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富士山・“登山鉄道”構想 山梨でも賛否が・・・
内容をざっくり書くと
世界遺産・富士山を「価値ある山」として後世につなげたいという方向性は一致しています。
過去に何度も浮かんでは消えを繰り返して来た富士山・登山鉄道。 ここに来てその実現を公約に掲げた山梨県… →このまま続きを読む
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富士山
富士山(ふじさん、英語: Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である[注釈 2]。標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)[注釈 3]の独立峰で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面のみならず、気候や地層など地質学的にも社会的に大きな影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。
古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。
日本三名山(三霊山)、日本百名山[4]、日本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている[注釈 4]。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された[6]。
名称
語源
富士山についての最も古い記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは不尽山[注釈 5]と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝説もある[注釈 6]。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては、宣教師バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論がある[注釈 7]。その他の語源説として、マレー語説、マオリ語説[8]、原ポリネシア語説がある。
明確に「富士山」と表記される過程においては駿河国に由来するとするものがあり[9]、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。
富士山に因む命名
富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に「富士」の付く地名が多数存在している。富士山麓では静岡県に富士市や富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市や富士河口湖町、富士川町がある。他によくあるものとして富士山が見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似ている山(主に成層火山)に「富士」の名を冠する例(信濃富士など)がある。日本国外に移住した日本人たちも、居住地付近の山を「○○富士」と呼ぶことがある。
全国各地には、別称を含めて少なくとも321座を超える数の、「富士」と名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。
地名以外にも「富士」を冠した名称は多く存在する。
また、異名として「芙蓉峰」「富嶽」とも言う。
富士山の標高
富士山は独立峰でよく目立ち、日本の最高峰であることから古くからその高さが注目されてきた。
標高計測の歴史
以下は、江戸時代からの富士山の標高計測の経緯である[10]。
明治初期までに測量された富士山の高さ
時代 | 測定年 | 測定者 | 測定法または器械 | 結果(m) | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
江戸時代 | 1727 | 福田 某 | 三角法 | 3 895.1 | |
1803 | 伊能忠敬 | 三角法 | 3 927.7 | ||
1826 | シーボルト | セキスタント | 3 793 | セキスタント:六分儀 | |
1834 | 内田恭 | 象限儀、占気筒 | 3 475.7 | ||
1860 | オルコック | 気圧計 | 4 322 | ※測定法は<鈴木、1998>による | |
1860 | ファガン | 3 987 | |||
1860 | ウィリアム | 気圧計 | 3 266 | ※測定法は<鈴木、1998>による | |
1860 | ルビェー | 3 518 | |||
1860 | クニッピング | 気圧計 | 3 729 | ||
明治時代 | 1874 | スチュワート | オムニメートル | 3 769 | |
1874 | フェントン | 3 772 | |||
1874 | ファーブルブラントン | 3 768 | |||
1880 | 中村精男、和田雄次 | 気圧計 | 3 823 | メンデンホール・田中館愛橘らの富士山頂重力測定と同時に実施 | |
1880 | 野尻武助 | 上記の再計算 | 3 812 | 温度の補正が異なる | |
1880 | チャップリン | 三角測量 | 3 787.2 | ||
1880 | ライン | 3 745.5 | |||
1880 | シュット | 3 766.4 | |||
1880 | ミルン | 3 882.3 | |||
1887 | 参謀本部 | 三角測量および平板測量 | 3 778 |
箱岩英一(2003):「地質ニュース」pp.23-30、2003年10月 による。
※鈴木弘道(1998):「Height of Mountains」、1998年9月
最新の標高
標高として言及されるものには、次の2つがある。
三角点の標高(3775.51 m)
山岳の標高としてよく引用される。それは主な山岳の最高地点近くに三角点が設置されて、その標高が精度良く(センチメートル単位で)計測されているからである。しかし三角点は近傍の山岳との見通しや設置位置の安定性を重視して設置されることから、山岳の最高地点に設置されるとは限らない[11]。
富士山では、剣ヶ峰にある二等三角点「富士山」の高さが3775.51 mである。2014年4月1日付け標高改定前の数字は3775.63mであった[12]。
山体の最高標高 (3776.12 m)
三角点の高さが必ずしも山岳の最高標高とは限らないことから、最高標高の数値が別途に計測されることがある。例えば、国土地理院は日本の主要な1003の山岳について「日本の主な山岳標高」として公表している[13]。最高標高の地点は岩体の高さなど必ずしも三角点の標高とは限らないため、山岳標高の表示は1メートル単位となっている。この国土地理院の「日本の主な山岳標高」によれば、富士山の高さは3776 mであり、その位置は35度21分39秒 138度43分39秒である。
富士山の最高地点は、剣ヶ峰にある二等三角点「富士山」の位置から北へ約12 m のところにある岩であり、二等三角点との比高は0.61 m である。したがって、この岩の標高は、3776.12 mとなり、これが富士山の最高標高である[14][注釈 8][15][16]。
他山の標高
- 玉山(台湾)- 日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった。標高3,952m。
- 雪山(台湾)- 日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,886m。
- 北岳 - 日本で2番目に高い山。標高3,193m。
- 御嶽山 - 日本で2番目に高い火山。標高3,067m。
- 日和山 (仙台市) - 日本で最も低い山。標高3m。
- エベレスト - 世界最高峰。標高8,844m。
地質学上の富士山
地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特有の美しい山体を持つ。 現在の富士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたものだと考えられている。
- 先小御岳(せんこみたけ)火山
- 小御岳(こみたけ)火山
- 古富士(こふじ)火山
- 新富士(しんふじ)火山
この中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付けられた[17]。
古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1–2kmのところにあったと考えられている。
2009年10月に、GPSによる富士山の観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市-富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活火山である)表れとされている[18]。
プレートの観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域()となっている。富士山下で沈み込んでいるフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来するものである[19][20]。富士山の火山上の特徴は、側火山が非常に多いこと[21]、日本の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し[21]、富士山は玄武岩マグマを多く噴出すること[21]がある。
- 富士山頂
- 山頂には火口(お鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むように位置する8つの峰を八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰があり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m 2014年4月1日改算[2])、火口の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756.23m 2014年4月1日改算)が設置されている。火口の構造は、国土地理院によると、最深部の標高が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は780m、火口底の直径は130mとある[22]。
- 登山道を除く8合目より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。2014年1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平太と山梨県知事の横内正明は県境を定めないことを明言している[23]。国土地理院がインターネット上で公開している地形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示されるという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については非表示になるよう変更された[24][25]。
- 宝永山
- 宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2,693 mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている。これらを間近で見ることができる登山コースも整備されている。
源流の河川
源流となる以下の河川は4水系に区分され、すべて太平洋へ流れる。
富士山と火山活動
富士山の噴火
最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,500–2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。
新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前–約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前–約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部からの最後の爆発的噴火は2300年前で[26]、これ以降は山頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生している。
延暦19年 - 延暦21年(800年 - 802年)に延暦噴火(『日本後紀』、要約すると、「富士山が自ら燃え、夜も火の光が照らし、雷灰が落ち、山下の川水は紅色になった」とある)、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火が起きた。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。
噴火の年代が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写がある。
宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。
その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。
宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山に区分されている。
2013年7月20日、産業技術総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し[27]、2016年には修正加筆が終了した[26]。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43回あったとしている。
山体崩壊の発生
地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩屑(がんせつ)なだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたとされている[28]。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動によるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている。
- 主な発生歴
- 約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(約18億立方メートル)な山体崩壊[29][30]が発生し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ流下。山体崩壊の発生原因は不明。
- 1331年の元弘地震 に伴い発生[31]。
- 明治24年(1891年)の濃尾地震 に伴い発生[32]。
災害対策
- 火山噴火予知連絡会 - 富士山のみに限定するものではないが、日本の火山活動についての検討を実施する。状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表することはない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に富士山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され、富士山に関する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法などが集中的に検討された。
- 内閣府はウェブサイト「富士山の火山防災対策[33]」を開設して、富士山ハザードマップ検討委員会などの情報を提供している。
- 富士直轄砂防事業 - 大沢崩れを源にして発生する大規模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。
- 山梨県と静岡県は「富士山噴火時避難ルートマップ」を作成した[34][35]。
- 静岡市市長の田辺信宏は2016年1月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山で滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局がヘリで救助できる山の高さに3200メートルと上限を設けたことを明らかにした[36]。
地殻変動の観測
政府系機関(防災科学技術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)や自治体(山梨県富士山科学研究所)及び大学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われている。
- 国土地理院:地磁気観測点[37]が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測所および江刺観測場に設置されている。また、山頂にはGPSの電子基準点。
- 気象庁観測所[38]:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)
- 防災科学技術研究所[39]: 火山活動可視情報化システム(VIsualization system for Volcanic Activity)
噴出物災害などへの対策
- 国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所が静岡県、山梨県と連携して火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐための調査・検討を実施。ハザードマップを作成している[40]。しかし、山体崩壊を想定したハザードマップは2012年時点では未作成である。
- 中央防災会議が東京など首都圏への火山灰降下を想定した対策の検討を2018年に開始した[41]。
富士山と気象
気候
山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃しかなく[42]、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測史上最低気温は1981年2月27日に観測された-38.0℃で、最高気温が-30℃未満の日も過去に数回観測されている。-30℃を上回ることがない1日というのは北海道でも例がない[43]。
富士山の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | −1.7 (28.9) | 0.0 (32) | 1.0 (33.8) | 4.7 (40.5) | 12.2 (54) | 12.3 (54.1) | 17.4 (63.3) | 17.8 (64) | 16.3 (61.3) | 10.4 (50.7) | 6.9 (44.4) | 3.6 (38.5) | 17.8 (64) |
平均最高気温 °C (°F) | −15.4 (4.3) | −14.7 (5.5) | −10.9 (12.4) | −5.7 (21.7) | −0.8 (30.6) | 3.6 (38.5) | 7.5 (45.5) | 9.3 (48.7) | 6.1 (43) | −0.1 (31.8) | −6.4 (20.5) | −12.2 (10) | −3.4 (25.9) |
日平均気温 °C (°F) | −18.4 (−1.1) | −17.8 (0) | −14.2 (6.4) | −8.7 (16.3) | −3.4 (25.9) | 1.1 (34) | 4.9 (40.8) | 6.2 (43.2) | 3.2 (37.8) | −2.8 (27) | −9.2 (15.4) | −15.1 (4.8) | −6.2 (20.8) |
平均最低気温 °C (°F) | −21.7 (−7.1) | −21.5 (−6.7) | −17.8 (0) | −12.1 (10.2) | −6.5 (20.3) | −1.6 (29.1) | 2.4 (36.3) | 3.6 (38.5) | 0.4 (32.7) | −5.8 (21.6) | −12.2 (10) | −18.3 (−0.9) | −9.3 (15.3) |
最低気温記録 °C (°F) | −37.3 (−35.1) | −38 (−36) | −33.9 (−29) | −27.8 (−18) | −18.9 (−2) | −13.1 (8.4) | −6.9 (19.6) | −4.3 (24.3) | −10.8 (12.6) | −19.5 (−3.1) | −28.1 (−18.6) | −33 (−27) | −38 (−36) |
出典: 気象庁[44][45] 平均気温 (1981年 - 2010年) 最高・最低気温記録 (1932年7月 - 2013年) |
富士山での気象観測
かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。
気象現象
- 山体に強風が吹くと砂が巻き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積もり、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り積もったと考えられると報道された[46]。
- 富士山の「初冠雪」は甲府地方気象台が観測・発表している。これとは別に、雲などに遮られず「誰もがきれいだと実感できる降雪」を判断基準とした「初雪化粧」を、富士山北麓にある山梨県富士吉田市の富士山課が独自に宣言している[47]。
- 富士山北麓の一部地域(現在の山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によって、農作物の豊作・凶作を判断する言い伝えがある[48]。
- 富士山では山岳波が発生することもあり、航空機の墜落事故も起きている(英国海外航空機空中分解事故など)。
富士山麓の自然環境
富士山麓の天然記念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原」(天然記念物:1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(天然記念物:1929年12月17日指定)などがある。
伏流水
富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地点から湧き出す湧水として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合目付近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メートル以上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されている例がある[49]。
地域 | 名称 |
---|---|
南東麓 | 柿田川(日本三大清流)、小浜池 |
南麓 | 吉原湧泉群 |
西麓 | 湧玉池(特別天然記念物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉群 |
北麓 | 忍野八海(国指定の天然記念物) |
また、一部で駿河湾や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があるとされている[49]。
富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウォーターとしてペットボトル詰めされ、販売されている。
溶岩洞窟
富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成されている。
その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定されている。
植生
富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生している[50]。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。
人間との関わりの歴史
古代
古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われるようになった。「神聖な場所」であるため明治時代まで女人禁制の伝統があり女性が登山する事は長らく禁止されていた。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり、摂末社が全国に点在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。こうした歴史から、富士山が世界遺産に登録されたのも、世界自然遺産ではなく世界文化遺産(富士山-信仰の対象と芸術の源泉)としてであった。
古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴重な例もある。
それより後期の時代、イエズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続されていたと考えられる。
登山口は末代上人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在している。
神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つようになった[51]。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年 - 1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。
江戸時代
江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという[51]。
富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。
明治以後
慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しなどが進んだ[52]。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった[51]。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治39年)に新大宮口が開削された。
富士山は平成23年(2011年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市と裾野市と駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市、南都留郡の富士河口湖町と鳴沢村である[53]。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された[54]。
登山史
富士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存在する。
和暦 | 西暦 | 内容 | 補足 |
---|---|---|---|
推古天皇6年 | 598年 | 平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の上を越えたとする記述がある。 | 諸国から献上された数百頭の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。 |
天智天皇2年 | 663年 | 役小角が、流刑された伊豆大島から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。 | 役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた。 |
貞観17年 | 875年 | 平安時代の学者である都良香が『富士山記』の中で山頂火口のさまを記す。 | 山頂には常に沸き立つ火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者に取材したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大噴火があった。 |
久安5年 | 1149年 | 『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰り返したとある。 | 回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物として知られる。 |
江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山(富士詣)をした。 | 特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。 | ||
文政11年 | 1828年 | 気圧計による高度測定の試み | シーボルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬の測量では2603m - 3732m[55]とされていたが、この測定では3794.5mと算出されている[56]。 |
天保3年 | 1832年 | 高山たつが女性として初登頂。 | 女人禁制が敷かれていた時代である。 |
嘉永6年 | 1852年 | 松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名として初登頂。 | 富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主人が記した『袖日記』という古記録に、宮津藩主松平宗秀が富士登山を行った記録がある。『袖日記』の6番によると、宗秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても寄り道したりすることは許されない。このため富士に登ることを幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所) そこで宗秀は嘉永6年(1852年)6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。 |
万延元年 | 1860年 | 英国公使オールコックが外国人として初登頂。 | 『古事類苑』にオールコックの登山についての記録(富士重本[注釈 9]が寺社奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オールコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂した[52]。 |
明治4年 | 1872年 | 女人禁制が解かれる。 | 明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れられることになる。 |
明治25年 | 1892年 | 英国人のウォルター・ウェストンが登頂。 | 翌年にも登頂した。その後、本を出版して富士山などの日本の山々を世界に紹介した[57]。 |
明治28年 | 1895年 | 野中到が冬季初登頂。 | 2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を行った[58]。 |
大正12年 | 1923年 | 皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山 | 7月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行った後、御殿場口より下山された[59]。 |
大正12年 | 1923年 | 秩父宮雍仁親王の登山 | 8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。 |
昭和2年 | 1927年 | 中村テルが冬季女性初登頂 | 1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に[58]。 |
昭和63年 | 1988年 | 浩宮徳仁親王(当時・現今上天皇)の登山。 | 8月1日-2日の登山で、須走口から八合目を往復した[60]。天候の悪化で登頂は断念される。 |
平成20年 | 2008年 | 皇太子徳仁親王が登頂。 | 8月7日に富士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂[61]。 |
2020年(令和2年)は新型コロナウイルス感染拡大の影響で4つの登山道(御殿場ルート、須走ルート、富士宮ルート、吉田ルート)が史上初[注釈 10]の閉鎖となった[62]。
富士山を巡る利権争い
山役銭と内院散銭
山麓の各地域には各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭[注釈 11]を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭[注釈 12]は相当額になるため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという[63]。内院散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「須走」[注釈 13]と「大宮」である。村山においては、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている[64]。須走は1577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられている[65]。大宮は1609年(慶長14年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位権を得ている[51]。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあった[66]。
新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」[注釈 14]と「吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある[67]。
元禄の争論
元禄16年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏[注釈 15]らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守された[68]。
安永の争論
安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を相手として訴えた争論[注釈 16]が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側の富士民済[注釈 17]も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された[注釈 18]。
この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなった。
富士山と眺望
特別名勝としての富士山
富士山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された[69]。山梨県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中湖村)の範囲が指定された[70][71]。静岡県側は御中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山道(小山町)が範囲となっている[72]。
富士山の眺望
富士山への良好な眺望が得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景として、2005年(平成17年)に選定した。また2017年には環境省および都県・市町村が中心となり、「富士山がある風景100選」が選定された。富士箱根伊豆国立公園指定80周年記念事業に伴うものである。
羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行される。
富士山を見ることができる最遠地は和歌山県那智勝浦町にある色川富士見峠(妙法山とは別)で、富士山頂からの距離は322.9キロ[73][74][75][76]。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地図センターにより認定された(富士山からは308kmの距離にある)[77]。南東方向に約271km離れた八丈島の三原山からも眺望される[75]。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされていた京都府から2014年に撮影に成功した[78]ことにより、20都府県となった(福島・栃木・茨城・群馬・埼玉・千葉・東京・神奈川・新潟・富山・山梨・静岡・長野・岐阜・愛知・滋賀・三重・京都・奈良・和歌山)[79]。
様々な表情の富士山
富士山の表情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、いくつかの姿がある。
画像 | 富士山の姿 | 解説 |
---|---|---|
![]() | 赤富士 | 夏の朝、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。 葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。 |
![]() | 紅富士 | 雪化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。 「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。 |
![]() | 逆さ富士 | 波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。 D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。 |
ダイヤモンド富士 | 太陽が昇った時又は沈む時、太陽が富士山の頂上と重なり、 富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る現象。 富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることができる[80]。 | |
![]() | 影富士 | 朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出される風景。 富士山登山時に山の上部から、雲海の上に見られる場合がある。 |
笠雲 | 笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に傘をかぶせた雲がある風景。 その際は、次第に麓では曇りまたは雨になることが多い。 |
「表富士」と「裏富士」
現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが[81]、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」という表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記述がある。
登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、… — 『甲斐国志』
他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景 裏不二』[注釈 19]『冨嶽三十六景 身延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景 甲斐夢山裏富士』など、作品名に採用されている例がみられる。
富士山の文化
学術研究
活火山かつ日本最高峰で、広大な山麓を持つ富士山は、自然科学と人文科学の両面で研究対象となっている。火山防災や地質学、気象学、生態系といった自然科学では山梨県富士山科学研究所(富士吉田市)、人文科学を含む学際的研究では静岡県富士山世界遺産センター(富士宮市)や富士学会といった専門の研究機関・団体もある。
地形の険しさや山頂近くの強風により、野外で実地踏査できるのは富士山の5-10%程度であり、植生が不明なエリアも多い。上空からの観測・撮影も、ドローンの上昇限界が2750m程度という制約がある[82]。
美術における富士山
富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物である(1069年・延久元年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博物館蔵)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳図として描かれている。
鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認識されていた[注釈 20]。
室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には三峰型の富士とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、伝雪舟作『富士三保清見寺図』(永青文庫所蔵)は、三保の松原と富士山を同一画面に収めた作品であり、静岡市日本平からの眺望とされている[84]。雪舟型の富士山図は江戸時代を通じて写しの手本とされ、狩野派を中心に数多くの作品が派生している。
江戸時代には、1767年(明和4年)に河村岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。葛飾北斎は、河村岷雪の手法を援用した、富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(1831-34年・天保2-5年頃)、及び、絵本『富嶽百景』(全三編。初編1834年・天保5年)を出版した。前者において、舶来顔料を活かした藍摺などの技法を駆使して富士を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。後者は墨単色摺で、旧来の名所にこだわらず、天候描写に拘るなど、抽象性が高まっている[85]。
また、歌川広重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打っている[86]。
富士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。
富士山をモチーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、日本を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いている。
フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ばれる――を知らない者などいるのだろうか?ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染みだ[87]。 — 8月15日付
その後も富士山は大日本帝国により日本国および聖俗両面の統治者である天皇を中心とした日本独自の政治体制である国体の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。これは太平洋戦争(第二次世界大戦、大東亜戦争)で日本と戦ったアメリカ合衆国にも共有された概念で、反日感情を煽るアニメやポスターなどの戦意高揚創作でも富士山が取り上げられた。また、軍事目標としての富士山頂への攻撃も行われた(後述)。
戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾向も見られる。
深田久弥は『日本百名山』の中で富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」という。
日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。
近代では紙幣や切手のデザインにも用いられている。
- 富士山が紙幣のデザインに用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の50銭政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山である。その後の1951年と1969年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山からの富士山を元にしている。1984年発行の旧五千円札と2004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山である[88]。
- 富士山を描写した切手が郵便局から発売された[89]。
- 河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11年))
- 葛飾北斎(1999年(平成11年))
- オオマツヨイグサ・山梨県(2005年(平成17年))
文学における富士山
富士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。
「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」 (3.318) は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。
また、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。
『新古今和歌集』から。富士の煙が歌われている。
風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな 西行 (#1613)
都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。
『竹取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている場所が現存している[90]。
ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。
また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を表している[91]。
中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。
富士山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。
また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。
太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』[92]をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆している。
高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている。
「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」
富士山と地域振興
富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉地として成立する規模の湯量は湧出していない[93]。
富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視している。山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題[94]、世界遺産登録問題[95]等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面化している。
富士山と観光
富士登山
富士登山には登山の知識や経験、装備が不可欠である[96]。一般的には、毎年7月1日の山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている[97]。 とくに積雪期・残雪期の登山は極めて危険である[97]。
その他の観光
その優美な姿から、富士山が見える場所は著名な観光地となっていることが多い。
- 箱根 - 箱根は富士山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶えない。また、夏は避暑地としても有名である。
- 富士五湖 - 富士五湖は富士山周辺の観光地として著名であり、本栖湖の逆さ富士が日本銀行券に採用されている。
- 白糸の滝 - 白糸の滝は上流に川は存在せず、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成をしている滝である。また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指定されている。
- 朝霧高原 - 朝霧高原は富士山を綺麗に臨むスポットとして著名であり、その自然と広大な土地もあり過去に第13回世界ジャンボリーも開催されている。
- ダイヤモンド富士 - ダイヤモンド富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったスポットも有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる。
- ドライブ - 富士スバルラインや富士山スカイラインなどを利用して、5合目までマイカーで上がることができる。シーズン中はマイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。
富士山の日(2月23日)
2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで読み「富士山の日」として制定している自治体がある。
- 2001年(平成13年) 山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定。
- 2002年(平成14年) 山梨県富士吉田市を中心に、山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。
- 2009年(平成21年)12月21日 静岡県議会にて条例を全会一致で可決。同年12月25日条例を制定。
静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せて富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの期待も込められている。
静岡県教育委員会で、各市町村に対して2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とするよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることはなじまない」という理由で、2011年以降休業日としていない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。
なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「NIFTY-Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表した。
富士山ナンバー
静岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして2008年11月4日から富士山ナンバーの交付が開始された。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートは珍しい[98][99]。
富士山検定
「富士山検定実行委員会」が主催する富士山検定が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所、静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士山検定協会の5者により行われている。
地域間交流
富士山の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」という[100][101]。
2014年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結されている[102]。標高3,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。
その他
第二次世界大戦
1945年7月10日、富士山頂にあった富士山測候所にアメリカ軍による機銃掃射攻撃が行われた[103]。富士山は独立峰で遠方への眺望が効き、日本本土空襲を行うアメリカ軍機の動向を視認できる場所であったほか、1944年には東京と八丈島を結ぶ無線通信回線の中継拠点として山頂の旧登山小屋が活用されたため麓からの送電が始められ、高層気象観測拠点として重要な測候所へも給電された。また、この測候所からは東京の灯火管制を点検していた。日本の象徴という文化的意味に加え、軍事拠点ともなった富士山頂への攻撃が大戦末期に行われ、観測員に負傷者が出た事が業務日誌である『カンテラ日記』を通じて残されている。
また、アメリカ軍は日本の降伏を早めるために富士山をペンキで真っ赤に染め上げ、士気を下げるという計画を立案した。しかし、計画に必要な物資の量がB-29約3万機、ペンキ約12トンという膨大な量になる計算だったため、現実性に欠けるとして計画は中止されたというエピソードも紹介されている[104]。
文字
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- 和文通話表で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。
- 文字コードのUnicode6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その中に「MOUNT FUJI」として富士山も含まれている(U+1F5FB、🗻)[105]。
記号 | Unicode | JIS X 0213 | 文字参照 | 名称 |
---|---|---|---|---|
🗻 | U+1F5FB | - | 🗻 🗻 | MOUNT FUJI |
ギャラリー
脚注
注釈
- ^ 剣が峰の最高地点の標高。なお、二等三角点「富士山」の標高は、3775.51 mである(2014年4月1日標高改算)
- ^ 日本の活火山で3,000mを超えるのは、富士山・御嶽山・乗鞍岳の3つである。
- ^ 日本が玉山(新高山)のある台湾を領有していた時期を除く。
- ^ 1936年(昭和11年)2月1日に指定。山の上部がその特別保護地区、周辺が特別地域及び普通地域になっている。また車両の乗り入れ禁止区域が設定されている[5]。
- ^ (例)「田子の浦ゆ うち出でて見れば真白にぞ 不尽の高嶺に雪はふりける」山部赤人 (『万葉集』)。「不二」は「日本最高峰の並ぶものの無い」の意とされる。他に「布士」や「布自」の字を当てている書籍もあった。
- ^ 竹取物語の最後の章では、帝が、家臣にかぐや姫から授けられた不老不死の薬を駿河国にある天に一番近い日本で一番高い山の山頂で燃やすよう命じるという描写があり、結びは「そのよしうけたまはりて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、その山を「ふじの山」とは名づけける。」校訂者脚注「つわもの(士)をたくさんつれて登ったから、士に富む山、即ち富士の山と名付けた、という洒落。同時に不死の薬を燃やしたので「ふし山」の意を込める。」[7][要文献特定詳細情報]。
- ^ フチ=フンチは「火」ではなく「老婆」の意味である[要出典]。
- ^ 2等三角点「富士山」の標高は3775.51 mである。最高地点はこの三角点から北へ約12 mのところにある岩の頂上であり、その高さは、三角点より0.61 mだけ高い(1991年の観測)。
- ^ 文書では「不士大宮不士本宮淺間大宮司不士亦八郞」とある。
- ^ 両県は、7~9月の開山期間を通じて四つのルートがすべて閉鎖されるのは、少なくとも静岡県が3登山道の管理を始めた1960年以降、初めてではないかと説明した。18日に静岡県が管理する富士山の3登山道の5合目から頂上までを、開山期間に当たる7月10日~9月10日の期間、閉鎖する方針。登山客の密集で感染が懸念されるため。ルート上の全ての山小屋も休業する。山梨県は「吉田ルート」も同時期に閉鎖すると15日に発表。富士山は夏山閉鎖となる見通し。
- ^ 入山料のような概念。
- ^ 内院は噴火口を指し、この噴火口に散銭する行為(お金を投げ入れる行為)が行われていた。そのお金を得る権利である。
- ^ 現在の静岡県駿東郡小山町。
- ^ 現在の山梨県南都留郡富士河口湖町の河口御師などからなる地域。「川口」と表記される場合もある。
- ^ 文書では富士帯刀(富士信安)とある。他案主・公文など。
- ^ 小田原藩を通して幕府に伝えられ、寺社奉行の松平忠順に訴状が提出された
- ^ 富士大宮司。文書では富士中務とある。
- ^ 他に薬師堂の開帳や内院散銭はこれまでと同様とするなどが決定された
- ^ 甲府盆地西部からの眺めとされている
- ^ 近世の甲斐国絵図類においては甲斐国の姿を山々に抱かれた霊的な場として表現する傾向が見られるが、富士山は八ヶ岳や白根山(北岳)とともに冠雪した白い山として描かれる神格表現で描写され、特に富士山は三峰形や雲上の表現、登山道の省略など特に神格表現が際立っている点が指摘される[83]。
- ^ 富士宮市柚野(ゆの)地区より。
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- 富士学会:企画『富士山を知る事典』(日外アソシーエーツ]2012年 ISBN 978-4-81-692166-7)
- 富士学会:監修『富士山の大図鑑』(PHP研究所 2013年 ISBN 978-4-56-978333-8)
- 高埜利彦『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館、2014年。ISBN 978-4-64-203461-6。
関連項目
- 自然
- 建造物・施設関連
- 富士山本宮浅間大社
- 浅間神社
- 富士山レーダー
- 富士山有料道路(富士スバルライン)
- 表富士周遊道路(富士山スカイライン)
- 富士山における鉄道構想
- 山梨県立富士ビジターセンター・山梨県立富士山世界遺産センター
- その他
- 富士山大規模落石事故
- 富士山大量遭難事故 (1972年)
- 英国海外航空機空中分解事故
- 電気グルーヴ - アルバム『VITAMIN』やライブで『富士山』という曲を発表している。
外部リンク
- 富士山 - 気象庁
- 富士山の火山観測データ 気象庁
- 日本活火山総覧(第4版)Web掲載版 富士山 (PDF) - 気象庁
- 世界遺産富士山 - 富士宮市
- 富士山と防災 - 国土交通省富士砂防事務所
- 富士山を知ろう! - 静岡大学防災総合センター
- 富士山歴史噴火総解説 - 静岡大学小山研究室
- 富士山関係資料デジタルライブラリー - 静岡県立中央図書館
- Fujisan - Smithsonian Institution: Global Volcanism Program(英語)
- 防災関連(ハザードマップ)
- 富士山火山防災協議会 内閣府
- 富士宮市富士山ハザードマップ 富士宮市
- 富士山のハザードマップ 日本火山学会
- 富士山火山防災協議会 富士吉田市
世界遺産
世界遺産(せかいいさん、英語: World Heritage Site)は、1972年のユネスコ総会で、採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リスト(世界遺産一覧表)に登録された、文化財、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産が対象となっている。慣例的な用法として、その中の文化遺産を世界文化遺産、自然遺産を世界自然遺産と呼ぶことがある。
なお、世界遺産の制度では正式な文書は英語とフランス語で示され、日本語文献では英語が併記されることがしばしばある一方、フランス語が併記されることは普通ないため、以下では参照しやすさを考慮して、東京文化財研究所 2017などに依拠して、主たる用語には英語を併記する。
概要
世界遺産は、「顕著な普遍的価値」を有する文化遺産や自然遺産などであり、1972年に成立した世界遺産条約に基づき、世界遺産リストに登録された物件を指す。世界遺産条約はユネスコ成立以前、20世紀初頭から段階的に形成されてきた国際的な文化財保護の流れと、国立公園制度を最初に確立したアメリカ合衆国などが主導してきた自然保護のための構想が一本化される形で成立したものである。
世界遺産は、政府間委員会である世界遺産委員会の審議を経て決定される。その際、諮問機関として、文化遺産については国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が、自然遺産については国際自然保護連合(IUCN)がそれぞれ勧告を出し、両方の要素を備えた複合遺産の場合には、双方がそれぞれ勧告する。潜在的ないし顕在的に保存することが脅威にさらされている遺産は、危機遺産リストに登録され、国際的な協力を仰ぐことになる。それ以外の世界遺産も、定期報告を含む保全状況の確認が登録後にも行われる。適切な保護活動が行われていないなど、世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が失われたと判断された場合には、世界遺産リストから抹消されることもありうる。実際、2007年にはアラビアオリックスの保護区が初めて抹消された物件となった。
その一方で、世界遺産条約締約国は190か国を超え、2015年には世界遺産リスト登録物件が1,000件を超えた。世界遺産条約はもっとも成功した国際条約と呼ばれることもしばしばであるが、反面、その登録件数の増加に対しては、保護・管理といった本来の趣旨に照らして懸念を抱く専門家たちもいる。のみならず、専門家の勧告を覆す政治的決定の増加、都市開発と遺産保護の相克、過度の観光地化など、知名度が高くなったからこその問題も持ち上がっている。また、複数国で共有する「国境を越える世界遺産」は国際平和に貢献しうるものではあるが、領土問題や歴史認識が関わる審議では、国際的あるいは国内的に物議をかもすこともあり、武力衝突につながったことさえある(タイとカンボジアの国境紛争)。
世界遺産を守っていくためには教育や広報の重要性も指摘されており、ユネスコは若者を対象にした教材の開発や国際フォーラムの開催なども実施してきた。大学などの研究者には「世界遺産学」という学際的な学問を提唱する者たちもおり、大学・大学院によっては世界遺産に関する学科や専攻が設置されている場合があるほか、関連する講座が開講されている大学もある。
世界遺産は有形の不動産を対象としており、同じユネスコの遺産でも、無形文化遺産や世界の記憶(世界記憶遺産)とは異なる制度である。ただし、日本語の文献や報道では、これらがまとめて「ユネスコ三大遺産事業」などと呼ばれることもある。
歴史
ユネスコの第8代事務局長松浦晃一郎は2008年に世界遺産について叙述した際、1978年から1991年を「第一期」、1992年から2006年を「第二期」、2007年からを「第三期」と位置づけていた[3]。以下ではこの区分に準じて、世界遺産の歴史を叙述する[注釈 1]。
前史
国際的に文化遺産を保護しようという動きは、戦時における記念建造物などの毀損を禁じた1907年ハーグ条約から始まったとされる[4]。その後、、アテネ憲章なども整備されたが、第一次世界大戦、第二次世界大戦では文化財にも多大な損害がもたらされた[5]。
1945年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が設立されると、その憲章には、「世界の遺産[注釈 2]である図書、芸術作品並びに歴史及び科学の記念物の保存及び保護を確保し、且つ、関係諸国民に対して必要な国際条約を勧告すること」(第1条・抜粋)と明記された[6]。ユネスコは文化遺産保護の制度を整備していき、1951年には「記念物・芸術的歴史的遺産・考古学的発掘に関する国際委員会」が設立された[7]。この委員会の勧告をもとに、ユネスコ総会での採択を踏まえて1959年に設立されたのが、(ICCROM)である[7]。そして、国際委員会そのものは、1931年のアテネ憲章を発展的に継承したヴェネツィア憲章(1964年)を踏まえて、1965年に国際記念物遺跡会議(ICOMOS)となった[7]。
また、ユネスコが「1907年ハーグ条約」を発展させるために検討した結果を踏まえ、武力紛争の際の文化財の保護に関する条約、いわゆる「1954年ハーグ条約」が採択され、武力紛争の際にも文化財などに対する破壊行為を行うべきでないことが打ち出された[8]。これ以降も、ユネスコは文化財保護に関する勧告や条約を次々と採択していった[9][10]。
こうした流れの中で重要だったのが、ヌビア遺跡保存国際キャンペーンである[11][7]。エジプト政府はナイル川流域でのアスワン・ハイ・ダム建設を1950年代から計画し始めていた。このダムが完成した場合、アブ・シンベル神殿をはじめとするヌビア遺跡が水没することが懸念され、それを受けて1960年から国際キャンペーンが展開されたのである。ヌビア遺跡救済は、ダム建設を決定したエジプト大統領ナセル自身がユネスコに要請したものであったが、スエズ運河国有化に対する欧米諸国の反発、アスワン・ハイ・ダム建設へのソ連の支援といった背景により、難航が予想された[12]。しかし、フランス文化大臣アンドレ・マルローの名演説などもあって、50か国から、総事業費の半額に当たる約4,000万ドルの募金が集まり、日本からも28万ドルが寄せられた(日本政府が1万ドル、朝日新聞社が27万ドル[注釈 3][13])。成功裏に終わったこのキャンペーンは[注釈 4]、その後も続く国際キャンペーンの嚆矢となり、続いて北イタリアの水害を受けてフィレンツェとヴェネツィアの文化財を保護するためのキャンペーンが1966年に行われた[14]。そして、同じ年のユネスコ総会では、世界的価値を持つ文化遺産を保護するための枠組み作りを始めることが決議され、これが世界遺産条約につながる土台のひとつとなった[15]。これが「普遍的価値を有する記念工作物、建造物群及び遺跡の国際的保護のための条約」と称された案で、1970年のユネスコ総会にて、次回の総会(総会は2年に1回開催)で提出されることが決まった[16]。なお、この案では、国際的な援助が要請される遺産のリストのみが想定されていた。それに対応するのは現在の世界遺産リスト全体ではなく「危機にさらされている世界遺産リスト」のみといえる[17]。
他方、1948年設立の国際自然保護連合(IUCN)でもアメリカ合衆国が主導する形で、主として自然遺産保護のための条約作りが進められていた[18]。アメリカではホワイトハウス国際協力協議会自然資源委員会が1965年に「世界遺産トラスト」を提唱し、優れた自然を護る国際的な枠組みが模索されており、その具体化作業がIUCNを通じて行われていたのである[19][20]。アメリカはイエローストーン国立公園設立(1872年)によって世界で最初に国立公園制度を確立した国であり、大統領リチャード・ニクソンは「環境に関する教書」(1971年)において、国立公園誕生100周年(1972年)を期して、世界遺産トラストを具体化することの意義を説いた[16]。そうしてできたのが、「普遍的価値を有する自然地域と文化的場所の保存と保護のための世界遺産トラスト条約」と称された案で、こちらの案に盛り込まれた「世界遺産登録簿」案が現在の世界遺産リストにつながった[17]。
世界遺産の成立
上述の2つの流れは、国際連合人間環境会議(1972年)に先立つ政府間専門会議でのユネスコ事務局長の提案もあり、一本化されることで合意された[21]。その結果、同年11月16日、パリで開催された第17回ユネスコ総会(議長)にて、一本化された「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)が採択された[22]。翌年アメリカ合衆国が最初に批准し[22]、1975年9月17日に締約国が20か国に達した[23]。これによって発効の要件を満たしたため、3か月後の12月17日に正式に発効した[23]。
1976年11月には第1回世界遺産条約締約国会議が開かれた。締約国会議はユネスコ総会に合わせる形で(つまり2年に1回)開催され、世界遺産委員会の委員国選出や世界遺産基金への各国の分担金額の決定が行われる[24]。その第1回会議で最初の世界遺産委員会の委員国が選出され、翌年には第1回世界遺産委員会が開催された[25]。この委員会で採択されたのが、世界遺産登録の基準なども含む「世界遺産条約履行のための作業指針」(The Operational Guidelines for the Implementation of the World Heritage Convention、以下「作業指針」と略記)であり、この「作業指針」はその後も改定を重ねることとなる[26][注釈 5]。
そして、1978年の第2回世界遺産委員会で、エクアドルのガラパゴス諸島や西ドイツのアーヘン大聖堂など12件(自然遺産4、文化遺産8)が、最初の世界遺産リスト登録を果たした(いわゆる「世界遺産第1号」[27])。翌年の第3回世界遺産委員会では、世界遺産制度のきっかけとなったヌビア遺跡なども含む45件が登録され、一気に5件ずつ登録したエジプトとフランスが保有国数1位となった[28]。この第3回世界遺産委員会は、最初の複合遺産(ティカル国立公園)が誕生した会合であるとともに[29]、直近の大地震で大きな被害を受けたコトルの自然と文化歴史地域(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国[注釈 6])が最初の危機遺産リスト記載物件になった会合でもある[30]。その後は、1980年の第4回世界遺産委員会におけるワルシャワ歴史地区登録(後述)など、議論になる案件もあったものの、締約国、登録件数とも増加していった。
登録対象の拡大
世界遺産に関する業務の増大を踏まえ、1992年には、世界遺産の事務局にあたる世界遺産センターがユネスコ本部内に設置された[31]。当初はユネスコの文化遺産部との棲み分けが十分になされていなかったが、のちに世界遺産センターは有形の文化遺産を、ユネスコ文化遺産部はおもに無形の文化遺産を担当する形で業務分担された[32]。
1992年は「作業指針」に文化的景観の概念が導入された年でもある。詳しくは後述するが、この概念は、より多様な文化遺産に世界遺産登録への道を開くものであり、登録件数の多い欧米と、それ以外の地域との間の、不均衡の是正にも寄与することが期待された[33][34]。
1992年は日本が世界遺産条約を批准した年でもあり、先進国では最後にあたる125番目の締約国となった[35][36](同年の6月30日に受諾書を寄託、9月30日に発効[37])[注釈 7]。日本の参加が他国と比べて遅れた理由は、いくつか指摘されている。たとえば、文化財保護法などの独自の保護関連法制が整っていて必要性が認識されづらかったこと[38]、参加した場合の煩瑣な行政手続きや国内法の修正作業への懸念があったこと[39]、重要性に対する認識が希薄な中で国会審議の優先順位が高くなかったこと[40]、冷戦下でアメリカを刺激したくなかったこと[注釈 8]、世界遺産基金の分担金拠出に関する議論が決着しなかったこと[35][41]、省庁の縦割り行政の弊害があったこと[42]などが挙げられている。
国内では紆余曲折あった日本の参加だが、参加してすぐに重要な議論を本格化させることになる。それは「木の文化をどう評価するか」ということである。日本の世界遺産のうち、最初の文化遺産は姫路城と法隆寺地域の仏教建造物である(いずれも1993年登録)。これらはいずれも解体修理の手法で現代に伝えられてきた建造物であり、基本的にそのような修理を必要としない「石の文化」の評価基準になじまない側面があったために議論となり、それが「」[注釈 9]の成立につながった[43](後述参照)。これは、アジアやアフリカに多い木、日干し煉瓦、泥の建築物など、多様な世界遺産を増やすことにつながり、世界遺産の歴史の中で重要な意義を持った[44]。
抹消される事例の出現
世界遺産は毎年その件数が増えていく中で、上限に関する議論なども見られ始める(後述)。その一方で、登録物件から「顕著な普遍的価値」が失われた場合などには、その物件は世界遺産リストから抹消される規定が存在していたが[45]、そのような事例は長らく存在していなかった。しかし、2007年の第31回世界遺産委員会でアラビアオリックスの保護区が初めて抹消され、続いて2009年の第33回世界遺産委員会ではドレスデン・エルベ渓谷が抹消された。松浦晃一郎は、最初の抹消事例が出た2007年以降を、保全や保護に対する重要性がいっそう増した時期と見なしている[46]。
さまざまな課題を抱える一方で、世界遺産の数は増加し続けている。産業遺産や文化の道など、比較的新しい文化遺産のカテゴリーも取り込みつつ、2010年にはハノイのタンロン皇城の中心区域(ベトナムの世界遺産)をもって世界遺産登録件数が900件を突破[47]、2014年にはオカバンゴ・デルタ(ボツワナの世界遺産)の登録をもって1,000件を突破した[注釈 10]。
2019年の第43回世界遺産委員会終了時点での条約締約国は193か国、世界遺産の登録数は1,121件(167か国)となっている[48]。その締約国数、人気、知名度などから、しばしば国際条約の中でもっとも成功した部類に数えられている[49]。
登録対象
登録される物件は不動産、つまり移動が不可能な土地や建造物に限られる。そのため、たとえば寺院が世界遺産になっている場合でも、中に安置されている仏像などの美術品(動産・可動文化財)は、通常は世界遺産登録対象とはならない。ただし、東大寺大仏のように移動が困難と認められる場合には、世界遺産登録対象となっている場合がある[50]。逆に、将来的に動産になる可能性があると判断される場合、推薦時点で不動産であっても認められない(「作業指針」第48段落)[51]。チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群(イタリア)の登録時には、優れた出土品の数々が収められた隣接する博物館を登録対象にするかどうかが議論になったが、世界遺産委員会はあくまでも不動産しか評価対象にしないとして、収蔵している出土品を理由とする形での博物館登録は認めなかった[52][注釈 11]。このような対象の設定に対する限界が、のちの無形文化遺産の枠組みにつながった[53](後述)。
世界遺産に登録されるためには、後述する世界遺産評価基準を少なくとも1つは満たし、その「顕著な普遍的価値」を証明できる「完全性」と「真正性」を備えていると、世界遺産委員会から判断される必要がある[54]。その際、同一の歴史や文化に属する場合や、生物学的・地質学的特質などに類似性が見られる場合に、シリアル・プロパティーズ(Serial Properties、関連性のある資産群)としてひとまとめに登録することが認められている(「作業指針」第137段落)[55][注釈 12]。たとえば、フランス、インド、日本、アルゼンチンなど7か国の世界遺産であるル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-などはその例である。
また登録されたあと、将来にわたって継承していくために、推薦時点で国内法などによってすでに保護や管理の枠組みが策定されていることも必要である。日本の例でいえば、原爆ドームの世界遺産推薦に先立ち、文化財保護法が改正されて原爆ドームの史跡指定が可能になったことも、そうした点に合致させる必要があったためである[56]。
分類
世界遺産はその内容によって文化遺産、自然遺産、複合遺産の3種類に分けられている。なお、日本語文献ではしばしば無形文化遺産も単に「世界遺産」と呼ばれることがあるが、後述するように、そちらは世界遺産条約の対象ではなく、世界遺産委員会で扱われる「文化遺産」には含まれない[57]。
また、内容的な区分以外にも、国際的な対応の優先度の高い「危機にさらされている世界遺産」(危機遺産)、2か国以上で保有する「国境を越える資産」、非公式な分類だが日本語圏では広く用いられる「負の世界遺産」などがある。
文化遺産
文化遺産(cultural heritage)は世界遺産条約第1条に規定されており、記念工作物、建造物群、遺跡[注釈 13]のうち、歴史上、芸術上あるいは学術上顕著な普遍的価値を持つものを対象としている[58]。しばしば「世界文化遺産」と呼ばれる[59]。
基本的なカテゴリーは上記の3種のままだが、それらに内包されるカテゴリーとして、上述のように1992年に文化的景観の概念が追加され、以降、産業遺産、文化の道など多様なカテゴリーが加わった[58]。文化遺産は研究の深化とともに範囲が広がっており、それゆえICOMOSも、世界文化遺産の一覧は「開いた一覧」となる見通しを示している[60]。
自然遺産
自然遺産(natural heritage)は世界遺産条約第2条に規定されている。その定義では「無生物又は生物の生成物又は生成物群から成る特徴のある自然の地域であって、鑑賞上又は学術上顕著な普遍的価値を有するもの」「地質学的又は地形学的形成物及び脅威にさらされている動物又は植物の種の生息地又は自生地として区域が明確に定められている地域であって、学術上又は保存上顕著な普遍的価値を有するもの」「自然の風景地及び区域が明確に定められている自然の地域であって、学術上、保存上又は景観上顕著な普遍的価値を有するもの」[61]が挙げられている。しばしば「世界自然遺産」と呼ばれる[59]。
文化遺産の場合は、ICOMOS によるテーマ別研究によって多様な文化遺産の模索がなされてきたが、IUCNは少なくとも第39回世界遺産委員会(2015年)の時点では、財政事情から自然遺産のテーマ別研究はしていないことを明かしている[62]。ただし、そもそも自然遺産は文化遺産と違い、その価値の評価は当初から安定していた[63]。IUCNは1982年にはグローバル目録を作成し、自然遺産として登録が望まれる類型の網羅を終えていた[64]。それゆえIUCNは自然遺産(および複合遺産)を「閉じた一覧」とすることを志向し、その限界は250から300と考えられている[60]。
複合遺産
複合遺産(mixed heritage)は文化と自然の両方について、顕著な普遍的価値を兼ね備えるものを対象としている。1979年には最初の複合遺産が登録されていたものの[65]、世界遺産条約に直接的な規定はなく、作業指針でも長らく明記されてこなかった。しかし、2005年の改訂の際に「作業指針」第46段落で定義付けられた[66]。
複合遺産には最初からそのように登録されたものだけでなく、自然遺産として登録されたものの文化的側面が追認されて複合遺産になったり、逆に文化遺産の自然的側面が追認されて複合遺産になったりする場合もある。後者に該当する例で最初に登録されたのはカンペチェ州カラクムルの古代マヤ都市と熱帯保護林(メキシコ、2014年拡大)だが、この審議が難航したことを踏まえて、諮問機関の情報交換のやり方などが変更された[67]。
危機遺産
内容上の分類ではないが、後世に残すことが難しくなっているか、その強い懸念が存在する登録物件は、危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト、List of World Heritage in Danger)に加えられ、別途保存や修復のための配慮がなされることになっている(世界遺産条約第11条4項および「作業指針」第177段落 - 第191段落)[68]。危機遺産については、世界遺産条約や「作業指針」でも詳しく規定されており、制度の中核的概念と位置づけられている[69]。世界遺産リストへの推薦が各国政府しか行えないのに対し、危機遺産リストへの登録の場合は、きちんとした根拠が示されれば、個人や団体からの申請であっても受理、検討されることがある[70]。
2013年にはシリア内戦などを理由にシリアの世界遺産が6件すべて[71]、2016年にはリビア内戦などを理由にリビアの世界遺産が5件すべて登録されるなどし[72]、2019年の第43回世界遺産委員会終了時点での危機遺産登録物件は53件となっている[73]。しかし、保有国の中には、危機遺産登録を不名誉なものと捉えて強い抵抗を示す国もあり、危機遺産リストに登録されるべき場合であってさえも、容易に登録が実現しない現実がある[74]。リストに正式登録された危機遺産以外に、そのような「隠れた危機遺産」の増加を懸念する意見もある(後述)。
国境を越える資産
世界遺産の中には、複数国にまたがる「国境を越える資産」(Transboundary properties)も存在する(「作業指針」第134段落)[75][注釈 14]。その推薦書は保有国が共同で作成し、登録後の管理には共同で専用の機関を設置することが望ましいとされる[75]。中には、カルパティア山脈とヨーロッパ各地の古代及び原生ブナ林(12か国)、シュトルーヴェの測地弧(10か国)のように多くの国々で保有されている例もある。
国境を越える資産は当初、自然遺産分野に多く見られたが、そうした制度の起源は世界遺産制度そのものよりも古く、ウォータートン・グレイシャー国際平和自然公園の設立にさかのぼると言われる(1932年設定、1995年には世界遺産リストにも登録)[76][77]。国境を越える資産の存在は、国境を越えて協力することの大切さを伝え、保有国間の平和の構築にも資するとされるが、実際には国境を越えて価値が連続性を持つにもかかわらず、さまざまな事情を背景に別々に登録されている例がある[78]。たとえば、イグアス (Iguaçu) 国立公園(ブラジル)とイグアス (Iguazú) 国立公園(アルゼンチン)、スンダルバンス国立公園(インド)とシュンドルボン(バングラデシュ)などがそうである[79][80]。文化遺産だとサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路:カミノ・フランセスとスペイン北部の道(スペイン)とフランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路などがそれにあたる[81]。そうした例には高句麗の遺跡のように、歴史的・政治的背景に起因するものもある(後述)。
負の世界遺産
戦争、奴隷貿易、人種差別、文化浄化など、人類の歴史において繰り返してはならない出来事をとどめた遺跡なども、世界遺産リストに登録されている。これらは別名「負の世界遺産」(負の遺産)と呼ばれている[83]。
ただし、世界遺産センターやICOMOSによって公式に認められた分類ではない。そのため、何を負の遺産と見なすのかは論者によって異なるが、しばしば挙げられるのは広島市への原爆投下を伝える原爆ドーム、ホロコーストの物証であるアウシュビッツ=ビルケナウ[注釈 15](ポーランド)、奴隷貿易の拠点であったゴレ島(セネガル)、ネルソン・マンデラを含む反アパルトヘイト政治犯の収容所だったロベン島(南ア)の4件[83][84][85]で、このほかに核実験に関わるビキニ環礁の核実験場(マーシャル諸島)や、ターリバーンによる文化浄化を被ったバーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群(アフガニスタン)なども、負の遺産とされることがある[86][87](負の遺産とされることがある他の例については、負の世界遺産参照)。
なお、これらの世界遺産登録では、単に悲劇的な出来事があったというだけでなく、それを繰り返すまいとする運動などが評価されることは珍しくない[87]。たとえば原爆ドームは、正式登録前から「負の遺産」と位置づける関連書籍もあったが[88]、世界遺産登録にあたっての評価は、あくまでも原爆のない世界を目指す半世紀にわたる平和運動に焦点が当てられており、戦争や原爆の悲惨さ自体は中心を占めていない[89][90]。
顕著な普遍的価値とその評価基準
すでに述べたように、世界遺産となるためには「顕著な普遍的価値」(Outstanding Universal Value、略号は OUV[91][注釈 16])を有している必要がある。しかし、世界遺産条約では「顕著な普遍的価値」自体を定義していない[92]。「作業指針」第49段落には、国家の枠にとらわれずに、現在だけでなく将来の人類にとっても大きな価値を持つといった大まかな定義があるが[91]、その証明のために要請されるのが、10項目からなる世界遺産登録基準のいずれか1つ以上を満たすことである[93]。
以上は当初から変わらない条件だが、2005年の「作業指針」改定によって、OUVを構成する要素に保存管理が加わったため、OUVの証明には登録基準を満たすこと、完全性と真正性を満たすこと、保存管理が適切に行われていることのすべての証明が必要となった(「作業指針」第77・78段落)[91]。
世界遺産登録基準
世界遺産登録基準は、当初、文化遺産基準 (1) - (6) と自然遺産基準 (1) - (4) に分けられていたが、2005年に2つの基準を統一することが決まり、2007年の第31回世界遺産委員会から適用されることになった[94][注釈 17]。新基準の (1) - (6) は旧文化遺産基準 (1) - (6) に対応しており、新基準 (7)、(8)、(9)、(10) は順に旧自然遺産基準 (3)、(1)、(2)、(4) に対応している[94]。このため、実質的には過去の物件に新基準を遡及して適用することが可能であり、現在の世界遺産センターの情報では、旧基準で登録された物件の登録基準も新基準で示している[94][注釈 18]。
基準が統一されたあとも文化遺産と自然遺産の区分は存在し続けており、新基準 (1) - (6) の適用された物件が文化遺産、新基準 (7) - (10) の適用された物件が自然遺産、(1) - (6) のうち1つ以上と (7) - (10) のうち1つ以上の基準がそれぞれ適用された物件が複合遺産となっている[95]。
登録基準(評価基準)[注釈 19]の内容は以下の通りである(「作業指針」第77段落[96])(以下は世界遺産センター公式サイトに掲載された基準[97]を翻訳のうえ、引用したものである)。
- (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
- (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
- (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
- (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
- この基準はもともと建築に重点が置かれた基準だったが、文化的景観のために「景観」が、産業遺産のために「技術の集積」が追加された[103]。
- (5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
- (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
- この基準はもともと「出来事、思想、信仰」との関連しか書かれていなかったが、文化的景観の導入にともない「現存する伝統」「芸術的、文学的作品」が追加された[106]。たとえば、ザルツブルク市街の歴史地区にこの基準が適用されている理由には、音楽家モーツァルトを輩出した都市であることなどが挙げられている[107]。
- その一方、いわゆる負の世界遺産には、この基準 (6) が単独適用されたものが多いとされる[108]。しかし、この基準は原爆ドームの登録をめぐって紛糾した結果、単独適用が禁じられ[109][注釈 20]、「ただし、極めて例外的な場合で、かつ他の基準と関連している場合のみ適用」[110]という厳しい条件がついた時期があった。その厳しい文言は、3年後のロベン島の審議の際にかえって議論の紛糾を招き[注釈 21]、上記のような緩和された条件に変更された。
- (7) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
- 「美しさ」は客観的な判定が難しいため、後述の基準 (10) が変更された1992年以降、諮問機関はこの基準単独での登録勧告をあまりしなくなっているとされる[112]。また、ビャウォヴィエジャの森(ベラルーシ / ポーランド)のような例もある。それは1979年の登録以来、基準 (7) のみで登録されていたが、2014年の拡大にともない、 (7) を外して基準 (9)・(10) へと差し替えられたのである[113]。
- 日本では、富士山の推薦に当たって、適用が検討された[114]。結局、文化遺産の基準ではないとして推薦には盛り込まれなかったが、むしろ「美しさ」という基準を文化遺産の基準として捉える視点があってもよいはずだとする意見もある[115]。そもそも、本来この条項は手付かずの自然のみを対象とする基準ではなく、文化的景観が導入される1992年までは、文化と自然の相互作用に触れたくだりが存在していた[116]。
- (8) 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの。これには生物の記録、地形の発達における重要な地学的進行過程、重要な地形的特性、自然地理的特性などが含まれる。
- (9) 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
- (10) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。
以上の基準の少なくとも1つ以上を満たしていると世界遺産委員会で認定されれば、世界遺産リストに登録される。多くの世界遺産では、複数の基準が適用されている[119]。最多は泰山とタスマニア原生地域の7項目である[120]。
完全性と真正性
前述の通り、世界遺産の「顕著な普遍的価値」には、完全性と真正性を満たしていることも必要となる。
完全性
完全性(Integrity)とは、その物件のOUVを証明するために必要な要素が、適切な保全管理の下で過不足なく揃っていることを指す(「作業指針」第78・87・88段落)[121]。インテグリティ、全体性などとも呼ばれる[122]。
一定の規模を確保することが求められる反面、価値の証明と関係のない要素が多く混じっても否定的に評価されるため、いたずらに範囲を拡大するよりも、個々の要素群に絞り、面ではなく点で捉える「関連性のある資産」とすることも含め、価値の証明に即して範囲を練ることが求められる[123]。たとえば、富岡製糸場と絹産業遺産群では、当初10件の構成資産を擁する推薦物件だったが、絹産業の技術革新と国際交流という価値の証明に即した練り直しの結果、4件にまで絞られた経緯があり[124]、絞り込みが効果的だったとされている[125][126]。
諮問機関は、範囲の設定に不足がある推薦の場合には範囲の再考を勧告するが、逆に余計な要素が含まれていると判断した場合には、特定の要素の除外を条件にした登録勧告を示すことがある。たとえば、富士山-信仰の対象と芸術の源泉の推薦では三保松原の除外が[127]、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の推薦では新原・奴山古墳群などの除外が[128]それぞれ勧告された(いずれも逆転で登録)。他方、平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―の推薦で除外が勧告された柳之御所遺跡は、委員会審議でも勧告通りに除外と決まった例である。
自然遺産・複合遺産の例では、ブルー・アンド・ジョン・クロウ・マウンテンズ(ジャマイカ)は、同名の国立公園の推薦時には絞り込みを勧告され、核心部分のみに限定した再推薦で登録された例であり、逆に大ヒマラヤ国立公園保存地域(インド)は、国立公園だけでは不足があるとして、隣接する自然保護区にまで拡大することで登録された例である。
真正性
真正性とは、特に文化遺産について、そのデザイン、材質、機能などが本来の価値を有していることなどを指す(「作業指針」第79段落 - 第82段落)[129]。真実性と訳されるほか[130]、もともと日本語に対応する概念がなかったとしてオーセンティシティとカタカナで表現される場合もある[130]。
再建された建造物の歴史的価値は、1980年登録のワルシャワ歴史地区(ポーランド)で早くも問題になった[131]。ワルシャワの町並みは第二次世界大戦で徹底的に破壊され、戦後に壁のひび割れなどまで再現されたといわれるほどの再建事業を経て、忠実に復元されたものだったからである[132]。1979年、1980年と続けて議論が紛糾した結果、ワルシャワの登録と引き換えに、第二次大戦後に再建されたほかのヨーロッパ都市は登録対象としないことが決められた[133]。「作業指針」にも、歴史地区の再建などは例外的にしか認められないことが明記されている(第86段落)[129]。もっとも、2005年登録のオーギュスト・ペレによって再建された都市ル・アーヴル(フランス)のように、戦前の面影を一新した鉄筋コンクリート造りの計画都市が登録された例はある[134]。
その後、登録物件の偏りなどとの関連で「真正性」の問題がクローズアップされた。堅牢な石の建造物を主体とするヨーロッパの文化遺産と違い、木や土を主体とするアジアやアフリカの文化遺産は、保存の仕方が異なってくるからである[135][136]。そこで、1994年に奈良市で開催された「世界遺産の真正性に関する国際会議」で採択された奈良文書[注釈 9]において、真正性はそれぞれの文化的背景を考慮するものとし[137]、木造建築などでは、建材が新しいものに取り替えられても、伝統的な工法・機能などが維持されていれば、真正性が認められることになった[138]。この真正性の定義づけには日本も積極的に関わり、世界遺産制度史上における日本の特筆すべき貢献と評価されている[138][139]。
登録範囲
世界遺産の登録範囲(Boundary)は、前述のように完全性をはじめとする「顕著な普遍的価値」(OUV)の証明のために必要な要素を、過不足なく含むことが求められる[140]。範囲の設定は行政区分などに左右されるべきでないとされ、自然地形の特徴などに即していることが望ましいとされている[140]。登録後にも範囲の変更は可能である。それについては後述を参照のこと。
世界遺産の登録に当たっては、登録物件の周囲に緩衝地帯(Buffer zone)を設けることがしばしばである。ただし、それはOUVを有するとは認められていない地域で、世界遺産登録範囲ではない[141]。かつては、世界遺産そのものの登録地域を核心地域(Core zone)と呼んでいたが、核心地域と緩衝地帯がともに世界遺産登録地域であるかのように誤認されないために、2008年から世界遺産そのものの登録地域は資産(property)と呼ばれ、緩衝地帯と明確に区別されるようになった[142]。
緩衝地帯
緩衝地帯は、そのままカタカナでバッファー・ゾーンと表現されることもある[143]。本来保護すべき範囲の外側に緩衝地帯を設定するという考え方は、自然保護に見られた概念を文化遺産にも拡大したものといえる。この範囲設定は、ユネスコの「」で「核心地域」「緩衝地域」「移行地域」の3区分が存在していたことをモデルに、核心地域と緩衝地域の概念を導入したものである[144]。なお、日本の省庁の場合、Buffer zoneを世界遺産では「緩衝地帯」、生物圏保存地域(ユネスコエコパーク)では「緩衝地域」と訳し分けている[145][注釈 22]。
緩衝地帯の役割は、資産の保護のために設定される区域で、法的あるいは慣例的に開発などは規制を受ける[146]。たとえばフランスの場合、歴史的記念建造物の周囲には一律(半径500メートル)に規制が敷かれるが、世界遺産の場合、保護する範囲に機械的な線引きはなく、また資産全体に同じ範囲だけ設定しなければならないものではない[147]。そもそも緩衝地帯は当初、方針文書に明記されておらず、ごく初期の世界遺産には設定されていなかった[148]。1980年や1988年の「作業指針」で段階的に盛り込まれていったが[149]、厳格な適用を求める方向で「作業指針」が改定されたのは2005年のことで[150]、設定しない場合には理由の提示が必要となった[151]。世界遺産の推薦にあたっては、原則として資産だけでなく緩衝地帯についても、規模や用途などを明記し、地図も提出する必要がある(「作業指針」第104段落)[152]。
それ以降、第31回世界遺産委員会(2007年)ですでに登録されている世界遺産7件に遡及的に設定されるなど[153]、「軽微な変更」(後述)として緩衝地帯の遡及的な設定なども行われるようにもなっている[152]。
その一方、生物圏保存地域と異なり、緩衝地帯の外側に移行地域が存在しないため、緩衝地帯のすぐ外側での開発などが問題視されることが出てきた[154]。たとえばロンドン塔の場合、超高層建築ザ・シャードが緩衝地帯の外に建てられたが、ロンドン市内で突出したその高さは、ロンドン塔の景観にも影響を及ぼしてしまっている[155]。これは緩衝地帯の外であったため、世界遺産委員会では懸念は表明されたものの、それ以上の措置には踏み込まなかった[156]。世界遺産委員会では、緩衝地帯の外でさえ、景観に影響を及ぼす場合には規制すべきという意見も出されるようになっている[157][注釈 23]。その一方、都市の成長や開発に対する過度の抑制につながることを懸念する論者もいる[158]。
前述のように、緩衝地帯は理由を明記すれば、設定しないことも許容される。許容されるための理由としては、資産そのものの保護範囲がもともと十分に広く設定されている場合や、大平原や地下など、資産の所在環境による条件を勘案して緩衝地帯の設定が無意味、あるいは不要などと判断される場合などがある[152]。しかし、フォース橋(2015年登録)が保護範囲の十分の広さを理由に緩衝地帯を設定しなかったところ、その審議が紛糾した例などもあり、専門家からは緩衝地帯を設定しない推薦は例外的なものと見なされている[152]。
世界遺産リスト登録手続きと登録後の保全
世界遺産リスト登録に必要となる前提、審査の流れ、登録後の保全状況報告などは、「世界遺産条約履行のための作業指針」(「作業指針」)で規定されている。その登録までの流れを図示すると以下のようになる。
各国の担当政府機関が暫定リスト(後述)記載物件のうち、準備の整ったものを推薦 | |
↓ | |
ユネスコ世界遺産センターが諮問機関[注釈 24]に評価依頼 | |
↓ | ↓ |
文化遺産候補は国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) が現地調査を踏まえて登録の可否を勧告。 文化的景観に関しては、IUCN とも協議が行われる場合がある。[159] | 自然遺産候補は国際自然保護連合 (IUCN) が現地調査を踏まえて登録の可否を勧告 |
↓ | ↓ |
世界遺産委員会で最終審議 | |
↓ | |
正式登録 |
暫定リスト
暫定リストは、世界遺産登録に先立ち、各国がユネスコ世界遺産センターに提出するリストのことである。もともと文化遺産について、このリストに掲載されていないものを世界遺産委員会に登録推薦することは原則として認められていなかったが、「作業指針」の2005年の改訂で、自然遺産についても義務づけられるようになった[160][161]。ただし、バム地震(2003年)で壊滅的損壊を被ったバムとその文化的景観(イラン、2004年登録)のように[162]、不測の事態によって緊急で登録する必要性が認められた場合には、「緊急登録推薦」に関する条項に従い、暫定リスト記載と推薦をほぼ同時に行うことが認められる場合がある[163](後述)。
暫定リストは、各国が1年から10年以内をめどに世界遺産委員会への登録申請を目指すもののリストであり[164]、10年ごとに見直し、再提出することが望ましいとされる[165]。ただし、10年間推薦しなかったら除去しなければならないというものではない。たとえば日本の場合、1992年から暫定リストに記載され続けていた物件のうち、古都鎌倉の寺院・神社ほかが最初に推薦されたのはおよそ20年後のことであり(結果は本審議前に取り下げ)、彦根城は一度も推薦されたことがない。
暫定リスト掲載物件は、世界遺産委員会がその「顕著な普遍的価値」(OUV)を認めたものではなく、現在暫定リストに掲載されているものには、不登録勧告を受けて取り下げたものや、登録延期決議などを受けたものもある。ただし、世界遺産委員会で「不登録」(後述)と決議されたものを暫定リストに掲載し続けることは、原則として認められていない(「作業指針」第68段落)[165][注釈 25]。
世界遺産委員会は、条約締結各国に対して、暫定リストへの掲載にあたっては、その遺産のOUVを厳格に吟味することや、保護活動が適正に行われていることを十分示すように求めている。また委員会は、暫定リスト作成では、まだ登録されていないような種類の物件に光を当てることや、世界遺産を多く抱える国は極力暫定リストを絞り込むことなどを呼びかけており、後述の「登録物件の偏り」を是正するための一助とすることを企図している[166]。
この暫定リストは、各国がOUVを持つと考える物件を加除できるリストである。それに対し、他国と争いのある物件などに関しては、世界遺産委員会の検証を踏まえるべきといった提案も出されているが、慎重な意見も出されている[167]。第41回世界遺産委員会では、暫定リストが各国に独自に作成したリストであり、そこには世界遺産センターや委員会の意向は反映されていないと念押しされることになった[168]。
日本の場合、暫定リストへの記載は、文化庁、環境省、林野庁が担当するが、推薦に向けては上記3省庁に外務省、国土交通省、水産庁を加えた6省庁に、オブザーバーとしての文部科学省と農林水産省を加えた「世界遺産条約関係省庁連絡会議」を経る必要があった[169][170]。同連絡会議はその後、参加する省庁が変更され、2017年時点では文化庁、環境省、林野庁、水産庁、外務省、国土交通省、経済産業省、宮内庁、内閣官房となっている[171][注釈 26]。同連絡会議を経て正式決定された物件は、それを踏まえて閣議了承がなされる[172][注釈 27]。
推薦
推薦書の提出は、原則として世界遺産条約締約国のみにしかできない[173]。ゆえに、たとえば台湾は世界遺産候補地リストを独自に発表するなど世界遺産登録に前向きだが[174]、世界遺産条約締約国ではなく、一つの中国を掲げる中華人民共和国も台湾の物件を推薦したことがないため、世界遺産委員会の審議対象になったことすらない[173][175]。逆にバチカン市国は国際連合にもユネスコにも加盟していないが、世界遺産条約は締約しているため、国全体が世界遺産である[176]。世界遺産条約締約国の保有でない例外は、エルサレムの旧市街とその城壁群のみである。これはエルサレム帰属をめぐる問題から、ヨルダンの申請で認められたが、ヨルダンの世界遺産ではなく、「エルサレム(ヨルダンによる申請)」と位置づけられている[177]。このほか、現状の枠組みにおさまらない概念として、公海の世界遺産が模索されている。
推薦書に記載することが求められるのは、資産の登録範囲と内容、それがOUVを持つことの証明、脅威を与える要素などについてのモニタリングを含む保全関連の情報などの条項である[178]。
正式推薦の締め切りは、審議予定の前年の2月1日だが[注釈 28]、そのさらに前の年の9月30日までに草案を提出し、世界遺産センターから不備を指摘されたうえで正式推薦書を提出することが認められている[178]。草案の提出は任意だが、2月1日までに提出した正式推薦書に不備があった場合、諮問機関に回されずに翌年以降の再提出を求められる[178]。
緊急登録推薦
緊急登録推薦の手続きは、その推薦物件がOUVを疑いなく保有する場合で、なおかつ重大な危険に直面しているなどの緊急を要する場合に、通常の手続きを飛び越えて推薦できることを指す(「作業指針」第161・162段落)[179]。緊急登録推薦の場合は、暫定リスト記載と推薦を同時に行い、かつ最速で同じ年に登録することが可能となる。この手続きで登録された場合、危機遺産リストにも同時に登録されることになっている[179]。
この手続きで登録された資産には、ダム工事による浸水の危険があったアッシュール(イラク)[180]、大地震で被災したバムとその文化的景観(イラン)[181]などがある。パレスチナの世界遺産の場合は、最初の物件から3件連続でこの規定が適用されたが、このような手法には議論がある(後述)。
諮問機関の勧告
上掲の図のように、自然遺産については国際自然保護連合(IUCN)、文化遺産については国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が諮問機関[注釈 24]として、現地調査を踏まえて事前審査を行う[注釈 29]。そこでの勧告は、後述の世界遺産委員会の決議と同じく「登録」「情報照会」「登録延期」「不登録」の4種である[182]。世界遺産委員会は後述するように勧告を踏まえて審査するが、「登録」以外の勧告が出た物件が逆転で登録されることもあれば、勧告よりも低い評価が下されることもある[183]。
現地に派遣される諮問機関の調査官は1人であり、その調査も踏まえて複数名で勧告書が作成される[184]。ICOMOSの調査では、日本の場合、アジア・太平洋地区(後述)の調査官が原則として派遣される。これは他地区の調査官が厳しい評価を下した場合に、無用の批判が出るのを避けるためといわれている[185]。
アップストリーム・プロセス
アップストリーム・プロセスとは、推薦手続きの中で世界遺産センターや諮問機関と対話を重ね、登録に向けた諸問題の解消ないし低減に資するための手続きである(「作業指針」第122段落)[186]。これは第32回世界遺産委員会で提案され[186]、第34回世界遺産委員会での決議に基づき、第35回世界遺産委員会で試験的に導入する10件の対象が選定され、のちにこのプロセスを活用してナミブ砂海(ナミビア)、サウジアラビアのハーイル地方の岩絵などが世界遺産リスト登録を果たした[187]。反面、ヨルダンののように、実施した結果、取り下げられた案件もある[188][189]。アップストリーム・プロセスを全面導入するためには、費用の分担などの問題を解決する必要があるが、少なくとも推薦書作成の前に、諮問機関や世界遺産センターに助言を仰ぐことは推奨されるようになっている[190]。第41回世界遺産委員会(2017年)で正式な導入が決まったものの、上述の制約により、翌年から2年間は年間10件のみを選定して実施することとなった[191]。
なお、推薦書の提出後には、諮問機関と推薦国の接触は認められていなかったが、ラージャスターンの丘陵城塞群の評価を不満とした推薦国インドの提案をきっかけとして、その期間に諮問機関の特別助言ミッションが派遣されることも行われるようになった[192]。また、第40回世界遺産委員会(2016年)審議分から、正式な勧告の前に諮問機関が「中間報告」を出すことになり、推薦の取り下げや推薦書の大幅改訂などの対応をとりやすくなった[193]。日本の長崎の教会群とキリスト教関連遺産は、中間報告を踏まえて、大幅な再検討が必要との判断から取り下げられた例である[194](2018年に正式登録)。
ビューロー
ビューロー(Bureau)は、世界遺産委員会の21か国の委員国のうち、議長、副議長(5人)、書記[注釈 30]のみで行われる会議である[195]。ビューロー会議などとも呼ばれる[196]。2001年までは世界遺産委員会が12月開催だったが[197]、そのころは半年ほど前と直前にビューローが開催されていた[198]。特に半年前のビューローは、実質的に世界遺産の新規登録の可否を決定する場となっており、12月の委員会開催までに勧告を覆す余地はあったが[198]、世界遺産委員会の場で覆されることはないのが普通だった[199]。この当時のビューローの権威は高かった反面、21か国の委員国の中でも特に限られた国々に強い決定権が集まることへの批判もあった[200]。そのため、世界遺産委員会が6、7月ごろの開催となった2002年の4月に開催されたビューローを最後に、世界遺産登録の可否は、正規の委員会審議に一本化されることになった[198]。
以降、ビューローは世界遺産委員会の会期中に、議事の調整や日程の管理など、限られた事項のみを扱うようになっている[195]。
世界遺産委員会の決議
世界遺産委員会は、諮問機関の勧告を踏まえて推薦された物件について審査を行い、「登録」「情報照会」「登録延期」「不登録」のいずれかの決議を行う(「作業指針」第153 - 164段落)[201]。「登録」勧告が出された物件が、世界遺産委員会で覆されたことはほとんどない。例外的な事例は、後述の領土問題が絡む案件を除けば、遺跡の復元方法をめぐって委員国が反対したボルガル遺跡(ロシア。のちに正式登録)[202]、地元との調整不足を理由に推薦国自らが先送りを提案した(カナダ。のちに正式登録)[203]など、ごくわずかである。
世界遺産委員会には臨時委員会も存在するが、世界遺産は原則として正規の委員会でしか登録されない。第43回世界遺産委員会(2019年)終了時点で唯一の例外は、1981年の臨時委員会で登録されたエルサレムの旧市街とその城壁群のみである[注釈 31]。
登録
「登録」(記載、inscribe[注釈 32])は、世界遺産リストへの登録を正式に認めるものである。「作業指針」の2005年の改定を踏まえ、2007年以降は正式に登録された場合、OUVの言明をしなければならなくなった[204]。OUVの言明とは、A4版2枚の要約で、資産の概要、適用された登録基準、真正性、完全性、保存状況などがまとめられている[205]。2007年以前に登録された資産は義務づけられていなかったが、それらについても順次、遡及的な言明が要請されることとなった。たとえば、日本の場合は2014年に遡及的な言明がすべて完了している[206]。
情報照会
「情報照会」(refer[注釈 32])は一般的に顕著な普遍的価値の証明ができているものの、保存計画などの不備が指摘されている事例で決議され[207]、期日までに該当する追加書類の提出を行えば、翌年の世界遺産委員会で再審査を受けることができる。ただし、3年以内の再推薦がない場合は、以降の推薦は新規推薦と同じ手続きが必要になる(「作業段落」第159段落)[208]。
「情報照会」決議は、最速で翌年の再審議を可能にする。そのため、推薦国は、その年の登録が難しいという勧告を受けた場合、次善の策として望む決議であり、委員国への働きかけも顕著である[208]。しかし、「情報照会」決議が出てしまうと、推薦書の大幅な書き換えは認められず、推薦範囲の変更などもできないため、安易な「情報照会」決議は、かえって正式な登録を遠ざける危険性があることも指摘されている[209]。実際、インドのは第30回世界遺産委員会では「登録延期」勧告を覆して「情報照会」決議とされたが、第32回世界遺産委員会の審議では「登録延期」決議とされ、かえって登録が遠のいてしまった[210]。
登録延期
顕著な普遍的価値の証明などが不十分と見なされ[207]、より踏み込んだ再検討が必要な場合は「登録延期」(記載延期、defer[注釈 32])と決議される。この場合、必要な書類の再提出を行ったうえで、諮問機関による再度の現地調査を受ける必要があるため、世界遺産委員会での再審査は、早くとも翌々年以降になる[212]。
「登録延期」はしばしば不名誉なものと捉えられることがある。日本の場合、最初に「登録延期」決議が出たのは平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―である[注釈 33]。このとき、日本では「落選」「平泉ショック」などと報じられ、他の自治体の世界遺産登録に向けた動きにも影響を与えた[213]。
「登録延期」決議は確かに「情報照会」決議よりも一段下と位置づけられる決議だが、専門家からは、むしろ時間をかけて価値の証明を深化させる機会を与えられたと解すべきで、不名誉なものではないとも指摘されている[214]。なお、最初の「登録延期」決議から正式登録までに長期を要した遺産の例としては、30年を要したイングランドの湖水地方[215]、35年以上を要したシドニー・オペラハウス [216]などがある。
不登録
顕著な普遍的価値を認められなかった物件は、「不登録」(不記載、not inscribe[注釈 32])と決議される。「不登録」と決議された物件は、原則として再推薦することができない。ただし、新しい科学的知見が得られるなどした場合や、不登録となったときとは異なる登録基準からの価値を認められる場合には、推薦が可能である[217][218]。
諮問機関の勧告の時点で「不登録」勧告が出されると、委員会での「不登録」決議を回避するために、審議取り下げの手続きがとられることもしばしばである。たとえば、2012年の第36回世界遺産委員会では、「不登録」勧告を受けた推薦資産は9件[注釈 34]あったが、うち5件は委員会開催前に取り下げられた[219]。「不登録」決議は、推薦国にとって何のメリットもないと考えられていたからである[217]。しかし、第41回世界遺産委員会では「不登録」勧告を受けた資産の多くが取り下げず、審議に臨んだ5件のうち4件が「登録延期」ないし「情報照会」決議となった。この従来と異なる傾向は、2000年代半ばから増えるようになった諮問機関と推薦国との意見の対立を示すものとされる[220]。
なお、世界遺産委員会などでの審議の結果、登録が見送られた物件を指して裏世界遺産と呼ぶことがある[221][222]。もともとインターネット上の私的なウェブサイト[223]で打ち出された概念であり、公式な呼称ではない。
モニタリング
世界遺産におけるモニタリング(Monitoring)とは、保全管理に関わる指標や影響を及ぼす要素を明示することで、推薦書に盛り込まなければならないものと、登録後に行われるものの2種類ある[224]。ただし、これらはまったく同じ用語を用いても、手続きとしては別個のものである[225]。
推薦書におけるモニタリングの項目に不備があれば、「情報照会」勧告などが出される場合がある[226]。
登録後のモニタリングには、定期報告とリアクティブ・モニタリングの2種類がある。定期報告(Periodic Report)は6年ごとにすべての登録資産に対して実施するものであり、アジア・太平洋、アフリカなどの地域を単位として少しずつ時期をずらし、世界遺産としての価値の維持と保全状況、その他情報の更新などを確認する[227]。第1期の定期報告は2000年から2006年に実施された[228]。2008年から2012年に第2期の定期報告がすべて終わり、2015年の第39回世界遺産委員会でとりまとめられた[227]。
リアクティブ・モニタリング(Reactive Monitoring)は、定期報告とは別の手続きであり、定期報告が保有国による報告なのに対し、世界遺産が何らかの脅威に晒されていると判断された場合に、世界遺産センターないし諮問機関が行う[229]。当然、抹消の可能性がある世界遺産や危機遺産リスト登録物件なども対象になる(第169 - 170段落)[230]。
しかし、リアクティブ・モニタリングは世界遺産委員会の決議を踏まえなければならず、保有国の協力も得ねばならないため、緊急の事態や保有国が非協力的な場合などには、十分に機能しない問題点を含む[231]。
そこで新たに導入されたのが強化モニタリング体制(Reinforced Monitoring Mechanism)である。これは、世界遺産委員会の決議なしに、ユネスコ事務局長の判断で現地調査を可能にする仕組みであり、2007年の第31回世界遺産委員会で導入された[232]。これは、世界遺産委員会が開かれていない時期にも即応して、複数の報告書を提出できる仕組みであったが、2017年時点では正式な「作業指針」には盛り込まれていない[233]。
もともとの原則では危機遺産登録物件のみとされており[233]、実際、2007年に対象になったのはそうだったが、2008年にはマチュ・ピチュの歴史保護区など、危機遺産リスト外の物件も対象に含まれた[234]。その辺りの時期には、危機遺産リストに登録する代わりに、強化モニタリング対象としたケースもあったとされている[235]。
登録後の変更
名称
推薦する際の名称は、推薦国が英語とフランス語でつける。諮問機関は、資産の特色をよりよく表すような改名を勧告する場合があり、推薦国自身がそれを踏まえて改名することもある。たとえば、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」は当初の推薦名「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」を、ICOMOSの勧告を踏まえて改名したものである[236]。逆に、平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―の場合は「考古学的遺跡群」を外すことを勧告されたが、反対する日本の見解を世界遺産委員会も支持したため、推薦どおりの名称で登録された[237]。
登録後にも名称の変更は可能であり、保有国の申請を世界遺産委員会が承認すれば認められる[238]。ナチスの施設であることを明確にするために「アウシュヴィッツ強制収容所」が「アウシュヴィッツ=ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940 - 1945)」に変更された例や[239]、地元文化を尊重するためと推測されている英語「スケリッグ・マイケル」からゲール語「シュケリッグ・ヴィヒル」(アイルランド)への変更の例[238][注釈 35]などを挙げることができる。
なお、英語・フランス語による世界遺産登録名には、公式の日本語訳は存在しない。、世界遺産アカデミーなど、各団体がそれぞれの判断で日本語訳をつけている。結果、物件によっては文献ごとに表記の異なる場合が存在する。
軽微な変更
登録範囲の「軽微な変更」(minor modifications)とは、「顕著な普遍的価値」(OUV)に大きな影響を及ぼさない範囲の変更で、緩衝地帯の設定もこれに含まれる(「作業指針」第163段落およびAnnex 11)[240]。原則として、理由説明の合理性などに問題がなければ、世界遺産委員会でも大きな議論なしに承認される。たとえば、2016年に紀伊山地の霊場と参詣道へ闘鶏神社ほか22地点が追加されたのは「拡大」(extension)ではなく、「軽微な変更」である[241]。
「軽微」な範囲を超えると認識される場合は、重大な変更として、いわゆる「拡大」登録の手続き(新規推薦と同じ)で審議されることになる。軽微か重大かの明確な線引きはなく、総合的に判断される[242]。たとえば、第34回世界遺産委員会では雲南の三江併流保護地域群(中国)をめぐって議論になった。この世界遺産の一部地域における登録前からの資源採掘活動が明らかになったことを受けて、保有する中国当局は採鉱地域(総面積約170 万ヘクタールのうち7万ヘクタールほどにあたる)を除外することなどを提案したのである[242]。最終的に投票に持ち込まれた結果、3分の2の賛成を得て「軽微な変更」として承認されたが[242]、翌年の世界遺産委員会では、採鉱などを理由とする変更は常に「重大な変更」として扱うことが決められた[240]。
重大な変更
登録範囲の「重大な変更」(Significant modifications)とは、範囲を大幅に変更するのみでなく、OUVにも影響を及ぼす変更を指し、新規登録物件と同じ手続きが適用される[244]。いわゆる「拡大登録」(拡張登録)がこれにあたるが、逆に縮小登録にも適用される。
「拡大登録」は、たとえば「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」にニルギリ山岳鉄道などが加わって「インドの山岳鉄道群」に拡大された例などが該当する。ただし、1980年登録のバージェス頁岩が1984年新規登録のカナディアン・ロッキー山脈自然公園群に統合されたように[245]、「拡大」という形式をとらない事例もある。また、こうした範囲変更に伴って、世界遺産登録基準が変更される場合もある。前述のビャウォヴィエジャの森もその例である。
逆に縮小になった最初の例はゲラティ修道院(ジョージア)である。もとはバグラティ大聖堂とともにグルジア王国時代の傑作として登録されていたが[246]、大聖堂の再建工事により真正性が失われたと判断され、2017年にゲラティ修道院のみの登録へと切り替えられた[247]。これは顕著な普遍的価値(OUV)を失った要素を切り捨て、残る部分のOUVを保持するという新しい手法である[248]。
抹消
世界遺産は、登録時に存在していたOUVが失われたと判断された場合、もしくは条件つきで登録された物件についてその後条件が満たされなかった場合に、リストから「抹消」(deletion)されることがある(「作業指針」第192 - 198段落)[249]。
初めて抹消されたのは、2007年のアラビアオリックスの保護区(オマーン)である。この物件はもともと保護計画の不備を理由とするIUCNの「登録延期」勧告を覆して登録された経緯があったが、計画が整備されるどころか保護区の大幅な縮小などの致命的悪化が確認されたことや、オマーン政府が開発優先の姿勢を明示したことから、抹消が決まった[250]。2009年にはドレスデン・エルベ渓谷(ドイツ)が抹消されている。これは、世界遺産委員会が「景観を損ねる」と判断した橋の建設が、警告にもかかわらず中止されず、住民投票を踏まえて継続されたことによる[251]。また、上述のように、構成資産の一部を抹消して登録範囲を縮小する事例も登場している。
その一方、世界遺産条約採択40周年記念最終会合(2012年)では、参加した専門家たちからは、国際協力の本旨に照らせば、リストからの抹消は責任放棄にあたるという批判が提起された[252]。
なお、抹消の条件は以上の通りであり、世界遺産条約からの脱退などの場合の扱いは明記されていない。ただし、専門家からは、脱退すれば各種手続きを取れず、世界遺産エンブレムすら使用できなくなるため、リストから抹消されずとも、世界遺産でなくなるに等しいと指摘されている[249]。
課題と対応
登録国の偏り
第43回世界遺産委員会(2019年)終了時点で、世界遺産は1,121件登録されているが、その内訳は文化遺産869件、自然遺産213件、複合遺産39件である[48]。一見して明らかな通り、文化遺産の登録数の方が圧倒的に多く、地域的には文化遺産の約半数を占めるヨーロッパの物件に偏っている(世界遺産条約締約国の一覧参照)。
また、イタリア・中国(各55件)、スペイン(48件)、ドイツ(46件)、フランス(45件)[注釈 36]など非常に多くの物件が登録されている国がある一方で、世界遺産条約締約193か国中、1件も登録物件を持たない国が26か国ある(数字はいずれも第43回委員会終了時点)[48]。西アジア史の専門家からは、西アジアの世界遺産が少ないことの一因は、文化財保護の思想自体がヨーロッパ由来のものであって西アジアにとっては新しい概念であること、言い換えると、制度設計そのものが欧米中心主義に根ざしていることなどを指摘する意見も出されている[253]。
もともと世界遺産委員会の委員国に、地域の割り当ては設定されていなかった。ユネスコ本体の場合、執行委員に西欧・北米、東欧、中南米、アジア・太平洋、アフリカの5地域の割り当て枠があるのに対し、文化の衡平性に配慮するなどの理由で世界遺産委員会には21世紀初頭まで割り当て枠が存在しなかったのである[254]。その結果、1999年の時点でわずか10か国が3度も委員国(任期6年)を務めていたのに対し、当時の締約国の6割にあたる95か国が一度も任命されたことがなく、前者にはイタリアをはじめとする世界遺産保有数の多い国がいくつも含まれていた[255]。こうした問題点を踏まえ、「作業指針」および「締約国会議手続規則」が改定され、委員国は「自発的に」6年を4年に短縮すべきこと、再選までに最低6年を置くこと、「西欧・北米」「東欧」「ラテンアメリカ・カリブ海」「アラブ諸国」から各2か国、「アジア・太平洋」から3か国、「アフリカ」から4か国の最低割り当て枠を設定することなどが定められている[256]。
世界遺産審議に当たっては、世界遺産を持たない(もしくは少ない)国の推薦を優先することとされるが、これが過剰に考慮されることへの批判もある。たとえば、セントルシア初の世界遺産「ピトン管理地域」(2004年)が諮問機関の厳しい評価を覆して逆転で登録された背景には、同国がそれまで世界遺産を持っていなかった事情が斟酌された可能性が指摘されている[258]。これは例外ではなく、2011年の第35回世界遺産委員会では、ついに登録勧告された物件よりも逆転登録された物件が上回り、価値の証明や保護管理計画の不十分な物件を世界遺産に登録してしまうことは、諮問機関からも問題視される事態になった[259]。この際に逆転を果たした物件は、アフリカ、アラブ、ラテンアメリカの物件が主だった[259]。こうした傾向は、2002年に策定され、2007年に改訂された戦略的行動指針の中では、「信頼性」に関わる問題点とされている[260]。そもそも現在の主権国家の国境線は、自然や文化の代表性に配慮して引かれているわけではないため、すべての条約締約国が各1件以上の世界遺産を持つことは、かえってリストに偏りをもたらす可能性もある[261]。
このような世界遺産の地域格差とその是正策としての優先制、あるいは真正性・価値観の押しつけを「上から目線で、世界遺産はユネスコの覇権主義の道具と化し、ユネスコのための文化ヘゲモニーである」との辛辣な批判意見も噴出してきている[262]。
経済格差
世界遺産は推薦にも多額の資金を必要とする。たとえば、琉球王国のグスク及び関連遺産群の推薦には1億円以上かかったと言われており[263]、こうした費用は、場合によっては数十億かかることさえあるという[264]。その内訳は、推薦書を実際に執筆する専門家の人件費、推薦書に添付する写真などを手がけるコンサルタント会社への委託料などで、推薦書の作成に向けた専門家会議の開催なども上乗せされることがある[265]。
さらに、世界遺産の推薦書は英語かフランス語で書かれなければならないため、これらの言語を公用語としていない国の場合、それらの言語に堪能な専門家を手配する必要も生じる[266]。たとえば、旧ソ連構成国だった3国(ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス)の推薦だった西天山は、まさにそのような困難に直面し、世界遺産センターの支援を受けた[266]。結果として、開発途上国はこうした費用を十分に負担できず、不備のある推薦書の提出によって正式な審議までたどり着けないことも起こる[267]。西天山のように、世界遺産基金には途上国の推薦支援に回される分もあるが、それとて十分ではなく、支援が回ってこない国々も少なくない[267][266]。こうした事態が、さらなる偏りを助長しているという指摘もある[267][266]。
種類の偏り
前述のように、内容的には文化遺産のほうが圧倒的に多い。これは、前述のように自然遺産と違い、文化遺産は研究の深化に従って種類が増えていくという性質の違いのほかに、ほかの制度との関わりの違いを指摘されている。すなわち、自然遺産の場合、MAB計画、ラムサール条約など、世界的なリストアップや保護のための制度が多層的に整備されていて、その中の最上のものを世界自然遺産とできるのに対し、文化遺産の場合には類似の仕組みがなく、世界遺産に集中してしまう傾向があるのだという[268]。
そうした不均衡是正の試みとして、「世界遺産リストの代表性、均衡性、信用性のためのグローバル・ストラテジー」(the Global Strategy for a Representative, Balanced and Credible World Heritage List, 1994年)が打ち出され、文化的景観、産業遺産、20世紀遺産などを登録していくための比較研究の必要性が示された[269][270]。2004年から具体的な作業が行われている「顕著な普遍的価値」の再定義や、暫定リスト作成時点で、偏りをなくすような適切な選択がなされるように働きかけていくことなどもその例である[271]。
文化的景観
文化的景観は1992年に取り入れられた文化遺産の類型であり、人と自然がともに作り上げてきた景観を指す[272]。これは、人が自然環境から制約を受ける中、そこから諸々の影響を受けつつ進化してきたことを示す文化遺産である(「作業指針」第47段落)[272][273]。その中身は、庭園のように人間が設計した空間の中に自然を取り込んだ景観、棚田のように農林水産業をはじめとする人間の諸活動と有機的に結びついた景観、そして、自然の聖地のように人間が宗教上や芸術上の価値を付与してきた景観などに分けることができる[272][273]。
世界遺産の中での文化的景観第1号は、自然遺産として登録されたあと、マオリの崇拝の対象となってきた文化的要素が認定されて複合遺産となったトンガリロ国立公園(ニュージーランド、1993年拡大)である[274]。しかし、その起源となる議論は1981年から始まっており、その議論で重要な役割を果たした物件がイングランドの湖水地方であった。それは1987年と1990年にそれぞれ登録延期決議となったが、その検討は文化的景観の概念の確立の上で重要な役割を果たしたとされる(2017年に正式登録)[275]。
イギリスの物件では、自然遺産セント・キルダ(1986年)の拡大も大いに議論を引き起こした。もともとICOMOSは文化的価値を最初から認めていたが、文化的景観の概念がなかった1986年当時は認められなかった[276]。2005年の審議では複合遺産とすること自体は認められたものの、これを文化的景観と位置づけるか否かで紛糾した[277]。出席していた専門家の中からは、委員国の中でもその辺りの基準が明確だったとは言いがたいという評価もあった[278]。
ともあれ、文化的景観は広く受け入れられ、21世紀初頭の審議では世界遺産の推薦の主流とさえ言う者もあった[279]。その一方、文化的景観概念の多用を受けて、ICOMOSはその価値をより厳しく判定するようになったと言われており[280]、その登録範囲の完全性なども含め、厳格化の傾向を見せている[281]。文化的景観の代表例のひとつと国際的にも認識されていた富士山が、文化的景観として推薦・登録されなかった理由も、こうした傾向と無関係ではなかった[282]。
産業遺産
産業遺産自体は、初期から登録されていた。いわゆる「世界遺産第1号」に含まれるヴィエリチカ岩塩坑も、産業遺産に分類されている[283]。しかし、本格的な議論は1987年のニュー・ラナーク(イギリス)の推薦以降だといい、そのような類型を登録すべきかの議論が、翌年から開始された「グローバル研究」につながり、この研究がグローバル・ストラテジーに結びついた[284]。「産業」は人類の営みと不可分の要素であり、世界のどの地域にも存在しうる点が、グローバル・ストラテジーに取り込まれる理由になったと考えられている[285]。
その後、前述のように評価基準にも産業遺産の登録を想定した改訂が行われ、産業遺産の登録も増えた。しかし、フェルクリンゲン製鉄所(ドイツ、1994年登録)の審議の際には、そのような装飾性のない近代的工場を世界遺産に加えることについて、参加者から戸惑いの声も聞かれたという[286]。なお、従来の産業遺産は産業革命、なかんずくイギリスのそれを中心に叙述されることが多かったが、世界遺産においては、古代ローマ帝国の金鉱山跡のラス・メドゥラス(スペイン)から、20世紀の水力発電所を含むリューカン=ノトデンの産業遺産(ノルウェー)などまで、より広い範囲でとらえられている[287]。
20世紀遺産
20世紀遺産は、その名のとおり20世紀に建設された建造物などを対象とする文化遺産であり、一部には19世紀後半も対象とする[289]。「近代遺産」(modern heritage)と呼ばれることもある[290][注釈 37]。比較的初期の段階から、アントニ・ガウディの作品群(スペイン)のように審美的な観点から評価されて登録された物件もあったが[211]、シドニー・オペラハウスが1981年に審議された際には、まだ十分に評価が定まっていないとされ、2007年の再審議でようやく登録された[216]。
モダニズム建築の範疇で重要だったのが、ヴァイマル、デッサウ及びベルナウのバウハウスとその関連遺産群(ドイツ)の登録とされ、この登録を契機に、同種の建築の登録を促したと言われている[291]。ただし、モダニズム建築の登録にしても、世界遺産が傑出した建築家個人を顕彰する場にならないように、という懸念はたびたび出されている。ブルノのトゥーゲントハット邸(ミース・ファン・デル・ローエ、チェコ)の審議しかり[292]、ルイス・バラガン邸と仕事場(メキシコ)の審議しかり[293]、ル・コルビュジエの建築と都市計画の最初の登録見送り時の審議しかり[294]である。
なお、20世紀遺産とモダニズム建築はイコールではない。そのような思想はともすると、20世紀遺産をヨーロッパ中心主義に組み込んでしまう危険性があるとされ、ICOMOSもモダニズム建築に限定してはいない[295]。モダニズム建築のための団体としてはすでにDOCOMOMOが存在するが、ICOMOSはモダニズム建築に限定されない「20世紀遺産国際学術委員会」を設置するなど、広い意味での20世紀遺産の登録を進めていこうとしている[296]。
登録件数の増加と上限
世界遺産は発足当初、上限を100件程度とする案さえあったという[297][298]。しかし、1981年の第5回世界遺産委員会の時点ですでに110件に達し、この見通しの非現実性が明らかになるのに時間はかからなかった[299]。そして、2015年の第39回世界遺産委員会では1,000件を超え、なおも増加している。上述のようなグローバル・ストラテジーは世界遺産を持たない国の割合を減少されるなどの点で一定の成果を挙げた一方で[300]、もともと遺産を多く保有する国々も、推奨される類型の遺産の推薦を増やすようになった結果、絶対数の抑制にはつながっていない[301]。
1,000件を超えた状況を踏まえて、世界遺産のブランド価値は損なわれたとする報道も見られたが[297]、その世界遺産の登録数に上限は設けられていない(「作業指針」第58段落)[302][注釈 38]。
かつては、一度の委員会で審議する件数も、一国あたりの推薦数にも制約がかかっていなかった。ゆえに、1997年にナポリで開催された世界遺産委員会ではイタリアの世界遺産が10件も増え[303][304]、第24回世界遺産委員会(ケアンズ、2000年)での推薦総数は72件[305]、そのうち新規登録された物件は61件に達した[306]。その委員会で設定された制約が「ケアンズ決議」である。これは各国の推薦上限を1件とし[注釈 39]、審議総数を30件とした[307]。この上限は第27回世界遺産委員会(パリ、2003年)で30件が40件へと修正され、第28回世界遺産委員会(蘇州、2004年)で「ケアンズ・蘇州決議」として修正された。この修正で、各国の上限は自然遺産を1件含む場合には2件まで可能とされ、審議総数は(再審議、拡大登録審議も含めて)45件となった[308]。これはさらに2007年に修正され、文化遺産2件の推薦も許されるようになった[309]。そのルールは4年で見直される規定だったため、2011年の第35回世界遺産委員会で文化遺産と自然遺産各1件(ただし、自然遺産は文化的景観で代替可能)となることが決まり、2014年の第38回世界遺産委員会から適用されることとなった[310]。
さらに2020年の第44回世界遺産委員会からは、各国1件のみ、審議総数は35件とすることが決まっている[311][312]。素案では25件とされていたが、審議を経て35件に修正された結果である[312][313]。
審議の厳格化
初期の世界遺産は、誰が見ても納得できるような分かりやすい登録が多かった[314]。たとえば、ギザの三大ピラミッド[注釈 40](1979年)、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』[注釈 41](1980年)、グレート・バリア・リーフ(1981年)、タージ・マハル(1983年)などが初期に登録されている。世界遺産委員会の議長を2度務めたことがあるは、初期の分かりやすい世界遺産を「偶像的な遺産」と呼んだ[315]。しかし、そうした遺産の登録が進んでいくと、「顕著な普遍的価値」を認めにくい物件や価値を裏支えするストーリーを理解しづらい物件が増えているとも言われる[316]。
世界遺産の勧告や審議が厳格化する傾向にあるとしばしば言われるが[317][318]、「登録のされにくさ」は審議の厳格化に由来する可能性だけでなく、上記のような質的な変化に由来する可能性も指摘されている[319][320]。また、日本の世界遺産登録物件の審議も2010年代になると厳しい勧告が増えていると言われるが[125]、世界遺産条約参加当初の物件の時点で、日本が推薦理由としていた評価基準がしばしば退けられたことを理由に、昔から十分に厳しかったという指摘もある[321]。
危機遺産登録への抵抗
危機遺産リストは、世界遺産の本来の意義からするならば、中核的機能を担うべきリストであるが、十分に機能していないという指摘がある[322]。もちろん、危機遺産リストに登録された場合に得られる国際的支援などを期待し、保有国自身が進んで危機遺産登録を申請する事例や、諮問機関からの勧告を保有国が受け入れて、異論なく危機遺産登録が実現する事例もある。前者の例としては、開発の進行を食い止めるために国際世論の後ろ盾を求めたロス・カティオス国立公園(コロンビア)がある[323]。この例では、危機遺産リスト登録を契機として、地元住民ら関係者がまとまっただけでなく、隣国パナマとの関係強化[注釈 42]にも結びつき、持ち上がっていた開発計画も撤回されたことで、無事に危機遺産リストから除外された(第39回世界遺産委員会)[324]。この例は、危機遺産の効果的活用例のひとつと認識されている[324]。後者の例としては、諮問機関の勧告を受け入れて、世界遺産になると同時に危機遺産リストにも登録されたナンマトル:東ミクロネシアの祭祀センター(ミクロネシア連邦)[325]がある。この例では、世界遺産委員会の席上、危機遺産リスト入りを前向きに受け止める保有国の姿勢への称賛が寄せられた[326][327]。
その一方で、保有国が強く反対する事態がしばしば起こるのも事実である。たとえば、パナマ・ビエホとパナマ歴史地区は、歴史地区を囲む海上道路の建設に対し、世界遺産リストからの除去すらも視野に入れて、第36回世界遺産委員会で危機遺産リスト登録が勧告された[328]。しかし、保有国が委員国に強く働きかけて回ったことで、危機遺産リスト入りが回避された[328]。工事が撤回困難な状況まで進む中、翌年の委員会でも危機遺産リスト入りが勧告されていたが、保有国は登録範囲を見直すことを約束して回避する一方[329]、約束が果たされない場合には世界遺産リストからの抹消が検討される旨を記載した決議には同意し、登録抹消のリスクを負ってでも危機遺産リスト入りを回避する姿勢を鮮明にした[74]。
カトマンズの渓谷(ネパール)は2003年から2007年に危機遺産に登録されていたが、これも保有国が強く反対した例のひとつである[330][331]。都市化を理由として、1992年には危機遺産入りの可能性が取り沙汰されていたが、ネパール当局が強く反対したため、危機遺産リストには加えず、世界遺産委員会、世界遺産センターが協力しつつ事態の改善に努めていた[332]。しかし限界があったため、2003年に危機遺産リストに登録され、一応の改善が果たされたことから2007年に除去された[333]。とはいえ、それでもなお課題の抜本的解決にはならなかったと認識されていた[331]。そして、同遺産は2015年のネパール地震で被災した際に再び危機遺産リスト入りを提案された。この地震で、カトマンズの渓谷は深刻な被害を受け、王宮も含めて全半壊した建物も少なくなかったため、国際的な支援が必要な状況と認識されたのである[334]。しかし、ネパール当局はまたも危機遺産リスト登録には反対し、1年の猶予を申し出て、正式に認められた[335]。1年後の第40回世界遺産委員会でも諮問機関は危機遺産リスト登録を勧告する状況だったが、ネパール当局はさらに1年の猶予を申し出て、これも認められた[336]。そして第41回世界遺産委員会では、震災復興の中での再建にOUVを損なうものがあるという諮問機関の指摘もあったが、猶予を求めるネパールの申請がまたも認められた[337]。
本来、危機遺産登録には保有国自身の同意は必要ではないとされているが、保有国の意向を無視して強硬に登録することは、世界遺産委員会では普通行われない[338]。かわりに、危機遺産登録の意義を説き、罰などではないことを強調しているが、「世界遺産」ブランドの国際的知名度の向上などを背景として、抵抗感を持つ国々の意識を変革するのは、容易なことではないと見られている[74][339]。このような抵抗から、本来ならば危機遺産登録されるべき「隠れた危機遺産」が、今後も増加していくことを懸念する意見もある[340]。
都市の開発
世界遺産の登録は、景観や環境の保全が義務づけられるため、周辺の開発との間で摩擦が生じることがある。特に、都市内の歴史地区や建造物については、その周囲に建てられた新しい高層建築などによって、景観が損なわれることで議論が起こることがある。たとえば、ケルン大聖堂(ドイツ)は登録時点で緩衝地帯設定が条件となっていたにもかかわらず、それが果たされなかった[341][342]。その中で近隣の高層建築計画が持ち上がったことから2004年に危機遺産リストに加えられ、一時は世界遺産リストからの除去すら検討された[342]。この事例が注目された理由は、開発による景観の損壊が危機遺産登録理由になった、最初の事例だったからである[343]。この事例では、建設推進派と反対派でケルンを二分する議論になったが、緩衝地帯設定や高さ規制が導入されたため、2006年に危機遺産リストから除かれた[342]。しかし、ケルンの議論は、今後同種の問題があちこちの歴史都市で起こりうることを危惧させるものだった[344]。
実際、それ以降も、規制や計画修正などの対応がとられた事例には、エスファハーンのイマーム広場(イラン)、ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ)、フェルテ/ノイジードル湖の文化的景観(ハンガリー/オーストリア)[345]などがあり、ほかにも第32回世界遺産委員会ではサンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア)やシェーンブルン宮殿と庭園群 (オーストリア)[346]、第41回世界遺産委員会ではシャフリサブス歴史地区(ウズベキスタン)や海商都市リヴァプール(イギリス)[347]などでも開発が問題となった。他方で、上述のドレスデン・エルベ渓谷のように、橋梁の建設による景観の破壊を理由として、世界遺産リストから抹消された例もある。
他方、景観をどうとらえるかという問題は一義的に確定させられるとは限らず、月の港ボルドー(フランス)で歴史的な旋回橋が取り壊され、代替橋が計画された際には、ICOMOSと世界遺産センターによる影響評価が正反対になり、世界遺産委員会の決議でも強い決定には至らなかった[348]。また、エッフェル塔(パリのセーヌ河岸の構成資産)が建設当初は酷評されたことを例に挙げ、特定の時点の都市景観で固定することに疑問を呈する専門家も複数いる[349]。
こうした開発の問題では、緩衝地帯内さらには緩衝地帯の外[注釈 23]の開発すら問題となることがあり、上述のロンドン塔の事例もそうである。こうした問題に対して、以下のように歴史的都市景観に関するいくつかの宣言や取り決めが行われている。
歴史的都市景観
ウィーン歴史地区(オーストリア)では、2001年の世界遺産リスト登録直後に、緩衝地帯での高層ビル建築計画が明らかになった[343]。世界遺産委員会では、世界遺産リストからの抹消さえも議題となったが、ウィーン当局による計画修正によって、危機遺産リスト入りすらもしなかった[343]。
このウィーンでは、2005年に開催された国際会議で「世界遺産と現代建築に関するウィーン覚書」が採択され、これを踏まえて同年の世界遺産条約締約国会議では「歴史的都市景観の保護に関する宣言」が採択された[350]。この宣言では、都市の成長のための開発には、歴史的都市景観の保護も尊重されるべきことや、世界遺産としての顕著な普遍的価値が何よりも保護されるべきものであることが謳われている[350]。それ以外にも歴史的都市景観に関する議論や宣言は複数出されており、2011年のユネスコ総会では、それらを踏まえた勧告も出された[351][347]。
ただし、その勧告も踏まえて、翌年さっそく「セビリアの大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館」(スペイン)の危機遺産リスト入りが議論された際には、登録時点で問題ないとされていた保護体制が、後から策定された概念によって危機遺産とされることの是非が問題となり、危機遺産リスト入りは回避された[352]。他方、ウィーン覚書が採択されたウィーン歴史地区は、その後の開発計画によって2017年に危機遺産リスト入りし[353]、世界遺産リストからの抹消も取り沙汰される事態になっている[354]。
観光地化
世界遺産に登録されることは、周辺地域の観光産業に多大な影響がある。もともと文化遺産に対する観光地化の弊害については、世界遺産以前から問題視する意見はあり、ICOMOSでは「国際憲章」(1976年)を発表し、文化遺産の保護を訴えていた[355]。しかし、世界遺産を観光振興に結び付けようとする姿勢は根強く、その弊害も表出している[356]。
たとえば、白川郷・五箇山の合掌造り集落では、登録後に観光客数が激増した。白川郷の場合、登録直前の数年間には毎年60万人台で推移していた観光客数が、21世紀初めの数年間は140 - 150万人台で推移している[357]。このような事態に対し、自治体、村民、専門家たちが対応し、交通規制などの策定も行われるようになっているが[358]、土産物屋などの観光客向けの施設の増加そのものにも否定的な意見は見られる[359]。
こうした傾向は日本に限った話ではなく、たとえば、麗江古城(中国)もしばしば急速な観光地化の例として挙がる。麗江古城はナシ族の伝統的街並みが保存され、町に張りめぐらされた水路も伝統的な習俗と結びついてきた。しかし、世界遺産登録(1997年)の前後で、観光客数は約70万人(1995年)から約370万人(2006年)へと急増したが[360]、商業目当ての漢民族の流入などにより、ナシ族の住民は約1万6,900人(1997年)から約6,000人(2005年)へと減少した[361]。さらに、水道の普及により、ナシ族住民にとっても古城を流れる水との結びつきが薄れる中、伝統文化への理解が足りない観光客たちの心ない行動も重なり、水質が著しく悪化した[362][363]。こうした観光地化の流れには、近代的な建て替えが進みつつあった中で有形の建造物群を守ったという面と、伝統的な生活風景を失わせたという面が存在する[364]。
このように、急速な観光地化が、その地域の本来の姿の保全にとって、マイナスに作用することが起こりうる。世界遺産は保全が目的であり、観光開発を促進する趣旨ではないため、世界遺産登録によって観光上の開発が制限されている地域もあり、マッコーリー島(オーストラリア)のように観光客の立ち入りが禁止されている物件もある[注釈 43]。観光地化が進んだ世界遺産の場合、一部ないし全部で入場制限などの規制が敷かれるようになった場合もある。たとえば、一部に人数や時間の制限をかけたマチュ・ピチュの歴史保護区(ペルー)やラサのポタラ宮の歴史的遺跡群(中国)、ピサの斜塔をガイドつきツアーに限定したピサのドゥオモ広場(イタリア)などを挙げることができる[365]。
また、沖ノ島(「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産)はもともと宗教上の理由で女人禁制であったが、世界遺産登録を機に、神職以外の入島を全面禁止するという形でさらに厳格化し、観光地化とは一線を画する姿勢を鮮明にした[366]。
その一方で、貧困にあえぐ国などでは観光を活性化させることで雇用を創出することが、結果的に世界遺産を守ることにつながる場合もある。こうした問題に関連して、2001年の世界遺産委員会では、地域住民の経済利益と遺産の保護とを両立させるために、「世界遺産を守る持続可能な観光計画」の作成が始まった[367]。
政治問題化
ロビー活動
世界遺産への注目度が上がるにつれて、世界遺産委員会の規模も膨れ上がっている。審議に直接参加するのは委員国と諮問機関だけだが、オブザーバー参加が多いのである。第32回世界遺産委員会の際には、開催国カナダが、会場に参加者を収容しきれない可能性を警告するに至った[368][注釈 44]。
こうした注目の高まりの中、各国が自国の世界遺産登録を目指すロビー活動が盛んになっている[369][370]。前述したように、諮問機関の勧告が覆され、逆転登録が相次ぐようになっているが、その背景にも、そうしたロビー活動の過熱がある[371]。
ビューローが登録物件を実質的に決めていたときは、ビューローから世界遺産委員会までの約半年間がロビー活動の時期だった。ビューローでの登録審査が廃止された際には、世界遺産委員会での決定に一元化することで、ロビー活動を抑制できるのではないかとも期待された[372]。しかし実際には、諮問機関の勧告が出てから世界遺産委員会が開催されるまでの約6週間に、激しいロビー活動が展開されている[220][373]。
専門家が不備を指摘した物件が次々と逆転登録を果たす状況に対し、第35回世界遺産委員会(2011年)では、かえって締約国に対する「毒入りの贈り物」になる可能性があるとする警告が、IUCNから発せられた[374]。IUCNはそれ以前からも、リストの信頼性低下に対する懸念を表明していた[375]。
また、翌年の世界遺産条約採択40周年記念最終会合では、元世界遺産センター長のベルント・フォン・ドロステからも、世界遺産制度が専門家中心から外交官中心となることへの懸念が表明されており[376]、第41回世界遺産委員会(2017年)では議長を務めたが、議論が政治的であることを戒める場面がたびたびあったという[377]。
民族・領土問題
世界遺産は保有国が推薦する形をとるため、帰属問題の解決していない物件の推薦は、当該国同士の争いを生むことがある。たとえば、タイとカンボジアの国境に位置するプレアヴィヒア寺院はタイ外相との合意を踏まえてカンボジアの世界遺産として登録されたが、それはタイ国民の反発を招き、タイとカンボジアの国境紛争を招くこととなった[378]。
アラブ諸国とイスラエルの間でもたびたび問題が持ち上がる。イスラエルは「ダンの三連アーチ門」を推薦しており、諮問機関からは「顕著な普遍的価値」を認められているが、国境近い立地による法的問題から、たびたび審議が延期されており、登録が先送りされている[379]。
逆に、登録されているものの、されるたびに問題となるのがパレスチナの世界遺産である。パレスチナは世界遺産登録と領土の承認を結びつけていることから、世界遺産条約締約以降、積極的に推薦を行っているが[380]、3件連続で緊急推薦登録の手続きがとられ、いずれも投票で決着するなど、審議のたびに紛糾している。特に3件目にあたるヘブロン(アル=ハリール)旧市街の登録は、イスラエルとアメリカ合衆国の強い反発を招き、両国がユネスコを脱退することにつながった[381]。ただし、アメリカはパレスチナがユネスコに加盟した時点で、国内法に基づいて世界遺産基金への拠出を停止しており、ユネスコもアメリカの投票権を停止している[382]。このため、ユネスコ脱退表明が新たな実害をもたらす可能性は低いが[382]、世界遺産基金の5分の1以上を占めるアメリカの分担金拠出停止が長引く中で、世界遺産基金の財源不足は深刻なものとなっている[383]。
民族間の摩擦は国際的なものだけでなく、一国内でも起こりうる。中華人民共和国の世界遺産では、雲南の三江併流保護地域群の保護にあたり、保護区内で伝統的農牧業を営んでいたチベット・ビルマ語派の少数民族たち500世帯が、強制的に移住させられた[384]。また、2017年の青海可可西里の登録にあたっても、地域のチベット系住民への支配強化の大義名分となることを懸念する報道が見られた[382]。
歴史認識
国ごとに認識の異なる論点に関わると、世界遺産の登録に際して問題が起こることもある。たとえば、高句麗が中国史なのか朝鮮史なのかという高句麗論争を投影し、高句麗の古墳群の登録は2年越しで紛糾した[386]。まず、2003年の世界遺産委員会で北朝鮮国内の遺跡が単独審議された際に、中国にも同種の遺跡があることが指摘され、翌年に審議が先送りされた[386]。その際の委員国に中国が含まれており[387]、東北工程を進めていた中国が、北朝鮮の先行を嫌ったことも一因と推測されている[388]。そして、翌年の審議では、将来的に統一されることが望ましい旨の決議とともに、高句麗前期の都城と古墳(中国)と高句麗古墳群(北朝鮮)が別個に登録されることとなったのである[386]。この件では、中国は高句麗文化を中華文化の一部とする主張を繰り返したが[387]、韓国はそうした主張に強く反発し[389][390]、北朝鮮の支援に回った[391]。
ほかにも、原爆ドームの登録にあたっては中国が反対、アメリカが棄権したが[392]、中国は、日本が被害者の側面ばかりを強調して政治利用することへの懸念を理由として挙げていた[393]。このような微妙な案件であったことから、日本側の要請によって、6月のビューローでは登録の可否が示されず、委員会審議直前の臨時ビューローに持ち越されるという経緯をたどった[198]。
また、明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業の登録の際には、明治時代に限定されるとする日本側の主張に対し、日本統治時代の朝鮮人徴用と関連づけた韓国側が納得せず、当時のユネスコ事務局長イリナ・ボコヴァに陳情しただけでなく、慣例的に禁じ手とされている勧告前の諮問機関へのロビー活動まで展開した[394]。最終的には日韓の協議も踏まえて登録されたが、その審議では各国の祝辞が省かれるなど、異例の手続きがとられた[395]。
世界遺産の教育
世界遺産条約では、教育や広報の重要性が定められている。
第二十七条
1. 締約国は、あらゆる適用な手段を用いて、特に教育並びに広報事業計画を通じて、自国民が第一条及び第二条に規定する文化遺産及び自然遺産を評価し及び尊重することを強化するよう努める。
2. 締約国は、文化遺産及び自然遺産を脅かす危険並びにこの条約に従って実施される活動を広く公衆に周知させることを約束する。 — 世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約
ユネスコも若年層の啓発に積極的で、1994年からは「若者のための世界遺産教育プロジェクト」を開始している[396]。このプロジェクトの一環で、世界遺産ユースフォーラムが開催され(第1回は1995年ベルゲン、第2回は1998年大阪市ほか日本各地)、アジア・太平洋などの地域単位でのユースフォーラムも順次開催されている[396]。
また、各種教育機関でも世界遺産は教育に取り入れられており、後述するように、高等教育機関では「世界遺産学」も提唱されている。さらに、生涯学習という観点から、世界遺産を主題とするテレビ番組などの意義も指摘されている[397]。そうした番組としては、たとえば日本では、『探検ロマン世界遺産』(NHK)、『世界遺産』(TBS)などが、また、ドイツでは『』などが放送されてきた[398]。世界遺産を扱うテレビ番組は、広報面での効果についても評価されている[399]。
世界遺産学
世界遺産を専門に研究する学問は「世界遺産学」と呼ばれる。たとえば、秋道智彌(総合地球環境学研究所教授)は、「世界遺産のもつ意義、遺産の普遍性と特異性、多様性などを明らかにする研究」[400]と定義づけている。これはあくまでも定義の一例だが、いずれにしても、世界遺産学は人文科学・社会科学・自然科学を融合させ、地球規模で考究する学問となることが期待される[401][402]。
日本では、1979年に日本初の文化財学科を設立した奈良大学が、古都奈良の文化財の世界遺産登録(1998年)を踏まえ、文学部内に世界遺産コースを設立した[403]。大学院としては、筑波大学大学院が2004年に修士課程の「世界遺産専攻」、2006年に博士課程の「世界文化遺産学専攻」を設置している[404]。ほかに、大学通信教育としてサイバー大学が世界遺産学部を設置し、特定非営利活動法人の世界遺産アカデミーによる世界遺産検定などとも連携していた[405]。しかし、これは2010年秋学期以降、新規学生の募集が停止された[406][407]。
日本以外に、アジアでは北京大学(中国)で1998年以降、世界遺産講座が開講されており、そのテキストは市販もされている[408]。ヨーロッパでは、ブランデンブルク工科大学(ドイツ)、バーミンガム大学(イギリス)、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリン(アイルランド)、トリノ大学(イタリア)などに世界遺産専攻コースが設置されており、ブランデンブルク工科大学のカリキュラムは2年間、ほかは1年間である(2015年時点)[409]。ブランデンブルク工科大学は、ほかに(エジプト)と共同での修士課程も設置している[410]。
ユネスコの他の遺産
ユネスコの世界遺産、無形文化遺産、世界の記憶(世界記憶遺産)は、あわせてユネスコの「三大遺産事業」[411][412]、「ユネスコ三大文化遺産事業」[413]などと呼ばれることがある。
無形文化遺産
世界遺産条約の草案には無形文化財への言及もあったとされるが[414]、成立・発効した世界遺産条約は不動産のみを対象としている。このため、地域ごとに多様な形態で存在する文化を包括的に保護するためには、無形の文化遺産を保護することも認識されるようになり、2003年のユネスコ総会で無形文化遺産の保護に関する条約(無形文化遺産条約)が採択された。もともと国際的に見ても、無形文化財や民俗文化財を対象とする保護法制が整備されている例は珍しく、無形文化遺産条約の成立以前には日本と韓国くらいにしかなかったといわれる[415]。わけても日本の法制は、韓国の文化財保護法の制定にあたっても、大きな影響を与えた[416][417]。こうした経緯から、先住民との関係や、文化的景観で無形もカバーできるとして反対意見が強かった西欧諸国を説得し、無形文化遺産条約を成立に導く上では、日本の貢献は非常に大きかったとされている[418][注釈 45]。
世界遺産と無形文化遺産は別個のものであり、事務局も別である(前者はユネスコ世界遺産センター、後者はユネスコ文化局無形遺産課)。ただし、無形文化遺産の中には、たとえば
- 無形文化遺産「イフガオ族のフドゥフドゥ詠歌」と世界遺産「フィリピン・コルディリェーラの棚田群」
- 無形文化遺産「」と世界遺産「エルチェの椰子園」(スペイン)
- 無形文化遺産「ジャマ・エル・フナ広場の文化的空間」と世界遺産「マラケシュの旧市街」(モロッコ)
- 無形文化遺産「宗廟祭礼祭」と世界遺産「宗廟」(大韓民国)
のように、世界遺産リスト登録物件との間に密接な結びつきがあり、有形と無形の「複合遺産」ととらえられるものもあることが指摘されている[419]。
無形文化遺産は、もともと世界遺産のマイナス面を踏まえたうえで制度設計されており[412]、当初の主眼は滅びかねない無形文化の保護にあった[420]。ゆえに、その範疇にはない「フランス料理の美食術」の登録(2010年)は、専門家にも根強い反対意見が残るものであって[421]、それ以降は、文化ナショナリズムや商業主義との結びつきなど、方向性の変質も指摘されるようになっている[422]。
世界の記憶
世界の記憶は、日本では世界記憶遺産などとも呼ばれるが、世界遺産や無形文化遺産とは異なり、国際条約が存在しない[423]。ユネスコが1992年に開始した事業であり[424]、情報・コミュニケーションセクター(世界遺産や無形文化遺産は文化セクター)が担当する[425]。真正性と国際的な重要性を基準として、有形の動産(記録物)を登録している[424]。
その中には、
- 世界遺産「海印寺大蔵経板殿」に保管される「高麗大蔵経板と諸経板」[426]
- 世界遺産「バンスカー・シュチャヴニツァ歴史地区と近隣の工業建築物群」を補完する「バンスカー・シュチャヴニツァ鉱山庁の設計図と鉱山地図」[427]
- 世界遺産「ワルシャワ歴史地区」の再建事業を伝える「ワルシャワ再建局の記録文書」[428]
- 世界遺産「プランタン=モレトゥスの家屋・工房・博物館複合体」に所蔵される「オフィシーナ・プランティニアーナの商業文書」[429]
などのように、世界遺産と関わりのある記録も含まれている。
「世界の記憶」の登録も注目度が上がるに従い、国家間で認識の異なる物件の登録をめぐって大きな議論を引き起こしてきた。世界遺産などと違い、審査を行うのは事務局長が任命した専門家委員会であり、審議内容は非公開である[430]。この制度は中国の申請による南京事件の登録時に日本で強い反発を引き起こし、それを受けてユネスコが「世界の記憶」登録に関する制度改正を検討することにつながった[431]。このとき、日本の一部ではユネスコ分担金の支払いを停止すべきという強硬意見も出ており[432]、韓国などが進めた従軍慰安婦の登録が見送られた際(2017年)には、それらの国から関連性を疑われた(ユネスコは分担金関連の圧力を否定)[433]。
脚注
注釈
- ^ 他の時期区分の例としては、世界遺産センター初代センター長ベルント・フォン・ドロステによる四期区分(1972年 - 1991年、1992年 - 1999年、2000年 - 2005年、2006年以降)などもある(文化庁記念物課世界文化遺産室 2013, p. 7)。
- ^ 原語は 英語: the world’s inheritance および フランス語: (le) patrimoine universel である(UNESCO Constitution)。
- ^ 日本初のツタンカーメン展を開いたのが朝日新聞社であり、その収益金全額がこのキャンペーンへの寄付に回された。本文の数字は松浦 2008(p.73) によるが、日本ユネスコ協会連盟、アジア太平洋ユネスコ協会連盟の両事務局長を務めたは、日本からの拠出140万ドル、うち130万ドル以上が朝日新聞社としている (日本ユネスコ協会連盟 1997, p. 25)。総額が140万ドルだったという話は西村 & 本中 2017 (pp.239-240) にも出てくる。
- ^ Monuments of Nubia-International Campaign to Save the Monuments of Nubia(世界遺産センター、2017年12月23日閲覧)では成功したキャンペーンとして扱われており、世界遺産関連文献でもポジティヴな側面しか描かれないのがしばしばである。しかし、エジプト考古学者の近藤二郎は意義を評価しつつも、このキャンペーンではアブ・シンベル神殿やフィラエ神殿のような主要な神殿が近傍に移築された一方、メトロポリタン美術館、ハルツームやライデンの博物館、マドリードの公園など、全く別の場所に移設された遺跡もあること、アニバのホルス神殿やアル=セブアのアメンホテプ3世神殿など水没・消失した遺跡群も存在すること、10万人もの人々が移住を余儀なくされ、移築された神殿の周辺景観も異質なものとなったことなどを挙げ、「救済」の意味するところを再考している(近藤 2002)。
- ^ 本項目で「作業指針」の参照箇所を示す場合は、原則として、二次情報源である東京文化財研究所 2017の言及箇所を併記している。
- ^ ユーゴスラビア解体を経て、現在はモンテネグロの世界遺産となっている。
- ^ なお、現在のリストでは124番目となっているが、これは日本の締約後にユーゴスラビア解体によって繰り上がったことによる。
- ^ 1980年に国会で最初に世界遺産の質問をしたのは日本社会党の土井たか子だったとされるが、そのときに保護すべき日本の遺産として挙げられたのは原爆ドームと三宅島(米軍の射爆訓練地計画があった)で、日米安全保障条約との関わりからも、政府関係者は消極的だったと言われる (吉田 2012b, pp. 34-35)。
- ^ a b 「真正性に関する奈良文書」(東京文化財研究所 2017, p. 80)、「オーセンティシティに関する奈良文書」(西村 & 本中 2017, p. 57)、「オーセンティシティに関する奈良ドキュメント」(渡邊 1995, p. 9)などといった訳があり、「奈良文書」「奈良ドキュメント」などと略される。
- ^ なお、その年の第38回世界遺産委員会で当初の予定通りに審議された場合、アメリカの文化遺産が1,000件目になるはずだったが、アフリカからの推薦かつ自然遺産という重要性から審議順の変更が提案され、アメリカもそれに同意したことから、オカバンゴ・デルタが1,000件目に選ばれた(西 2014, p. 42)。
- ^ ベルリンのムゼウムスインゼル(博物館島)(ドイツ)やプランタン=モレトゥスの家屋・工房・博物館複合体(ベルギー)など、博物館それ自体に価値がある場合には、登録された例がある。
- ^ 世界遺産検定事務局 2016aでは、「シリアル・ノミネーション・サイト(連続性のある資産)」と呼ばれている(pp.35-36)。「シリアル・ノミネーション」それ自体は、関連性のある資産をひとまとめに推薦することを指す(西村 & 本中 2017, pp. 115-116)。
- ^ 世界遺産条約における「遺跡」の原語は site であり、これは考古遺跡よりも指し示す範囲が広く、実際、自然遺産の登録地にも同じ語が使われるなどしているため、「場所」と訳している専門家もいる(稲葉 2016, pp. 4-5)。
- ^ 「国境を越える世界遺産」(日本ユネスコ協会連盟 2009, pp. 13-27)、「越境遺産」(講談社 2012, p. 32)、「トランスバウンダリー・サイト」(世界遺産検定事務局 2016a, p. 36)などとも呼ばれる。
- ^ 正式名称は後述を参照のこと。
- ^ OUVという略称は、世界遺産委員会でも公式に通用する略語である(稲葉 2007b, p. 24)。
- ^ 2005年に決定した基準が2007年からの適用となったのは、2006年の審議予定の物件は、2005年の新基準確定前に推薦されていたからである(日本ユネスコ協会連盟 2006, p. 49)。
- ^ この統合の際に、ハワイ火山国立公園が旧自然基準 (2)=新基準 (9) から新基準 (8) に差し替えになるなど、自然遺産19件について適用する基準の変更が行われた(稲葉 2007a, p. 51)。
- ^ 基準の統一に伴って、基準の題名自体が「世界遺産登録のための基準」から「顕著な普遍的価値評価のための基準」へと変更されており、前者を「登録基準」、後者を「評価基準」と訳し分けている文献もある (西村 & 本中 2017, p. 22)。その一方、東京文化財研究所 2017のように、2005年以降のものも「登録基準」と呼んでいる文献もある。
- ^ もともと、1994年(原爆ドームの登録前)の時点で「委員会は(中略)極めて例外的な場合、または他の文化遺産または自然遺産の基準と関連している場合に限られるべきであると見なしている」(稲葉 1995, p. 24) という条件はあったので、条件そのものが初めて追加されたのではなく、非常に厳しいものへと変更されたということである。
- ^ ロベン島に対し、諮問機関は基準 (6) 単独での登録を勧告した。しかし、厳しい条件との兼ね合いで単独適用を避けたい委員会は、諮問機関が反対していた基準 (3) も強引に適用することで、(3) と(6) での登録という形に落ち着かせた (稲葉 2011, p. 17)。
- ^ 日本ユネスコ協会連盟 2016(pp.28, 37) は同様の区分を踏襲しているが、世界遺産検定事務局 2016a(p.37) では訳し分けずにどちらも「緩衝地帯」で統一している。
- ^ a b この緩衝地帯の外側の周辺環境を「より広範な周辺環境」(wider setting) と呼ぶ(東京文化財研究所 2017, p. 109)。
- ^ a b Advisory Body を西村 & 本中 2017や東京文化財研究所 2017などは「諮問機関」と翻訳しているが、「助言機関」と訳す文献もある(稲葉 2017)。
- ^ 不登録時と異なる評価基準に基づくなどして、新規に推薦することは認められている(「作業指針」第158段落)(東京文化財研究所 2017, p. 86)。
- ^ 2012年の閣議決定によって、稼働遺産についてのみは内閣官房の所管と定められ、明治日本の産業革命遺産は内閣官房作成の推薦書が、外務省経由で世界遺産センターに提出された(日本ユネスコ協会連盟 2015, p. 14)。
- ^ 連絡会議があるとはいえ、文化遺産の候補は文化庁、自然遺産の候補は環境省と林野庁が実質的に選定するため、その縦割りな観点が日本に複合遺産がない一因という指摘もある(日本ユネスコ協会連盟 2018, p. 15)。
- ^ 世界遺産委員会が毎年12月に行われていた時は、前年7月1日が締め切りになっていた(D・オルドリ, R・スシエ & L・ヴィラール 2005, p. 71)
- ^ 世界遺産委員会の諮問機関と定められているのはICOMOS、IUCN およびICCROMのみである(東京文化財研究所 2017, pp. 14-15)。
- ^ rapporteur はそのままカタカナで「ラポルトゥール」と書かれることもあり、カッコ書きで「全体書記」(東京文化財研究所 2017, p. 27)、「書記」(日本ユネスコ協会連盟 2000, p. 51)などと併記される。世界遺産検定事務局 2016aや鈴木 2017のように、カタカナを使わずに「書記」「書記国」と表記する例もある。
- ^ この登録は、アメリカが反対する中で投票に持ち込まれ、賛成14票で登録が決まったものだった(稲葉 2017, p. 40)。
- ^ a b c d 4種の決議の英語は東京文化財研究所 2017に従って、動詞(句)で示した。西村 & 本中 2017 (p.39) のように、inscription / referral / deferral / not to inscribe と名詞(句)で示している場合もある。
- ^ 日本の推薦で最初に「登録延期」『勧告』が出たのは石見銀山遺跡とその文化的景観だったが、こちらは委員会審議で逆転登録を果たしていた。
- ^ 複合遺産として推薦され、自然遺産として「不登録」勧告を受けたものの、文化遺産として「登録」勧告を受けた1件を除く。
- ^ 世界遺産登録名は英語とフランス語だが、翻訳を交えずに現地語をそのまま利用する事例もまま見られる。Ħal Saflieni Hypogeum(マルタ)、Himeji-jo(日本)、Kizhi Pogost(ロシア)など。
- ^ スペインとフランスで共有している「ピレネー山脈のモン・ペルデュ」などは、スペイン、フランス双方に各1件として加算している。
- ^ 20世紀遺産と近代遺産は、全てが重なるわけではないという指摘もある(西村 & 本中 2017, p. 169)。
- ^ ただし、ユネスコ内部では上限に関する議論も存在するといい、第8代ユネスコ事務局長松浦晃一郎は、モニタリングの制約などから、現実的に設定される可能性のある数字としては、1,500や2,000という数字を挙げていた(松浦 2008, pp. 286-293)。
- ^ 過去に登録延期された物件の再審議や拡大登録の審議は含まない(七海 2006, p. 23)。また、未保有国は2件以上の推薦が可能(田中 2009, p. 8)。
- ^ ほかのピラミッド群も含み、正式登録名は「メンフィスとその墓地遺跡 - ギーザからダハシュールまでのピラミッド地帯」。
- ^ ダ・ヴィンチのこの作品は、聖堂に描かれた壁画(不動産)なので登録対象となる。他の要素も含み、正式登録名は「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」である。
- ^ パナマの世界遺産であるダリエン国立公園は、ロス・カティオス国立公園と境界を接している。
- ^ 2007年までの登録物件については、『21世紀世界遺産の旅』(小学館、2007年)に、外務省の退避勧告などの有無も含め、各物件へのアクセス情報が記載されている。
- ^ このような参加者の規模拡大は費用の高騰にも繋がる。2010年代半ばには1回の開催費用が4000万USDを超えるとされ、第41回世界遺産委員会の会期中に次回の開催地が決まらないという事態を招いた((鈴木 2017, p. 38))。
- ^ ほかに、日本の人間国宝の考え方から、ユネスコのの概念が生まれた(D・オルドリ, R・スシエ & L・ヴィラール 2005, p. 127 ; 西村 & 本中 2017, p. 261)。
出典
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- ^ 松浦 2008
- ^ 西村 & 本中 2017, pp. 2-3
- ^ 西村 & 本中 2017, pp. 3-5
- ^ 西村 & 本中 2017, pp. 4-5。条文は外務省の国際連合教育科学文化機関憲章からの引用だが、「注釈」部分は本項目で追加したものである。
- ^ a b c d 西村 & 本中 2017, p. 13
- ^ 西村 & 本中 2017, pp. 5, 11-13
- ^ 松浦 2008, pp. 67-69
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- ^ 松浦 2008, p. 72
- ^ 松浦 2008, p. 73
- ^ 西村 & 本中 2017, pp. 14-15
- ^ 西村 & 本中 2017, p. 15。なお、やや簡略な形では松浦 2008, p. 74でも紹介されている。
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- ユネスコの世界遺産一覧表(英語)
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世界遺産年報
『世界遺産年報』(旧題『ユネスコ世界遺産』、『ユネスコ世界遺産年報』)はユネスコの公式な刊行物ではないが、この記事で参照している数が多いので、見易さを考慮して、別に扱う。初期は雑誌扱い、後に書籍扱いとなった。なお、年報所収の論説や特集記事は、この記事で直接出典としたものしか挙げていない。
- 編 『ユネスコ世界遺産1995』 日本ユネスコ協会連盟、1996年。ISSN 1341-805X。
- 日本ユネスコ協会連盟編 『ユネスコ世界遺産1996』 日本ユネスコ協会連盟、1997年。ISSN 1341-805X。
- 日本ユネスコ協会連盟編 『ユネスコ世界遺産年報1997-1998』 芸術新聞社、1998年。ISBN 4-87586-238-5。
- P・H・C・ルーカス 「ユネスコと自然遺産保護の歴史」 『ユネスコ世界遺産年報1997-1998』、1998年、22-27頁。
- 日本ユネスコ協会連盟編 『ユネスコ世界遺産年報1999』 光村図書出版、1999年。ISBN 4-89528-093-4。
- 日本ユネスコ協会連盟編 『ユネスコ世界遺産年報2000』 平凡社、2000年。ISBN 4582714021。
- 日本ユネスコ協会連盟編 『ユネスコ世界遺産年報2001』 平凡社、2001年。ISBN 4-582-71403-X。
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- 日本ユネスコ協会連盟編 『ユネスコ世界遺産年報2006』 平凡社、2006年。ISBN 4582714080。
- 矢野和之 「世界遺産、白川郷・五箇山の合掌造り集落の現状と課題」 『世界遺産年報2006』、2006年、40-42頁。
- 日本ユネスコ協会連盟編 『世界遺産年報2007』 日経ナショナル ジオグラフィック社、2007年。ISBN 9784931450882。
- フンク・カロリン 「景観の危機」 『世界遺産年報2007』、2007年、38-41頁。
- 稲葉信子 「第30回世界遺産委員会ニュース」 『世界遺産年報2007』、2007a、50-51頁。
- 日本ユネスコ協会連盟編 『世界遺産年報2008』 日経ナショナル ジオグラフィック社、2008年。ISBN 9784863130210。
- 稲葉信子 「第31回世界遺産委員会ニュース」 『世界遺産年報2008』、2008a、37-39頁。
- アーサー・ペデルセン 「世界遺産と観光」 『世界遺産年報2008』、2008年、40-43頁。
- 日本ユネスコ協会連盟編 『世界遺産年報2009』 日経ナショナル ジオグラフィック社、2009年。ISBN 9784863130623。
- 工藤父母道 「国境を越える自然遺産」 『世界遺産年報2009』、2009年、22-27頁。
- 西村幸夫 「暫定リストの近況」 『世界遺産年報2009』、2009年、37頁。
- 稲葉信子 「第32回世界遺産委員会ニュース」 『世界遺産年報2009』、2009年、38-40頁。
- 日本ユネスコ協会連盟編 『世界遺産年報2010』 東京書籍、2010年。ISBN 9784487804375。
- 松浦晃一郎; 西村幸夫 「特別対談 世界遺産とともに歩んで ― 在任10年の成果と今後の課題」 『世界遺産年報2010』、2010年、14-24頁。
- 稲葉信子 「第33回世界遺産委員会ニュース」「シリアル・ノミネーションとは何か」 『世界遺産年報2010』、2010年、33-37頁。
- 日本ユネスコ協会連盟編 『世界遺産年報2011』 東京書籍、2011年。ISBN 9784487805181。
- 稲葉信子 「『負の世界遺産』という言葉から考えること」「第34回世界遺産委員会ニュース」」 『世界遺産年報2011』、2011年、15-18, 38-40頁。
- 岡田保良 「『関連性』-世界遺産登録にあたっての評価基準(vi)をめぐって」 『世界遺産年報2011』、2011年、19-21頁。
- 米田久美子 「登録範囲の軽微な変更の申請をめぐって」 『世界遺産年報2011』、2011年、41頁。
- 日本ユネスコ協会連盟編 『世界遺産年報2012』 東京書籍、2012年。ISBN 978-4-487-80608-9。
- 吉田正人 「第35回世界遺産委員会ニュース」 『世界遺産年報2012』 、26-27頁、2012a。
- 日本ユネスコ協会連盟 『世界遺産年報2013』 朝日新聞出版、2013年2月28日。ISBN 978-4-02-272433-5。
- 稲葉信子 「第36回世界遺産委員会報告」 『世界遺産年報2013』、2013a、22-23頁。
- 日本ユネスコ協会連盟 『世界遺産年報2014』 朝日新聞出版、2013年12月30日。ISBN 978-4-02-272445-8。
- 稲葉信子 「第37回世界遺産委員会報告」 『世界遺産年報2014』 、32-33頁、2013b。
- 日本ユネスコ協会連盟 『世界遺産年報2015』 講談社、2014年。ISBN 978-4-06-389841-5。
- 日本ユネスコ協会連盟編 『世界遺産年報2016』 講談社、2015年。ISBN 978-4-06-389912-2。
- 黒津高行 「大地震がもたらした『カトマンズの谷』の危機」 『世界遺産年報2016』、2015年、18頁。
- 二神葉子 「第39回世界遺産委員会ニュース」 『世界遺産年報2016』、2015年、32-33頁。
- 米田久美子 「第39回世界遺産委員会における自然遺産」 『世界遺産年報2016』、2015年、33頁。
- 日本ユネスコ協会連盟 『世界遺産年報2017』 講談社、2016年。ISBN 978-4-06-389977-1。
- シェリダン・バーク 「近代遺産と世界遺産」 『世界遺産年報2017』、2016年、16-17頁。
- 二神葉子 「第40回世界遺産委員会ニュース」 『世界遺産年報2017』、2016年、30-31頁。
- 米田久美子 「第40回世界遺産委員会における自然遺産」 『世界遺産年報2017』、2016年、31頁。
- 日本ユネスコ協会連盟 『世界遺産年報2018』 講談社、2018年。ISBN 978-4-06-509599-7。
- 二神葉子(取材協力) 「第41回世界遺産委員会ニュース」 『世界遺産年報2018』、2018年、28-29頁。
- 米田久美子 「第41回世界遺産委員会における自然遺産」 『世界遺産年報2018』、2018年、29頁。
単行本
- D・オドルリ; R・スシエ; L・ヴィラール、水嶋英治訳 『世界遺産』 白水社〈文庫クセジュ〉、2005年。ISBN 4-560-50888-7。
- 秋道智彌編 『水と世界遺産 - 景観・環境・暮らしをめぐって』 小学館、2007年。ISBN 978-4-09-387715-2。
- 『日本の近代化遺産』 岩波書店〈岩波新書〉、2000年。ISBN 4-00-430695-7。
- 樺山紘一(日本語版監修) 『世界記憶遺産百科』 、2014年。ISBN 978-4-86498-017-3。
- 木曽功 『世界遺産ビジネス』 小学館〈小学館新書〉、2015年。ISBN 9784098252473。
- 講談社編 『新訂版 世界遺産なるほど地図帳』 講談社、2012年。ISBN 978-4-06-217604-0。
- 佐滝剛弘 『旅する前の「世界遺産」』 文藝春秋〈文春新書〉、2006年。ISBN 4-16-660503-8。
- 佐滝剛弘 『「世界遺産」の真実 - 過剰な期待、大いなる誤解』 祥伝社〈祥伝社新書〉、2009年。ISBN 978-4-396-11185-4。
- 佐藤信編 『世界遺産と歴史学』 山川出版社〈史学会シンポジウム叢書〉、2005年。ISBN 4-634-52351-5。
- 鈴木正崇編 『アジアの文化遺産 - 過去・現在・未来』 慶應義塾大学出版会、2015年。ISBN 978-4-7664-2235-1。
- 稲葉信子 「世界遺産条約の課題とこれからの遺産アプローチ」、鈴木編 『アジアの文化遺産 - 過去・現在・未来』、2015年、1-32頁。
- 藤木庸介 「エスニックツーリズムと文化遺産 - 麗江とタナ・トラジャ」、鈴木編 『アジアの文化遺産 - 過去・現在・未来』、2015年、223-268頁。
- 朴原模 「韓国の無形遺産保護政策の成立と展開」、鈴木編 『アジアの文化遺産 - 過去・現在・未来』、2015年、1-32頁。
- 岩本通弥 「無形遺産条約と日韓の文化財保護法 - その対応の相違」、鈴木編 『アジアの文化遺産 - 過去・現在・未来』、2015年、387-414頁。
- 世界遺産検定事務局 『すべてがわかる世界遺産大事典〈上〉』 マイナビ出版、2016年。ISBN 978-4-8399-5811-4。(世界遺産アカデミー監修、2016a)
- 世界遺産検定事務局 『すべてがわかる世界遺産大事典〈下〉』 マイナビ出版、2016年。ISBN 978-4-8399-5812-1。(世界遺産アカデミー監修、2016b)
- 世界遺産検定事務局 『くわしく学ぶ世界遺産300』 マイナビ出版、2017年。ISBN 978-4-8399-6243-2。(世界遺産アカデミー監修)
- 東京文化財研究所 『世界遺産用語集 改訂版』 東京文化財研究所、2017年。ISBN 978-4-901794-47-3。
- 中村俊介 『世界遺産が消えてゆく』 千倉書房、2006年。ISBN 4-8051-0871-1。
- 奈良大学文学部世界遺産を考える会編 『世界遺産学を学ぶ人のために』 世界思想社、2000年。ISBN 4-7907-0842-X。
- 西村幸夫; 編 『世界文化遺産の思想』 東京大学出版会、2017年。ISBN 978-4-13-023074-2。
- 日高健一郎(監修) 『入門 おとなの世界遺産ドリル』 ダイヤモンド・ビッグ社(発行)・ダイヤモンド社(発売)、2006年。ISBN 4-478-07968-4。
- プレック研究所 『第40回世界遺産委員会審議調査研究事業について』 プレック研究所、2017年 。
- 松浦晃一郎 『世界遺産―ユネスコ事務局長は訴える』 講談社、2008年。ISBN 978-4-06-214748-4。
- 安江則子編 『世界遺産学への招待』 法律文化社、2011年。ISBN 978-4-589-03345-1。
- 吉田正人 『世界自然遺産と生物多様性保全』 地人書館、2012b。ISBN 978-4-8052-0854-0。
紀要・雑誌論文等
- Leon Schmidt 「ヨーロッパにおける世界遺産教育」 『世界遺産学研究』 1号 筑波大学、7-10頁、2015年。
- ウィリアム・アンダーヒル 「輝かしい世界遺産の不都合な真実」 『ニューズウィーク日本版』 1464号、24-29頁、2015年9月22日。
- ジョシュア・キーティング 「『今さら感』が漂うアメリカのユネスコ脱退」 『ニューズウィーク日本版』 1567号、10頁、2017年10月24日。
- 石澤良昭 「世界遺産学の構築に向けて―文理融合を地球レベルで考えていく―」 『電気学会誌』 125巻12号、745頁、2005年。
- 稲葉信子 「文化遺産の新しい枠組みと奈良会議の意義 - 第18回世界遺産委員会に出席して」 『月刊文化財』 377号、21-27頁、1995年。
- 稲葉信子 「『顕著な普遍的価値』をめぐる議論について」 『月刊文化財』 529号、24-27頁、2007b。
- 稲葉信子 「顕著な普遍的価値とは何か」 『月刊文化財』 541号、22-25頁、2008b。
- 稲葉信子 「世界遺産条約の現状と今後」 『月刊文化財』 580号、23-26頁、2012年。
- 稲葉信子 「世界遺産条約の今後 - 未来の遺産概念の構築に向けて」 『世界遺産学研究』 2号 筑波大学、1-8頁、2016年。
- 稲葉信子 「近年の世界遺産の傾向」 『月刊文化財』 651号、39-45頁、2017年。
- 加治宏基 「中国のユネスコ世界遺産政策-文化外交にみる「和諧」のインパクト」 『中国21』 29巻 風媒社、183-202頁、2008年。
- 加治宏基 「中国の世界遺産政策にみる政治的境界と文化実体への国際的承認」、; 編 『民主と両岸関係についての東アジアの観点』 東方書店、2014年、179-194頁。ISBN 978-4-497-21403-4。
- 河上夏織 「世界遺産条約のグローバル戦略を巡る議論とそれに伴う顕著な普遍的価値の解釈の質的変容」 『外務省調査月報(2008年度)』 1号、1-24頁、2008年。
- 下田一太 「第40回世界遺産委員会の概要」 『月刊文化財』 640号、29-34頁、2017年。
- 下間久美子 「登録審議にみる世界遺産の課題」 『月刊文化財』 496号、20-25頁、2005年。
- 鈴木地平 「新規記載(文化遺産)にかかる審議とその傾向」 『月刊文化財』 541号、16-21頁、2008年。
- 鈴木地平 「第41回世界遺産委員会の概要」 『月刊文化財』 651号、33-38頁、2017年。
- 田中俊徳 「世界遺産条約におけるグローバル・ストラテジーの運用と課題」 『人間と環境』 35巻1号 日本環境学会、3-13頁、2009年。
- 七海由美子 「世界遺産の代表性」 『外務省調査月報』 1巻、1-34頁、2006年。
- 西和彦 「第35回世界遺産委員会の概要」 『月刊文化財』 580号、10-14頁、2012年。
- 西和彦 「第36回世界遺産委員会の概要」 『月刊文化財』 590号、47-51頁、2012年。
- 西和彦 「第38回世界遺産委員会の概要」 『月刊文化財』 614号、41-44頁、2014年。
- 西谷正 「世界文化遺産に登録された高句麗の遺跡」 『高句麗壁画古墳』 共同通信社、2005年、18-23頁。(2005b)
- 古田陽久 「世界遺産の現状と課題 - 世界遺産教育の重要性」 『サイバー大学紀要』 1号、149-170頁、2009年。
- 文化庁記念物課世界文化遺産室 「世界遺産条約採択40周年記念最終会合および成果文書『京都ビジョン』について」 『月刊文化財』 595号、6-13頁、2013年。
- 前川祐補 「時には銃弾や政争を招く」「保全という理念に立ち戻るとき」 『ニューズウィーク日本版』 1464号、31-34頁、2015年9月22日。
- 松浦晃一郎; 東郷和彦; 五十嵐敬喜 「ユネスコ『世界記憶遺産』を考える - 文化と政治のはざまで」 『世界』 878号、225-236頁、2016年。
- 宗田好史 「世界遺産条約のめざすもの - ICOMOS(国際記念物遺跡会議)の議論から」 『環境社会学研究』 12巻 環境社会学会、5-22頁、2006年。
- 本中眞 「世界遺産をめぐる議論のゆくえ-第28回世界遺産委員会に参加して」 『月刊文化財』 496号、12-19頁、2005年。
- 渡邊明義 「オーセンティシティと日本の文化財保護」 『月刊文化財』 377号、4-9頁、1995年。
関連項目
- 水中文化遺産保護条約
- 文化財の不法な輸入、輸出及び所有権移転を禁止し及び防止する手段に関する条約
- 天文遺産
- 公海の世界遺産
- 文化遺産における知的財産権問題プロジェクト
- 世界遺産と博物館
- ヘリテージツーリズム
- ナショナル・トラスト
- ワールド・モニュメント財団
- Category:各国の文化遺産保護制度
外部リンク
- 公益社団法人日本ユネスコ協会連盟 - 世界遺産活動・未来遺産運動
- 文化財学科 - 奈良大学 文学部
- 筑波大学 世界遺産学学位プログラム - 筑波大学大学院 人間総合科学研究科
- 『世界遺産』 - コトバンク