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👩‍🎤|瀬戸内7県を拠点に活動するSTU48、ラストアイドルとの対バンなど8月のトピックスを紹介(後編)


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瀬戸内7県を拠点に活動するSTU48、ラストアイドルとの対バンなど8月のトピックスを紹介(後編)

 
内容をざっくり書くと
脚本は今年「アメリカン・ブッタ」で星雲賞を受賞した柴田勝家氏。
 

瀬戸内7県を拠点に活動するアイドルグループ・STU48から8月のトピックスが到着した。前編・後編に渡… →このまま続きを読む

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星雲賞

星雲賞(せいうんしょう)は、前暦年に発表もしくは完結した、優秀なSF作品およびSF活動に贈られる賞[1]。毎年行われる日本SF大会参加登録者の投票(ファン投票)により選ばれる。

概要

ワールドコン(世界SF大会)のヒューゴー賞を範に、1970年に創設された、日本でもっとも古いSF賞。「星雲賞」という名前は、1954年に刊行された日本最初のSF雑誌と言われる『星雲』に由来する。ネビュラ賞の日本語訳ともかけている。

最初は小説と映画演劇に関する部門だけだったが、その後メディアやコミック、アート、ノンフィクションなどの部門が追加された。2018年現在は「日本長編部門」「日本短編部門」「海外長編部門」「海外短編部門」「メディア部門」(第10回までは「映画演劇部門」)「コミック部門」「アート部門」「ノンフィクション部門」及び「自由部門」(平成14年の改訂で追加)がある。

なお、「特別賞」は第13回の「宇宙塵」を除き、すべてSFファンダムに多大な功績のあった人物が死去した際に追贈されている。

集計・授賞などの運営事務は日本SFファングループ連合会議が担当する。副賞の選定は当該年度の日本SF大会実行委員会が実施する。毎回、趣向を凝らした副賞が贈られる。たとえばDAICON4の時には、開催地の大阪にちなんで、特大の瓦煎餅であった。

2014年から「レトロ星雲賞」(レトロヒューゴー賞にならい、星雲賞開始以前の年度の作品を年度別に顕彰する)が全日本中高年SFターミナルの主宰で行われている。

選考方法

星雲賞の選考は以下の手順で実施されている[1]

  1. 日本SFファングループ連合会議事務局において、各ファングループから提出のあった候補作および各種情報から参考候補作を選定する。
  2. 当該年度の日本SF大会実行委員会により、日本SF大会参加者に対して、参考候補作が投票用ハガキの発送とともに周知される。第36回2005年より、ネット投票も可能となった。
  3. 日本SFファングループ連合会議事務局で投票結果の集計を行う。
  4. 日本SF大会内で行われる日本SFファングループ連合会議定期総会席上で、集計結果の報告と授賞作品の確認が行われ、代議員から受賞資格等で異議がない場合、得票数1位が受賞作となる。

なお、参考候補作は投票の助けとするためのリストであり、厳密にはノミネーションではない。規約上は参考候補作以外でも受賞資格のある作品に対しては投票可能で、たとえば2018年のノンフィクション部門のように実際に受賞した例もある[2][3]。ただし、「雑誌掲載、または公開時に参考候補作にあがらなかった場合に限り、単行本またはメディア媒体収録時点でも対象となる」という条項にあるとおり、参考候補作は受賞資格に影響を与える。

小説部門・コミック部門・ノンフィクション部門については規約上、電子媒体で発表された作品の扱いが定められていないが、2015年の日本短編部門ではウェブ発表のみの作品「海の指」が参考候補作となり、受賞した。

主な受賞作品

日本部門

賞回数年度日本長編作品名作者日本短編作品名作者
第1回1970年霊長類南へ筒井康隆筒井康隆
第2回1971年小松左京筒井康隆
第3回1972年石の血脈半村良荒巻義雄
第4回1973年鏡の国のアリス広瀬正小松左京
第5回1974年日本沈没小松左京日本以外全部沈没筒井康隆
第6回1975年筒井康隆神狩り山田正紀
第7回1976年七瀬ふたたび筒井康隆ヴォミーサ小松左京
第8回1977年かんべむさし筒井康隆
第9回1978年山田正紀ゴルディアスの結び目小松左京
第10回1979年消滅の光輪眉村卓地球はプレイン・ヨーグルト梶尾真治
第11回1980年宝石泥棒山田正紀ダーティペアの大冒険高千穂遙
第12回1981年川又千秋グリーン・レクイエム新井素子
第13回1982年吉里吉里人井上ひさし(『』に所収)新井素子
第14回1983年さよならジュピター小松左京神林長平
第15回1984年敵は海賊・海賊版神林長平「スーパー・フェニックス」(『戦闘妖精・雪風』に所収)神林長平
第16回1985年戦闘妖精・雪風神林長平該当作なし-
第17回1986年ダーティペアの大逆転高千穂遙野田昌宏
第18回1987年プリズム神林長平火星鉄道一九谷甲州
第19回1988年銀河英雄伝説田中芳樹中井紀夫
第20回1989年堀晃草上仁
第21回1990年上弦の月を喰べる獅子夢枕獏(『』に所収)大原まり子
第22回1991年大原まり子(『』に所収)夢枕獏
第23回1992年菅浩江梶尾真治
第24回1993年柾悟郎菅浩江
第25回1994年終わりなき索敵谷甲州大槻ケンヂ
第26回1995年機神兵団山田正紀(『』に所収)大槻ケンヂ
第27回1996年引き潮のとき眉村卓火浦功
第28回1997年星界の紋章森岡浩之草上仁
第29回1998年敵は海賊・A級の敵神林長平
(『』に所収)
大原まり子
第30回1999年彗星狩り〜星のパイロット2笹本祐一(『』に所収)森岡浩之
第31回2000年グッドラック、戦闘妖精・雪風神林長平野尻抱介
第32回2001年菅浩江(『』に所収)梶尾真治
第33回2002年野尻抱介田中啓文
第34回2003年野尻抱介おれはミサイル秋山瑞人
第35回2004年第六大陸小川一水梶尾真治
第36回2005年ARIEL笹本祐一象られた力飛浩隆
第37回2006年新城カズマ(『』に所収)小川一水
第38回2007年日本沈没・第二部小松左京・谷甲州(『』に所収)野尻抱介
第39回2008年図書館戦争シリーズ有川浩野尻抱介
第40回2009年ハーモニー伊藤計劃南極点のピアピア動画野尻抱介
第41回2010年グイン・サーガ栗本薫飛浩隆
第42回2011年山本弘小川一水
第43回2012年小林泰三野尻抱介
第44回2013年屍者の帝国円城塔・伊藤計劃神林長平
第45回2014年小川一水谷甲州
第46回2015年藤井太洋飛浩隆
第47回2016年怨讐星域梶尾真治/
(共に『TSUBURAYA×HAYAKAWA UNIVERSE 01
多々良島ふたたび ウルトラ怪獣アンソロジー』所収)
山本弘/田中啓文
第48回2017年小林泰三草野原々
第49回2018年宮内悠介柴田勝家
第50回2019年飛浩隆草野原々
第51回2020年天冥の標小川一水菅浩江
第52回2021年林譲治柴田勝家
池澤春菜堺三保(原作)

海外部門

賞回数年度海外長編作品名作者海外短編作品名作者
第1回1970年J・G・バラードトマス・M・ディッシュ
第2回1971年アンドロメダ病原体マイケル・クライトンレイ・ブラッドベリ
第3回1972年ロバート・シルヴァーバーグレイ・ブラッドベリ
第4回1973年タイタンの妖女カート・ヴォネガット・ジュニアレイ・ブラッドベリ
第5回1974年デューン/砂の惑星フランク・ハーバートアーサー・C・クラーク
第6回1975年時間線を遡ってロバート・シルヴァーバーグR・A・ラファティ
第7回1976年ロジャー・ゼラズニイA・B・チャンドラー
第8回1977年ジャック・ヴァンススタニスワフ・レム
第9回1978年ロバート・A・ハインライン該当作なし-
第10回1979年リングワールドラリー・ニーヴンラリー・ニーヴン
第11回1980年宇宙のランデブーアーサー・C・クラーク該当作なし-
第12回1981年星を継ぐものJ.P.ホーガンラリー・ニーヴン
第13回1982年J.P.ホーガンいさましいちびのトースタートマス・M・ディッシュ
第14回1983年ロバート・L・フォワードジョージ・R・R・マーティン
第15回1984年バリントン・J・ベイリーロジャー・ゼラズニイ
第16回1985年バリントン・J・ベイリー該当作なし-
第17回1986年エルリック・サーガマイケル・ムアコック該当作なし-
第18回1987年ニューロマンサーウィリアム・ギブスンジョン・ヴァーリイ
第19回1988年ノーストリリアコードウェイナー・スミスたったひとつの冴えたやりかたジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
第20回1989年降伏の儀式ラリー・ニーヴン&ジェリー・パーネル目には目をオースン・スコット・カード
第21回1990年バリントン・J・ベイリーコードウェイナー・スミス
第22回1991年デイヴィッド・ブリンジョージ・アレック・エフィンジャー
第23回1992年チャールズ・シェフィールドジョン・ヴァーリイ
第24回1993年ポール・アンダースンR・A・ラファティ
第25回1994年J.P.ホーガングレッグ・ベア
第26回1995年ハイペリオンダン・シモンズコードウェイナー・スミス
第27回1996年ハイペリオンの没落ダン・シモンズアイザック・アシモフ
スティーヴン・バクスター
第28回1997年さよならダイノサウルスロバート・J・ソウヤー凍月グレッグ・ベア
第29回1998年ラリー・ニーヴン&ジェリー・パーネルアレン・スティール
第30回1999年タイム・シップスティーヴン・バクスターダン・シモンズ
キム・スタンリー・ロビンスン
第31回2000年マイク・レズニックジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
第32回2001年フレームシフトロバート・J・ソウヤーグレッグ・イーガン
第33回2002年パット・マーフィーあなたの人生の物語テッド・チャン
グレッグ・イーガン
第34回2003年ロバート・J・ソウヤーグレッグ・イーガン
第35回2004年デイヴィッド・ブリンテッド・チャン
第36回2005年グレッグ・イーガンシオドア・スタージョン
第37回2006年グレッグ・イーガンケン・マクラウド
第38回2007年移動都市フィリップ・リーヴ&
第39回2008年ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアウェザーアレステア・レナルズ
第40回2009年ロバート・チャールズ・ウィルスンテッド・チャン
第41回2010年ジョン・スコルジーグレッグ・イーガン
第42回2011年
第43回2012年パオロ・バチガルピテッド・チャン
第44回2013年ジョン・スコルジーパオロ・バチガルピ
第45回2014年ピーター・ワッツ紙の動物園ケン・リュウ
第46回2015年火星の人アンディ・ウィアー
第47回2016年アン・レッキーケン・リュウ
第48回2017年ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
シミュラクラケン・リュウ
第49回2018年、佐田千織(翻訳)郝景芳、大谷真弓(翻訳)、ケン・リュウ(英訳)
第50回2019年ピーター・トライアス劉慈欣
第51回2020年三体劉慈欣不気味の谷グレッグ・イーガン
第52回2021年三体II 黒暗森林劉慈欣アレステア・レナルズ

映画演劇部門・メディア部門

-年度作品名製作者・監督
第1回1970年プリズナーNo.6(TV)制作
まごころを君に(映画演劇部門)ラルフ・ネルソン監督
第2回1971年謎の円盤UFO(TV)ジェリー・アンダーソン制作
第3回1972年アンドロメダ…ロバート・ワイズ監督
第4回1973年時計じかけのオレンジスタンリー・キューブリック監督
第5回1974年ソイレント・グリーンリチャード・フライシャー監督
第6回1975年宇宙戦艦ヤマト(TV)松本零士総監督
第7回1976年福田恆存荒川哲生演出)
第8回1977年該当作なし-
第9回1978年惑星ソラリスアンドレイ・タルコフスキー監督
第10回1979年スター・ウォーズジョージ・ルーカス監督
第11回1980年エイリアンリドリー・スコット監督 - 「メディア部門」に変更
第12回1981年スター・ウォーズ/帝国の逆襲ジョージ・ルーカス製作総指揮
第13回1982年該当作なし-
第14回1983年ブレードランナーリドリー・スコット監督
第15回1984年ダーク・クリスタルジム・ヘンソン&フランク・オズ監督
第16回1985年風の谷のナウシカ宮崎駿監督
第17回1986年バック・トゥ・ザ・フューチャーロバート・ゼメキス監督
第18回1987年未来世紀ブラジルテリー・ギリアム監督
第19回1988年王立宇宙軍 オネアミスの翼山賀博之監督
第20回1989年となりのトトロ宮崎駿監督
第21回1990年トップをねらえ!(OVA)庵野秀明監督
第22回1991年銀河宇宙オデッセイ(TV)NHK製作
第23回1992年ターミネーター2ジェームズ・キャメロン監督
第24回1993年ママは小学4年生(TV)井内秀治総監督
第25回1994年ジュラシック・パークスティーヴン・スピルバーグ監督
第26回1995年ゼイラム2雨宮慶太監督
第27回1996年ガメラ 大怪獣空中決戦金子修介監督・樋口真嗣特技監督
第28回1997年ガメラ2 レギオン襲来金子修介監督・樋口真嗣特技監督
第29回1998年ウルトラマンティガ(TV)円谷プロダクション制作
第30回1999年機動戦艦ナデシコ -The prince of darkness-佐藤竜雄監督
第31回2000年カウボーイビバップ(TV)渡辺信一郎監督
第32回2001年高機動幻想ガンパレード・マーチ(ゲーム)SCEIアルファシステム
第33回2002年仮面ライダークウガ(TV)東映テレビ朝日
第34回2003年ほしのこえ新海誠
第35回2004年ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔ピーター・ジャクソン監督
第36回2005年プラネテス谷口悟朗監督
第37回2006年特捜戦隊デカレンジャー(TV)東映
第38回2007年時をかける少女細田守監督
第39回2008年電脳コイル磯光雄監督・電脳コイル製作委員会
第40回2009年マクロスF河森正治総監督・菊地康仁監督
第41回2010年サマーウォーズ細田守監督
第42回2011年第9地区ニール・ブロムカンプ監督
第43回2012年魔法少女まどか☆マギカ新房昭之監督・宮本幸裕シリーズディレクター
第44回2013年モーレツ宇宙海賊佐藤竜雄監督
第45回2014年パシフィック・リムギレルモ・デル・トロ監督
第46回2015年宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟出渕裕監督・別所誠人チーフディレクター
第47回2016年ガールズ&パンツァー 劇場版水島努監督・「ガールズ&パンツァー 劇場版」製作委員会
第48回2017年シン・ゴジラ庵野秀明総監督・樋口真嗣監督&特技監督
第49回2018年けものフレンズたつき監督
第50回2019年SSSS.GRIDMAN雨宮哲監督
第51回2020年彼方のアストラ監督
第52回2021年ウルトラマンZ田口清隆監督

コミック部門

※第9回から創設

-年度作品名作者
第9回1978年地球(テラ)へ…竹宮惠子
第10回1979年不条理日記吾妻ひでお
第11回1980年スター・レッド萩尾望都
第12回1981年伝説水樹和佳子
第13回1982年気分はもう戦争矢作俊彦大友克洋
第14回1983年銀の三角萩尾望都
第15回1984年童夢大友克洋
第16回1985年X+Y萩尾望都
第17回1986年アップルシード士郎正宗
第18回1987年うる星やつら高橋留美子
第19回1988年究極超人あ〜るゆうきまさみ
第20回1989年人魚の森高橋留美子
第21回1990年So What?わかつきめぐみ
第22回1991年宇宙大雑貨横山えいじ
第23回1992年ヤマタイカ星野之宣
第24回1993年OZ樹なつみ
第25回1994年DAI-HONYAとり・みき
グラン・ローヴァ物語紫堂恭子
第26回1995年風の谷のナウシカ宮崎駿
第27回1996年寄生獣岩明均
第28回1997年うしおととら藤田和日郎
第29回1998年SF大将とり・みき
第30回1999年ルンナ姫放浪記横山えいじ
第31回2000年イティハーサ水樹和佳子
第32回2001年カードキャプターさくらCLAMP
第33回2002年プラネテス幸村誠
第34回2003年クロノアイズ長谷川裕一
第35回2004年彼方からひかわきょうこ
第36回2005年ブレーメンII川原泉
第37回2006年陰陽師夢枕獏・岡野玲子
第38回2007年ヨコハマ買い出し紀行芦奈野ひとし
第39回2008年20世紀少年、21世紀少年浦沢直樹長崎尚志
第40回2009年トライガン・マキシマム内藤泰弘
第41回2010年PLUTO浦沢直樹・手塚治虫
第42回2011年鋼の錬金術師荒川弘
第43回2012年機動戦士ガンダム THE ORIGIN安彦良和
第44回2013年星を継ぐものJ.P.ホーガン・星野之宣
第45回2014年成恵の世界丸川トモヒロ
第46回2015年もやしもん石川雅之
第47回2016年シドニアの騎士弐瓶勉
第48回2017年こちら葛飾区亀有公園前派出所秋本治
第49回2018年それでも町は廻っている石黒正数
第50回2019年少女終末旅行つくみず
第51回2020年バビロンまでは何光年?道満晴明
ニンジャバットマン久正人
第52回2021年
鬼灯の冷徹江口夏実

アート部門

ノンフィクション部門

  • 第16回(1985年) - 『光世紀の世界』石原藤夫早川書房
  • 第17回(1986年) - 『特撮ヒーロー列伝』池田憲章(『アニメック』連載)
  • 第18回(1987年) - 『石原博士のSF研究室』石原藤夫(『SFマガジン』連載)
  • 第19回(1988年) - 『ウィザードリィ日記』矢野徹 (エム・アイ・エー)
  • 第20回(1989年) - 『スペースオペラの書き方』野田昌宏(早川書房)
  • 第21回(1990年) - 『SFはどこまで実現するか』ロバート・L・フォワード、・訳(講談社)
  • 第22回(1991年) - 『SFハンドブック』早川書房編集部・編
  • 第23回(1992年) - TV番組『電子立国日本の自叙伝NHK(制作)
  • 第24回(1993年) - 『』ダニエル・キイス、堀内静子・訳(早川書房)
  • 第25回(1994年) - 『やさしい宇宙開発入門』野田昌宏(PHP研究所)
  • 第26回(1995年) - 『愛しのワンダーランド』野田昌宏(早川書房)
  • 第27回(1996年) - 『』と学会・編(洋泉社
  • 第28回(1997年) - 『トンデモ本の逆襲』と学会・編(洋泉社)
  • 第29回(1998年) - 自立歩行人間型ロボットP2(本田技研工業
  • 第30回(1999年) - 『宇宙を空想してきた人々』野田昌宏(日本放送出版協会
  • 第31回(2000年) - ロボット・AIBOソニー
  • 第32回(2001年) - 『もっとすごい科学で守ります!長谷川裕一(日本放送出版協会)
  • 第33回(2002年) - 『NHK少年ドラマシリーズのすべて』増山久明 (アスキー
  • 第34回(2003年) - 『』笹本祐一 (朝日ソノラマ
  • 第35回(2004年) - 『宇宙へのパスポート2・M-V & H-IIAロケット取材日記』笹本祐一 (朝日ソノラマ)
  • 第36回(2005年) - 『前田建設ファンタジー営業部』前田建設ファンタジー営業部ご一同 (幻冬舎
  • 第37回(2006年) - 『失踪日記吾妻ひでお (イースト・プレス)
  • 第38回(2007年) - 『宇宙へのパスポート3 宇宙開発現場取材 』笹本祐一 (朝日ソノラマ)
  • 第39回(2008年) - 『星新一 一〇〇一話をつくった人』最相葉月新潮社
  • 第40回(2009年) - 『世界のSFがやって来た!! ニッポンコン・ファイル2007』日本SF作家クラブ 監修:小松左京 (角川春樹事務所
  • 第41回(2010年) - 『日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで』長山靖生河出書房新社
  • 第42回(2011年) - 『サはサイエンスのサ』鹿野司早川書房
  • 第43回(2012年) - 『吾妻ひでお〈総特集〉---美少女・SF・不条理ギャグ、そして失踪』編集:、KAWADE夢ムック河出書房新社
  • 第44回(2013年) - 『情報処理2012年05月号別刷「《特集》CGMの現在と未来︰初音ミク,ニコニコ動画,ピアプロの切り拓いた世界」』ゲストエディタ:後藤真孝(情報処理学会
  • 第45回(2014年) - 『宇宙へ行きたくて液体燃料ロケットをDIYしてみた 実録なつのロケット団』あさりよしとお学研教育出版
  • 第46回(2015年) - 『サンリオSF文庫総解説』編集:牧眞司大森望(本の雑誌社)
  • 第47回(2016年) - 『SFまで10000光年』『SFまで10万光年以上』水玉螢之丞(早川書房)
  • 第48回(2017年) - 『SFのSは、ステキのS』池澤春菜(早川書房)
  • 第49回(2018年) - 『アリエナクナイ科学ノ教科書 〜空想設定を読み解く31講〜』著者・くられ/協力・薬理凶室(ソシム)
  • 第50回(2019年) - 『筒井康隆、自作を語る』筒井康隆:著、日下三蔵:編集(早川書房)
  • 第51回(2020年) - 『100分de名著 小松左京スペシャル 「神」なき時代の神話』宮崎哲弥NHK出版
  • 第52回(2021年) - 『NHK 100分de名著 アーサー・C・クラークスペシャル ただの「空想」ではない』瀬名秀明(NHK出版)

自由部門

特別賞

脚注

  1. ^ a b 年次日本SF大会におけるSF賞に関する規定”. Federation of the Science Fiction Fan Groups of Japan (2006年7月8日). 2016年3月27日閲覧。
  2. ^ 2018年 第49回星雲賞”. 日本SFファングループ連合会議 (2018年4月15日). 2018年7月22日閲覧。
  3. ^ 第49回星雲賞決定、「あとは野となれ大和撫子」宮内悠介、メディア部門「けものフレンズ」など”. アニメーションビジネス・ジャーナル (2018年7月21日). 2018年7月22日閲覧。

関連項目

外部リンク

柴田勝家

柴田 勝家(しばた かついえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名織田氏宿老であり、主君・織田信長に従い天下統一事業に貢献した。

生涯

織田信秀時代

大永2年(1522年)、『張州府誌』によると尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)で生まれる[注釈 3]。生年には大永6年(1526年)説や大永7年(1527年)説もあり、明確ではない。出自は不明で柴田勝義の子といわれるが、確実な資料はない。おそらく土豪階層の家の出身であると思われる[4]

若いころから織田信秀の家臣として仕え、尾張国愛知郡下社村を領したという。地位はわからないが織田信長の家督継承のころには織田家の重鎮であった。天文20年(1551年)に信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕えた。

織田信行時代

天文21年(1552年)の尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主の織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り、翌年には清洲城攻めで大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てた(萱津の戦い)。

信行を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し織田信長の排除を試み、弘治2年(1556年)8月に勝家は1,000人を率いて戦うが、信長との戦いに敗れて、降伏した(稲生の戦い)。この時は信長・信行生母の土田御前の強い願いで赦免され、信行、勝家、津々木蔵人は、墨衣で清州城に上り土田御前とともに、信長に礼を述べた(『信長公記』首巻)。以後は信長の実力を認め、稲生の敗戦後、信行が新参の津々木蔵人を重用し勝家を軽んじるようになったこともあって、信行を見限った。弘治3年(1557年)、信行が又も信長の排除を目論んで謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告し、信長は仮病を装い信行は11月2日に清州城に見舞いにおびき出され河尻秀隆らに殺害された[5]。信行の遺児の津田信澄は、信長の命令により勝家が養育することになった。

織田信長時代

信行の死後、罪を許され、信長の家臣となった。しかし、信行に与して信長に逆らったことが響いたのか信長の尾張統一戦や桶狭間の戦い美濃斎藤氏攻めでは用いられなかった[6]。ただし、永禄8年(1565年)7月15日付と推定される尾張国の寂光院宛に出された所領安堵の文書には丹羽長秀・佐々主知(成政の一族)とともに署名しており、このころには信長の奉行の1人であった[7]

永禄11年(1568年)の上洛作戦になって再度重用され、畿内平定戦などでは常に織田軍の4人の先鋒の武将として参加し(勝竜寺城の戦いなど)、信長の最精鋭として武功を挙げた。11月までは先方武将4人が京都の軍政を担当したが、幕府奉公衆に任せ、信長とともに岐阜に引き上げる。永禄12年(1569年)1月、三好三人衆による本圀寺の変の際に信長と共に再度来京し、4月上旬まで京都・畿内行政に担当5人の内としてあたった。同年8月、南伊勢5郡を支配する北畠氏との戦に参加する。

元亀元年(1570年)4月、浅井長政が信長から離反すると5月には六角義賢が琵琶湖南岸に再進出し、岐阜への道を絶った。信長は南岸確保のため各城に6人の武将を配置することとし、まず江南に4人が置かれた。勝家は長光寺城に配属され、同月下旬には六角勢と戦闘となったが、佐久間信盛森可成中川重政と共に撃退した。6月、浅井・朝倉との姉川の戦いに従軍する。

同年8月から9月の野田城・福島城の戦いで三好三人衆が四国から攻め上り総軍で対峙する中、石山本願寺が突如敵対し、混戦となる。その後半に、朝倉・浅井連合軍が3万の大軍で山科、醍醐を焼きつつ京都将軍御所を目指して進軍した。『言継卿記』によると、勝家と明智光秀が守備のため京都へ戻されたが、勝家が事態を重大視して信長に進言し、23日に総軍で野田・福島から退却し強行軍で同日夜半に京都に戻り、志賀の陣となる。12月、信長は足利義昭に依頼し、朝廷が仲介する形で浅井・朝倉との和睦に持ち込む[8]

元亀2年(1571年)5月、石山本願寺に呼応した長島一向一揆を鎮圧に向かう。退却の際、勝家の隊は殿を務めたが、大河と山に挟まれた狙いやすい箇所で一揆勢が襲い掛かり、傷を負い勝家は旗指物まで奪われた[注釈 4]。 すぐ、氏家直元(卜全)が交代したが小勢であり対応できず、氏家と多くが戦死する[10]。9月の比叡山焼き討ちでは殺戮戦に加わる。

元亀4年(1573年)2月、信長と対立した将軍・義昭が石山と今堅田の砦に兵を入れると、勝家を含めた4武将が攻撃してこれらを陥落させた。信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが、成立寸前で松永久秀の妨害で破綻する[11]。このため4月、信長自ら出陣し、義昭への脅しのために上京に放火させた際は勝家も参加している。なお、この時に信長は下京に対しても矢銭を要求した。この際に下京側が作成した矢銭の献金予定リスト(「下京出入之帳」)には信長個人へ献上する銀250枚に続いて勝家個人とその配下に合計銀190枚を送ることが記載されている[12]。また、同月に信長と義昭が一時的に和睦した際に交わされた起請文には織田家の重臣として勝家は林秀貞・佐久間信盛・滝川一益ならび美濃三人衆とともに署名し、勝家と林ら3名は当時の織田家の年寄(重臣)の地位にあったことをうかがわせる[12]。7月、義昭は槙島城に、義昭の側近・三淵藤英二条城にそれぞれ立て籠もったが、勝家は藤英を説得し二条城を開城させた。なお、7月1日には信長は4月に下京に命じていた矢銭の献上を免除しているが、勝家は4日付でこの内容を保証する副状を下京側に発給している[12]。その後、勝家は自身も加わった7万という人数で義昭が籠る槙島城を総攻撃し、降伏させた。義昭は追放され事実上室町幕府は滅びるが、毛利氏に保護された義昭により信長包囲網が敷かれると、織田軍の有力武将として近江国摂津国など各地を転戦する。

天正元年(1573年)8月の一乗谷城の戦いは、信長軍総動員[注釈 5]となり朝倉氏を滅ぼした。勝家は、その後の北近江の小谷城の戦いにも参加したが、その際の先鋒は羽柴秀吉が務めた。

同年9月に、2度目の長島攻めに参加している。長島の西方の呼応する敵城を勝家も参戦し桑名の西別所城、酒井城を落とす。長島は大湊の船が十分確保できず退却する。2年前の勝家負傷と同所で殿の林通政隊が一揆勢に襲われ林と多数が戦死する。天正2年(1574年)に多聞山城の留守番役に細川藤孝に続き3月9日から勝家が入る[13]。同年7月、3度目の最終戦の長島攻めに参軍し総員7万の大軍で兵糧攻めで助命を約束に開城したところをだまし討ちで殲滅する。三手の内の賀鳥口(右翼)を佐久間信盛と共に指揮した[14]

天正3年(1575年)には高屋城の戦い長篠の戦いにも参加する。

朝倉氏滅亡後、信長は朝倉旧臣・前波吉継越前国の守護としたが、同じく朝倉旧臣の富田長繁はそれに反発して土一揆を起こして前波を討ち取った。しかしその後の富田の態度から一揆勢は富田と手を切ることとし、加賀国の一向一揆の指導者である七里頼周を誘って、新たに一向一揆を起こして富田に襲いかかり、動乱の中で富田は家臣に射殺され越前は一揆持ちの国となった。信長はこれに総軍を率いて出陣し、一向一揆を殲滅戦で平定した。9月、信長は越前国掟全9条(原書には「掟条々」)[注釈 6]とともに勝家は越前国八郡49万石、北ノ庄城(現在の福井市)を与えられた。このとき簗田広正に切りとり次第の形で加賀一国支配権が与えられるが信長が帰陣すると、一揆が蜂起し、小身の簗田は抑えられず信長に見限られ尾張に戻される。

天正4年(1576年)、勝家は北陸方面軍司令官に任命され、前田利家佐々成政不破光治らの与力を付けられ、90年間一揆持ちだった加賀国の平定を任される。なお、従前の領地の近江国蒲生郡と居城長光寺城は収公され、蒲生賢秀、永田景弘らは与力から外されている[16]

天正5年(1577年)7月、越後国上杉謙信が加賀国にまで進出してきた。この時、勝家は軍議で羽柴秀吉と衝突、仲違いし、秀吉は信長の許可を得ることもなく戦線を離脱してしまい足並みが乱れる。勝家は七尾城の救援に向かうが間に合わずに七尾城が陥落したため、周辺の拠点に放火しつつ退却した。退却中の9月23日、手取川で上杉軍の襲撃を受ける(手取川の戦い)。勝家側が千人余り打ち取られたという話も、謙信書状のみに書かれているが、他の史料に記載は無く小戦とも見られ不明である。そして天正6年(1578年)に謙信が死去すると、織田信忠軍の将・斎藤利治が越中中部から上杉軍を逐った[17]

天正8年(1580年)3月、信長と本願寺に講和が結ばれた途端に北陸方面は活発化し、勝家は一向一揆の司令塔金沢御堂を攻め滅ぼして、軍を北加賀・越中境まで進めた。一向一揆を制圧して、天正8年(1580年)11月、ついに加賀を平定する。さらにその勢いのまま能登国越中国にも進出を果たす。また、佐久間信盛が失脚したことによって、名実ともに織田家の筆頭家老に位置することになる。

翌天正9年(1581年)2月28日、信長の京都御馬揃えでは与力の前田利家ら越前衆を率いて上洛し、参加した。また、このころから対上杉政策の為か、伊達氏の家臣・遠藤基信と連絡を盛んに取り、伊達氏との外交政策の一端を担っている(伊達治家記録など)[信頼性要検証]

天正10年(1582年)3月から上杉氏方の越中国の魚津城松倉城富山県魚津市)を攻囲していた。6月2日未明、本能寺の変があって信長が横死するが、これを知らぬまま6月3日に魚津城は陥落した(魚津城の戦い[18]。事件を知り6日の夜からただちに全軍撤退して北ノ庄城へ戻った。6月10日付の溝口半左衛門への書状では、勝家は光秀が近江に駐屯していると認識し(実際には8日に近江・安土を発ち、9日には山城の京都にいた)、大坂にいた丹羽長秀と連携して、光秀を討つ計画を伝えている[19]。しかし上杉側が変を知り、失地回復に越中・能登の国衆を煽り動けず、やっと18日に近江に出動するが、すでに中国大返しを行った秀吉の軍が光秀を討っていた[20]

清洲会議

本能寺の変後の清洲会議で、織田氏の後継者問題では秀吉への対抗もあり、信長の三男・織田信孝を推したが、明智光秀を討伐したことで実績や発言力が大きかった秀吉が信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなった。ただし、近年になって勝家が三法師の後継に反対して信孝を擁立したとする話は『川角太閤記』による創作であって、実際には三法師を後継者にすること自体には秀吉・勝家らの間で異論はなく、清洲会議の開催そのものが三法師の存在を前提にしていた、とする説も出されている[21]

また、信長の遺領配分においても河内丹波山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡と長浜城(現在の長浜市)を新たに得たが、勝家と秀吉の立場は逆転してしまった。清洲会議の結果、3歳の三法師に叔父・織田信雄と信孝が後見人となり、信雄が尾張、伊賀、南伊勢、信孝が美濃を領有し、これを羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制となった。

また、この会議で諸将の承諾を得て、勝家は信長の妹・お市の方と結婚している。従来は信孝の仲介とされて来たが、勝家の書状で「秀吉と申し合わせ…主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」とあり、勝家のお市への意向を汲んで、清洲会議の沙汰への勝家の不満の抑えもあり秀吉が動いたと指摘されている(『南行雑録』所収堀秀政宛て天正10年(1582年)10月6日勝家書状「覚書」)[22]

清洲会議終了後、勢力を増した秀吉と勝家など他の織田家重臣との権力抗争が始まる[23]。勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗する。だが秀吉は長浜城の勝家の養子の柴田勝豊を圧迫したうえ懐柔した。次には岐阜の織田信孝を攻め囲んで屈服させる。天正11年(1583年)正月に秀吉は滝川一益の北伊勢を7万の大軍で攻めるが一益は3月まで対峙する。

最期

天正11年(1583年)3月12日、勝家は北近江に出兵し、北伊勢から戻った秀吉と対峙する(賤ヶ岳の戦い)。事前に勝家は、毛利に庇護されている足利義昭に戦況を説明し毛利軍とともに出兵を促す書状を毛利を介して出し背後を突かせようとするが、義昭では既に時代に合わずうまくいかなかった。同様の働きかけは3月ごろに高野山にもしており、各地にしたようだが実を結ばなかった(『古証文』所収勝家書状」)[24]。4月16日、秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵し、秀吉は岐阜へ向かい勝家は賤ヶ岳の大岩山砦への攻撃を始めるが、美濃大返しを敢行した秀吉に敗れ、4月24日に北ノ庄城にてお市とともに自害した(北ノ庄城の戦い)。享年62[注釈 7]。 辞世は「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 (やまほととぎす)」[25]

勝家の最期は、『毛利家文書』とそれに所収された秀吉書状に、このように描かれている。

(4月)24日寅の刻(午前4時)に本城に取り掛かり正午には乗り入りことごとく首をはねた。天主には勝家以下200人あまりが立て籠もり、狭いので総員なら手負い死人が出るので、選んだ兵で刀剣、槍だけで天主内に切り入らせた。勝家も武辺の者だが7度まで切り闘ったが防げなかった。天主の最上の九重目に登り上がり、総員に言葉をかけ、勝家が「修理の腹の切り様を見て後学にせよ」と声高く言うと、心ある侍は涙をこぼし鎧の袖を濡らし、皆が静まりかえる中、勝家は妻子などを一刺しで殺し、80人とともに切腹した。寅の下刻(午後5時)だった。

勝家は十字切りで切腹し(最も正式の切腹の作法)、侍臣の中村聞荷斎(文荷斎)を呼び介錯させた。これに殉死するもの80余人。聞荷斎はかねてから用意した火薬に火をつけ、天主とともに勝家の一類はことごとく亡くなった。 — 『毛利家文書』所収小早川隆景宛て天正11年(1583年)5月15日付秀吉書状、「声高く言うと」のみと後段は『毛利家文書』内記述から[1]

菩提寺は、福井県福井市の西光寺と滋賀県高島市幡岳寺。ここには当時の位牌も現存している。幡岳とは勝家の号である。

昭和3年(1928年)11月10日、宮内省より従三位が贈られた。

人物

ルイス・フロイスの勝家評は以下である。

  • 「信長の重立ちたる将軍二人中の一人」[26]
  • 「はなはだ勇猛な武将であり、一生を軍事に費やした人」「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」[27]
  • 「彼は禅宗であるが、他の宗旨を憎まず」[28]
  • フロイスたちの越前でのキリスト教の布教については、いっさい妨害はしないが手助けもしない、教えが広まるかどうかは宣教師たちの「テガラシダイ(手柄次第)」だと述べたという[28]

フロイス『日本報告』は、賤ヶ岳の闘いの敗戦ののちの北ノ庄城での柴田勝家が、離反した家臣に対して恨み言は言わず、また最後まで付き添ってきた家臣たちには、生き延びることを許し、むしろそれを喜ぶこと、また、今生においてはこれまでの家臣たちの愛情に報いるすべがないことへの嘆きを収載しており、勝家の温情ある人柄を伝えている[29]。また、これに類する話が前田家家臣の村井重頼の覚書にも記されている[29]

江戸期の編纂書・軍記や伝承の説話

  • ある時、信長が勝家を常任の先陣大将に任じようとすると勝家は辞した。信長はさらに強いて大将にした。その後、安土城下で勝家の隊の行列に信長の旗本が衝突、勝家はこの旗本を無礼と殺した。これに信長は激怒したが勝家は「だから私は先に辞退したのです。先陣の大将たる者にはそれほどの権威を持たせて下さらねば務まるものではございませぬ」と答え、信長もこの勝家の道理には負けて言葉を返せなかった(『常山紀談』)[30]
  • 武骨の性格で、その秀でた武勇から鬼柴田と呼ばれ、江戸中期の随筆『翁草』の小唄の1節に秀吉らとともに、勝家は戦場における突進力では随一という意味でかかれ柴田と評されている[31]
  • 戦いの最中、取っておきの水甕をわざと槍の柄で突き割って、城中の兵士の反撃決意を固めさせ、城外に討って出て、敵勢を崩し、死中に活を得た。甕割り柴田の逸話がある[32]
  • 土一揆の刀を没収し、それらを鋳潰して、鉄の鎖を製り、舟をつなぎあわせて、九頭竜川に舟橋をこしらえ、秀吉の刀狩りの先鞭をつけた。知恵柴田の逸話がある[32]
  • 『武家事紀』に、あるとき勝家が前田利家に「今、上方で明智光秀や菅屋九右衛門などという者が出世して諸事に口出ししていると聞くが、自分は信長に仕えて今に至るまで、戦功およそ二十四度に及ぶから、誰々が出世したといっても心許ないことだ」と語ったという逸話が載せられている[33]
  • 織田信秀から相伝の「姥口釜」を勝家自身が信長に直訴することによって拝領したことが確認できる(『当代記』天正9年2月15日条)(「川角太閤記」)[34]。このほか、信長から拝領されたという伝承のある「柴田井戸」という茶碗が現存する[35]。このように信長から「御道具」を拝領されていた可能性があるが、信長が下賜した名物を使用した茶会である「御茶之湯」[36] に関しては許可された可能性は確認することができない[37]
  • 賤ヶ岳の戦いで敗北後、前田利長の居城・府中城で前田利家と対面し、先に撤退した利家を責めなかったばかりか、数年来の骨折りを謝して勝家は利家に対し、「秀吉と仲がよいのだから必ず降るように。私のことを思って再び道を誤ってはならない」と語ったという(『加賀金澤前田家譜』)[31]。しかし利家の基本研究書も史実として触れず、撤退は秀吉に事前に通じて裏切っていたとしており[38]、歴史家・高柳光寿は自家に都合のいいことばかり書いていると批判している[39]

家臣・与力

一門衆
家臣
与力

その他

関連作品

テレビドラマ
映画
小説
  • 「攻防・金沢御堂」「火宅の門」「鶴の舞う城」(『北國文華』69・75・79号収録)
舞台

脚注

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注釈

  1. ^ 『寛政重修諸家譜』では4月21日6月11日
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』では中村文荷斎の娘といわれている。
  3. ^ 異説のひとつとして、下社城址(愛知県名古屋市名東区陸前町明徳寺)には柴田勝家誕生地の碑があり、勝家は享禄3年(1530年)にその地で生まれたといわれるとしている。[3]
  4. ^ 『信長公記』自筆前田家本では「疵を被り高名比類なき」、自筆建勲神社本では「薄手を被り罷り退く」とある。[9]
  5. ^ 光秀は京都守備。
  6. ^ 第1条の「過分な課役の禁止と理由ある場合に尋ねる事」の指図に始まり、第2条「国人地侍の丁寧な扱いと用心」、第3条の司法の信長法順守、第6条「大国を預け置く」、第9条には「何事も信長の指図しだいと覚悟せよ」「無理無法のたくらみを巧言でごまかさず、計画があってのことなら道理正しく弁解するなら、事によっては聞き届け、その意見に従ってもよい。」「信長を崇敬して陰でも疎かに思ってはならぬ」「信長のいる方へは足も向けないほどの心がけなら武運長久は間違いない」と統制規定が重々定められている。信長への心からの忠誠を命じるが、最後まで守ったのは勝家だけだと、桑田忠親に評されている[15]
  7. ^ 没年齢については57歳説、58歳説など異説が複数あるため、そこから逆算した生まれ年を推定するしかないので、現在のところ明確な生まれ年・没年齢は確定していない。
  8. ^ 勝家の庶子といわれている。
  9. ^ 勝家の末子といわれている。
  10. ^ 『近江仲島文書』に名がある柴田勝定と同一人物と考えられている。(諸説あり)
  11. ^ 勝家の甥(妹の子)または実子ともいわれている。
  12. ^ 勝家の庶兄の子といわれている。
  13. ^ 猪高村時代から存在する。

出典

  1. ^ a b 高柳 2001, pp. 232–233.
  2. ^ 『系図綜覧』
  3. ^ 長屋良行(2014年9月8日). “歴史ウオーカー:/55 柴田勝家が生まれた名東区を歩く”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
  4. ^ 谷口克 2005, p. 34.
  5. ^ 谷口克 2002, pp. 41–43、『信長公記』「首巻」町田本も参照
  6. ^ 谷口克 2005, p. 35.
  7. ^ 柴辻 2016, pp. 146, 150.
  8. ^ 谷口克 2002, pp. 96–101.
  9. ^ 金子拓『織田信長という歴史 『信長公記』の彼方へ』勉誠出版、2009年、275-276頁。
  10. ^ 谷口克 2002, pp. 127–129.
  11. ^ 谷口克広『信長と将軍義昭』〈中公新書〉、2014年、136-149頁。
  12. ^ a b c 柴辻 2016, pp. 152–153.
  13. ^ 谷口研 2014, pp. 140–141.
  14. ^ 谷口克 2002, pp. 126–133.
  15. ^ 桑田忠親『明智光秀』〈講談社文庫〉、1983年、127頁。『信長公記』巻八、町田本も参照
  16. ^ 谷口克 2005, pp. P.156-166.
  17. ^ 谷口克 2002, pp. 179–183, 186–188.
  18. ^ 谷口克 2002, pp. 233–234.
  19. ^ 「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる 2018年11月16日 12時24分 - 日本放送協会
  20. ^ 谷口克広『検証 本能寺の変』吉川弘文館、2007年、71-73頁。
  21. ^ 柴裕之『清須会議』戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年、32-39頁。ISBN 978-4-864-033015
  22. ^ 高柳 2001, pp. 25–26, 226–227
  23. ^ 藤田達生『秀吉神話をくつがえす』〈講談社現代新書〉、2007年、168-169頁。
  24. ^ 高柳 2001, pp. 117–121
  25. ^ 桑田忠親『桃山時代の女性』吉川弘文館、1972年、15頁。
  26. ^ フロイス日本史
  27. ^ 1584年1月20日付け、フロイスの書簡
  28. ^ a b 1581年5月19日付、フロイスの書簡
  29. ^ a b 山本 2012, pp. 111–113.
  30. ^ 『常山紀談』巻之三 「勝家先陣の将となる事」”. 近代デジタルライブラリ. 2013年10月30日閲覧。
  31. ^ a b 小学館『新説戦乱の日本史 第17号 賤ヶ岳の戦い』
  32. ^ a b 桑田 1975, p. 172.
  33. ^ 『武家事紀』巻第十三”. 近代デジタルライブラリー. 2013年10月30日閲覧。
  34. ^ 竹本千鶴「織田政権における茶の湯―「御茶湯御政道」の再検討から―」(『日本歴史』615号、1999年)
  35. ^ 髙橋義雄『大正名器鑑』七(宝雲社、1937年)
  36. ^ 竹本千鶴「織田信長所持の名物茶器に関する一考察」(『国学院大学大学院紀要』28号、1997年)
  37. ^ 竹本千鶴「織田政権における茶の湯―「御茶湯御政道」の再検討から―」(『日本歴史』615号、1999年)
  38. ^ 岩沢愿彦『前田利家』吉川弘文館〈人物叢書〉、1966年。
  39. ^ 高柳 2001.
  40. ^ 柴田勝家 ― 北庄に掛けた夢とプライド
  41. ^ 猪高小学校 - 名東史跡の会

参考文献

関連項目


 

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