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👍|「半沢直樹」の監督は福澤諭吉の玄孫 香川照之がツイッターで明かす


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「半沢直樹」の監督は福澤諭吉の玄孫 香川照之がツイッターで明かす

 
内容をざっくり書くと
「全てはこの、福澤諭吉氏の玄孫(やしゃご)である克雄氏の、力と情熱と執念で『半沢直樹』は引っ張られています!
 

俳優の香川照之が6日、ツイッターに新規投稿。TBSドラマ「半沢直樹」の福澤克雄監督が福澤諭吉の玄孫(… →このまま続きを読む

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福澤諭吉

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  • 福澤諭吉
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福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、新字体福沢 諭吉天保5年12月12日1835年1月10日〉 - 明治34年〈1901年2月3日)とは、日本武士中津藩士のち旗本)、蘭学者著述家啓蒙思想家教育者である。

概説

(はん)。子囲(しい、旧字体:子圍)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁[1]雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)[2]。もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった[3]。現代では「福沢諭吉」と表記されることが一般的である[注釈 1]。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。

慶應義塾(旧:蘭学塾、現在の慶應義塾大学はじめ系列校)の創設者であり、商法講習所(のちの一橋大学)、神戸商業講習所(のちの神戸商業高校)、北里柴三郎の「伝染病研究所」(現:東京大学医科学研究所)、「土筆ヶ岡養生園」(現:東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者でもある。

ほかに東京学士会院(現:日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を基に「明治六大教育家」として列される。

昭和59年(1984年11月1日発行分から日本銀行券一万円紙幣D号券E号券)表面の肖像に採用されている[4]

経歴

出生から中津帰藩、長崎遊学

天保5年12月12日(1835年1月10日)、摂津国大坂堂島新地五丁目(現・大阪府大阪市福島区福島一丁目)にあった豊前国中津藩(現:大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助と妻・於順の間に次男(末子)として生まれる。諭吉という名は、儒学者でもあった父が『』(乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことに由来する。の祖は信濃国更級郡村上村網掛福澤あるいは同国諏訪郡福澤村を発祥として、前者は清和源氏村上氏為国流、後者は諏訪氏支流とする説があり、友米(ともよね)の代に豊前国中津郡に移住した[5][注釈 2]

友米の孫である父・百助は、鴻池加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にありながら、藩儒・や帆足万里に学び、菅茶山伊藤東涯などの儒学に通じた学者でもあった[注釈 3]。百助の後輩には近江国水口藩・藩儒のがおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。()の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。

なお、母兄姉と一緒に暮らしてはいたが、幼時から叔父・の養子になり中村姓を名乗っていた。のち、福澤家に復する。体格がよく、当時の日本人としてはかなり大柄な人物である(明治14年(1881年)7月当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ[6])。

天保6年(1836年)、父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現:大分県中津市)で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。お札を踏んでも祟りが起こらない事を確かめてみたり、神社で悪戯をしてみたりと、悪童まがいのはつらつとした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表がえ、障子のはりかえをこなすなど内職に長けた子供であった。

5歳ごろから藩士・に漢学一刀流の手解きを受け始める。初めは読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後さまざまな漢書を読み漁り、漢籍を修める。18歳になると、兄・三之助も師事した、白石照山の塾・へ通い始める。『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に及び、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという。このころには先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。また学問のかたわら立身新流居合術を習得した。

福澤の学問的・思想的源流に当たるのは亀井南冥荻生徂徠であり、諭吉の師・白石照山は陽明学朱子学も修めていたが亀井学の思想に重きを置いていた[7]。したがって、諭吉の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまでさかのぼることができる。のちに蘭学の道を経て思想家となる過程にも、この学統が原点にある。

安政元年(1854年)、諭吉は兄の勧めで19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ(嘉永7年2月)。長崎市のに寄宿し、現在は石碑が残されている。黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが、それを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。長崎奉行配下の役人で砲術家の宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)の元へ通ってオランダ語を学んだ。山本家には蛮社の獄の際に高島秋帆が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝金をもらっており、諭吉は鉄砲の設計図を引くことさえできるようになった。山本家の客の中に、薩摩藩のがおり、アルファベットを教えてもらう。その時分の諸藩の西洋家、たとえば村田蔵六(のちの大村益次郎)・・らが来て、「出島のオランダ屋敷に行ってみたい」とか、「大砲を鋳るから図をみせてくれ」とか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな諭吉の仕事であった。中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、諭吉はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。そのかたわら石川桜所の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。

適塾時代(大坂)

安政2年(1855年)、諭吉はその山本家を紹介した奥平壱岐や、その実家である奥平家(中津藩家老の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし諭吉本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者緒方洪庵の「適塾」で学ぶこととなった(旧暦3月9日(4月25日))。

その後、諭吉が腸チフスを患うと、洪庵から「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」(自伝)と告げられ、洪庵の朋友、から処置を施され、体力が回復する。そして。一時中津へ帰国する。

安政3年(1856年)、諭吉は再び大坂へ出て学ぶ。同年、兄が死に福澤家の家督を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済したあと、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って大坂の適塾で学んだ。学費を払う経済力はなかったため、諭吉が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch、1852年)を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。

安政4年(1857年)、諭吉は最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長与専斎を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。またにも熱心になり、化学(ケミスト)の道具を使って色の黒い硫酸を製造したところ、が頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある[注釈 4]。また、福岡藩主・黒田長溥が金80両を投じて購入した『ワンダーベルツ』と題する物理書を写本して、元素を配列してそこに積極消極(プラスマイナス)の順を定めることやファラデーの電気説(ファラデーの法則[要曖昧さ回避])を初めて知ることになる。こういった電気の新説などを知り、発電を試みたりもしたようである。ほかにも昆布荒布からのヨジュウム単体の抽出、淀川に浮かべた小舟の上でのアンモニア製造などがある。

江戸に出る

幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか40石の勝安房守(号は海舟)らが登用されたことで、安政5年(1858年)、諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられる(差出人は江戸居留守役の岡見清熙)。江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾[注釈 5]の講師となるために古川正雄(当時の名は岡本周吉、のちに古川節蔵)・を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の・が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」がのちの学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。

元来、この蘭学塾は佐久間象山象山書院から受けた影響が大きく、マシュー・ペリーの渡来に先んじて嘉永3年(1850年)ごろからすでに藩士たちが象山について洋式砲術の教授を受け、月に5〜6回も出張してもらって学ぶものも数十名に及んでいる。藩士の中にも、のように象山から直伝の免許を受けた優秀な者がおり、その後は杉亨二(杉はのちに勝海舟にも通じての塾頭も務める)、薩摩藩士の松木弘安を招聘していた。諭吉が講師に就任してからは、・・・らが適塾から移ってきたほか、諭吉の前の適塾塾頭・松下元芳が入門するなどしている。岡見は大変な蔵書家であったため佐久間象山の貴重な洋書を、諭吉は片っ端から読んで講義にも生かした。住まいは中津藩中屋敷が与えられたほか、江戸扶持(地方勤務手当)として6人扶持が別途支給されている。

島村鼎甫を尋ねたあと、中津屋敷からは当時、蘭学の総本山といわれ、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていたが500m以内の場所であったため、桂川甫周神田孝平箕作秋坪柳川春三大槻磐渓宇都宮三郎・村田蔵六らとともに出入りし、終生深い信頼関係を築くことになった。また、親友の高橋順益が近くに住みたいと言って、浜御殿(現・浜離宮)の西に位置する源助町に転居してきた。

安政6年(1859年)、日米修好通商条約により新たな外国人居留地となった横浜に諭吉は出かけることにした。自分の身につけたオランダ語が相手の外国人に通じるかどうか試してみるためである。ところが、そこで使われていたのはもっぱら英語であった。諭吉が苦労して学んだオランダ語はそこではまったく通じず、看板の文字すら読めなかった。これに大きな衝撃を受けた諭吉は、それ以来、英語の必要性を痛感した。世界の覇権は大英帝国が握っており、すでにオランダに昔日の面影がないことは当時の蘭学者の間では常識であった。緒方洪庵もこれからの時代は英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、当時の日本では、オランダだけが鎖国の唯一の例外の国であり、現実にはオランダ語以外の本を入手するのは困難だった。

諭吉は、幕府通辞の森山栄之助を訪問して英学を学んだあと、蕃書調所へ入所したが「英蘭辞書」は持ち出し禁止だったために1日で退所している。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするが、神田は蘭学から英学に転向することに躊躇を見せており、今までと同じように蘭学のみを学習することを望んだ。そこで村田蔵六に相談してみたが大村はヘボンに手ほどきを受けようとしていた。諭吉はようやく蕃書調所の原田敬策(岡山藩士、のちの幕臣)と一緒に英書を読もうということになり、英蘭対訳・発音付きの英蘭辞書などを手に入れて、蘭学だけではなく英学・英語も独学で勉強していくことにした。

渡米

安政6年(1859年)の冬、幕府は日米修好通商条約の批准交換のため、幕府使節団(万延元年遣米使節)をアメリカに派遣することにした。

この派遣は、岩瀬忠震の建言で進められ、使用する船は米軍艦「ポーハタン号」、その護衛船として「咸臨丸」が決まった。

福澤諭吉は知人の桂川甫周を介して軍艦奉行・木村摂津守の従者としてこの使節団に加わる機会を得た。

安政7年1月13日、幕府使節団は品川を出帆、1月19日浦賀を出港する。

福澤諭吉は、軍艦奉行・木村摂津守(咸臨丸の艦長)、勝海舟、中浜万次郎(ジョン万次郎)らと同じ「咸臨丸」に乗船したが、この咸臨丸の航海は出港直後からひどい嵐に遭遇した。咸臨丸はこの嵐により大きな被害を受け、船の各所は大きく破損した。乗員たちの中には慣れない船旅で船酔いになる者、疲労でぐったりする者も多く出た。そんな大変な長旅を経て、安政7年2月26日(太陽暦3月17日)、幕府使節団はサンフランシスコに到着する。

ここで福澤は3週間ほど過ごして、その後、修理が完了した咸臨丸に乗船して

ハワイを経由して、万延元年5月5日(1860年6月23日)に日本に帰国する。

(一方、その後の幕府使節団はパナマに行き、パナマ鉄道会社が用意した汽車で大西洋側の港(アスピンウォール、現在のコロン)へ行く。アスピンウォールに着くと、米海軍の軍艦「ロアノーク号」に乗船し、5月15日にワシントンに到着する。そこで、幕府使節団はブキャナン大統領と会見し、日米修好通商条約の批准書交換などを行う。その後、フィラデルフィアニューヨークに行き、そこから、大西洋のポルト・グランデ(現在のカーボベルデ)、アフリカのルアンダから喜望峰をまわり、バタビア(現在のジャカルタ)、香港を経由して、万延元年11月10日に、日本の江戸に帰国・入港する。)

今回のこの咸臨丸による航海について、福澤諭吉は、「蒸気船を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって我が国で初めて太平洋を横断したのは日本人の世界に誇るべき名誉である」と、のちに述べている[9]

また、船上での福澤諭吉と勝海舟の間柄はあまり仲がよくなかった様子で、晩年まで険悪な関係が続いた[注釈 6]

一方、福沢諭吉と木村摂津守はとても親しい間柄で、この両者は明治維新によって木村が役職を退いたあとも晩年に至るまで親密な関係が続いた。福澤は帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま「幕府外国方」(現:外務省)に採用されることになった。その他、戊辰戦争後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。

アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては福澤はさまざまに衝撃を受けた、という。たとえば、日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民が初代大統領ジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している(ちなみに、ワシントンに直系の子孫はいない。当該項参照)。

福澤諭吉は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに『ウェブスター大辞書』の省略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。また、翻訳途中だった『』(統計表)は、福澤の留守中に門下生が完成させていた。

アメリカで購入した広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語を福沢諭吉はカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版した。これは諭吉が初めて出版した書物である。この書物の中で諭吉は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「」や「ワ」に濁点をつけた文字「」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。そして、福澤は、再び鉄砲洲で新たな講義を行う。その内容は従来のようなオランダ語ではなくもっぱら英語であり、蘭学塾から英学塾へと教育方針を転換した。

その後、福澤諭吉は、「幕府外国方、御書翰掛、翻訳方」に採用されて、公文書の翻訳を行うようになった。これは外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたためである。福澤はこの仕事をすることにより、英語とオランダ語を対照することができ、これで自身の英語力を磨いた。この頃の福澤は、かなり英語も読めるようになっていたが、まだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。また、米国公使館通訳ヒュースケンの暗殺事件や水戸浪士による英国公使館襲撃事件など、多くの外交文書の翻訳も携わり、緊迫した国際情勢を身近に感じるようになったという。

渡欧(幕臣時代)

文久元年(1861年)、福沢諭吉は中津藩士、の次女・お錦と結婚した。同年12月、幕府は竹内保徳を正使とする幕府使節団(文久遣欧使節)を結成し、欧州各国へ派遣することにした。諭吉も「翻訳方」のメンバーとしてこの幕府使節団に加わり同行することになった。この時の同行者には他に、松木弘安、箕作秋坪、などがいて、総勢40人ほどの使節団であった。

文久元年(1861年)12月23日、幕府使節団は英艦「英語版」に乗って品川を出港した。

12月29日、長崎に寄港し、そこで石炭などを補給した。文久二年(1862年)1月1日、長崎を出港し、1月6日、香港に寄港した。幕府使節団はここで6日間ほど滞在するが、香港で植民地主義帝国主義が吹き荒れているのを目の当たりにし、イギリス人中国人同然に扱うことに強い衝撃を受けた。

1月12日、香港を出港し、シンガポールを経てインド洋紅海を渡り、2月22日にスエズに到着した。ここから幕府使節団は陸路を汽車で移動し、スエズ地峡を超えて、北のカイロに向かった。カイロに到着するとまた別の汽車に乗ってアレキサンドリアに向かった。アレキサンドリアに到着すると、英国船の「ヒマラヤ号」に乗って地中海を渡り、マルタ島経由でフランスマルセイユに3月5日に到着した。そこから、リヨンに行って、3月9日、パリに到着した。ここで幕府使節団は「オテル・デュ・ルーブル」というホテルに宿泊し、パリ市内の病院、医学校、博物館、公共施設などを見学した。(滞在期間は20日ほど)

文久2年(1862年)4月2日、幕府使節団はドーバー海峡海峡を越えてイギリスロンドンに入った。ここでも幕府使節団はロンドン市内の駅、病院、協会、学校など多くの公共施設を見学する。万国博覧会にも行って、そこで蒸気機関車電気機器植字機に触れる。ロンドンの次はオランダユトレヒトを訪問する。そこでも町の様子を見学するが、その時、偶然にもドイツ系写真家によって撮影されたと見られる幕府使節団の写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された[10]。その後、幕府使節団は、プロイセンに行き、その次はロシアに行く。ロシアでは樺太国境問題を討議するためにペテルブルクを訪問するが、そこで幕府使節団は、陸軍病院で尿路結石の外科手術を見学した。

その後、幕府使節団はまたフランスのパリに戻り、そして、最後の訪問国のポルトガルリスボンに文久2年(1862年)8月23日、到着した。

以上、ヨーロッパ6か国の歴訪の長旅で幕府使節団は、幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・地理書をたくさん買い込み、日本へ持ち帰った。また、福沢諭吉は今回の長旅を通じて、自分の目で実際に目撃したことを、ヨーロッパ人にとっては普通であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について細かく記録した。たとえば、病院や銀行郵便法徴兵令選挙制度・議会制度などについてである。それを『西洋事情』、『西航記』にまとめた。

また、福沢諭吉は今回の旅で日本語をうまく話せる現地のフランスの青年レオン・ド・ロニー(のちのパリ東洋語学校日本語学科初代教授)と知り合い、友好を結んだ。そして、福沢諭吉はレオンの推薦で「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となった。(この時、福沢はその学会に自分の顔写真をとられている。)

文久2年(1862年)9月3日、幕府使節団は、日本に向けてリスボンを出港し、文久2年(1862年)12月11日、日本の品川沖に無事に到着・帰国した。

ところが、その時の日本は幕府使節団が予想もしていない状況に一変していた。

品川に到着した翌日の12月12日に、「英国公使館焼き討ち事件」が起こった。文久3年(1863年)3月になると、孝明天皇賀茂両社への攘夷祈願、4月には石清水八幡宮への行幸を受けて、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃する事件が起こった。このように日本は各地で過激な攘夷論を叫ぶ人たちが目立つようになっていた。福沢の周囲では、同僚の手塚律蔵やが誰かに切られそうになるという事件も起こっていた。この時、福沢諭吉は身の安全を守る為、夜は外出しないようにしていたが、同僚の旗本・藤沢志摩守の家で会合したあとに帰宅する途中、浪人と鉢合わせになり、居合で切り抜けなければと考えながら、すれちがいざまに互いに駆け抜けた(逃げた!)こともあった。(この文久2年頃〜明治6年頃までが江戸が一番危険で、物騒な世の中であったと福沢はのちに回想している。)

文久3年(1863年)7月、薩英戦争が起こったことにより、福沢諭吉は幕府の仕事が忙しくなり、外国奉行松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳にあたった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった[注釈 7]。また、禁門の変が起こると長州藩追討の朝命が下って、中津藩にも出兵が命じられたがこれを拒否し、代わりに、以前より親交のあった仙台藩大童信太夫を通じて、同年秋ごろに塾で諭吉に師事していた横尾東作を派遣して新聞『ジャパン=ヘラルド』を翻訳し、諸藩の援助をした。

元治元年(1864年)には、諭吉は郷里である中津に赴き、小幡篤次郎三輪光五郎ら6名を連れてきた。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて御目見以上となり、「御旗本」となった[11][12]。慶応元年(1865年)に始まる幕府の長州征伐の企てについて、幕臣としての立場からその方策を献言した『』では、論の採用に反対し、幕府の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。明治2年(1869年)には、熊本藩の依頼で本格的な西洋戦術書『』を小幡篤次郎・小幡甚三郎と共訳した。また明治2年(1869年)、83歳の杉田玄白蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記を、福沢諭吉は玄白の曽孫の杉田廉卿、他の有志たちと一緒になってまとめて、『蘭学事始』(上下2巻)の題名で刊行した。

再び渡米

慶応3年(1867年)、幕府はアメリカに注文した軍艦を受け取りに行くため、幕府使節団(使節主席・小野友五郎江戸幕府の軍艦受取委員会)をアメリカに派遣することにした。その随行団のメンバーの中に福沢諭吉が加わることになった(他に津田仙尺振八もメンバーとして同乗)。慶応3年(1867年)1月23日、幕府使節団は郵便船「コロラド号」に乗って横浜港を出港する。このコロラド号はオーディン号や咸臨丸より船の規模が大きく、装備も設備も十分であった。福沢諭吉はこのコロラド号の船旅について「とても快適な航海で、22日目にサンフランシスコに無事に着いた」と「福翁自伝」に記している。

アメリカに到着後、幕府使節団はニューヨークフィラデルフィアワシントンD.C.を訪れた。この時、福澤は、紀州藩仙台藩から預かった資金、およそ5,000両で大量の辞書や物理書・地図帳を買い込んだという。

慶応3年6月27日1867年7月28日)、幕府使節団は日本に帰国した。福澤は現地で小野と揉めたため、帰国後はしばらく謹慎処分を受けたが、中島三郎助の働きかけですぐに謹慎が解けた。この謹慎期間中に、福澤は『西洋旅案内』(上下2巻)を書き上げた。

明治維新

慶応3年(1867年)12月9日、朝廷王政復古を宣言した。江戸開城後、福澤諭吉は新政府から出仕を求められたがこれを辞退し、以後も官職に就かなかった。翌年には帯刀をやめて平民となった[13]

慶応4年(1868年)には蘭学塾を慶應義塾と名づけ、教育活動に専念する。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意になり、藩士を大量に受け入れる[14]。特に紀州藩には慶應蘭学所内に「紀州塾」という紀州藩士専用の部屋まで造られた。長岡藩は藩の大参事として指導していた三島億二郎が諭吉の考えに共鳴していたこともあり、藩士を慶應義塾に多数送り込み、らが運営資金を支えてもいた。同時に横浜の高島嘉右衛門藍謝塾とも生徒の派遣交換が始まった。官軍と彰義隊の合戦が起こる中でも英語版『経済学原論』(The Elements of Political Economy, 1866)の講義を続けた(なお漢語に由来する「経済学」の語は諭吉や神田孝平らによりpolitical economyもしくはeconomicsの訳語として定着した)。老中・稲葉正邦から千俵取りの御使番として出仕するように要請されてもいたが、6月には幕府に退身届を提出して退官。維新後は、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、イギリス流憲法論を唱えた。

妻・お錦の実家である土岐家と榎本武揚の母方の実家・林家が親戚であったことから、榎本助命のため寺島宗則(以前の松木弘安)の紹介で官軍参謀長・黒田清隆と面会し、赦免を要求。その後、以前から長州藩に雇われていた大村益次郎や薩摩藩出身の寺島宗則・神田孝平ら同僚が明治新政府への出仕を決め、諭吉にも山縣有朋松本良順らから出仕の勧めがきたがこれを断り、九鬼隆一白根専一濱尾新渡辺洪基らを新政府の文部官吏として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。

新銭座の土地を攻玉社の塾長・近藤真琴に300円で譲り渡し、慶應義塾の新しい土地として目をつけた三田の旧島原藩中屋敷の土地の払い下げの交渉を東京府と行った。明治3年には諭吉を厚く信頼していた内大臣・岩倉具視の助力を得てそれを実現した[15]。明治4年からここに慶應義塾を移転させて、「帳合之法(現在の簿記)」などの講義を始めた。また明六社に参加。当時の文部官吏には隆一や田中不二麿森有礼ら諭吉派官吏が多かったため、1873年(明治6年)、慶應義塾と東京英語学校(かつての開成学校でのち大学予備門さらに旧制一高に再編され、現:東京大学教養学部)は、例外的に徴兵令免除の待遇を受けることになった。

廃藩置県を歓迎し、「政権」(軍事や外交)と「治権」(地方の治安維持や教育)のすべてを政府が握るのではなく「治権」は地方の人に委ねるべきであるとした『』には、これを成立させた西郷隆盛への感謝とともに、地方分権士族の不満を救うと論じ、続く『丁丑公論』では政府が掌を返して西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張した[16]

『』『』『』なども官民調和の主張ないし初歩的な啓蒙を行ったものであった。しかしながら、自由主義を紹介する際には「自由在不自由中(自由は不自由の中にあり)」という言葉を使い、自分勝手主義へ堕することへ警鐘を鳴らした。明治6年(1873年9月4日の午後には岩倉使節団に随行していた長与専斎の紹介で木戸孝允と会談。木戸が文部卿だった期間は4か月に過ぎなかったが、「学制」を制定し、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」の声があった。

明治7年(1874年)、板垣退助後藤象二郎江藤新平が野に下るや、高知の立志学舎に門下生を教師として派遣したほか、後藤の政治活動を支援し、国会開設運動の先頭に立って『郵便報知新聞』に「」と題する社説を掲載。特に後藤には大変入れ込み、後藤の夫人に直接支援の旨を語るほどだった。同年、地下浪人だった岩崎弥太郎と面会し、弥太郎が山師ではないと評価した諭吉は、三菱商会にも荘田平五郎豊川良平といった門下を投入したほか、後藤の経営する高島炭鉱を岩崎に買い取らせた。また、愛国社から頼まれて『』の起草に助力した。

明治9年(1876年)2月、諭吉は懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らとともに、初めて大久保利通と会談した。このときの福澤について大久保は日記の中で「種々談話有之面白く、流石有名に恥じず」と書いている[17]。諭吉によると晩餐のあとに大久保が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べたことについて、諭吉は大久保が自分を民権論者の首魁のように誤解していると感じ(諭吉は国会開設論者であるため若干の民権論も唱えてはいたが、過激な民権論者には常に否定的であった)、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福沢が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答したという[18]

明治14年の政変と『時事新報』

明治13年(1880年)12月には参議の大隈重信邸で大隈、伊藤博文井上馨という政府高官3人と会見し、公報新聞の発行を依頼された。福澤はその場での諾否を保留して数日熟考したが、「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと明治14年(1881年)1月に井上を訪問した。しかし井上が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで福澤はその英断に歓喜し、新聞発行を引き受けた[19]

しかし、大隈重信が当時急進的すぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤への事前相談なしに独自に提出したことで、伊藤は大隈の急進的傾向を警戒するようになった[20]。またちょうどこの時期は「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていた。大隈もその反対論者であり、また慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多かった。そのため政府関係者に大隈・福澤・慶應義塾の陰謀という噂が真実と信ぜられるような空気が出来上がったとみられ、明治14年には大隈一派を政府の役職から辞職させる明治十四年の政変が起こることとなった。つい3か月前に大隈、伊藤、井上と会見したばかりだった諭吉はこの事件に当惑し、伊藤と井上に宛てて違約を責める手紙を送った[21]。2,500字に及ぶ人生で最も長い手紙だった。この手紙に対して、井上は返事の手紙を送ったが伊藤は返答しなかった[22]。数回にわたって手紙を送り返信を求めたが、伊藤からの返信はついになく、井上も最後の書面には返信しなかった。これにより諭吉は両政治家との交際を久しく絶つことになった[23]。諭吉の理解では、伊藤と井上は初め大隈と国会開設を決意したが、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節し、大隈一人の責任にしたというものだった[24]

諭吉はすでに公報発行の準備を整えていたが、大隈が失脚し、伊藤と井上は横を向くという状態になったため、先の3人との会談での公報の話も立ち消えとなった。しかし公報のために整えられた準備を自分の新聞発行に転用することとし、明治15年(1882年)3月から『時事新報』を発刊することになった[25]。『時事新報』の創刊にあたって掲げられた同紙発行の趣旨の末段には、「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之をおしひろめて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、いやしくもこの精神にもとらざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、またその相手を問わず一切敵として之をしりぞけんのみ。」と記されている[26]

教育支援

教育の画一化・中央集権化・官立化が確立されると、東京大学に莫大な資金が注ぎ込まれ、慶應義塾は経営難となり、ついに諭吉が勝海舟に資金調達を願い出るまでとなり、海舟からは「そんな教育機関はさっさとやめて、明治政府に仕官してこい」と返されたため、島津家に維持費用援助を要請することになった。その上、優秀な門下生は大学南校大学東校東京師範学校東京教育大学筑波大学の前身)の教授として引き抜かれていくという現象も起こっていた。

港区を流れる古川狸橋という橋があり、橋の南に位置する狸蕎麦という蕎麦店に諭吉はたびたび来店していたが、明治12年(1879年)に狸橋南岸一帯の土地を買収し別邸を設けた[27]。その場所に慶應義塾幼稚舎が移転し、また東側部分が土筆ケ岡養生園、のちの北里研究所北里大学となった。

明治13年(1880年)、大隈重信と懇意の関係ゆえ、自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれていた諭吉の立場はますます厳しいものとなったが「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、・門野幾之進浜野定四郎の3人に経営を任せることにした。このころから平民の学生が増えたことにより、運営が徐々に黒字化するようになった。

また、私立の総合的な学校が慶應義塾のみで、もっと多くの私立学校が必要だと考え、門下を大阪商業講習所商法講習所で活躍させる一方、専修学校東京専門学校英吉利法律学校の設立を支援し、開校式にも出席した。

明治25年(1892年)には、長與專齋の紹介で北里柴三郎を迎えて、伝染病研究所土筆ヶ岡養生園森村市左衛門と共に設立していく。ちょうど帝国大学の構想が持ち上がっているころだったが、慶應義塾に大学部を設置し小泉信吉を招聘して、一貫教育の体制を確立した。

朝鮮改革運動支援と対清主戦論

明治15年(1882年)に訪日した金玉均やその同志の朴泳孝と親交を深めた諭吉は、朝鮮問題に強い関心を抱くようになった。諭吉の考えるところ、日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護するためにあった。そのためには朝鮮におけるの影響力を排除することで日本が朝鮮の近代化改革を指導する必要があると考え、日本国内で最も強硬な対清主戦論者となっていった[28]

明治15年(1882年)7月23日、壬午事変が勃発し、朝鮮の日本公使館が襲撃される事件があり、外務卿井上馨は朝鮮政府に謝罪・賠償と日本公使館に護衛兵を置くことを認めさせた済物浦条約を締結した。清はこれによって日本の朝鮮への軍事的影響力が増すことを恐れたが、諭吉はこの一連の動きに満足の意を示すとともに、清が邪魔してくるようであればこれを容赦すべきではないと論じた[29]。明治15年10月に朝鮮からの謝罪使が訪日したが、この使節団は朴泳孝が正使、金玉均が副使の一人であった。朴泳孝は帰国に際して諭吉が推薦する慶應義塾出身の牛場卓蔵を朝鮮政府顧問に迎えている[30]

朝鮮宗主権の喪失を恐れる清は、袁世凱率いる3,000の兵を京城へ派遣し、これによって朝鮮政府内は事大党(清派)と独立党(日本派)と中間派に分裂。独立派の金・朴は、明治17年(1884年)12月4日に甲申事変を起こすも、事大党の要請に応えた清軍の出動で政権掌握に失敗した。この騒乱の中で大尉以下日本軍人40人ほどが清軍や朝鮮軍に殺害され、また日本人居留民も中国人や朝鮮人の殺傷略奪を受けた[31]

この事件により日本国内の主戦論が高まり、その中でもとりわけ強硬に主戦論を唱えたのが諭吉だった。このころ諭吉は連日のように時事新報でこの件について筆をとり続け、「我が日本国に不敬損害を加へたる者あり」「支那兵士の事は遁辞を設ける由なし」「軍事費支弁の用意大早計ならず」「今より其覚悟にて人々其労役を増して私費を減ず可し」「戦争となれば必勝の算あり」「求る所は唯国権拡張の一点のみ」と清との開戦を強く訴えた[32]。また甲申事変の失敗で日本に亡命した金玉均を数か月の間、三田の邸宅に匿まった[33]

このときの開戦危機は、明治18年(1885年)1月に朝鮮政府が外務卿・井上馨との交渉の中で謝罪と賠償を行うことを約束したことや、4月に日清間で日清揃っての朝鮮からの撤兵を約した天津条約が結ばれたことで一応の終息をみた。しかし、主戦論者の諭吉はこの結果を清有利とみなして不満を抱いたという[34]

当時の諭吉の真意は、息子の宛ての書簡(1884年12月21日)に、「朝鮮事変之実を申せバ、日本公使幷ニ日本兵ハ、十二月六日支那兵之為ニ京城を逐出され、仁川へ逃げたる訳なり。日支兵員之多寡ハあれ共、日本人が支那人ニ負けたと申ハ開闢以来初て之事なり。何れただニては不相済事ならん。和戦之分れハ、今後半月か一月中ニ公然たる事ト存候。」[35]に窺える。

日清戦争の支援

明治27年(1894年)3月に日本亡命中の金玉均が朝鮮政府に上海におびき出されて暗殺される事件があり、再び日本国内の主戦論が高まった[36]。諭吉も金玉均の死を悼み、相識の僧に法名と位牌を作らせて自家の仏壇に安置している[33]。同年4月から5月にかけて東学党の乱鎮圧を理由に清が朝鮮への出兵を開始すると、日本政府もこれに対抗して朝鮮へ出兵し、ついに日清は開戦に至った(日清戦争)。諭吉は終始、時事新報での言論をもって熱心に政府と軍を支持して戦争遂行を激励した[37]

国会開設以来、政府と帝国議会は事あるごとに対立したため(建艦費否決など)、それが日本の外交力の弱さになって現れ、清にとってしばしば有利に働いた。諭吉は戦争でもその現象が生ずることを憂慮し、開戦早々に時事新報上で『日本臣民の覚悟』を発表し「官民ともに政治上の恩讐を忘れる事」「日本臣民は事の終局に至るまで慎んで政府の政略を批判すべからざる事」「人民相互に報国の義を奨励し、其美挙を称賛し、又銘々に自から堪忍すべき事」を訴えた[38]

また戦費の募金運動(諭吉はこれを遽金と名付けた)を積極的に行って、自身で1万円という大金を募金するとともに、三井財閥三井八郎右衛門三菱財閥岩崎久弥渋沢財閥渋沢栄一らとともに戦費募金組織「報国会」を結成した(政府が別に5,000万円の公債募集を決定したためその際に解散した)[39]

この年は諭吉の還暦であったが、還暦祝いは戦勝後まで延期とし、明治28年(1895年12月12日に改めて還暦祝いを行った。この日、諭吉は慶應義塾生徒への演説で「明治維新以来の日本の改新進歩と日清戦争の勝利によって日本の国権が大きく上昇した」と論じ、「感極まりて泣くの外なし」「長生きは可きものなり」と述べた[40]

晩年

諭吉は日清戦争後の晩年にも午前に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米炊きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったという[41]。このころまでには慶應義塾は大学部を設けて総生徒数が千数百人という巨大学校となっていた。また時事新報も信用の厚い大新聞となっていた[41]

晩年の諭吉の主な活動には海軍拡張の必要性を強調する言論を行ったり、男女道徳の一新を企図して『女大学評論 新女大学』を著したり、北里柴三郎伝染病研究所の設立を援助したりしたことなどが挙げられる[42]。また明治30年(1897年)8月6日に日原昌造に送った手紙の中には共産主義の台頭を憂う手紙を残している[43]

諭吉は明治31年(1898年9月26日、最初に脳溢血で倒れ一時危篤に陥るも、このときには回復した。その後、慶應義塾の『修身要領』を編纂した[44]

しかし明治34年(1901年1月25日、脳溢血が再発したため2月3日に東京で死去。享年68(満66歳没)。7日には衆議院が「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる福沢諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」という院議を決議している[45]。8日の諭吉の葬儀では三田の自邸から麻布善福寺まで1万5,000人の会葬者が葬列に加わった[44]

年譜

  • 1879年(明治12年):東京学士会院(現:日本学士院)初代会長就任。東京府会副議長に選出されるが辞退。『』刊。
  • 1880年(明治13年):専修学校(現:専修大学)の創設に協力し、京橋区の諭吉の簿記講習所、また木挽町の明治会堂を専修学校の創立者4人に提供した。9月、慶應義塾が塾生の激減により財政難に陥ったため、諭吉は廃塾を決意するが、広く寄付を求める「慶應義塾維持法案」を11月23日に発表して、門下生たちが奔走した結果、危機を乗り切る[46]
  • 1881年(明治14年)
  • 1882年(明治15年)
  • 1885年(明治18年)9月19日英吉利法律学校開校式に参列[48]
  • 1886年(明治19年)12月11日明治法律学校南甲賀町校舎移転開校式に参列[49]
  • 1887年(明治20年):伊藤博文首相主催の仮装舞踏会を家事の都合を理由として欠席する。
  • 1889年(明治22年):8月、「慶應義塾規約」を制定。
  • 1890年(明治23年):1月、慶應義塾に大学部発足、文学科・理財科・法律科の3科を置く。
  • 1892年(明治25年):「伝染病研究所」を設立する(北里柴三郎が初代所長となる)。
  • 1893年(明治26年):「土筆ヶ岡養生園」を開設する。
  • 1894年(明治27年):郷里、中津の景勝・競秀峰を自然保護のため買い取る。
  • 1895年(明治28年) - 30年(1897年):箱根京都大阪広島伊勢神宮山陽方面へ旅行に出る。
  • 1898年(明治31年)
    • 5月、慶應義塾の学制を改革し、一貫教育制度を樹立、政治科を増設。
    • 9月26日脳出血で倒れ、いったん回復。
  • 1899年(明治32年)
    • 1月21日勝海舟没。多年にわたる著訳教育の功労により、皇室から金5万円を下賜される。
    • 8月8日、再び倒れ意識不明になったが、約1時間後に意識を回復。『修身要領』完成。
  • 1900年(明治33年)
  • 1901年(明治34年)
    • 1月25日、再び脳出血で倒れる。
    • 2月3日、再出血し、午後10時50分死去[53]。葬儀の際、遺族は諭吉の遺志を尊重し献花を丁寧に断ったが、盟友である大隈重信が涙ながらに持ってきた花を、福澤家は黙って受け取った。また、死によせて福地源一郎が書いた記事は会心の出来映えで、明治期でも指折りの名文とされる。爵位を断る。
    • 2月7日衆議院において満場一致で哀悼を決議[54]
    • 2月8日、葬儀が執り行われた。生前の考えを尊重して「塾葬」とせず、福澤家の私事とされる[55]

諭吉は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに諭吉の終焉の地を示した石碑が設置されている(旧居の基壇の一部が今も残る)。戒名は「大観院独立自尊居士」で、麻布山善福寺にその墓がある。命日の2月3日は雪池忌(ゆきちき)と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。

昭和52年(1977年)、最初の埋葬地(常光寺)から麻布善福寺へ改葬の際、諭吉の遺体がミイラ死蝋)化して残っているのが発見された。外気と遮断され、比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされた。

人物・思想

アジア近隣諸国や日清戦争観

諭吉は、東洋の旧習に妄執し西洋文明を拒む者を批判した。『学問のすすめ』の中で「文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても無形の人事にても、其働の趣を詮索して真実を発明するに在り。西洋諸国民の人民が今日の文明に達したる其源を尋れば、凝の一点より出でざるものなし。之を彼の亜細亜諸州の人民が、虚誕妄説を軽信して巫蠱神仏に惑溺し、或いは所謂聖賢者(孔子など)の言を聞て一時に之に和するのみならず、万世の後に至て尚其言の範囲を脱すること能はざるものに比すれば、其品行の優劣、心勇の勇怯、固より年を同して語る可らざるなり。」と論じている[56]

とりわけ中国人の西洋化・近代化への怠慢ぶりを批判した。明治14年(1881年)には中国人は100年も前から西洋と接してきたことを前置きした上で「百年の久しき西洋の書を講ずる者もなく、西洋の器品を試用する者もなし。其改新の緩慢遅鈍、実に驚くに堪えり。」「畢竟支那人が其国の広大なるを自負して他を蔑視し、且数千年来陰陽五行の妄説に惑溺して物事の真理原則を求るの鍵を放擲したるの罪なり」と断じている[57]

そのような諭吉にとって日清戦争は、「日本の国権拡張のための戦争である」と同時に「西洋学と儒教の思想戦争」でもあった[58]。諭吉は豊島沖海戦直後の明治27年(1894年)7月29日に時事新報で日清戦争について「文野の戦争」「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものの戦」と定義した[59]

戦勝後にはに送った手紙の中で「(自分は)古学者流の役に立たぬことを説き、立国の大本はただ西洋流の文明主義に在るのみと、多年蝶々して已まなかったものの迚も生涯の中にその実境に遭うことはなかろうと思っていたのに、何ぞ料らん今眼前にこの盛事を見て、今や隣国支那朝鮮も我文明の中に包羅せんとす。畢生の愉快、実以て望外の仕合に存候」と思想戦争勝利の確信を表明した[60]。自伝の中でも「顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進進歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕れたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有(ありがた)いとも言いようがない。命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました」(『福翁自伝』、「老余の半生」)とその歓喜の念を述べている[61][62]

しかし諭吉の本来の目的は『国権論』や『内安外競論』において示されるように西洋列強の東侵阻止であり、日本の軍事力は日本一国のためだけにあるのではなく、西洋諸国から東洋諸国を保護するためにあるというものだった[37]。そのため李氏朝鮮の金玉均などアジアの「改革派」を熱心に支援した[33]。明治14年(1881年)6月に塾生の小泉信吉日原昌造に送った書簡の中で諭吉は「本月初旬朝鮮人[要曖昧さ回避]数名日本の事情視察のため渡来。其中壮年二名本塾へ入社いたし、二名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居候。誠に二十余年前の自分の事を思へば同情相憐れむの念なきを不得、朝鮮人が外国留学の頭初、本塾も亦外人を入るるの発端、実に奇遇と可申、右を御縁として朝鮮人は貴賎となく毎度拙宅へ来訪、其咄を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒今後は良く附合開らける様に致度事に御座候」と書いており、朝鮮人の慶應義塾への入塾を許可し、また朝鮮人に親近感を抱きながら接していたことも分かる[33]

漢学について

諭吉は漢学を徹底的に批判した。そのため崇拝者から憎悪されたが、そのことについて諭吉は自伝の中で「私はただ漢学に不信仰で、漢学に重きを置かぬだけではない。一歩進めていわゆる腐儒の腐説を一掃してやろうと若い頃から心がけていた。そこで尋常一様の洋学者・通詞などいうような者が漢学者の事を悪く言うのは当たり前の話で、あまり毒にもならぬ。ところが私はずいぶん漢学を読んでいる。読んでいながら知らぬ風をして毒々しい事をいうから憎まれずにはいられぬ」「かくまでに私が漢学を敵視したのは、今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年生の脳中にわだかまっては、とても西洋の文明は国に入ることができぬと、あくまで信じて疑わず、いかにもして彼らを救い出して我が信ずるところへ導かんと、あらゆる限りの力を尽くし、私の真面目を申せば、日本国中の漢学者はみんな来い、俺が一人で相手になろうというような決心であった」とその心境を語っている[63]

『文明論之概略』では孔子孟子を「古来稀有の思想家」としつつ、儒教的な「政教一致」の欠点を指摘した[64]。『学問のすすめ』においては、孔子の時代は2000年前の野蛮草昧の時代であり、天下の人心を維持せんがために束縛する権道しかなかったが、後世に孔子を学ぶ者は時代を考慮に入れて取捨すべきであって、2000年前に行われた教をそのまま現在に行おうとする者は事物の相場を理解しない人間と批判する。また西洋の諸大家は次々と新説を唱えて人々を文明に導いているが、これは彼らが古人が確定させた説にも反駁し、世の習慣にも疑義を入れるからこそ可能なことと論じた[65]

白人至上主義

白人を絶賛する一方で黄色人種については「勉励事を為すと雖ども其才力狭くして事物の進歩甚だ遅し」と否定的であり、さらにその他の有色人種については野蛮人と評している。

前条の如く世界の人員を五に分ち其性情風俗の大概を論ずること左の如し
(一)白皙人種
皮膚麗しく毛髪細にして長く頂骨大にして前額(ヒタイ)高く容貌骨格都て美なり其精心は聡明にして文明の極度に達す可きの性ありこれを人種の最とす欧羅巴一洲、亜細亜の西方亜非利加の北方、及ひ亜米利加に住居する白哲人は此種類の人なり
(二)黄色人種
皮膚の色黄にして油の如く毛髪長くして黒く直くにして剛し頭の状稍や四角にして前額低く腮骨平にして広く鼻短く眼細く且其外眥斜に上れり其人の性情よく艱苦に堪へ勉励事を為すと雖ども其才力狭くして事物の進歩甚だ遅し支那「フヒンランド」(魯西亜領西北ノ地)「ラプランドル」(同上フヒンランド北方ノ地)等の居民は此種類の人なり
(三)赤色人種
皮膚赤色と茶色とを帯て銅の如く、黒髪直くして長く、頂骨小にして腮(ホウ)骨高く前額低く口広く眼光暗くして深く鼻の状、尖り曲て釣の如く又鷲の嘴(クチバシ)の如し体格長大にして強壮、性情険くして闘を好み復讎の念常に絶ることなし南北亜米利加の土人は此種類の人なり但しこの人種は白皙人の文明に赴くに従ひ次第に衰微し人員日に減少すと云ふ
(四)黒色人種
皮膚の色黒く捲髪(チヾレゲ)羊毛を束ねたるが如く頭の状、細く長く腮(ホウ)骨高く顋(アギト)骨突出し前額低く鼻平たく眼大にして突出し口大にして唇厚し其身体強壮にして活溌に事をなすべしと雖ども性質懶惰にして開化進歩の味を知らず亜非利加沙漠の南方に在る土民及び売奴と為て亜米利加へ移居せる黒奴等は此種類の人なり
(五)茶色人種
皮膚茶色にして渋(シブ)の如く黒髪粗にして長く前額低くして広く口大にして鼻短く眥(マシリ)は斜に上ること黄色人種の如し其性情猛烈復讎の念甚だ盛なり太平洋亜非利加の海岸に近き諸島及び「マラッカ」(東印度の地)等の土民はこの種類の人なり — 福澤諭吉、『掌中万国一覧』21-26頁

議会政治・自由民権運動について

諭吉は明治12年(1879年)の『民情一新』の中で、「現代において国内の平和を維持する方法は権力者が長居しないで適時交替していくことであるとして、国民の投票によって権力者が変わっていくイギリス政党政治議会政治を大いに参考にすべし」と論じた。国会開設時期については政府内で最も強く支持されていた「漸進論に賛成する」と表明しつつ、過度に慎重な意見は「我が日本は開国二十年の間に二百年の事を成したるに非ずや。皆是れ近時文明の力を利用して然るものなり」「人民一般に智徳生じて然る後に国会を開くの説は、全一年間一日も雨天なき好天気を待て旅行を企てるものに異ならず。到底出発の期無かるべし」「今の世に在りて十二年前の王政維新を尚早しと云はざるものは、又今日国会尚早しの言を吐く可きにあらざるなり」として退けている[66]

ただし、諭吉は国内の闘争よりも国外に日本の国権を拡張させることをより重視し、「内安外競」「官民調和」を持論としたため、自由民権運動に興じる急進派には決して同調せず、彼らのことを「駄民権論者」「ヘコヲビ書生」と呼んで軽蔑し、その主張について「犬の吠ゆるに異ならず」と批判した[67]。『時事小言』の中で諭吉は「政府は国会を開いて国内の安寧を図り、心を合わせて外に向かって国権を張るべきこと」を強調している[68]

また諭吉が明治14年(1881年)にロンドンに滞在している慶應義塾生の小泉信吉に送った手紙には「地方処々の演説、所謂ヘコヲビ書生の連中、其風俗甚だ不宜(よろしからず)、近来に至ては県官を罵倒する等は通り過ぎ、極々の極度に至ればムツヒト(=明治天皇)云々を発言する者あるよし、実に演説も沙汰の限りにて甚だ悪しき兆候、斯くては捨置難き事と、少々づつ内談いたし居候義に御座候」と書かれており、皇室への不敬な姿勢などの自由民権論者の不作法も許しがたいものがあったようである[69]

諭吉の男女同等論

諭吉は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいち早く日本に紹介した。「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間であるため、同様の教育を受ける権利があると主張した[70]。自身の娘にも幼少より芸事を仕込み、ハインリヒ・フォン・シーボルト夫人に芸事の指導を頼んでいた。

諭吉が女性解放思想で一番影響を受けていたのがイギリスの哲学者・庶民院議員ジョン・スチュアート・ミルであり、『学問のすすめ』の中でも「今の人事に於て男子は外を努め婦人は内を治るとて其関係殆ど天然なるが如くなれども、ステュアート・ミルは婦人論を著して、万古一定動かす可らざるの此習慣を破らんことを試みたり」と彼の先駆性を称えている[71]

明治7年(1874年)に発足した慶應義塾幼稚舎が、同10年(1877年)以降しばらくの間、男女をともに教育した例があり、これは近代化以降の日本の教育における男女教育のいち早い希有なことであった。なお、明治民法の家族法の草案段階は、諭吉の男女同等論に近いものであったり諭吉もそれを支持したが、士族系の反対があったため家父長制のものに書き換えられた。

『時事新報』1885年6月4日-6月12日、7月7日-7月17日に「日本婦人論」を発表、後編は8月刊、前編は当時刊行されなかった。

著作権

出版物の管理と販売の権利は作者に独占させるというイギリスのを日本に持ち込み、明治元年(1868年)の10月に新政府へ海賊版の取り締まりを求める願書を提出、翌年の5月13日に、版権思想に基づいた出版条例の公布を実現させる。これにより、それ以前は有識者の仲間内で判断されていた著作権の最終判断が司法の場に持ち込まれることになる。また諭吉は並行して明治2年(1869年)の11月に出版業界に参入し、「福澤屋諭吉」という出版社を自ら作り[72]、明治6年(1873年)3月には、の著作『啓蒙天地文』に自著の『啓蒙手習之文』からの無断引用があったとして非難を行った。当時は出版会社が著作物の権利を握り、盗作が発生しても作者への金銭的被害が皆無であったことから、東京日々新聞のように日柳を擁護するメディアが多数であったが、諭吉のこうした活動は、文章の無断引用は違法行為であるとの認識を社会に浸透させるきっかけの一つとなった。

私生活

文久元年(1861年)、中津藩士江戸定府の土岐太郎八の次女・錦と結婚し、四男五女の9人の子どもをもうけた。松山棟庵によると、諭吉は結婚前にも後にも妻以外の婦人に一度も接したことがなかったという[73]

或時先生にお話すると「左樣か、性來の健康の外に別段人と異つた所もないが唯一つの心當りと云ふのは、子供の前でも話されぬ事だが、私は妻を貰ふ前にも後にも、未だ嘗て一度も婦人に接した事がない、隨分方々を流浪して居るし、緒方塾に居た時は放蕩者等を、引ずつて來るために不潔な所に行つた事もあるが、金玉の身体をむざ/\汚す様な機會をつくらぬのだ」と先生は嘘をつく方ではない、先生の御夫婦ほど純潔な結合が、今の世界に幾人あるだらう

居合の達人

諭吉は、若年のころより立身新流居合の稽古を積み、成人のころに免許皆伝を得た達人であった。ただし、諭吉は急速な欧米思想流入を嫌う者から幾度となく暗殺されそうになっているが、斬り合うことなく逃げている。無論、逃げることは最も安全な護身術であるが、諭吉自身、居合はあくまでも求道の手段として殺傷を目的としていなかったようであり、同じく剣の達人と言われながら生涯人を斬ったことがなかった勝海舟山岡鉄舟の思想との共通性が窺える。

晩年まで健康のためと称し、居合の形稽古に明け暮れていた。医学者の土屋雅春は、諭吉の死因の一つに「居合のやりすぎ」を挙げている[74]。晩年まで一日千本以上抜いて居合日記をつけており、これでは逆に健康を害すると分析されている。

明治中期より武術ブームが起こると、人前で居合を語ったり剣技を見せたりすることは一切なくなり、「居合刀はすっかり奥にしまいこんで」いた[75]。流行り物に対してシニカルな一面も窺える。

諭吉と勝海舟

諭吉は、勝海舟の批判者であり続けた。戊辰戦争の折に清水港に停泊中の脱走艦隊の1隻である咸臨丸の船員が新政府軍と交戦し徳川方の戦死者が放置された件(清水次郎長が埋葬し男を上げた意味でも有名)で、明治になってから戦死者の慰霊の石碑が清水の清見寺内に立てられるが、諭吉は家族旅行で清水に遊びこの石碑の碑文を書いた男が榎本武揚と銘記され、その内容が「食人之食者死人之事(人の食(禄)を食む者は人の事に死す。即ち徳川に仕える者は徳川家のために死すという意味)」を見ると激怒したという[注釈 8]

瘠我慢の説』という公開書簡によって、海舟と榎本武揚(ともに旧幕臣でありながら明治政府に仕えた)を理路整然と、古今の引用を引きながら、相手の立場を理解していると公平な立場を強調しながら、容赦なく批判している。なお諭吉は海舟に借金の申し入れをしてこれを断られたことがある[76]。当時慶應義塾の経営は西南戦争の影響で旧薩摩藩学生の退学などもあり思わしくなく、旧幕臣に比較的簡単に分け隔てなく融通していた海舟に援助を求めた。しかし海舟は諭吉が政府から払い下げられた1万4000坪に及ぶ広大な三田の良地を保有していることを知っていたため、土地を売却してもなお(慶應義塾の経営に)足りなかったら相談に乗ると答えたが、諭吉は三田の土地を非常に気に入っていたため売却していない。瘠我慢の説発表はこのあとのことである。また、『福翁自伝』で諭吉は借金について以下のように語っている[77]

「私の流儀にすれば金がなければ使わない、有っても無駄に使わない、多く使うも、少なく使うも、一切世間の人のお世話に相成らぬ、使いたくなければ使わぬ、使いたければ使う、嘗(かつ)て人に相談しようとも思わなければ、人に喙(くちばし)を容れさせようとも思わぬ、貧富苦楽共に独立独歩、ドンなことがあっても、一寸でも困ったなんて泣き言を言わずに何時も悠々としているから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも金持だと測量する人もありましょう。」

海舟も諭吉と同様に身なりにはあまり気を遣わない方であったが、よく軽口を叩く癖があった。ある日、上野精養軒の明六社へ尻端折り姿に蝙蝠傘をついて現れた海舟が「俺に軍艦3隻ほど貸さないか?日本が貧乏になってきたからシナに強盗でもしに行こうと思う。向こうからやかましく言ってきたら、あいつは頭がおかしいから構うなと言ってやればいい。思いっきり儲けてくるよ。ねえ福沢さん、儲けたらちっとあげます」と言ってからかったという[78]

しかし、海舟は諭吉のことを学者として一目置いており、自分が学んだ佐久間象山の息子の佐久間恪二郎や、徳川慶喜の十男で養子の勝精を慶應義塾に入学させるなど面倒見のよい一面もあった。

西洋医学

土屋雅春の『医者のみた福澤諭吉』(中央公論社、中公新書)や桜井邦朋の『福沢諭吉の「科學のススメ」』(祥伝社)によれば、諭吉と西洋医学との関係は深く、以下のような業績が残されている。

『蘭学事始』の出版

杉田玄白が記した『蘭東事始』の写本を、諭吉の友人・神田孝平が偶然に発見した。そこで、杉田玄白の4世の孫である杉田廉卿の許可を得て、諭吉の序文を附して、明治2年(1869年)に『蘭学事始』として出版した。さらに明治23年(1890年4月1日には、再版を「蘭学事始再版序」を附して日本医学会総会の機会に出版している。

北里柴三郎への支援

明治25年(1892年)10月、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎のために、福沢諭吉は東京柴山内に「伝染病研究所」(伝研)を設立し、北里を所長に迎えた。その後、伝研は同年11月、大日本私立衛生会に移管され、年間3600円の支援を受けた。明治27年(1894年)には、伝研は芝愛宕町に移転したが、その時、近隣住民から反対運動が起こった。そこで、福澤諭吉は次男・の新居を伝研の隣りに作り、伝研が危険でないことを示して、北里柴三郎の研究をサポートした。明治32年(1899年)に伝研が国に移管されると、北里は伝研の所長を辞任し、諭吉と長與專齋森村市左衛門とが創設した「土筆ヶ岡養生園」に移った。

慶應義塾医学所の創設

明治3年(1870年)、慶應義塾の塾生前田政四郎のために、諭吉が英国式の医学所の開設を決定した。そして明治6年(1873年)、慶應義塾内に「慶應義塾医学所」を開設した。所長は慶應義塾出身の医師松山棟庵が就任した。また、杉田玄端を呼んでを医学訓練の場所とした。なお、明治13年(1880年)6月、慶應義塾医学所は経営上の理由により閉鎖されることになった。

しかし、諭吉の死後15年たった大正5年(1916年12月27日、慶應義塾大学部に医学科の創設が許可され、大正6年(1917年)3月、医学科予科1年生の募集を開始し、学長[79][80]として北里柴三郎が就任することになった。

その他

  • 同世代の思想家を挙げると、橋本左内とは同年代、坂本龍馬は一つ年下、高杉晋作は五つ年下、吉田松陰で四つ年上。これら幕末の人物と同世代であるというイメージが世間一般ではすらりと出にくいとされる[81]
  • 同時代の思想家で最も共通しているといわれているのは横井小楠で、小楠が唱えた天意自然の理に従うという理神論「天の思想」と諭吉の人生観が合致するとされている[82]
  • 文久3年(1863年)の春ごろから『姓名録』(『慶應義塾入社帳』29冊現存)をつけ始め、入塾者を記録し始めた。これ以前およびのちの数年の正確な入塾者については明らかになっていない。
  • 『福翁自伝』には万延元年(1860年)5月から文久元年(1861年)12月までと、元治元年(1864年)10月から慶応3年(1867年)1月までの二つの重要な幕末の時期について言及がない。どうやら元治年間以降については、徳川慶喜を頂点としつつ大鳥圭介小栗忠順太田黒伴雄らを与党とする実学派(公武合体派)の人々と連携して、長州の久坂玄瑞高杉晋作をはじめ、尊王攘夷派に対抗する活動に従事していたと分析されている[83]
  • 第二次長州征伐では、徹底的に長州藩を討つべしと幕府に建言し、「尊王攘夷」などというものは長州のいい加減な口実で、世を乱すものにすぎないと進言した[84]。しかしこれは諭吉が彼らが強硬な攘夷論者で鎖国体制に戻すつもりだと思っていたためである。諭吉は徳川幕府にも西洋文明国を模範とした根本的改革を実施する意思があるように見えないと感じていたため早晩幕府を打倒せねばならぬと考えていたが、それに取って代わるのが鎖国主義政権では西洋化の立国がさらに危うくなると考えていた[85]。ところが諭吉が攘夷主義と思っていた新政府は果断なる開国主義を採用したので、諭吉もこれに驚いた。そして明治政府の進歩性を認めるに及んで民間から啓蒙運動を行って明治政府に協力することにしたのであった[86]
  • 諭吉の著書には、しばしば儒学者の荻生徂徠が出てくるが、思想には影響を受けた大儒であってもやはり漢学者には心酔者が多いのでだめであると論じた[87]
  • 文明の本質を「人間交際」にあると考えており、多様な要素の共存が文明の原動力だとし、これを自身の哲学の中心に据えた[88]
  • 期待していた水戸藩が維新前に水戸学立原翠軒派と藤田幽谷派の内ゲバ天狗党で分裂してしまったことを例に挙げ、学問や政治の宗教化を厳しく批判し、その他宗教的なものは一切認めないと論じた[89]
  • 徳川家康を「奸計の甚しきものを云ふ可し」と論じ、豊臣秀吉を高く評価した[90]
  • 細川潤次郎が邸宅に赴いた際、諭吉が国家に尽くした功績を政府が褒めるよう政府の学校の世話をすることを求められたのに対して「褒めるの褒められぬのと全体そりゃなんのことだ。人間が当たり前の仕事をしているのに何の不思議もない。車屋は車を引き、豆腐屋は豆腐をこしらえる、書生は書を読むというのは人間当たり前の仕事をしているのだ」として「学者を誉めるなら豆腐屋も誉めろ」といったという[91]
  • 明治政府内では大鳥圭介後藤象二郎びいきで、「相撲や役者のように政治家にも贔屓というものがありますが、私は後藤さんが大の贔屓なのです」と語り、諭吉邸から歩いて20分ほどの距離にあった後藤の屋敷(現在の高輪プリンスホテル周辺)には頻繁に行き来していた。大鳥に関しては適塾時代からの友人で、『痩我慢の説』でも大鳥は批判されていなかった。
  • 立憲改進党が結党式を挙行する際に京橋明治会堂大隈重信に会場として貸し出したことがある。このように、後輩思いで頼まれるとなかなか断れないというな面が強かったようである[92]
  • 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は諭吉の言と誤解されることが多いが、学問のスゝメ冒頭には「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり(言われている)」と書かれており、正しくは諭吉の言ではない。出典元は諸説あるが、トーマス・ジェファーソンによって起草されたといわれるアメリカの独立宣言の一節を意訳したものというのが有力説である[93]
  • イギリスの政治体制を最も理想的な政治体制と考えており、日本の最終到着点もそこであると考えていた。イギリス議会人の代表的人物ウィリアム・グラッドストンを深く尊敬していた[94]。諭吉はしばしば、伊藤博文ら保守派が尊敬するビスマルクを「」、グラッドストンを「民主主義」として対比して論じた[95]。1897年にグラッドストンが死去した際には『時事新報』にその死を悼む文章を載せている。その中で諭吉は、グラッドストン翁がアイルランド自治を訴えたり、アメリカ人を友視したりしたのは、翁の目的がアングロ・サクソン人の喜びにあったためであるとし、さらに深くその意義を考えると翁の真の目的は文明進歩の一点だったとする。世界に文明を広めて人類の幸福を増す大事業はアングロサクソン人種の力によるところが最も大きいと考えていた翁は、文明進歩のためにアングロサクソン人に重きをなしていたと考えられるからというのがその理由であった。また翁がヴィクトリア女王から爵位を受けとらず生涯平民で通したことも「高節清操」と高く評価した[94]
  • 緒方洪庵のほかに自伝でも触れられている英雄の一人が江川太郎左衛門英竜(江川英龍)で、寒中袷一枚で過ごしているのを聞いて自分も真似たという[96]
  • 『時事新報』は、明治21年(1888年)3月23日、日本で初めて新聞紙上に天気予報を掲載した。晴れや雨を表すイラストは現在の天気予報で使用されているお天気マークの元祖である[97]
  • 『西洋旅案内』は外国為替や近代的な保険制度について書かれた日本最初の文献である。
  • 明治3年(1870年)5月中旬、発疹チフスを患うと、元福井藩主・松平春嶽公が所有していたアンモニア吸収式冷凍機を借用。大学東校の宇都宮三郎の下で、我が国で初めて機械によって氷を製造した[98]
  • 文明論之概略』は新井白石の『読史余論』から影響を受けており、維新の動乱の最中、程度の高い成人向けに「なかんずく儒教流の故老に訴えてその賛成をうる」ことを目的とし、西郷南州なども通読したることになった[99]
  • 諭吉の代表的な言葉戒名にも用いられた言葉が「」である。その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」(『修身要領』第二条)。
  • 晩年の自伝である『福翁自伝』において、適塾の有様について「塾風は不規則と云(い)わんか不整頓と云わんか乱暴狼藉、丸で物事に無頓着(むとんじやく)。その無頓着の極(きょく)は世間で云うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止めない」と記している[100]
  • ベストセラーになった『西洋事情』や『文明論之概略』などの著作を発表し、明治維新後の日本が中華思想儒教精神から脱却して西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作った(脱亜思想)。
  • 『時事新報』に「兵論」という社説を寄稿し、官民調和の基で増税による軍備拡張論を主張した[101]
  • 上記の通り家柄がものをいう封建制度を「親の敵(かたき)」と激しく嫌悪した。その怒りの矛先は幕府だけでなく、依然として中華思想からなる冊封体制を維持していた李氏朝鮮の支配層にも向けられた。一方で、榎本や海舟のように、旧幕臣でありながら新政府でも要職に就く姿勢を「オポチュニスト」と徹底的に批判する一面もある(『瘠我慢の説』)。
  • 諭吉は幼少期よりを嗜み、月代を剃るのを嫌がるのを母親が酒を飲ますことを条件に我慢させたという[102]。適塾時代に禁酒を試みたが、親友の丹後宮津藩士・から、「君の辛抱はエライ。能くも続く。見上げて遣るぞ。所が凡そ人間の習慣は、仮令(たと)い悪い事でも頓に禁ずることは宜しくない。到底出来ない事だから、君がいよ/\禁酒と決心したらば、酒の代りに烟草(タバコ)を始めろ。何か一方に楽しみが無くては叶わぬ」と煙草を勧められ喫煙者になってしまい、禁酒にも失敗して「一箇月の大馬鹿をして酒と烟草と両刀遣いに成り果て」る結果に終わった[103]。三田の酒屋津國屋をひいきの店とし、自ら赴き酒を購入することもあった。
  • 適塾時代に覚えた煙草を晩年まで好み、太いキセルで煙草をふかしたことから、塾生からは「海賊の親分」との愛称を貰っていたようである[104]
  • 宗教については淡白で、晩年の自伝『福翁自伝』において、「幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有(ありがた)いだのということは一寸(ちよい)ともない。卜筮呪詛(うらないまじない)一切不信仰で、狐狸(きつねたぬき)が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした」と述べている[105]
  • 銀行、特に中央銀行の考え方を日本に伝えた人物で、日本銀行の設立に注力している。
  • 会計学の基礎となる複式簿記を日本に紹介した人物でもある。借方貸方という語は諭吉の訳によるもの。
  • 日本に近代保険制度を紹介した。諭吉は『西洋旅案内』の中で「災難請合の事-インスアランス-」という表現を使い、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(海上保険)の三種の災難請合について説いている。
  • 日本銀行券D号1万円札、E号1万円札の肖像に使用されている[4]。そのせいか、「諭吉」が一万円札の代名詞として使われることもある。
  • 現在「最高額紙幣の人」としても知られているが、昭和59年(1984年11月1日の新紙幣発行に際して、最初の大蔵省(現:財務省)理財局の案では、十万円札が聖徳太子、五万円札が野口英世、一万円札が福澤諭吉となる予定だった。その後、十万円札と五万円札の発行が中止されたため、一万円札の福澤諭吉が最高額紙幣の人となった[106]
  • 慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の運営する学校では、創立者の諭吉のみを「福澤先生」と呼ぶ伝統があり、ほかは教員も学生も公式には「○○君」と表記される[注釈 9]
  • 批判的だった『日の出新聞』からは「法螺を福沢、嘘を諭吉」とまで謗られた(明治15年8月11日付)[107]
  • 1884年に『時事新報』で論じていた徴兵に関する見解をまとめた『全国徴兵論』を刊行した。同書の中で諭吉は、1883年の徴兵令改正を平等連帯の主義を推し進める「政府の美挙なり」と賛辞を贈った上で、徴兵は苦役であり逃れたいと思うのは当然の人情だが、一部の人のみがそれに当たるのは同国同胞の徳義において忍びない、徴兵逃れをせず平等に義務に服することが「我輩の願ってやまないところ」と述べた[108]。しかし、次男捨次郎の徴兵の際には「独りヲネストにあるも馬鹿らし」いと徴兵逃れを画策し、まんまと成功している[108]

エピソード

  • 適塾時代のエピソードには「解剖」「の頭を貰ってきて、解剖的に脳だの眼だのよくよく調べて、散々いじくった跡を煮て食った話」などが自伝で語られており、ほかにも大坂の町人江戸町人の対比(大坂の町人は極めて臆病だ。江戸で喧嘩をすると野次馬が出て来て滅茶苦茶にしてしまうが、大坂では野次馬はとても出て来ない。夏のことで夕方飯を食ってブラブラ出て行く。申し合せをして市中で大喧嘩の真似をする。お互いに痛くないように大層な剣幕で大きな声で怒鳴って掴み合い打ち合うだろう。そうすると、その辺の店はバタバタ片付けて戸を締めてしもうて寂りとなる。)や「の味噌漬と欺して河豚を食わせる」「禁酒から煙草」など自伝には諭吉の人物像を表すエピソードが多数記されている。
  • 幼少のころから酒を好みよく飲んでいたが、この適塾時代にはかなり飲んだとされ、「書生の生活酒の悪弊」「血に交わりて赤くならず」「書生を懲らしめる」(自伝)には、恐ろしく飲んで洪庵夫妻を驚かせる、囲碁の話、茶屋の話などが記されている。塾長になり、金弐朱の収入を受けてからもほとんどを酒の代に使い、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買ってきて塾中で独り飲むということであった。
  • あるとき酒に酔って素っ裸で塾内をうろついていると緒方夫人とばったり会ってしまった。このときのことをのちに「緒方先生の奥様の前に裸で出てしまった時の恥ずかしさは40年経っても忘れられない」と回想している。これがきっかけで「酒で失敗するのはもう御免だ」と一時的に酒を止め、10日ほどは我慢するが、同期生から「たとえ体に悪いことでも急に止めるのは良くない」と酒の代わりに煙草を薦められる。最初に吸ったときはむせてしまったが、数日で立派なヘビースモーカーとなった。結局酒も止められず、いつしか元の大酒飲みに戻っていたという。
  • 禁酒はできないため節酒する決断をする。第一に朝酒を廃し、次に昼酒を禁じた。晩酌の全廃はとても行われず、次第に量を減らして穏やかになるのに3年もかかった。鯨飲の全盛は30代半ばまでの10年間だったという。
  • 万延元年(1860年)、アメリカから帰国した諭吉は日本への上陸第一歩の海辺で出迎えにきた木村摂津守の家来に、「何か日本に変わったことは無いか」と尋ねた。その家来は顔色を変えて、「イヤあったともあったとも大変なことがあった」という。諭吉はそれをおしとどめて「言うてくれるな、私が当てて見せよう、大変といえば何でもこれは水戸の浪人が掃部様(大老・井伊直弼)の邸に暴れこんだというようなことではないか」(自伝)と、3月3日桜田門外の変を正確に言い当て、家来を驚かせたことがある。もっとも、徳川斉昭の反目や安政の大獄による弾圧などで、このような事態は幕府の有識者の間では前もって分かっていたことだった。
  • 経済文明開化動物園、また演説という表記など、和製漢語を数多く作った。自由も、著書『西洋事情』によって世間に広まった。
  • 将棋を愛好しており、森有礼服部金太郎芳川顕正らとともに名人小野五平の後援者であった[109]

研究・評価史

日本における福澤研究をめぐる論争

「脱亜論」再発見から

太平洋戦争大東亜戦争)後、歴史学者の服部之総遠山茂樹らによって諭吉の「脱亜論」が再発見され、「福沢諭吉はアジア諸国を蔑視し、侵略を肯定したアジア蔑視者である」と批判された[110]丸山真男服部之総の諭吉解釈を「論敵」としていたといわれる[111]

平成13年(2001年)、朝日新聞に掲載された安川寿之輔の論説「福沢諭吉 アジア蔑視広めた思想家[112]」に、平山洋が反論「福沢諭吉 アジアを蔑視していたか」[113]を掲載したことで、いわゆる「安川・平山論争」が始まった[114]

平山は、井田進也の文献分析を基礎に[115]、諭吉のアジア蔑視を、『福澤諭吉伝』の著者で『時事新報』の主筆を務め、『福澤全集』を編纂した石河幹明の作為にみる[116]。平山によれば、諭吉は支那中国)や朝鮮政府を批判しても、民族そのものをおとしめたことはなかった。しかし、たとえばの兵士をになぞらえた論説など、差別主義的内容のものは石河の論説であり、全集編纂時に諭吉のものと偽って収録したのだという。

しかしながらこの問題は、平山自身や都倉武之がいうように、無署名論説の執筆者を文献学(テキストクリティーク)的に確定しないことには決着がつかない[117]井田進也は無署名論説認定方法を応用した『福澤諭吉全集』収録の「時事新報論説」執筆者再認定作業を開始している[118]。今後の研究が待たれるところである[119]

わが国が近代国家形成の為にとった選択とは、まさに「脱亜」の二字でありました。しかしその日本には大変大きな不幸があります。それは隣国支那と朝鮮です。人種の違いなのか、教育の差なのか、日本との文化的隔たりは余りにも大きいものです。教育といえば、二千年も昔の儒教と仁義礼智。一から十まで外見を飾り立てる事だけで、中身は空、道徳心などかけらもなく、その残酷さは破廉恥を極めています。いまの支那朝鮮は、日本の為に毛筋一本の値打ちもありません。支那朝鮮とは早々に縁を切り、西欧諸国と進退を共にすべきです。もはや隣国だからと、格別の配慮などする必要はありません。支那朝鮮に対しては、人の住む国とさえ思わず、厳しく対処すればよろしい。私の心はもはや、東方アジアの悪である支那朝鮮とは絶交を宣言しています。 — 『脱亜論』1885年(明治18年)3月16日

「時事新報」無署名論説

平山洋は、井田の分析を基に現行全集の第七巻までは署名入りで公刊された著作であるのに対して、八巻以降の『時事新報論集』はその大部分が無署名であることを指摘した上で、大正時代の『福沢全集』(1925 - 26年)と昭和時代の『続福沢全集』(1933 - 34年)の編纂者であった弟子の石河幹明が『時事新報』から選んだものを、そのまま引き継いで収録しているとした。さらに現行版『全集』(1958 - 64年)の第一六巻には諭吉の没後数か月してから掲載された論説が六編収められていることも指摘している[120]

人気度

2000年(平成12年)3月12日付で朝日新聞により「この1000年・日本の政治リーダー読者人気投票」という特別企画が組まれ、西暦1000年から1999年の間に登場した歴史上の人物の中から、「あなたが一番好きな政治リーダー」を投票してもらう企画で、得票数7,863票のうち、第6位の豊臣秀吉(382票)に次ぐ第7位(330票)にランクインするなど、国民的な人気がある[121]

アメリカ合衆国における評価

中国における評価

平山洋は、「中国人による福沢批判の声の大きさに惑わされて、その主張にほとんど多様性がない」と批判した。

彼ら中国の福沢批判者は、彼の思想を実際に読んでいるわけではなく、ごくわずかだけ中国語訳されている、日本の福沢研究論文の骨子を、中国語で叫んでいるだけなのである。彼らが下敷きにしているのは、服部之総遠山茂樹安川寿之輔らの研究である。それ以外の、福沢を「市民的自由主義者」として肯定的に評価する丸山真男らの論文が出発点となることはない。[122]

小川原正道は、「平成22年11月に北京大学で講演し、福沢の文化思想や宗教思想などについて話した際、同大学の著名な教授から「福沢には『脱亜論』以外の側面もあるんですね」と素直に驚かれ、愕然とした」と述べる[123]

また、最も福澤の対外思想へ批判的な安川寿之輔の著書が近年中国で盛んに翻訳されている[124]

だが、区建英の研究によると、以下のように説明されている:

  1. 清朝末期における福澤はむしろ優れた啓蒙思想家、教育家としての一面が強く認識されていた[125]
  2. また1980年代に中国の改革開放政策を進める中、日本の「近代化」の成功へ着目し、日本に成功の秘訣を学ぼうとする傾向が生じた。福澤も日本の「近代化」を支えた思想家、そしてシンボルの一つとみなされ、彼の「脱亜論」を再評価する見方さえも登場した [126]
  3. 決してのちの福澤=脱亜論者というイメージではなかった。

丸山眞男は中国における福澤の人物像に対する主な反論として以下の5点を挙げている:

  1. 「脱亜」は福澤のキーワードではなかった[127]
  2. 福澤が1885年の時点でただ一回だけ「脱亜」の文字を用いて書いた社説は、1884年12月に「甲申政変」の失敗のもとに執筆された。一時的な感情の表現と解釈すべきである[128]
  3. 「脱亜」という言葉は「興亜」という言葉に対するシニカルな反語的表現と思われる[129]
  4. 福澤の思想においては、終始、政府(政権)と国とをはっきり区別した立場がとられ、また政府の存亡と人民あるいは国民の存亡とを厳しく別個の問題として取り扱う考え方が貫かれていた。攻撃の対象は中国・朝鮮の人民ではなく、あくまでも満清・李氏朝鮮の政府である[130]
  5. 「脱亜入欧」という表現が福澤の全思想のキーワードとして世界に流通するのは1950年代以後の傾向である[131]

台湾における評価

李登輝は、講演「学問のすゝめと日本文化の特徴」で諭吉について、欧米を日本に紹介するだけではなく、『学問のすゝめ』を著すことによって、思想闘争を行い、日本文化の新しい一面を強調しながらも日本文化の伝統を失わずに維持したと評価している[132]

韓国における評価

大韓民国脱亜論を引用した研究論文が見られるようになるのは1970年以降であり[133]1980年代に日本で歴史教科書問題が起こり、日本の朝鮮侵略の論理として改めて認知され、現在は韓国の高校世界史教科書にも載っている[134]

諭吉が援助した李氏朝鮮開化派は、その中心にいた朴泳孝日本統治時代の朝鮮において爵位を得るなどの厚遇を得て、金玉均は死後に贈位されたことなどから、独立後の韓国では親日派とみなされ、諭吉への関心もほとんどなかったものと推測される。金に対する評価は北朝鮮の方が高く[注釈 10]、それを受けた形で、歴史研究家の姜在彦1974年(昭和49年)に「金玉均の日本亡命」を発表し[135]、諭吉に触れて「最近の研究で明らかにされてきているように、諭吉の思想における国権論的側面」という言葉が見える。この当時の日本において、諭吉を自由主義者としてではなく国権論者としてとらえ、侵略性を強調する傾向が高まっていたわけだが、姜在彦は諭吉に両面性を見ており、「日本を盟主とする侵略論につながる危険性をはらむ」としつつも、開化派への援助には一定の評価を与えている[136]

現在の韓国におけるごく一般的な諭吉像は、日本における教科書問題を受けて形作られたため、極端に否定的なものとなっている[注釈 11]。一般的に、韓国における諭吉は往々にして征韓論者として位置づけられ、脱亜論など、諭吉の朝鮮関連の時事論説が書かれた当時の状況は考慮されず、神功皇后伝説や豊臣秀吉にまでさかのぼるとされる日本人の侵略思想の流れの中で捉えられている。1990年代辺りから、在日学者の著作にもそういった傾向が見られるようになり、その例としては、1996年(平成8年)の韓桂玉の『「征韓論」の系譜』[137]2006年の琴秉洞[注釈 12]『日本人の朝鮮観 その光と影』[138]を挙げることができる。

1990年代におけるこういった韓国の状況が、諭吉に侵略性を見る日本側の教科書問題と連動し続けていることは、安川寿之輔が『福沢諭吉のアジア認識』の「あとがき」で詳細に述べている。高嶋伸欣1992年(平成4年)に執筆した教科書において、日本人のアジア差別に関係するとして脱亜論を引用し、検定によって不適切とされ訴訟になった。日本の戦争責任を追及する市民運動に身を投じていた安川は、この訴訟を契機として、諭吉を「我が国の近代化の過程を踏みにじり、破綻へと追いやった、我が民族全体の敵」とするような韓国の論調に共鳴し、30年ぶりに諭吉研究に取り組んだという。

は安川とは異なり、『福沢諭吉と朝鮮』の中で「脱亜論の宣言を注視するあまり、(諭吉は)アジアとの連帯から侵略へと以後転じたとする誤解が生じた」として、諭吉の侵略性を強調する立場ではないが、1997年(平成9年)の時点において、「李氏朝鮮の積弊を痛罵し、しばしば当り障りの強い表現を好んだ諭吉の名が、隣国では、不愉快な感情と結びつくのは自然な成行である」と、韓国における感情的な反発に理解を示している[139]

一方、1990年代の韓国において、諭吉研究に取り組む研究者が複数現れたことを林宗元は述べている[140]。林の紹介するところによれば、その観点も、日本における「自由主義者か帝国主義者か」という議論を引き継ぐもの、朝鮮の開化主義者と諭吉を比較するもの、諭吉と朝鮮開化派との関係を追求するもの、諭吉の反儒教論を批判分析するものなど多岐にわたっており、否定的なものばかりではないことが注目される。

2000年代に入り、こういった学問的取り組みと並行して、近代化の旗手としての諭吉への一定の理解が新聞論調にも見え始める[141]2004年(平成16年)前後に登場したニューライトは、金玉均など朝鮮開化派を高く評価し、日本統治時代の朝鮮における近代化も認める立場をとっており、従来の被害者意識から離れた歴史観を提唱するなど新しい風を巻き起こした。同年、林宗元によって『福翁自伝』が韓国語に翻訳・出版されたことも、韓国における諭吉像に肯定的な彩りを加えた。韓国主要紙はのきなみ好意的な書評をよせ、ハンギョレは「ハンギョレが選んだ今年の本」の翻訳書の一つとして紹介している。

しかし、韓国において諭吉に侵略性を見る従来の見解は根強く、また日本においても脱亜論が一人歩きする傾向が著しい[134]2005年ノリミツ・オオニシニューヨーク・タイムズ東京支局長は「日本人の嫌韓感情の根底には諭吉の脱亜論がある」[142]とした。東京発のこういった報道を受けてか、中央日報では再び諭吉を「アジアを見下して侵略を肯定した嫌韓の父であり右翼の元祖」と評してもいる[143][144]

また、稲葉継雄は、韓国で諭吉の侵略性の認識が高まっていると論じてもいて[145]、韓国における諭吉像は、韓国内の政治情勢とともに、日韓の外交関係、世論のキャッチボールによっても大きく揺れ動いている。

著作等

主な著書
著作集

福澤諭吉著作集』(全12巻)、慶應義塾大学出版会2002年(平成14年)- 2003年(平成15年)に刊行。
 2009年(平成21年)に、著作集の一部(選書 全5冊)が、コンパクト版で新装刊行。

  1. 『西洋事情』・西川俊作 編、2002年5月15日。ISBN 4-7664-0877-2
  2. 『世界国尽 窮理図解』 編、2002年3月15日。ISBN 4-7664-0878-0
  3. 『学問のすゝめ』小室正紀・西川俊作 編、2002年1月15日。ISBN 4-7664-0879-9
  4. 『文明論之概略』 編、2002年7月15日。ISBN 4-7664-0880-2
  5. 『学問之独立 慶應義塾之記』西川俊作・ 編、2002年11月15日。ISBN 4-7664-0881-0
  6. 『民間経済録 実業論』小室正紀 編、2003年5月15日。ISBN 4-7664-0882-9
  7. 『通俗民権論 通俗国権論』寺崎修 編、2003年7月15日。ISBN 4-7664-0883-7
  8. 『時事小言 通俗外交論』岩谷十郎西川俊作 編、2003年9月30日。ISBN 4-7664-0884-5
  9. 『丁丑公論 瘠我慢の説』坂本多加雄 編、2002年9月17日。ISBN 4-7664-0885-3
  10. 『日本婦人論 日本男子論』西澤直子 編、2003年3月17日。ISBN 4-7664-0886-1
  11. 『福翁百話』服部禮次郎 編、2003年1月15日。ISBN 4-7664-0887-X
  12. 『福翁自伝 福澤全集緒言』松崎欣一 編、2003年11月17日。ISBN 4-7664-0888-8
事典
  • 『福澤諭吉事典』慶應義塾150年史資料集 別巻2、福澤諭吉事典編集委員会編、慶應義塾大学出版会、2010年12月25日。ISBN 978-4-7664-1800-2
著書翻訳

系譜

系図

福澤家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
安藤文子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ネール・ブロディ・リード
 
 
 
 
 
 
 
藤原洋太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藤原義江
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
坂田キク
 
 
 
 
 
 
 
 
元良誠三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
元良信彦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
由美子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中上川才蔵
 
 
 
 
中上川彦次郎
 
 
宮下左右輔
 
 
 
 
 
山中晋次
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
池田成彬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
登茂子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎東一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝吹泰造
 
 
 
 
朝吹英二
 
 
中上川三郎治
 
 
 
岩崎隆弥
 
 
槙原稔
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中上川健一郎
 
 
 
 
 
 
 
槙原純
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幾能
 
 
 
 
野依範治
 
 
蝶子
 
 
 
 
 
 
 
 
喜久子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武藤山治
 
 
吉沢清次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
山口寿夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
チセ
 
 
勝子
 
 
 
 
 
 
 
 
紀子
 
 
 
 
 
 
 
 
緒方洪庵
 
 
 
緒方収二郎
 
淑子
 
 
 
 
美和
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福澤八十吉
 
 
 
 
福澤範一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小山完吾
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福澤一太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敦子
 
 
小山章吾
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
遊喜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
八重
 
 
 
小山五郎
 
 
小山伸二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福澤桃介
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福澤駒吉
 
 
 
 
 
 
 
黒松俊一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方正義
 
松方五郎
 
 
 
松方正信
 
 
和子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方正隆
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
てる子
 
 
松方正範
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田中克洋
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中村貞吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中村愛作
 
 
 
 
中村仙一郎
 
 
貞子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中村文夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三重子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清岡邦之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
桂子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清岡暎一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渡辺紀久男
 
 
いく子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武子
 
 
 
 
 
 
 
 
ともの
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
紀久子
 
 
純子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渡辺良吉
 
 
渡辺晴男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
志立鉄次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎正男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
多代
 
 
 
 
木内宏
 
 
 
 
 
 
雅美
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福澤諭吉
 
 
 
 
木内重四郎
 
 
木内信胤
 
 
 
 
木内孝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
木内良胤
 
 
 
木内昭胤
 
 
木内孝胤
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
磯路
 
福澤億之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福澤三八
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浦子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福澤大四郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福澤進太郎
 
 
 
 
福澤幸雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
益子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アクリヴィ
 
 
 
 
エミ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
潮田伝五郎
 
 
潮田江次
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
潮田勢吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ラク
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
林雅之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
林董
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎忠雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎弥之助
 
 
 
 
 
 
岩崎俊弥
 
淑子
 
 
 
 
 
 
 
 
須賀川誠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福澤時太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福澤雄吉
 
 
和子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福澤捨次郎
 
 
福澤堅次
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
万里子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎弥太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
綾子
 
 
 
 
初子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎久弥
 
 
岩崎彦弥太
 
 
 
岩崎寛弥
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

親類縁者

曾孫
玄孫
その他

福澤諭吉を題材とした作品

映画

福澤諭吉を主人公とした映画

テレビドラマ

福澤諭吉を主人公としたテレビドラマ
福澤諭吉が登場したテレビドラマ

記念行事・記念切手

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書など。一方、慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の公式ホームページでは「福澤諭吉」と表記されている。例えば、慶應義塾についてを参照。なお、学術書でも「福澤諭吉」の表記を用いるものも近年、出現している。
  2. ^ 他にも諸説ある平山洋・信州福沢11カ所めぐり参照
  3. ^ 百助が所持していた伊藤東涯の『易経集注』という書は福澤家に残され、現在は慶應義塾大学に寄託されている。
  4. ^
    製薬の事についても奇談がある。るとき硫酸りゆうさんを造ろうと云うので、様々大骨折おおぼねおつて不完全ながら色の黒い硫酸が出来たから、これを精製して透明にしなければならぬと云うので、その日はず茶椀に入れて棚の上に上げておいた処が、が自分で之を忘れて、何かのはずみにその茶椀を棚から落して硫酸を頭からかぶり、身体からだまでの怪我けがはなかったが、丁度ちようど旧暦四月の頃で一枚のあわせをズダ/\にした事がある。 — 福澤諭吉
  5. ^ それまで、中津藩邸に近い木挽町にあった佐久間象山の塾には多くの中津藩士が通っており、象山は中津藩のために西洋式大砲二門を鋳造し上総国ので試射したりしている。象山に学んだ岡見彦三清熙は江戸藩邸内に蘭学塾を設けていた
  6. ^ 福翁自伝』に航海中の海舟の様子を揶揄するような記述が見られる。富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「米国人の歓迎祝砲」(112頁)を参照。福翁自傳 - 200 ページを参照。

    勝麟太郎(かつりんたろう)と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極(しごく)船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかった

  7. ^ 諭吉は『』において以下のように述べている:
    たと えば英語えいご のスチームを従来じゅうらい 蒸氣じょうきやく するのれい なりしかども、何か一文字にちゞ めることはかな うまじきやと思付おもいつ き、 れと目的はなけれども、蔵書ぞうしょ康熙字典こうきじてん持出もちだ してたゞ 無暗むやみ火扁ひへん 水扁みずへん などの部を捜索そうさく する中に、 う字を見て、その ちゅう に水の なりとあり、 れは面白しとひと首肯しゅこう して始めて の字をもち いたり。ただ西洋事情せいようじじょう の口絵に蒸滊済人じょうきさいじん 云々うんぬんしる したるは、対句ついくじょう の一字をくわ えたることなり。今日こんにち りてはなか滊車きしゃ と云い滊船きせん 問屋どいや と云い、誠に普通ふつう の言葉なれども、その もとたず ぬれば三十二年前、余が盲捜めくらさが しにさが てたるものを即席そくせき頓智とんちまか せてまん版本はんぽんのぼ せたるこそ の字の発端ほったん なれ。又当時とうじコピライト意義いぎふく みたる文字もなし。官許かんきょ えば や似寄りたれども、その じつ政府せいふ忌諱きい れずとのしめ すのみにして、江戸の慣例かんれい れば、くさぞうし の類は町年寄まちどしより権限内けんげんない にて取捌とりさば き、それ 以上、学者の著述ちょじつ聖堂せいどう 、又飜訳書ほんやくしょ なれば蕃書調所ばんしょしらべしょ と称する政府せいふ洋学校ようがっこう にて許可きょか するの法にして、著書ちょしょ 発行はっこう名誉めいよ 権利けんり著者ちょしゃ専有せんゆう すと うがごと私有権しゆうけん意味いみ を知る者なし。よっ て余はその コピライトの横文字よこもじ直訳ちょくやく して版権はんけん新文字しんもじ製造せいぞう したり。其他そのた吾々われわれ 友人間ゆうじんかん にて作りたる新字もはなは だ少なからず。わす れたり、学友がくゆう横文おうぶん にあるドルラル記号きごう $を見てたて似寄により りの弗の字を用い、ドルラルと ませたるが如き面白おもしろ思付おもいつき にして、これはん し余がポストヲフヒス飛脚場ひきゃくばポステージ飛脚印ひきゃくじるし と訳して郵便ゆうびんゆう の字に心付こゝろづ かず、ブックキーピング帳合ちょうあい と訳して簿記ぼき の字を用いざりしは、あまぞく ぎたる故か今日こんにち に行わるゝを ず。 — 福澤諭吉、『』22-24頁
  8. ^ 次郎長もこの石碑が建てられた際に来ているが、意味がわからない子分のために漢文の内容を分かりやすく教えている。自己犠牲というアウトローが尊ぶ精神構造と似ていたせいか諭吉と教養面で隔絶した文盲の子分たちは大いに納得していたという。
  9. ^ ただし、塾内の掲示物等では教員も君付けだが、塾生や塾員が教員に向かって面と向かって君付けで呼びかけるわけではない。これは、義塾草創期は上級学生が教師役となって下級生を教授していたことの名残といわれている。
  10. ^ 1960年代にすでに朝鮮社会科学院歴史研究所が邦題『金玉均の研究』を出版。
  11. ^ その典型的な例を挙げれば、2001年中央日報、各国貨幣に扱われた人物について述べたコラム【噴水台】ユーロ貨の橋の次のような文言:「日本の1万円札には19世紀末、韓国を征伐するよう主張した福沢諭吉の肖像が入っている。日本では開化思想家として知られているが、韓国の立場からするとけしからん人物だ」
  12. ^ 総連系の学者で金玉均の研究家

出典

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    併(しか)しこの航海に就(つい)ては大(おおい)に日本の為(た)めに誇ることがある、と云(い)うのは抑(そ)も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於(おい)て和蘭(オランダ)人から伝習したのが抑(そもそ)も事の始まりで、その業(ぎよう)成(なつ)て外国に船を乗出(のりだ)そうと云うことを決したのは安政六年の冬、即(すなわ)ち目に蒸気船を見てから足掛(あしか)け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、夫(そ)れで万延元年の正月には出帆しようと云うその時、少しも他人の手を藉(か)らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆(ぎりよう)と云い、是(こ)れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。

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参考文献

「福沢」「福澤」の表記は、著者がどちらを用いていたのかに従う。

関連項目

関連事項

諭吉と親交が深かった人物・同門の人物

影響を受けた人物

影響を与えた人物

明治以後、諭吉の思想に影響を受けた、または論評の手法を真似た人物(慶應義塾関係者を除く)。

外部リンク

その他の役職
先代:
(新設)
慶應義塾社頭
1868年 - 1901年
次代:
小幡篤次郎

半沢直樹

半沢直樹』(はんざわ なおき)は、TBS系「日曜劇場」枠で放送された、池井戸潤の小説「半沢直樹シリーズ」を原作としたテレビドラマである。主演は堺雅人

2013年7月7日から9月22日まで、『オレたちバブル入行組』と『オレたち花のバブル組』をベースとした前後編二部構成[2]・全10話が放送された。

2020年1月3日23時15分から翌0時45分までスピンオフドラマ『半沢直樹II・エピソードゼロ〜狙われた半沢直樹のパスワード〜』(はんざわなおきツー・エピソードゼロ ねらわれたはんざわなおきのパスワード)が放送された[3][4]。主演は吉沢亮

2020年7月19日から9月27日まで、同じく「日曜劇場」枠で『ロスジェネの逆襲』と『銀翼のイカロス』をベースとした全10話の続編が放送された[5]

キャッチコピーは「やられたらやり返す、倍返しだ!!」、「クソ上司め、覚えていやがれ!!」(2013年版)[6]

概要

共通の主人公が登場する原作においては各巻ごとに表題が異なるが、「テレビドラマの表題が異なるのは好ましくない」として表題を統一している[7]。また、「主人公の生き様に焦点を当てる」という思いから、主人公の名前を表題としている[7]

2013年版

本作は、銀行を巡る不正を描くフィクション作品であり、一般的には視聴率を取りにくい「経済ドラマ」というジャンルである。銀行という男性の世界を舞台にしており、「中年ばかりで、視聴率を取れそうな若いキャラクターが少ない」「女性の登場人物も少ない」「目立った恋愛シーンも無し」「主題歌や挿入歌といったテーマソングも無し」という、ないない尽くしの作品でありテレビドラマ業界の常識に外れるものであった[8]。制作サイドは、主な視聴層を30代以上の男性と想定し、12 - 13%から視聴率が徐々に上がり最終話で20%、平均視聴率15%くらいが取れれば良いと考えていたという[8]

しかし、実力派俳優陣による骨太の演技、わかりやすい主人公と敵、チャンバラを思わせるアクションシーン、リアルかつ時代劇調の脚本・演出、現代社会のサラリーマンのテーマでもある「本当は上司に言いたい!」といった心理を如実に映し出した内容が支持され、第1話から19.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム、以下略)という高視聴率を記録。女性から未成年層まで幅広い視聴者層の支持を受け、2013年7月クールのドラマで最も大きな反響を得た[8]。その後も視聴率は右肩上がりを続け、第7話で30.0%、第8話で32.9%、第9話で35.9%を記録。関東地区で連続ドラマが2週連続30%台を記録したのは同枠の『GOOD LUCK!!』以来10年ぶりとなった[9]

最終話は42.2%を記録し、同枠の『ビューティフルライフ』(41.3%)を抜いて歴代第2位[注 1]となり、平成の民放テレビドラマ史上第1位の視聴率となった。また視聴率調査が現在のミノル・メーター方式となった1977年9月26日以降でも、『積木くずし』の45.3%、『水戸黄門 第9部』の43.7%に次ぐ民放テレビドラマ史上第3位の視聴率となった。瞬間最高視聴率は22時17分に記録された46.7%[10]。2013年の年間視聴率ランキングでは、同年大晦日に第64回NHK紅白歌合戦の後半が44.5%を記録するまで同年の全テレビ番組の平均視聴率首位だった[11]

脚本を担当した八津弘幸は、原作を基に毎回の山場とエンターテインメントへの昇華を意識して脚本を練り上げ、第1話は準備稿を出すまでに20回以上の手直しをしたという[12]。監督もプロデューサーも、ここまでの人気を得られるとは考えていなかった[8]。テレビの常識がいかに適当だったか、マーケティングというものがいかにアテにならないかということを痛感したとしている[8]。また演出担当の福澤克雄は「(番組の)実力以上に周りが大騒ぎになった」「子どもたちにまで見ていただいた」とも語っている[13]

テレビドラマ版において主人公が多用した「倍返しだ!」という決め台詞は巷で話題となり、メディアでも盛んに引用されるなど流行語にもなっている[8][7]。2013年版の結末について、池井戸は「すぐに次のドラマの予告が始まったので、『あれっ、これで終わりだっけ?』と(笑)。でも、原作通りでしたね」と語っている。なお池井戸は、福澤がドラマ化の許諾を求め自身の元を訪れた際に自身の全著作を紙袋に入れて持参してきたことを明かしている[14]

2020年版

2020年版は当初、4月19日から放送開始と告知されていたが[15]新型コロナウイルスの流行の煽りを受けて撮影が長引いたため、4月1日に放送延期が発表された[16]。また、2020年版の初回放送に先駆け、2週連続で2013年版の特別総集編が放送される予定であったが[17]、こちらも併せて放送延期が決定し、休止期間中には過去に日曜劇場で放送された作品の特別総集編が代替番組として放送された[注 2]。その後、6月21日放送の『99.9』特別編(第4回)のエンディングにて、7月19日から2020年版を放送開始することが堺・及川・賀来より発表された[5]。また、2020年版の放送開始に伴い、同じく放送が延期されていた2013年版の特別総集編が7月5日、7月12日の2週にわたり放送された[18]

新型コロナウイルスの影響で撮影が遅延したため、9月6日に放送予定だった第8話は急きょ13日に延期され、空いた6日にはドラマのキャスト・スタッフによる1時間の生放送トークバラエティー『生放送!!半沢直樹の恩返し』が放送された[19]

脚本は2013年版の八津弘幸に代わり、『小さな巨人』や『ノーサイド・ゲーム』等を手掛けた丑尾健太郎が中心となって数人の脚本家が担当している。

前回に引き続き大ヒットとなり、世帯平均視聴率は前述の代替番組を含めて全話を通して20%を上回り、最終回で32.7%を記録した。2013年版最終回の42.2%を超えることはできなかったが、平成以降のドラマで30%を超えるのは2013年版最終回以来の快挙である[20]。またTwitter上では、全話を通して本作が世界トレンド1位になるほどの反響を呼んだ[21]

総合視聴率(リアルタイム視聴率とタイムシフト視聴率の合計)は44.1%を記録。40%を上回るのは、2016年10月にビデオリサーチが調査を開始して以降史上初である[22]

あらすじ

2013年版

第一部

半沢直樹は、「上を目指す」と公言する有能な銀行マン。半沢がバンカーとして頭取を目指すことには、ある理由があった。半沢が中学生だった頃、半沢の両親が経営していた工場が傾いたことで銀行に融資を引き揚げられ、追い詰められた父親が自殺したという過去があり、亡き父親のためにも銀行を変えようという信念を持っているからだった。

半沢が入行した産業中央銀行(旧S)は巨額の不良債権を抱え、2008年東京第一銀行(旧T)との合併を実行[注 3]。世界第三位のメガバンク東京中央銀行となる。しかし上層部では、旧S派と旧T派の醜い派閥争いが繰り広げられていた。

ある日、半沢が融資課長として勤める大阪西支店で、名誉ある最優良店舗賞の受賞を目指す支店長・浅野匡から、これまで取引のなかった西大阪スチールへの融資が持ち上がる。半沢は十分な審査をしようとするが時間を与えられず、浅野の鶴の一声で「無担保で5億円の融資」が決定され、大阪西支店は最優良店舗賞を受賞する。しかしその後、優良企業と思われていた西大阪スチールは粉飾決算が発覚し倒産。社長・東田満は雲隠れし、融資された5億が焦げ付く事態に陥る。

さらに半沢は同期入行で東京本部勤務の渡真利忍からの情報で、浅野支店長が上層部に根回しを行い、5億の融資事故の全ての責任を融資課長である自分に押し付け事態を収拾しようと画策していることを知る。一週間後の聞き取り調査までに雲隠れした社長の東田を見つけなければ、半沢は関連会社に島流し、すなわち出向させられ銀行員にとっての終わりを迎えてしまう。

そんな中、大阪西支店に大阪国税局統括官黒崎駿一による支店査察が入る。これに疑念を抱いた半沢は、複写機に仕掛けたハードディスクの保持データを調べ、その結果国税局も脱税で西大阪スチールを調べていることを知り、まだ回収できる「隠し資産」が10億円以上あると確信する。さらに元経理課長から裏帳簿を入手し、東田の居場所を突き止め彼に詰め寄るが、東田の愛人藤沢未樹の不意打ちを受けて取り逃がしてしまう。

そして東京本部での聞き取り調査の日。浅野支店長の息のかかった人事部次長らに厳しく責任を追及される半沢は、葛藤の末に浅野支店長との徹底抗戦を決断。次長らに徹底的に反論し、啖呵を切って言い放つ。

私は必ず5億を回収する! 二度と邪魔しないで頂きたい!

第二部

西大阪スチールの債権回収における活躍で、半沢が東京中央銀行本部・営業第二部次長に栄転し、1年が経過しようとしていた。半沢は営業第二部のエースとして、数十人の部下達を現場で取り仕切り最前線で活躍していた。

金融庁検査を2週間後に控えた東京中央銀行は、200億円を最近融資した伊勢島ホテルが株の運用失敗によって120億円を損失していることを新たに把握。伊勢島ホテル社長・湯浅威に依頼された頭取・中野渡謙は半沢をホテル再建担当に任命する。金融庁が伊勢島ホテルを実質破綻先と分類すれば引当金を1,500億円以上積まなければならず、東京中央銀行の経営に大きく影響しかねない。

しかし融資した200億円を伊勢島ホテルに返済させると伊勢島ホテルの経営破綻が懸念されたため、取締役会において200億円の引き上げは断念し、なんとしても伊勢島ホテルの経営再建を図ることで金融庁検査を乗り切る方向に決定した。しかし、株の運用失敗による120億円を損失させた伊勢島ホテルの女性専務・羽根夏子は何故か東京中央銀行に非協力的である。

実は、羽根は裏で120億の損失を銀行に告発した経理課長・戸越茂則を解雇しており、更に大和田暁常務と組んで湯浅を失脚させて自分が社長になろうと画策。一方、湯浅社長は経営再建に奔走しており、伊勢島ホテルの再建担当になった半沢に面会して経営改善の決意を表明する。

そんな中、半沢は東京中央銀行への戸越の告発を揉み消したのは京橋支店長・貝瀬郁夫であることを突き止める。京橋支店の歴代支店長は大和田とその部下である岸川慎吾など旧産業中央派が歴任している。不正の疑いの濃い大和田に対し、半沢はバンカーの誇りを持って言い放つ。

私は担当として、どんなことをしてでも伊勢島ホテルを守ります!

2020年版

スピオンオフドラマ

半沢が出向した東京中央銀行の子会社東京セントラル証券では、証券取引システムの大規模リニューアルを行うためのコンペが実施され、新興IT企業スパイラルと実績があるワールドビッグデータが共同でシステムの開発を行うことになる。

この開発が成功すれば数億の売上に繋がるスパイラルでは、手際よくトラブルの処理をした実績のある新人プログラマー高坂圭がプロジェクトリーダーに抜擢される。高坂は東京セントラル証券の担当である城崎勝也浜村瞳らと折衝を重ね、システム導入までこぎつける。

そんな中、セントラル証券で旧型システムへのブルートフォースアタックによる不正アクセスが発生し、スパイラルでは共有クラウド上にトロイの木馬が仕掛けられる。立て続けに外部からのシステム攻撃を受けたある日、浜村が身に覚えのないインサイダー取引を行ったとして謹慎処分を課せられる。

システム移行日の当日、新システム稼働のデモンストレーションにおいて使用した半沢のパスワードが、何者かのハッキングにより盗み出され、顧客口座から300億円が不正送金される事件が発生する。

第一部

東京中央銀行内での数々の不正を明らかにするも、子会社である東京セントラル証券へ営業企画部長として出向を命じられた半沢は、処遇に腐ることなく部長として毅然とした態度で仕事に邁進していた。

ある日、東京セントラル証券は大手IT企業・電脳雑伎集団から株式取得にかかる費用が1500億円以上という、新興IT企業・スパイラルの買収に関するアドバイザー業務を委託される。それはセントラル証券にとってかつてない大型案件であるが、敵対的買収になることは明らかであり、半沢は電脳が巨額買収に経験の浅いセントラル証券に買収業務を委託したことを不審に感じる。

セントラル証券では半沢の部下で東京中央銀行からの出向者である諸田祥一が、買収プロジェクトチームを編成してスパイラル買収のスキームを練らせる。それまで電脳の営業担当であったプロパー社員の森山雅弘は経験不足を理由にチームから外され納得がいかなかったが、買収スキームは一向にまとまらず、ようやく決定した内容を報告しに電脳へ赴くも、電脳社長の平山一正から返答が遅れたことを理由に契約破棄を突き付けられる。

電脳の一方的な契約破棄に森山は食らいつき、独自に準備していた買収スキームの提案に赴くが、その際に図らずも電脳の財務担当の玉置克夫との会話から電脳がスパイラルの買収案件のアドバイザーを他社へ乗り換えた事実を知る。半沢はこれまでの電脳の不可解な言動から、買収契約を横取りしたのは親会社である東京中央銀行ではないかと疑念を抱くが、それはセントラル証券内部に電脳による巨額買収の情報をリークした人物がいるということを意味していた。

そして半沢の仕掛けた策略により、諸田が銀行への復帰を見返りに東京中央銀行証券営業部・部長の伊佐山泰二に電脳との買収契約の情報をリークし、東京中央銀行が強引に子会社のセントラル証券の仕事を横取りしていた事実を掴むが、あと一歩のところで伊佐山の息のかかったシステム部の行員により証拠となる情報リークのメールをサーバーから削除されてしまう。証拠を揉み消し勝ち誇った顔をする黒幕の伊佐山に対し、半沢は啖呵を切って言い放つ。

私はこのまま終わらせるつもりはありません。この借りは、必ず返します!

第二部

スパイラル買収をめぐり、電脳雑伎集団の粉飾を突き止め、不良債権となる恐れのあった500億円の追加融資を阻止し銀行を救った半沢は、東京中央銀行本部・営業第二部次長に復帰する。

着任早々、大和田からの推薦で破綻寸前の帝国航空の再建という困難な超大型案件を中野渡頭取から任され、ニューヨーク支店から本部に復帰した紀本平八が債権管理担当常務に就任し、半沢は紀本の管轄の元、帝国航空の再建に取り組むこととなる。

半沢は早速帝国航空に赴くが、社長の神谷巌夫以下経営陣は公共交通機関として利益よりも路線を維持する社会的意義を尊重し、前任の再建担当である審査部の曾根崎雄也もその考えに同調しており、経営危機への危機感が希薄であった。半沢は経営陣に毅然とした態度で赤字路線の撤廃、リストラなどの抜本的な改革を訴える。

そんな中、支持率が低迷する進政党的場一郎内閣が内閣改造を行い、サプライズ人事として元アナウンサーの女性議員・白井亜希子国土交通大臣に任命される。白井は目玉政策として帝国航空の改革を挙げ、再生タスクフォースの立ち上げと銀行への債権放棄の検討を発表。帝国航空に700億円の債権を保有する東京中央銀行もその7割に当たる500億円もの債権を放棄せねばならず、半沢は大和田から政策実行前に帝国航空を再建し、債権を回収するよう命じられる。

政府からの理不尽な要求をはねつける為、半沢は帝国航空のメインバンクである開発投資銀行との共闘による債権放棄の拒否を目指し、帝国航空の再建案を立案する。途中、架空請求で資金を横領していた東京中央銀行から帝国航空への出向者・永田宏から妨害を受けるがそれを乗り越え、OBをはじめとする帝国航空からの再建案の支持を取り付け、開投銀の谷川幸代との共闘の道に一縷の望みを繋ぐ。

その後、半沢はタスクフォースリーダーの弁護士・乃原正太との面談で「企業再生ノウハウのない銀行は、黙ってタスクフォースに任せておけばいい」と「国民の総意」を根拠に高圧的な態度で債権放棄を迫られるが、横暴な政府の要請には「法的根拠」がないと論破し放棄を拒否する旨を伝える。

しかし、政府に楯突く半沢に圧力をかけるため、白井は幹事長・箕部啓治に依頼し金融庁に圧力をかけ帝国航空再建計画の与信判断を実施させ、自らは大臣の権限を用い帝国航空の整備士の受け入れ先であったスカイホープ航空の新規路線認可を却下するなど、敵対行為を繰り返す。

政府の脅威を感じる中、中野渡は銀行として進むべき正しい道を判断し、前回追加融資150億円を通すため説明に虚偽があったことを金融庁に報告し、業務改善命令を受け入れ謝罪する。それは半沢や東京中央銀行のバンカー全員にとって屈辱的な瞬間であった。業務改善命令受け入れの報道を見て、半沢は傲慢な政府に怒り心頭に発し言い放つ。

俺は必ず帝国航空を再建してみせる。やられたらやり返す、倍返しだ!

金融機関

産業中央銀行
通称「旧S」。英語表記は「The Industrial Chuo Bank,Limited」[注 4]
大和田・岸川・浅野・貝瀬および半沢・渡真利・近藤が就職した銀行。バブル崩壊後、多額の不良債権(2兆900億円)を抱え、生き残るため[注 5]に2008年に東京第一銀行との合併を実行する。
旧S時代の支店は現在も旧S出身者が占めている。
東京第一銀行
通称「旧T」。英語表記は「The Tokyo Dai-Ichi Bank,Limited」[注 4]
中野渡[注 6]、紀本、高木専務取締役らの出身銀行であり、2008年に巨額の不良債権を抱えた産業中央銀行との合併を実行する。
合併前は暴力団などの反社会的勢力政治家に対する不正融資を行っていた。
東京中央銀行
英語表記は「Tokyo Chuo Banking Corporation」[注 4]、略称「TCBC」。
東京に本部を置くメガバンクであり、世界第三位の大手銀行。日本三大銀行の一つ。東京第一銀行と産業中央銀行が2008年に合併して誕生。
旧Sと旧Tの派閥争いが絶えず、部署や支店ごとに銀行派閥の名残りがある。
頭取は旧T出身[注 6]の中野渡。東京中央銀行の頭取は代々旧T出身者で占められている。
白水銀行
東京に本部を置くメガバンク。日本三大銀行の一つ。東京中央銀行よりも情報力は少ないものの、優良銀行である。
半沢と渡真利の大学時代の同級生・油山が本部融資部次長を務めている。
大同銀行
東京に本部を置くメガバンク。日本三大銀行の一つ。かつて金融庁検査局検査官・黒崎に破綻まで追い込まれる。
ニューヨーク・ハーバー・信託銀行(New York Harbor Trust Bank)
2013年版第一部で登場した、アメリカニューヨークに本部がある世界最大の銀行で、東京に支店がある。他の銀行と合併する度にロゴマークが変更される。西大阪スチール社長・東田満の口座があり、自分の口座をスマホで確認できる。渡真利曰く「10億円以上預けないと口座開設ができない」との事。
モデルはバンク・オブ・ニューヨーク・メロン
関西シティ銀行
2013年版第一部で初登場した、関西圏における第二地方銀行。マキノ精機への融資を止めていた。東田名義の個人口座と東田の愛人・藤沢未樹名義の個人口座、東京中央銀行大阪西支店長・浅野匡名義の個人口座があり、彼らはこの銀行で不正な金の送金を行っていた。
2020年版第二部にも帝国航空の取引銀行の一つとして登場する他、「棺の会」のメンバーが個人口座を設けていた。
モデルは関西アーバン銀行(現:関西みらい銀行)。
内海信用金庫
石川県金沢市に本店を構える信用金庫。半沢が中学時代の頃、父の慎之助が営む半沢ネジの融資を打ち切った産業中央銀行に代わり融資を行った。
東京セントラル証券
半沢が出向した、東京中央銀行の子会社証券会社。業歴が浅く、大型買収のノウハウも持ち合わせていない。これまで扱ってきた大型案件は銀行から回されたものばかりで、市場の真の厳しさを知っているとは言えない。東京中央銀行からの出向社員と生え抜き社員との間で確執がある。
開発投資銀行
政府系金融機関であり、帝国航空のメインバンクとして2,500億円もの融資を行っている。
モデルは日本政策投資銀行

登場人物

氏名の読み方や人物描写は原作・公式サイト相関図・放送内容に基づく。

主人公と親友

半沢直樹(はんざわ なおき)
演 - 堺雅人(中学時代:中島凱斗
産業中央銀行 八重洲通支店(新人行員時代)[注 7]
→ 東京中央銀行 大阪西支店融資課 課長(2013年版第一部)
→ 本部 営業第二部 次長(グループは不明)(2013年版第二部)
→ 東京セントラル証券 営業企画部 部長(2020年版第一部)
→ 東京中央銀行本部 営業第二部第一グループ 次長(2020年版第二部)
旧S出身。1970年12月8日生まれ[注 8]石川県金沢市出身。慶應義塾大学体育会剣道部慶應義塾大学経済学部出身。
主人公。曲がったことを非常に嫌い「やられたらやり返す、倍返しだ!!」が流儀かつ決め台詞。決め台詞を言って相手の反感を買ってしまうことが多いが、部下からの信頼は厚い。亡き父親・慎之助の作ったネジを形見のように常に携帯している。銀行員として、ひいてはビジネスマンとして尋常ならざる問題解決能力を有する[注 9]一方、目的のためには手段を選ばない苛烈で危うい一面も併せ持つ[注 10]
金沢市立錦西小学校 → 市立錦山中学校 → 県立金沢星条高校を経て慶應義塾大学経済学部を卒業し、1992年[27]、産業中央銀行に入行する。
2013年版
西大阪スチールの融資事故が起こる2年前に大阪西支店の融資課長に着任。部下たちと仕事に邁進していたが、融資事故の一件から浅野の策略を知り「10倍返し」を宣言。徹底抗戦して見事に5億円を回収し、彼の不正を見逃すことと引き換えに東京本部営業第二部への栄転を果たす[ep 2]
栄転後は、慎之助を自殺に追いやった大和田と伊勢島ホテル経営再建問題を発端に敵対し、伊勢島ホテル融資事件とタミヤ電機を通じた迂回融資に関する大和田の一連の不正を取締役会において糾弾。そして内藤や中野渡の制止を拒絶して大和田に土下座をさせ「100倍返し」に成功する。劇中の功績から昇進間違いなしと思われていたが、中野渡に「東京セントラル証券への出向を命じる」と直々に辞令を告げられる[ep 3]
2020年版(第一部)
出向後も営業企画部部長として仕事に邁進していたが、電脳雑伎集団から舞い込んできた大型案件を親会社である東京中央銀行が横取りしたことに反発し銀行への倍返しを誓言[ep 4]。部下である森山と共に事態の究明に奔走し、スパイラルとの間にアドバイザー契約を締結し銀行との対立姿勢を明確にする[ep 5]。スパイラルによるフォックス逆買収を実現させるためにフォックスの経営状況報告書を白水銀行の油山から極秘で入手するなど、グレーな方法を駆使しながらも電脳によるスパイラル買収を阻止するために活躍。
銀行や黒崎らと対峙する中で「なぜ電脳は東京中央銀行ではなく、東京セントラル証券にアドバイザーを依頼したのか」という疑問に辿りつき、その鍵を握っているとされる電脳の財務担当役員である玉置へ接触を図ろうとするがその動きを感知した平山夫妻の先回りにより玉置は退職し子会社である電脳電設に雲隠れしてしまう。それでも諦めず電脳電設本社まで赴いて玉置親子と接触し、開発した次世代スイッチング電源の特許を電脳に買い取られ電脳に逆らえなくなっていた経緯を知ると、伊佐山の妨害にあいながらもセントラル証券の営業力を総動員させ特許を取り戻す道筋をつけ、玉置から電脳が粉飾決算を行っているという事実とそれを示す裏帳簿のありかを引き出す事に成功。さらに、伊佐山の裏切りに怒り心頭の大和田に接触し「電脳への500億の追加融資の稟議の是非を問う役員会において自身に発言の機会を与えること」と「伊佐山の妨害によって頓挫していた電脳電設の特許買戻しを支援してくれる企業への根回し」を要請し一時的に大和田と手を組む。そして単身役員会に乗り込み、電脳の粉飾決算の事実を指摘。スパイラル買収を阻止するとともに、銀行への倍返しに成功する[ep 6]
2020年版(第二部)
その功績を評価され東京本部営業第二部へ復帰すると、大和田の推薦もあり中野渡から直々に帝国航空の再建担当に任命される。当初は帝国航空の経営陣の反発を受けながらも、独自の視点から帝国航空は自力で再建可能な企業であると看破し、独自の経営再建案を提出。帝国航空の将来性と可能性を熱弁し、経営陣や社員たちの信頼を得る。その後、乃原に債権放棄案を呑むよう強要されるも、毅然としてこれを拒否する[ep 7]
国交大臣・白井の横槍で東京中央銀行が金融庁による帝国航空の与信判断を受けた際、黒崎に金融庁に報告した帝国航空再建案の数値が本来のものと違っている事を指摘され、それは曾根崎個人の判断ではなく何者かの指示によって実行したものだと疑念を抱くが、中野渡が銀行として正しい判断をして虚偽の説明があったことを報告したことで、金融庁からの業務改善命令を受け入れることになる。自責の念に駆られた半沢は、改めて政府への倍返しと書類の改ざんを指示した黒幕を突き止める決意を新たにする[ep 8]
一連の出来事から常務の紀本の政府寄りの動きを疑い、彼が政府の内通者である疑惑が強まったことを受け、利害が一致している大和田の協力を取り付ける。そして出向が決まっていた曾根崎を問い詰め、帝国航空再建計画案の数字の改ざんを指示した黒幕が紀本である事を突き止める。役員会では債権放棄拒絶を主張するも、紀本の横槍で債権放棄受け入れの方向に意見が固まってしまうと、「メインバンクの開発投資銀行が債権放棄を拒絶する方向を示した場合はこれに準ずる」という条件を提案し、頭取の中野渡の承認を受け付帯させることに成功。それを受けてタスクフォース合同報告会では、開投銀の谷川より事前に債権放棄見送りの方針を伝えられたのを受け、改めて債権放棄拒絶を表明。遅れて到着した谷川も債権放棄見送りを宣言したことで他の銀行もそれに追従、政府及び再生タスクフォースの目論見を打破した[ep 9]
10年前の牧野副頭取の自殺に不審な点がある事から、旧Tと箕部の関係を調べ、その結果旧Tが箕部に行っていた不可解な20億円の融資に関するクレジットファイルのありかを突き止め入手するも、それを察知した箕部に呼び出されて、牧野副頭が不正融資を行っていた企業からリベートを受け取っていた口座の入金記録を提示され、これまで伏せていた箕部の不正を金融庁に報告して東京中央銀行を業務停止命令にすると脅されてしまい、苦渋の末箕部に屈服したが[ep 10]、黒崎からの「伊勢志摩ステートを調べろ」という情報をもとに、自宅謹慎処分を課せられた身ながら伊勢志摩へ飛び、森山とともに伊勢志摩ステートの決算報告書を調べ上げ、箕部が20億円の融資を転貸して伊勢志摩空港の用地となる山林を買い占め、土地売却で巨額の利益を得ていた事実を掴む[ep 11]
大和田が内容を控えていた箕部のクレジットファイルにあったメモ書きが銀行から箕部と「棺の会」へ金が流れた履歴であるという謎を解き、その情報をもとに国税庁へ異動となった黒崎の力を借りて伊勢志摩ステートの口座から「棺の会」メンバーの個人口座に流れていた入金記録の入手に成功し、その証拠を突きつけて紀本を問い詰め、本丸の伊勢志摩ステートから箕部への金の流れが記された決定的証拠の保管場所を白状させる。だが、一足早くそれらの証拠書類は大和田に盗み出され、中野渡の判断によって箕部の手中に渡ってしまい、さらには中野渡から帝国航空の再建担当を外されてしまう。中野渡、大和田の裏切りに怒った半沢は、箕部・中野渡・大和田の3人へ「1000倍返し」を宣告する[ep 11]
信頼していた中野渡の裏切りに当初はバンカーとしての情熱を失いかけていたが、瀬名・森山の剣道を通じでの叱咤激励を受け、再び立ち上がる。その後、ホテルに雲隠れしていた紀本と接触し、伊勢志摩ステートから箕部への金の流れを証明できる資料は箕部本人か、彼の第一秘書である武田が握っていることを知り、同時に中野渡・大和田の裏切りは箕部の不正の決定的証拠を掴むための芝居であると看破する。中野渡・大和田と共に白井に接触し、10年前の牧野副頭取の死の真相を話し、箕部の不正を明らかにするために力を貸してほしいと要請して協力を取り付け、その場で中野渡からふたたび帝国航空の再建担当として翌日に開かれるタスクフォースによる債権放棄の報告会に自身の代わりに出席するよう命じられる。報告会では、大勢のマスコミが詰めかける中、旧T時代の不正融資と箕部の不正の実情をつまびらかにし、さらに白井・笠松・瀬名・黒崎の尽力によって入手した箕部の不正の決定的証拠が記された書類を大和田から受け取り、それを公表して箕部への「1000倍返し」に成功した。
その後、東京中央銀行は過去の不正融資の実態を世間に明らかにし謝罪したことで社会的信頼は失墜し、中野渡も責任をとって頭取を辞したことで自分なりの責任を感じ辞職しようとするも、大和田から『銀行の復活が可能だと信じているならば、その青臭い正義を引っ提げて立て直してみろ』と檄を飛ばされ、頭取に上りつめて東京中央銀行を立て直す決意を固める[ep 12]
渡真利忍(とまり しのぶ)
演 - 及川光博
東京中央銀行本部 融資部審査グループ 調査役(2013年版)
→ 融資部企画グループ 次長(2020年版)
旧S出身。慶應義塾大学経済学部出身。
1992年[27]に産業中央銀行に入行。「情報と人事は銀行員にとって命」が信条[注 11]。入行時はプロジェクト・ファイナンス志望。非常にクールで整然とした物言いをしていたが、半沢が東京本店に栄転してからは直接会う機会が多くなり、伊勢島ホテルの一件もありかつての熱い情熱が再燃してきている[注 12]。自らの豊富な人脈と情報網で、大和田派に関する情報や行内の動向を収集しており、同期入行の半沢・近藤を常にサポートしている。2020年版では企画グループに部内異動しており融資部次長に昇進している。
行内だけでなく社外にも多くの人脈と情報網を持ち、白水銀行が伊勢島ホテルへの融資計画中止について学生時代からの知り合いである白水銀行・油山から情報を聞き出したり、箕部の身辺調査を行う半沢に箕部の元番記者から話を聞きだす場をセッティングしたり、乃原と同じロースクールだった自身の後輩の弁護士から情報収集し、乃原が旧Tが箕部に不正融資していることを嗅ぎつけており、紀本と因縁があることを調べ上げている。
近藤直弼(こんどう なおすけ)
演 - 滝藤賢一
東京中央銀行秋葉原東口支店融資課 課長代理(2010年頃)
→ 大阪本店 営業システム課 課長補佐(2013年版第1話)
→ 本部 人事部付(2013年版第2話)
→ タミヤ電機 経理部 部長(2013年版第6話 - 第9話)
→ 東京中央銀行本部 広報部 調査役(2013年版最終話)
→ 広報部情報グループ 次長(2020年版・シンガポール長期出張中)
旧S出身。慶應義塾大学体育会剣道部。慶應義塾大学商学部出身。
1992年[27]、産業中央銀行に入行する。半沢とは大学以来の同じ剣道仲間。半沢・渡真利よりも上級の課長代理になったが、秋葉原東口支店時代の上司・小木曽に融資ノルマの達成を極度に求められた末、統合失調症を患い半年間休職する。
出向先・タミヤ電機でも当初は銀行に融資される為だけに使われ精神を再び病みそうになるが、直樹との剣道の手合わせなどを通じ本来の自分を取り戻しタミヤ電機での自分の地位の確立に成功[ep 13]。しかし今度は業務の過程で会社の粉飾に気付いてしまい、会社浄化のため社長や部下の経理課長と対立する事になる[ep 14]。このため一時は会社中から疎まれて別の会社へ出向させられそうになるが、社長と経理課長を粘り強く説得し、大和田主導による迂回融資を突き止めて会社浄化に成功し、大和田を糾弾できる報告書を半沢に渡そうとするが、それを阻止しようとする大和田の「迂回融資に関する報告書を渡せば近藤を銀行の希望部署に異動させる」という取引を家族のことを考慮した末に受け入れる[注 13][ep 15]。翌日、報告書を渡さなかった事を半沢に詫び、家族を考慮した近藤の言動に半沢達は理解を示し不問とする[ep 3]
2020年版ではシンガポールに長期出張中で日本に不在のため登場しない[ep 4]

半沢家

半沢花(はんざわ はな)
演 - 上戸彩[28]
直樹の妻。専業主婦だが労働する場合もある。夫を「直樹」と呼ぶが姑の前では「直樹さん」と呼ぶ。非常に夫思いで、その言葉が直樹の心の救いや、仕事上の問題解決のヒントにもなっている。結婚前はフラワーアレンジメントの仕事をしていた。「銀行での直樹の立場が少しでも良くなれば」と思い社宅での奥様会に気が進まなくても参加している。
2020年版ではフラワーアレンジメントの教室を自宅で開いている。また、帝国航空の再建に奔走して旦那の帰りが連日遅くなっていることもあり、先輩のフラワーアレンジメント教室も手伝いに行っていたが、そこで店の5周年記念に飾る花を買い求めに来た上越やすだの新山に偶然出会い、上越やすだに乗り込んで食事に現れた半沢を驚かせる。
箕部の不正を暴き、大和田・中野渡への「1000倍返し」を決意する半沢に対し、これまでボロボロになるまで尽くした銀行に要らないと言われたのなら辞表を叩きつける「気持ち」でやりたいことをするように励ます。
白井が正義を貫く政治家であることを信じ、桔梗の花[注 14]を差し出し応援しており、後に白井が大臣を辞任し、進政党を離党して無所属で代議士の活動をするために議員事務所を開設した際には、祝いの花を届けに現れる[ep 12]
半沢隆博(はんざわ たかひろ)
演 - 二宮慶多
直樹と花の息子。幼稚園児(2013年版)。2013年版第一部では、居住中の大阪にて社宅の幼稚園児たちに直樹をバカにされて「パパに謝れ」と言い返している[ep 2]
2020年版では原作にない自宅シーンが追加されたが登場しない。
半沢慎之助(はんざわ しんのすけ)
演 - 笑福亭鶴瓶
直樹の父親。金沢にて「半沢ネジ」というネジ工場を夫婦経営していたが、儲けの半分を占めている狛田工業が直樹の中学2年時に倒産。「工場用地を担保にすれば融資継続する」と約束していた旧S時代の大和田に「期限までに返済できない場合は担保である工場用地を処分する」と手のひらを返されて絶望。数日後に首吊り自殺した直後に内海信用金庫の担当者が工場を訪問している。
「どんな仕事をしてもいいが、人と人とのつながりは大切にしなければならない」「ロボットみたいな仕事だけはしてはいけない」と中学時代の直樹に言って聞かせる。
半沢美千子(はんざわ みちこ)
演 - りりィ
慎之助の妻、直樹の母親。内海信用金庫に融資されて半沢ネジの倒産を回避し、夫が遺した樹脂製ネジの事業を軌道に乗せる。会社を継がなかった直樹に代わって株式会社・半沢ネジを経営している。2013年版第二部では、息子の隆博を連れて半沢ネジを訪れた花に「旧S(特に大和田)が慎之助を殺したようなものだ」と話す[ep 16]

東京中央銀行

本店があるのは東京第一銀行と産業中央銀行が2008年に合併した際の産業中央銀行東京本部である。

取締役会・執行役員会

中野渡謙(なかのわたり けん)
演 - 北大路欣也特別出演
東京第一銀行 企画部長
→ 東京中央銀行 ニューヨーク支店 支店長(2008年頃)[注 15]
→ 常務取締役
頭取
→ 辞職(2020年版最終話)
旧T出身[注 6]。1973年度入行[ep 10]。「人」を大切にすることに重きを置いている[注 16]
大和田を「超一流のバンカー」と評価しており、妻への不正融資の件で銀行から追放するには惜しい人材と思い、旧S派の筆頭である彼を取締役に留めることで旧T・旧S間の対立を鎮静化させ行内融和を進めるとともに、旧T時代の不正融資の実態を彼に調査させる考えがあった。また、同様に半沢のことも超一流のバンカーとして評価しており、東京セントラル証券に出向させた理由は、制止したのにも関わらず役員会の場で大和田に土下座をさせてしまったことから、大和田派の行員から報復を受けることを回避するための処置であったとともに、銀行と証券からなる金融の世界で、半沢に証券の世界を学ばせ力をつけさせ、外の世界から銀行を見る機会を与えるためであったことを明かしている[ep 12]
2013年版(第二部)
伊勢島ホテルの一件で湯浅社長からの要望もあり、先の大阪西支店での融資事故を解決した半沢を伊勢島ホテルの担当に指名した[ep 13]
半沢の糾弾によって反中野渡派の代表格であった大和田常務の不正が明らかになるが、あえて大和田を取締役への降格で済ませることで、敵であった大和田とその派閥を逆に自らの勢力に取り込むことに成功する[ep 3]
2020年版
冒頭で、業績悪化の一途を辿る帝国航空の再建案を大和田に一任する。電脳雑伎集団のスパイラル買収案件で、親会社の東京中央銀行と子会社の東京セントラル証券が対立することに半沢が仁義を切った際には、日頃自身の標榜する「顧客第一主義」の考えに則り対立を容認した。その後は本店へ栄転した半沢を、大和田からの推薦もあり帝国航空の再建担当に任命する。
曾根崎が帝国航空に150億円の追加融資を通すため、金融庁調査で虚偽の報告をしていたことを中野渡はいずれ不正は暴かれるという考えから正直に金融庁に報告、謝罪したことで東京中央銀行は業務改善命令を受けることになり、帝国航空の債権放棄の拒否が難しくなる局面を迎える。のちに開かれた帝国航空への債権放棄の是非を問う役員会議で、紀本の自身の進退を賭けた表明もあって債権放棄を受け入れる方向に意見を固めつつも、半沢から提示された「主力銀行である開発投資銀行が債権放棄を拒絶した場合はこれに準ずる」という条件付きで承諾する。
秘密裏に牧野副頭取の死の真相と旧T時代の不正融資の流れを富岡に命じて調査させていたが、紀本が保管していた資料を自身の判断で箕部に渡してしまう。さらにその決断に納得がいかない半沢に帝国航空の担当を外れるよう命令する。これに怒った半沢から箕部・大和田と共に「1000倍返し」の宣告を受ける。しかし、紀本から入手した資料は伊勢志摩ステートからの入金依頼書とその金を振り分けた際の振り込み依頼書で、箕部の口座への金の流れを証明できるものではなかったため、決定的な証拠を入手するのに箕部の懐に入り込むために大和田を巻き込み芝居を打ち、半沢を裏切ったふりをしたことを半沢に後日打ち明けている[注 17]
タスクフォースによる債権放棄の報告会前夜に白井を味方につける事に成功すると、半沢を再び帝国航空の再建担当に任命、自身の代理として出席することを命じ「思いっきりやってこい」と激励、自らは牧野の墓前で半沢が債権放棄拒否の表明と箕部に「1000倍返し」を行う様子をライブ配信を通して見届けた[ep 12]
その後、箕部の不正を含めた旧T時代の過去13件の1500億円にのぼる問題融資をマスコミに公表するとともに謝罪し、その全責任を取るため役員会議で頭取を辞する旨を表明、承認され東京中央銀行を去った[ep 12]
大和田暁(おおわだ あきら)
演 - 香川照之
産業中央銀行 金沢支店 融資課 (1980年代前半)[注 18]
→ 東京中央銀行 京橋支店 支店長(2013年版以前)
→ 常務取締役(2013年版)
→ 取締役(2013年版最終話・2020年版)
→ 辞職(2020年版最終話)
旧S出身[注 19]1957年8月12日生まれ。東京都港区出身。港区立赤坂旭丘小学校 → 都立金城中学校 → 私立帝都麻布台高校 → 東京大学文科Ⅰ類 → 東京大学法学部を卒業し産業中央銀行に入行する。
最年少で常務取締役に抜擢された出世頭。派閥意識が強く駆け引きに長けていて常に冷静。目を掛けている部下であっても場合によっては容赦なく切り捨てる。かつて「工場用地を担保にすれば融資継続する」という約束を「期限までに返済できない場合は担保である工場用地を処分する」に変更し、慎之助を自殺に追い込んだ張本人[注 20]。更にそれは半沢ネジの取引先・狛田工業倒産を半沢ネジに伝えず工場用地を担保にさせるよう仕向けるための策略であった[ep 3]。旧Sの巣窟「京橋支店」では支店長を務めるなど重要ポストを歴任して、順調に出世を重ねており、旧S派として常務にまで上り詰めた。
2013年版
大和田派の浅野が支店長を務める大阪西支店で起こった5億円の融資事故の報告に際し過程で半沢を知り「旧S出身の優秀な男」として半沢に興味を持ち、5億円の回収に奔走する半沢を庇う働きを見せた[注 21]。そして半沢が最終的に5億円の回収に成功したため、彼の脅しを受けた浅野からの依頼で半沢を東京本部営業第二部の次長として栄転させ[注 22][ep 2]、後に半沢を自分の派閥に取り込むべく彼に誘いまで掛けていた[ep 13]
その一方で、旧T出身の現頭取である中野渡を追い落として次期頭取となる目論みの為、伊勢島ホテルの羽根専務と結託してホテルに不正融資を実行させ、金融庁検査を間近に控えた東京中央銀行に200億もの損失が出るよう仕組んだ。しかし同時に、頭取からの指名で伊勢島ホテルの担当となり、その不正の事実を嗅ぎ付けた半沢から宣戦布告されたことで遂に彼と敵対。金融庁検査を乗り切ることを名目に羽根専務をホテルの社長にして、それに反対する担当の半沢を更迭・出向することで彼を担当に任命した中野渡も引責失脚させる策略を巡らすが、半沢の尽力により伊勢島ホテルの経営再建が成功したことで失敗。更には近藤の働き掛けにより、自身が彼の出向先であるタミヤ電機を利用して妻の貴子が経営する会社へ迂回融資していた件の証言を取られ一時は窮地に陥るが、それを伏せるため事前に近藤と接触し、タミヤ電機社長の迂回融資に関する証言の報告書を自分に渡すことを条件[注 23]に、東京中央銀行の希望するポストに戻すという提案で懐柔した[注 13]。しかし、取締役会での半沢の追及と岸川の土壇場での裏切りによって、難題となっていた伊勢島ホテルへの融資問題の黒幕だったことが露見したばかりか、タミヤ電機を通じて迂回融資していた事実まで明らかになってしまう。更には宣戦布告の際に交わしていた約束を理由に半沢から土下座するよう迫られ、取締役たちの前で半沢に土下座をする[ep 3]
悪事が露見して厳しい処分が下されると思われたが[注 24]、中野渡に言い渡された処分は取締役への降格[注 25]という異例の軽さであった[ep 3]。行内融和を目指す中野渡に逆らえなくするために、旧S系の有力派閥のトップ・大和田に恩を感じさせる為の処置と思われる。
2020年版
銀行に残った大和田は中野渡の忠実な部下に転身し、自身を寛大に処分した中野渡に多大な恩義を感じている。一方、これまで目をかけていた伊佐山の裏切り[注 26]に激しい怒りを燃やし、電脳雑伎集団によるスパイラル買収計画にも三笠への敵愾心から取締役会において懸念を示す。その中でも四面楚歌の状態にあった半沢に接触し「態度次第では(半沢の処遇を)人事部にかけあってもいい」と持ちかけるが断られる。
三笠から常務のポストに推薦すると持ち掛けられ、役員会で電脳への500億円の追加融資の決済に合意する事を了承し、敵対する存在である三笠に恩を売りつけたと思っていたが、後任に着くはずだった常務の退任撤回、さらに中野渡から提示された帝国航空の再建担当の体制草案に改革の陣頭として立つはずであった自身の名前はなく、担当チームを率いる伊佐山の名前だけがあった事を不審に思い、伊佐山を問い詰めた結果、体よくスパイラル買収に利用されていただけだったと気づく。伊佐山に怒り心頭の大和田は、半沢からの要請で自身にとっても利害関係が一致したことから、一時的に彼と手を組み、役員会で半沢に発言する場を与え[注 27]、証券営業部が電脳の粉飾決算を見落としたままでスパイラル買収を進めようとしている事実を報告させ、結果として自身を裏切った伊佐山と敵対する三笠の両方を追い落とす事に成功する。
その後、中野渡に帝国航空の再建担当に半沢を推薦。半沢の債権放棄を拒絶するべきという意見にも同調し[注 28]、半沢に協力して曾根崎から黒幕が紀本である事を引き出す。その後の役員会議で、紀本の「役員生命を賭けてでも債権放棄を通す」という言質を取り、常務の座から追い落とそうとするも紀本に同調する旧T系の役員たちの反対にあい頓挫する。そして、中野渡の恩に報いるため、利害関係が一致した半沢と三度手を組み、紀本と箕部の悪事を暴こうと奔走する。しかし、二人の動きを嗅ぎつけた箕部から直々に呼び出され、牧野副頭取が不正融資を行っていた会社からリベートを受け取っていた書類(捏造したもの)を見せられ、この事実が明らかになった場合には東京中央銀行に業務停止命令が下る可能性も示唆され、狼狽する。
箕部の脅しに屈し入手した箕部のクレジットファイルを紀本に返却するが、ファイルの内容をスマホのカメラで記録しており、紀本の弱みであるクレジットファイルを易々と紀本に返却するはずがないと見越していた半沢に脅される形で内容を開示し、紀本と灰谷が箕部への融資を承認していたことが明らかとなる。
福山からの報告で伊勢志摩ステートから箕部への入金の流れが記された決定的証拠となると思われた書類[注 29]の保管場所を掴み、半沢たちが入手する前に盗み出して中野渡へ手渡してしまう。この裏切りに怒った半沢から箕部・中野渡と共に「1000倍返し」の宣告を受けるが、実際には箕部のそばに付け入り、確たる証拠がないか探っていた。そして、白井と笠松からの情報を受けUAE銀行名古屋支店に捜索に入った黒崎から箕部の不正を示す彼の隠し口座の記録を手に入れ、箕部の制止を意に介さずに半沢に手渡し、半沢による箕部への「1000倍返し」を見守った。
箕部への「1000倍返し」と引き換えに、旧T時代の不正融資を公表したことで東京中央銀行の社会的信頼を失墜させた責任を取るため辞職しようする半沢に対し、『銀行の復活が可能だと信じているならば、その青臭い正義を引っ提げて立て直してみろ』と檄を飛ばした。そして半沢の退職願を破り捨て、逆に自身が東京中央銀行を去った[ep 12]
高木(執行役員)(たかぎ - )
演 - 志垣太郎[29]
専務執行役員。
旧T出身。中野渡派。
岸川慎吾(きしかわ しんご)
演 - 森田順平
東京中央銀行 京橋支店 支店長(2013年版以前)
→ 取締役・業務統括部 部長(2013年版)
→ 関連会社へ出向処分(2013年版最終話)
旧S出身[注 19]。大和田派の筆頭。伊勢島ホテル融資事故など大和田の不正に加担していて、大和田と共に半沢を陥れようとする。しかし、岸川の娘が黒崎と婚約している事を知った半沢に「黒崎が岸川部長との個人的関係を秘匿したまま金融庁検査をしに来た」事を銀行やマスコミリークすると脅され、それが嫌ならば「銀行員の良心」に従って「ラフィットへの迂回融資事件に関する報告書・伊勢島ホテル内部告発事件に関する報告書」の内容を明日の取締役会で認めてほしいと要請される[ep 3]
翌日の取締役会では大和田に圧力をかけられ傾きかけるが、半沢に前日の件で威圧され、結局は大和田に指示されてラフィットへの迂回融資・伊勢島ホテルへの200億円融資を行った事を認め、「それは岸川が独断で行った融資であり私は何も知らない」とシラを切っている大和田に自身の胸の内を叫んで泣き崩れてしまう。
後日、詰め腹を切らされる形で出向させられた(出向先は不明)。
高木(専務)(たかぎ - )
演 - 三浦浩一
東京中央銀行 専務取締役。
旧T出身。中野渡派を自任している。取締役会では大和田や岸川らといった旧S出身の取締役を下に見ている節がある。
荒木裕二(あらき ゆうじ)
演 - 稲健二
東京中央銀行 取締役
旧T出身。三笠派→紀本派。1981年度入行[ep 10]
電脳によるスパイラル買収のための追加融資を審議する役員会で、電脳の粉飾を見落としていた伊佐山を叱責する。
帝国航空の再建に対し「帝国航空は既に死に体で、再建は無理と言い逃れするのではないか」と半沢に詰め寄るが、大和田になだめられる[ep 7]
故・牧野副頭取の元部下で彼の命日には「棺の会」の一員として墓前に集まり追悼している[ep 10]
武田健輔(たけだ けんすけ)
演 - 右近良之
東京中央銀行 取締役
旧T出身。三笠派→紀本派。1982年度入行[ep 10]
故・牧野副頭取の元部下で彼の命日には「棺の会」の一員として墓前に集まり追悼している[ep 10]
三笠洋一郎(みかさ よういちろう)
演 - 古田新太[30]
東京中央銀行 副頭取(2020年版第一部)
→ 電脳雑伎集団へ出向(2020年版第4話)
旧T出身。元証券部長。物静かな男だが、決して温厚ではなく性格は極めて冷酷。同じ証券部畑である伊佐山が大和田を裏切って電脳のスパイラル買収案件を手土産に接近してきた際には、彼を自分の派閥に受け入れる。伊佐山の要請でスパイラル株買収の融資増額の後押しを引き受け、スパイラル株を所有する元役員の加納と清田に揺さぶりをかけて、時間外取引によりスパイラル株の30%を取得する[ep 4]
半沢がスパイラルとのアドバイザー契約締結で東京中央銀行への対立姿勢を明確に打ち出すと怒りを顕わにし、完膚なきまでに叩き潰せと伊佐山に指示を出す[ep 5]。そして自らもスパイラルがフォックスを逆買収しようとする動きがあることを証券取引等監視委員会に密告し、スパイラルのアドバイザーであるセントラル証券に監視委員会の監査が入ったことをマスコミにリークすることでスパイラルの株価を急落させ、スパイラル株を容易に買い占められるよう仕掛けるが、半沢たちの尽力でスパイラルによるフォックスの逆買収が成功し、瀬名がIT界の超大物であるマイクロデバイス社のジョン・ハワードからスパイラルとフォックスの子会社であるコペルニクスが手がけるネット通販事業に対し3億ドルの出資を取り付けたことでスパイラルの株価が急激に上昇し、逆にスパイラル株の過半数取得に500億円の追加融資が必要となる状況に追い込まれる。スパイラルの買収が暗礁に乗り上げ、自身の面目を潰されそうになった三笠は役員会で追加融資の決済の合意を取り付けるため、行内融和を建前にしつつ、常務のポストに推薦することを持ち掛け敵対する大和田に頭を下げ協力を願い出る[ep 17]
役員会ではスパイラル買収への融資増額の意義を熱弁し、大半が融資の方向に傾いたが、大和田の手引きで役員会に単身乗り込んできた半沢によって、証券営業部が電脳雑伎集団の粉飾決算を見落としていたことを報告される。三笠は粉飾決算を見抜けなかった責任を伊佐山になすりつけ自身は責任を逃れようとするが、三笠の妨害により伊佐山が粉飾決算を調査する機会を握りつぶされた[注 30]こと、さらに平山夫妻からスパイラル買収を穏便に済ませる見返りに賄賂を受け取っていた証拠[注 31]を半沢に突きつけられ、言い逃れのできない状況に陥る[ep 6]
その後スパイラル買収の追加融資の稟議が否決されると、伊佐山・諸田と共に財務状況の立て直しという名目で電脳に出向させられる[ep 6]
紀本平八(きもと へいはち)
演 - 段田安則(中学時代:土方柚希)
東京第一銀行 取締役・審査部 部長(合併以前)
→ 東京中央銀行本部 審査部 部長(2010年頃)[注 32]
→ 伊勢志摩支店 支店長(2014年頃)[注 33]
→ ニューヨーク支店 支店長(2020年版第一部)
→ 常務取締役(債権管理担当)(2020年版第二部)
旧T出身。審査部出身。1980年度入行[ep 10]。伊勢志摩市出身。
行内に広い人脈を持つ有力者の一人。ニューヨーク支店から本店への異動を命じられ、常務取締役(債権管理担当)に着任したエリートバンカー[ep 6]
曾根崎からの報告と白井訪問の際の態度を見て、半沢を帝国航空の担当から外すよう中野渡に進言する。実は裏で政府と繋がっており、曾根崎に命じて帝国航空の再建計画案の数値の改ざんを指示した張本人であった。役員会議では進退を賭けた決死の演説で債権放棄を受け入れる方向に誘導することに成功するも、主力銀行である開発投資銀行が民営化されることで政府からの支配が弱まったことを契機に債権放棄を拒絶することを決定し、東京中央銀行など他の銀行も開投銀の方針に準じることを表明していたことから、目論見は頓挫する。
箕部のクレジットファイルの隠し場所が、牧野副頭取が新山に残した遺書に書かれているというデマを半沢と結託した大和田に吹き込まれ、新山のもとに遺書を確認に行ったことで、暗に箕部への不正融資に自身が関与していたことが発覚する。しかし箕部への融資は回収済みで、他の不正融資は牧野副頭取が行っていたと警察は処理しており「わざわざ過去を掘り返し棺を開けるような真似をするな」と開き直り半沢を懐柔しようとしたため、銀行員には時効はなくけじめをつけなければいけないと半沢に問い詰められる[ep 10]
灰谷の自供により、旧T時代の不正融資を全て取り仕切っていたことが判明し、半沢が黒崎に協力を要請したことで掴んだ「棺の会」メンバーたちの個人口座への不正融資の金の流れの証拠を突きつけられたために観念する。その際、全ての罪を牧野副頭取に被せるよう、不正融資先の企業からリベートを受け取っていた牧野副頭取の個人口座を捏造したのではないのかと半沢から問い詰められ、箕部に逆らえないために捏造は仕方のないことであったと弁明している。そして唯一入手できていなかった伊勢志摩ステートから箕部への入金の流れが記された手がかりを本部地下5階の役員専用金庫に保管していることを白状して半沢たちを案内するが、その証拠は福山から連絡を受けた大和田によって半沢たちが回収する前に盗み出されていた[ep 11]
保管していた箕部の資料を奪われた失態から箕部を恐れてホテルに潜伏していたが、半沢に居場所を突き止められ、箕部の不正な金の流れの証拠は箕部本人か、彼の第一秘書の武田だけが知っていることを吐露する[ep 12]
箕部の不正が明るみとなった後は、白井と共に乃原のこれまでの恐喝まがいの銀行への債権放棄の強要を告発した[ep 12]
牧野治(まきの おさむ)
演 - 山本亨
東京第一銀行 副頭取(合併以前)
→ 東京中央銀行 副頭取(2008年)
旧T出身。故人。
前身の旧T時代から副頭取を務め、合併後の東京中央銀行でも引き続き副頭取を務め旧T時代の不良案件の処理を行っていたが、帝国航空の債権放棄問題勃発の10年前(2010年9月6日)に仕事部屋として使用していたホテルの浴槽で自死を遂げており、当時の部下たちが「棺の会」と称する会を立ち上げ、彼の命日には追悼のため墓前に集まっている。自死の理由は、合併後に上層部で旧T時代の不正融資が問題に上がり、その融資全てに関わっていたためだとされていた[ep 10]
しかし自死の真相は、箕部への融資に反対していた牧野に対し、旧Tが抱える不正融資の情報を掴んだ箕部がそれを盾に取り空港用地を購入する20億円の融資を強引に承認させ、その件を警察に通報されることを防ぐため不正融資先からリベートを受け取っていた口座を箕部に捏造され口封じされており、言い逃れすることも出来たが弁明すると旧Tが抱える大量の不正融資が表に出てしまうため、旧Tを守るために全ての不正融資の罪をひとりで被る決意をしたためであった[ep 11]

人事部

東京中央銀行内のエリートコースで、大阪西支店長・浅野が人事部長を務めた部署。

小木曽忠生(おぎそ ただお)
演 - 緋田康人
東京中央銀行 秋葉原東口支店 支店長(2010年頃)
→ 本部 人事部管理グループ 次長(2013年版第1話 - 第3話)
→ 出向(ラジオドラマ第2章)
→ 再出向(ラジオドラマ第2章後編)
旧S出身。大和田派。浅野支店長(元人事部長)の元部下かつ腰巾着。
陰湿かつ粘着質な性格で、机を激しく連打しながら相手を叱責する常習犯。秋葉原東口支店長の頃、部下だった近藤に融資ノルマ達成の圧力をかけて休職に追い込んでいる。浅野の命を受け、彼に反抗的な半沢を追い落とすために様々な嫌がらせを画策する。
半沢を聞き取り調査の名目で本部に呼び出し、西大阪スチールの融資事故について徹底的に追及して謝罪させるが、5億円の回収を決断した半沢にことごとく反論されたうえ「二度と邪魔しないで頂きたい!」と啖呵を切られて敗北する[ep 1]
浅野と共に今度は大阪西支店への裁量臨店を計画し、半沢らが用意した資料を初日に次々と抜き取り、不完全な書類に見せかけて糾弾するが、臨店の最終日に半沢の対抗策と渡真利の機転のきいた芝居で、抜き取った資料を自分の鞄の中に隠し持っている事が露見する。それでも抵抗しようとするが、資料抜き取りの一部始終を見た中西を口止めした際にそれを録音されたため撃沈。その後左遷扱いで出向させられた[ep 18]
その後、東京中央銀行本部の澤田監査部長からホテルの領収書の記録を隠蔽してほしいと依頼されるが、後にこの不正に加担したとして地方にある関連子会社への再出向が決まる[ep 19]
横山(よこやま)
演 - 信太昌之
東京中央銀行本部 人事部管理グループ 次長(2020年版)
東京セントラル証券に三木の東京中央銀行への人事異動の内定情報を報告に現れる[ep 4]
半沢が電脳のスパイラル買収を阻止すると、半沢の東京中央銀行本部・営業第二部次長への異動の内示に現れ、同時に三笠・伊佐山・諸田が財務立て直しの名目で電脳に出向させられる情報も岡に伝えている[ep 6]
最終話では中野渡頭取から辞令があるので頭取室に出向くようにと半沢に電話で通達している。

法務部

銀行の法務・司法担当部署。

大田(おおた)
演 - 長谷川公彦[31]
東京中央銀行本部 法務部 部長(2013年版第一部)
旧S出身。半沢の意を受けた渡真利の要請によりハワイオアフ島にある東田の別荘の差し押さえを行ったが、黒崎から自分の息子が経営する飲食店に関する弱みを突かれ、大阪国税局査察部に別荘を譲ってしまう[ep 20]

東京本部営業第二部

東京中央銀行エリート行員が揃う営業部門の花形部署。

内藤寛(ないとう ひろし)
演 - 吉田鋼太郎
東京中央銀行本部 営業第二部 部長(2013年版)
旧S出身。2013年版第二部での半沢の上司。部下・半沢の能力を認め信頼しているが[注 34]、上層部の不条理な指令も「やむ無し」と思えば渋る半沢を説得するなどバランス感覚もある[注 35]。2013年版において唯一まともな上司として描かれている。
小野寺順治(おのでら じゅんじ)
演 - 牧田哲也
東京中央銀行本部 営業第二部 調査役(2013年版第一部)
合併後の入行組。半沢を尊敬している。半沢に厚く信頼され、半沢と共に伊勢島ホテルを担当する。
坂本新之助(さかもと しんのすけ)
演 - 岡山天音
東京中央銀行本部 営業第二部 調査役(2013年版第一部)
合併後の入行組。素直な性格なので半沢にも目を掛けられている。花が自分の実家に送った伊勢島ホテル疎開資料を、半沢に指示され金融庁より先に回収する[ep 14]
田島春(たじま しゅん)
演 - 入江甚儀
東京中央銀行本部 審査部企画グループ 調査役(2020年版第一部)
→ 東京中央銀行本部 営業第二部第一グループ 調査役(2020年版第二部)
合併後の入行組。審査部からの異動。半沢と共に帝国航空の再建担当に任命され、半沢の部下として行動を共にする。
宮崎(みやざき)
演 - 堀丞
半沢率いる帝国航空再建チームの一員。

融資部

東京中央銀行の融資中枢部署。東京中央銀行の企業への融資審議などをしている。同期の渡真利も調査役(後に次長)として勤務している。

倉島健太
演 - 吉永秀平
東京中央銀行本部 融資部審査グループ 調査役
→ 首都圏関連企業へ出向
旧T出身。中野渡派の中堅行員。
問題を起こし、大和田派に与みしていないこともあり関連企業への出向が決まるが、大和田に土下座をして処分取り消しを嘆願する[ep 20]
川原敏夫
演 - 井上肇
東京中央銀行本部 融資部審査グループ 調査役
西大阪スチールに5億円の融資審査を半沢から依頼される[ep 1]
灰田雅樹
演 - 加藤虎ノ介
東京中央銀行本部 融資部審査グループ 調査役
旧S出身。大和田派で、小木曽の腰巾着。半沢を出向させるために浅野・小木曽が仕掛けた裁量臨店において検査役を務め、小木曽と共に半沢ら大阪西支店融資課メンバーを徹底的に糾弾。しかし、その異常さに気付いた半沢らが持ち物検査を行った際にカバンから風俗情報誌が見つかる。さらには小木曽の不正が発覚したことで立場を失い、半沢にこれまでの非礼を謝罪するよう迫られ、渋々謝罪する[ep 18]
寺内健太郎
演 - 松永博史
東京中央銀行本部 融資部審査グループ臨店班 調査役
中立派で、灰田や加納ほど露骨ではないが、小木曽の意に沿う立場。急に決定した大阪西支店の裁量臨店の検査を担当する[ep 18]
加納正明
演 - 西沢仁太
東京中央銀行本部 融資部審査グループ臨店班 調査役
中立派だが、小木曽の言いなり同然の立場。急に決定した大阪西支店の裁量臨店の検査を担当する[ep 18]
福山啓次郎(ふくやま けいじろう)
演 - 山田純大
東京中央銀行本部 融資部融資管理グループ 次長(2013年版第8話 - 最終話、2020年版第8話 - 最終話)
旧S出身。「データが全て」と公言する合理主義者。「リサーチの福山」と呼ばれる。「MOF担」だったことがあり、金融庁にパイプを持っている。タブレットPCを持ち歩き情報処理している。他人の顔を殆ど見ずタブレットPCを見ながら冷淡かつ横柄に説明する場合が多い。大和田派のホープとまで呼ばれており、半沢に代わる伊勢島ホテルの担当に大和田と岸川に指名されるが、内藤が半沢の更迭に反対したので大和田が提案した模擬金融庁検査において自身と半沢どちらが伊勢島ホテル担当として適正か判断される事になる[ep 16]
その模擬検査では検査官役を務め、伊勢島ホテルの経営状況から湯浅社長の能力を疑問視し「経営は人で決まる」という持論とデータで大和田の目論みである湯浅社長辞任と羽根専務社長昇格を主張。一時は半沢を追い詰めたかに見えたが、逆に半沢から羽根どころか湯浅にも会っていないことを見破られ、その弁解で岸川の意見を聞いて判断したと主張したことが仇となり、己の持論と行動の矛盾を突かれ敗北。その無様な負け姿をさらしたため大和田からも見限られてしまう。その後、岸川の命令で偽の疎開資料を作り東京中央銀行を危機に陥れようとするも、それを知った半沢に追及されて事実を吐かされた[ep 3]
2020年版では箕部と東京中央銀行の接点を調べるために半沢から協力を要請された大和田の指令で、紀本の過去についての調査や箕部の融資内容が書かれたクレジットファイルを探しに動く。クレジットファイルの在りかを探るため半沢の策略で紀本に芝居を打ち、無数の資料が保管されてある書庫センターからクレジットファイルを見つけ出すことに貢献する[ep 10]。また、紀本の部下として不正融資に関与した灰谷の行動パターンを割り出し、定期的に訪れる飲食店で渡真利とともに待ち伏せ、遅れて到着した国税庁の黒崎とともに実態解明に協力するものの、その過程で明かされた様々な事実を大和田に報告していたことから、結果として地下5階の役員専用金庫に紀本が保管していた伊勢志摩ステートから箕部へ金が動いたことを証明できると思われた書類を大和田が盗み出す遠因を作り出してしまう[ep 11]

法人部

旧T出身者が多く集まっている。

時枝孝弘(ときえだ たかひろ)
演 - 髙橋洋
東京中央銀行本部 法人部企業金融グループ 調査役(2013年版第二部)
名古屋の関連企業へ出向(2013年版第6話)
旧T出身。九州大学出身。半沢と同期入行。
半沢が担当になる約3か月前に伊勢島ホテルを引き継ぐ際に前任・古里の罠にはまり、3か月後に明らかになった伊勢島ホテルの資金運用失敗に伴う120億円の損失の責任を一身に負わされる形で出向させられてしまう[ep 13]
灰谷英介(はいたに えいすけ)
演 - みのすけ
東京中央銀行本部 法人部企業金融グループ 部長代理(2020年版第二部)
旧T出身で紀本派。1988年度入行[ep 10]。「棺の会」の一員。
旧T時代に箕部へマンションの建設資金として5年間無担保で20億円の融資の取次を行っており、そのことを調べに来た半沢のことを冷たくあしらう。後に半沢の策略に踊らされた紀本の指示で箕部のクレジットファイルが保管されている書庫センターに書類[注 36]を確認に行ったところを田島と富岡に尾行され、クレジットファイルの保管場所を突き止められる[ep 10]
紀本の指示で伊勢志摩ステートに転貸された箕部への不正融資の金を箕部と「棺の会」のメンバーたちの個人口座に振り分ける役割を果たしており、半沢に応援を要請された黒崎に急所を握られながら追及され、その事実を吐かされた[ep 11]

証券営業部

伊佐山泰二(いさやま たいじ)
演 - 市川猿之助[30]
東京中央銀行本部 証券営業部 部長(2020年版第一部)
→ 電脳雑伎集団へ出向(2020年版第4話)
旧S出身。周囲から「大和田の愛弟子」と呼ばれる程の大和田派の行員であり、いずれ頭取にまで出世し自分を取締役まで引き上げてくれると期待を寄せていた大和田を失脚させた半沢に恨みを抱き、それ以来彼を異常なまでに敵対視する。しかし、諸田からリークされた電脳雑伎集団のスパイラル買収案件を成功に導き、ひいては証券部門と自身の地位を銀行内で向上させるために大和田を裏切り[注 37]、三笠派に鞍替えして三笠にスパイラル買収案件への融資増額の後押しを要請する。半沢に諸田からのリークによる電脳のアドバイザー横取りを突き止められても、息のかかったシステム部の行員にリーク情報が書かれたメールを受信記録ごとサーバーから削除させ、シラを切り通す。
裏で太洋証券やフォックスと手を組み、フォックスをスパイラルの「ホワイトナイト」として送り込んで、スパイラルの新株を取得したフォックスを電脳が一気に吸収合併することでスパイラルの株式の過半数を取得する詐欺まがいの買収スキームを立てていたが、半沢らの活躍や三木の買収スキームの情報提供により目論見を頓挫させられると、自身の電脳のアドバイザー契約の横取りを棚に上げ、半沢のスパイラル買収阻止の動きを逆恨みによるグループの利益に反する背任行為だと謝罪を要求するが、「顧客第一主義」でスパイラルから要請された買収防止アドバイザー就任による筋の通った正当な行為であり、非難される筋合いはないと半沢にやり込められる。その後、スパイラル買収のため500億円の追加融資を進めようと役員会に稟議を上げるが、電脳の粉飾を見破れず半沢の糾弾に合い、さらに三笠に全責任を擦り付けられ、半沢に対する謝罪を強要される。
その後スパイラル買収の追加融資の稟議が否決されると、三笠・諸田と共に財務状況の立て直しという名目で電脳に出向させられる。
野崎三雄(のざき みつお)
演 - 小久保寿人[32]
東京中央銀行本部 証券営業部営業グループ 次長
伊佐山の右腕と言われている男であり、かつてロンドン企業買収を手掛けていたことがあり、その分野では国内屈指のバンカーである。国内外の企業買収案件のチーフを一任されている。
公開買い付けによるスパイラル株取得が進み、電脳のスパイラル株所有率が48%にまで押し上がるが、電脳に見捨てられたフォックスがスパイラルの傘下となり、両社が手掛けるネット通販事業にマイクロデバイス社のジョン・ハワードが3億ドル出資することが表明されると、スパイラル株が一気に上昇し、スパイラルの買収が目前で阻まれてしまったため、フォックスの企業価値を見抜けていなかったことで伊佐山の怒りを買った[ep 17]

情報システム部

苅田光一(かりた こういち)
演 - 丸一太[32]
東京中央銀行本部 情報システム部開発グループ 次長(2020年版)
旧S出身。半沢と同じ慶應義塾大学からの同期入行。大学では相撲部に所属[ep 5]。半沢からの依頼で伊佐山が諸田から電脳雑伎集団のスパイラル買収案件情報をリークされた証拠のメールを調査するが、直前に伊佐山の息のかかったシステム部の行員によって受信記録ごとサーバーからメールデータを削除されてしまう[ep 4]。また、伊勢志摩ステートから箕部へ金が動いていた決定的な証拠となると思われた書類を盗み出した大和田を探しだす際には、渡真利経由の半沢の要請で社用携帯のGPS情報から大和田の居場所を追跡した[ep 11]

審査部

定岡崇之(さだおか たかゆき)
演 - 小須田康人
東京中央銀行本部 審査部調査グループ 審査役(2013年版第一部)
旧S行出身。浅野支店長の元部下。小木曽と共に半沢を5億の融資事故の件で責め立てるも、ことごとく論破され悔しがる[ep 1]
曾根崎雄也(そねざき ゆうや)
演 - 佃典彦
東京中央銀行本部 審査部調査グループ 次長(2020年版第5話 - 第6話)
→ 東京中央クレジットへ出向(2020年版第7話)
→ 東京中央ファイナンスへ再出向(朗読劇)
旧T出身。縄張り意識が強く、審査部による帝国航空の再建タスクが一向に進まないことに業を煮やした中野渡頭取により営業二部の半沢をリーダーとする新体制に再建担当を変更されたことを縄張りを荒らされたと見なし、半沢を敵対視する。
帝国航空へ前回150億円の追加融資を行った際に金融庁へ提出した東京中央銀行による再建計画の数字が、帝国航空が発表した再建計画の数字と違っていた理由は帝国航空の山久の事務的ミスであると黒崎に虚偽報告し、金融庁の聞き取り調査をしのいで既成事実をつくり、その後、整備士の人員整理に頭を悩ませていた山久に口裏を合わせ続けてさえいてくれればタスクフォース主導の再建に誘導し、人員整理せずとも帝国航空に穏便に整備士を残留させることができると山久を懐柔する。そして翌日、自身が再建担当に再任されるよう半沢を再建担当から外す嘆願書を捏造し、山久に書類の内容を確認させず彼の名前でその書類に捺印する。しかし、半沢がスカイホープ航空から帝国航空の余剰人員受け入れの確約を取り付けたことで、受け入れ先の心配がなくなった山久から曾根崎に偽証するよう懐柔されたことを証言してもらい、頭取を前にした聞き取り調査で曾根崎が山久を懐柔する様子を山久が録音した音声データが公開され不正が発覚、半沢に糾弾される。曾根崎が金融庁調査で黒崎に虚偽の報告をしたことを中野渡頭取は不正はいずれ暴かれるとの考えから正直に金融庁に報告し、東京中央銀行は業務改善命令を受けることになり、帝国航空の債権放棄の拒否が難しくなる局面を迎える。その後、大和田に出向先[注 38]を優遇する条件を出され、帝国航空への融資を通すため再建案の数値を改ざんする指示を出していたのは政府とつながりのある紀本であることを白状する。
後日談が描かれた朗読劇では、出向先の東京中央クレジットに赴任してから半年後に東京中央ファイナンスに再び左遷させられたことが語られている[ep 21]

検査部

融資など様々な銀行業務の検査を行う部署である一方、別名「島流し待機所」と呼ばれ出世コースを外れた銀行員の出向待ちの部署。

富岡義則(とみおか よしのり)
演 - 浅野和之
東京中央銀行本部 検査部検査・企画グループ 部長代理(2020年版第8話 - 最終話)
旧S出身。「東京中央銀行の生き字引」と呼ばれる存在。半沢が新人時代、産業中央銀行八重洲通り支店に赴任した時に世話になった大先輩。大和田も新人行員の頃に銀行員のイロハを教わったと彼のことを慕っている。半沢や大和田からは親しみをこめて「トミさん」と呼ばれている。「出向待機所」とも言われる検査部に10年在籍している[ep 10]
箕部への融資の詳細を探る半沢に協力を申し込まれ、全国に7か所ある書庫センターのどこかにクレジットファイルが保管されているのではないかと助言を与える[ep 10]
実は牧野副頭取が自殺した当時、ニューヨーク支店に在籍して思うように動けない中野渡から自身の代わりに牧野副頭取の死の真相を究明できる人物を探して欲しいと依頼を受けた牧野の秘書であった新山によって、中野渡が提示した「旧Tから遠い旧S出身で、優秀で派閥の論理に左右されず、口が堅く忠実に調査を行える行員」に該当する人物として人選され、中野渡から牧野副頭取の死の真相、旧Tの不正融資の実態の調査の特命を受け、本部の中枢から一番遠い検査部を隠れ蓑にしてその役目を引き受けていた[ep 11]
半沢たちが奇しくも旧T時代の箕部への不正融資の流れを追っており、その調査の応援を半沢に要請されたことから中野渡の特命のことは伏せながらも協力し、半沢の策略で突き止めた書庫センターに架空の店舗・荻窪西支店に偽装し保管されていた不正融資の証拠書類を、紀本の息のかかった行員に隠蔽されてしまう前に全て本部地下4階の秘密の保管場所に引き上げる[注 39][ep 11]
旧T時代の不正融資を公表すれば東京中央銀行の社会的信頼が失墜することが明らかであることから、公表することに迷いを生じていたが、半沢が説いた不正を世間に謝罪し、二度と過ちを犯さないと誓い、信頼を取り戻す「覚悟」が必要という言葉で迷いを断ち、自分たちが信念を捨てなければ銀行は必ず立ち直れると信じ、不正を公表する「覚悟」を決めた。

大阪西支店

旧産業中央銀行系の支店。融資額は全国でもトップクラスを誇る。関西圏に50店舗ある銀行の一つであり、関西地区四大店舗(大阪本店・難波支店・千日前支店・大阪西支店)の一つでもある。支店は阪急梅田ビル内に所在する。

浅野匡(あさの ただす)
演 - 石丸幹二
東京中央銀行本部 人事部 部長(大阪西支店長就任以前)
東京中央銀行 大阪西支店 支店長(2013年版第一部)
→ レイエス工機マニラ中央工場に出向(ラジオドラマ第1章前編)
→ 退職(ラジオドラマ第1章前編)
1961年度生まれ。 旧S出身。大和田派の元人事部長。東京都港区出身。西大阪スチール社長の東田は梅田第一中学時代の同級生[注 40]
大阪西支店において、部下である半沢に対しては殊の他高圧的で傲慢な態度を取り[注 41]、派閥の長である大和田には低姿勢で接する。中学時代の同級生である東田と結託して西大阪スチールに5億の融資を騙し取られるよう仕組み、更にはその見返りとして融資した5億円の内の5000万円を東田から受け取るという不正を働いた[注 42]。そして後に融資事故の件が知れ渡った際、最初は支店のために融資事故の責任を融資課長として全て背負うよう半沢に説得口調で頼んだが、彼がそれに反発したため敵対[ep 1]。それ以降は行内で根回しするなどして半沢に様々な圧力をかけるようになり彼を出向に追い込もうとするが、藤沢未樹を味方につけた半沢が東田の隠し資産を探し当て見事に5億を回収、同時に不正の証拠を握られたことで形勢が逆転。刑事告発する意向の半沢に家庭や仕事上の立場まで喪失寸前に追い詰められるが、差し入れを持って来た際に事態を察した妻・利恵が半沢の手を取り懇願したため、半沢に「本部の営業第二部(何らかのグループ)の次長待遇かつ融資課メンバーを希望部署に異動させれば見逃す」と提示される。そして「5億円回収できたら土下座して謝罪する」という約束通り、彼に土下座して謝罪した。
その後、取引に従い半沢ら融資課メンバー全員を希望の部署へ異動させたが、最終的には大和田にも切り捨てられる形で、出向取り消しとなった半沢の代わりとしてマニラの零細企業へ出向させられた[ep 2]
この一連の裏には株取引の失敗で重ねた借金の5000万円を返済する目的があり、これが東田との結託と全ての不始末を自分に従わない半沢に被せるという陰謀の根本だった。
本部では長年人事畑出身で人事部長時代には小木曽や定岡が部下であり、5億の融資事故に裁量臨店を仕掛けたりするなど人事権を持つ力は支店長になっても衰えていない様子。
家族として妻・利恵や2人の娘がいる。大阪西支店長時代は妻子を東京に残しての単身赴任だった。マニラに行くため日本住居を退去する際に「出向することになり再び一緒に暮らせるようになって嬉しい」と利恵に言われる。
出向先のマニラで働いていたが、会社を辞めて日本に戻りのんびり暮らさないかと利恵に勧められて退職し、二人で北関東の田舎町で暮らすことにする[ep 22]
江島浩(えじま ひろし)
演 - 宮川一朗太
東京中央銀行 大阪西支店 副支店長(2013年版)
旧S出身。浅野支店長の腰巾着にして「虎の威を借る狐」を地で行く男。浅野の顔色を伺いつつ部下たちには横暴な態度を取り威張り散らしている。上司である自分達に常に反抗的な半沢を快く思っておらず、西大阪スチールの融資事故の件で5億の回収に奔走する半沢を、浅野の意を汲んで妨害する。浅野が出向した後の支店長に自分がなると思い込んでいたが、他から来た人物が支店長に就任すると決定したためあえなく撃沈する[ep 2]
中西英治(なかにし えいじ)
演 - 中島裕翔
大阪西支店融資課(2013年版第一部)
→ 難波支店融資課 主任待遇
入行2年目の若手行員。新人であるが正義を貫く半沢を尊敬し慕っており、浅野と小木曽が仕組んだ裁量臨店の場では、半沢を陥れるための小木曽の悪事を目撃したことを小木曽の脅しに屈さず証言する[ep 18]
半沢の「融資課メンバーを希望部署に異動させれば浅野を刑事告発しない」という条件により、以前から希望していた関西地区最大の難波支店に主任待遇で異動する[ep 2]
垣内(かきうち)
演 - 須田邦裕
大阪西支店融資課(2013年版第一部)
ニューヨーク支店融資課
半沢の言動を監視するよう浅野支店長に命じられるが、「尊敬している半沢を裏切れないので命令を辞退する」旨を数日後に浅野に告げる[ep 23]
前述の条件により、以前から希望していたニューヨーク支店に異動する[ep 2]
角田(かくた)
演 - モロ師岡
大阪西支店融資課(2013年版第一部)
→ 大阪西支店融資課・課長
旧S出身。課内の良きまとめ役であり、半沢にとっては唯一の年上の部下[注 43]。出世よりも地元に一生根付いていこうと決めている。
前述の条件により、自身だけは大阪西支店に残って半沢の後任として融資課長になる[ep 2]
山村(やまむら)
演 - 小林徹[33]
大阪西支店業務課 為替担当
東田の個人口座から東亜細亜リゾート開発への5千万円の振込依頼書を発見し中西に知らせた。国税が2回目の査察に来て保管庫に向かっている間に半沢が保管庫に先回りし東田の振込依頼書・原本を抜き取ったので、「そんな杜撰な管理じゃ困るぞ」と江島に叱責される[ep 20]
松下(まつした)
演 -
大阪西支店総務課 庶務担当
支店の警備員。元技術者。国税が査察しに来た際にコピー機の内部に外付けハードディスクの取り付けを半沢に依頼され、秘密裏に本体データとの同期を図る。結果、データの確保に成功し、国税が西大阪スチールを調査していることを突きとめることになる[ep 1]

京橋支店

旧S出身者が歴代支店長に名を連ねる支店であり、戸越曰く「東京中央銀行の闇の中枢」である。大和田→岸川→貝瀬と支店長が変わっている。

貝瀬郁夫(かいせ いくお)
演 - 川原和久
東京中央銀行 京橋支店 支店長
旧S出身。大和田派に属する。かなりの見栄っ張りでプライドが高い性格。
戸越の内部告発を受けた古里が伊勢島ホテルの120億円運用損失発生に関する報告書を提出するが、大和田に指示されてそれを黙認し、200億円の融資を実行させるよう仕向けた[ep 14]。報告書のコピーを入手した半沢と渡真利にその事を問い詰められるが、証言はしなかった。2人が乗り込んできたことから、古里が半沢に協力したことを知り、2人が支店を去っていく後ろで古里を呼び出している[ep 14]
後に「200億円融資は君が勝手にやった事だろう」と大和田に切り捨てられる。
古里則夫(こざと のりお)
演 - 手塚とおる
東京中央銀行 京橋支店融資課 課長代理
旧S出身。上司の顔色ばかり伺い、常に相手に対して高慢な態度でものを言うが、自身の立場が悪くなると一転して低頭になる小心者。
わざと不十分な引き継ぎをして時枝を罠にはめて出向に追い込んだ上、近藤のタミヤ電機への融資依頼に難癖をつけて拒絶し、小木曽同様に近藤をいびって精神崩壊寸前にまで追い詰めていた。しかし半沢の策略で、戸越に伝えられた伊勢島ホテルの120億円損失の件を支店長の貝瀬が無視し、自身もそれを黙認した証拠を戸越の協力を得た半沢と近藤に握られあっさり屈服。そして半沢らが損失に関する内部告発の報告書を手に入れる過程で強引に協力させられる羽目になる。更にその直後タミヤ電機の融資の件でも、即刻稟議を通すようにとの半沢の要求に従わざるを得なくなる[ep 13]
その後、半沢と渡真利が貝瀬を問い詰めに京橋支店に乗り込んできたため、半沢に協力したことが貝瀬に知られてしまい、2人が支店を去っていく後ろで貝瀬に呼び出されている[ep 14]
羽出(はで)
演 - [34]
京橋支店融資課 課長
旧S出身。名古屋出身。京橋支店の金庫室の暗証番号を週交代で管理する担当課長の一人。金庫室の疎開資料を貝瀬と共に運び出す[ep 13]。暗証番号のメモを自分のデスク引き出しの裏側に貼り付けている[注 44]

伊勢志摩支店

深尾貴洋(ふかお たかひろ)
演 - 小松和重
東京中央銀行 伊勢志摩支店 副支店長
旧T出身。半沢の同期。伊勢志摩ステートと箕部の繋がりを調べに来た半沢に協力し、社長の野川が箕部の親戚筋であることを伝える。また、融資の稟議を書く際の参考にする口実で伊勢志摩ステートから財務資料を借り出し、半沢にその資料を閲覧させている[ep 11]

大阪西支店奥様会

江島沙苗(えじま さなえ)
演 - 田中美奈子
江島副支店長夫人。夫同様に傲慢で、副支店長夫人であることを鼻にかけている。社宅のリーダー的存在で夫人会を頻繁に催行している。半沢の妻・花を見下している。タロット占いを好み、社員の転勤を言い当てると評判だが、実は社員の出向を知った上で占い結果のように言っている。しかし、『引越し』の暗示が何度も出ることから「御主人が転勤するのかしら」と花に嫌味を言ったつもりが半沢の本部栄転で良い意味になってしまい、「占いは本当によく当たりますね」と花に嫌味を言われ、さらに隆博に「オバちゃん」と言われ悔しそうな顔をする[ep 2]
角田美津子(かくた みつこ)
演 -
角田の妻。社宅歴が長く夫人会の連絡係を任されている。
垣内芳江(かきうち よしえ)
演 - 宇田川さや香[35]
垣内の妻。おとなしく気弱な性格でリーダー格の沙苗に逆らえないでいる。

本部奥様会

岸川夫人
演 - 松居直美
岸川の妻。仕事をしている大和田夫人に代わって、東京中央銀行本部の奥様会を仕切っている。出世が見込まれる部下の妻に対しては好意的な態度をとる一方、更迭や出向が確実な銀行員の妻には冷たく接する。
自分の娘が銀行の敵である金融庁検査官と結婚することを不安と思うようになり、花にそのことを打ち明けてしまう[ep 3]
貝瀬夫人
演 -
貝瀬の妻。
福山夫人
演 - 大森裕子
福山の妻。

東京セントラル証券

取締役会・執行役員会

岡光秀(おか みつひで)
演 - 益岡徹[32]
代表取締役社長
かつては東京中央銀行の取締役だったが、出世競争に敗れ1年前に現職に出向。半沢ら部下に対しては厳しい態度だが、銀行の取締役員には態度が消極的。上昇志向が強く負けず嫌いで、口癖は「銀行を見返せ」[ep 4]
電脳のスパイラル買収に関する一連の責任を取らされる形で三笠・伊佐山・諸田が電脳へ出向させられることを半沢に伝えた時には「ざまあみろだ!」と喜びを爆発させた[ep 6]

営業企画部

森山雅弘(もりやま まさひろ)
演 - 賀来賢人[30](中学時代:山崎雄大)
営業企画部 調査役
セントラル証券のプロパー社員で、ロスジェネ世代就職氷河期の真っ只中に就職活動に励み、何十社と採用試験を受け、東京セントラル証券の内定を勝ち得た。好景気というだけで大量採用されて、三木のような能力が伴っていない者がのうのうとしているバブル世代に反感を持っている。企業の本質を見抜くセンスは半沢も認めるほど。経験の浅い自社に電脳からアドバイザー依頼のオファーがあったことを不審に思う。
スパイラルの瀬名と出身校の明成学園中等部では同じクラスの同級生で、お互い剣道部に所属しており親友の間柄であった。のちに電脳によるスパイラル買収騒動を機に、半沢の勧めもあり瀬名と再会を果たすが、瀬名にとって森山は「敵対する企業のアドバイザーの子会社社員」であるため、当初は瀬名に電脳側のスパイではと疑いの目を向けられ、冷たい態度を取られる。だが自身の率直な思いをつづった直筆の手紙が功を奏し、瀬名との親交を回復。スパイラル買収を防ぐために、半沢や瀬名と共に奔走する。
経営危機で社員を路頭に迷わせまいと重責を感じるフォックスの郷田に対し、今回のスパイラルによるフォックスの逆買収は両社が目先の難局を乗り切るためだけではなく、フォックスの子会社「コペルニクス」が手掛けるネット通販事業とスパイラルの検索エンジンとを組み合わせた事業の将来性を見据えたうえでの逆買収であると説明しつつ[注 45]、瀬名が袂を分かった加納と清田がいつスパイラルに戻ってきていいよう彼らのデスクをそのまま残すなど、郷田同様に社員(仲間)を大切に考える人物で、尚且つ起業家として郷田を尊敬していることも伝え、郷田にスパイラルの傘下となることへの同意を促す[ep 17]
半沢の活躍で電脳によるスパイラル買収が阻止されると、信頼できる仲間と仕事がしたいと瀬名からスパイラルの財務担当役員への就任を打診されるが、今後も金融業界で頑張りたいという考えを伝え、セントラル証券のアドバイザーの立場でスパイラルとコペルニクスによるネット通販事業に取り組むことになる[ep 6]
スカイホープ航空の担当営業として開発投資銀行に融資の依頼に現れた際、谷川と打ち合わせをしていた半沢と再会を果たし、半沢からの頼みもあり帝国航空の余剰人員の受け入れ先として業績好調で事業拡大を予定しているスカイホープ航空の担当者を紹介する[ep 8]。しかし、白井の圧力でスカイホープ航空への開投銀からの融資が打ち切られ、帝国航空の整備士たちの受け入れ先が消滅すると、半沢への恩返しのためにスカイホープ航空への新たな出資者や帝国航空の整備士の受け入れ先を探そうとする[注 46]が、その矢先、不注意から出先の階段で足を踏み外し転落して鎖骨を骨折し入院してしまう[ep 9]。退院後は半沢と共に伊勢志摩ステートと箕部の繋がりを追うため伊勢志摩に飛び、伊勢志摩ステートが箕部の親戚筋が経営する企業で、不正融資をもとに伊勢志摩空港の用地を買い占め、土地の売却で巨額の利益を得ていた事実を突き止めた[ep 11]
頭取に裏切られたものの本当に1000倍返しの復讐をするべきか葛藤し、剣道場で稽古をしていた半沢の元に瀬名とともに病み上がりの体を押して現れ、掛かり稽古を通して正義のために自身の考えを貫くよう訴え、半沢が迷いを吹っ切る手助けをする[ep 12]
企業が持つ価値や技術を正当に評価し金銭的に支援できる手助けができれば、親友の瀬名の家族が夜逃げをしたような悲しい出来事を防げると考え就職先に金融業界を志望している。
浜村瞳(はまむら ひとみ)
演 - 今田美桜[36][30]
情報システム部(スペシャル版)
→ 営業企画部 調査役(2020年版)
セントラル証券のプロパー社員。かつて情報システム部で新入社員研修中に新規トレーディングシステム導入プロジェクトのメンバーに選ばれた際、城崎の策略で身に覚えのない社内で禁止されている株取引で謹慎処分にされた。そのうえ新システム稼働時にはシステムをハッキングして顧客口座から金を不正に引き出した犯人に仕立て上げられそうになったが、スパイラルの高坂の協力により自身の身の潔白を証明し、職場に復帰後、営業企画部へ配属となる[ep 24]
半沢と森山が東京中央銀行によるスパイラル買収スキームの裏側を調査していた際には、自らも役に立ちたいとの思いから電脳本社前に張り込み、電脳と太洋証券が裏で繋がっている決定的な証拠を写真に収め、森山に送信。結果的にスパイラルが「ホワイトナイト」であるフォックスごと電脳に吸収される事態を未然に防ぐことに一役買う[ep 5]
証券取引等監視委員会がセントラル証券を監査しているというニュースを心配した高坂がメールを送信してくるなど、新規トレーディングシステム導入後も高坂との付き合いは続いている模様[ep 17]
尾西克彦(おにし かつひこ)
演 - 粟島瑞丸[32]
営業企画部 調査役
プロパー社員で、森山のひとつ先輩。辛辣な意見が多い。
半沢の指揮で玉置親子の次世代スイッチング電源の特許を買い戻すための出資者探しにスパイラルやフォックスから紹介された企業も奔走し、浜村と共に中堅電子機器メーカー・浜畑電子を探し当てる[ep 6]
森山がスカイホープ航空への出資者や帝国航空の整備士の受け入れ先を探している最中に階段を踏み外し負傷した際、半沢にそのことを伝えている[ep 9]
原田浩平(はらだ こうへい)
演 - 持田将史[32]
営業企画部 調査役
プロパー社員。昼食時に不用意に半沢が買収対策中のスパイラルを訪問していることを同僚に話し、その話を近くにいた社長の岡に聞かれてしまった[ep 5]
半沢の指揮で玉置親子の次世代スイッチング電源の特許を買い戻すための出資者探しに奔走する[ep 6]
諸田祥一(もろた しょういち)
演 - 池田成志[30]
営業企画部 次長(2020年版第1話)
→ 東京中央銀行本部 証券営業部営業グループ 調査役(2020年版第2話)
→ 電脳雑伎集団へ出向(2020年版第4話)
旧S出身。バブル世代で、東京中央銀行からの出向者。プロパーの森山とは反りが合わない。
スパイラル買収プロジェクトチームのリーダーを務めるその裏で、東京中央銀行への異動を見返りに伊佐山に電脳雑伎集団のスパイラル買収案件の情報をリークする。
銀行に戻ってからは伊佐山の腰巾着として振る舞っていたが、スパイラル買収の追加融資の稟議が否決されると、電脳の案件に関わっていたことで財務立て直しの名目で三笠・伊佐山と共に電脳に出向させられる。また半沢に連れ出され、セントラル証券のプロパー社員たちの前で彼らを裏切り見下していたことを謝罪させられる[ep 6]
三木重行(みき しげゆき)
演 - 角田晃広[37]
営業企画部 調査役(2020年版第1話)
→ 東京中央銀行本部 証券営業部総務グループ 調査役(2020年版第2話 - 第4話)
→ 総務部管理グループ 調査役(朗読劇)
バブル世代。東京中央銀行からの出向者。諸田が編成したスパイラル買収プロジェクトチームのサブリーダー。気が弱く事務能力すらない有様で、事務職社員から文句が出るほど。しかし半沢からは「人の懐に入り込むのが得意なので、営業に向いている」と評価されている。
諸田のセントラル証券への裏切りを知りつつもそのことを咎めることができず、伊佐山の働きかけで東京中央銀行の証券営業部に配属されるが、営業ではなく総務グループでコピー取りやお茶くみなどの雑務ばかり押し付けられ、飼い殺しのような惨めな思いをする。半沢たちを裏切った後悔の念から、伊佐山が離席中にキャビネットに保管されている電脳のスパイラル買収スキームが書かれた書類の原本を撮影し、半沢にメールで提供した[ep 5]
後日談が描かれた朗読劇では、自身の希望で総務部に異動したことが語られている[ep 21]

情報システム部

府川義則(ふかわ よしのり)
演 - 栗原英雄[38]
情報システム部 部長(スペシャル版)
瞳の情報システム部時代の上司。
城崎勝也(しろさき かつや)
演 - 緒形直人[38]
情報システム部 主任(スペシャル版)
個人的に不動産投資をしていたが5億円の負債を出し補填のため闇金に手を出す。その後、闇サイトで知り合った来栖誠也と手を組み、新入社員の瞳に罪を擦り付けて東京セントラル証券の顧客口座から300億円を盗み出そうとするが、高坂が作ったフィッシングプログラムに引っ掛かり全ての不正が露見したことで逮捕された[ep 24]

国税庁・金融庁

黒崎駿一(くろさき しゅんいち)
演 - 片岡愛之助
国税庁大阪国税局査察部統括官(2013年版第一部)
金融庁検査局主任検査官(2013年版第二部・ラジオドラマ第4章)
証券取引等監視委員会事務局証券検査課統括検査官(2020年版第一部)
→ 金融庁監督局主任統括検査官(2020年版第二部)
→ 国税庁調査査察部査察課 課長(2020年版第9話以降)
かつての金融庁検査で、日本三大銀行の一つに数えられていた大同銀行を破綻に追い込んだことで「やり過ぎ」と批判が起きたことから、ほとぼりが冷めるまで国税局に異動させられていた旧大蔵省銀行局出身の切れ者のエリート。傲慢かつヒステリックな性格で、オネエ言葉で話す。激高すると部下の男性の急所を鷲掴みにして、「潰すわよ」などと脅すのがパターンとなっている。暗算が得意であり、
2013年版第二部において金融庁検査の初日に東京中央銀行への引当金の額を宣告する際、目を閉じたまま右手でそろばんを打つ仕草をしてから即座にその合計額を弾き出している。
2013年版 (第一部)
西大阪スチールの脱税調査を指揮し、半沢ら東京中央銀行の前に立ちはだかる。半沢が先に差し押さえていた東田の5千万円の別荘を横取りするなどして翻弄し[ep 20]、更には半沢同様に藤沢未樹に目を付け彼女に接触[ep 23]。未樹の脱税を一部見逃すという条件を付けて東田の隠し資産を掴もうとするも、半沢と組むことを選んだ未樹の計略によって出し抜かれ、最終的に半沢に先を越され隠し資産を全て回収されてしまい、彼に対し更なる怒りを燃やす[ep 2]
2013年版 (第二部)
再び金融庁に返り咲き、伊勢島ホテルの120億円損失の件を踏まえた金融庁検査を指揮する形で再び半沢と対峙。そして何者かのリークで貝瀬と古里の伊勢島ホテルの一件を扱った文書を半沢が疎開資料として手元に置いていたことを知り、部下を自宅に待機させて不意打ちの如く家宅捜索を行い、偶発的に花が自分の実家に送ったことも知って追跡をかけるなど執念深い追跡をするがどちらもことごとく失敗に終わり[ep 14]、最終的に半沢がホテルの経営再建に成功し疎開資料も隠し通したことでまたしても敗れ去る。実はこの一連の対決の裏では、岸川に「(東京中央銀行の)上層部が皆吹き飛べば、次期頭取も夢ではない」と吹き込み、大和田を裏切るよう仕向けていた。もっとも、半沢から自身の野心のために岸川の娘に近づいたのかと水を向けられた際にはそれを否定し「本当に好きになっちゃったものはしょうがない」と純粋な恋愛感情であったことを述べている[ep 3]
2020年版 (第一部)
証券取引等監視委員会事務局証券検査課統括検査官として、スパイラルによるフォックスの逆買収に関し、スパイラルのアドバイザーである東京セントラル証券への立ち入り検査で半沢と三度目の対峙をする。共有クラウド上のスパイラルによるフォックス逆買収のデータ入手はスパイラルの高坂の活躍により阻止されたが、社長の岡がシュレッダーで破棄した紙ベースのフォックス逆買収の計画書と経営状況報告書を入手、復元に成功したことで半沢を言い逃れできない状況に追い込む。しかし、そこにフォックスの郷田が現れ「フォックスの経営状況はスパイラルとの友好的合併のために自分がスパイラルとセントラル証券に開示し、どのように使っても構わないと告げている」と証言されたため[注 47]、これ以上の追求は無意味と判断したのかあっさりと引き上げる[ep 17]。それはセントラル証券への立ち入り検査に乗じて電脳雑伎集団と電脳電設の関係も調査しており、電脳電設に関する資料を入手し目的を果たしていたからであった。その後電脳電設への架空計上による電脳の粉飾決算が明るみになると、電脳への立ち入り検査に踏み込んだ。
2020年版 (第二部)
電脳の粉飾決算を摘発した功績で金融庁監督局に栄転しており、白井の意向で東京中央銀行の帝国航空への再建計画に対する与信判断のためヒアリングに現れ、半沢と四度目の対峙をすることとなる。曾根崎が帝国航空の再建担当していた当時に提出した東京中央銀行の再建案の数字と帝国航空が発表した数字が違っていたことを指摘し、回答を求める[ep 8]
タスクフォースが表明した帝国航空の再建案で、東京中央銀行が撤退と判断した羽田-伊勢志摩路線が継続となっていたことから、伊勢志摩を選挙地盤とする箕部が今回の帝国航空の債権放棄に大きく関わっていると気付き箕部の身辺調査を行っていた半沢に対し、箕部が東京中央銀行の前身である旧T時代に接点があったことを伝える。しかし、自身も箕部の身辺を嗅ぎまわっていたことを察知され、箕部からの圧力で金融庁から国税庁への異動を余儀なくされる。そのことを大和田から伝え聞いた半沢が自身のもとを訪ねてきた際、金融庁がこの件から手を引くことを伝え、半沢に「伊勢志摩ステート」を調べるよう助言を与える[ep 10]。その後は旧Tの不正融資の金の流れを追いかける半沢の要請に応じ、伊勢志摩ステートから箕部への不正融資の入金の際に同時に「棺の会」のメンバーたちの白水銀行や関西シティ銀行などの個人口座へ入金された口止め料の記録を国税庁の力を使い調査し、金の流れの証拠を掴んだ[ep 11]
足取りがつかめない伊勢志摩ステートから箕部への不正融資の金の流れを、東京中央銀行伊勢志摩支店からほど近い名古屋市内の海外銀行の支店に現金輸送して入金していると目星をつけており、白井と笠松が瀬名のサポートを受けて掴んだ箕部がUAE銀行に隠し口座を開設していた情報を受け、UAE銀行名古屋支店に捜索に入り、箕部の隠し口座の入出金情報を入手して大和田に提供し、箕部の不正を暴くことに貢献する[ep 12]

大阪国税局査察部

相模(さがみ)
演 - 石黒英雄
国税査察官。黒崎の指揮の下、西大阪スチールの脱税を調査する。東京中央銀行大阪西支店への査察で東田の個人口座の存在に気付かなかったため、黒崎に急所を掴まれる[ep 20]。後に東田へのガサ入れに慎重な態度を取ったことが黒崎の逆鱗に触れ、再び急所を掴まれる[ep 23]
大塚(おおつか)
演 - 永岡佑
国税査察官。黒崎の指揮の下、西大阪スチールの脱税を調査する。東京中央銀行より東田の口座記録が提出されたことを受け、東亜細亜リゾート開発の調査に乗り出す。
脇屋(わきや)
演 - 岡あゆみ
国税査察官。黒崎の指揮の下、西大阪スチールの脱税を調査する。東田社長の愛人である藤沢未樹に接触する。

金融庁検査局・監督局

島田亮太(しまだ りょうた)
演 - 竹財輝之助
金融庁検査官(2013年版第二部)
黒崎の部下。長方形の顔をしており、半沢曰く「モアイ」。
金融庁検査において、伊勢島ホテルの疎開資料の隠し場所を探る。黒崎の指示で半沢の社宅を捜査するが見つからず、横柄な態度を花に糾弾され、謝罪するに至る。
最終聞き取り調査の前日になっても疎開資料の隠し場所が判明せず、業を煮やした黒崎に急所を掴まれる。疎開資料を同日中に見つけるよう厳命され半沢を尾行するが、撒かれてしまう。
木下愛(きのした あい)
演 - 近野成美
金融庁検査官(2013年版第二部)
黒崎の部下。金融庁検査において、伊勢島ホテルの疎開資料の隠し場所を探る。黒崎の指示で島田らと共に半沢の社宅を捜査する。
その後、宅配業者から得た情報に基づき花の実家に疎開資料の回収に向かうが、坂本に先を越される。最終聞き取り調査の前日に半沢を尾行するが、撒かれてしまう。
古谷(ふるや)
演 - 宮野真守
金融庁検査官(2020年版第二部)
黒崎の部下。東京中央銀行の帝国航空再建案への与信判断に関するヒアリングに出席した黒崎に同行する。
永田町で箕部の身辺調査を行っていた半沢を黒崎の指示で探し出し、金融庁の庁舎に案内する。半沢と黒崎の会話に口を挟んだため黒崎に急所を掴まれる[ep 10]

証券取引等監視委員会

加藤(かとう)
演 - 矢崎広
黒崎の部下。東京セントラル証券の検査に従事。動くなという警告を無視する浜村を怒鳴りつけるが、検査の最中シュレッダー片の復元作業の優先順位を巡って黒崎を怒らせ急所を掴まれ、様子を見ていた浜村に笑われる。更に社長室で金庫を発見し黒崎に報告した際、「そんなところに隠すわけないでしょ」と突き放された言い方をされてしまうが、その社長室から見つかった買収計画書のシュレッダー片を2時間で復元してみせる[ep 17]
福島(ふくしま)
演 - 石田剛太
黒崎の部下。東京セントラル証券の検査に従事。半沢のパソコンの調査を担当。パソコンの操作は迅速かつ正確であり、黒崎が入手したクラウド上の隠しファイルへの到達方法に従いクラウドへアクセスするが、予期せぬパスワードの要求に焦り、敵対者である半沢にパスワードを聞きに行こうとして黒崎に急所を掴まれる。パスクラッカーを駆使して何とかパスワードを突破し、2つの隠しファイルを見つけるが、開く寸前で高坂のハッキングによって削除されてしまう[ep 17]

西大阪スチール融資事故関係者

東田満(ひがしだ みつる)
演 - 宇梶剛士
西大阪スチール社長(2013年版第一部)
→ 収監(ラジオドラマ第3章)
→ 釈放(ラジオドラマ第3章後編)
1961年度生まれ。浅野支店長の中学校・同級生。学歴は大阪市立梅田第一中学校 → 私立なにわ高等学校 → 私立浪速大学経営学部。
粗暴な性格で、ガラの悪い大柄な男。自身が経営している西大阪スチールに粉飾決算を3年間続けさせ東京中央銀行から融資された5億を計画倒産して騙し取った。中学の同級生である浅野を「ターちゃん」と呼んでいる[ep 23]。脱税によって得たものも含めて、12億もの不正資産をニューヨーク・ハーバー信託口座にプールしていた。表向きは自己破産したにもかかわらず、隠し財産で贅沢な暮らしをしており、愛人の未樹が勤務するクラブ「アルテミス」に入り浸り豪遊していた。また、衰退していく日本に見切りをつけて、急速な経済成長が進むベトナムASEANでの事業立ち上げを目論んでいた。
最後は半沢と未樹の結託により全財産を東京中央銀行に差し押さえられ一文無しとなってしまい、アルテミスの店内で半沢から全ての資産を失ったことが告げられると、逆上して襲い掛かるが元剣道部の半沢にあっさり返り討ちにされる。そして「金さえあれば何でもできると思ったら大間違いだ」と一喝されて泣き崩れ、その様子は東田を憎悪していた竹下でさえも哀れに思う始末だった[ep 2]
藤沢未樹(ふじさわ みき)
演 - 壇蜜
東田の愛人。大阪ミナミのクラブ「アルテミス」に勤めるホステス。西大阪スチールの融資事故の件で東田が半沢に追い詰められたとき、半沢に暴行し彼の逃亡を助けた[ep 1]。自分の経営するネイルサロンを開業する夢を叶えるために東田に取り入っていたが、ネイルサロンを出店するための事業計画・経営者としての資質を半沢から賞賛され、自分を通して銀行に融資を申し込んで欲しいと申し込まれ、東田の隠し資産の在り処・浅野の不正を裏付ける証拠の通帳を渡して欲しいという銀行員としての申し出に心打たれる[ep 23]。その後、一方で自分の違法行為を見逃すという取引を持ち掛けてきた黒崎のいる国税局へと赴くが、実はそれは半沢と示し合わせた計略であり、その目的は国税局によるガサ入れを利用して東田が自分にも隠していた隠し資産の在り処を突き止めるためだった。そして計略通り、東田から渡された通帳の中から隠し資産のある海外口座の通帳だけをバイク便で半沢の元に送り、残った通帳は全て黒崎に渡して出し抜くことに成功した[ep 2]
東田が収監されてすぐ妊娠に気づき、東田との娘「笑里」を出産する[ep 25]
竹下清彦(たけした きよひこ)
演 - 赤井英和
竹下金属社長。首を吊った直後の竹下に半沢が突撃して首吊り自殺を阻止する。西大阪スチールが不渡りを出して竹下金属が連鎖倒産する際に救いの手を差し伸べなかった銀行を信用していないが、古い付き合いがある牧野社長の会社・マキノ精機を救った半沢だけは信用し、東田捜索に協力する[ep 1]。デジタル一眼レフカメラを使用して東田の行動を隠し撮りし、有用な情報を半沢に提供。東田を崩壊させた後は、回収した資金で竹下金属を復活させると誓い、東京に異動する半沢を見送る[ep 2]
波野吉弘(なみの よしひろ)
演 - ラサール石井
西大阪スチール 経理課長
→ 鳥谷造船社員
西大阪スチールの裏帳簿を隠し持っていた。心臓病を患っており半沢の目前で心臓発作を起こす[ep 1]
板橋平吾(いたばし へいご)
演 - 岡田浩暉
淡路鋼材社長。西大阪スチールが倒産したので竹下金属と同様に淡路鋼材社は連鎖倒産する。しかし裏では東田と繋がっていて半沢と竹下の行動を妨害するが見破られてしまう[ep 20]。その後、未樹に極秘面会しているところを竹下に撮影される[ep 23]
東亜細亜リゾート開発店員
演 - 大谷みつほ
東亜細亜リゾート開発の女性店員。来店した半沢への応対中に東田の不動産情報を半沢が訊き出そうとしていると分かると話を切り上げて退店を促した。顧客である東田の個人情報は守る一方、迷惑している旨を東田に電話で伝えている[ep 20]
小村武彦(こむら たけひこ)
演 - 逢坂じゅん
小村建設元会長。東田の遠縁。不動産を30軒ほど所有。信頼していたメインバンクに裏切られ、不正献金を検察に密告されて一代で築いた小村建設から追われた。その後世間からは犯罪者のレッテルを貼られたことで娘からは嫌われ、また自らも父親失格と考え親子関係を断絶。さらにその後には死期が迫り入院を余儀なくされた。孫や娘と会いたがっていることを知った半沢が連絡して娘・優子(演:吉沢梨絵)に再会して和解。幼い孫・武志(演:)を含めた3人で今際の際まで充実した時間を過ごせたため、お礼に東田の居場所を記した手紙を書き優子を通じて半沢に渡す[ep 18]

伊勢島ホテル

湯浅威(ゆあさ たけし)
演 - 駿河太郎
代表取締役社長
金融庁検査の件を踏まえたホテルの経営再建において、ワンマン経営の父親とは異なる経営方針で伊勢島ホテルを立て直そうと奮闘する。かつては大東京ホテルで企画部長を務めており、ホテルマン修業時に半沢を知り、銀行員でありながらホテル再建に情熱を傾ける半沢を信頼する。半沢を伊勢島ホテル再建の担当者にするよう中野渡に要請し、自らも再建計画のため海外の企業に渡りを付けるなど、かなりの行動派[注 48]
大和田と羽根の策略に半沢共々翻弄されるが、伊勢島ホテルを再建する最終手段「フォスターとの業