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📊|シスコシステムズ 1月25日付で中川副社長が社長就任 ウェスト社長はAPACジャパン&チャイナ…


写真 1月25日付で社長に就任する中川いち朗副社長

シスコシステムズ 1月25日付で中川副社長が社長就任 ウェスト社長はAPACジャパン&チャイナ…

 
内容をざっくり書くと
中川副社長は社長就任にあたって、「社会や生活、そして市場がニューノーマルに向かって急激に変化していく中で、私たち自身が新しいワークスタイル、インクルージョンとダイバーシティをさらに追求し、パートナー企業とともに新たな価値を創造し、お客様と日本社会のデジタル変革をリード、支援していく」とコメントを発表している。
 

シスコシステムズは1月8日、中川いち朗副社長が1月25日付で社長に就任すると発表した。デイヴ・ウェス… →このまま続きを読む

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新しいワークスタイル

日本

日本国[注 1]
日本国
日本の国旗十六八重表菊
国旗国章(慣例上)
国の標語:特になし
国歌君が代
日本の位置
公用語日本語事実上[注 2]
首都東京都(事実上[注 3]
最大の都市東京都区部[注 4]
政府
天皇徳仁
内閣総理大臣菅義偉
国会衆議院議長大島理森
国会参議院議長山東昭子
最高裁判所長官大谷直人
面積
総計377,976.41km262位[1]
水面積率0.8%
人口
総計(2020年1億2581万人(11位
人口密度334.5人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2020年名目526兆3662億[2]
GDP(MER
合計(2020年4兆9106億[2]ドル(3位
1人あたり39,048[2]ドル
GDP(PPP
合計(2020年5兆2361[2]ドル(4位
1人あたり41,636[2]ドル
建国諸説あり
日本神話による初代・神武天皇即位の日(辛酉年1月1日)をグレゴリオ暦に換算すると紀元前660年2月11日[3][注 5]
通貨JPY
時間帯UTC +9(DST:なし)
ISO 3166-1JP / JPN
ccTLD.jp
国際電話番号81
  1. ^ 令和元年全国都道府県市区町村別面積調(10月1日時点)2020年” (日本語). 国土地理院 (2020年12月25日). 2021年1月3日閲覧。
  2. ^ a b c d e World Economic Outlook Database, October 2020”. IMF (2020年10月). 2020年12月26日閲覧。
  3. ^ 「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)

日本国(にほんこく、にっぽんこく、: Japan)、または日本(にほん、にっぽん)は、東アジアに位置し、日本列島[注 6] および南西諸島伊豆諸島小笠原諸島などからなる民主制国家[1][2]。首都は東京都[3]

気候四季の変化に富み、国土の多くは山地で、人口は沿岸の平野部に集中している。国内には行政区分として47の都道府県があり、日本民族アイヌ民族[4]・外国人系[注 7]の人々が居住し[注 8]、事実上の公用語として日本語が使用される[5]

内政においては、明治維新後の1889年大日本帝国憲法を制定し立憲国家となった。その後、1947年には現行の日本国憲法を施行。外交においては、1956年から国際連合に加盟しており、国連中心主義を採っている[5]

概要

日本語を通用する日本人国民の大半を占める。自然地理的には、ユーラシア大陸の東縁に位置しており、環太平洋火山帯を構成する[6]島嶼国であり、領土に囲まれているため地続きの国境は存在しない。日本列島本州北海道九州四国沖縄島(以上本土)も含めて6,852のを有する[7]気候区分は、北は亜寒帯から南は亜熱帯まで様々な気候区分に属している[8]。様々な自然災害に見舞われやすい環境にあり、地震発生数や災害被害額は世界有数である[9]

日本は古くから中国大陸朝鮮半島との関係が深く、飛鳥時代奈良時代には遣隋使遣唐使といった交易を通して制度・仏教儒教漢文等を輸入し、国家体制の構築に役立てている。また、正倉院ペルシアインドを由来とする文化財が複数含まれることを例に取れるように、唐や朝鮮に限らず交易を通じてアジア・シルクロード文化も流入している。律令体制樹立後の平安時代末期より武家政権が成立し、幾度も交替する。江戸時代に至って交際国を限定する「鎖国」を行ったが、外圧を受けて開国し、明治維新の過程で武家政権が終焉し、アジアで2番目の憲法となる大日本帝国憲法が制定され、立憲君主国となる。西洋資本主義を参考にして日本初の銀行東京株式取引所および銀行と取引を行う会社が次々と創業された。ここに西洋化近代化が果たされ、日本は近代国家に移行する。

日清戦争日露戦争第一次世界大戦での勝利を経て軍国主義へと走り、第二次世界大戦枢軸国として参戦、連合国軍と対戦するも太平洋戦争の敗戦により、連合国軍総司令部(GHQ)の指示を受けて国民主権基本的人権の尊重平和主義を謳う日本国憲法が制定され、民主主義国家となった。戦後復興ののち、1960年代から高度経済成長期に入り、工業化が加速し科学技術立国が推進された結果経済大国にもなったが、1980年代末のバブル経済崩壊後は経済停滞期に入った[6]。現代日本社会は少子化が進んでおり、超高齢社会であるとされる。また、従来の中間層が貧困化し、格差社会にもなっている。

人間開発指数が高く先進国のひとつに数えられており[10]OECDG7G8およびG20の参加国である[5]名目GDPは世界第3位かつ購買力平価は世界第4位であり[11]、アメリカと中国に次ぐ経済大国である。21世紀に入ってからは米国や中国に押されつつあるもののエレクトロニクス産業や自動車産業の中心地であり[12][13]トヨタ日産東芝ソニーパナソニック任天堂など多数の大企業を輩出し、科学技術のリーダーとされる[14]。このような理由から、列強の一国とみなされる[15][16]

文化面では日本庭園日本建築和食着物や宗教(神道・仏教)などの伝統文化を保持し、複数の世界遺産を保有している。また漫画アニメゲームを始めとするポップカルチャーの中心地である。これらの文化は、英語圏の文化と比べ特異な文化として海外の一部から注目されている[注 9]家庭用ゲーム機ハードウェアでは、1990年代までに任天堂ソニーセガの3社が世界的シェアの大部分を獲得したが、2001年3月にはセガが撤退した。

政府クールジャパン戦略を実行するなど、観光立国を推進している。2021年には東京オリンピック[17]2025年には大阪万博が開催される予定で、国際的イベントの招致にも力を入れる。2020年USニューズ&ワールド・レポートの 2020 Best Countries ランキングで第3位となった[18]

国号

「日本」という漢字による国号の表記は、日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来するという説がある[19]。近代の二つの憲法の表題は、「日本国憲法」および「大日本帝国憲法」であるが、国号を「日本国」または「日本」と直接かつ明確に規定した法令は存在しない[20]。ただし、日本工業規格(Japanese Industrial Standard)では日本国、英語表記をJapanと規定。更に、国際規格(ISO)では3文字略号をJPN、2文字略号をJPと規定している。また、日本の外務省から発給される旅券の表紙には「日本国」の表記と十六一重表菊[21] を提示している。法令で日本を指し示す表記には統一されておらず「日本」「日本国」「本邦」「わが国」などが混在している。

日本語の表現

発音

にっぽん」「にほん」と読まれる。どちらも多く用いられているため、日本政府は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている[22]

7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される[23]。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。仮名表記では「にほん」と表記された。平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。

室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた[24]。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している[25]。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。

近代以降も「ニッポン」「ニホン」両方使用される中、1934年には文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したこともあったが、不完全に終わった。同年、日本放送協会(NHK)は「放送上、国号としては『にっぽん』を第一の読み方とし、『にほん』を第二の読み方とする」旨の決定をした[26]

その後現在も両方使用されており、2009年6月30日に政府は、「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定している[22]

現在、通商や交流の点で自国外と関連のある紙幣切手などには「NIPPON」と描かれ(紙幣発券者も「にっぽんぎんこう」である)ているほか、日本テレビ[27]ニッポン放送日本武道館全日本空輸近畿日本鉄道西日本鉄道日本体育大学日本郵便NEXCO東日本NEXCO中日本NEXCO西日本[注 10]日本電気日本電信電話日本郵船日本通運NTT東日本[27]NTT西日本[27]日本特殊陶業日本車輛製造などで「NIPPON」(にっぽん)表記を用いる一方、

「NIHON」(にほん)表記を用いる例は、日本大学日本航空日本経済新聞日本たばこ産業JR東日本JR西日本日本ユニシス日本相撲協会日本交通日本オリンピック委員会日本セラミック日本ガイシなどがある。日本経済新聞が2016年に行った調査によると、社名に「日本」が含まれる上場企業の読み方は、「にほん」が60%、「にっぽん」が40%であり、「にっぽん」と読ませる企業の比率が増加傾向にあった。テレビ番組名では「にっぽん」が使われることが多くなってきている[28]。なお、日本国憲法の読みについて、内閣法制局は、読み方について特に規定がなく、どちらでもよいとしている[29]。日本国憲法制定の際、読みについての議論で、憲法担当大臣金森徳次郎は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」と述べており、どちらかに決められることはなかった[26]

日本のオリンピック選手団は入場行進時のプラカード表記を英語表記の『JAPAN』としているが、1912年の初参加となったストックホルムオリンピック選手団のみ『NIPPON』の表記を使っていた[30]

東京と大阪にある橋の名称と地名になっている日本橋は、東京(及び旧江戸)の日本橋"にほんばし"、大阪の日本橋"にっぽんばし"とそれぞれ読む。

日本の政党名における読みは、次のとおり(国会に複数の議席を有したことのある政党)。

「ニッポン」
「ニホン」

明仁上皇)は、一貫して「にほん」と読んでいる[26]

別称

古くから多様である。

和語
  • あきつしま - 「秋津(あきつ)」は、「とんぼ」の意。孝安天皇の都の名「室秋津島宮」に由来するとされる。
    • 「秋津島」
    • 「大倭豊秋津島」(『古事記』本州の別名として)
    • 「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)
  • あしはらなかつくに - 「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われる。
    • 葦原中国」(あしはらのなかつくに)(『古事記』、『日本書紀』神代)
    • 「豊葦原(とよあしはら)」
    • 「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(『古事記』)
    • 「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)」(『日本書紀』神代)
  • うらやすのくに - 心安(うらやす)の国の意。
    • 「浦安国」(日本書紀・神武紀)
  • おおやしま - 国生み神話で、最初に創造された八個の島で構成される国の意。古事記では順に淡路島:四国:隠岐:九州:壱岐:対馬:佐渡:本州。
    • 「大八島」「太八島」
    • 「大八洲」(『養老令』)
    • 「大八洲国」(『日本書紀』神代)
  • くわしほこちたるくに - 精巧な武器が備わっている国の意。
    • 「細矛千足国」(日本書紀・神武紀)
  • しきしま - 「しきしま」は、欽明天皇の都「磯城島金刺宮」に由来するとされる。
    • 「師木島」(『古事記』)
    • 「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)
    • 「敷島」
  • たまかきうちのくに
    • 「玉牆内国」(日本書紀・神武紀)
    • 「玉垣内国」(『神皇正統記』)
  • ひのいづるところ - 遣隋使が煬帝へ送った国書にある「日出處」を訓読したもの。
    • 「日出処」(隋書)
  • ひのもと - 雅語でこう読むこともある[31]
  • ほつまのくに
    • 「磯輪上秀真国(しわかみの:ほつまのくに)」(日本書紀・神武紀)
  • みづほのくに - みずみずしい稲穂の実る国の意。
  • やまと - 大和国奈良県)を特に指すとともに日本全体の意味にも使われる。『古事記』や『日本書紀』では「倭」「日本」として表記されている。魏志倭人伝等の中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺」国と借音で表記されている。また『日本書紀』では「夜摩苔」とも表記されている。「日本」の国号が成立する前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。『日本書紀』は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、時間と共に「倭」が「大倭」になり「大和」へと変化していく。その後に更に「大和」を「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとする[32] が、『旧唐書』など、これを疑う立場もある。
漢語
「倭」「倭国」「大倭国(大和国)」「倭奴国」「倭人国」の他、扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」[33]、「蓬莱」などの雅称があるが、雅称としては特に瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)と記される[34]。このほかにも、「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「若木国」「日域」「日東」「日下」「烏卯国」「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。
「皇朝」は、もともと中原の天子の王朝をさす漢語だが、日本で天皇の王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」ないし「すめらみかど」などと訓読した。「神国」「皇国」「神州」「天朝」「天子国」などは雅語(美称)たる「皇朝」の言い替えであって、国名や国号の類でない。「本朝」も「我が国」といった意味であって国名でない。江戸時代儒学者などは、日本を指して「中華」「中原」「中朝」「中域」「中国」などと書くことがあったが、これも国名でない。「大日本」と大を付けるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字を付けて天子の王朝であることを示す中国の習慣から来ている[注 11]。ただし、「おおやまと」と読む場合、古称の一つである。「帝国」はもともと「神国、皇国、神州」と同義だったが、近代以後、"empire"の訳語として使われている。大日本帝国憲法の後、「大日本帝国」の他、「日本」「日本国」「日本帝国」「大日本」「大日本国」などといった表記が用いられた。戦後の国号としては「日本国」が専ら用いられる[注 12]
倭漢通用
江戸初期の神道家である出口延佳と山本広足が著した『日本書紀神代講述鈔』[35] に、倭漢通用の国称が掲載されている。
  • 「倭国」
  • 「和面国」
  • 「和人国」
  • 「野馬台国」、「耶摩堆」
  • 氏国」、「女王国」
  • 「扶桑国」
  • 「君子国」
  • 「日本国」

その他の言語

英語での公式な表記は、Japanジャパン)。形容詞はJapaneseジャパニーズ)。略記は、JPNが用いられる。JAPジャップ)は、侮蔑的な意味があるので注意が必要である[注 13]Nippon(ニッポン)が用いられる例も見られ、具体的には、UPU等によるローマ字表記(1965年以降)、郵便切手日本銀行券などでNippon表記を用いている。略称は、NPNが用いられる。
その他、各言語で日本を意味する固有名詞は、アン チャパイン(: an tSeapáin)、ヤーパン(: Japan)、ジャポン(: Japon)、ヤパン(: Japan)、ハポン(西: Japón)、ジャッポーネ(: Giappone)、ヤポニヤ(: Japonia)、ヤポーニヤ/イポーニヤ[注 14]: Япония)、イープン(: ญี่ปุ่น)など、特定の時期に特定の地域の中国語で「日本国」を発音した「ジーパングォ」を写し取った(日本語読みの「ジッポン」に由来するとの説もある)、ジパング (Xipangu/Zipang/Zipangu) ないしジャパング (Japangu) を語源とすると考えられる。
漢字文化圏においては、リーベン(: Rìběn;日本[注 15]、イルボン(: 일본;日本)、ニャッバーン(: Nhật Bản;日本[注 16] など、「日本」をそのまま自言語の発音で読んでいる。
9世紀半ば以降の中世アラブ世界では、東方の彼方に存在する黄金に富む土地をワクワク(الواق واق)と呼んでいた。この呼称の由来として、倭国が訛ったとの説がある。また、東方の黄金に富む土地という意味についてもジパング伝説と一致する。
欧州発行の古地図上での表記
  • 「CIPANGU」1300年頃[36]
  • 「IAPAM」1560年頃[37]
  • 「ZIPANGRI」1561年[38]
  • 「IAPAN」1567年頃[39]
  • 「IAPAM」1568年頃[40]
  • 「JAPAN」発行年不明[41]
  • 「IAPONIAE」1595年[42]
  • 「IAPONIA」1595年[43]
  • 「IAPONIÆ」1595年[44]
  • 「IAPONIA」1598年[45]
  • 「IAPONIA」1598年[46]
  • 「IAPAO」1628年[47]
  • 「Iapan」1632年[48]
  • 「IAPONIA」1655年[49]
  • 「IAPON」発行年不明[50]
  • 「Iapan」1657年[51]
  • 「IAPONIA」1660年頃[52]
  • 「NIPHON」1694年頃[53][注 17]
  • 「JAPAM」1628年[54]
  • 「YAPAN」1628年[55]
  • 「IAPON」17世紀[56]
  • 「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初[57]
  • 「IMPERIUM IAPONICUM」1710年頃[58]
  • 「IAPONIA」18世紀初[59]
  • 「IAPON」1720-30年[60]
  • 「IMPERIVM JAPONICVM」1727年[61]
  • 「HET KONINKRYK JAPAN」1730年頃[62]
  • 「JAPANIÆ REGNVM」1739年[63]

国号の由来

概説

日本では、大和政権が統一以降に自国を「ヤマト」と称していたようであるが、古くから中国朝鮮は日本を「」と呼んできた。石上神宮七支刀の銘や、中国の歴史書(『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』など)や、高句麗広開土王碑文も、すべて倭、倭国、倭人、倭王、倭賊などと記している。そこで大和の代表者も、外交時には(5世紀の「倭の五王」のように)国書に「倭国王」と記すようになった[64]

しかし中国との国交が約120年に渡って中絶した後、7世紀初期に再開された時には、『日本書紀』では「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」、『隋書』には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」とする国書を日本側が渡した記述があり、従来のように倭と称する事を避けている。中国側では『旧唐書』の「東夷伝」に初めて日本の名称が登場し、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」のように、倭が名称を日本に変えた理由を説明している[65]。また、『新唐書』においては「国日出ずる所に近し、以に名をなす」とあり、隋書の「日出処天子」と共通している。

この7世紀には、遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号と変えたのかは明らかでない[66]。使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後の書物であり、原資料にあった可能性のある「倭」の字を、国号に関する限りすべて「日本」と改めている。それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。結局確かなのは『続日本紀』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。『旧唐書』の「東夷伝」の記事も、この日本側の説明に基づいているようである[67]

詳細

『日本書紀』では日本の初代天皇の神武天皇は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と言われ、饒速日命は「虚空見つ日本の国」と日本を呼んだ。

新羅本紀』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする[32]

「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立したが勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年臣の阿倍比羅夫に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。

具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただし、それを推定する見解は以下の2説に絞られる。

(1)天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説[68]。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する[69][注 18]

(2)701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている[70]。ただし、『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている[71]

8世紀前半の唐で成立した『』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[72]。後代に成立した『旧唐書』[73][74]、『新唐書』[75] にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。すなわち、『旧唐書』は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、『新唐書』は、日本の使者は「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪った」と言っているが疑わしいとしており[注 19]、同書でも、日本は、隋の開皇末(600年頃)に初めて中国と通じた国であり、古くから交流のあった倭国とは別と捉えられている。また、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったことなどが記載されている。いずれにせよ、これらの記述により、702年に初めて「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。

これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である[注 20]。但し2011年7月、祢軍という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、もしこれが事実であるならば日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる[76]

旧唐書』・『新唐書』等を理由として「日本」国号は、日本列島を東方に見るという中国大陸からの視点に立った呼称であるとする説がある[77]平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた『日本書紀』の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている[注 21]

『隋書』東夷伝に、倭王が皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある[78]

歴史

通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。しかし、厳密な「日本」の成立は、国号にあるように7世紀後期であり、それまでは「倭国」と呼び記されていた。この倭国がどのような地理的範囲あるいは系統的範囲をもつ集団であるかについては史料に明確にされておらず、多くの学術上の仮説が提出されている。倭国と日本国との関係は諸説あり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」とを明確に区別して捉えるべきとする考えも示されている[79]

人類の歴史よりも日本列島歴史の方が数千万年以上長く、日本列島には長らくヒトが住んでいなかった。日本列島の形成が始まったのは、哺乳類が現れた始新世(5600万年前 - 3400万年前)と推測されている。そして、アフリカにヒトが現れた時代は始新世よりも遥か後の更新世末期(約25万年前)である。

時代の区分は、考古学上のものと歴史学上のものとがある。

(1)考古学上は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代弥生時代、歴史時代、とするのが一般的である。

一方、(2)歴史学上は、古代古墳時代から・飛鳥時代奈良時代・平安時代)、中世鎌倉時代室町時代戦国時代)、近世安土桃山時代・江戸時代)、近代明治維新から1945年8月14日まで)および現代(1945年8月15日以降)の五分法が通説である[80]

建国をめぐる議論

国家としての日本、日本の民族・文化は、有史以前からの長い年月を経て段階的に形成されて来ていて、明確な建国の時期を示す記録は存在しない。建国記念の日(旧紀元節)は、記紀神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年1月1日〔旧暦〕、2月11日〔新暦〕)となっている。

『日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰(1月1日)に即位したとの記述があり、古代以来、これが日本建国の画期と広く考えられていた。明治5年11月15日(1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元西暦紀元前660年に始まると定められ、これを元年とする紀年法・「皇紀」が明治6年1月1日(1873年1月1日)から使用された[81]

公的には、この神武天皇即位紀元をもとに1957年頃から「建国記念日」制定に関する法案が9度に渡り提出されてきたが、歴史学の立場から見る神武天皇の即位は、当の記紀に何人もの人が100歳以上生きていたなどの記述もあることから神話と見られ事実でないとするのが戦後の大勢であったため、いずれも成立には至らなかった。しかし1966年建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)により、2月11日が「建国されたという事象そのものを記念する日」として「建国記念の日」が定められた。神武天皇の存在については実在論もあり、議論は続いている。戦後、皇紀の使用は、一部を除きほとんど見られなくなった[82]

建国の時期として、この他に「日本」国号が定められた時期(飛鳥浄御原令ないし大宝律令の成立)や大政奉還がなされて近代国家の建設が始まった明治維新の時期などが挙げられることもある。しかし、国家としての日本は、長い歴史的な経緯を経て形成され、明確な建国の画期を見出すこと自体が困難と言え、主観的なものとなりがちである。

日本の黎明期

日本列島における人類の歴史は、人が住み始めた約10万年前以前ないし約3.5万年前に始まったとされる[注 22]。当時の日本列島は、アジア大陸と陸続きで[注 23]、西方の華北や北方のシベリアとの文化交流も見られた。約3万年前には朝鮮半島と海峡で隔たり、約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると6千年前頃まで100m以上の海進が進んだ(縄文海進)。この時期の住民が縄文人である。この後も列島と大陸との間に小規模ながらも広範囲に通交・交流が行われ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった[83]。だが、東アジアの最東方に所在する大きな島国、という地理的条件により、黄河・長江流域の文明を中心に早期から発展していた中国と比べると、文明の発達度という意味では後進地域となっていた。

紀元前8世紀頃以降、中国南部から稲作を中心とする文化様式を持つ弥生人が流入すると、各地に「クニ」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に形成される。これらの地域的政治集団により、朝鮮半島南部から南西諸島までの範囲で海上交易で結びついた緩やかな倭人の文化圏が構成されていった。こうした文化圏の中で、勾玉などが紀元前6世紀以降日本から朝鮮半島へ伝搬したほか、紀元前2世紀頃に青銅器および鉄器の製造法が日本へ伝わった。1世紀2世紀前後に倭の代表の座を巡って各クニが抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも北九州から本州にかけて存在していた国家群から、最も有力であったヤマトを盟主として統一王権(ヤマト王権)が形成され、これが王朝に発展したとする説が有力である。王権の首長)はのちに大王(おおきみ)と呼ばれ、豪族(地方首長)を従えて統一国家建設を進めた。

律令国家の成立と貴族政治の展開

朝鮮半島における覇権争いが倭国の国家体制を変化させた。それまで、ヤマト王権は、同じ文化圏に属していたツングース系中国人の国家である百済新羅に対して、度重なる出兵を行い任那に日本領を築くなど、朝鮮半島に影響力を持っていたが、663年、百済復興のために援軍を送った白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れて半島への影響力を後退させる。その後間もなくヤマト王権は「倭国」号に代わる「日本国」号、「大王」号に代わる「天皇」号を設定して、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、中国を中心とする冊封体制からの自立を明確にした。これは、他の東アジア諸国と異質な外交姿勢であり、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれた。日本は7世紀後半に中国の法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見た。また古墳時代後期の日本列島には、倭国の他に沖縄諸島に「流求国」が存在した。しかしとの関係が悪化した結果軍事侵攻を受け、610年に滅亡した[84]

日本は、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に中華王朝に対して独自の「天子」を称し、8世紀には渤海を朝貢国とした武家政権成立後も、13世紀元寇16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀欧米列強の進出など、様々な事態にも対応して独立を維持した。

成立当時の倭の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗の強かった東北地方の全域が平安時代後期に(延久蝦夷合戦)領域に組み込まれ、倭人、隼人、蝦夷人が日本人となった。特に8・9世紀は、蝦夷の征服活動が活発化すると共に新羅遠征も計画されるなど帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。

9世紀から10世紀にかけて、地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の公家を押領使追捕使に任じて、各地に派遣したが、中には在庁官人となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが武士の起こりである。武士は家子郎党を率いて戦を繰り返したが、やがて東日本を中心に、連合体である武士団へと成長した。中でも中央貴族の系譜を引く桓武平氏清和源氏は、軍事貴族である武家となって、武士を二分する勢力に成長し、やがて政権を巡って対立することとなる。

また、中央政治においては11世紀藤原北家が皇族の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。白河上皇治天の君として実権を握って以降は、藤原北家と直接の血縁を持たない天皇が早くに譲位し、太上天皇(上皇)となって政を取り仕切る院政がしばしば見られるようになった。

武家政権の時代

10世紀から12世紀にかけて、旧来の天皇を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制、更に武士の清和源氏北条氏が実権を掌握する鎌倉幕府が王朝・貴族勢力と拮抗しながら国内を統治する中世国家へと移行した(荘園公領制職の体系)。12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」や「日本国」の表記が見られ始め、「日本」や「日本人」の意識が強く意識されるようになったことの表れと考えられる。特に13世紀後半の元寇は、「日本」・「日本人」の意識が社会各層に広く浸透する契機となり、併せて「神国」観念を定着させた。網野善彦は、このような「日本」・「日本人」意識は、外国のみならず神仏などをも含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている[85]1333年に鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇は古代の天皇親政に回帰する建武の新政を行ったがほどなく失敗し、1336年に成立した足利氏室町幕府がその後の南北朝時代の騒乱を抑えて中世武家政権の支配を継続した。この室町時代までには、安東氏の活動を通じて「日本」の領域が北海道の南部まで及んだ(道南十二館)。また、15世紀には足利義満による日明貿易が行われ、形式的には足利将軍が「日本国王」として中国の明朝から冊封を受けることになったが、その後の日中関係ではこの関係は定着しなかった。

14世紀から15世紀までの時期には社会の中世的な分権化が一層進展したが、応仁の乱による室町幕府の衰退を決定機として15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ。この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末に豊臣秀吉によって日本の統一政権が樹立されるに至り、近世へと移行した。日本の領域は、この時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道の南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太・カムチャッカを含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は、日本の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、17世紀シャクシャインの戦いロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、日本の領域も「蝦夷が島」(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、中世を通じて鬼界島硫黄島までが西の境界と意識された。17世紀初めに薩摩藩島津氏琉球王国に侵攻して、かつて北条氏得宗領であり、鎌倉幕府滅亡後島津氏の支配下に入った千竈氏の采配地であった奄美群島を直轄地とし、沖縄諸島および先島諸島宮古列島および八重山列島)の琉球王府の支配地から米・砂糖を上納させた[86] が、朝貢貿易は続けさせたため、その後も琉球王国は、日本・明朝(後に清朝)両属の状態に置かれた。

一方、豊臣秀吉が李氏朝鮮に侵攻した文禄・慶長の役の失敗後、1603年徳川家康が開いた江戸幕府は薩摩を通じた琉球侵攻以外はおおむね消極的な外交政策をとり、「鎖国」とも称される海禁政策によって外国文物の流入が強く制限された。18世紀末以降、江戸幕府は千島列島などでロシア勢力と接触し、北方での防衛強化が課題となったが、ロシアとの正式な外交条約や国境画定は「開国」後まで行われなかった。幕藩体制の確立は日本国内の安定化をもたらし、緩やかな経済成長の継続は大都市の発展や商業資本の蓄積として近代化の基盤の一つになった。一方、17世紀以降に発展した国学は日本の伝統宗教である神道の復権をもたらし、その後の日本に大きな思想的影響を与えた。

明治維新と近代日本の展開

19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「日本」・「日本人」意識がさらに強まり、ほぼ現代の「日本」・「日本人」意識と一致するまでに至った。大航海時代以降、アジア各国が欧米列強の植民地とされる中で日本が独立を長く保ったことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の近代国家建設がスムーズに行われる基礎となった。

1853年に起きたアメリカ合衆国マシュー・ペリーによる黒船来航以来、江戸幕府は「開国」政策に転換したが、不平等条約による経済危機や尊王攘夷による討幕運動に抗しきれず、1867年(慶応3年)に大政奉還を行って自ら幕を下ろした。1868年以降、明治天皇を戴きながら長州藩や薩摩藩出身の中下級武士が実権を掌握した新政府の元で明治維新が遂行され、近代化・欧米化路線による国民国家(ネイションステイト)の建設を急速に進めた。同時に近隣国と国境の確定を行い、1875年樺太全域をロシア領とする代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(樺太・千島交換条約)、1876年に小笠原諸島の領有を宣言[87] し、また、琉球処分を行うとともに1885年大東諸島1895年尖閣諸島を編入し、南西諸島方面の実効的な支配を確立した。ここに一旦、近代国家としての日本国の領域が確定した。同時代、大政奉還を行った徳川慶喜から独立した渋沢栄一を主導者として、日本資本主義の基礎構造が形成された。渋沢栄一の下では、日本初の銀行(現:みずほ銀行)が作られ、東京株式取引所帝国ホテル,足尾鉱山組合(現:古河グループ),紡績会社,煉瓦会社,人造肥料会社,絹織物会社等、近代的会社公的機関が500社程度設立された。これ程の会社が渋沢の下で一気に創業された背景には、渋沢が目指す資本主義において不可欠な銀行の取引先が現れず、銀行を十分に機能させる必要性があった事と、有名実業家として頼まれ仕事が多かった渋沢の断りきれない性格も関係していたとされる。この当時の会社は、21世紀以降も姿を変えながら日本経済の重鎮として君臨することとなる。

帝国主義への傾倒

自由民権運動を経て1885年に内閣制度を確立し、1889年に大日本帝国憲法を制定し、1890年に第1回衆議院議員総選挙を実施して帝国議会を設置した。こうして、アジアで初めて憲法議会とを持つ、近代的な立憲国家となった[88]。(正確には、オスマン帝国で1876年に制定されたミドハト憲法の方が先であるが、短期間で停止された)

19世紀後半から20世紀初頭の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られ、日清戦争日露戦争を経て勢力圏の確保を進めた。日露戦争の勝因として1902年イギリスと日英同盟を締結したことが大きかった。両戦争を通じ、台湾・澎湖諸島および南樺太を領土に収め、関東州租借権を獲得した。その後、1910年韓国併合が実施された。

1914年、第一次世界大戦がヨーロッパで勃発すると、日本は日英同盟に基づいて連合国側について参戦し、ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国に対して宣戦布告した。ドイツの租借地であった青島ドイツ領ニューギニアを攻略した。青島占領の後、日本は対華21ヶ条要求袁世凱政府に提示し、中国側の反発を招いた。日本は戦勝国として1919年パリ講和会議に参加し人種差別撤廃案を提出した(アメリカ合衆国などが反対)。また、発足した国際連盟において常任理事国となり、旧ドイツ領の南洋群島委任統治することとなった。一方、このパリ講和会議に際してアメリカから出された十四か条の平和原則は日本が併合した朝鮮で三・一運動を誘発した。時を同じくして大正デモクラシーが起こり、本格的な政党政治や男子普通選挙が実現した。一方で日本はロシアでの社会主義革命成功を強く警戒し、ロシア内戦に乗じたシベリア出兵では極東ロシア地域や北樺太などを一時占領した。1925年、男子普通選挙の成立と同時に制定された治安維持法は設立間もない日本共産党や社会主義勢力、後には自由主義なども広く弾圧した治安機関、特別高等警察の法的根拠となった。

1926年昭和天皇が即位すると、翌1927年に昭和金融恐慌1929年には世界恐慌が起き、日本経済は大きな打撃を受けた。世界恐慌以後、植民地を「持てる国」である英米仏などがブロック経済化を進めて、日独伊などの「持たざる国」を締め出す動きを強めると、日本国内では対外進出によって、状況を打破しようとする動きが強まった。対支一撃論を主張する関東軍は日本が権益を持つ満洲(中国東北部)への侵略を強め[89]1934年満洲国を建国して一定の支配権を得るに至った[90]若槻礼次郎内閣は不拡大方針を打ち出し事態の収拾を図ったが、対外強硬的な世論を背景とする軍部の台頭を抑えきれなくなった。若槻内閣が総辞職すると、犬養毅に組閣の大命が下り、引き続き経済状況の打開と満州事変の処理にあたったが、五・一五事件で過激派海軍青年士官達によって暗殺された。これによって、憲政の常道は幕を下ろした。1937年盧溝橋にて日本軍と蔣介石国民革命軍が衝突すると(盧溝橋事件)、双方の軍事行動により支那事変日中戦争)へと発展した。翌1938年には、新体制運動を主導する近衛文麿首相のもと、国家総動員法が制定され議会は有名無実化した。1940年日独伊三国同盟締結で特にナチス・ドイツとの協力関係を強め、第二次世界大戦において枢軸国陣営への参加を明確にした日本の対外志向は、特に南進論に基づいた進駐によって、アメリカとイギリスを筆頭とする欧米諸国の権益と真っ向から衝突した。この当時、東條内閣の下に戦争のシミュレーションを行う戦力計算室が設置され、アメリカとの戦争で日本の敗戦は確実であるとの試算結果が出ていたが、東條英機が戦力計算室を視察した当日に試算結果に激昂して戦力計算室を廃止している。もっとも、戦力計算室にも非はあり、試算結果の扱いや東條英機に対する伝え方が杜撰であった。

太平洋戦争

1941年にはイギリス領マレーおよびアメリカ自治領ハワイ準州(真珠湾)以下各地を攻撃し(南方作戦)、太平洋戦争へ突入した。一時期は北は満洲とアリューシャン列島の一部、西は中国内陸部やビルマ、南はニューギニアの一部やソロモン諸島、東はギルバート諸島まで広がる地域まで進出・占領したものの、1942年半ば以後は敗走を重ねた。真珠湾攻撃の奇襲に成功しながらドックや補給タンクを放置したことがミッドウエイ海戦での米軍の戦力回復を助けたことなど、自国側の兵站計画だけでなく、敵対国の兵站を断つことへの認識の甘さを指摘する説もある[91]。ミッドウエイ海戦の敗戦により、太平洋の中央から押し返されると、それ以降は元々のGDP差によって時間が経つほどに戦力差は拡大していった。戦況の悪化後は形勢逆転のために召集令状の乱発で国民を次々に戦地に投入したが、アメリカ軍の戦力を上回ることは出来なかった。また、国民の士気の低下を防ぐことを目的とした戦果の誇張、もしくは存在しない戦果を広報する大本営発表や、特別攻撃隊による自爆攻撃なども行われていった。追い詰められた日本兵によるバンザイ突撃も各地で行われている。その後、1945年沖縄戦東京大空襲をはじめとした全国各地への空襲、広島長崎に人類史上初めて有人都市への原子力爆弾による攻撃等では軍人ではなく大量の民間人が犠牲、もしくは殺戮の対象となった。日ソ中立条約の残存期間中にも関わらず戦争終結後の利権を睨んだソビエト連邦による対日戦への参戦(対日宣戦布告)後の1945年8月14日にアメリカ、イギリス、中華民国の名によるポツダム宣言の受諾を連合国側に通知、9月2日に降伏文書に調印した。戦争が継続された場合、本土決戦としては日本側では決号作戦、アメリカ側ではダウンフォール作戦[注 24]が準備されていた。一連の戦争で軍人と民間人合わせ約300万人の日本人が命を落とし、日本経済の破綻と社会の混乱はその後にも深刻な影響を与えた。また戦中に日本が諸外国に与えた被害は多大なものであり、アジア諸国との信頼関係回復や戦時賠償問題が戦後の重要な問題として残された。

戦後復興

アメリカ・イギリスなどの連合国により、日本は史上初めて占領下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領土・権益の全てを失った。日本の占領統治は、日本政府に対して連合国総司令部(GHQ)が指令を出し、日本政府がその指令に沿って統治するという間接統治によって行われ、中央政府が有効に存続したため、中央政府不在を宣言され国家の消滅が確認されたドイツ国とは異なり、戦前と戦後とで同一の国家としての継続性が認められており、帝国憲法下で制定された一部の法令は戦後においても有効とされる。GHQの指令のもと、国制の改革が進められ、大日本帝国憲法の改正手続きによって日本国憲法を制定し、1947年施行の同憲法によって「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」の三大原則を確立した[注 25]。これによって主権は天皇から国民に移行し、天皇は「日本国および日本国民統合の象徴」と規定された一方、国会は「国権の最高機関」とされた。昭和天皇の戦争責任論は棚上げされ、退位論もあったものの、結果的にその地位に留まった。この体制は後に戦後民主主義と呼ばれた。戦争の反省から、日本は世界との平和的協調を模索することになった。

国共内戦における中国共産党の優勢が明らかになると、アメリカは対日政策を転換させ、東アジアにおける友好国とする政策を採るようになった。一方で、急激なインフレを抑制するべく実施された超均衡財政政策であるドッジ・ラインの強行により、中小企業の倒産が増大するなど深刻な不況に陥ったが、1950年に勃発した朝鮮戦争は戦場の後背地である日本で朝鮮特需を生み、経済復興への足がかりとなった。同時にレッドパージが実施されて共産党が衰退し、親米反共主義を掲げる吉田茂首相を中心とした保守勢力が政権を独占し、戦前の政治・経済指導者も次々と公職追放から復帰した。1952年、サンフランシスコ平和条約発効によって日本は全権を回復し、資本主義陣営(西側諸国)の一角として国際社会に復帰したが、同時に成立した日米安全保障条約によって日本への在日米軍駐留は継続された。1955年に講和条約への対応を巡り分裂していた社会党の再統一が実現すると、財界の強い要望を背景として、保守合同により、自由民主党が成立した。これにより形式的に二大政党制が実現したが、その後の日本社会党の弱体化や多党化にも助けられた自由民主党優位の政治体制はその後も続いた(この体制を55年体制という)。1956年、日ソ共同宣言によりソビエト連邦との国交を回復し、同年国際連合に加盟した。対ソ国交回復では1945年にソ連が占領した地域の一部返還を求めた日本側の要求が実現せず、その後も北方領土問題として両国関係の改善を阻害した。一方、1960年岸信介首相は日米安全保障条約の改定を実現させたが、目標としていた日本国憲法の改定は果たせずに退任し、その後の自民党政権は池田勇人による所得倍増計画に象徴される「経済中心路線」を採った。一方、東京通信工業(現在のソニー)によるトランジスタラジオ対米輸出の大成功などは「安くて粗悪」というかつての日本製品の海外イメージを払拭し、外需拡大は経済成長をさらに加速させた。

戦後、復興と共に1970年代半ばまでに目覚しい経済発展を遂げ、日本は世界有数の経済大国となった。1964年には経済協力開発機構(OECD)に加盟すると1968年には西ドイツを抜いて世界第2位の国民総生産(GNP)を計上し、アジアでは唯一の先進国として特に経済面で大きな影響を世界に与え、多くの開発途上国(発展途上国)から経済建設の先行モデルとされるようになった。1964年には東京オリンピックが開催され、1970年には日本万国博覧会大阪府で催された。交通網の整備も急速に進み、1964年には東海道新幹線が開通、1965年名神高速道路1969年には東名高速道路が完成した。マイカーブームの到来により、モータリーゼーションを迎えるとともに、トヨタ自動車日産自動車など国産自動車メーカーの品質が向上し、先進国への輸出もなされるようになったが、大幅な貿易黒字を背景としてアメリカなどとの間で貿易摩擦も生じた。第一次産業の比率が下がり第二次産業第三次産業の比率が拡大する産業構造の高度化が見られ、国際競争力を持てない農山漁村地域やエネルギー革命に直撃された産炭地域での急速な過疎化と、大規模製造業の存在と都市化による商業活動の急拡大が連動した三大都市圏での過密化も進行した。自民党政権は全国総合開発計画新産業都市政策で重工業拠点の全国展開を進め、経済格差の是正をめざした。農村部でも多くの工場が建設され、一方で公害問題の拡大が深刻となり、住民運動の高まりも見られた。一連の高度成長は1973年オイルショックで終止符が打たれ、日本経済は低成長時代へと移行した。

1952年から1953年にかけてトカラ列島や奄美群島、1968年に小笠原諸島、1972年に沖縄県の施政権がそれぞれアメリカから返還された(本土復帰沖縄返還)。アメリカ施政下の日本領土は解消されたが、ソビエト連邦との北方領土問題は解決の目処が立たず、冷戦を背景とした両国間の厳しい対立は続いた。朝鮮半島に対しては、1965年に南部の大韓民国との間に日韓基本条約が締結されて国交が回復したが、経済関係の強化とは裏腹に竹島問題は解消されなかった。また、北部の朝鮮民主主義人民共和国との間では国交回復交渉が難航し、在日韓国・朝鮮人の地位や権利の確認、さらには後に発覚した北朝鮮による日本人拉致問題などもあり、両国関係は改善しなかった。1972年の日中国交正常化で国家承認をした中華人民共和国とは1978年に日中平和友好条約を締結し、緊密な外交・経済協力関係を結んだが、日華平和条約を終了した後も実務関係を維持した中華民国(台湾)との関係や、1970年代から中国側が領土主張を始めた尖閣諸島問題は、戦争についての歴史認識問題などと合わせて日中間の懸案として残った。

現代

21世紀に至り、少子高齢化社会に伴う人口減少、国内産業の空洞化など先進国特有の問題が生じている。日本特有の問題としては産業のガラパゴス化があり、従来日本経済を支えていた自動車メーカーや電機メーカーがデファクトスタンダード確立に失敗して凋落したことが大きな痛手となっている。特に現代社会の中枢を担うIT産業では、GAFAファーウェイサムスン電子等を筆頭として、海外企業が世界シェアの殆どを獲得する中で、日系IT企業は日本国内でもシェアを奪われた。その上、日本では官民問わず科学技術への投資が減額され、給与も減額され続けたため、外資系企業への技術人材流出を招いた。ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソン氏により、現代日本は強大になり過ぎた企業が労働者を安く買い叩くmonopsony(モノプソニー)と呼ばれる状況に陥って、生産性の低下や財政の弱体化が起きている可能性が指摘されている[92]インターネットスマートフォンの普及に伴うユビキタス社会の到来やグローバル化の進展は、ガラパゴス化した日本文化へのアクセスを容易にし、訪日外国人旅行の増加に寄与したが、経済効果は限定的である。1979年以降の改革開放路線を皮切りに中国経済は急成長を続け、2010年に日本は中国に抜かれてGNPでソビエト連邦時代以来となる世界3位に後退した。経済力と軍事力を背景にした中国の対外進出は尖閣諸島問題の激化や日本の同盟国であるアメリカ合衆国との対立を招き、日中関係はかつての「蜜月」から大きく様変わりした。さらには情報工学(IT)分野におけるアメリカ産業の復活や韓国・台湾・中国企業のシェア拡大、インドブラジルをはじめとする新興大国の政治的・経済的台頭のなか、日本は相対的に不利な立場に立たされている。その後、2019年12月に新型コロナウイルスの感染拡大が始まり、日本社会にも否応なく根本的な変革を求められた。

1993年から1994年にかけて史上初の下野を経験した後に与党へ返り咲き、2001年に首相となった小泉純一郎が進めた新自由主義政策によりその経済政策を大きく変えた自民党は、2009年民主党に政権を奪われたが、2012年安倍晋三によって公明党との連立政権を復活させた。その間、東日本大震災に関連した福島第一原子力発電所事故が発生し、処理水問題を始め日本は現在も事後対応の途上にある。安倍は自らの名を冠したアベノミクスによる経済再生を掲げ、憲法改正の意欲も強く示したが、経済格差の拡大を指摘し、集団的自衛権の容認などにも反対する国民も多く、政権の是非を巡る議論や対立が続いた。その中で、観光立国推進も兼ねて2020年に行われる東京オリンピックを目標とした新たな技術やサービスの開発も各分野で進められていたが、新型コロナウイルスのパンデミック発生により、経済におけるヒトとモノの移動が難しくなり、東京オリンピックは1年延期と開催規模縮小を余儀無くされた。それ以後、世界的にパンデミック収束の見通しが立っていないため、先行き不透明な状況となっている。また、IT後進国となっていた日本であるが、コロナ感染のリスク増大により、IT業界を中心に通勤からテレワークへの転換が急ピッチで進められた。世界的な災禍の煽りを受けて日本経済も大きく混乱し、資金繰りの悪化から日本企業の連鎖倒産の危険性が大きく高まるなど、コロナ禍後のV字回復が難しくなる可能性が指摘された。憲政史上最長の安倍政権の終焉により、2020年9月16日菅義偉が首相に就任した。菅内閣を「働く内閣」として位置づけ、コロナ禍への対応、縦割り組織の是正やデジタル化のための改革といった政策を打ち出している[93]

災害対応としては、1995年阪神淡路大震災2011年東日本大震災などの予想を遥かに上回る巨大地震の発生は福島第一原子力発電所事故を含む甚大な被害をもたらした事、2010年代には記録的な豪雨や非常に強い台風も増加した事で、防災減災行政の整備は目下緊急の課題となっている。

地理

日本は明治以来、憲法における領土規定がなく、これは比較法学の観点では特殊なものであった[96]。島嶼部についての領有宣言、あるいは周辺諸国との条約がおもに領土領陸の法規範であり、第二次大戦後は日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が主要な法規範を形成している。

地勢

日本の領土は、6,852の本土5島+離島6,847島)からなる[97]

アジア・東アジアの中でも東方にあり、ユーラシアの東端近くにあたるため、東洋極東などと呼ばれる地域に含まれる。領土の大部分が、島弧をなす日本列島である。これは本州・北海道・九州・四国などからなる。このほか、南に延びる伊豆・小笠原諸島、南西に延びる南西諸島(沖縄本島など)、および北東に位置する北方四島(北方領土)なども有する。

領土面積は約37.8万平方キロメートル(日本政府が領有権を主張する領域)で世界第60位である。国土の約70%が山岳地域であり、森林率は約67%である。

埋立地は古くから造成されてきたが、その多くは港湾を形成・整備することが目的であった。これによる埋立地ポートアイランド六甲アイランド神戸空港などである。最近では関西国際空港横浜八景島和歌山マリーナシティなどがあり、総面積は国土の約0.5%に相当する。また、諫早湾干拓事業八郎潟のような大規模事業のような例もある。

離島が多数存在し、その中には様々な理由で(多くは私有地や重要な施設があるため)立入禁止の島もある。琉球諸島伊豆諸島は離島の内でも交通の便が良く、南方の島々は亜熱帯気候あるいは熱帯雨林気候となっているため「日本のハワイ」等と称され、日本人観光客に人気である。

最東端
東京都小笠原村 南鳥島 (北緯24度16分59秒・東経153度59分11秒)
最西端
沖縄県八重山郡与那国町 トゥイシ[98][99] (北緯24度27分05秒・東経122度55分57秒[99]
日本最西端は長らく与那国島西崎(いりざき)とされてきたが、2019年に基本図とされる国土地理院の2万5千分の1地形図が改訂され、与那国島北北西260mに位置するトゥイシが日本最西端の地点となった[98][99]
最南端
東京都小笠原村 沖ノ鳥島 (北緯20度25分31秒・東経136度04分11秒)
最北端
北海道稚内市 弁天島 (北緯45度31分35秒、東経141度55分09秒)(日本政府の実効支配下にある領域の最北端)
北海道蘂取郡蘂取村 択捉島カモイワッカ岬 (北緯45度33分28秒・東経148度45分14秒)(日本政府が領有権を主張する領域の最北端)

周囲を太平洋日本海東シナ海フィリピン海オホーツク海などの海洋に囲まれる。本州と四国との間の海は瀬戸内海と呼ばれる。陸上の国境線が無く、ロシア北朝鮮、台湾、韓国、中国、フィリピン、アメリカと排他的経済水域が接している。また、南方にパラオ共和国、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア連邦があり、太平洋を挟んでアメリカ大陸がある。沖合を暖流日本海流(黒潮)、対馬海流寒流千島海流(親潮)、リマン海流が流れる。

領土問題のある地域が数箇所存在する。

自然地理的区分は、地質構造を基準に、本州中部を南北に縦断する糸魚川静岡構造線を境に、南西日本と東北日本とに大別される。付近では、ユーラシアプレートフィリピン海プレート太平洋プレート北アメリカプレートがせめぎ合い、環太平洋造山帯環太平洋火山帯環太平洋地震帯と呼ばれる帯の一環をなしている。そのため、世界全体で放出される地震エネルギーのうち1割から2割が日本の周辺に集中すると言われているほど地震が頻発し、震度1や2クラス程度の地震なら、どこかで毎日のように起きている。また、火山活動が活発なことから火山性土壌が多く、これが日本列島の自然を豊かにした面もある。温泉が多いことも火山の恵みと言える。一方で日本史では大きな噴火活動が何度も記録され、さらに近年の地質学研究によって先史時代に何度かの破局噴火が起きていたことが分かっている。

山岳は、最高峰は富士山(標高3,776m)の他、南アルプス北アルプスなど、2500m超えの山が本州中央に集中している。他、大雪山磐梯山阿蘇山などが有名である。富士山はその優美な風貌から数多くの芸術作品の題材とされることで芸術面でも大きな影響を与え、日本の象徴として広く世界に知られている。

河川は、利根川最上川などが代表的であるが、大陸河川と違い、源流から河口までの距離が大変に短いこと、海抜高低差が急なこともあり、比較的流れが速い。集中豪雨が発生すると堤防が決壊し、人家・田畑に甚大な被害を及ぼすという短所もあるが、比較的新鮮な水が取水しやすいのも特色である。

周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・漁業ともに盛んな海洋国家である。内海を含む領海を入れた領域の面積は約43万km2である[100]

日本政府が主張する日本の排他的経済水域 (EEZ) は領土面積の約12倍である約405万km2、領海とEEZを合計すると約447万km2であり世界では第6位となる[101]。ただし日本が領有権を主張しているが韓国に不法占拠されている竹島と日本が実効支配しているが近年になって中国が領有権を主張している尖閣諸島周辺海域についてはそれぞれの国家間で重要な外交問題となっている。また、九州西方と東シナ海の領域については中国と韓国が自国の領海から延伸する大陸棚に関して国際法を無視して権利を主張している。

EEZとは別に国連海洋法条約において排他的な海底資源権益が与えられる法的な大陸棚については、2012年4月に国連大陸棚限界委員会が「四国海盆海域」、「小笠原海台海域」、「南硫黄島海域」、「沖大東海嶺南方海域」の4海域を日本の大陸棚と認定した[102]

国土の変遷

古代

弥生時代後期、西日本の各地に広域の地域勢力が勃興した[103]。2世紀末には畿内を中心として、西日本広域を支配する邪馬台国連合が創設された。邪馬台国連合は3世紀には東海・北陸のほか東日本も支配下に置き倭国が成立した[104]古墳時代前期前半には、現在の九州の宮崎県から東北宮城県の範囲まで国土が拡大されたことが、古墳造営の消長から明らかになっている[105][注 26]。ただし倭国は東北など各支配領域を確保・維持しようとする考えを持っておらず[106]、6世紀には、経済基盤が脆弱な阿武隈川以北を倭国の支配地から切り離し[107] 古墳時代後期には太平洋側では現在の宮城県南部、日本海側では現在の新潟県中部までが倭国の支配領域となった[108]。 またこの間、400年(履中天皇元年)と404年(履中天皇5年)に倭は朝鮮半島で百済・加耶諸国と共に高句麗・百済連合軍と2度にわたって合戦を行っている[109]

奈良平安時代の日本国は、北は津軽海峡まで、南は喜界島までを国土と認識していた[110]。しかし東北地方に対しての関心の希薄さは変わることがなく、東北地方北部を完全な形で支配する必要性は感じていなかったため[111]、実際には大崎平野までが8世紀における日本国の北限であった[112]。9世紀、陸奥・出羽からの徴税の京進が行われなくなると[113] 関心は更に希薄になり、東北北部の経営は現地の官人任せになっていった[114]。また、南西諸島への関心も薄れていった[115]

古代の日本では、畿内と言われる行政区が設けられていた。大化の改新によって設置された当時から機内は支配者にとっての特別な地域と認識されていたが[116]、律令制施行後は直轄地として国家を支える役割を担った[117]

中世

中世後期の日本は、室町将軍との間に<主-従の関係>を築くことが出来ているか、室町将軍を頂点とした階層的な秩序の内に居るか、あるいは外に居るかで境界が引かれていた[118]。将軍に反逆し命令の届かない地域は支配権の外に置かれ、<主‐従の関係>の有無によって境界が明瞭化された[119]

歴史学において室町幕府3代将軍・足利義満の治世は初の公武統一政権と評価されている[120]。しかし室町幕府は地方への関心を殆ど持たない政治権力であり[121]、自らが統治すべき範囲は畿内近国・瀬戸内・中部地域と考えており、幕府にとって東北・関東・九州は辺境でしかなかった[122]

15世紀前半、永享の乱によって将軍と鎌倉公方との<主ー従の関係>が崩れると、 幕府は日本国の東側の境界は駿河国までであると規定するようになり、東国を日本国から切り離した[123][124][125]。一方で当時は独立国だった琉球国は室町将軍との間に<主‐従の関係>を結んでおり、将軍による<主‐従の関係>は国家間においても成立しうる概念でもあった[126]

1419年(応永26年)、李氏朝鮮倭寇の拠点壊滅を目的に対馬を攻撃したが作戦は失敗に終わった(応永の外寇)。その後対馬を李氏朝鮮領とするため対馬-李氏朝鮮間で交渉が行われたが、交渉は不調に終わり対馬は引き続き日本国に所属することになった[127]

文明年間、大和興福寺・別当の尋尊は「大乗院寺社雑事記」で、中世後期の日本国の範囲は現在の近畿・東海・北陸・中国・四国の各地域であるとしている[128]。一方、戦国時代末期の天正9年(1581年)、織田信長は毛利氏との決戦の意思を明らかにした際、「今度、毛利家人数後巻として罷り出づるに付いては、信長公御出馬を出だされ、東国・西国の人数膚を合せ、御一戦を遂げられ、悉く討ち果たし、本朝滞りなく御心一つに任せらるべきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り候」と語り、東国(織田領)と西国(毛利領)が合戦し西国を討ち果たせば本朝(日本国)は滞りない状態になるだろう、と日本国の範囲を規定している[129]

近世

織田政権を継承した豊臣政権は、四国平定九州平定を経て1588年(天正16年)日本国の統一を成し遂げた[130]。豊臣政権はその後東日本にも支配を拡大し[131]、1590年(天正18年)の奥羽仕置により初めて本州北端までを日本の国土に組み込んだ[132]。更に秀吉は「唐入り」と称して朝鮮半島に2度に亘って攻め込むが、中国大陸・朝鮮半島へ支配を拡げるには至らなかった(文禄・慶長の役)。

豊臣政権を継承した徳川幕府は、豊臣政権とは一転して国際的孤立主義の道を選び[133]、長崎・対馬・琉球(薩摩)・松前の4地域を窓口として対外交渉を行った[134]

1609年(慶長14年)、薩摩藩が琉球に侵攻し冊封関係を築き支配下に置いたが、琉球は中国とも朝貢関係を持ち続け、日本国と中国()との間で両属的な関係を維持した[135]。また、徳川政権期、蝦夷地(北海道)は松前藩が支配する渡島半島の南部の「和人地」以外は日本国の外と認識していた[136]

近代以降

辺境地域の領土確定を課題としていた明治新政府は1870年(明治3年)、北海道を日本国に組み込み、1879年(明治12年)にはとの帰属交渉が未決のまま、琉球を沖縄県として公式に日本国に編入した[137]

19世紀末以降、日本国は対外戦争により国土を拡げていき、20世紀前半には日本史史上最大規模に拡大した。1895年(明治28年)に日清戦争の結果、清から台湾を獲得(下関条約)し[138]、1905年(明治38年)には、日露戦争後の交渉で、ロシアより南樺太の割譲を受けた[139]ポーツマス条約)。更に1910年(明治43年)にはそれ以前より日本国の保護下にあった朝鮮を併合した[140]。その後、1922年(大正11年)には南洋諸島の委任統治も開始し[141]、太平洋側へも支配地域を拡大させた。

1932年(昭和7年)には満州国を建国し[142]。1937年(昭和12年)、盧溝橋事件をきっかけに開戦した日中戦争により中国大陸に占領地を拡大。1940年(昭和15年)9月、フランス領インドシナ北部へ進駐を開始し(仏印進駐[143]、翌年7月には南部仏印進駐、翌年7月には南部にも進駐を開始した[143]

1939年(昭和14年)2月、台湾総督府は海軍と共に海南島を占領した[144]。台湾総督府は台湾の重工業化を企図し、「台湾の植民地」として海南島を支配下に置くことを目論んだものだった[145]。だが占領後の海南島支配は海軍が主導することになり、台湾総督府は海軍に協力することでしか関与できなかった[146]

1941年(昭和16年)12月、日本は太平洋戦争の開戦と共に南方作戦を発動し、翌年5月には東南アジア一帯を国土に組み込んだ[147]。しかし太平洋戦争に敗れると、日本はそれ以前からの各植民地を失い満州国も消滅。1951年(昭和26年)に締結されたサンフランシスコ条約により南樺太、千島列島の領有権も放棄することになった[148]

1972年(昭和47年)には、太平洋戦争末期からアメリカの占領状態にあった沖縄が日本に返還され[149] 現在に至っている(沖縄返還)。

気候・動植物

気候
ケッペンの気候区分によると、本州以南沖縄諸島大東諸島以北の大半が温帯多雨夏高温気候 (Cfa)、宮古諸島・八重山列島(石垣島西表島・与那国島・波照間島)・沖大東島などでは熱帯雨林気候 (Af))に属する一方、北海道などが亜寒帯湿潤夏冷涼気候 (Dfb) を示す[150]モンスーンの影響を受け四季の変化がはっきりしているものの、全般的には海洋性気候のため大陸と比較して冬の寒さはそれほど厳しくなく温和な気候である。飛び地海外領土などを別にすれば、一国の領土内に熱帯から亜寒帯までを含む国家は珍しい。北半球では他にアメリカ合衆国と中華人民共和国ぐらいである。(標高の高さによる寒冷地域は除く)
冬季は、シベリア高気圧が優勢となり北西の季節風が吹くが、その通り道である日本海で暖流の対馬海流から大量の水蒸気が蒸発するため、大量の雪を降らせる。そのため、日本海側を中心に国土の約52%が世界でも有数の豪雪地帯となる。併せて、日本海側で起きる冬季雷世界でも稀な自然現象である。太平洋側では、空気が乾燥した晴天の日が多い。
夏季は、太平洋高気圧の影響が強く、高温多湿の日が続く。台風も多い。但し、北部を中心にオホーツク海高気圧の影響が強くなると低温となり、しばしば農業に影響を与える。
比較的、降水量の多い地域である。主な要因は、日本海側での冬季の降雪、6・7月(沖縄・奄美地方は5・6月)に前線が停滞して起こる梅雨、夏季から秋季にかけて南方海上から接近・上陸する台風など。年間降水量は、約1,700mmで地域差が大きい。南鳥島を除く日本全域がモンスーン地域で、山がちな日本列島の西岸および南岸の周りを暖流が流れている為に雲が発達しやすく、日照時間は約1800時間程度と世界の他の温帯地域と比べても少なめである。
生態系
南北に長く、また、森林限界を越える高山帯や広い海洋、四季の変化により、面積の広さに比べ、生息する動物植物の種類が豊富である。津軽海峡以北の北海道の生態系は沿海州の生態系に似ており、ブラキストン線という境界が提唱されている。屋久島と南西諸島の間には、温帯と亜熱帯の生態系の分布境界線である渡瀬線が提唱されている。このほか海峡を主に複数の分布境界線が提唱されている。
四方が海で囲まれているため、外部から新しい生物が侵入してくる可能性が低かった。それに加え、多くの離島があるため、その島独自の生態系が維持されてきた土地が多数ある。特に小笠原諸島や南西諸島は、古くから本土と比べて孤立した生態系を築いてきたため、その島に固有の動植物が多く生息している。小笠原諸島は、「東洋のガラパゴス」と呼ばれるほど特殊な生態系を持つ。南西諸島でも、西表島のイリオモテヤマネコ奄美大島徳之島アマミノクロウサギをはじめ、固有生物が島ごとに生息している例がある。だが、近年の開発や人間が持ち込んだ外来生物により、生態系は激変し、固有の動植物の生息が脅かされている場所が多い。
植物・森林
熱帯のものから亜寒帯のもの、さらには高山ツンドラに生育する高山植物に至るまで植物の種類が豊富で多様性に富む。降水に恵まれ、高湿度に適した植物が多く分布している。コケ植物シダ植物などが特に豊富。大陸から離れた地形から、スギなどの日本固有種が広く分布する。慣習的に国花と同等の扱いを受ける。この他、各自治体でも独自の木や花を制定している。
陸地の約3分の2が森林(森林率66%[注 27]・森林面積:2,512万ha・2009年現在)である。亜熱帯から亜寒帯に渡る、どの地域でも年間の雨量が十分で、森林の成立が可能である。平地の植生は、南の約3分の2が常緑広葉樹林、いわゆる照葉樹林という型であり、北の約3分の1が落葉広葉樹林ブナ林を代表とする森林である。標高の高い地域では、更に常緑針葉樹林、一部に落葉針葉樹林がある。南西諸島の一部は熱帯に属し、沿海の干潟にはマングローブが発達する。
この森林面積の内訳は、天然林が53%(1,335万ha)、人工林が41%(1,036万ha)、その他(標高などの条件で未生育の森林など)が6%、となっている。内、人工林は、第二次世界大戦後の拡大造林の影響を受けたことから、スギ林が多数(452万ha)を占める。これは、高度経済成長期に木材需要の逼迫から大量の天然林が伐採され、木材の生産効率のみを考えたスギ・ヒノキ林に更新されたためである。その後海外からの輸入量が急増し、一転して木材の価格が暴落した結果、採算の取れない人工林の多くが取り残される結果となった。放棄されたスギ林では、下層植生が発達せず貧弱な生態系となり、防災や水源涵養の面でも問題が多い。また、スギやヒノキの大量植樹は時に「国民病」とも呼ばれる花粉症の蔓延を招いている。
動物
哺乳類
100種強が生息し、その内、固有種が3割を超え、7属が固有属である。日本の哺乳類相は、北海道と本州との間にあるブラキストン線、また、南西諸島のうち、トカラ列島と奄美群島との間にある渡瀬線で区切られ、これらを境に異なる動物群が生息している。
大型哺乳類では、北海道のヒグマエゾシカ、本州のツキノワグマニホンジカニホンカモシカなどがいる。
固有種であるニホンザルのうち、下北半島に住む個体群は、世界で最も北方に棲息するサルである。ニホンオオカミエゾオオカミニホンアシカ、日本のラッコ個体群、および、ニホンカワウソは絶滅。
鳥類
500種を越える鳥類が観察される。四方の海に加え、水源が豊富な日本では、河川や池、湖が多く、それに棲む水鳥の種類が豊富である。日本列島はシベリアで繁殖する鳥の越冬地であり、東南アジアなど南方で越冬した鳥が繁殖する地であり、さらに北方から南方に渡る渡り鳥が通過する中継地としても重要で、季節によって多彩な渡り鳥を観察することができる。近年、乱開発による干潟の減少や、東南アジアの森林の破壊が、日本で見られる鳥類の存続の脅威となっている。水鳥の生息地として国際的に重要な37の湿地が、ラムサール条約に登録され保護されている[151]
渡りをしない留鳥としては、国鳥キジなどがあげられる。人家の近くには、カラススズメハトツバメハクセキレイなどが生息し、古来より文化の中で親しまれてきた。最近ではヒヨドリムクドリが人家周辺に多い。
固有種は、メグロなどがある。トキの個体群は、絶滅。現在、佐渡市で人工的に繁殖されているトキは、中国の個体群から借り入れたものである。
爬虫類両生類
いずれも亜熱帯に種類が多く、南西諸島に半分以上の種が集中する。これは、島ごとの種分化が進んでいるためでもある。本土における島ごとの種分化は、さほど見られない。例外は、サンショウウオ類で、南西諸島に見られないが、本土の各地方での種分化が進み、多くの種を産することで世界的にも知られる。また、現存する世界最大の両生類であるオオサンショウウオは、日本を代表する両生類として世界的に知られる。
魚類
近海の魚類は、種類、数、共に豊かで、三陸海岸沖から千島列島に掛けてが世界三大漁場の一つに数えられる。近海を暖流と寒流とが流れ、これらの接点である潮境でプランクトンが発生しやすいことや、周辺に広い大陸棚や多様で複雑な海岸を持つこと、などが好条件となっている。淡水魚の種は、大陸に比べて河川の規模が小さいため、多くない。古代湖である琵琶湖などに多彩な種が棲息するものの、アユなど食用に供される種の人為的な放流や外来魚の勢力拡大により、希少種の絶滅や淡水魚類相の激変が問題となっている。他方、雨量の多い気候のために河口域に汽水域が出来やすく、貝類も豊富である。
また、2010年に海洋生物センサス (Census of Marine Life) が出した報告により、日本近海は、世界25箇所の代表的な海の中で最多となる、約3万3000種の海洋生物が生息していることが明らかとなった[152]。これは日本の気候が南北に渡って非常に多彩であり、同時に大きな海流に恵まれ、海水が多くの栄養を持っていることを示している。例えば北海道は流氷の南限であるのに対し、南西諸島および小笠原諸島はサンゴ生育の北限である。
昆虫
亜熱帯のものから亜寒帯のものまで種類が豊富で多様性に富む。森林が多いため、数も多い。都市部でも多くの昆虫が見られる。雨が多く、湿地や水田が各地にあるため、特にトンボの種類が多い。また、カブトムシなど里山に暮らす昆虫も多く見られたが、暮らしの変化と共に少なくなった。江戸時代頃からスズムシコオロギの鳴き声を楽しむために飼育が行われてきた。愛玩対象として昆虫を飼う文化は、世界的にも珍しい。オオムラサキが国蝶。

環境問題

1950-60年代、四大公害病に代表される大規模な公害の発生から、1967年の公害対策基本法を始めに水質汚濁や大気汚染などの規制法が相次いで成立した。これを受け、日本企業は、オイルショックのためにマイナス成長下にあった1973年-1976年の前後に集中して公害の防止への投資を行い、1970年代以降、大規模な公害の件数が急速に減少した。また、この投資は、オイルショック下の日本経済の下支えの役割を果たしたため、「日本は公害対策と経済成長を両立させた」と言われる[153]
しかし、日本列島改造論が叫ばれた1970年代以降、地域振興を名目に道路建設や圃場整備などの公共事業リゾート開発などの大型開発が盛んに行われ、日本固有の風致や生態系は大きく損われてしまった。また、ゴミ問題のために富士山の世界遺産登録を断念したことに象徴されるように、環境管理においても多くの課題を抱える。人工林の荒廃やダム建設などによって河川や山林の生態系が衰退していることにより、ニホンザルやイノシシが市街地に出没するなど、人間の生活への影響も出ている。
高度経済成長期以降、日本人の食卓の変化や、海外の農産品の輸入増加、東京一極集中、天然林の伐採、地域振興における公共事業偏重など様々な要因により、農山村や農林水産業が衰退した。これに伴い、耕作放棄地の増加、人工林の荒廃、水産資源の減少などの問題が発生している。

地域区分

都道府県(1都1道2府43県)という広域行政区画から構成される。但し、それよりも広域の地域区分(地方区分)には、揺れが見られる。都道府県の内部には、市町村や、町村をまとめた、特別区等がある(日本の地方公共団体一覧参照)。一部のは、行政上、別途政令指定都市中核市施行時特例市に定められている。

北海道地方
1.北海道
東北地方
2.青森県 - 3.岩手県 - 4.宮城県 - 5.秋田県 - 6.山形県 - 7.福島県
関東地方
8.茨城県 - 9.栃木県 - 10.群馬県 - 11.埼玉県 - 12.千葉県 - 13.東京都 - 14.神奈川県
上記は「一都六県」。「首都圏」はこれに山梨県を、「広域関東圏」には関東地方1都6県に以東の新潟・山梨・長野静岡の4県を、それぞれ加える。
中部地方[154][155]
北陸地方[156][157][158]
15.新潟県 - 16.富山県 - 17.石川県 - 18.福井県
福井県嶺南地域を近畿地方に含める場合がある。
新潟県を北陸地方に含めず、長野県、山梨県とともに甲信越と称する場合も多い。
東山地方[159]
19.山梨県 - 20.長野県
中央高地[注 28] ともいう。岐阜県飛騨地域を加える場合もある。
東海地方
21.岐阜県 - 22.静岡県 - 23.愛知県
普通、「東海3県」というと、静岡県ではなく三重県を含めることが多い。なお、静岡県については関東甲信越各県と併せて広域関東圏とする場合も多い。
近畿地方
24.三重県 - 25.滋賀県 - 26.京都府 - 27.大阪府 - 28.兵庫県 - 29.奈良県 - 30.和歌山県
但し、三重県は近畿地方に含めず中部地方もしくは東海地方に含まれることも多い。なお、近畿地方のことを「関西地方」と呼ぶ場合は通常、三重県を除く2府4県のことを指す(場合によっては三重県のうち伊賀地域を加えることもある)。
中国地方
31.鳥取県 - 32.島根県 - 33.岡山県 - 34.広島県 - 35.山口県
鳥取県と島根県、そして場合によっては山口県の一部や兵庫県・京都府の一部をも含む地域を、山陰と呼ぶ。岡山県と広島県に山口県の多くを含めた地域を、山陽と呼ぶ(兵庫県の一部を含むこともある)。また、山口県を九州地方と併せて九州・山口地方とする場合もある。
四国地方
36.徳島県 - 37.香川県 - 38.愛媛県 - 39.高知県
四国山地より北を北四国、南を南四国とする。また、中国地方とあわせて中国・四国地方(中四国地方)とする場合もある。その場合、山陽と北四国とをあわせて瀬戸内と呼ぶ。
九州地方
40.福岡県 - 41.佐賀県 - 42.長崎県 - 43.熊本県 - 44.大分県 - 45.宮崎県 - 46.鹿児島県
山口県とあわせて九州・山口地方とする場合や、沖縄県とあわせて九州・沖縄地方とする場合もある。
奄美群島は、歴史・文化・自然等の面において九州よりも沖縄に近い[160][161][162] ため、奄美群島を沖縄県とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。
沖縄地方
47.沖縄県
沖縄県は九州地方に含む場合もある。九州地方に含める場合は九州・沖縄地方と呼称することもある。
沖縄県は奄美群島と文化的、自然的に近い[163][164] ため、奄美群島とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。

都市

法定人口による政令指定都市の順位付け
参考のため、東京都区部を併記
順位都道府県市(区)法定人口推計人口増減率 (%)種別推計人口の
統計年月日
00東京都特別区部8,949,4479,650,247+7.83特別区部2021年2月1日
01神奈川県横浜市3,689,6033,757,630+1.84政令指定都市2020年9月1日
02大阪府大阪市2,666,3712,753,476+3.27政令指定都市2021年1月1日
03愛知県名古屋市2,263,9072,327,723+2.82政令指定都市2021年1月1日
04北海道札幌市1,914,4341,961,690+2.47政令指定都市2020年12月31日
05兵庫県神戸市1,544,8731,514,434-1.97政令指定都市2021年2月1日
06京都府京都市1,474,4731,455,377-1.30政令指定都市2021年2月1日
07福岡県福岡市1,463,8261,603,043+9.51政令指定都市2020年9月1日
08神奈川県川崎市1,425,6781,539,522+7.99政令指定都市2020年9月1日
09埼玉県さいたま市1,222,9101,320,197+7.96政令指定都市2021年1月1日
10広島県広島市1,174,2091,198,224+2.05政令指定都市2021年1月1日
11宮城県仙台市1,045,9031,092,317+4.44政令指定都市2021年2月1日
12福岡県北九州市977,288935,084-4.32政令指定都市2020年9月1日
13千葉県千葉市962,130981,871+2.05政令指定都市2021年2月1日
14大阪府堺市842,134824,403-2.11政令指定都市2021年1月1日
15新潟県新潟市812,192791,326-2.57政令指定都市2021年2月1日
16静岡県浜松市800,912788,513-1.55政令指定都市2021年2月1日
17熊本県熊本市734,294738,469+0.57政令指定都市2021年2月1日
18神奈川県相模原市717,561722,973+0.75政令指定都市2020年9月1日
19静岡県静岡市716,328686,085-4.22政令指定都市2021年2月1日
20岡山県岡山市709,584720,456+1.53政令指定都市2021年2月1日

政治

法制

日本国憲法を最高法規とし、この下に、国会が制定する法律、内閣が制定する政令各省庁が制定する省令などの命令地方公共団体が制定する条例など、各種の法令が定められる。この他、日本国憲法改正以前の勅令や大日本帝国憲法以前の太政官布告・太政官達は新たに制定されることはなくなったが、憲法に違反しない限り有効である[注 29]。2019年現在において国立国会図書館のデータベースである 日本法令索引 は、有効な勅令としては本初子午線経度計算方及標準時ノ件(明治19年勅令第51号)、s:閏年ニ關スル件(明治31年勅令第90号)など57件、太政官布告・太政官達は改暦ノ布告(明治5年太政官布告第337号)など9件を収録している。憲法上、裁判所は、全ての法令や行政行為などが憲法に適合するか否かを最終的に判断する違憲法令審査権を有し、最高裁判所を終審裁判所とする。もっとも、いわゆる司法消極主義に基づき、国会や内閣など政治部門の判断への干渉は、憲法判断に関する統治行為論を代表として司法判断を控えることが多い。

憲法

現行の憲法は日本国憲法であり、国家形態および統治組織作用を規定する[165]1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年昭和22年)5月3日に施行された[165]

形式的には大日本帝国憲法第73条を適用して、大日本帝国憲法改正手続を経て制定された。以降、2019年現在に至るまで、改正されたことは一度もなく、硬性憲法に分類される。

日本国憲法の根底には第13条個人の尊厳」の理念があり[166][167]、以下の三つを三大原理とする[168][169][170]

長らく、戦争の放棄、戦力の不保持を定めた第9条自衛隊の存在意義などを巡って憲法改正論議が行われている。なお、一部には、現行憲法の制定に法的瑕疵があったとして日本国憲法自体の無効を主張し、今も大日本帝国憲法が有効であるとする者もいる。

法律

明治維新以来、信託等一部の民法の規定を除き、大陸法系(特にドイツ法及びフランス法)を基礎としているが、立憲君主制議院内閣制英国法、最高裁判所以下司法についての規定につき米国法の影響を強く受けているなど、憲法を中心として英米法の影響も見られる[171]。日本国憲法、民法、商法刑法民事訴訟法刑事訴訟法を総称して六法と称する。この六法が日本の法令の基本を成し、日本の法学の基本的な研究分野と考えられてきたことによる。商法のうち、企業に関する定めの多くは、会社法に分けられた。刑法には、死刑懲役禁錮罰金拘留科料没収刑罰として定められている。私法分野においては一定の範囲内で慣習法は効力を有するが(法適用通則法3条)[注 30]、刑法については罪刑法定主義を採り、慣習法を排除する。

死刑制度のあり方を巡っては、憲法制定の当時から議論がある(死刑存廃問題#日本での動きを参照)。ただし、判例は死刑制度を合憲としており(死刑制度合憲判決事件)、いわゆる「永山基準」を「死刑選択の許される基準」としている[172]。2009年より、刑事事件につき重大な犯罪について裁判員制度が導入されている。

報道の自由

戦後、憲法によって表現の自由報道の自由が保障され、建前上、報道に関する政府からの介入は存在しない。

記者クラブ制度によって加盟しているマスメディアのみが記者会見を独占し政府や行政機関などからの情報を受けるメリットを享受している。記者クラブが開催している会見は、加盟マスコミ以外を排除しており、報道の自由を侵害しているとフリージャーナリストや外国メディアなどからの批判が多い。テレビ放送・ラジオ放送については放送法により、中立な内容が義務付けられており、政府が発行する免許が必要である。総務省所掌の公共放送である日本放送協会(通称:NHK)の予算は、国会の承認が必要である。新聞については、再販制度の存廃など、様々な形で事実上の介入が行われている。また、収入源の広告料収入を大企業に頼る大手マスメディアは、スポンサーとなりうる大企業を批判することに慎重であり、また中国をはじめ経済的に大企業が依存する国家に対しても慎重な態度を取る。一方、一部団体の抗議の対象になるのを避けるため、「放送禁止用語」や「出版禁止用語」を定めて差別的な表現や下品な表現を「自粛」・「自主規制」することが行われている。また、現在進行中の誘拐事件など人命に関わる場合などにも「自主規制」の対象になる。

なお、近年に発生した報道機関を狙ったテロとしては、未だ解決に至っていない赤報隊事件がある。国境なき記者団が作成する報道の自由度を示すランキングでは、調査対象国180か国中、第61位(2015年)である。各国を5段階に分けた分類では、上から3番目の『顕著な問題のある国』にカテゴライズされる。国境なき記者団は日本における課題として、記者クラブ制度により外国人ジャーナリストやフリージャーナリストによる情報のアクセスが妨げられていること、「東日本大震災で発生した津波原発事故に関しての過剰な報道規制」などを挙げている。また2007年度の調査では「過激なナショナリストによる報道機関への襲撃の減少が見られる」と述べていた[173][174]。また、2018年には放送法第4条(政治的公正・事実の報道・多角的な報道について規定されている)の撤廃が検討されている[175]

元首

日本国憲法に「日本国の元首」についての規定がないため、現在元首については様々な見解がある[176]政治学者の田中浩憲法学者の芦部信喜、総合政策学者の長野和夫によると学説の多数は、権限を持つ内閣または内閣総理大臣を元首としている[176][177][178](内閣・内閣総理大臣元首説)。また、現行憲法施行後も変わらず天皇が元首であるとする説(天皇元首説)、国権の最高機関たる国会の長である衆議院議長を元首とする説(衆議院議長元首説)や、そもそも日本には元首が存在しないという説さえある。

天皇

「天皇」は、日本国憲法第1条に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人[179]。現行憲法では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」と記載されている。大日本帝国憲法では第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」するとの明記があったが、現行の日本国憲法には天皇を元首とする旨の規定はない。『日本大百科全書』は、天皇には通常の立憲君主の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている[180]。また『国史大辞典』は法制上、象徴天皇は君主ではないとしている[181]

『岩波 日本史辞典』によると、「日本の君主制」は「天皇制」という[182]戦後に「社会科学用語として定着」したとされる[182]。憲法で天皇を「象徴」と称することから、「象徴天皇制」ともいう。「象徴天皇制は天皇が元首でないので君主制としない説もある」とされる[183]。憲法学者の野中俊彦中村睦男高橋和之高見勝利の共同著作『憲法I』(第5版)によれば、「象徴にすぎなくなった天皇は君主といえるか」という問題は、君主の定義による[184]。民主主義の浸透後は、君主制が維持された国でも、君主権は名目化した[184]。こうなると、君主制か共和制かの区別は無意味に等しい[184]。天皇が君主かどうかは、憲法学上「ほとんど議論の実益のない問題」とされている[184]

東洋史学岡田英弘の『倭国』および『日本史の誕生』によると、720年に完成した日本最古の史書『日本書紀』では、「高天原」より日向宮崎県)の高千穂山に下った(天孫降臨)太陽の女神アマテラスの孫ニニギノミコトの孫の神武天皇を初代とする一つの皇統が、一貫して日本列島を統治し続けてきたとされる[185]。『百科事典マイペディア』によると、神武天皇は「もとより史実ではない」とされている[186]。また、皇統が分裂して、二系統が交互に皇位に就いた「両統迭立[187]、皇統が分裂抗争した「南北朝時代」という語が存在している[188]。『NEWSポストセブン』では、「現存する世界最古王室としてギネスブックに登録される日本の皇室」と記述されている[189]

内政

日本は単一国家であり、その政治体制としては、「議会制民主主義体制」・「象徴天皇制[190][注 31]・「議院内閣制」を採るとされる。

中央政府

日本国政府統治機構)は、憲法上、立法権を国会に、司法権裁判所に、行政権内閣に、それぞれ分配する権力分立制(三権分立)を採る。また、内閣が国会の信任に拠って存在する議院内閣制を採用する。41条は、国会を「国権の最高機関」と定めるが、この意味につき学説は分かれ、国政の中心的位置を占める機関であることを強調する政治的美称であるとする説(政治的美称説)[191]、「国家諸機関の権能および相互関係を解釈する際の解釈準則となる」とする説(総合調整機能説)[192] が有力である。

立法府

国会は、衆議院下院)と参議院上院)との二院から構成される二院制の議会(立法府)である。「国権の最高機関」であり、「国の唯一の立法機関」とされる(憲法41条)。衆議院・参議院は、いずれも全国民を代表する選挙衆議院議員総選挙参議院議員通常選挙)により選出された国会議員(衆議院議員・参議院議員)によって組織される。ただし、法律や予算条約の議決、内閣総理大臣の指名、内閣不信任決議などにおいて、衆議院に参議院よりも強度な権限が付与されている(衆議院の優越)。これは、衆議院解散があり、任期も短期間であるため、より民意を反映しているため、と説明される。

行政府

行政府である内閣は、その首長たる内閣総理大臣と、その他の国務大臣から構成される合議制の機関である。内閣総理大臣は、国会議員でなければならない。なお、日本国憲法施行以来、慣例として衆議院議員が内閣総理大臣に指名されている。国会から指名された人物は、天皇により国事行為として、儀礼的・形式的に内閣総理大臣に任命される。国務大臣は、内閣総理大臣が任命し、天皇が認証する。国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。内閣総理大臣、その他の国務大臣は、文民でなければならない。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う一方、衆議院の実質的な解散権(解散決定権)を持つとする見解が多数説となっている(日本国憲法7条3項および69条を参照のこと)。

人目内閣総理大臣生年月日年齢内閣在任期間日数所属政党
99 63菅義偉すが よしひで
菅義偉
 1948年
昭和23年)
 12月6日
72歳菅義偉内閣
 
2020年令和2年)9月16日 -0自由民主党

国会では、国会議員のみが法案提出権を保持する。国会で審議される法案の大多数は、内閣が提出する内閣提出法案(政府立法、閣法)であり、国会議員が発議する法案(議員立法)が少ない。政府提出法案は、内閣の下に設置される省庁が国会議席の多数を占める与党との調整を経て作成するため、省庁の幹部公務員(キャリア官僚)の国政に対する影響力が強い。選挙には地盤・看板(知名度)・カバン(選挙資金)の「3バン」が必要とされることから、世襲政治家が多い。1970年代以降は中曽根康弘小泉純一郎といった例外を除いて、内閣総理大臣の任期はせいぜい2年にとどまり、2006年(平成18年)以降は1年前後の任期が続いた。

55年体制とその後
国会では、1955年(昭和30年)に結党された自由民主党(通称:自民党)が、一貫して最多の議席を占めていた。同年に統一された日本社会党(通称:社会党、現在の社会民主党)と共に、両政党が結党した西暦年の下2桁をとって「55年体制」と呼ばれる政治体制を形作った。この体制は、自民党が与党として党の総裁(党首)を国会で内閣総理大臣に指名し、同党議員の中から国務大臣を任命して内閣を組織し、社会党が野党として自民党と対立・協調しながら、国政を運営するものである。新自由クラブ連立政権を組んだ1983年(昭和58年)から1986年(昭和61年)までの一時期を除き、1993年(平成5年)までの約40年間、自民党の単独政権が続いた。
1993年(平成5年)に自民党羽田派が離党して新生党を結党し、非自民・非共産連立政権である細川内閣細川護熙首相)が成立したことで自民党が政権を離脱し、これをもって戦後長年の日本政治を構築してきた「55年体制」が崩壊した。翌1994年(平成6年)6月に自民党・社会党・新党さきがけ自社さ連立政権である村山内閣村山富市首相)が成立して自民党が政権に復帰した。次の橋本内閣橋本龍太郎首相)以後、自民党は連立相手を組み替えながら総裁が内閣総理大臣に就任する時代が再度継続されたが、2009年(平成21年)8月の衆議院議員総選挙で大敗、衆議院第1党から転落し、翌9月に民主党社会民主党国民新党からなる民社国連立政権鳩山由紀夫内閣鳩山由紀夫首相)が成立。民主党を中心とする連立政権は野田第3次改造内閣野田佳彦首相)を最後に2012年(平成24年)12月の衆議院議員総選挙での敗北で終焉を迎え、自民党と公明党の両党が再び政権に復帰し、自公連立政権が復活した。
司法府

日本国憲法により、司法権は裁判所(最高裁判所及び法律に定めるところの下級裁判所)が行使する。各地方公共団体には司法府は存在せず、各地に設置される下級裁判所(高等裁判所地方裁判所家庭裁判所簡易裁判所)が裁判を行う。また、日本国憲法により特別裁判所皇室裁判所軍法会議など)の設置は禁止されている。

司法制度として、刑事裁判に市民感覚を反映させる陪審制参審制を折衷した制度である裁判員制度や、検察官公訴権に民意を反映する検察審査会制度などがある。

地方政府

地方自治は、基礎的な団体である市町村、広域的な団体である都道府県の二段階から成る、地方公共団体地方政府)が担う。

市区町村
市が795、が743、が183、合計1718[193][注 32]。北海道と沖縄、および一部の離島地域を除く日本国内では1889年(明治22年)にこの市町村制が施行された。他に、特別地方公共団体として、2016年10月10日現在、首都たる東京都に23の特別区(東京都区部)が設置されており、これらは市に準じた権限を持つ(地方自治法第281条第2項・第283条)[194][195]。かつては1万を超えた市町村数は、1950年代後半の昭和の大合併と2000年代の平成の大合併によって激減し、市町村の再編が進んだ。
執行機関たる市町村長議決機関たる市町村議会[196] が置かれ、いずれも住民から選挙される。
財産を管理し、地域の事務を取り扱い、行政を執行する。法律の範囲内で条例を定める。特に規模が大きい市は、政令指定都市として、農林水産行政に関する権能などを除いて都道府県並みの権限を有する。
「市」は「し」と読まれるが、「町」は「まち」・「ちょう」、「村」は「むら」・「そん」の読みが混在している。
都道府県
都が1、が1、が2、が43、合計47都道府県。1871年(明治4年)の廃藩置県により全国に行政区画として府・県が置かれた。市町村と異なり、県自体の合併・分立は1888年(明治21年)を最後に行われていない[注 33]
都は特別区に関する一定の調整機能を有するが、府県の間には法律上の違いはなく、名称の差異は歴史的なものである[197]。道も地方自治法上は府県と同格であるが、特別法に道について若干の特例を定める(警察組織につき警察法第46条・51条など)。
執行機関たる都道府県知事、議決機関たる都道府県議会が置かれ、いずれも住民から選挙される。
市町村を包括し、より広域的な行政を行う。法律の範囲内で条例を定める。

現在、東京一極集中を緩和して地方分権を進めるため、都道府県を解消して更に広域的な道州を置く道州制の導入が検討されている(日本の道州制論議)。また、大阪都中京都のように特別区をつくる運動もある(大都市地域特別区設置法)。

外交

現在、世界の195か国に日本の大使館が設けられており、155か国が日本に大使館を設け39の国際機関が日本に事務所を設けている[199]

2019年には日本からビザなしで渡航できる国の数が190ヶ国でシンガポールと並び世界一位となった。調査対象となった200の国と地域の中で最多だった[200]

唯一の軍事同盟国であり、国内に軍隊の駐留(在日米軍)をさせているアメリカ合衆国との関係を最も重視し、世界中の国と友好関係を築いているといわれている。外交の基軸として国際連合を中心に各国と幅広い外交を展開し、援助や貿易を実施している。伝統的に地理的に近距離にある東アジア各国と強い関係を保持してきた。

アメリカは、第二次世界大戦敗戦後からサンフランシスコ講和条約締結・発効までにGHQを通して日本の間接的占領統治を担った主要国で、その解除後も軍隊の駐留継続をはじめとして多大な影響力を行使し、日米安全保障条約を締結している。また、アジア太平洋経済協力(APEC)の参加国の一国として、東南アジアのASEAN(東南アジア諸国連合)諸国やオーストラリア、かつての冷戦下の西側諸国の一員として西ヨーロッパ各国、欧州連合(EU)主要構成国との関係も深い。また、日本はG7G8G20経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)加盟国であり、いわゆる列強に数えられる国家の一つである[15][16]

現在、日本は国際連合加盟国のうち、朝鮮民主主義人民共和国を除いたすべての加盟国に加え、バチカン市国コソボ共和国クック諸島ニウエを国家として承認し国際関係を有している。

国際連合

国際連合の旗 国際連合:日本はかつて第一次世界大戦の戦勝国である連合国の一国として、国際連盟(League of Nations)の原加盟国ならびに安全保障理事会常任理事国を務めていたが、やがて脱退し、連合国(United Nations)を相手に枢軸国の一国として第二次世界大戦を戦い敗れたという経緯がある。国際連合は戦後も継続し、日本は敵国条項によって現在もあくまで「敵国」の位置づけである。1956年(昭和31年)にソ連との国交を回復し加盟を果たした。これまでに国際連合安全保障理事会非常任理事国として最多選出されている。また敵国の位置づけにありながら世界第2位の国連分担金を拠出するという矛盾した状態になっていたが、2018年に決定された2019年からの国際分担金比率は中華人民共和国に抜かされ世界第3位の位置付けになった。しかしながら、敵国の位置付けにありながら高い国連分担金を負担している現状に変わりはない。国連改革の一環としてドイツインドブラジルなどのG4諸国常任理事国入りを訴えているが中国や韓国の反対で実現していない。また、国連では約800人の日本人専門職員が働いているが、G7諸国は職員数が1000人以上なのを踏まえると日本人職員の数は少ない。事務局では望ましい職員数の197名に対し事務局で働く日本人職員数は79名となっている。日本の知識層の多くは多大な貢献に比べ、恩恵や評価を受ける以前に敵国条項すら削除されないと指摘している。

長く国連の武力行使を支持しても、経済援助のみに関与するという慎重姿勢を取り、湾岸戦争でも巨額の戦費負担をしたが戦力を出さなかった。しかし近年、PKO協力法などの成立に始まり、課題を残しつつも法的根拠が整った。イラク戦争終結後、自衛隊を派遣して復興支援活動に携わるなどの機会も増えている。

東アジア

東アジアでは、古来地理的に近距離で隣接する中国朝鮮などを中心に外交が行われていた。日本は儒教漢字文化圏の一角であり、伝統的な文化の中には、雅楽水墨画陶磁器禅宗書道など、東アジアをルーツに持つ物が多い。明治期以降、文明開化により西洋文化を採用して発展した日本の文化が逆に東アジアに伝播した。日中平和友好条約に基づき国交は断絶したが非政府間の実務関係として交流が続く中華民国台湾)や大韓民国(韓国)は、かつて(日本領)台湾(日本領)朝鮮として大日本帝国に統治されていた経緯から、現在でも重要な貿易相手である[201]。また、経済成長を果たした中国は科学技術や経済・ビジネスにおいて日本の競争相手となっている。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、同国の建国以来一貫して国交がなく、日本は同国に対して経済制裁を実施している。軍事、安全保障面では日本・韓国・台湾はそれぞれアメリカを介して緩やかな協力関係にある。一方、中国は建国由来(社会主義国)から朝鮮戦争以降、北朝鮮と同盟関係にあり、ロシア(旧ソビエト連邦)とも協力関係にある。

中華人民共和国の旗 中華人民共和国:日本は1972年(昭和47年)の日中共同声明および1978年(昭和53年)日中平和友好条約締結にともない、中華人民共和国との国交を正常化した(日中国交正常化[202]鄧小平が実権を握ると「四つの基本原則」を打ち出して改革開放政策を取り、日本はそれを高く評価して政府開発援助の名目で中国に大規模な円借款を行った[203]。その後、経済成長を達成して数多くの日系企業が生産拠点を移転させ、また、2006年(平成18年)より貿易総額でアメリカを上回って最大の貿易相手国となった[204]。しかし心情面では靖国神社問題に関連して関係が悪化している。日本では、2005年の中国における反日活動なども盛んに報道され、2008年6月のアメリカの民間調査機関ピュー・リサーチ・センターの調査では、中国を好ましくないと答えた割合が84%(前年比17%増)となり、調査した24カ国の中で最も高かった。また、日本人の中国への旅行者も減少した。一方、中国では、前年比から9%減少したが、それでも69%が日本を好ましく思っていないという調査結果となり、依然として両国民が相互に反発していることが明らかとなった。中国の報道は中国共産党の統制下にあり、一般国民に日本からのODAや謝罪などが周知されているとは言いがたいが、四川大地震に際しての国際緊急援助隊の救援活動など、中国人からの感謝の意が表れる出来事もあった[205]。2010年以降、GDPで日本を抜いて、また中国依存を指摘されるなど経済的に無視できない存在となっている[206]

軍事面では日本全土を射程に収める核弾頭を搭載可能な弾道ミサイルを推定100発、精密攻撃が可能な巡航ミサイル東海10型・長剣10型を推定600発保有しており日本の脅威となっている[207]。また、中国海警局は2021年に武器使用を認められるなど海洋進出の姿勢を顕わにしており、日本は危機感を明らかにしている[208]。しかし、2019年には中国人民解放軍横須賀に入港し数年ぶりの自衛隊との共同訓練を行うなど、協力の兆しもある[209]

朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮:現在、国交は存在しない。北朝鮮は、韓国併合(旧李氏朝鮮大韓帝国大日本帝国への併合)に対する評価や賠償問題・請求権問題、いずれについても決着していないとする立場である。日本国政府は、日韓基本条約に基づいて大韓民国政府のみが朝鮮半島の正統な政府であるとの立場であり、国家承認もしていない[210]。また、賠償問題も韓国との条約によって解決済みとの立場である。2002年(平成14年)の日朝首脳会談では、賠償権を相互に放棄し、国交を正常化して日本が北朝鮮へ経済協力を実施する方法で合意したと発表されたが[211]、その後は国交正常化交渉の停滞を招いている。背景には、北朝鮮による日本人拉致問題不審船事件などに対する日本の世論の反発や北朝鮮核問題北朝鮮人権問題などで孤立を深める北朝鮮の現状がある。

日本は、現在これらを受けて経済制裁を北朝鮮に実施している[212]。北朝鮮は、核カードを使ってアメリカからテロ支援国家指定の解除を引き出したが、2017年には再指定されている[213]。2012年(平成24年)4月、北朝鮮は自国憲法(朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法)に核保有国と明記した[214]。軍事面では西日本を射程に収める短距離弾道ミサイルスカッドERを推定350発、日本のほぼ全域を射程に収めるノドンミサイルを推定200発保有しており、日本の安全保障上深刻な脅威となっている[215]

大韓民国の旗 大韓民国古代より日本は高麗李氏朝鮮大韓帝国といった朝鮮半島の歴代政権と一定の交流を維持したが[216]明治期になると不平等条約である日朝修好条規の締結や征韓論が出現し、1910年には韓国併合が行われた[217]。その後、第二次世界大戦の敗戦を経て建国された大韓民国は当初より反日感情が強く、朝鮮戦争中には韓国支援のため警察予備隊(現在の自衛隊の前身組織)の掃海部隊を韓国に派遣するなどしたが[218]、1952年(昭和27年)には韓国が一方的に李承晩ラインを宣言し竹島を占拠した事で多くの日本人漁師が殺害・拿捕され、竹島問題が発生した[219]。また、日本に潜入した工作員により新潟日赤センター爆破未遂事件金大中拉致事件などの事件が起こされている[220][221]四月革命により李承晩独裁政権を打倒し軍事政権を樹立した朴正煕は国民の反発を押しきり日韓基本条約を締結し日本との国交を樹立、日本から得た賠償金を経済成長の原資としたが、これを国民に隠蔽した事で日本統治下植民地支配の賠償をめぐる論争が起きる原因となった。金大中政権で日本の大衆文化の自由化が進められ、日韓ワールドカップ共催も提案されて日本に親近感を抱く人々の増加も見られた[222]。しかし、盧武鉉政権では領土や歴史問題で強硬な外交方針に転じ、2005年(平成17年)に盧武鉉大統領はアメリカ政府に対して日本を仮想敵国として想定するように提案した[223]。政権後半には竹島問題などで「対日外交戦争」を公言し、小泉純一郎首相の靖国神社参拝などもあって日韓関係は冷え切っていた[224]李明博政権も根本的な関係改善の兆しは見られなかった。

現在では、韓国軍は日本全土を射程に収める巡航ミサイル玄武-3ミサイルを配備している。その一方で、自衛隊と韓国軍による交流も行われている[225]。また文化面では韓国での日本大衆文化の流入制限も徐々に制限を緩和しつつあり[226][227]、逆に日本ではK-POPが一定の人気を博している。外交面では、両国間で日韓犯罪人引き渡し条約を締結しているが、靖国神社に放火した犯人を政治犯として釈放した事で内閣総理大臣安倍晋三は「条約を無視する行為である」と述べ韓国側の対応を批判した[228]

中華民国の旗 中華民国台湾中華民国)は、日清戦争大日本帝国に割譲されて以来、第二次世界大戦終結まで50年間の日本統治時代を経験している。第二次世界大戦後は国共内戦中国共産党軍(現在の中国人民解放軍)に敗北した中国国民党が、開発や安定の為に1990年代まで独裁政治を敷いてきた[229]。かつて日本は中華民国を中国の代表政権と見なしていたが、1970年代の日中国交正常化の際、日本は中華人民共和国を正当な国家として認定し、中華民国とは国交を断絶した2020年。現在も台湾を国家として承認しておらず、双方ともに大使館を配置しない代わりに民間の利益代表部を置く。なお、日中平和友好条約では台湾が自国領土の不可分の一部であると主張する中華人民共和国政府の立場について「十分理解し尊重する(understand and respect)」と表現されており、中国の主張を承知しつつも認めているわけではないという態度を取っている[230]。1996年に国民党一党独裁が解消され、その後は国民党と民主進歩党との二大政党である。日本統治時代を経験した多数派の本省人が親日的傾向が強いのに対し、少数派の外省人は抗日戦争の経験から日本に対して厳しい歴史認識を持っている[231]。1990年代には本省人である李登輝が総統に就任するなど融和が進展し、親日国の一つとなった[232]

現在では台湾は安全保障面において、台湾関係法などを背景にアメリカ軍と密接な関係にあり、日米安保体制を維持する日本とも間接的な協力関係にある。1970年代以降、日台間でも尖閣諸島の領有問題があり係争も勃発したが、深刻な対立に至っていない[233]。人的・文化的・経済的な交流は断行を経験しても一貫して盛んで、特に近年は李登輝政権以降の台湾本土化運動の結果として国民の親日姿勢が強まる傾向にあり、一方で近場の海外であるため観光地としての人気が高く正式な国交がない一方で直行便も運航されている。2011年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震東日本大震災では、台湾から世界最多となる200億円超の義援金が日本に送金された[234]。また、交通面において海外で初めて日本の新幹線システムの一部を採用した。

東南アジア

歴史的には日本と東南アジア地域との関係は朱印船貿易が盛んだった16世紀末から17世紀ごろまでさかのぼる。日本が鎖国をした江戸時代の間に、タイ王国を除けば東南アジア地域は欧米列強(アメリカイギリスオランダフランス)の植民地になっていった。第二次世界大戦では日本と同地域を植民地支配する欧米列強との交戦地となったために同地域の住民にも多数の犠牲を出した。しかし第二次世界大戦後に独立を果たした各国は日本と国交を結び、良好な友好関係を構築し、それを堅持している。タイフィリピンマレーシアなど経済的にも文化的にも関係が深く、互いの国民に対する感情も良いとされる。また、日本は、これら各国との経済関係を1970年代ごろからASEAN(東南アジア諸国連合)を通じて深めており、1997年からASEAN+3に参加している。また自由貿易協定 (FTA) の締結を模索している。自衛隊PKOとしての派遣も、初の派遣がカンボジアへ、また東ティモールへも派遣された。東南アジア諸国連合 (ASEAN) 諸国との間で定期的に首脳会談を行い、関係を重視している。また、この海域(特にマラッカ海峡)は、中東から輸入した原油の9割近くが通過するなど非常に重要なルートであるが、海賊が頻繁に出没する。その対策として、海上保安庁が各国の沿岸警備隊に対して指導・共同訓練を行っている。天皇皇后がタイ、マレーシア、インドネシア、シンガポール、フィリピンを訪問している。

タイ王国の旗 タイタイ王室皇室との関係も良好で、貿易も盛んである[235]

フィリピンの旗 フィリピンフィリピンの主要貿易相手国はアメリカと日本であるが、近年は中国や韓国との貿易も増えている。在日フィリピン人は、在日外国人として国籍別で第4位の人口を有する。16世紀にはスペインが当時の領有地だったフィリピンを対日貿易の拠点とし、日本を追放された高山右近も受け入れたが、江戸幕府鎖国政策による外交関係の断絶とともに日本との交流は途絶えた。太平洋戦争では当時アメリカ自治領だったフィリピンに日本軍が侵攻し、現地住民を巻き込んで激戦地となった経緯があり(フィリピンの戦い)、戦後のフィリピンでは対日感情が悪かったが、経済支援などによって徐々に改善が進められた。

 ベトナム:1905年(明治38年)、フランス領インドシナとしてのフランス統治に反発するベトナム民族運動家達は日露戦争勝利後の日本に留学する東遊運動を行ったが、日本政府は1907年(明治40年)締結の日仏協約によって運動家を追放した。第二次世界大戦でフランス第三共和政が崩壊した後、日本は日中戦争支那事変)の一環として1940年(昭和15年)に仏印進駐を北部に、1941年(昭和16年)には南部に実施したが、特に南部仏印進駐は同年12月の日米開戦を強く促した。1945年(昭和20年)3月にベトナム帝国を成立させてフランスを排除した日本が同年9月に降伏すると、北ベトナムとして成立したベトナム民主共和国、現在のベトナム社会主義共和国は、ベトナム戦争において日本と安全保障面で協力関係にあるアメリカ合衆国と交戦したベトナム共産党による独裁政権であるが、同戦争では日本は直接参戦を行わなかった。ベトナム戦争終結前、まだ南ベトナム政府が残留していた1973年(昭和48年)には日本との国交を樹立し、日本はベトナムに多額の開発援助を続けてきた。近年も日本の国際連合安全保障理事会(通称:国連安保理)への常任理事国参入をどのような圧力を受けたとしても支持すると表明するなど日本に協力的である[236]。一方、1975年のベトナム統一後に社会主義政策を嫌ってボートピープルとなったベトナム難民(インドシナ難民)の一部を日本は受け入れている。

ベトナム政府の国策による労働輸出と日本の人手不足もあって多くのベトナム人労働者を受け入れている。ベトナム人労働者は2020年時点で約44万人[237][238]、そのうちの21万人は技能実習生として受け入れており[239]2019年に新設された在留資格である特定技能の覚書を交わすなど日本にとってベトナムは最大の外国人労働者供給国となっている[240][241]

シンガポールの旗 シンガポールイギリス領マラヤの中心都市だったシンガポールは、明治時代山本音吉がやってきた事によって初めて日本と交流を持った[242]。1942年(昭和17年)には、第二次世界大戦シンガポールの戦いによってイギリス軍を破った日本軍が占領すると昭南島と改称され(日本占領時期のシンガポール)、1945年(昭和20年)の日本の降伏まで軍事占領と華僑系を中心とした住民の抵抗が続いた[243][244]。1966年(昭和41年)にシンガポールがマレーシアから追放されて分離独立すると日本は直ちに承認し、友好関係を維持した。2002年(平成14年)には日本・シンガポール新時代経済連携協定を結び、日本にとって初の自由貿易協定締結国であり、要人往来も活発で経済・政治において緊密な関係を保っている[245]

カンボジアの旗 カンボジア:旧フランス植民地のカンボジアとは、戦後まもなく国交が樹立されたものの[246]ポル・ポト政権時代には大使館を閉鎖するなど事実上国交は一時断絶していたが、政権崩壊後の1990年代には正常化している[247][248]。日本からは経済的援助がなされておりカンボジアにとって日本は最大の開発援助国であるほか[249]自衛隊を活用した地雷撤去の活動や教育支援なども精力的に行われている。また、文化面でもクメール・ルージュによって破壊・弾圧された仏教の施設や信仰の復興に、日本の仏教界が大きく貢献している。一方カンボジアは日本の常任理事国参入について不変の支持を行っている[236]。一党独裁化を強め欧米から批判を受け支援を打ち切られているカンボジアに対し日本だけが支援を継続しており、日本は経済支援と民主化の同時進行を促す立場をとっている[250]。しかし日本がカンボジアに選挙の資金援助した2018年の選挙ではカンボジア政府が最大野党の解体を決定、全議席が与党のものとなり民主化は逆行している[251]

 インドネシア:旧オランダ植民地で、日本町を中心に江戸時代から民間での交流は存在したが、鎖国に伴いその交流は途絶えた。第二次世界大戦の際には日本が蘭印作戦でオランダ軍を破り、一時日本の占領下に置かれる。独立の際に一部の日本人が関与したこともあり、親日派もいた一方、1960年代の政局の混乱のなか共産党勢力の台頭に伴い中国等へ接近したが、1966年以降のスハルト体制は再び日本との関係を強めた[252]。2001年のアメリカ同時多発テロによって米国との関係が悪化し、2005年まで武器禁輸などの制裁を受けた。そのためロシア中国との関係強化を進め、を展開している。日本との関係は良好で、LNG貿易をはじめ日系企業も多数進出し、また日本の政府開発援助 (ODA) はハードインフラ整備に加え、市民警察活動促進計画[253] など統治能力支援(ガバナンス支援)や法整備支援[254] などソフトインフラ整備の支援も近年行っている。スマトラ島沖地震では、金額で国別3位の支援を早急に決めて拠出し、更にアチェ州海上自衛隊の艦艇を派遣した。防災システムの構築にも支援を行っている。

南アジア

南アジア各国とは友好関係を維持している。6世紀とされる仏教公伝以来、日本の宗教・文化・政治に深く根ざした仏教大乗仏教)の発祥地として古代インドは「天竺」の名で広く知られ[注 34]サンスクリット(梵語)で書かれた仏教経典や哲学思想が広く流入した。また、16世紀後半からの南蛮貿易ではポルトガルがインド西海岸のゴアに築いていたポルトガル領インド植民地が重要な中継点となっていたが、南アジア諸国と日本の正式な外交関係は第二次世界大戦後の各国独立と日本の主権回復後に始められた。日本は「戦争による唯一の被爆国」であるということから(日本への原子爆弾投下)、核実験を実施したインドパキスタンと距離を置いていた時期もあったが、近年、両国との関係が重視されるようになり、2006年(平成18年)に外務省アジア大洋州局に南部アジア部を新設した。宗教的な対立要因が存在していないため、両国間では特に厳しい対立関係にあるインド・パキスタン双方を含め、各国民の対日感情は比較的良好とされる。

インドの旗 インド:19世紀後半以降、日本とイギリス領インド帝国は綿織物市場で激しい国際競争を続けたが、日露戦争での日本の勝利はインドの民族運動家に「アジアの解放」という希望を与えた。その後の日本が帝国主義政策を進めると、ジャワハルラール・ネルーはこれを批判したが[255]スバス・チャンドラ・ボースはその後も日本に期待し、第二次世界大戦で日英が開戦すると日本は「大東亜共栄圏」の一員としてボースによる自由インド仮政府設立を支援し、インパール作戦でインド侵攻を目指したが敗退した。しかし、日本の軍事行動がイギリスのインド統治に打撃を与えた事もあり、ネルー首相の下で1947年に独立したインドは「非同盟運動」を掲げながらも敗戦国日本への融和と支援を続けた。

その後はインド国民会議派政権が非同盟を掲げながらソ連との軍事協力を重視し、国内でも国家統制や計画経済を基本とした「インド型社会主義体制」を取り、さらには1974年に核実験を実施した影響で、日本とインドの関係は知名度や距離の割には強くなかったが、1990年代のインド経済の市場化やインド人民党による政権交代などで、日本の経済進出が加速した。また、巨大化する中国を東西から挟む地政学的な理由もあり、今後関係が特に親密になると期待されている国のひとつで、近年の著しい経済発展や、情報技術での実績が注目されている。日本とインドはG4として共に行動する立場であり、2008年10月には、両国首脳が日印安全保障協力共同宣言(日本国とインドとの間の安全保障協力に関する共同宣言)に署名し、日本にとって、アメリカ、オーストラリアに次いで、安全保障分野で正式な協力関係を結んだ3番目の国となった[256]。さらに2011年、日本とインドは関税を段階的に撤廃するFTA(自由貿易協定)を柱としたEPA(経済連携 協定)が発効[257]。これが達成されれば、日本からインドへの輸出の約90%、インドから日本への輸出では約97%に相当する物品で、10年以内に関税がゼロになる。

 パキスタン:1998年の地下核実験から2005年4月まで援助を停止していた。しかし、自衛隊イラク派遣などで、安全保障の観点から中東への影響力が強いパキスタンの協力が必要と感じた日本政府は、当時の小泉純一郎首相が訪問したのを機に有償資金援助を再開した。

バングラデシュの旗 バングラデシュ:1973年の独立以来世界最貧国の一つとも言われ、日本は、経済、保健、自然災害対策など多くの面で援助を行っている。また、日本と比べると非常に安い製造費での出荷が可能という点が着目され、アパレル産業を中心とした日系企業の進出が続いている。近年はバングラデシュの高度経済成長が続いているが[258]、その労働条件の劣悪さが非難される事もある[259]

オセアニア

オセアニアの中でも南洋諸島の各国は、かつて日本が委任統治領ないし占領地として統治下に置いていたこともあり、関係が比較的深い。ミクロネシア連邦では、日系人のトシオ・ナカヤママニー・モリ大統領に選ばれている。パラオは、かつて日系のクニオ・ナカムラが大統領に就任し、一部の自治体で日本語が国の公用語として採用されている(実際に日本語を日常的に使用しているわけでなく、象徴的な意味合いが強い)などの経緯もあり、官民とも非常に親日的である。

オーストラリアの旗 オーストラリア:日本とオーストラリアの外交関係は、当時オーストラリアを支配していたイギリスを通じて19世紀末から始まり、1930年から1931年にかけて日本はオーストラリアにとって三番目に多額な貿易相手国となった[260]。その後、第二次世界大戦では交戦国となり日本はオーストラリア北部の都市ダーウィンなどを攻撃[261]、日本の敗戦後両国の国交が回復したのは1952年であった。1957年にはロバート・メンジーズ首相が来日し政治的・経済的な交流の強化を申し出て[262][263]、1976年には日豪砂糖交渉といった貿易摩擦が起こりつつも「日本国とオーストラリアとの間の友好協力基本条約」が結ばれるなど[264]、経済的な結び付きが少しずつ強まっていった[265]

現代では、オセアニアで最大の影響力を持つオーストラリアと非常に緊密な関係を築いている。経済面では、日本・オーストラリア経済連携協定の締結や環太平洋パートナーシップ協定APEC東アジア首脳会議東南アジア諸国連合地域フォーラムにともに参加しており経済的障壁は低い[266][267][268][269][270]。日米豪の防衛首脳会談が行われたこともあり、軍事、外交などでも共同歩調を取る。2007年(平成19年)3月には、自衛隊オーストラリア軍とが国際連合平和維持活動(PKO活動)の共同訓練、反テロ活動、津波など地域災害に協力して当たることなどが盛り込まれた安全保障協力に関する日豪共同宣言が調印された[271]。これにより、日本にとって安全保障分野で正式な協力関係を結ぶ(アメリカに続く)2番目の国となる。潜水艦の共同研究も行っており、日本が兵器についての共同研究を行う国はアメリカとイギリスに次ぎ三か国目である[272]。また、オーストラリアは日本の集団的自衛権の行使を容認する姿勢を見せるなど[273]、事実上の同盟国に近い立ち位置となっている[274]。一方で、捕鯨問題では対立関係にある[275]

 ニュージーランドニュージーランドとの外交関係は20世紀初頭に、当時ニュージーランドを支配していたイギリスを介して始まり、1928年には独自の通商条約を結んでいる[276]第二次世界大戦中は国交が途絶えていたが、戦後に回復すると、両国は共に太平洋の島国そして先進国として活発に貿易を行い、アジア太平洋地域の安定と発展に関心を持っていることなどから、政治的・経済的な結び付きは強くなっている[277]。それを反映して、現在ではともにAPECオーストラリア・グループ環太平洋パートナーシップ協定(CPTPP)、OECDの参加国であるほか、ニュージーランドが参加する五か国の諜報協定「UKUSA協定(通称ファイブアイズ)」との連携を日本は強化している[278]

アメリカ合衆国

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国:軍事・経済・政治すべてにおいて緊密な関係にある。黒船来航から始まる経済関係は、アメリカ合衆国の経済力を背景に大きなものであり続け、2006年(平成18年)まで最大の貿易相手国だった。太平洋戦争では、東アジア・西太平洋地域で4年間戦闘に至った末に降伏し、米軍を中心とした連合軍に占領された。アメリカ合衆国はGHQ(SCAP)を通して7年の占領統治で中心的な役割を果たした。日本はサンフランシスコ講和条約にもとづき1952年(昭和27年)4月28日に主権が回復するが、依然として在日米軍に自国の安全保障の大部分を依存している関係は続き、翌年には日米安全保障条約が締結されいわゆる「日米同盟」が成立した。アメリカ合衆国にとっても本土から遠距離にある極東地域に軍事基地用地を提供し、日本においては思いやり予算とも呼ばれる多額の軍隊駐留費用を負担する同盟国の存在は重要なものであり、強固な同盟関係が続いている。これについて反対運動、特に基地の地元住民の米軍基地反対運動と基地移転問題が外交問題に発展することもある[279][280]。日米関係は親密であるがゆえに時として摩擦も大きくなることがあり、ジャパンバッシングのような現象が起きることがある。そしてアメリカ合衆国政府の意向は、対日要望書などの形を通して日本政府に伝えられ、日本の政策決定に影響力を与える「」となっているとされる。また、犯罪人引渡し条約を締結する数少ない国の一つである。

中央・南アメリカ

総じてラテンアメリカと呼ばれる地域とほぼ一致するアメリカ大陸の中南部は、日本が西欧諸国との接触を持った16世紀には既にスペインやポルトガルの支配下にあった。スペインは現在の中米諸国やフィリピンを含むヌエバ・エスパーニャを統治し、ここを通じて対日貿易の展開や慶長遣欧使節の受入などを行ったが、使節団の帰国時には江戸幕府の鎖国政策が強化されており、日本と同地域との交流は17世紀前半に一度途絶した。

19世紀後半に日本が開国し、続いて明治維新が起きた時、ラテンアメリカ地域は既にほとんどが独立していた。明治政府は江戸幕府がアメリカ合衆国や西欧諸国との間で結んだ「不平等条約」の解消に苦心する中、ラテンアメリカ諸国との平等条約締結による外交実績の強化に動き、メキシコを皮切りに次々と外交関係を樹立した。中南米諸国も農業労働力の確保に利点を見いだし、19世紀末から日本人移民の受入を開始した。ただし、この地域はモンロー主義以来、アメリカ合衆国が強い関心と影響力を維持しており、真珠湾攻撃で1941年に日本とアメリカが第二次世界大戦(太平洋戦争)に突入するとメキシコ以外の中米諸国は即座に、それ以外の国も1942年のブラジル・メキシコから1945年までに全て対日宣戦布告を行って、一部では日系人の強制収容やアメリカ合衆国への国外追放も実施した。戦後は日本がアメリカの強い影響下に入った事もあり、両地域の交流は再び強化され、日本企業の進出や日系人労働者の日本移入なども行われた。また、東南アジアの経済発展も取り込む環太平洋パートナーシップ協定(TPP)に日本やメキシコ、ペルー、チリなどが参加し、同協定に不参加となったアメリカ合衆国を抜きにした独自の協力強化も進められている。

中央アメリカ(中米)諸国とは、人的・文化的な交流に乏しいものの、経済的な関係を中心に平穏な関係を保つ。また、キューバなどの社会主義国とも経済・文化の両面で友好的な関係が築かれ、ペルー日本大使公邸占拠事件でも日本の要請を受けたキューバがゲリラ亡命受け入れを受諾するなど協力した。

南アメリカ(南米)は、地理的に地球の真裏に位置するが、下記のように19世紀の後半からペルーアルゼンチンと深い友好関係を有する。また、かつて日本からの移民を大量に受け入れた経緯もある。貿易関係では、チリとの関係が特に大きく、戦前からの友好関係が続くアルゼンチンやパラグアイといった親日的な国も多い。

バハマの旗 バハマ:1973年7月10日の独立から二日後の同27日に独立承認。1975年から外交関係が設立される。2011年に「脱税の防止のための情報の交換及び個人の所得についての課税権の配分に関する日本国政府とバハマ国政府との間の協定」が結ばれたが2017年1月に改定することが両国で実質合意した。(バハマはタックス・ヘイブンとして知られている)[281]

メキシコの旗 メキシコ:中米諸国の中で最も関係が深い。幕末〜明治期の開国以降に結ばれた日墨修好通商条約は、それまで列強各国の不平等条約に苦難を強いられた日本にとって、初めての平等条約である。その関係で、数ある諸外国の大使館の中でも国政の中枢地区ともいえる東京都千代田区永田町に所在するのは、メキシコ大使館のみである。第二次世界大戦では1942年にメキシコが対日宣戦布告を行い、フィリピン戦線では日本軍とメキシコ軍が交戦したが、メキシコ政府は国内の日系人に対する強制収容は見送った。戦後の両国間の関係は良好で、多数の日本企業が進出するなど経済的な関係も深い。特に自動車産業はメキシコと接するアメリカ合衆国への輸出も盛んで、1994年に発効した北米自由貿易協定(NAFTA)の恩恵も受けたが、自国産業や労働力の保護をアメリカ政府が取るとその影響を受ける環境にもある。

ベネズエラの旗 ベネズエラ:日本とベネズエラは1938年に国交を樹立した。しかし、まもなく第二次世界大戦に突入すると両国の国交は断絶、戦後の1952年に復活した。現代において日本にとってベネズエラは重要な原油供給国の一つであり、2008年には原油鉄鉱石カカオアルミニウムなどを10億ドル相当輸入している[282]。しかし、2010年頃からベネズエラはハイパーインフレーションに悩まされて国民は日用品の購入すらままならない状態になっており[283] [284]、政治面では前政権を引き継いで実権を握り独裁的な傾向を強めるニコラス・マドゥロ大統領と、野党のリーダーとして暫定大統領に任命されているフアン・グアイドの、二人の大統領がいる状態が続いている[285]。日本政府はグアイド暫定大統領を支持しているものの[286]、混乱が解消される気配はなく、それが両国関係の発展を阻害している。

 チリ:1897年の日本チリ修好通商航海条約の締結により、初めて国交が樹立した[287]。その後、第二次世界大戦では1945年にチリが対日宣戦した事に伴い一時国交が断絶[288]、しかし戦後はすぐ回復した。現在では、チリで生産されるモリブデン木材魚類、そしてワインなどが日本に輸出されており、特にチリワインは対日ワイン輸出額第一位である[289]。この活発な貿易を支えているのは、二国間で締結されている日チリ経済連携協定(EPA)や日・チリ租税条約であり[290]、また両国は同時に環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の参加国でもあるなど、友好国である。加えて、チリは1960年にマグニチュード9.5のチリ地震に襲われ、日本は2011年にマグニチュード9.0の東日本大震災に遭うなど、両国とも地震大国である。このことから、地震研究に関しては手を取り合う場面が多い[291]

ペルーの旗 ペルー:1872年(明治5年)に苦力奴隷だとして開放したマリア・ルス号事件をきっかけに修交が始まった[292]。その翌年、1873年に日本とペルーは日秘修好通商航海条約に調印して外交関係を正式に締結した。多くの移民が渡航し、ラテンアメリカ(中南米)で2番目に日系人口が多く、第二次世界大戦では日系人の逮捕とアメリカ合衆国への国外追放がラテンアメリカ諸国で最も多く行われた[293]。1990年代に日系ペルー人であるアルベルト・フジモリスペイン語で「フヒモリ」)が大統領に就任して急速に関係が緊密化し、在ペルー日本大使公邸占拠事件の強行解決にも成功したが[294]、失脚の後、日本に亡命した。フジモリは出生時の日本国籍所持が有効と認められて参議院議員選挙に立候補した後にペルーに帰国しようとした途中で逮捕され有罪判決を受けた[295]。しかし娘のケイコ・フジモリは2度にわたり大統領選挙で惜敗するなど[296]、日本及び日系人の存在感は今でも強い。2012年には二国間条約である日本・ペルー経済連携協定が締結さた[297]

アルゼンチンの旗 アルゼンチン:1898年(明治31年)、日本はアルゼンチンと修好通商航海条約を結んで、当時のロシア帝国との戦争に備えて軍艦リバダビア、モレノをそれぞれ春日日進として購入し[298]、それらが日露戦争で活躍したことなどから本格的な関係が開始された。1941年以前の両国間の関係は、ブラジル同様に移民が中心であり、現在アルゼンチンには推定1万人ほどの日系人(日系アルゼンチン人)がいる[299]第二次世界大戦時には一時国交が途絶えるものの、戦後にすぐ回復した。また、フォークランド諸島の領有権を巡って勃発したイギリス対アルゼンチンのマルビナス戦争(フォークランド紛争)の最中、アメリカ政府やイギリス政府などからの再三の要請にもかかわらず、アルゼンチンへの禁輸措置を実施しないなどの日本の独自外交は、アルゼンチンの知日家から高く評価される[300]。現在ではともにG20の一員として、経済的な結び付きを強めている。

ブラジルの旗 ブラジル19世紀、ブラジルはアフリカ大陸から送られてくる奴隷コーヒー農園や果樹園の労働者として使役していたが、諸外国の非難を受けて1888年に奴隷制を廃止した[301]。その結果、人手不足に陥りイタリアスペインから移民を受け入れるも、待遇の悪さや賃金の低さが問題となり移民受け入れが停止され[302]、1892年にブラジル政府は代わって日本人移民の受け入れを表明し、日本国内の人余りもあり利害が一致し、1895年には移民実現のため「日伯修好通商航海条約」が結ばれて、両国に初めて外交関係が樹立した[303]。本格的な移民受け入れが始まったのは、日露戦争に勝利したものの賠償金が得られず経済的に日本が混乱した20世紀初頭であった。その後、第一次世界大戦第二次世界大戦などで一時的な移民受け入れの途絶があり、特に第二次世界大戦の際には一時国交まで断絶したものの、移民の動きは戦後の1960年代まで継続した。移民のピークであった1908年から1941年の間には、19万人以上がブラジルへと渡っている[304]

この移民を通じて、サンパウロにはリベルダージといった日本人街が築かれ[305]、世界最大級の日本人学校もサンパウロに所在し[306]、ブラジル全体では約180万人という海外で最大規模の日系人社会が築かれていることもあり(日系ブラジル人)、政治・経済面のみならず、文化的な面からも非常に深い関係を維持している[307]。特に、Jリーグが開催し始めて以降、ブラジル人選手が最多数の外国人選手であり続けている。また、20世紀後半になると日本からブラジルという移民の構図は崩れ、在日ブラジル人も増え続けている事から、日本におけるブラジル文化の浸透も見られる[308]。2013年にBBCが実施した調査では多くのブラジル人が日本の影響を好ましいものと捉えており、最も親日的な国の一つである[309]。外交面では、G4として共に国連安保理常任理事国参入を目指していることもあり、日本にとって南米における最大のパートナーとして国際政治上で連携することも多い。

ヨーロッパ

江戸時代、日本に米国とともに開国を迫ってきたのがイギリスフランスといったヨーロッパ諸国であり、また安政の五ヵ国条約に代表される不平等条約を結んだほとんどの国もヨーロッパ諸国であった[310]。その後、明治維新において近代化の模範としたのもまたロシアを含むヨーロッパ、よりわけ西欧諸国であり、『脱亜入欧』(福沢諭吉)の造語にあるように、明治時代以降に日本が留学生の派遣、お雇い外国人の使用などで積極的に学問、技術、文化の摂取に努めた。日露戦争勝利後、日本はヨーロッパ諸国と対等な列強として扱われ[311]第二次世界大戦以降の現代、西ヨーロッパを中心とする北大西洋条約機構(NATO)諸国と間接的な同盟関係にある[312]。また、皇室は、イギリス王室をはじめ、オランダスウェーデンベルギーなどのヨーロッパ各国の王室と深い友好関係を築いている。一方、特にオランダなどには、第二次大戦で交戦したことによる悪感情が一部に残っているとも言われる[313]民主主義資本主義自由主義の理念を共通とすることから友好国が最も多い地域の一つであり、G7などで接点が多い事からイギリスフランスドイツイタリアなどとは特に交流深いが、冷戦の終結によって「鉄のカーテン」が撤去されると社会主義陣営に属していた旧東欧諸国やバルト三国との交流も活発となり、当時の天皇明仁皇后美智子が2002年(平成14年)にポーランドハンガリーチェコを、2007年にエストニアラトビアリトアニアを訪問している(立ち寄りもふくむ)。

フランスの旗 フランス日仏関係は、1615年に仙台藩伊達政宗ローマに派遣した慶長遣欧使節支倉常長サントロペに上陸したことにより始まり[314]、その後フランソワ・カロンフランス東インド会社を通して日本との交易関係を確立しようとしたものの、これは失敗に終わった[315]。しかし幕末にはオランダ風説書によってフランス革命の状況が伝わり幕府が興味を示し、さらには江戸幕府がフランスの軍制を採用するなど、間接的な交流が始まっていた。開国後には不平等条約である日仏修好通商条約を結んで正式に国交を樹立し、下関戦争神戸事件で一時的に戦闘に陥るも国交が断絶する事はなかった。明治期には法制面で影響を受け、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードなどが法整備の為に日本に派遣され「日本近代法の父」と呼ばれている[316]。また建築や開発の面でもフランスの影響は強く、技術者レオンス・ヴェルニー横須賀海軍工廠の建設に尽力したほか[317]ジャン・フランシスク・コワニエ生野銀山をはじめ鉱山を調査し[318]アンリ・プレグラン日本橋銀座で日本初となるガス灯設置を行い[319]ポール・ブリュナーにより日本初の近代絹糸工場である富岡製糸場が開設された[320]。このほかにも、日本の発展に貢献したフランス人は多数存在する。その後、露仏同盟に基づいて日露戦争ではロシア帝国を支え[321]ドイツ帝国ロシア帝国と協力して三国干渉で日本の勢力拡大を押さえようとするなど[322]、敵対的な立場を取るが、第一次世界大戦ではともに連合国側で戦った。続く第二次世界大戦では対立したものの、戦後には国交を回復した[323]

現代の日本とフランスの関係は、政治・経済面よりも文化面での交流が深い点に特徴がある。江戸時代の日本の文化は1878年のパリ万博を通じて、「ジャポニズム」として印象派美術などフランス文化に影響を与えた[324]。またフランス文化は、美術、音楽、食文化、文芸などの面で日本の近代化に大きな影響を与えた。近年ではサブカルチャーの分野での交流が盛んである[325]。経済や科学技術の面では協力というより列強同士の競争関係にあり、高速鉄道や原子力産業は受注競争が存在し[326]、自動車産業においても日本車にとってルノープジョーシトロエンといったフランス車は強力なライバルとなっている[327][328][329]。また、両国ともにG7OECDの参加国であり、政治や外交でも多くの接点を持つ。

ドイツの旗 ドイツ日独関係は、まだドイツがプロイセン王国だった時代に非公式に始まった。江戸時代当時の日本は鎖国体制が築かれていたが、出島の三学者として知られるシーボルトや『日本誌』を著したエンゲルベルト・ケンペルなどが長崎に滞在して、医学薬学生物学地理学歴史学民俗学博物学など、両国の様々な学問の発展に貢献している[330][331]。1858年には日米修好通商条約が結ばれて江戸幕府が開国に向けて施策を転換すると、プロイセン政府も国交樹立に動き、1861年に不平等条約ではあったが日普修好通商条約を成立、正式な国交が結ばれた[332]。1870年にドイツ帝国成立後も国交は維持され、19世紀後半に日本が近代化を進めるにあたって、イギリスおよびアメリカ合衆国との関係に次いで重要な役割を果たした。伊藤博文大日本帝国憲法の策定にあたってドイツの憲法を参考にした[333]。さらには、陶磁器やガラスの製造を指導したゴットフリード・ワグネル[334]、進んだ医学を伝えたエルヴィン・フォン・ベルツなどがおり[335]、逆に森鷗外はドイツに留学して衛生学を学ぶなど[336]、科学技術・医学・音楽・法律・文芸などにおけるドイツの影響は現在の日本にも色濃く残っている。第一次世界大戦で日本と当時の帝政ドイツは交戦国となり、勝利した日本は南洋諸島などアジア・太平洋地域におけるドイツの利権を獲得する[337]第二次世界大戦では日本とナチス・ドイツは対ソ連を意識して、イタリアも加えて日独伊三国軍事同盟を締結したが敗戦国となる[338]

戦後ドイツは資本主義西ドイツ社会主義東ドイツに分断され、日本は1952年まず西ドイツと国交を回復した[339]。その後、両国はともに「高度経済成長」と「奇跡の復興」という焼け野原からの再興を果たし、ともにG7に参加する経済大国として平和的な関係となった[340]冷戦が終結しドイツ再統一後も、重要なパートナーとしてイギリスフランスを凌ぐヨーロッパ最大の貿易相手国となっている[341]。ただし、経済面では競争が激しく、フォルクスワーゲンメルセデス・ベンツBMWに代表されるドイツ車日本車と世界シェアを争っている状況にある[342]

イギリスの旗 イギリス日英関係は、江戸時代前期リーフデ号に乗船していた三浦按針江戸幕府に仕えた事で始まった[343]。1858年には不平等条約である日英修好通商条約が結ばれ国交が成立したものの[344]、本格的な開国以前は生麦事件を発端とする薩英戦争下関戦争などを通じて敵対的な関係が続いていた。しかし、それにより力の差を感じ取った薩摩藩長州藩は幕政下での攘夷は不可能と判断して一転イギリスに接近し[345]、両藩は討幕運動明治政府の中心となっていく。1886年にはノルマントン号事件を契機に不平等条約改正の動きが高まり、その数年後には日英通商航海条約を新たに締結して、明治維新以後の懸案だった不平等条約を撤廃した[346]。このように、日英関係で特に強調されるのは19世紀後半から20世紀初頭にかけての日本の近代化に果たしたイギリスの役割であり、イギリスは経済・文化・学術・政治・軍事のあらゆる面において日本に最も強い影響力があった。1902年(明治35年)、両国はロシア帝国への対抗として日英同盟を締結し、日露戦争ではイギリスが戦費を融通するなど日本勝利の陰の立役者となったほか[347]第一次世界大戦シベリア出兵において相互に支援を行った[348]。しかし、日中戦争支那事変)と日独伊三国同盟によって両国は敵対することとなり、第二次世界大戦において交戦国となった。終戦後、イギリスは連合国の日本占領に参加した。占領終了後は国交が回復している。

現代では、同じG7の一員として強い経済的な繋がりを維持しているが、その一方でロンドン東京は両者ともに世界的な金融センターであり[349]、また日本企業と競合する製薬会社アストラゼネカや電機メーカー・ダイソンなども存在するなど、経済大国として競争関係にもある[350]。軍事面では21世紀に入って急速に結びつきが強まっており、イラク戦争時にはサマーワ自衛隊イギリス軍が駐留して協力する[351]F35戦闘機搭載のミサイル技術をめぐる日英共同研究を行う[352]自衛隊イギリス軍との提携を取り決めた日英物品役務相互提供協定を締結するなどしている[353]。また、皇室イギリス王室の交流をはじめ[354]、文化面でも深い関係を築いている。

イタリアの旗 イタリア日伊関係は、日本が開国し、リソルジメントによりイタリア王国が成立した事によって、1866年に日伊修好条約が締結された事に始まる。なお、それ以前の15世紀末には中国を訪れていたジェノヴァ共和国の商人マルコ・ポーロが、著書『東方見聞録』の中で日本だと比定されるジパングという国を紹介しているほか[355]、戦国時代にはイタリア人宣教師が日本を訪れているなど[356]、間接的な接点は持っていた。国交樹立後は、日本の主力輸出品の一つであった蚕紙の4分の3がイタリアに売却されるなど、経済的な結び付きを強めていった[357]。また、日本の明治維新とイタリアの統一はほぼ同時期に果たされたために明治政府イタリア王国政府に相応の興味を持ち、イタリアから複数の専門家や技術者を雇用している(お雇い外国人)。中でも、画家のエドアルド・キヨッソーネ紙幣発行や切手の普及に努め[358]、法学者アレッサンドロ・パテルノストロは法律顧問として井上毅とともに条約改正に尽力[359]、画家のアントニオ・フォンタネージは日本で洋画を本格的に指導し彼の教え子であった浅井忠五姓田義松小山正太郎松岡寿山本芳翠などは明治期を代表する画家に成長した[360]。このように、イタリアの影響は社会制度や文化の面で色濃く残されている。二度の世界大戦では通して同じ陣営に立って戦っており、特に第二次世界大戦日独伊三国同盟を結んでいたため、ドイツに次ぐ日本の重要なパートナーであった[361]

敗戦後は、両国ともに経済大国として復興を果たしており、経済面では友好的な交流を図ると同時に競争相手でもある。それは自動車産業で特に顕著であり、フィアットフェラーリは世界シェアを争うライバルである[362][363]。そのほかにも、様々なイタリア企業が日本に進出すると同時に、日本企業がイタリアに進出している[364]。外交面では、ともに西側陣営G7の一員としてある程度利害が一致しており、緊密な交流を続けている[365]。しかし、日本はG4諸国として常任理事国参入を目指す一方で、イタリアは常任理事国拡大を阻止するコンセンサス連合の主導国でもある[366]

スペインの旗 スペイン日西関係は、戦国時代にあたる16世紀から始まっており、ポルトガルと並んで日本が最初に接触したヨーロッパ諸国であった[367]。当初はキリシタンフランシスコ・ザビエルなど)や南蛮貿易を通じての関係で、日本の文化や世界観にも影響を与えて南蛮文化を生み出した[368]。しかし、江戸幕府により禁教令が敷かれると交流は一時的に途絶する。開国後、1868年には日西修好通商航海条約が結ばれ、交流が回復した[369]第二次世界大戦の際にはスペインは枢軸寄りの姿勢を見せたものの、中立を守り1945年には一時的だが国交も途絶えている[370]。戦後は国交回復し、皇室とスペイン王室に緊密な交流があるほか、文化面でも交流が続いている。

ポルトガルの旗 ポルトガル日葡関係は16世紀から始まり、スペインと並んで日本が古くから交流を持つヨーロッパ諸国である。1543年、種子島にポルトガル商人が漂着し、鉄砲伝来が起こって日本における戦国時代の戦術に革新的な影響をもたらした[371]。その後、織田信長らの庇護の下で南蛮貿易が促進され、九州を中心に経済や文化面での交流が深まった。さらには当時の貿易活動は布教活動の目的も含まれていたため、その影響でキリシタン大名が誕生するなど、戦国時代までは日本にとって最も重要な欧州国家の一つであったが、1587年に豊臣秀吉バテレン追放令を発して、公式な関係は一度途絶えた[372]。開国後は200年以上ぶりに通商関係が復活し、現在では経済的交流は限定的なものの友好的な関係が続いている[373]

オランダの旗 オランダ日蘭関係は、17世紀初頭に豊後国臼杵にヤン・ヨーステンの乗るオランダ商船リーフデ号が漂着した事に始まる。江戸時代から幕末に至るまで、オランダはキリスト教が浸透するヨーロッパ諸国で唯一、鎖国体制下であっても長崎貿易を通じて日本と通商関係を維持し続けた[374]。オランダ人は紅毛人と呼ばれ、彼らが世界情勢について記したオランダ風説書は江戸幕府の対外政策にも影響を及ぼし、また彼らがもたらした文化や科学技術、研究はオランダ語を通じて吸収され、蘭学の形成を促し知識層を刺激するなど、日本の歴史に大きな影響を与えている[375]。1858年には日蘭修好通商条約が結ばれて正式に国交が樹立、しかし不平等条約であったために1912年には改めて日蘭通商航海条約が結ばれた[376]東南アジアでの権益を巡って第二次世界大戦では対立するものの[377]、戦後は国交が復活し、一部には嫌日感情が残っているものの2000年には日蘭交流400周年記念式典が催されるなど比較的良好な関係を保っている[313]

 オーストリア日墺関係は、まだオーストリア列強の一国であったオーストリア=ハンガリー帝国時代、不平等条約の集大成といわれた日墺修好通商航海条約を結んだ事により樹立された[378]。1873年のウィーン万博には日本も参加し、これは欧州における「ジャポニズム」流行の契機の一つとなった[379]。また、当時オーストリア=ハンガリー帝国は列強だったため多数の技術者や知識層がお雇い外国人として来日し、ローレンツ・フォン・シュタイン伊藤博文にドイツ形式の立憲体制を薦めて大日本帝国憲法に影響を及ぼし[380]アルブレヒト・フォン・ローレツはドイツ医学の普及に努めて後藤新平に影響を与えたほか[381]レルヒ少佐は日本にスキー技術をもたらすなど[382]、政治や文化の面で英米独仏露伊に次いで日本に強い影響を及ぼしている[383]。その後、義和団事件では同じ側に立って戦い、続く第一次世界大戦では対立するものの、オーストリア共和国となった現在ではウィーン少年合唱団との協力や学生のオーストリアへの留学など、音楽や文化を中心に交流が進んでいる[384]

 ハンガリー日本とハンガリーの関係は、現代のオーストリア同様に日墺修好通商航海条約に端を発する。19世紀末から20世紀初頭にかけては、ジャポニズムの流行と同時に言語学におけるツラニズムを根拠に、学説的な裏付けはないがマジャール人大和民族が同祖であるという説が広がり、日本との友好が意識された[385]日露戦争における日本の勝利も、ハンガリー人の間では好意的に受け止められている。第一次世界大戦後の1921年にはハンガリー王国と国交が樹立し、第二次世界大戦ではともに枢軸側で戦っている。戦後はハンガリーは東側諸国となり、ハンガリー動乱など数々の政変に見舞われたためになかなか外交関係は復活しなかったが、1959年にチェコスロヴァキアの仲介によって回復した[386]。その後、冷戦の終結に伴ってハンガリーは体制を転換し、現在では友好的な関係を築いている[387]

 スウェーデン日本とスウェーデンの関係江戸時代に遡り、学術的な結び付きが存在する。1649年にはユリアン・スヘーデルが来日して進んで砲術や三角測量を伝え[388]、1775年には出島の三学者として知られる医師カール・ツンベルク箱根などで植物採集を行い、帰国後は『日本植物誌』を発刊して日本における植物学蘭学、ヨーロッパにおける東洋学の発展に貢献した[389][390]。正式な国交が樹立されたのは1868年であり、その時結ばれた「大日本国瑞典国条約」は明治政府が最初に外国と結んだ条約である[391]。現代では、スウェーデンの少子高齢化対策や福祉政策が日本で注目される一方、スウェーデンにとって日本はアジア第二位の重要な貿易相手国となっている[392]。また、皇室スウェーデン王室の交流も緊密である[393]

ベルギーの旗 ベルギー日本とベルギーの関係は、1866年の日白修好通商航海条約締結から始まった[394]。当初日本政府は、小国ながらも周辺の大国に屈することなく中立と平和を堅持しているベルギーを高く評価しており、山縣有朋らが視察に訪れて日本の軍事体形や外交政策にも影響を与えている[395]。その後、第一次世界大戦を経てともにワシントン会議に出席し九ヵ国条約を締結してワシントン体制を構築するが[396]第二次世界大戦を機に国交は一時断絶。戦後の外交関係復活後は、皇室ベルギー王室が密接な交流を続けるなど、良好な関係を築いている[397]

 デンマーク日本とデンマークの関係は、デンマーク東インド会社が設立された17世紀に端を発するが、非公式な接触であった[398]。正式に国交が樹立されたのは1867年の日丁修好通商航海条約以降であり、これは江戸幕府が最後に外国と結んだ条約であった[399]。その後、1911年(明治44年)には内村鑑三が『デンマルク国の話:信仰と樹木とを以て国を救ひし話』を講演しエンリコ・ダルガスの植林事業を優れた施策として紹介したほか[400]1912年には農学者であった東郷実がデンマークの農業改革を高く評価し『丁抹農業論』を著す[401]、北海道庁にデンマーク式酪農が伝わる、1936年にはデンマークの教育機関フォルケホイスコーレを参考にして松前重義が後に東海大学となる私塾を開設するなど[402]、農業・教育分野で日本に影響を与えた。現在でも友好的な関係が続いており、経済面ではレゴなどの企業が日本進出しているほか[403]皇室デンマーク王室の交流は緊密である[404][405]

スイスの旗 スイス日本とスイスの関係は、1864年に日本瑞西国修好通商条約が締結された事により始まった[406][407]。その後、第一次世界大戦第二次世界大戦を通して、永世中立国であったスイスは中立を維持したため断絶する事がなく国交が続いている稀有な国家である[408]。現在では日本は経済大国、スイスは金融立国としてそれぞれ経済や金融における結び付きがあり、日本にはネスレノバルティスが進出している[408][409][410]

アイルランドの旗 アイルランド日本とアイルランドの関係は、1872年にイギリス訪問中の岩倉使節団ダブリンを訪れた事から始まる。その後、アイルランドの作家ラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)は日本に移住して日本についての本を書いているほか[411]、何百人もの修道女司祭が日本に渡って教育や児童福祉に携わり影響を与えた[412]1957年には正式に国交を樹立し、2017年には樹立60周年を迎えている[413]。両国は経済力に大きな差があるものの、同じOECDのメンバーとしてEUを介し経済的な結び付きを強めている[414]

バチカンの旗 バチカン日本とバチカン市国の関係は、日本とキリスト教との歴史とも言え、それは16世紀中盤、イエズス会のスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に渡来し、布教活動の末に日本人を複数名キリスト教に改宗させたことに始まる。1584年には天正遣欧少年使節ローマを訪れ、日本人で初めて教皇グレゴリウス13世に謁見した[415]。その後、キリスト教弾圧の時代、キリスト教が解禁された明治時代を経て、1919年には関係改善のため教皇使節が日本に送られ、1942年にはアジア国家で初めてバチカン市国と正式に国交を結んでいる[416]

 ブルガリア日本とブルガリアの関係は、20世紀初頭より公式関係があり[417]ジフコフ国家評議会議長が二度来日するなど、社会主義時代から交流があった[418]。大阪万博でブルガリア館がヨーグルトを展示して以降、日本ではヨーグルトの国として有名であり、明治ブルガリアヨーグルトはブルガリア政府から許可を得て国名が使用されている[419]

ロシア・中央アジア諸国

ロシアと国交が結ばれた段階ですでにロシアは南下政策をとっており、中央アジアコーカサス地域も征服していた。社会主義革命でソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が成立してからも、これら地域はソ連の構成国として維持された。そのために、中央アジア西トルキスタン諸国やコーカサス地方の国々との関係樹立は1991年のソビエト連邦の崩壊まで待たなければならなかった。1997年(平成9年)に橋本政権が「」が提案されてロシアや中央アジア諸国との関係強化が志され、のちの政権も継承されることになった[420]。しかし、2001年9月11日の米国ニューヨークでの同時多発テロ以降は低調である。経済基盤の貧弱な国が多く、更に海に面していないために輸送コストなども掛かるなどの理由から、一部の希少な地下資源を除き、貿易などの経済的な関係も他地域と比べて活発と言えない状況にある[421]。ただし、この地域に栄えた古代王朝や仏教遺跡の研究などの学術関係での交流は活発である[422]

ロシアの旗 ロシア日露関係は断続的に関係が深まる時期を挟みつつも、対立の時期が長い。これはかつての帝政ロシア不凍港を求めて伝統的に南下政策を取り、太平洋への出口を求めたため、通り道の日本との間に地政学的な対立構造があるからである[423]。外交関係としては、1792年にアダム・ラクスマンが当時のロシア帝国の使節として根室(現在の北海道根室市)に来航した時に非公式の接触が始まった[424]。その後、江戸幕府最上徳内近藤重蔵間宮林蔵伊能忠敬といった者を千島列島樺太を含む蝦夷地に向かわせ地理的な知識を得ようとしたが、それは領土を拡大するロシアの脅威に対して北方防備の必要性を悟ったからであった[425]。正式な国交が結ばれたのは1855年に択捉島得撫島の間を国境とする日露和親条約が締結されて以降であり、その直後に条約は日露修好通商条約に置き換わった。満州(現在の中国東北部)・朝鮮半島の支配権をめぐっては1904年(明治37年)に日清戦争が勃発し、その後一時的に日本とロシアは接近して日露協約を結ぶものの[426]、1917年(大正6年)に起こったロシア革命に日本などの諸国が干渉して起こしたシベリア出兵第二次世界大戦終戦直前にソ連軍日ソ中立条約を一方的に破棄して日本支配地域に侵攻したソ連対日参戦などが発生。さらに日本のポツダム宣言受諾(日本の降伏)による終戦後もロシアは南樺太千島列島への侵攻を続け併合し、日本軍兵士を捕虜として連行してシベリア抑留をするなどの行為が日本の人々の反感を生み、1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言で一応国交が回復した後も、冷戦の中で緊張関係が続くなど対立関係であった。1986年(昭和61年)以降に関係の改善が進み、1991年のソビエト連邦の崩壊によりその外交権を継承したロシア連邦も比較的友好的な対日政策を取った。

現在の日露両国の間では経済的な交流が盛んに行われており、貿易額は2014年の3兆5,904億円をピークに2019年には2兆3,432億円まで減少しているが、日本にとってロシアは未だ重要な貿易相手国である[427]。日本は慢性的な輸入超過が2009年以降続いており、日本がロシアから輸入している品目は主に原油液化天然ガス石炭であるなど、エネルギー面での依存が強い。一方で日本がロシアに輸出してい製品は自動車がほぼ半分の43.5%を占めている[428]。外交や政治では、領土問題やそれに起因する漁民銃撃・拿捕事件、資源問題(サハリン2を参照)なども生じており、さらには国際社会では2014年クリミア危機に際し日本政府はロシアのクリミア併合を非難するなど、[429]その関係は円滑ではない。

西アジア

間に巨大な中国文化圏やインド文化圏が存在し、7世紀以降に西アジアで広く信仰されたイスラム教の日本伝播が20世紀まで非常に稀で、政治・経済面でも戦前の日本が英仏統治下の西アジアに入る余地はなかったため、日本と西アジア地域はトルコやペルシア(1935年からイラン)との小規模ながら友好的な外交関係を除くと希薄なままだった。しかし、1950年代に日本がペルシア湾周辺の油田についてイランサウジアラビアクウェートなどの湾岸諸国と相次いで協定を結び[430]、1960年代以降は原油輸入元の大半を中東諸国が占めるに至って[431][432]、日本経済の根幹に関わる「エネルギー外交」で中東諸国との関係が死活的に重要となった。近年では日本の自衛隊が中東地域での活動を行い、一方では日本人が犠牲になった殺害事件も起こるなど、西アジア諸国との関係は新たな段階に入っている[433]

サウジアラビアの旗 サウジアラビア:1909年、山岡光太郎が日本人として初めてメッカ巡礼を行った事を皮切りに、20世紀初頭からわずかながら交流を持ち始めた[434]。正式に接触があったのは1938年であり、その後サウジアラビアの石油獲得を巡って幾度か接触しているものの国交樹立の交渉は不調で終わっている[435]第二次世界大戦後の1955年には初めて国交が樹立、日本が石油利権を獲得する足掛かりとなり、また皇室とサウジアラビア王家であるサウード家との交流が進展した[436]。現在では、文化面よりも経済面での結びつきが強く、日本はサウジアラビアにとってアメリカ合衆国に次ぐ第二位の貿易相手国であり、一方でサウジアラビアは日本にとって最大の原油供給国である。日本が調達する原油の、30%がサウジアラビアからの輸入である[437]。政治や外交面では、ともにG20の一員として国際社会で連携する機会もあり、 特にISILなどをイスラム過激派組織に対してはともにテロ組織に認定するなど立場を共通にしている[438][439]

アフガニスタンの旗 アフガニスタン:外交関係の樹立は1930年である[440]ソ連によるアフガニスタン侵攻以後は一時的に国交が途絶えるものの、アフガニスタン紛争に際しては日本は継続的な支援を続けており、バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群の修復などに多額の援助を行っているほか、文化遺産の保全をターリバーンにも求めている[441]。アメリカ合衆国が行ったを支持したが、部隊の派遣は、自衛隊インド洋派遣に留めている[442]

イランの旗 イラン:日本と共に古代から続く領域国家で、8世紀に収められた奈良の「正倉院」の宝物庫にはシルクロードを通じてサーサーン朝ペルシアの影響を受けた文物も収められているほか[443]、765年の木簡からペルシャ人と考えられる破斯清道という大学寮官吏平城京にいた事が判明している[444]。正式な国交樹立はパフラヴィー朝成立後の1926年まで遅れ、第二次世界大戦末期の1945年2月には英ソ両国に占領されたイランが対日宣戦を布告したが[445]、1953年の国交回復後は石油輸入元の確保を求める日本側とイギリスからの石油利権奪回を狙うイラン側の利益が一致し、油田開発や反共主義外交で両国間の関係は緊密になった[446]。1979年にイラン革命が成功してイスラム教による国家統治と強烈な反米主義を掲げるイラン・イスラム共和国が発足した後も両国は友好関係の維持を求めたが、続くイラン・イラク戦争やアメリカによる対イラン経済制裁の影響を受けてイラン・ジャパン石油化学(IJPC)プロジェクトが中止され[注 35]、その後もイランの核開発問題[注 36] などが災いして、両国間の経済関係は資源貿易を除き現在でも双方の期待ほどには進展していない。

イラクの旗 イラク:1932年にイギリス委任統治領メソポタミアイラク王国として独立、1939年には日本と国交を結んだ[447]。しかし当時は第二次世界大戦の真っただ中であり、1943年には対日宣戦をして国交が断絶している[448]。その後、イラクでは7月14日革命によって王政が崩れる、東側諸国の一員となる、バアス党が一党独裁体制を築くなどの政変があったものの、日本は関係を維持し、関係が悪化したのはクウェート侵攻の時であった[449]イラク戦争の後、自衛隊イラク派遣を行った[450]

カタールの旗 カタール:1972年に初めて国交が樹立された[451]。両国の経済規模は大きく離れているが意外にも経済や政治で結び付きは強く、カタールにとって日本は第六位の貿易相手国であり、日本にとってカタールは重要な資源供給国である[452]。政治面では、2014年にシリアにおいて日本人二人が拘束された「ISILによる日本人拘束事件」の際、カタールは解放交渉に尽力した[453]。逆に、2017年カタール外交危機でカタールが周辺国から断行される事態に陥ると、日本政府はその仲裁を申し出ている[454]

ヨルダンの旗 ヨルダン:1954年に国交が樹立され[455]、国交がないパレスチナへと窓口となっているほか、2010年以降は反ISILで共同歩調を取っている[456]。経済や政治、文化よりは皇室ヨルダン王室との交流が強い[457]

イスラエルの旗 イスラエル1948年にイスラエルの建国宣言、1952年に日本が主権を回復、その直後に日本はイスラエルを国家承認して外交関係が成立した[458]。なお、在イスラエル日本大使館はイスラエルが首都と主張するエルサレムではなく、テルアビブに置かれた。日本は、中東和平パレスチナ問題に関して中立の立場であり、対立する中東諸国やパレスチナイランとも友好的な関係を保っている。政府高官が訪問する際には、イスラエル・パレスチナ自治政府の双方と会談が設定される等バランスが図られていて[459]、パレスチナを国連の「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げする際にはイスラエル画反発するなか賛成票を投じた[460]。このように政治や外交では程よい距離が保たれている一方、両国は互いに先進国であり、経済科学技術における交流は深い。特に先進科学技術と宇宙関連機関の連携は重要である[461]。また、ユダヤ人を救った杉原千畝はイスラエルでも高く評価されており[462]、その影響で比較的親日国として知られる。

トルコの旗 トルコ岩倉使節団福地源一郎島地黙雷が1873年にオスマン帝国を訪問したことにより、トルコと日本は初めて接触した[463]。その後、日露戦争が始まると、以前にオスマン帝国はロシア帝国南下政策によるクリミア戦争露土戦争を経験していた事からそれに注目し、日本の勝利は歓喜を巻き起こした[464]。しかし第一次世界大戦では交戦国となり、敗戦後オスマン帝国は解体されトルコ共和国となると1924年に国交が樹立し[465]ムスタファ・ケマル・アタテュルクが推し進めた近代化政策は日本の明治維新を参考にしたものであった[466]。その後、第二次世界大戦では国交が一時断絶するも、戦後すぐ復活。良好な関係が続いており、日本からは多額の開発援助が行われているほか、日本とイタリアの建設会社によってボスポラス海峡ファーティフ・スルタン・メフメト橋を建設した[467]。一方、イラン・イラク戦争の際にはトルコ航空機が在イラン日本人を救出するなど、経済や政治面で協力経験が多い。外交においても両国ともにG20の一員で、歩調を合わせる場面がある。なお、親日国の代表として紹介される国である。オスマン帝国末期の1890年のエルトゥールル号遭難事件が友好関係の起源としてしばしば取り上げられる[468]

アフリカ

アフリカ諸国は、地理的に離れている事もあり日本とは歴史的に関係が少なかった。南アフリカ連邦(のちの南アフリカ共和国)、エジプトエチオピア帝国(のちのエチオピア)を除き、殆どの国と戦後に国交を結んでいる。主に日本からアフリカ諸国への開発援助と、アフリカ諸国からの地下資源や農水産物の輸入と日本からの工業製品の輸出という貿易関係が多い[469]。1993年からは、ODAなどの経済支援を含む経済的・人的な交流を深める目的で、日本、国際連合、、世界銀行が共催し、アフリカ開発会議(TICAD:Tokyo International Conference on African Development)を開始するなど、[470]関係強化に乗り出している。また、ソマリア南スーダンなどでは自衛隊による平和維持活動が行われており、関係は深化している。文化面では、サッカーなどスポーツの分野においてアフリカ諸国の選手団を日本に招待した試合が行われており、緊密かつ良好な関係を築いている[471]

 南アフリカ共和国:記録に残っている公式な交流は江戸時代であり、江戸幕府から派遣された山内作左衛門らがケープ植民地ケープタウンに立ち寄っている[472]。1910年には南アフリカ連邦として独立、直後に国交を結ぶも第二次世界大戦をきっかけとして断絶した[473]。日本が国際社会に復帰後は、国交は回復しないながらも交流が再開される。アパルトヘイト(人種隔離政策)で世界から孤立していた時代にも、日本は積極的に資源を輸入し、多数の日本企業が進出して非公式ながら比較的密接な関係を築いていた[474]。このため、日本人は同国から「名誉白人」の扱いを受けており、アフリカ諸国や国際連合からの非難も受けていた[475]。アパルトヘイトが撤廃されると、1992年には半世紀ぶりに正式に国交が回復している。

BBC国際世論調査

日本の旗 日本の影響力について (2012 BBC Poll[476])
肯定的
否定的
ナイジェリアの旗
80
10
インドネシアの旗 インドネシア
77
5
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
74
18
カナダの旗 カナダ
72
16
イギリスの旗 イギリス
70
17
ケニアの旗 ケニア
68
15
フランスの旗 フランス
66
24
オーストラリアの旗 オーストラリア
65
23
スペインの旗 スペイン
62
17
ブラジルの旗 ブラジル
60
22
ドイツの旗 ドイツ
58
29
チリの旗 チリ
57
12
ペルーの旗 ペルー
57
14
エジプトの旗 エジプト
57
15
ロシアの旗 ロシア
54
10
ガーナの旗 ガーナ
48
10
インドの旗 インド
44
11
メキシコの旗 メキシコ
44
26
日本の旗 日本
41
9
パキスタンの旗 パキスタン
41
17
大韓民国の旗 大韓民国
38
58
中華人民共和国の旗 中華人民共和国
16
63

イギリス公共放送BBCによる国際世論調査では、好ましい国の上位に挙げられている。2013年実施の調査結果では好ましい国の4位となっているが、大韓民国、中華人民共和国からの評価は低い[476]

領土問題等

以下の領有を巡る領土問題等を抱える。

日本政府が「解決すべき領土問題」と認識して国際的な了承を得ているもの
北方地域
第二次世界大戦の終結が決定的となる日本によるポツダム宣言の受諾(1945年8月14日)後、1945年8月28日から9月5日にかけ、大戦前から日本が領有していた千島列島(ロシア名:クリル諸島)に日ソ中立条約の破棄を通告したソ連軍が侵攻し占領した。以後、ソ連を承継したロシア連邦が現在に至るまで実効支配している。
ロシア(ソ連)は、戦争で獲得した領土と主張する。一方、日本は、北方地域(歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島)をその固有の領土として返還を求めている。ロシアは、歯舞群島・色丹島について日ソ共同宣言を根拠に日本への将来の返還を示唆している。日本は、択捉島・国後島を含む4島の一括返還を求め、これを拒否する。また、日本は、択捉島と得撫島との間での国境の確定にロシアが同意すれば、引き続きロシアによる統治を認める旨を提示したが、ロシアが拒否した。2007年にロシアが「面積二分割」案を提示した。現在、解決の目処が立っていない。樺太・千島列島を日本領と主張する有識者、団体も存在し、日本共産党は、千島列島の全域を日本の領土と主張する(ソ連による千島の占領がカイロ宣言等で示された連合国の「領土不拡大」原則に反し、違法であるとの理由から)ほか、一部では南樺太ないし樺太(全域)(サハリン)の返還も主張される。日本側は南樺太と千島全島はロシアとの間に領有権未定だと主張している。
相手国政府は「領土問題」はないと認識しているが、日本政府が「解決すべき領土問題」と認識しているもの
竹島(韓国・朝鮮名:独島)
日本の島根県・隠岐島から北西約157km、大韓民国の慶尚北道鬱陵島から約92kmに位置する、2つの岩礁からなる小島である。日韓が領有を主張(韓国を朝鮮民主主義人民共和国も支持)して対立する。
韓国併合以前、大日本帝国大韓帝国と、どちらの領土だったかを巡る議論に帰する。日本の国内法上、1905年の閣議決定・島根県告示によって編入された。これについて韓国は、「秘密裏に、また強制的に行われたものであり、法的根拠は持たず無効である。」と主張するが、日本は、「国際法に則った適法な手続きがなされたものであり、また新聞などでも報道されており秘密裏に行われたとの指摘は当たらない」と主張する。韓国は、独立から間もなく李承晩ラインを一方的に設定し、その内に入った日本の漁船・漁民を拿捕して釜山収容所に抑留したのみならず、第一大邦丸事件など漁船を相次いで銃撃し、多数の死傷者を出した。その後の日韓国交正常化交渉で李承晩ラインの不当性や竹島の領有を日本が強く主張し、1965年に李承晩ラインが廃止された[477]
1954年7月に韓国海軍が占拠し、現在、独島警備隊が引き継いで駐屯する。これに対して日本は、韓国による不法占拠として抗議し続け、また、1954年と1962年に国際司法裁判所への付託を提案したが、韓国は、これに同意しない。
韓国民にとって独立の象徴と考えられていること、周辺の海域が豊かな漁場であること、また、莫大なメタンハイドレートや海底油田の埋蔵が推測されること、などが解決を難しくしている。
1965年の日韓基本条約の締結の際には日韓の実力者交渉で「竹島爆破」による領土問題の解消も囁かれたものの至らず、条約締結以降は外交的配慮で日本側からの提訴は控えられ、民主党政権では政府見解から「不法占拠」の表現が曖昧になるなど引け目になっていたが、2012年に李明博大統領による韓国トップとしては初の竹島上陸が強行されたことに対する世論の批判を受けた形で3度目の提訴が予定されている。
日本政府は「領土問題はない」と認識しているが、外国から領有権の主張がなされているもの
尖閣諸島(中国名:釣魚台列島など)
1895年(明治28年)に、当時の第2次伊藤内閣伊藤博文首相)が「尖閣諸島を日本の領土に編入すること」を閣議決定している。第二次世界大戦後は、沖縄県琉球諸島および大東諸島)の一部としてアメリカ合衆国の施政権の下にあった。沖縄返還時に、施政権が日本に返還されて以降、現在まで日本が実効支配するが、その他に中華人民共和国(中国)政府および中華民国台湾)政府がそれぞれ自国の領有を主張する。日本政府は「日本固有の領土にして統治されている尖閣諸島に領土問題は存在しない」という見解を示している。上の経済水域の問題や中台間の問題も絡み、複雑化の様相を呈する。アメリカ合衆国との沖縄返還交渉および1970年代初頭の東シナ海における天然ガス発見を機に、表面化した。中台に対抗し、度々、日本の右翼団体が上陸して灯台を建設(現在、日本政府が管理)するなどした。2005年、台湾の漁民が海上保安庁による取締に対して海上で抗議デモを行った。2002年からは政府が私有地を借りる形で管理し2012年には国有化されており、許可なく民間人の立ち入りが出来ない状況であるが、近年の中国人活動家による領海侵犯・不法上陸に対する政府の対応の甘さを指摘する世論の反発を受けている。
その他
領土問題に準じる、いくつかの問題がある。
日中間の排他的経済水域
中華人民共和国(中国)との間における、東シナ海で両国が主張する排他的経済水域の範囲の違いに起因する。日本は、両国の国境の中間線を境界線として主張し、中国は、ユーラシア大陸の大陸棚部分を自国の領域と主張する。国際的には、日本の主張が優勢であるが、中国と同様の主張をする国も存在し、現在、平行線を辿る。
近年、この問題が重要化したのは、この海域の地下に豊富な天然ガスの存在が明らかになったためである。中国は、天然ガスを採掘するプラント(春暁ガス田)を日本が主張する境界の近辺(中国側)に建設するなど強硬な姿勢を取る。これに対して日本は、日本側の資源も採掘される可能性があるとして抗議し、また、この海域での試掘権を設定し、日本の企業が取得した。日本が国際司法裁判所に判断を委ねようとする立場なのに対し、これに同意しない中国は、両国での共同開発を提示するが、日本は、これを中国に有利な条件と認識するなど、依然、解決の糸口が見えない。
沖ノ鳥島
サンフランシスコ講和条約においては沖ノ鳥島の存在が明記されているため、締結国と日本の間に問題は存在しない。日韓基本条約はサンフランシスコ講和条約の関係規定を想起し条約を締結することに決定と規定されているが、韓国政府は2009年(平成21年)以降沖ノ鳥島を岩だと主張している[478][479]
日本政府は1931年(昭和6年)7月の第2次若槻内閣若槻禮次郎首相)での内務省告示以来、沖ノ鳥島を島として支配しそれを継続していること、また、国連海洋法条約において島の定義が存在しないことを理由として、沖ノ鳥島を「島」であるとしている[480]。それに対して中国政府および韓国政府は、沖ノ鳥島に関する日本の権利を容認しながらも[要出典]、国連海洋法条約121条3項における「岩礁」の定義に基づいて沖ノ鳥島は岩礁であると主張しており、沖ノ鳥島を起点に設定される日本の排他的経済水域(EEZ)については容認していない。
日本海の呼称
与那国島上空の防空識別圏
与那国島の西2/3が、沖縄のアメリカ統治期に東経123度線に沿って設置された防空識別圏(ADIZ、アディズ)を引き継いでいるため、中華民国台湾)政府の管理下にある。現在、両国の関係が良好であるために情報の交換もスムーズだが、台湾有事において防衛上の重要な問題となる可能性が高い。2005年末から2006年にかけて台湾が防空識別圏から与那国島を除外して運用していたことも判明しているが、特に両国で取り決められたわけでもなく、曖昧なままである。
2010年(平成22年)6月25日、日本は菅内閣菅直人首相)下で「防衛省訓令改正」により防空識別圏を与那国島上空にも拡大した。台湾には外交ルートを通じて説明した[481] が、台湾の外交部は「事前に我々と十分な連絡をとらなかった」として遺憾の意を表明[482]、日本の決定を受け入れないとしている。
南樺太千島列島の放棄後帰属問題
南樺太および千島列島は、大日本帝国時代、いわゆる「内地」であったが、サンフランシスコ講和条約で日本は領土を放棄した。しかし、ソ連・ロシアとは北方領土問題のみ解決などから領有権を認めず、「未帰属」後として扱った。しかし、ロシアが実効支配しており、マスコミでも日本語名称は使用されなくなりつつある。(樺太→サハリン、豊原→ユジノサハリンスク、等)
当時ソ連の対日宣戦布告が違法とする立場や、ソ連(ロシア)がサンフランシスコ講和条約を批准していないことを根拠に、「主権残留説」も出ており、一部の論者はこれらの地域の領有権を主張している。また、それとは別に日本共産党が「千島列島返還」を主張している。
日本政府はこれらの問題について、「未帰属」(=未解決)としており、ロシアとの平和条約が締結された後で解決するとしている。
台湾の放棄後帰属問題
日本は台湾の領有権を放棄したが、いまだに中華人民共和国の領土とは、認めていない。一時は中華民国に割譲したが、今の日本政府は中華民国を「合法政府」とは認識しておらず、台湾の地位については、「発言する立場にない」としている。
台湾の主権が日本に残留している、あるいは、台湾の帰属は台湾住民の意思によって決定するべきである、という意見もある。
韓国の反日過激派による対馬の領有権主張問題
大韓民国には、対馬は韓国領であると主張する、一部の過激派が存在する。
しかし、韓国政府もそのような主張は、決して承認しておらず、日韓の右派団体同士による衝突を除けば、国際問題にはなっていない。

渡航する日本人

安全
近年、海外への渡航の増加に伴い、犯罪に巻き込まれるケースも増えている。特にアメリカ同時多発テロ事件以降、爆破や拉致・監禁事件なども多発し、有名な例としては、イラク日本人人質事件アフガニスタン日本人拉致事件アルジェリア人質事件では武装勢力に殺害される事件も2013年に起きた。また、2002年にニューカレドニアのリゾート地で現地の風習・文化をよく知らずに聖地とされる場所に無断で侵入したために地元民に殺害される事件も発生した。
世界的に最も良い方である日本の治安、例えば殺人の発生率が低い順に第3位(2000年〔平成12年〕)であることなど、日本人が日本での治安の感覚と同じように海外で行動すると、その感覚の大きな隔たりから犯罪に巻き込まれることがある。
マナー
米最大手の旅行ウェブサイトであるエクスペディアが行ったアンケート調査で、「行儀がいい」、「礼儀正しい」、「物静かで慎ましい」、「クレーム・不平が少ない」の各分野で1位を獲得するなど、2位のアメリカ人を大きく引き離して1位となった[483]
一方、以下のような事例も存在する。

治安維持

対内

国内の治安維持は、主に警察が担う。警察の機構は、内閣府の一機関たる国家公安委員会とこれに属する警察庁、そして各都道府県の公安委員会警察本部による二層構造であり、後者の下部組織たる警察署、更に日本発祥の交番の存在が地域の安全を担う。交番は地域に根ざして、小ブロックの担当地域を効率的かつ濃密に警備できる。日本の警察はSAT等をも擁する文民警察である。

警察以外では、沿岸警備隊の機能を有する海上保安庁国土交通省外局として、また、国境警備隊の機能の一部を担う法務省