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📚| 『燃えよ剣』司馬遼太郎×『墨攻』森秀樹!! 幕末期を彩った最強剣客集団の軌跡をコミカライズ。…


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『燃えよ剣』司馬遼太郎×『墨攻』森秀樹!! 幕末期を彩った最強剣客集団の軌跡をコミカライズ。…

 
内容をざっくり書くと
「芹沢鴨の暗殺」は、新選組の筆頭局長となった剣豪・芹沢鴨が、その粗暴で傍若無人な振る舞いが災いして、近藤勇や土方歳三らによって謀殺されるまでを描きます。
 

株式会社文藝春秋コミック編集部は文春時代コミックス『新選組血風録(一)』(原作・司馬遼太郎、作画・森… →このまま続きを読む

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土方歳三

土方 歳三(ひじかた としぞう、天保6年5月5日1835年5月31日〉- 明治2年5月11日1869年6月20日〉)は、幕末期の幕臣新選組副長。蝦夷島政府陸軍奉行並。 は義豊、雅号は豊玉、家紋左三つ巴

新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷島政府」では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執った。明治2年5月11日(1869年6月20日)、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭の防衛戦で戦死。

生涯

多摩・試衛場

天保6年(1835年)、武州武蔵国多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)に農家の土方義諄(隼人)と恵津の間に生まれる。10人兄弟の末っ子であった。土方家は「お大尽(だいじん)」と呼ばれる多摩豪農であったが、父は歳三の生まれる3か月前の2月5日結核で亡くなっており、母も歳三が6歳のときの天保11年7月1日()に結核で亡くなっている。また長兄の為次郎はのため、次兄のが家督を継ぎ隼人を襲名、その妻・なかによって養育された。生家には、歳三が少年のころに「我、壮年武人と成りて、天下に名を上げん」と言って植えたという「矢竹」がある。

これまで[いつ?]、11歳のときに江戸上野の「松坂屋いとう呉服店」(現・松坂屋上野店)へ奉公に上がり、すぐに番頭と喧嘩をして郷里に戻ってきたと伝えられていたが、近年[いつ?]発表された石田村の人別帳控により、数え年11歳のときは石田村に在住しており、奉公には出ていないことが判明した。欠損もあるが、この人別帳から、歳三が奉公に出ていたのは数えで14歳〜24歳の10年間と考えられるようになった。また17歳のときに松坂屋上野店の支店である江戸伝馬町木綿問屋(上野店の鶴店に対し、亀店(かめだな)と称された)に奉公に上がり、そこで働いていた年上の女性を妊娠させてしまうといった問題を起こして(番頭衆道関係を迫られたとも言われる)郷里に戻ったという説もあるが、前述の人別帳の存在から現在ではその信憑性が疑問視されており、どこへ奉公していたかは詳しく判明していない[1]

その後、歳三は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の剣術道場で試合を重ね、修行を積んだ。

姉・らんは姉弟の従兄弟でもある日野宿名主佐藤彦五郎に嫁いでおり、歳三も彦五郎宅にはよく出入りしていたと言われる。彦五郎は大火に乗じて祖母を目の前で殺害され、周囲や自らの身の危険を感じたことを契機に井上源三郎の兄・井上松五郎の勧めで天然理心流に入門し、自宅の一角に道場を開いていた。そんな縁から彦五郎は試衛館近藤勇と義兄弟の契りを結んでおり、天然理心流を支援した。

歳三はその稽古場に指導に来ていた近藤と出会い、安政6年(1859年3月29日、天然理心流に正式入門している。文久元年(1861年)、近藤が天然理心流4代目宗家に襲名。記念に紅白の野試合が催され、歳三は紅組の大将を守る役で出場した。

文久3年(1863年2月、試衛館の仲間とともに、江戸幕府第14代将軍徳川家茂警護のための浪士組に応募し、京都へ赴く。

新選組副長

文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変後、壬生浪士組(正式な名称ではない)の活躍が認められて新選組が発足。その後、新見錦切腹(最期については諸説あり)。芹沢鴨も土方らによると見られる暗殺で横死し、権力を握った近藤が局長となった。歳三は副長の地位に就き、近藤の右腕として京都の治安維持等にあたった。新選組は副長助勤監察など職務ごとに系統的な組織作りがなされ、頂点は局長であるが、実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされる。

元治元年(1864年6月5日池田屋事件の際は、半隊を率いて長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して回ったが、こちらは誰もいなかった。すぐさま池田屋の応援に駆けつけたが、ただちに突入せずに池田屋の周りを固めた。池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、天下に新選組の勇名が轟いた。さらに幕府から、近藤を与力上席、隊士を与力とする内示があったが、その時は実現には至らなかった。

その後、副長の山南敬助を総長に据え、副長は土方1人となる。後に山南が脱隊して切腹となった事件では、土方との対立があったとされるが、「水の北 山の南や 春の月」のを山南にあてたものとし、これには土方の好きな「春の月」が入っている為、山の南=山南とされて仲のよかったとする説もある。その後も隊の規律を守るために河合耆三郎谷三十郎武田観柳斎らを切腹あるいは斬殺させたとされる事もあるが、谷と武田に関しては死因の詳細は不明であり、隊規との関連性も判明していない。伊東甲子太郎が分離結成した御陵衛士間者として斎藤一を送るなどして近藤暗殺計画を未然に防ぎ、伊東、藤堂平助を暗殺して御陵衛士を壊滅させた(油小路事件。御陵衛士および伊東、斎藤に関しては異説あり)。

戊辰戦争

慶応3年(1867年6月、幕臣に取り立てられる。しかし同年10月14日徳川慶喜が将軍職を辞した(大政奉還)。12月9日王政復古の大号令が発せられるに至り、江戸幕府は事実上終焉した。慶応4年(1868年1月3日鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、歳三はで負傷した近藤の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の攻勢の前に敗北する。その後、江戸城に登城した歳三は、佐倉藩江戸留守居役の依田学海に戦況を尋ねられると、「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語り、洋式軍備の必要性を痛感したとされる[2]。もっとも、歳三は鳥羽・伏見の戦いで敗北する以前の文久3年にはすでに壬生寺の境内において銃や大砲の洋式訓練を行っており、その年の八月十八日の政変では実際に銃を使用し、果敢に長州勢を打ち払ったという記述も存在する。

鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍が大坂から江戸へ撤退したあと、近藤は大久保剛、歳三は内藤隼人と偽名を名乗り、新撰組を「甲陽鎮撫隊」に改名して甲斐国に向かう。しかし3月6日甲州勝沼の戦いにて大敗。歳三は戦争前に急ぎ援軍要請へ向かったが成功しなかった。その後、流山で再起を図っていたが、4月3日、新政府軍に包囲された近藤が大久保大和と名を偽り投降。このとき、歳三が近藤の切腹を止めて投降を勧めたと言われている。歳三は江戸へ向かい、勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願したが実現せず、慶応4年(1868年)4月25日、近藤は板橋刑場にて斬首に処せられた。

近藤投降後、助命嘆願のかたわら新選組を斎藤一改め山口二郎に託して会津へ向かわせ、島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流。4月11日江戸開城が成立すると江戸を脱出し、歳三は秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を務めた。下館下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させる。しかし壬生の戦いに敗れ、新政府軍と宇都宮で再戦した際に足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送されることとなった。会津で約3か月間の療養生活を送り、この間に近藤の墓を天寧寺内に建てたと言われる。

全快して戦線に復帰したあとは、その指揮を山口二郎に委ね、山口の支援をしつつ会津の防戦に尽力するが、8月母成峠の戦いの敗戦に伴い会津戦争が激化。歳三は援軍を求めて庄内藩に向かうが、すでに新政府軍への恭順に転じていた庄内藩においては入城さえ叶わなかった。歳三は会津から仙台藩へ向かうことを決めた。同じように戦列を離れた大鳥に対して、山口らは会津藩に忠誠を尽くすべきだと訴えたということが、箱館戦争後に現在の青森県で記録された古文書にある。土方は、会津藩領では新選組に復帰してはいなかった。そして、城下に残る山口らと、仙台へ天寧寺から離脱した隊士たちとに新選組は分裂する。

仙台に至り、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。榎本とともに奥羽越列藩同盟の軍議に参加した。まもなく奥羽越列藩同盟が崩壊し、同盟藩が次々と新政府軍に降伏したあとは、新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて太江丸に乗船し、榎本らとともに10月12日仙台折浜(現宮城県石巻市折浜)を出航し、蝦夷地に渡った。

箱館戦争と死

10月20日、蝦夷地鷲ノ木に上陸後、歳三は間道軍総督となり五稜郭へ向かった。新選組は総督大鳥圭介のもとで本道を進んだが、歳三には島田魁ら数名の新選組隊士が常に従っていたという。

箱館・五稜郭を占領後、歳三は額兵隊などを率いて松前へ進軍して松前城を陥落させ、残兵を江差まで追撃した。このとき、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、軍艦「開陽丸」で江差沖へ向かったが、暴風雨に遭い座礁。江差に上陸して開陽丸の沈没していく姿を見守っていた榎本と歳三は、そばにあった松の木を叩いて嘆き合ったと言われ、今でもその「嘆きの松」が残っている。

江差を無事占領した歳三は、松前城へ一度戻り、12月15日に榎本が各国領事を招待して催した蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋した。

その後、幹部を決定する選挙が行われ、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立し、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。箱館の地でも歳三は冷静だったという。箱館政府が樹立され、榎本らが祝杯を交わしている時も歳三は1人沈黙を保ち、「今は酒を飲み浮かれるときではない」と言っていたとされる。

1月から2月にかけては箱館・五稜郭の整備にあたり、3月には新政府軍襲来の情報が入ったため、歳三は新政府軍の甲鉄艦奪取を目的とした宮古湾海戦に参加。しかし作戦は不運続きで失敗。多数の死傷者が出るも、歳三は生還する。

明治2年(1869年4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦する。その戦闘中に新政府軍はを鳴らし、包囲したと思わせる戦術をとった。これに土方軍の将兵は動揺したが、歳三は「本当に包囲しようとするなら、音を隠し気づかれないようにする」と冷静に状況を判断し、部下を落ち着かせた。また、戦いの合間に、歳三は部下たちに自ら酒を振る舞って回った。そして「酔って軍律を乱してもらっては困るので皆一杯だけだ」と言ったため、部下は笑って了承したという。土方軍が死守していた二股口は連戦連勝したが、もう一方の松前口が破られ、包囲される危険性があった為、やむなく撤退、五稜郭へ帰還した。

明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立、歳三は救出のためわずかな兵を率いて出陣。箱館港にて「蟠竜丸」が新政府軍艦「朝陽丸」を撃沈したのを見て「この機失するべからず」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役大野右仲に命じて敗走してくる味方を押し出し、「我この柵にありて、退く者を斬らん」と宣告した。歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。馬上で指揮を執った。

最期については諸説あるが、歳三は乱戦の最中に腹部に被弾、落馬したとされる。彼の命令によって台場方面に進軍していた大野率いる兵士らは、一時勢力を盛り返していたが、必死の指揮も空しく総崩れとなった。彼がやむを得ず引き返したところ、同じく陸軍奉行添役の安富才助から歳三が撃たれたことを知らされたという。大野は急いで駆けつけたが、彼は既に絶命していたとされる。

歳三の遺体は小芝長之助らに運ばれ、ほかの戦死者とともに五稜郭内(一本松の土饅頭)に埋葬された説があるが、別の場所の説もあり未だに埋葬場所は確定していない。享年35(満34)。奇しくも盟友・近藤と同じ享年であった。榎本軍が降伏したのはその6日後のことだった。

辞世は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」。「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」とも伝わっていたが、島田がまとめたとされる和歌集の巻頭歌「鉾とりて月見るごとにおもふ哉あすはかばねの上に照かと」が、土方の辞世と考えられるとの説を、霊山歴史館のが述べている[3]

墓所や慰霊碑が以下の各地にある。

歳三が銃弾に倒れたと伝わる一本木関門跡に近い若松緑地公園には、「土方歳三最期の地碑」が建つ。

剣術の実力

天然理心流試衛館に入門した翌年の万延元年(1860年)に刊行された『』(江戸を除く関東地方の剣術家名鑑)に土方歳三の名が掲載されており、すでに一定の実力に達していたことが窺える。ただし、天然理心流道場では歳三は中極位目録までの記録しか現存していない。しかし、路上での実戦では滅法強かったと言われている。斬り合いのとき、足下の砂を相手にぶつけてひるんだ隙に斬り伏せたり首を絞めて絞殺したりなど、剣術修行の型にとらわれず縦横無尽に戦闘をしていたという。実際に戦地でも常に最前線で戦い、多数の修羅場を体験しながらも剣戟で斬殺されてはいないことからも、相当な実力を誇っていたと見られる。[要出典]

真紅の面紐に塗りの皮胴など洒落た防具を使用していたという[4]高幡不動の境内をよく稽古場所として使っていたともいわれる。新選組が屯所としていた八木邸のの述懐によれば、新選組の剣術稽古で、近藤勇や芹沢鴨は高いところに座って見ていることが多かったが、歳三はいつも胴を着けて汗を流しながら指導していたという[2]

逸話

  • 幼少時には風呂から上がると、よく裸のまま家の柱で相撲の稽古をしていたという。その柱は土方歳三資料館に現在でも残っている[5]
  • 幼少期は菩提寺である高幡不動尊の山門から通行人に野鳥の卵を投げつけて遊ぶ等、やんちゃな子供であった。
  • 甥(佐藤彦五郎の三男・為吉)が庭先で転んで額を切ったときにはすぐさま駆けつけて「男の子の向かい傷だ。めでたいめでたい」と笑ってあやしたという[6]
  • のちの洋装の写真などから、歳三は合理主義者で便利なものは便利と受け取る柔軟さを持っており、舶来懐中時計なども持っていたという。また戊辰戦争において、宇都宮城を一時ながら陥落させ、二股口を守備したときには味方が敗走を続けるなかで勝利を重ねるなど、西洋軍学にも理解を示して実践し、成果を上げている。
  • 容姿が良く女性に人気だったために、京都にて新選組副長として活動していたときなどは、日野の親戚に向けて多数の女性からの恋文をまとめて木箱に入れ「つまらぬ物」と書き記し、送って自慢するほどであった。
    • 上洛間もないころ、小島鹿之助へ(一説に近藤道場の弟子たちにとも言われる)宛てに大きな荷物が届く。京土産でも送ってきたかと開けてみると、彼を慕う芸者舞妓からの恋文がびっしり詰められており、「報国の心ころわするゝ婦人哉」という発句が手紙に添えられていたという[7]
  • 宇都宮の戦いで足を負傷していた歳三は、慶応4年(1868年)4月ごろから7月ごろ(異説あり)まで、会津若松城下の宿で病床に伏していた。ある日、同じ宿にいた幕臣で文官のが訪ねてきたが、歳三は寝ころんだまま「俺たちとともに戦え」と言った。その傲慢な態度にムッときた望月は「自分は文官だから戦うことはできない」と拒否。すると歳三は「じゃあお前は何をしにこんな遠くまで来たんだ。臆病者め」と言い放った。望月も黙っておれず「幸いにもあなたたちは宇都宮城を奪ったが、それをすぐに奪われたではないか。再び奪うことはもう難しいだろう。実に惜しいことだ。あなたもまた臆病者と言わざるを得ない」と言い返した。歳三は「うるさい、俺の病床に障る。もう聞きたくない。出て行け」と叫んだため、望月は部屋を去った。このとき歳三は怒りのあまり望月に枕を投げつけたという[8]
  • 江戸で定宿としていたのが幕府御用達釜屋。品川宿の中でも大変賑わっていた茶屋で「慶応三年卯十月廿一日登(上)新撰組土方歳三御家族 門人共上下三十一人(休)釜屋半右衛門 九貫三百文」という記録が残っている。現在、釜屋の跡地(現在の品川区にある青物横丁駅近く)には新選組の記念碑が建てられている。
  • 死の直前に小姓を務めていた市村鉄之助に遺髪と写真を渡し、「日野の家族の元に届けてくれ」と命じる。それに対し市村は「私はこの地で討ち死にする覚悟でやってきました。誰か別の者に命じて下さい」と拒否する。それを聞いた歳三は「断るとあらば、今この場で討ち果たす」と鋭い眼光を向けて言い放った。その歳三の気迫に圧されて市村は首を縦に振った。日野に旅立つとき、市村は窓に人影が写っていることに気づく。「誰かは解りませんでしたが、おそらく(土方)先生だったろう思います」と語り残している。その後、市村は日野宿の佐藤彦五郎の元に遺髪と写真を無事に届けている。
  • 土方歳三資料館に現存する歳三の佩刀・和泉守兼定は刀身2尺3寸1分(70.3cm)が遺されている[9]。この現存する兼定を誰がいつ日野に届けたのかは不明。明確な史料は未だ発見されていない。しかし、上記の手紙が書かれたのは文久3年の10月であるため、このときはまだ会津十一代兼定は和泉守を受領していない。そのため、上記の手紙に書かれている兼定は関二代和泉守兼定ではないかという説もある。また、現在は所在不明であるが刃長28和泉守兼定作の刀も所持していた[9]
  • 歳三の刀はほかにも佐藤彦五郎資料館に葵御紋の越前康継が現存する。甲州勝沼戦後に歳三から佐藤源之助(彦五郎の長男)へ贈られた[10]
  • 和歌俳諧を嗜むなど、風流人の面もあった。書き溜めた句は自らまとめており、『』として残されている。
  • 歳三は箱館戦争後も生き延びたという生存説がある。「箱館降伏図」には、6日前に死んだはずの歳三(降伏は5月17日)の姿が描かれている。他には、ロシアまで落ち延びたという説まである。
  • 沢庵が大好物だったとされており、特に小野路村で剣道場を開いていた小島鹿之助の隣の親戚・橋本家の沢庵がお気に入りで、食事の際には山盛りの沢庵をおいしそうに食べ、あまりにも気に入ったため、そのまま樽ごと担いで帰ったと言われている。

評価

  • 江川太郎左衛門「豪邁不屈、胆気非常の男」[11]
  • 忠介(土方下僕)「知勇兼備の名将とは、土方殿の謂いなるべし。この人をして徳川全盛の時にあらしめば、必ず数十万石の大名となるべきに、惜しむらくは幕末に生まれ、かかる名将もその知勇を発揮する能わず」[12]
  • 「土方氏者中々賢才有之候得共短期成気質」[13]
  • 「年ノ長スル二従ヒ温和ニシテ人ノ帰スル事赤子ノ母ヲ慕フカ如シ」[14]
  • 榎本武揚「入室伹清風」

日野と土方歳三

出身地の東京都日野市は、街を挙げて土方歳三を追悼・顕彰している。市内の高幡不動尊金剛寺は大日堂に位牌が安置され、菩提寺とされている[15]

生家跡は土方歳三資料館となっている[16]

土方歳三の命日(5月11日)に近い5月の第2土・日曜日に「ひの新選組まつり」を開催している[17]。2019年は没後150周年行事を展開している[18]

土方歳三を主人公とした作品

昭和40年代には『新選組血風録』や『燃えよ剣』で栗塚旭が演じて以降、国民的な人気を得た[要出典]

小説

  • 司馬遼太郎燃えよ剣
  • 大内美予子『土方歳三』
  • 広瀬仁紀『土方歳三 散華』1982年
  • 『散華・土方歳三』1989年(後に改訂され『土方歳三 散華』としても出版されている)
  • 北原亞以子『歳三からの伝言』『暗闇から 土方歳三異聞』1995年
  • 中場利一『バラガキ-土方歳三青春譜』 2000年
  • 秋山香乃『歳三往きてまた』2002年
  • 北方謙三『』2002年 上、下
  • 池波正太郎『色』(短編集『炎の武士』収録)
  • 吉岡平『火星の土方歳三』(朝日ソノラマ)2004年
  • 江宮隆之『歳三奔る 新選組最後の戦い』『女たちの新選組 花期花会』
  • 森雅裕『会津斬鉄風』『マンハッタン英雄未満』
  • 辻真先『北辰挽歌 土方歳三 海に戦う』『土方歳三、参る! 幻説五稜郭』
  • 杉山義法『五稜郭』
  • 荒俣宏『新帝都物語 維新国生み篇』
  • 長井彬『函館五稜郭の闇』
  • 合田一道『五稜郭秘史 紅蓮のごとく』
  • 早乙女貢『新選組斬人剣 小説・土方歳三』
  • 『人間 土方歳三 新選組副長秘め語り』
  • 松井永人『土方歳三 北海の剣』
  • 長谷川つとむ『土方歳三見参』
  • 富樫倫太郎『土方歳三』『土方歳三 蝦夷血風録』三部作(『箱館売ります(旧題『箱館売ります 幕末ガルトネル事件異聞』)』『松前の花(旧題『美姫血戦 松前パン屋事始異聞』)』『神威の矢(旧題『殺生石』)』)
  • 童門冬二『土方歳三 物語と史蹟をたずねて』
  • 『土方歳三流転の剣』
  • 星亮一『新選組副長 土方歳三』
  • 森満喜子『新選組青春譜』
  • 岳真也『土方歳三』
  • 藤井邦夫『歳三の首』
  • 『紅の肖像』
  • 五十嵐貴久『相棒』
  • 草森紳一『歳三の写真』
  • 三好徹『土方歳三―戦士の賦』
  • 『ラストヒーロー 最後の武士』
  • 柘植久慶『土方歳三の鬼謀』
  • 『回天の夢 小説土方歳三』
  • 夢枕獏『ヤマンタカ 大菩薩峠血風録』
  • 逢坂剛『アリゾナ無宿』『逆襲の地平線』『果てしなき追跡』
  • 京極夏彦『ヒトごろし』

楽曲

漫画

テレビドラマ

アニメ

ゲーム

デジタルコンテンツ

舞台

  • 宝塚歌劇団『誠の群像』
  • ミュージカル薄桜鬼
  • TEAM NACS第10回公演 LOOSER~失い続けてしまうアルバム』(2004年) 演:大泉洋

脚注

[脚注の使い方]

出典

  1. ^ 日野市立新選組のふるさと歴史館叢書第一輯『特別展 新選組誕生』(日野市)
  2. ^ a b 新・歴史群像シリーズ13『土方歳三』(学習研究社
  3. ^ 『土方歳三辞世に新説「鉾とりて月見るごとに…」』はてなブックマーク/YOMIURI ONLINE(読売新聞)2012年6月15日(水)14時49分
  4. ^ 『剣の達人111人データファイル』(新人物往来社
  5. ^ 『子孫が語る土方歳三』参照
  6. ^ 佐藤昱著 『』
  7. ^ 小島政孝著 『新選組余話』
  8. ^ 望月光蔵著 『夢乃うわ言』および望月始著『告白の告発』
  9. ^ a b 土方歳三と刀 - 刀剣ワールド 2020年1月11日 閲覧
  10. ^ 土方歳三愛刀「越前康継」 デジタルアーカイブシステム(2019年8月7日閲覧)
  11. ^ 『活文字』明26.1
  12. ^ 『近世偉人百話[正編]』国立国会図書館デジタルコレクション
  13. ^ 『新選組金談一件』
  14. ^ 『戦友姿絵』
  15. ^ 高幡と土方歳三 高幡不動尊金剛寺(2019年1月24日閲覧)。
  16. ^ 新選組のふるさと日野 土方歳三資料館 日野市観光協会(2018年11月23日閲覧)。
  17. ^ ひの新選組まつり 日野市観光協会(2019年1月24日閲覧)。
  18. ^ 2019年は土方歳三が箱館(函館)の激戦でその生涯を閉じてから150年 日野市役所(2019年1月24日閲覧)。

参考文献

関連項目

外部リンク

新選組

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 過去の議論
  • 新選組
  • 新撰組

新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)の京都治安維持活動、特に尊攘派志士弾圧活動をした浪士隊である[1][2]

名称について

「選」のは「撰」とも表記されることがあり、「新撰組」と表記された史料もある。新選組の局長近藤勇をはじめ、隊士たちが残した手紙でも両方の字が表記に用いられている[3]。隊の公印が押された文献は「選」の文字が使用されているため、2004年ごろから高校日本史教科書では「新選組」の表記が増えてきている[3]

概要

幕末京都政治の中心地であり、諸から尊王攘夷倒幕運動志士が集まり、従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、清河八郎による献策で浪士組の結成を企図した。

江戸で求人したあと、京に移動した。しかし清河の演説でその本意(後述)を知った近藤勇芹沢鴨らが反発して脱退。 しかし、その思想に意気投合した会津藩・野村左兵衛の進言で京都守護職会津藩主・松平容保の庇護のもと、新撰組として発足した。

同様の配下の京都見廻組幕臣旗本御家人)で構成された正規組織であったのに対して、新選組は(町人農民身分)によって構成された「会津藩預かり」という非正規組織であった。

隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。京都で攘夷派の弾圧にあたった[2][1]商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど内部抗争を繰り返した。

慶応3年(1867年6月幕臣に取り立てられる。翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従い転戦したが、鳥羽・伏見の戦いに敗北したあとは四散し、甲州勝沼において板垣退助率いる迅衝隊に撃破され敗走し解隊[2]。局長の近藤勇は捕らえられ斬首刑に処せられた[1]

歴史

結成

文久2年(1862年)、江戸幕府庄内藩郷士清河八郎の献策を受け入れ、将軍徳川家茂上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。

翌文久3年(1863年)2月、集まった200名あまりの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」として一団を成し、中山道を西上する。浪士取締役には、松平上総介鵜殿鳩翁窪田鎮勝山岡鉄太郎松岡萬中條金之助佐々木只三郎らが任じられた。

京都に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚する。浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。これに対し近藤勇土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張した。

鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄家里次郎に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京都の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱隊した。殿内・家里は排斥され、同年3月公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を結成。一方、江戸に戻ったメンバーは新徴組を結成した。

壬生浪士組は壬生村の八木邸やおよびその周辺の邸宅を屯所とし、第一次の隊士募集を行う。その結果36名あまりの集団となり、京都守護職松平容保から、おもに不逞浪士の取り締まりと市中警備を任される。

4月大坂両替商平野屋五兵衛に100を提供させ、これを元手に隊服隊旗を揃え、隊規の制定にとりかかる。

6月大坂相撲力士と乱闘になり殺傷する。壬生浪士組にも負傷者が出た。奉行所は力士側に非があると判断。力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる。

8月、芹沢鴨ら約30名の隊士が、京都の生糸問屋大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立て放火。刀を抜いて火消を寄せつけず、一晩かけて焼き尽くす。この事件に松平容保は憤り、近藤らを呼び出し処置を命じたとされる。一説として、芹沢および壬生浪士組の関与については否定的な見解が存在する[4]が、浪士組の名を記す風説書が多く残り、焼き打ちを行ったという説もある[5][6]

同月、壬生浪士組は八月十八日の政変の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。隊名は武家伝奏[7] から賜ったという説と、松平容保から賜ったという説の2つがある。後者の説は、会津藩主本陣の警備部隊名を容保からもらったという意味である。

9月、近藤・土方ら試衛館派が八木邸で芹沢鴨、平山五郎を暗殺。平間重助は脱走、野口健司12月切腹。水戸派は一掃され、試衛館派が組を掌握し近藤を頂点とする組織を整備した。

発展

元治元年(1864年6月5日池田屋事件で攘夷派志士を斬殺・捕縛。8月禁門の変の鎮圧に参加した。

池田屋事件と禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩から感状と200両あまりの恩賞を下賜されると、同年9月に第二次の隊士募集を行うこととなった。池田屋事件で新選組の知名度が上がっていたことから土方、斎藤、伊藤、藤堂平助などの幹部が直接江戸へ向かい剣術道場などを訪問し、伊東甲子太郎らの一派を引き入れることに成功、翌年五月に32名で京都に戻ったことが確認されている[8]。これらの活動により新選組は200名まで増強され、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。

長州征伐への参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる小隊制(一番組〜八番組および小荷駄雑具)に改組。「軍中法度」も制定した。しかし新選組に出動の命令はなかった。

慶応3年(1867年3月、伊東甲子太郎らの一派が思想の違いなどから御陵衛士を結成して脱退。同年6月、新選組は幕臣に取り立てられる。同年11月、御陵衛士を襲撃し、伊東らを暗殺する(油小路事件)。

解散

慶応3年(1867年)10月に将軍・徳川慶喜大政奉還を行った。新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加するが、初戦の鳥羽・伏見の戦い新政府軍に敗北。榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へ撤退する。この時期、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、戦力が低下した。

その後、幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改め甲州街道甲府城へ進軍するが、その途中甲州勝沼の戦いにおいて板垣退助率いる迅衝隊に敗退する。ふたたび江戸に戻ったが、方針の違いから永倉新八原田左之助らが離隊して靖兵隊を結成。近藤、土方らは再起をかけて流山へ移動するが、近藤が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司も持病だった肺結核により江戸にて死亡。また、諸事情で江戸に戻った原田は彰義隊に加入し、上野戦争で戦死した(諸説あり)。

新選組は宇都宮城の戦い会津戦争などに参加するが、会津では斎藤一らが離隊し残留。残る隊士たちは蝦夷地へ向かった榎本らに合流し、二股口の戦いなどで活躍する(蝦夷共和国も参照)。新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士たちを助けようと土方ら数名が助けに向かうが、土方が銃弾に当たり戦死し、食料や水も尽きてきたため、新選組は降伏した。旧幕府軍は箱館の五稜郭において新政府軍に降伏した(箱館戦争)。

明治政府は、隊士の遺族らに遺品の所有を禁じた。

評価の変遷

明治時代は、新選組と敵対していた薩長出身者が政治の実権を握っていたことや皇国史観の影響により賊軍となった新選組を否定する風潮が強く史学的な研究が遅れた。また市中で度々騒動を起こし、内部抗争や粛正などが頻発していたことが知れ渡っており、当時を知る者から素行の悪い武装集団というイメージもあった。

大正時代に大佛次郎が著した小説『鞍馬天狗』でも、新選組は悪役として描かれている。ただしこの時代になると講談の影響で庶民からは一定の人気があり、『鞍馬天狗』の中でも近藤勇だけは他の隊士と違って人格者の豪傑として描かれていた。

大正時代に『新選組顛末記』が小樽新聞で連載され、昭和3年(1928年)に『新選組始末記』(子母澤寛)、『』(平尾道雄)が刊行されると、新選組は再評価され始めた。昭和8年(1933年)、警視庁に創設された特別警備隊(現・警視庁機動隊)は、「昭和の新選組」の通称で親しまれた。太平洋戦争中には陸軍で編成された(初代隊長・中佐、第2代隊長・少佐)と、海軍で編成された第三四三海軍航空隊戦闘三〇一飛行隊(隊長・菅野直大尉)も「新選組」と呼称されている。

戦後は、映画やテレビドラマで新選組が主役に扱われることも多くなり、各隊士にもスポットが当てられるようになった。昭和40年代に放送された『新選組血風録』、『燃えよ剣』(司馬遼太郎原作、栗塚旭主演)『壬生義士伝』(浅田次郎原作)は新選組ブームを起こした。

年表

文久3年(1863年)

文久4年、元治元年(1864年)

元治2年、慶応元年(1865年)

慶応2年(1866年)

慶応3年(1867年)

慶応4年、明治元年(1868年)

明治2年(1869年)

実像

入隊資格

年齢や身分による制限はなく、尽忠報国の志がある健康な者であれば入隊できた[11]実技試験もなかった[12][13]。ただし既婚者は妻子を壬生の屯所から10(約40キロ)以上離れた場所に住まわせることが条件とされた。これは、新選組が男の合宿制をとっていること、妻子が近くにいることによって命を惜しむようになることを防ぐためと考えられる。幹部に昇進すれば京都に家を持ち、妻子やを迎えることが許された。

新選組と交流のあった加太邦憲の述懐によれば、入隊後一定期間は「仮同志」という試用期間となっており、先輩隊士が夜に押し込むなどして度胸が試され、このときに臆病なふるまいをした者は追放されたという[14]

任務

京都で活動している不逞浪士倒幕志士捜索捕縛、担当地域の巡察・警備要人警護など、警察活動を任務としていた。

後述する数々のフィクション作品の影響により、浪士を斬りまくった「人斬り集団」とのイメージが強いが、実際には捕縛(生け捕り)を原則としており、犯人が抵抗して捕縛できない場合のみ斬った[15]池田屋事件においても、最初は敵の人数が上回ったため斬る方針で戦ったが、土方隊が到着して新選組が有利になると、方針を捕縛に変えている[16][17]。事件後、近藤勇は「討取七人、疵為負候者四人、召捕二十三人」(7人を殺し、4人に手傷を負わせ、23人を捕縛した)と報告している[18]

新選組の担当地域は祇園伏見であり、御所官庁街会津藩兵1,000名、その周りは京都見廻組500名が固めていた。従来からの京都所司代京都町奉行も治安維持にあたっていた。ほかの組織が管轄を順守していたのに対し、新選組は浪士の逃亡などを理由に管轄破りをすることも少なくなかったといわれる。

映画やテレビドラマでは、新選組が隊旗を先頭に集団で巡回する様子が映されることが多いが、そのような目撃記録はない[19]

訓練

1865年慶応元年)に撃剣柔術文学砲術馬術槍術の各師範を設けた。しかし、どの程度稼働していたのかははっきりしない[20]

局長近藤勇、副長土方歳三、一番隊組長沖田総司ら新選組の代表者が天然理心流試衛館の剣客であったことから、新選組所縁の剣術として天然理心流が有名であるが、ほかの隊士は神道無念流北辰一刀流その他まちまちであり、新選組イコール天然理心流ではない[21]。撃剣師範7名のうち天然理心流は1名(沖田総司)である。流派や入隊時期が異なれば形稽古はできないため、稽古は竹刀打ち込み稽古に限られていた[21]。稽古はかなりの激しさだったらしく、新選組が駐屯していた八木邸のは、打ち倒されて動けなくなっている者をよく見たという。また、近藤勇や芹沢鴨は高いところに座って見ていることが多かったが、土方歳三はいつも胴を着けて汗を流しながら「軽い軽い」などと叱っていたという[22]

戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦い新政府軍に刀で挑んで敗れ、土方が「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語ったこと[23] や、甲州勝沼の戦いで近藤が率いた甲陽鎮撫隊迅衝隊にわずか2時間で敗れた事例などから、白兵戦に特化した集団とのイメージを持たれることが多いが、幕府陸軍にならいフランス式軍事訓練を行っていた。西本願寺境内で大砲小銃の訓練を行い、銃砲の音に迷惑した西本願寺が訓練の中止を求め会津藩に陳情した。その後、壬生寺に訓練場所が移されたが、訓練が参詣人の妨げになり、砲の音響で寺が破損するなどの被害が発生している。

戦術

組織力を強化するため、#役職を設け、指揮命令系統を作り上げた。

戦法は、必ず敵より多い人数で臨み、集団で取り囲んで襲撃するものであった。たとえば三条制札事件では8人の敵に対し34人の味方を用意し、油小路事件では7人の敵に対し35、6人で襲撃した[24]。さらに、「死番」という突入担当者をローテーションであらかじめ決めておき、突然事件が起きても怯むことなく対処できるようにした。

服装・装備

当初、袖口に山形の模様(ダンダラ模様)を白く染め抜いた浅葱色水色)の羽織を着用していたとされる。羽織のダンダラは、歌舞伎などの演目『忠臣蔵』で赤穂浪士吉良邸に討ち入りしたときに着ている羽織の柄(ただし史実ではなく赤穂事件をもとにした創作で広まったもの)で、浅葱色は武士死に装束の色である。製作したのは大文字屋呉服店(現在の大丸)。一説には、大文字屋ではなく四条の呉服屋「菱屋」ともいわれる。

ダンダラ羽織は最初の1年ほどで廃止されたらしく、池田屋事件の時に着用していたとする証言が最後の記録である。池田屋事件の2日後に目撃された隊士の服装は、着込襦袢、襠高脚絆、後鉢巻、白のであった[25]。新選組に尾行されていた大村藩士・渡辺昇によれば、尾行者が黒衣・黒袴であればすぐに新選組であると分かったという。また、明治末期に老人が、新選組は黒羅紗筒袖の陣羽織を着ていたと証言していることから、ダンダラ羽織の廃止後は黒ずくめであったと考えられる。

警備や戦闘の際には、鉢金鎖帷子籠手などの防具を装着した。武器は市街地戦を想定し打刀短槍であった。局長の近藤勇は打刀とほぼ同寸の長脇差を好んだ。副長の土方歳三も、刃長28和泉守兼定、1尺9寸5堀川国広の刀を用いていた。

鳥羽・伏見の戦い新政府軍に敗れた直後に土方が会津藩から2,000を受給しており、新式の兵装備品に充てた可能性が高い[23]

隊旗

地に字または字で「誠」を染め抜き、隊服と同じようにダンダラが入っていたとする隊旗が一般的である。全部で6種類あるとされている。現在の髙島屋にあたる古着木綿商によって特注で製作されたものである。その隊旗が現れたとき、敵は恐怖で凍りついたと言われる。

新選組の隊旗が「誠」であったことから、近藤勇の実家・試衛館は「誠衛館」の誤りと推測する説もある。[要出典]

給料

結成当初は資金難であり、新選組の後援者・佐藤彦五郎からの支援だけでは足りなかったため、商家から資金を提供させたと伝えられる[26]

京都守護職配下時代は、会津藩からの御用金で賄っていた。その後、幕府配下になると、各隊士は幕府から給料を得た。『新撰組永倉新八』(昭和2年私家本)によれば、局長50、副長40両、副長助勤30両、平隊士10両の月給であったとされるが、実際はそれ以下であったと考えられる[27]。諸々の事件への出動により褒賞金など恩賞が下されることもあった。

局中法度・粛清

烏合の衆である浪人集団を統率するため、俗に「局中法度」(局中法度書)といわれる隊規を定めた。隊規は厳格に運用され、違反した組員は粛清された。成立は会津藩預かりとなった浪士組時代(文久3年/1863年)に近藤ら試衛館派から芹沢ら水戸派に提示されたと考えられている。天然理心流に入門する際に誓約させられる神文帳との類似性も指摘されている。

として機能し始めたのは「新選組」と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の暗殺の際にも適用されたといわれる。第一条「士道ニ背キ間敷事」などのように、内容は抽象的で、解釈は局長や副長の一存に委ねられるものであった。

一、士道ニ背キ間敷事
武士道に背く行為をしてはならない)
一、局ヲ脱スルヲ不許
(新撰組からの脱退は許されない)
一、勝手ニ金策致不可
(無断で借金をしてはならない)
一、勝手ニ訴訟取扱不可
(無断で訴訟に関係してはならない)
一、私ノ闘争ヲ不許
(個人的な争いをしてはならない)
右条々相背候者切腹申付ベク候也
(以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡すものとする)

子母沢寛昭和3年(1928年)に著した『新選組始末記』で紹介されて以来有名となり、上記の5か条として知られるが、同時代史料にはこれをすべて記録したものは現在までのところ発見されていない。永倉新八大正2年(1913年)に語った内容を記録した『』の記事(『新選組顛末記』)には、「私ノ闘争ヲ不許」を除く4か条しか提示されておらず、名称も「局中法度」ではなく、「禁令」「法令」としか言及されていない。そのため、上記の5か条と「局中法度」という名称は、別に定められていた「軍中法度」を混ぜて子母沢寛が脚色したものと推測されている。

鳥羽・伏見の戦い以前の5年間での新選組内部における死者は45名にのぼる[28]。内訳を見ると倒幕志士との戦闘による死者数は6名で[29]、その他はほとんどが切腹暗殺などの粛清絡みのものであった。記録を見る限りでは、新選組は自組織内での相互不信と内部抗争に明け暮れて、敵よりも同志を殺した数のほうがよほど多かった[30]

役職

トップは局長。直下に局長を補佐する副長がおり、そのさらに下に副長助勤監察方(内務監察)、勘定方会計担当)などの役職を設けた。副長助勤は組長として平隊士を統率した。各隊は一番組から十番組まであり、各人員は10名前後。組長の下に伍長を置いた。新選組の組織編制は、職務の複数制を原則とする江戸時代の各組織と違い一人制であり、洋式軍制の影響が指摘されている。

以下に構成員。新選組の名を用いる以前(壬生浪士組)も含む。

隊士一覧

歴代局長

会津新選組局長

箱館新選組局長

総長

参謀

歴代副長

組長・組頭・副長助勤

1864年編成時組頭~

諸士取調役兼監察方・浪士調役

勘定方

会計方

伍長

初期副長助勤

国事探偵方

文武師範

平隊士・同志

下記以外の隊士はCategory:新選組隊士を参照。

美男五人衆

自称新選組隊士・関係者など

壬生浪士組同志

箱館新選組

一分隊
  • 差図役
  • 嚮導役 、
一分隊平隊士
二分隊
二分隊平隊士
三分隊
  • 差図役
  • 嚮導役 、
三分隊平隊士
四分隊
四分隊平隊士
所属隊不明
平隊士

新選組を主題にした作品

モデルとした創作作品、端役として登場する作品は多数ある。ここでは新選組を主題としたもののみを掲げる。Category:新選組を題材とした作品も参照。

小説

映画

テレビドラマ

楽曲

ドラマCD

  • 『』(リジェット)新撰組を題材にしたシチュエーションCD。
  • 『新撰組ドラマCD 壬生狼真伝』(プラチナレコード)史実の流れを朗読で挟み込み物語に引き込む本格的時代物ドラマCD。
  • 新撰組北翔伝 晨星落落』(トムス・ミュージック)明治維新後の新撰組を題材に史実に沿って展開するシチュエーションCD。

漫画

アニメ

舞台

ゲーム

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 新撰組(コトバンク)
  2. ^ a b c ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 新撰組(コトバンク)
  3. ^ a b 佐々木智巳 (2010年5月4日). “「新選組」 迷う「せん」の漢字”. 日本経済新聞. オリジナルの2018年6月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180609045348/https://style.nikkei.com/article/DGXNASDB2600B_W0A420C1000000 2017年11月17日閲覧。 
  4. ^ 宮地正人『歴史のなかの新選組』、岩波書店
  5. ^ 箱根紀千也「大和屋焼き打ち事件の真実」『玉造史叢61集』
  6. ^ 藤堂利寿 (2019). “新選組研究への評論と大和屋焼き討ち事件”. 霊山歴史館紀要 24. 
  7. ^ 当時はと飛鳥井雅典
  8. ^ 新選組の忘れ物 キセル入れ見つかる 草津宿本陣 滋賀 - NHK
  9. ^ 新選組「洛中最後の拠点」諸説論争に決着か 西本願寺古文書に「西九条村」の記述”. 京都新聞 (2020年6月8日). 2020年6月7日閲覧。
  10. ^ 藤堂に関しては生存説あり
  11. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 79頁
  12. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 194頁
  13. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 84頁
  14. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 83-84頁
  15. ^ 伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版 308頁
  16. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 27頁
  17. ^ 歴史群像シリーズ『図説・新選組史跡紀行』、学習研究社 74頁
  18. ^ 伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版 144頁
  19. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 188頁
  20. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 84頁
  21. ^ a b 小佐野淳『図説 武術事典』、新紀元社 152頁「新選組と武術」
  22. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 82頁
  23. ^ a b 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 128頁
  24. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 84-85頁
  25. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 126頁
  26. ^ 特別陳列新選組-史料が語る新選組の実像- 京都国立博物館
  27. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 199-200頁
  28. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 209頁
  29. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 89頁
  30. ^ 伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版 308-309頁
  31. ^ 新選組参謀の伊東甲子太郎、生家示す絵図見つかる”. 日本経済新聞 (2020年12月5日). 2021年3月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月16日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク


 

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