ポータルフィールドニュース

ポータルフィールドニュース

in ,

⛺|クラスターのハンセン米兵飲酒運転で決議 北谷町


写真 

クラスターのハンセン米兵飲酒運転で決議 北谷町

 
内容をざっくり書くと
この問題は、今月20日午後11時過ぎ、北谷町美浜の国道58号で、酒を飲んだ状態で乗用車を運転したとして、沖縄に駐留するアメリカ海兵隊キャンプ・ハンセンに所属する上等兵の男(25)が現行犯逮捕されたものです。
 

大規模なクラスター(感染者集団)が発生しているアメリカ軍キャンプ・ハンセンに所属する海兵隊員が、酒気… →このまま続きを読む

 琉球放送

琉球放送は沖縄のラジオ・テレビの兼営放送局です。
沖縄の政治、経済、生活など地域に根差した様々なニュースを発信しています。


Wikipedia関連ワード

説明がないものはWikipediaに該当項目がありません。

上等兵

上等兵(じょうとうへい)は、軍隊の階級の一つで、に区分され、伍長または兵長の下、一等兵の上に位置する。

日本陸軍

概要

大日本帝国陸軍では、1938年兵長が設けられるまでの等級の最上位であった。初年兵にとって上等兵は「先輩」の中の優秀者とみなされていた。

上等兵になれる者は,同年兵の4分の1程度といわれる。伍長勤務上等兵になると、多くても中隊に3人程度である(歩兵中隊の場合、平時は二年兵・初年兵ともにそれぞれ約60名程度)。そのため全ての初年兵にとって、上等兵は憧れの地位であり、入営から4か月後(時代によるが昭和初期までは3か月)、第1期検閲終了後に発表される上等兵候補者の発表は、最大の関心事であった。満期除隊して民間の職場に復帰すると、上等兵ならば体力人格ともに優秀者とみなされ、在郷軍人会でも優遇される場合があった。農村の場合は、村の顔役が一席設けてくれるような存在であった。そのため、模範青年としてその後の仕事や嫁取りに良い影響をもたらした。

初年兵の中から選ばれた者が、上等兵候補者特別教育を受け、適任と認められた者が上等兵に進級した。上等兵への進級は、12月頃に行われる第1選抜から始まり、以降順次期間をあけて数次の選抜により決定されていく。真面目に勤務に精励していれば除隊と同時に形式的に上等兵になれる者もいた(これを営門上等兵と称した)。しかし兵隊仲間では在営年次がものをいい、たとえ上等兵であっても年次の浅い兵は万年一等兵の古年次兵には常に敬語を使い、時にはビンタをもらうことがあった。

上等兵の中でもさらに優秀な者は伍長勤務上等兵となり、下士官としての勤務についた。伍長勤務上等兵と一部の上等兵は除隊の際に[1]が交付され、再度応召した際には、下士官の欠員に応じて伍長に任官した。昭和初期までは、上等兵候補者に選ばれると、よほどのことがない限り満期除隊までには上等兵に進級した。しかし昭和10年代になると上等兵候補者の6~7割程度しか上等兵になれなくなった。これはわざと候補者を増やし、落第者を多くすることにより候補者どうしを競争させ訓練成果をあげ、上等兵の権威を高める狙いがあった。上等兵候補者は起床ラッパの一時間前に起きて銃剣術の間稽古を義務づけられるなど、体力的にも、頭脳的にも過酷な教育がなされたのである。また内務班では古参一等兵からことある毎に「上等兵候補のくせに、そのざまは何だ」と睨まれた。

上等兵には部隊運営の最末端として様々な役割が命ぜられた。戦時には分隊長(代理)、平時には目端が利き真面目な者が内務班の初年兵掛(しょねんへいがかり)となり、めったに班内に顔をださない内務班長の代理として実際に初年兵の指導を行った。また能筆で算盤のできる者や学歴のある者は事務室の助手として事務に従事した。また腕に覚えのある者は教練の助手として教官(少中尉見習士官准士官)、助教(下士官)の手足となって初年兵を教育した。防災、防犯、風紀の取締まり、人員の確認などを行う週番上等兵などの勤務に交代で当った。

歩哨は一等兵には敬礼しなくても、上等兵には敬礼をしなければならなかった。

ちなみに、憲兵など最下級が上等兵である兵科も存在した。

伍長勤務上等兵

伍長勤務上等兵は、兵でありながら下士官と同じ勤務に就いた。たとえば週番下士官や当番長などである。戦時であれば分隊長となる。なお伍長勤務上等兵と後年の兵長とを同一視する見方は間違いである。兵長には定員が無かったが、伍長勤務上等兵は中隊に2-3名と定員があった。(定員は固定されたものではなく、下士官に欠員ができた時に伍長勤務を優秀な上等兵に命じたから、年度により各部隊に於ける伍長勤務の数は変動した。) この制度の起源は明治時代の長期伍長、短期伍長制度にさかのぼる。当時は在営3年制で、2年兵の上等兵より抜擢して短期伍長とし、3年目を下士官として勤務させ満期で除隊させた。長期伍長は職業軍人を指した。 その後、この制度は廃止されて伍長勤務上等兵制度となり、長期伍長が「伍長」となり、育成は下士官候補者制度に移行した。

伍長勤務制度の目的は、戦時に急増する部隊の下級下士官の代理を確保し、必要に応じて下級下士官へ登用できるようにすることであった。判任官であり兵より俸給も高く、定員があってしかも2年で使い捨てにできない下士官を平時に多数抱えることはできなかった。時代によっては下士官を希望するものが少なく必要な下士官が不足した。この不足を補うと同時にある程度の下士官勤務経験を積ませることによって、戦時に登用する下士官(予備下士官)の候補者を育成したのである。予備下士官の公式な登用制度は幹部候補生制度(昭和8年以降は乙種幹部候補生)であったが、学校教練合格や一定の学歴要件を必要とし、受験資格を持つものは多くなかった。陸軍は、伍長勤務という下士官勤務のOJTによって、幹部候補生を受験できない者にも予備下士官への道を開いていたといえる。

なお、ドイツのアドルフ・ヒトラーの最終階級であるGefreiter[2]は日本語では伍長と訳されることが多いが、実際の位置付けは日本陸軍の上等兵[3]に相当する。

伍長勤務上等兵になると、左の腕に赤と金モールの山形章を付ける。これを俗に金蝶じるしといい、軍隊俗謡などに「腕に金蝶ヒラヒラさせて、粋じゃないかよ 伍勤が通る」と歌われた。

あるいは、同じ兵の身分でありながら特別扱いをされる伍長勤務上等兵には同年兵からの嫉妬もあり、「生意気」と反発される事も多かったようである。

ナッチョラン節に「下士官のそば行きゃメンコ[4]臭い 伍長勤務は生意気で 粋な上等兵にャ金が無い 可愛い新兵さんにゃ 暇が無い」と歌われている。

1940年9月に兵長の階級が新設されるに伴い、伍長勤務上等兵制度は廃止となった。

下士官適任証書

明治に建軍したさい、下士官は「下士」と称したため、昭和6年までは「下士適任証書」と呼ばれた。 下士官適任証書は伍長勤務上等兵だけに与えられたわけではなく、一部の上等兵にも授与された。 同様のものに、優秀な下士官に付与される士官適任証書もあった。

その他

上等兵は陸軍士官学校予科を修了した士官候補生が、本科に入る前に隊付を経験する際に最初に与えられる階級でもあった。候補生は専用の部屋を割当てられる場合と、普通の内務班に入る場合とがあり、部隊・時代により異なる。将校にのみ与えられるが付くこともあった。

なお、隊付中の士官候補生は「兵の最先任」という位置付であったが、後に兵長の階級が出来、その辺りが少々ややこしくなったようである。[5]

日本海軍

大日本帝国海軍では、1942年の改正で従来の二等兵が改称されたものである。 水兵長(旧一等水兵)の下で、一等水兵(旧三等水兵)の上に位置する。略称は上水。

上等水兵(旧二等水兵)までは一定年限の勤務により進級したが、水兵長(旧一等水兵)へは選抜進級であった。最短の1年での進級は35%以内となっていた。[6] 上位35%の枠はほとんどが術科学校の普通科練習生課程[7]を修了した優秀な志願兵で占められており、徴兵で進級することは難しかった。 志願兵の場合、事故が無ければ大方は上等水兵1年半(入営[8]より3年)で水兵長(旧一等水兵)に進級したが、このとき進級にもれ、入営より3年経過[9]しても水兵長になれず,善行章が一本ついてしまった上等水兵(旧二等水兵)は楽長と呼ばれ、下級者に恐れられた。

平時における進級に必要な期間(滞留期間) 兵の進級は資格を満たした5月1日および11月1日の最も近い月に実施される

  • 上等水兵より兵長 1年(〜35%) 1年半(〜70%) 2年(〜100% 2年を経過しても問題があれば進級しない)
  • 一等水兵より上等水兵 1年
  • 二等水兵より一等水兵 6か月(海兵団などでの教育期間は志願兵は5か月半、徴兵は4か月半)

自衛隊

陸海空士長が兵に相当する士の最上級だが、満期除隊にまでほぼ必ず昇進するもので、上等兵とは位置付けが異なる。


各国の呼称

上等兵に相当する階級に次のものがある。

  • アメリカ合衆国
    • 陸軍Private First Class(プライベート ファースト クラス)
    • 海軍Seaman
    • 海兵隊Lance Corporal(ランス コーポラル)
    • 空軍Airman First Class
    1967年までは、Airman Second Class だった。
  • イギリス
    • 海軍:Able Rate
    1999年4月1日に上等兵と一等兵が統合された。
    • 空軍:Leading Aircraftman
  • フランス
    • 陸軍、空軍:Caporal
    伍長と和訳されることがあるが、下士官ではなく兵である。
    • 海軍:Quartier maître (de 2e classe)
    • 国家憲兵Brigadier
  • ロシア
    • 陸軍:Ефрейтор
    • 海軍:Старший матрос
  • 中国
    • 陸軍、海軍、空軍:上等兵
  • 大韓民国
    • 兵役に就くと必ずこの級で満期除隊するため、各国軍と位置付けが異なる。

関連項目

脚注

  1. ^ 昭和6年までは「下士適任証書」と呼ばれた。伍長や軍曹などの身分呼称は、この年まで「下士」が正式名称であったため「下士官適任証書」といわず「下士適任証書」といった。なお、海軍では大正9年に「下士」より「下士官」に変更している。証書の見本はURL参照。www.pref.mie.lg.jp/FUKUSHI/heiwa/shiryou/03-13.htm www.digital.archives.go.jp/DAS/.../Detail_F0000000000000014443
  2. ^ 上位にObergefreiter。WW2までは兵分隊長制度があり下士官が不足する場合には適宜分隊長を勤めた。戦後はOR4〜OR2に位置づけられている。OR4(Oberstabsgefreiter、Hauptstasgefreiter)は国により下士官に区分されるがドイツでは全てenlisted (兵)の身分である。詳細はen:Gefreiter
  3. ^ 司令部勤務をしていたことから敬意を込めて伍長勤務上等兵と紹介された。日本の伍長勤務上等兵と異なり下士官勤務を行ったわけではない。正しくは司令部勤務(伝令)の上等兵であった。
  4. ^ 旧日本軍において、飯を盛る器(飯盒のふた部分)のことをメンコと呼んでいた。「軍隊用語で飯盒のことを“メンコ”というが、語源はなにか?」(昭和女子大学図書館 ) - レファレンス協同データベース
  5. ^ 作家村上兵衛が士官候補生として近衛歩兵第1連隊に隊付をした最初の晩の日夕点呼後に、村上が所属することとなった内務班の古兵たちが初年兵たちに説教をし、私的制裁を加え始めたが、士官候補生たちはこの「リンチ」を止めるに止めることができずにいた。村上は後年、著書『桜と剣』の中で「二年兵のなかの兵長も、説教側に加わっているとすると、この“上級者”を止める権限が、自分にあるかどうかは疑わしかった」と述懐している。
  6. ^ 海軍兵進級規則9条、12条 http://homepage2.nifty.com/nishidah/mls208.htm
  7. ^ 受験資格は海軍兵となって1年以上(志願兵は海兵団卒業後、別途に受験機会があった)。従って一等兵(旧三等兵)の後半から受験資格ができた。合格し入校すると徴兵であっても志願兵に変更となり、同時に兵役期間は5年(徴兵は3年)に変更となった。兵長(旧一等兵)を1年勤務すると下士官任用試験の受験資格を得たが学校を終了していればほぼ合格することができた。合格すると最も近い進級日に二等兵曹(旧三等兵曹)に任官した。志願兵で学校を終了したが下士官任用試験を受けないものは除隊時に二等兵曹(旧三等兵曹)に任官して予備役となった。
  8. ^ 正式には陸海軍とも入営という。ほとんどの兵が海兵団に入って最初の教育を受けたため、俗に海軍に入ることを入団といった
  9. ^ 3年経過する毎に付与される山形の善行章で識別できた。

国道58号

国道58号(こくどう58ごう)は、鹿児島県鹿児島市から種子島奄美大島を通り、沖縄県沖縄島那覇市に至る一般国道である。複数のフェリーで結ばれている、海上航路部分も国道扱いとなっている。

概要

途中、種子島奄美大島を経て、沖縄本島に達する。全体の約7割を占める海上区間の延長609.5 kmは日本最長で[2]、海上区間を含む国道の路線別総延長でも、2020年3月31日現在、第1位の長さをもつ[3][注釈 1]

県庁所在地である鹿児島市と那覇市とを、種子島、奄美大島を中継して連絡する日本では一番長大な海上国道である[4][2][5]。沖縄県の一部区間、大宜味村宮城島を通過する。航路は、鹿児島市 - 種子島間と鹿児島市 - 奄美大島 - 沖縄本島間が就航している[5]

鹿児島市内では700 m程だが『朝日通り』の愛称がある[4]。沖縄県では「沖縄の大動脈・国道58号」などと称されている。沖縄県内では、主に若者の間で「ゴーパチ」などと呼ばれている。また沖縄県内で唯一の片側3車線道路(明治橋 - 嘉手納交差点付近の区間)である。種子島や奄美大島では唯一の国道であるため、単に「国道」と言えば本道路のことを指す場合が多い。

九州・沖縄を通じて交通量がもっとも多い国道である。平成17年度道路交通センサスによる平日24時間交通量は、沖縄県浦添市勢理客(じっちゃく)で81,255台/日であり、九州・沖縄で第1位であった[注釈 2]

沖縄県の嘉手納町 - 北谷町嘉手納基地沿いは、ヤシ並木の優れた街路樹景観が評価され、読売新聞社選定の「新・日本街路樹100景」(1994年)のひとつに選定されている[6]

毎年10月に開催される那覇まつりのメインイベントである那覇大綱挽は、那覇市久茂地交差点付近で、可動式の中央分離帯を撤去した上で行われる。

路線データ

一般国道の路線を指定する政令[7][注釈 3]に基づく起終点および重要な経過地は次のとおり。

歴史

国道58号の沖縄県内部分は、米軍が整備・指定したHighway No.1(那覇市 - 国頭村)がその起源となる[8]。この道路は那覇軍港普天間基地嘉手納基地などをつなぐ、沖縄の大動脈である。なお「緊急時の滑走路としての利用も考えられて作られていた」と言われることがあるが、当時は沿線に7箇所の飛行場があり滑走路として使用する必要性はほぼなく都市伝説に過ぎない。1952年4月1日琉球政府発足後、琉球政府の道路法に基づき、読谷村大湾 - 名護町名護 - 国頭村奥は政府道一号線(政府道は日本の国道に相当)に認定されたが、那覇市明治橋 - 読谷村大湾は米軍が管理する軍道のままであった。なおこの時期は舗装はなされていたものの、歩道などの付属設備等はそれほど進んでいなかった。読谷村 - 名護町についても、政府道にはなっていたが、管理は米軍が行っていた。1972年4月25日、軍道の管理が琉球政府に移管された。以下に述べるように国道58号となった後も沖縄県内では一般には時に1号線と呼ばれた。

その年の5月15日沖縄返還と同時に「沖縄の復帰に伴う建設省関係政令の改正に関する政令」が施行され、政府道一号線を含む鹿児島県鹿児島市から沖縄県那覇市までの区間が一般国道58号に指定された。1965年に国道の一級・二級の別がなくなり、以降新設される国道には三桁(272号以降)の路線名が与えられていた。その後に新設された一般国道58号は、特例として二桁の路線名が付与されたものである。ゆえに、一級国道であったことはない。

なお、この時点では経由地に種子島・奄美大島は含まれておらず、鹿児島市の直後が沖縄県国頭村となっていた。昭和49年(1974年)政令第364号にて経由地に西之表市・南種子町・笠利町・名瀬市・瀬戸内町が加えられた。

沖縄県での自動車の普及に伴い順次整備が進み、那覇近郊では最大8車線に拡張、読谷村から名護市にかけての山裾、海岸沿いの連続するカーブ[注釈 6]や勾配なども多くが改められ、現在に至る。奄美大島でも龍郷-名瀬間などはトンネルの掘削による改良が行われたが、交通量の少ない種子島では片側1車線の区間が大半である。

路線状況

海上区間の航路としては、鹿児島市・鹿児島港 - 種子島・西之表港間にコスモライン、鹿児島港 - 奄美大島・名瀬港 - 沖縄本島・那覇港マルエーフェリーが就航する[5]。ただし、種子島 - 奄美大島間及び奄美大島 - 沖縄本島間の航路が無いため、航路を考慮してもこの区間は断続することになる[5]

バイパス

別名

  • 国頭方西海道
    琉球王朝時代の同街道にほぼ沿っている。ただし、恩納村山田 - 読谷村伊良皆および浦添市牧港以南は県道指定など別ルートである。
  • ゴーパチ・ゴッパチ・ゴッパー・ゴーハチ・58号線・1号線。

重複区間

  • 国道224号(鹿児島県鹿児島市山下町・西郷隆盛銅像前交差点(起点) - 鹿児島市本港新町・鹿児島港)
  • 国道329号(沖縄県那覇市旭町・旭橋交差点 - 那覇市通堂町・明治橋交差点(終点))

道の駅

地理

通過する自治体

交差する道路

交差する道路都道府県名市町村名交差する場所
国道10号
国道224号 重複区間起点
鹿児島県鹿児島市山下町西郷隆盛銅像前交差点 / 起点
鹿児島県道25号鹿児島蒲生線山下町県文化センター前交差点
鹿児島県道204号鹿児島停車場線
鹿児島県道214号鹿児島港線
泉町泉町交差点
国道224号 重複区間終点本港新町鹿児島港
海上区間

鹿児島県西之表市西町
東町東町交差点
鹿児島県道582号西之表港線東町池田三文字交差点
西之表天神橋交差点
熊毛郡中種子町納官
鹿児島県道588号野間島間港線野間
鹿児島県道75号西之表南種子線 重複区間起点野間
鹿児島県道75号西之表南種子線 重複区間終点野間
南種子町中之上上中交差点
鹿児島県道75号西之表南種子線島間
鹿児島県道588号野間島間港線島間島間港
海上区間

鹿児島県奄美市笠利町里
大島郡龍郷町赤尾木
瀬留
戸口
奄美市名瀬和光町
鹿児島県道79号名瀬瀬戸内線
鹿児島県道81号名瀬龍郷線
名瀬永田町永田橋交差点
名瀬朝戸
住用町大字役勝
住用町大字役勝
鹿児島県道79号名瀬瀬戸内線
大島郡瀬戸内町古仁屋
海上区間
沖縄県道70号国頭東線沖縄県国頭郡国頭村
沖縄県道2号線与那
国道331号大宜味村塩屋
沖縄県道9号線津波
沖縄県道14号線名護市源河
沖縄県道110号線真喜屋真喜屋交差点
国道505号仲尾次仲尾次(北)交差点
沖縄県道71号名護宜野座線伊差川伊差川西交差点
国道58号 / 名護東道路伊差川伊差川IC(平面交差)
沖縄県道84号名護本部線宮里白銀橋交差点
国道449号 / バイパス宮里4丁目宮里4丁目(北)交差点
国道449号 / 現道
沖縄県道91号本部循環線
宮里3丁目宮里3丁目交差点
沖縄県道71号名護宜野座線 重複区間起点城3丁目城1丁目交差点
沖縄県道84号名護本部線東江5丁目東江4丁目(北)交差点
国道329号東江5丁目世冨慶交差点
国道58号 / 名護東道路数久田数久田IC
E58 沖縄自動車道許田10 許田IC
沖縄県道71号名護宜野座線 重複区間終点許田許田交差点
沖縄県道104号線国頭郡恩納村安富祖安富祖交差点
国道58号 / 恩納バイパス字瀬良垣
国道58号 / 恩納バイパス
沖縄県道88号屋嘉恩納線
恩納南恩納交差点
国道58号 / 恩納南バイパス恩納
国道58号 / 恩納南バイパス
沖縄県道73号石川仲泊線
仲泊仲泊交差点
沖縄県道6号線 重複区間起点仲泊仲泊(南)交差点
沖縄県道6号線 重複区間終点山田山田交差点
沖縄県道12号線中頭郡読谷村喜名喜名交差点
沖縄県道6号線伊良皆伊良皆交差点
沖縄県道16号線 重複区間起点大湾大湾交差点
沖縄県道74号沖縄嘉手納線
沖縄県道16号線重複区間終点
嘉手納町字嘉手納嘉手納ロータリー
沖縄県道23号沖縄北谷線北谷町伊平国体道路入口交差点
沖縄県道24号線吉原
沖縄県道130号線北谷北谷交差点
国道58号 / 宜野湾バイパス宜野湾市伊佐伊佐(北)交差点
沖縄県道81号宜野湾北中城線伊佐伊佐交差点
沖縄県道34号宜野湾西原線大謝名大謝名交差点
国道58号 / 宜野湾バイパス
沖縄県道153号線
浦添市牧港牧港交差点
沖縄県道38号浦添西原線屋富祖屋富祖交差点
沖縄県道82号那覇糸満線那覇市字安謝安謝交差点
那覇市道那覇中環状線天久
沖縄県道29号那覇北中城線高橋交差点
沖縄県道43号線前島泊ふ頭入口交差点
那覇市道久茂地松尾線
(一銀通り(旧県道222号真地久茂地線))
久茂地松山交差点
那覇市道松山通り(那覇西道路へ接続)
沖縄県道42号線
沖縄県道221号那覇内環状線
久茂地久茂地交差点
沖縄県道47号線久米2丁目泉崎交差点
国道329号 重複区間起点
国道330号
国道390号
国道507号
旭町旭橋交差点
国道329号 重複区間終点
国道331号
国道332号
通堂町明治橋交差点 / 終点

主な峠

国道58号にまつわるエピソード

沖縄県民の多くの人々にとって、国道58号は沖縄を象徴する最も慕われた道路として存在し、国道58号関連の土産物グッズは日本の国道の中でも特に多いといわれる[9]

  • 沖縄県出身のインディーズバンド「かりゆし58」の58は、この国道58号からとられている[10]。「かりゆし」とは縁起のいいと言う意味の方言。バンドはインディーズとしては異例の日本有線大賞新人賞を受賞している。
  • 沖縄県出身のハードロックバンドのアルバム『PURPLESSENCE』の中に、「58」という国道58号をモチーフにした曲がある。
  • 沖縄県出身のバンドであるBEGINのアルバム『ビギンの一五一会・58(ごっぱち)ドライブ』は、国道58号を指した「58」をアルバムの名前の中に盛り込んだ作品名で発表している[10]
  • 沖縄県生まれのタレント範田紗々のアルバム『We love goya』のデザインは、国道58号の標識を模す。「58」は「ゴーヤ」の語呂合わせでもある。
  • 日本のほぼすべてでは(すね)を「弁慶の泣き所」というのに対し、沖縄地区の一部では「一号線」という。この由来は国道58号の本土復帰前のHighway No.1となっている。
  • 国道58号を取り上げたドキュメンタリー番組として『鹿児島放送開局30周年記念番組 海の道が結ぶ自然遺産〜屋久島・奄美大島 奇跡の島々へ〜』(2013年1月27日、鹿児島放送制作、テレビ朝日系列)がある[11]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ a b c d e f g h 2020年3月31日現在
  2. ^ 九州・沖縄地区の交通量第2位は国道202号長崎県長崎市大黒町長崎駅前(76,346台/日)、第3位は国道3号福岡県糟屋郡新宮町大字三代(70,372台/日)である。
  3. ^ 一般国道の路線を指定する政令の最終改正日である2004年3月19日の政令(平成16年3月19日政令第50号)に基づく表記。
  4. ^ 国道3号国道10号国道225号国道226号終点より国道10号寄り180 m程の位置にある。
  5. ^ a b 2006年3月20日 - 名瀬市・大島郡笠利町・住用村が合併し奄美市が発足。
  6. ^ と名護の間は「名護の七曲がり」と称され、8 km内に40以上のカーブが続くつづら折れの道であった。

出典

  1. ^ a b c “交差点名標識を観光地名称等に変更します! 〜観光地へのわかりやすい案内に向けて〜” (日本語) (PDF) (プレスリリース), 国土交通省九州地方整備局鹿児島国道事務所, (2018年12月25日), オリジナルの2019年2月13日時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20190213005542/http://www.qsr.mlit.go.jp/kakoku/hodo/h30/181225.pdf 2020年5月16日閲覧。 
  2. ^ a b 浅井建爾 2015, pp. 18–19.
  3. ^ a b c d e f g h i 表26 一般国道の路線別、都道府県別道路現況 Page white excel.png (Microsoft Excelの.xls)”. 道路統計年報2021. 国土交通省道路局. 2022年3月15日閲覧。
  4. ^ a b “鹿児島―那覇 長さ日本一の国道58号は7割が海の上”. 南日本新聞. (2021年4月19日). オリジナルの2021年4月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210419064135/https://373news.com/_news/?storyid=135837 2021年4月19日閲覧。 
  5. ^ a b c d 松波成行 2008, p. 87.
  6. ^ 浅井建爾 『道と路がわかる辞典』(初版)日本実業出版社、2001年11月10日、127頁。ISBN 4-534-03315-X 
  7. ^ 一般国道の路線を指定する政令(昭和40年3月29日政令第58号)”. e-Gov法令検索. 総務省行政管理局. 2020年6月28日閲覧。
  8. ^ 『やんばる国道物語』 p.70
  9. ^ 佐藤健太郎 2014, pp. 232–233、「58号のアイテム」より。
  10. ^ a b 佐藤健太郎 2014, p. 238、「沖縄のマザーロード」より。
  11. ^ 鹿児島放送開局30周年記念番組 海の道が結ぶ自然遺産~屋久島・奄美大島 奇跡の島々へ〜”. 鹿児島放送. 2012年1月27日閲覧。

参考文献

  • 『沖縄 自動車ものがたり』(1906 - 2002) 沖縄トヨタ自動車株式会社 2002年3月 (沖縄県那覇市立図書館蔵書) p.66「1号線から国道58号へ」 主に沖縄県の本土復帰後、58号線の改善について。
  • 『やんばる国道物語』 北部国道事務所 2005年3月
  • 浅井建爾 『日本の道路がわかる辞典』(初版)日本実業出版社、2015年10月10日。ISBN 978-4-534-05318-3 
  • 佐藤健太郎 『ふしぎな国道』講談社〈講談社現代新書〉、2014年10月20日。ISBN 978-4-06-288282-8 
  • 松波成行「国道58号」『酷道をゆく』、イカロス出版、2008年3月20日、 87頁、 ISBN 978-4-86320-025-8

関連項目

外部リンク


 

Back to Top
Close