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🌐|朝ドラに菅原小春登場「いだてん」同様アスリート役でネットも期待大【ネタバレ】


写真  菅原小春

朝ドラに菅原小春登場「いだてん」同様アスリート役でネットも期待大【ネタバレ】

 
内容をざっくり書くと
菅原は大河ドラマ「いだてん」で、陸上競技で五輪に出場し、日本人女性初のメダルを獲得した人見絹枝さんを熱演し、話題を呼んだ。
 

4日に放送されたNHK連続テレビ小説「おかえりモネ」で、世界的ダンサーの菅原小春が車いすのマラソンラ… →このまま続きを読む

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人見絹枝

人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年明治40年〉1月1日 - 1931年昭和6年〉8月2日)は、岡山県御津郡(現:岡山市南区)出身の陸上競技選手ジャーナリスト。日本人女性初のオリンピックメダリスト。100m200m(共に非公認)[1]走幅跳の元世界記録保持者。

来歴

1907年(明治40年)1月1日、岡山県御津郡福浜村福成(現・岡山市南区福成)で人見猪作および岸江の次女として誕生した[2]。人見家はイネイグサを栽培する裕福な自作農家で、父・母・祖母・姉と人見絹枝の5人家族であった[3]。幼少期は魚とりや鬼ごっこをして遊び、友人は女の子よりも男の子の方が多かった[4]

1913年(大正2年)4月、福浜村立福浜尋常高等小学校尋常科(現・岡山市立福浜小学校)に入学[4]。小学生になっても「天下取りゲーム」でいつも一番で男児を悔しがらせたり、2階から飛び降りて下校するなど相変わらず活発な少女であった[4]。一方、学業成績も優秀で、特に国語が得意で、クラスでは級長を務めた[4]。6年生の時に担任の先生から短歌を習い、に匿名で投稿するなど、文学的才能を開花させた[4]1919年(大正8年)に尋常科を卒業した後は高等科に進み、「女子が学問をするなんて」と言われた時代に父・猪作は高等女学校への進学を勧め、倍率3.93倍の岡山県立岡山高等女学校(現・岡山県立岡山操山高校)の入学試験を突破した[5]

1920年(大正9年)4月、福浜小高等科1年を終え、憧れの岡山県立岡山高等女学校(岡山高女)に入学[5]。当時、大供にあった岡山高女まで毎日1里半(≒5.9 km)の道を徒歩通学した[6]。同年9月に就任した校長の和気昌郎は全人教育を掲げ、「日本女性のたしなみ」として短歌を教える傍らで、生徒をテニスバレーボールの対外試合に出場させた[6]。入学してすぐの県庭球大会で岡山高女が岡山県女子師範学校(岡山女師、現・岡山大学教育学部)に負けたことに悔しさを覚え、高価なラケットを購入して夜6時まで練習に励んだ[7]。当初家族は人見が日焼けで真っ黒になることに難色を示したが、1921年(大正10年)5月の県庭球大会には父・猪作が応援に駆けつけている[8]。この大会で、人見・浮田ペアは前年岡山高女を破った岡山女師のペアに勝利して優勝旗を持ち帰り、「関西第一の前衛」、「テニスの人見さん」と讃えられた[8]1923年(大正12年)11月4日大阪朝日新聞岡山通信部主催の第2回岡山県女子体育大会(岡山女師)に脚気をおして[注 1]岡山高女代表として出場、走幅跳で4m67の当時日本最高記録(非公認)で優勝した[9]

1924年(大正13年)4月、二階堂体操塾に入学。塾長の二階堂トクヨから体育の指導を受ける。10月の第3回岡山県女子体育大会(岡山女師)に出場し三段跳で10m33の当時世界最高を記録する(現在非公認)。11月、全日本選手権・陸上競技(明治神宮外苑競技場・以下神宮)に出場。三段跳で10m38、やり投で26m37を記録した。

1925年同塾卒業後、京都市立第一高等女学校(現・京都市立堀川高校)の教員(体操教師)として赴任するが、二階堂からの要請で体操の実技講師として台湾各地を巡回、同年に帰国した。二階堂体操塾の研修生となり、同校の専門学校認可を助ける(同校は翌年財団法人日本女子体育専門学校となる)。10月、大阪体育協会主催第4回陸上競技選手権大会兼明治神宮競技大会近畿予選(大阪市立運動場・以下大阪)に出場、50メートル競走6秒8で優勝した。三段跳で11m62を出し世界最高記録(現在非公認)を更新、11月の第2回明治神宮競技大会(神宮)に出場し、50mは7秒0で優勝、三段跳びでも11m35で優勝する。

1926年4月、大阪毎日新聞社に入社、運動課に配属。その年の東京・大阪朝日新聞社主催四大陸上競技大会-第1回女子競技(神宮)に出場し50mは7秒0で優勝、三段跳は10m76でも優勝した。5月、第2回関東陸上競技選手権大会(神宮)に出場。100mは13秒6で優勝。砲丸投(8ポンド)で9m97の日本新記録を出す。また、大阪毎日新聞社後援第3回(美吉野運動競技場・以下美吉野)に非公式参加。走幅跳(5m6)、砲丸投(9m39)、野球投げ(野球のボールの遠投)(25m)を記録。6月、東京日日新聞社主催第2回女子体育大会(神宮)に出場。200mで27秒6の、走幅跳で5m75の日本新記録を出した。模範競技として行われた400mR寺尾正・文姉妹、を加えた当時最高のメンバーで52秒2の日本新記録を出した。8月、アリス・ミリア主催の第2回国際女子競技大会ヨーテボリ)に日本人としてただ一人出場し、走幅跳で5m50の世界記録で優勝した。また立ち幅跳びでも2m47で優勝している。円盤投では32m62で2位、100ヤード走は12秒0で3位、60mで5位、で6位(やり投と砲丸投は棄権)。個人得点15点を挙げ国際女子スポーツ連盟の名誉賞を授与された。なお、この遠征で初めて国外陸上競技の事情を知り、自分のトレーニングに生かすだけではなく専属コーチや年間を通じてのトレーニングの重要性などを著書を通じて広く後進に伝えた。

1927年4月、谷三三五にコーチを依頼し、5月、東京日日新聞社主催第3回女子体育大会(神宮)に出場。200メートル走で26秒1、立ち幅跳びで2m61の2つの世界最高を記録した(現在非公認)。走幅跳も5m54で優勝、大阪健母会主催・大阪毎日新聞社後援第4回日本女子オリンピック大会(美吉野)に出場。400mは61秒2で優勝したが、50mでは6秒8の同タイムながら(日方高等女学校 現・和歌山県立海南高校)に敗れた。人見にとっては国内の大会で初めての敗戦となった。6月、大阪女子体育研究会主催大阪時事後援第7回大阪女子運動大会(大阪)に出場。100mで12秒4の当時世界タイを記録する。8月、第14回全日本陸上競技選手権大会(現・日本陸上競技選手権大会)(神宮)に出場。50mは6秒7で、100mは12秒8で優勝した。10月、大阪体育協会主催第6回陸上競技選手権大会兼明治神宮体育大会近畿予選(大阪)に出場。50mは6秒5で、100mは12秒4の世界タイで優勝。11月の第4回明治神宮体育大会(神宮)に出場、双生児の寺尾正・文姉妹(府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高校))と接戦の末、50mは6秒4(当時世界タイ記録)で、100mは12秒5で優勝する。

1928年5月、健母会主催第5回日本女子オリンピック大会(美吉野)に出場、400mで59秒00の世界最高記録(非公認)を出した。100メートル走は12秒8で優勝。(194点)でも優勝し、そのうちの100mでは12秒4の世界最高記録(非公認)を出した。ほかは走高跳(1m43)、やり投(28m89)。第15回全日本陸上競技選手権大会(大阪)に出場。100mで12秒2を出し、走幅跳では5m98を跳び2つの世界記録を更新。6月、第4回インタークラブ選手権(ロンドン)に出場、走幅跳では5m59でイギリスのガンを破り優勝した。しかし、100ヤード走ハンディキャップレースでは予選落ちとなった。7月、A.A.A.女子選手権大会(ロンドン)に出場、は26秒2で(予選の25秒8は当時世界タイ記録)、やり投は35m96で優勝したものの、100ヤード走、走り幅跳びではガンの前に敗れた。

1928年アムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場し、女子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳)にエントリーした(走幅跳は採用されず、事実上100m一本に絞っていた)。7月30日、100m予選は1着で通過したものの、同日準決勝は12秒8で4着となり決勝進出を逃した。8月1日、800m予選を2分26秒2で通過する。8月2日、800m決勝は2分17秒6でドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となり、日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった[注 2]。8月5日、走高跳の予選に出場するも1m40で予選落ちとなった。

8月、インターナショナル競技会(ベルリン)に出場、走幅跳は5m51で優勝。やり投は36m58で2位、100mは予選落ちしたが、最後の800mは2分23秒9で優勝した。10月、大阪体育協会主催第7回陸上競技選手権大会(大阪)に出場、100mで橋本靜子に2度目の敗戦を喫した(記録計時なし)。橋本の記録は13秒2だった。400mRでは所属チームW.S.C.が53秒2で優勝している。

この後、一旦競技から離れるが翌春練習を再開。競技者として各地に遠征する傍ら、後進の育成、講演会や大会に向けての費用工面に忙殺されてゆくことになった。

1929年4月、第6回日本女子オリンピック大会(美吉野)に出場する。三種競技(217点)で世界最高を記録(100m:12秒4、走高跳:1m45、やり投:32m13)、200mは26秒8で優勝する。80mHの13秒6は番外ながら日本新記録を更新した。5月、東京日日新聞社主催第5回女子体育大会(神宮)に出場し200mで24秒7の世界記録を出した。走幅跳は5m92で優勝、円盤投は34m18の日本新記録で優勝した。8月、国際女子オリンピック出場候補15名と2週間の合宿を行い、10月の日独対抗大阪大会()にも出場し100mで12秒4を記録した。朝鮮・日・独対抗競技(京城府)に出場、100mで12秒0、200mで24秒4、走幅跳で6m075を出した(100mと走幅跳は追い風5.8メートルのため非公認の世界記録)。中国・日本・独三国大会(奉天=瀋陽)にオープン参加し100mで12秒0、60mで7秒5を出している。11月、第16回全日本陸上競技選手権大会兼第5回明治神宮体育大会(神宮)に出場しており200mは25秒4で優勝、走幅跳は5m91で優勝、400mRでもL.A.C.チームの一員として51秒6の日本新記録で優勝した。

1930年2月、臨時総会で、国際女子オリンピック大会の遠征費捻出のため全国の女学校に応援袋を置き寄付を募ることを提案し、遠征費は出発の3日前に目標額に達した。5月、第7回日本女子オリンピック大会(美吉野)で三種競技に出場(201点466で優勝。100m:13秒0、走高跳:1m40、やり投:35m27)、国際女子オリンピック大会の代表6名が決定した。谷三三五の下、1ヶ月余合宿を行う。7月、日本女子スポーツ連盟・健母会主催渡欧女子選手送別競技会(大阪)で渡欧選手・女学校選手対抗リレーに出場、渡欧女子選手送別競技会(名古屋・椙山高女)に出場する。走幅跳で5m90を記録し、やり投では37m84の非公認日本新記録を更新した。9月6日、第3回国際女子競技大会(プラハ)に5人の選手を率いて出場(9月8日まで)、走幅跳では5m90で優勝した。三種競技は192点(100m:13秒2、走高跳:1m40、やり投:34m46)で2位、やり投(600g)は3位(37m1)、60mは3位(7秒8)、400mRは4位(52秒0)、100mは準決勝敗退、200mは決勝を棄権した。個人得点13点で2位となり、リレーの1点を加えた日本チームは参加18ヶ国中4位となった。9月7日、8日は雨でその後体調を崩した。9月11日、日本・ポーランド女子対抗競技会(ワルシャワ)に出場する。60m(7秒8)、100m(12秒6)、走高跳(1m40)、走幅跳(5m39)、円盤投(32m19)、やり投(36m55)に出場し日本チームは35点対54点でポーランドに敗れた。9月13日、日・英・独女子競技大会(ベルリン)に出場、100mは12秒4、走幅跳は5m56で優勝した。200mは28秒2で2位、やり投33m90で3位。9月14日はスイス観光し9月16日、パリで休養する。9月20日、日本対ベルギー対抗競技(ブリュッセル)に出場、100m(13秒4)、400mR(53秒4)、円盤投(29m13)、やり投(37m25)は優勝。800mでは2位になる。日本チームは52点対47点でベルギーに勝利した。同日深夜パリに戻るが高熱を出し、9月21日、日本対フランス女子対抗競技(パリ)に出場。走幅跳(5m61)、円盤投(31m19)、やり投(37m44)で優勝する。80m、200m、400mR、走高跳では2位になったが日本チームは38点対46点でフランスに敗れた。ロンドンから海路にて11月6日帰国した。

国際女子オリンピック大会は好成績ではあったが、チームとしても前回大会やオリンピックに比して結果が悪かった。帰途、新聞報道や手紙から日本での反応が冷たいことを知った選手達は深く傷ついた。しかも半月の内に5つの大会が集中し、肉体的にも大きな負担となった。帰国当日岡山の実家で休んだものの、翌日東京に発つ。後に扁桃腺炎になるが、正月までほとんど休みなく新聞社での仕事や募金へのお礼を行った。1931年(昭和6年)3月6日に病臥に伏し、大阪・十三から尼崎市塚口へ引っ越した[11]。3月25日に早朝から喀血し、肋膜炎で大阪帝国大学付属病院(現・大阪大学医学部附属病院)小沢内科に入院する[11]。担当医は岡山出身で、妻は岡山高女の出身であったことから手厚い医療を受けることができた[11]。人見の病室には「軽井直子」という名札[注 3]が掛けられた[11]。5月31日に見舞いに訪れた二階堂トクヨは一目見て大病であることを見抜き、涙を流し、看護人・藤村蝶に50円を手渡した[12]。その後に世間の煩わしさから避けるため、別館2階へ病室を移された[11]。7月中旬には肺炎を併発し、見舞いに訪れた織田幹雄は変わり果てた姿に絶句したという[13]。7月29日、病室を本館に移し、入院してから初めて「苦しい」、「家に帰りたい」と弱音を吐いた[14]。8月1日18時過ぎに病状が急変し、8月2日午後0時25分、乾酪性肺炎により死去した[15]。24歳没[15]。辞世の詩は、「息も脈も高し されど わが治療の意気さらに高し」[15]。アムステルダムオリンピック800m決勝の日から、ちょうど3年後の日であった[15]危篤の報を聞き駆けつけた両親は娘の死に目に間に合わず、大阪に向かう途中の姫路駅ラジオ放送で死を知った[15]。師・二階堂トクヨは「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」という言葉を『婦人公論』に寄せている[16]

8月3日、遺体は阿倍野斎場(大阪市営南斎場)にて火葬され、8月5日に大阪毎日新聞社による、神式の告別式が行われた[15]。式には1,000人超の参列者が訪れ、国際女子スポーツ連盟のアリス・ミリアをはじめ世界中から弔電が寄せられた[17]。8月12日には人見家の菩提寺である妙法寺で仏式の葬儀が営まれ千数百人が参列した[18]法号は「妙法 高徳院妙聲日宏大姉」[18]。付きっきりの看病をしていた藤村家の墓所(青森県八戸市の本覚寺)に骨塔がある[18]

競技記録

世界記録

国際オリンピック委員会(IOC)が公認する記録。

競技記録年月日場所備考
100m12秒21928年5月20日大阪カナダのクックが同年7月2日に12秒0を出すまで42日間保持。
200m24秒71929年5月19日神宮オランダのシュールマンが1933年8月13日に24秒6を出すまで1546日間保持
走幅跳5m501926年8月28日ヨーテボリイギリスのガンが翌年8月1日に5m75を出すまで337日間保持
走幅跳5m981928年5月20日大阪ドイツのシュルツが1939年7月30日に6m12を出すまで4087日間保持

国際陸上競技連盟(IAAF)は女子100メートル走では1934年8月から、女子200mでは1935年8月から、走幅跳では1928年から国際女子スポーツ連盟(FSFI)に代わって世界記録を公認している。

未公認世界最高記録

当時FSFIによって世界記録とされたが、現在ではIAAF、IOC共に公認していない参考記録である。

競技記録年月日場所
400m59秒01928年5月6日美吉野
三段跳11m621925年10月17日大阪

現在まで存続していない種目での世界記録

競技記録年月日場所
50m6秒41927年11月3日神宮
60m7秒51929年10月19日瀋陽
立ち幅跳び2m611927年5月8日神宮
三種競技217点(100m:12秒4、走高跳:1m45、やり投:32m13)1929年4月28日美吉野
  • アムステルダムオリンピックでの800mの記録2分17秒6は当時の世界記録を上回っている。

エピソード

  • 人見は女学校時代から文学的資質を認められていた。文章が巧みで、海外遠征中でも、また死の床に在っても短歌を詠んだ。
  • 1924年二階堂体操塾に入学した年の身長は五尺六寸(約170cm)、体重は十五貫(約56kg)との新聞記事がある。
  • 走・跳のみならず投擲競技にも非凡な才能を見せた。円盤投げはそれまで全く経験が無かったが現地ヨーテボリで円盤を購入し、1ヶ月余の練習で国際女子競技大会で入賞した。
  • アムステルダムオリンピックの直前に南部忠平に走幅跳で勝負を申し入れ、1cm差で勝利した[19]
  • アムステルダムオリンピック以前、800mを公式の競技会で走ったことはなかった。ゴールの際に人見は優勝したドイツのラトケともども失神して倒れ込む壮絶なものとなり、これが影響して女子800mは次のロサンゼルスオリンピック(1932年)からメルボルンオリンピック(1956年)まで種目から除外されることになった[注 4]
  • 高校野球甲子園大会開会式のプラカードを掲げての入場行進や、勝利校の校歌吹奏[20]、校旗掲揚は人見の発案で1929年の第6回選抜中等学校野球大会から始まった。
  • 人見の死後、第3回国際女子競技大会での活躍を記し建てられた記念碑がプラハ郊外の墓地に現存する。この碑の建設費には、二階堂トクヨの寄付が含まれている[21]
  • 1992年バルセロナオリンピックで、日本では人見以来の陸上女子メダリストとなった有森裕子は同じ岡山市出身であり、祖母が人見の女学校の後輩だったこともあり、有森は人見を尊敬している。また、有森がバルセロナオリンピックのマラソンで銀メダルを獲得したのは日本時間では人見のメダル獲得と同じ8月2日となり(現地では8月1日)、これらが当時奇縁として紹介された。
  • 当時、国内での女子陸上への偏見は厳しいものであり、それをうかがわせる例がいくつも存在する。
    • 人見が陸上を始めた頃、周りの人々から冷たい目で見られたと、本人が述懐している。
    • オリンピック出場を決めていた人見の実家にも「人前で太ももをさらすなど日本女性にはあってはならない」「日本女性の個性を破壊する」などといった文面の書簡が送られて来ていたという。[22]それに対して人見は女子陸上競技に関する記事にて「いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける。しかし私の後から生まれてくる若い女子選手や、日本女子競技会には指一つ触れさせない」と書いている。
    • 短距離走の日本記録を保持していた寺尾正・文姉妹の実家に出向き、アムステルダムオリンピックへの出場を説得したが、寺尾の家族の意向により、寺尾姉妹の出場は叶わなかった。これも、女子陸上への世間の偏見が一因であると言われている。
  • 人見の没後に発表されたアニメーション茶目子の一日』に、生前の人見のフィルム映像が挿入されている。
  • メダル・トロフィー類は戦時中金属類回収令によりすべて供出されたと考えられていたが、オリンピックの銀メダルは2000年になって発見された。人見の使用していた寝具の中に、隠すようにして仕舞ってあったという。
  • 1964年東京オリンピック聖火が岡山を通過する際、父・猪作は人見の遺影を抱いて岡山県庁舎で出迎え、「絹枝よ、これがオリンピック聖火だ」と語りかけた[23]
  • 人見の出身地に近い現在の岡山市南区福浜を通る岡山県道40号岡山港線には人絹道路(じんけんどうろ)という愛称が付与されている。本来は倉敷絹織(現・クラレ)の岡山工場(レーヨンなどの化学繊維、すなわち人絹の製造工場)と岡山市中央部とを接続する輸送路であるがゆえに、この愛称が存在していたのだが、この県道は人見の出身校でもある岡山市立福浜小学校(かつての福浜村立福浜尋常高等小学校)をも沿線に含む事から後に人見の業績を顕彰するための道路とも伝えられるようになった。
  • 岡山県岡山市において1982年より開催されているロードレース大会「山陽女子ロードレース大会」の10kmロードの部には開催当初より「人見絹枝杯」の愛称がつけられている。
  • 人見の母校である二階堂体操塾を受け継ぐ日本女子体育大学では、女子ジュニア陸上競技選手の育成を謳って『人見絹枝杯陸上競技大会』を2003年から毎年開催している[24]
  • 美容師の草分け・吉行あぐりとは岡山県立第一岡山高等女学校の同級生である。[25]

著書

以下絶版

  • 『最新女子陸上競技法』、1926年。(本格的な競技生活に入る前に執筆) - 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『アルス運動講座 -女子競技-』、1928年。(共書の1編)
  • 『スパイクの跡』平凡社、1929年。(1927年の『婦人の友』掲載の文が下書きになっている。1928年アムステルダムオリンピックまでの自伝にあたる)
  • 『戦ふまで』三省堂、1929年。(内容は『スパイクの跡』と共通する所が多い)
  • 『家庭科学大系』、第26回に人見絹枝著『女子と運動競技』を所収、1930年。(共書の1編)
  • 『ゴールに入る』、1931年。(『スパイクの跡』の続編。オリンピック後から1930年の帰国までを綴る)
  • 『婦人公論大学スポーツ編 -陸上競技-』中央公論社、1931年。(共書の1編)
  • 『女子スポーツを語る』、1931年。(『家庭科学大系 第26回-女子と運動競技-』を単行本化)

以下復刊

  • 『スパイクの跡/ゴールに入る 伝記・人見絹枝 (伝記叢書 154)』(、1995/1、ISBN 978-4872364538
  • 『女子体育基本文献集. 第11巻』(、1995/1、1926年刊『最新女子陸上競技法』を所収、ISBN 4872369157
  • 『日本体育基本文献集 : 大正・昭和戦前期. 第33巻』(日本図書センター、1998/12、1931年刊『ゴールに入る』を所収、ISBN 4820558269
  • 『女子スポーツを語る 女性のみた近代 (006)』(ゆまに書房、2000/7、1931年刊『女子スポーツを語る』の復刻、ISBN 978-4843300947

再編集

  • 『炎のスプリンター 人見絹枝自伝』(織田幹雄・(編集)、、1983/2、『スパイクの跡』、『ゴールに入る』の主要部分を現代語訳にして再構成したもの)
  • 『人見絹枝 炎のスプリンター (人間の記録 32)』(織田幹雄・(編集)、日本図書センター、1997/6、1983年刊『炎のスプリンター 人見絹枝自伝』の改題、ISBN 978-4820542735

登場作品

テレビ

漫画

演じた女優

参考文献

脚注・出典

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ スポーツはおろか、修学旅行への参加も止められるほど症状は重く、当日は試技1回ごとに学校医聴診器を当てて調子を確認していた[8]
  2. ^ これ以降、日本の女子選手によるオリンピック陸上競技のメダリストはバルセロナオリンピック1992年)女子マラソンで有森裕子が銀メダルを獲得するまで64年間、男女を通じたオリンピック陸上競技トラック種目でのメダリストは、北京オリンピック2008年)男子4×100mリレーで日本チームが銅メダル(北京オリンピックの大会後に1位のジャマイカチームの選手がドーピング違反で失格になったために銀メダルに繰り上がった[10])を獲得するまで80年間出現せず、トラック種目の銀メダルはリオデジャネイロオリンピック2016年男子4×100mリレーで日本チームが獲得するまで88年間出現しなかった。また世界陸上競技選手権大会に枠を広げても千葉真子(当時:旭化成)が1997年アテネ世界陸上競技選手権大会の女子10,000mで銅メダルを獲得するまで、陸上競技のトラック種目に於いて日本女子選手が五輪・世界選手権を通してメダルを獲得する者は出現しなかった。
  3. ^ 自身を励まそうと人見が掲げたものである[11]
  4. ^ なお、女子800mのオリンピック日本代表となった選手は、2015年3月現在、人見の他には東京オリンピック1964年)の木崎正子アテネオリンピック2004年)の杉森美保の2名のみである。

出典

  1. ^ 12th IAAF World Championships In Athletics: IAAF Statistics Handbook. Berlin 2009. (pdf)”. Monte Carlo: IAAF Media & Public Relations Department. pp. Pages 546, 640, 641 (2009年). 2011年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年8月2日閲覧。
  2. ^ 勝場・村山 2013, p. 15.
  3. ^ 勝場・村山 2013, pp. 15-16.
  4. ^ a b c d e 勝場・村山 2013, p. 16.
  5. ^ a b 勝場・村山 2013, p. 17.
  6. ^ a b 勝場・村山 2013, pp. 17-18.
  7. ^ 勝場・村山 2013, p. 18.
  8. ^ a b c 勝場・村山 2013, p. 19.
  9. ^ 勝場・村山 2013, pp. 19-20.
  10. ^ “北京五輪陸上男子400リレー ジャマイカ選手失格で日本が銀に繰り上げ”. Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. (2018年12月12日). https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/12/12/kiji/20181211s00056000495000c.html 2019年6月16日閲覧。 
  11. ^ a b c d e f 勝場・村山 2013, p. 81.
  12. ^ 勝場・村山 2013, pp. 81-82.
  13. ^ 勝場・村山 2013, p. 82.
  14. ^ 勝場・村山 2013, pp. 82-83.
  15. ^ a b c d e f 勝場・村山 2013, p. 83.
  16. ^ 勝場・村山 2013, p. 87.
  17. ^ 勝場・村山 2013, pp. 83-84.
  18. ^ a b c 勝場・村山 2013, p. 84.
  19. ^ 南部 1981, p. 112.
  20. ^ “甲子園名物、校歌斉唱誕生秘話〜きっかけは女性初の五輪メダリスト”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2014年8月24日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/08/24/kiji/K20140824008798060.html 2014年8月24日閲覧。 
  21. ^ 穴水 2001, p. 23.
  22. ^ その時歴史が動いた コミック版 感動スポーツ編」より
  23. ^ 勝場・村山 2013, p. 85.
  24. ^ 第13回人見絹枝杯陸上競技大会を開催 (HTML)”. 日本女子体育大学 (2019年3月21日). 2019年6月23日閲覧。
  25. ^ 吉行和子 2008, p. 155.

関連項目

外部リンク

陸上競技

陸上競技りくじょうきょうぎは、主に野外競技場のトラックやフィールドあるいは道路で行われる、走る跳ぶ投げるの3基本技を中心とする競技総称[1]。単に陸上りくじょうと呼ぶことも多い。

概要

陸上競技とは、主に屋外(屋外競技場のフィールドやトラック、あるいは道路など)で行われる、走る、跳ぶ、投げる、という3種の基本技を中心とする競技の総称である[1]世界室内陸上競技選手権大会のように室内で行う陸上競技大会もあり、60m走など室内のみ正式種目となっている種目もある。

その歴史は紀元前776年の第1回古代オリンピックまで遡る。→#歴史

陸上競技は大分類としては、走種目を主体とし競技場のトラックで実施されるトラック競技、跳躍(走幅跳など)や投擲(ハンマー投など)を主体としトラック内側のフィールドで実施されるフィールド競技、さらにマラソン競歩など競技場外の道路上に設定されたコースを走るロードレースがある。ただし、競技場によってはフィールド競技(特に跳躍)の競技場所がトラック外側に設置されていることがある。トラック競技およびフィールド競技は、陸上競技場内で行われる競技としてトラック&フィールド競技と一括して扱われることがある。

歴史

陸上競技は紀元前776年の第1回古代オリンピック[2] に遡る歴史のある競技である。この時(第一回)にはスタジアムの長さ分の走種目、スタディオン走(現代で言うところの短距離走)のみが行われ、その後種目が増えた。古代ギリシアの中期オリンピックでは、スタディオン走(短距離走)に加え、ディアウロス走(中距離走)、ドリコス走(長距離走)、五種競技円盤投やり投走り高跳びも行われた[3][注 1]。なお、ギリシアではこのほかにもネメアー大祭イストミア大祭ピューティア大祭といった大競技大会が開催されていた[4]

他にもケルト人チュートン人、ローマ帝国を倒したゴート人といった民族も陸上競技の大会を開き、人気を集めていたようである。しかし、これらの民族では陸上競技は軍事鍛錬と関連したものであるのが一般的で、それほど大きく組織立ったものとはならなかった。中世には、貴族の子息たちが乗馬、馬上槍、剣術などの鍛錬に加え、ランニング、跳躍、レスリングなどの鍛錬を行っていたようである。競争相手のライバルや友人らとの間で競技会を開催することも公式、非公式を問わず、広く行われていた。

時代の枠を越えて、ヨーロッパ全土で多くの陸上競技スポーツが親しまれていた様子が確認されている。陸上競技は、ルネサンス以降に近代スポーツとして発展し、1896年に開催された第1回アテネオリンピックをきっかけとして、世界各国へと普及した。陸上種目の多くはその起源を古代にまで遡るものが多く、古代ギリシアで既にその競技種目としての形式が確立されていた。陸上競技は、1896年の第1回近代オリンピック大会でも実施され[5]、常に実施競技としてありつづけるとともに、同じく第1回大会から常に実施されていてオリンピック前半の花形競技とされる競泳と並んで、オリンピック後半の花形競技とされる。陸上競技と水泳については、オリンピック以外でも総合的なスポーツ大会で競技ナンバーが1番と2番になることが多く、陸上競技の棒高跳びや投てきを例外としても、基本的には道具や対戦相手を必要とせず、己の身体のみで人類の限界に挑むと言う普遍的なスポーツであることからその存在価値が重視されている。格闘技や球技等、プロとしてお金を稼ぐことを目的とする商業スポーツと比べて、その存在意義も異なる。ただし20世紀前半には国際競技大会に出場する選手はアマチュアでなくてはならないという厳格な規定が存在したが、20世紀後半に入ると東側諸国においても西側諸国においても徐々に有名無実化していき、1990年代初頭にはこうした規定は存在しなくなった[6]。19世紀には陸上競技は男性のものであり、オリンピックにおいても男性のみ参加となっていたが、1921年に国際女子スポーツ連盟が創設されると女子陸上競技大会も開催されるようになり、1928年のアムステルダムオリンピックにおいて女子陸上がオリンピックの種目となった[7]

国際競技統括団体ワールドアスレティックス1912年に創設され、1983年からは、オリンピックとは別に陸上競技のみの大会として、世界陸上競技選手権大会を開催するようになった[8]。世界陸上は世界有数のスポーツイベントの1つで、2009年のベルリン大会では約3300万人がイベントを視聴したとされる[9]。他に世界室内陸上競技選手権大会ヨーロッパ陸上競技選手権大会なども開催されている。また、アジア競技大会など大陸別の競技大会においても陸上競技は必ず開催され、花形競技の1つとなっている。特にオリンピックを始め、主要な陸上競技大会の期間中は高い注目を集めるものの、スポーツ全般から見ると多くの国で一般からの関心の度合いはやや低くなりがちである。

トラック&フィールド競技では、世界各地の競技会を転戦して総合成績を競うサーキット大会が1985年に創設された。IAAFグランプリはIAAFゴールデンリーグ・を経て、2010年から両者が統合されIAAFダイヤモンドリーグとなり[10]IAAFワールドチャレンジ(2020年より)とともに毎年春から夏にかけて開催されている[6]。一方マラソン競技においては世界各地で大規模なマラソン大会が行われており、なかでも2006年よりボストンマラソンロンドンマラソンベルリンマラソンシカゴマラソンニューヨークシティマラソンの5大会とオリンピック・世界陸上の計7大会でワールドマラソンメジャーズが開催されるようになった[11]。さらに2013年大会より、東京マラソンがワールドマラソンメジャーズに加入し、計8大会となった[12]

イギリス

イギリスでは13世紀から16世紀にかけてスポーツを楽しむことに国家的な制限を課していた。これはアーチェリーの鍛錬に支障が出ないようにするためであった[13]。この制約が17世紀になって除かれた後、イギリスではスポーツが再び盛んになった。陸上競技組織の活動は19世紀になって行われるようになった。これには学校においてスポーツ体育が実施されるようになった影響もある。正規の学校における陸上競技が取り入れられた初出としてイギリスのサンドハースト王立陸軍士官学校において1812年1825年に行われたとの説もあるが、これを補強する証拠は今のところない。記録に残っている最古の会合は同国のシュロップシャー州シュルーズベリー1940年に王立シュルーズベリー校が開催したもので、当時1838年から1841年まで生徒として在籍していたCTロビンソンが60年後に複数の手紙に当時の詳細について書き残している。

1868年に刊行された『最新陸上競技』によれば、当時の陸上競技のほとんどの競技はハンディキャップ・レースだったという[14]。陸上競技はギャンブルの対象であり、観客は記録よりも勝ち負けとレースの過程や公正さを重視した。そのため、資格を持ったハンディキャッパーが競技者の実績によってスタート位置を調整するなどのハンディキャップを付け、白熱したレースを演出していた。一方、プロフェッショナルランナーを排除し、紳士のスポーツによる人格形成を目的としたアマチュア陸上クラブが1866年にロンドンで組織され、常設の陸上競技場による競技が行われた[14]。陸上競技のハンディキャップ・レースはオリンピックなどの公式レースでも20世紀前半まで行われたが、スポーツが競戯からアマチュア・ルールによる近代スポーツへと変化する過程で消滅した。

日本

日本では1873年(明治6年)3月21日に、東京築地にあった海軍兵学寮のイギリス人教師が開いた「競闘遊戯」が最初の陸上競技大会である[15]。競闘遊戯はathletic sportsの訳語で、雀雛出巣(すずめのすだち、150ヤード走)、燕子学飛(つばめのとびならい、300ヤード走)、大鯔跋扈(ぼらのあみごえ、走高跳)などの種目があった[15]。また同年10月に開成学校東京大学の源流)にて明治天皇隣席の下で行われた「体操御覧」の1種目「行飛」が競走であった可能性がある[16]。本格的に陸上競技が日本人の間で行われるようになるのは、1875年(明治8年)に東京英語学校(後の東京大学)に着任したフレデリック・ウィリアム・ストレンジによる普及活動以降である[17]。ストレンジはイートン・カレッジの出身で、陸上競技とボート競技を得意とし、余暇にこれらを実践して学生の関心を惹き、普及させた[17]1883年(明治16年)には東京大学の3学部と予備門合同の陸上運動会が開かれ、以降東大の名物となった[18]。この運動会では後に藤井實が100mと棒高跳で世界記録を樹立した[19]

明治30年代(1897年 - 1906年)になると、東京帝国大学と第一高等学校を中心に、学習院高等商業学校(後の一橋大学)でも陸上競技が盛んとなり、明治40年代(1907年 - 1912年)にはスパイクシューズが使用され始め、早稲田大学慶応義塾大学が新勢力として台頭した[20]東京高等師範学校(後の筑波大学)では嘉納治五郎校長の下で校内長距離走が開かれていたが、陸上競技界ではまだ弱小であった[21]大正時代初期まで「陸上競技」という日本語は存在せず、この頃に創部した陸上競技部は、東京高等師範学校では「徒歩部」(後に筑波大学陸上競技部に改称)、早稲田大学明治大学では「競走部」を名乗っている。

日本が初めて近代オリンピックに参加したのは、1912年(明治45年)の第5回ストックホルム大会であり、短距離走の三島弥彦と長距離走の金栗四三が参加した[22]。日本で初めて組織立って(学校以外の組織が主催して)開かれた陸上競技大会は、この日本代表を選抜するための大会「国際オリムピック大会選手予選会」(大日本体育協会主催)であった[23]。金栗はオリンピックの後、生涯をマラソンの普及に捧げ、東京箱根間大学駅伝競走を創設した[24]

米国

全米アマチュア競技連盟が米国における統括団体であったが、1970年代にプロフェッショナルスポーツとしての促進が進むと、その管轄を外れた。新たな統括団体として、TAC (The Athletics Congress) と呼ばれる団体が結成され、後に (USA Track and Field; USATF; USA T&F) と改名した。さらにより緩やかな組織として、ロードレースの普及促進を図る団体として(RRCA)がある。両団体とも、以前は偽アマチュアリズムとされた、レース出場を通じて金銭を得る行為を禁止していない。

種目

下記の種目が世界記録として公認される。日本記録も準拠する。ハーフマラソンや駅伝競走はオリンピックや世界陸上競技選手権大会には採用されていない。これはマラソン同様に陸上競技場の外、つまり公道をコースとせざるを得なく、更に男女別で分ける必要もあることから、公道での交通規制が増えすぎてしまい、警備への負担増加、規制による市民生活への影響などが大きいためとも考えられる[要出典]。女子の場合は長距離走と競歩、また跳躍競技、投擲競技などの大半は日本陸連から日本記録公認外種目として始まったものが多い。大部分は1930年までに公認されたが、長距離走と競歩は1980年、三段跳は1986年、棒高跳、ハンマー投は1993年になって公認されるようになった。

世界記録

以下の種目が世界記録としてワールドアスレティックスにより公認される。

各国国内記録

日本

次の種目は日本陸上競技連盟により日本記録として公認される。

U20世界記録

以下の種目がU20世界記録として公認される。

室内世界記録

以下の種目が室内世界記録として公認される。

  • 50m、60m、200m、400m、800m、1000m、1500m、1マイル、3000m、5000m
  • 60mハードル、4×200mリレー、4×400mリレー、4×800mリレー
  • 3000m競歩[25]、5000m競歩
  • 走高跳、棒高跳、走幅跳、三段跳、砲丸投、五種競技[25]、七種競技[26]

その他

以下の種目は世界記録として公認されていない。或いはかつて公認されており、夏季オリンピックでも実施されていた屋外種目。

世界記録

競技規則

計測・単位について

フィニッシュタイムの計測について(トラック競技)
  • トルソー(ここでは頭、首、腕、手及び足を含まない部分を示す)のいずれかがフィニッシュラインのスタートラインに近い端を含む垂直面に到達した時点で走者のフィニッシュとされる[30]。なお、トルソーと首の境界は胸部上部の凹部と第7頸椎の突起部を結んだ線であり腕との境界肩胛骨の外端である[30]
  • 写真判定装置を用いる場合、10000メートル以下の競技では、1000分の1秒以下を100分の1秒に繰り上げる。10000メートルよりも長い競技では、100分の1秒以下を10分の1秒に繰り上げる。また、一部でも競技場外で行われるレースにおいては、10分の1秒以下を秒に繰り上げる。
  • 手動計時の場合は、トラック種目の場合は100分の1秒以下を10分の1秒に繰り上げ、一部でも競技場外で行われるレースにおいては、10分の1秒以下を秒に繰り上げる。また、3個の時計のうち2個が一致する場合はそのタイムが記録となり、全て異なる場合は真ん中のタイムが記録となる。尚、時計が2つのときは遅いほうのタイムを記録とする。そのため、同じ着順の計時を複数名で担当する。
距離の単位について(トラック競技)
  • 基本的に競技場内で行われる競技はメートル、公道へ出る競技はキロメートルで表される。
距離の計測について(フィールド競技)

風速の測定について

風速は、各種目下記の秒数計測し、100分の1メートル以下を10分の1メートルに切り上げる。

  • 60メートル スタートから5秒間
  • 100メートル スタートから10秒間
  • 200メートル 先頭の選手が直線に入ってから10秒間
  • 100メートルハードル スタートから13秒間
  • 110メートルハードル スタートから13秒間
  • 走幅跳 踏み切り板から40メートル離れ、助走路のそばにあるマーク通過から5秒間で、競技者の助走が40メートル未満なら助走開始時から5秒間。
  • 三段跳 踏み切り板から35メートル離れ、助走路のそばにあるマーク通過から5秒間で、競技者の助走が35メートル未満なら助走開始時から5秒間。

測定器はトラック競技の場合は1レーン側のトラックから2メートル以内のフィニッシュラインから50メートルところに設置し、フィールド競技の場合は踏み切り板から20メートルのところで、助走路から2メートル以内のところに設置する。また高さは、トラック、フィールド共に1.22メートルのところで測定する。

競技時の服装について

  • 服装は濡れても透けないもの。
  • 前と後ろにナンバーカード(旧呼称:ゼッケン)をつける[注 2]
    • 普通、数字で1桁から4桁。ロードレースでは5桁も。
    • 小規模の開催では選手側が用意する。
    • ある程度の大会(予選会や標準記録があり参加者が限られるもの)では開催名やスポンサー名の入ったナンバーカードが配られる。
    • 最近は競技会、種目によって(セパレートレーンの短距離走やフィールド種目などで)はナンバーカードをつけないことがある。
  • トラック競技は写真判定のためにレーンナンバーを示す腰ナンバーカードをつける(リレー種目はアンカーのみのことが多い)。
    • ちなみに、最近の腰ナンバーカードは直ぐに取り外しできるよう(レーンが決まるのはレース直前であるから)シール状になっていることが多い。このシールは特にスパッツの生地には全く馴染まないため競技開始直後に剥がれることが多く、オリンピックや世界選手権の決勝レースにおいてもスタートと同時に選手が白いナンバーカードを「落とす」光景が見られる。そのため、水濠で足が濡れることでよりシールが剥がれやすくなってしまう3000メートル障害では太ももなどの地肌に直接ナンバーシールを貼る選手もいる。

主な失格について

  • トラック競技で、一度でも不正スタートの責任を有する競技者。ただし混成競技(国内ルールでは道路競走、駅伝競走を加える)では、1回の不正スタートの後、2回目以降に不正スタートをした競技者。
    • 1回目の不正スタートが即失格となるこのルールは、2010年1月よりWA主催大会で適用されている。日本国内でも2010年度から3年間は試行的に適用され、2013年度以降は日本陸上競技連盟主催・共催の全大会(小学生を除く)で適用されている。地区大会は各陸上競技協会の判断によるが、新ルールの適用が推奨される。フライング判定装置の設置が原則となるが、装置がない場合は目視とビデオ映像で判定する。日本学生陸上競技連合も日本学生陸上競技個人選手権大会と日本学生陸上競技対校選手権大会の両大会で新ルールが適用されている。2011年世界陸上の男子100メートル決勝で、世界記録保持者のウサイン・ボルトが不正スタートで一発失格となったことからこの新ルールが注目された[31]
    • 2003年から導入された各レースで1度フライングがあった後は2度目以降が誰でも失格になるルールは、1回目のフライングが失格にならない事を逆手に取り、駆け引きのため故意にフライング出来る事が問題視されていた[32]
    • 全国小学生陸上競技交流大会では、同一競技者が2回不正スタートを行った場合に失格となる。
  • 他の走者の進路を故意に塞ぐ等、他の競技者の妨害をすること。
  • オープンレーンのトラック競技において、走者が競技中に他の走者以外の者と接触すること(部外者の手助けを受けたとみなされるため。競技中の走者同士であれば手助けをしても構わない)。
  • オープンレーンのトラック競技において、指定のレーンよりも内側に侵入すること。
  • セパレートレーンのトラック競技において、競技中に自身のレーンを逸脱すること。
  • リレー走で、バトンの受け渡しをテークオーバーゾーン外で行うこと。
  • リレー走で、バトンパスを成立させていないとき(受け取る走者に触れる前に落としたバトンを受ける走者が拾う、投げ渡す等)。
  • ハードル走で、ハードルをはみ出して低い位置で跳んだり、ハードルを故意に倒すなど。
  • 指定時刻までに招集(競技開始前の点呼)に応じないとき。
  • 禁止された薬物等を使用すること。
  • 性別を偽って競技に出場すること。
  • その他、定められた失格行為に至ること。

国際競技会における走種目のスタート合図について

  • スターターは英語フランス語・開催地の言語のいずれかで合図を行う。
    • 400m以下の場合、スターターはまず「位置について(On your marks)」と言って選手をスタート位置につかせる。その後、スターターは「用意(Set)」と言って選手にクラウチングスタートの姿勢を取らせ、スターターピストルを撃つ。
    • 400mを超える場合、スターターは「位置について(On your marks)」と言って選手をスタート位置につかせ、選手がスタンディングスタートの姿勢になっているのを確認してからスターターピストルを撃つ。
  • 2006年度の競技規則改正により、下記の競技会においてはスターターによる合図を英語に統一することになった。
    • 世界陸上競技選手権大会オリンピックおよび
      • 世界選手権は2007年の大阪大会、オリンピックは2008年の北京大会から適用される。
    • WAが独占統轄権をもつ陸上競技選手権大会
    • 上記以外の国際競技会については、従来どおり開催する国や地域の言語、英語またはフランス語で合図する。

公認種目、公認記録の扱い

  • 公認種目はWA等が公認した種目で、その種目において世界で最高の記録が出ると、WAによって世界記録として認められる。この認定権はIAAFが保持している[33]。また、公認種目以外の種目では「世界最高記録」として扱われる。公認種目では、公認記録(世界記録、各国記録、各種大会記録)として100メートル、200メートル、100メートルハードル、110メートルハードルと走幅跳三段跳の場合は追い風2.0m以内であれば公認記録となる。追い風2.0mを超えると各種大会の順位付けの記録は付くが、公認記録としては認められず「追い風参考記録」にとどめられる[34]
  • 混成競技では、風速を計測する種目の平均風速が追い風2.0m以内であれば混成競技の記録として公認され、そうでなければ「追い風参考記録」となる(2010ルール改正)。
  • WAの競技規則に沿った競技会での記録でないと、公認記録とならない[35]

国際競技連盟

1912年の創設以来、ワールドアスレティックス(WA)が陸上競技の国際競技連盟となっている。創設当初は「国際アマチュア陸上競技連盟」(IAAF、International Amateur Athletic Federation)という名称であったが[36]、1970年代後半にスポーツがアマチュアリズムからプロフェッショナリズムへと移行したことを反映して[6]、2001年にはアマチュアの名称を削除し、「国際陸上競技連盟」(International Association of Athletics Federations、略称は同じくIAAF)に変更された[37]。さらに2019年11月に再度名称を変更し、現名称となった[38]

WAには215の加盟国と地域があり、六大州それぞれに統括する競技連盟が存在する[39]。6つの大陸連盟は、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、オセアニア、北アメリカ、南アメリカである。WAの本部は1993年以降モナコにおかれている[37]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ なお、現代の「陸上」とは分類が異なるが、当時は(屋外で)他にも戦車競走、レスリング、ボクシング(拳闘)、パンクラティオンも行われた。
  2. ^ 走り高跳及び棒高跳は前か後ろ片方だけでよい。

出典

  1. ^ a b 大辞泉
  2. ^ 「スポーツの文化史 古代オリンピックから21世紀まで」p29 ヴォルフガング・べーリンガー 髙木葉子訳 法政大学出版局 2019年3月25日初版第1刷
  3. ^ 「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p207 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷
  4. ^ 「スポーツの文化史 古代オリンピックから21世紀まで」p41-42 ヴォルフガング・べーリンガー 髙木葉子訳 法政大学出版局 2019年3月25日初版第1刷
  5. ^ https://www.joc.or.jp/sp/column/olympic/history/002.html 「近代オリンピックの始まり」公益財団法人日本オリンピック委員会 2020年4月4日閲覧
  6. ^ a b c 「スポーツの世界地図」p86 Alan Tomlinson著 阿部生雄・寺島善一・森川貞夫監訳 丸善出版 平成24年5月30日
  7. ^ 「陸上競技のコーチング学」p3-4 日本陸上競技学会編 大修館書店 2020年2月1日初版第1刷
  8. ^ https://www.jp.tdk.com/athletic/wca_tdk/ 「世界陸上競技選手権大会とTDK」TDK株式会社 2020年4月4日閲覧
  9. ^ 「スポーツの世界地図」p97 Alan Tomlinson著 阿部生雄・寺島善一・森川貞夫監訳 丸善出版 平成24年5月30日
  10. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/2677080?cx_part=search 「2009年、世界を再び熱くさせたボルト」AFPBB 2009年12月22日 2020年4月4日閲覧
  11. ^ 「スポーツの世界地図」p69 Alan Tomlinson著 阿部生雄・寺島善一・森川貞夫監訳 丸善出版 平成24年5月30日
  12. ^ https://www.marathon.tokyo/about/founders-history/ 「大会の沿革」TOKYO MARATHON 2020 2020年4月4日閲覧
  13. ^ 岡尾惠市『陸上競技のルーツをさぐる』 文理閣 1996年 p.6
  14. ^ a b 中村敏雄『スポーツルールの社会学』朝日新聞社〈朝日選書〉1991年、ISBN 402259523X pp.32-50.
  15. ^ a b 長谷川 2013, pp. 59-60.
  16. ^ 長谷川 2013, p. 59.
  17. ^ a b 長谷川 2013, p. 60.
  18. ^ 長谷川 2013, pp. 60-61.
  19. ^ 長谷川 2013, p. 61.
  20. ^ 長谷川 2013, pp. 61-62.
  21. ^ 長谷川 2013, pp. 41-47.
  22. ^ 長谷川 2013, pp. 112-128.
  23. ^ 長谷川 2013, p. 66.
  24. ^ 長谷川 2013, pp. 141-267.
  25. ^ a b c d e f g h 女子のみ
  26. ^ a b c d e f g h i j 男子のみ
  27. ^ 男子日本記録
  28. ^ 女子日本記録
  29. ^ 女子は7300点以上
  30. ^ a b トラック競技審判長 日本陸上競技連盟
  31. ^ 「陸上競技のコーチング学」p5 日本陸上競技学会編 大修館書店 2020年2月1日初版第1刷
  32. ^ フライングしたら即失格 国際陸連が新ルール導入へ - 朝日新聞
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関連項目

参考文献

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  • 東京教育大学体育史研究室編 『図説 世界体育史』 新思潮社 1964年

外部リンク


 

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