモノノ外日本銀行ノ發行スル兌換銀行券ノ種類ニ千圓券ヲ追加シ本年四月二十日ヨリ之ヲ發行ス」では同年4月20日と予告されていた。
  2. ^ 本殿は現存するものの、手前に拝殿が増築され拝殿と本殿を結ぶ回廊が建てられたため、現在では同じ風景を眺めることはできない状態となっている。
  3. ^ 特にA号券では多数の民間委託先で分散して製造を行った結果、一部で管理が行き届かず製造管理や品質管理、秘密保持が不十分となり、そのことが偽造券が多発する原因の一つとなっていた。
  4. ^ マイクロ文字、特殊発光インキ、深凹版印刷、潜像模様、パールインク等。
  5. ^ D千円券では黒色→青色→褐色→暗緑色と記番号の印刷色が変更されているが、青色→褐色の変更は記番号の組み合わせの枯渇ではなくミニ改刷に伴うものであり、その他の券種では記番号の印刷色変更は最大1回しか行われていないため。
  6. ^ このほか、E一万円券は「左下隅L字・右下隅逆L字」、E五千円券は「八角形」、D二千円券は点字の「に」を模した「丸印が縦に3つ」の識別マークである。
  7. ^ B号券からE号券までの紙幣では全券種ともに製造番号の両端の英字が各1桁、つまり「A000001A」から始まっていた。「Z900000Z」まで使い果たすと左側の英字だけ「AA」と2桁に変わるが、右端の英字は必ず1桁であったため最終番号は「ZZ900000Z」となり、それを使い果たすと文字色を変更して「A000001A」に戻る形式だった。新紙幣では1桁制が廃止され両端とも初めから2桁の英字、すなわち「AA000001AA」から製造開始される形となった。
  8. ^ 広義では二千円紙幣も
  9. ^ A十円券では、肖像の図柄が不適当であるとのGHQの指示により伐折羅大将像が国会議事堂に差し替えられた。
  10. ^ A百円券と同様のもの
  11. ^ 同様の対応を行ったA百円券の場合、流用元のい百圓券が不換紙幣の「日本銀行券」であったためこの問題は発生しなかった。

出典

  1. ^ a b c d e f g 現在発行されていないが有効な銀行券 千円券” (日本語). 日本銀行. 2021年6月19日閲覧。
  2. ^ a b c d 1942年(昭和17年)4月16日大蔵省告示第178號「兌換銀行券千圓券發行
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 大蔵省印刷局 『日本銀行券製造100年・歴史と技術』大蔵省印刷局、1984年11月、306-313頁。 
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参考文献

関連項目

外部リンク


 

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