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⚾|“球界の頭脳”古田敦也の冠番組がYouTubeで復活!「フルタの方程式 YouTube」

“球界の頭脳”古田敦也の冠番組がYouTubeで復活!「フルタの方程式 YouTube」


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“球界の頭脳”古田敦也の冠番組がYouTubeで復活!「フルタの方程式 YouTube」

 
内容をざっくり書くと
前田智徳、川上憲伸、谷繫元信、五十嵐亮太、達川光男、長嶋一茂、和田一浩、藪恵壹、小林雅英、星野伸之、村田兆治 他、続々参戦!
 

YouTubeチャンネルで配信スタート 2021年5月7日株式会社 文化工房 “球界の頭脳”と謳われ… →このまま続きを読む

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和田一浩

和田 一浩(わだ かずひろ、1972年6月19日 - )は、岐阜県岐阜市出身の元プロ野球選手外野手捕手、右投右打)、野球解説者タレントマネジメント契約先はスポーツビズ

愛称は同姓の演出家・和田勉にちなんだベンちゃん[1]、更にそこから発展したビッグベン[2]など。ナゴヤドームの外野スタンドで掲げられている横断幕には「輝く男」という文字が入っていた。

経歴

プロ入り前

岐阜県岐阜市出身。岐阜市立鷺山小学校3年次にスポーツ少年団に入り[3]岐阜市立青山中学校卒業を経て、県立岐阜商業高校では2年時に控え捕手として第61回選抜高等学校野球大会第71回全国高等学校野球選手権大会に出場した。

高校卒業後、東北福祉大学に進学し、仙台六大学野球連盟のリーグ戦では4年間で首位打者1回、ベストナイン3回を獲得する。4年時には主将となり、春のリーグMVP(2年秋にも)に輝いた。

大学卒業後は社会人野球神戸製鋼に入社。大学の1年後輩である門倉健は「和田さんは、ボクが打たれても代わりに監督に怒られてくれる懐の深い先輩だった。当時から打撃は天才的で強肩。それでもプロから声がかからず、社会人を経由した。あのクラスでもプロに行けないのかと愕然とした」という[4]
都市対抗野球には1年目は補強で出場し本塁打を放つ、2年目は4番を打って前年と同様に谷中真二(西武へ同期入団)とのバッテリーで初戦プリンスホテルに7回コールド完封勝利[5]

社会人通算.429の打率を残し、強打の捕手として1996年のドラフト会議西武ライオンズから4位指名を受け入団。背番号は22

西武時代

入団当時1997年の西武に、球界を代表する捕手だった伊東勤がいた。和田は同年、主に代打として17試合に出場、プロ初安打・初打点を記録し、1998年は打力を活かすため外野手にも挑戦し、同年にプロ初本塁打を記録。2000年に出場機会が増え、規定打席未満ながら打率.306を記録。9月9日には初の4番を任され、9番以外の全打順でスタメン出場。守備位置は捕手9試合、一塁手15試合、外野手18試合、指名打者12試合と、徐々に捕手から外野手へとシフトしていった。またこの年に、同じく西武の捕手だった中嶋聡が、捕手らしい背番号を欲しており、入団以来背番号「22」だった和田は当時中嶋がつけていた一桁の「5」と背番号を交換。以降引退まで同番号を背負うことになる。

2001年は、監督の東尾修に「次世代を担うバッテリー」として松坂大輔と開幕戦でスタメン起用され、その後も松坂と7回にわたってバッテリーを組んだ。打撃も好調で一気に16本塁打、規定打席未満ながら打率.306を記録した。守備位置はまだ捕手と外野手で一定せず、打順も2番と4番以外全てに起用された。9月24日の近鉄最終戦で松坂大輔がタフィ・ローズに55号本塁打を打たれ、中村紀洋に逆転サヨナラ2点本塁打を打たれた試合で捕手としてフル出場していた。

2002年、新たに監督に就任した伊原春樹が前年のキャンプ迎えにあたって、伊原から「キャッチャーミットは持ってこなくていいから。」と言われ、「和田は同年、25試合にマスクをかぶっていたが優しい性格をしており、私は捕手には向いていないように感じていた。一方、打撃は.306、16本塁打、34打点をこの年に挙げていたことからもわかるように光るものがあった。捕手よりも負担の少ない外野にすれば、打撃が生きるだろうと考えたのだ。」[6]と述べている。外野手一本に絞り[7]、「5番・左翼手」のレギュラーに定着。故障離脱があったが、30歳にして初めて規定打席に到達し、打率.319、33本塁打、81打点という成績を残し、優勝に貢献した。指名打者部門で初のベストナインを受賞。しかし巨人との日本シリーズでは15打数0安打と低迷し、「逆シリーズ男」とされた。結果的にチームは巨人にストレートの4連敗で敗退し、自身の不振が大きく響くことになった[8]

2003年から4年連続で外野手部門でベストナインを受賞。

2004年5月30日の日本ハム戦(函館市千代台公園野球場)で芝草宇宙から本塁打を放ち、通算100本塁打を達成。同年からパ・リーグで開催されたプレーオフでは、日本ハムとの第1ステージ第3戦で横山道哉からサヨナラ本塁打を放った。さらに中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、打率.310、4本塁打、6打点で西武12年ぶりの日本一に貢献し、優秀選手に選ばれ、2年前の汚名を返上する形となった。彩の国功労賞を受賞。

2005年にはシーズン打率.322で初の個人タイトルとなる首位打者を獲得。同時に153安打で最多安打のタイトルも獲得した。パ・リーグの右打者による首位打者獲得は1993年辻発彦(西武)以来12年ぶりだった。

2006年は開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表に選出された。同大会では大会期間中に尿管結石を発症するなど体調を崩し、1次リーグでの代打起用のみに終わった。

シーズンでは打率.298で5年連続打率3割はならず、本塁打も19本に終わったものの、自己最多の95打点を記録した。また、チームメイトの赤田将吾と並んでリーグ最多補殺を記録。

2007年9月8日の日本ハム戦で吉川光夫から安打を放ち、通算1,000安打を達成。前年より打率を上げてリーグ3位の打率.315を記録。本塁打はレギュラー定着後最低の18本、打点は前年の約半分の49(9月半ば頃まで打率.239の細川亨より打点が低かった)に終わった。同年に初取得したFA権を行使した。

中日時代

2007年12月9日に中日ドラゴンズとの入団交渉を行い、地元の岐阜に最も近い球団という事もあり、本人曰く「幼いころからのあこがれの球団」である中日への移籍を数分で即決。3年契約を結び、背番号は西武時代と同じ「5」に決定した。

2008年に通算1000試合出場を達成。2年連続打率3割を残したが、16本塁打、74打点だった。

2009年は開幕戦1試合2本塁打と最高のスタートを切り、4月25日の巨人戦でプロ通算200号本塁打を、かつての同僚である豊田清から放った。5月12日の東京ヤクルトスワローズ戦で地元岐阜の長良川球場で初の本塁打を放ち故郷に錦を飾った。6月21日のオリックス・バファローズ戦で平野佳寿から先制の満塁本塁打を放った打席で通算4000打数に到達し、通算打率にランクイン。この時点で川上哲治や、当時の落合博満監督をも上回る通算打率.315で、歴代6位・日本人右打者最高となった。6月には打率.415、6本塁打、15打点の成績で、2度目の月間MVPをチームメイトの川井雄太と共に受賞した(川井の投げる日は3試合連続本塁打、打率4割と相性が良かった)。交流戦では打率4割、7本塁打(ともに2位)と好調だった。7月15日には4年ぶりの20本塁打と自己最多ペースで本塁打を量産し、9月15日には10回表に永川勝浩から決勝の3試合連続本塁打を打った。打率.302で7度目の3割を記録し、29本塁打、87打点、出塁率.382と前年より大きく成績を上げ、打撃主要部門全てでリーグトップ10に入った。守備面でも12補殺を記録し、2年連続セ・リーグ最多補殺に輝いた。また、この年初めてシーズン全試合に出場した。

2010年も前年に続き2年連続でシーズン全試合に出場し、首位打者争いは青木宣親に敗れたが最終的に打率.339・37本塁打・93打点とチーム三冠、自己最多本塁打の活躍でチームの4年ぶりの優勝に大きく貢献した。同年の37本塁打は自己最多かつ中日移籍後では唯一の30本塁打以上だが、本拠地をナゴヤドームに移転した1997年以降では中日の日本人選手としては最多記録かつ2003年・2006年の福留孝介以来2人目で[9]、2019年時点では和田が最後である[10]クライマックスシリーズ第2ステージの巨人との試合では、第4戦に9回裏3-3の場面でサヨナラ安打を放ち、シリーズMVPに輝いた。同年のロッテとの日本シリーズでは、7試合で29打数12安打1本塁打6打点と活躍。チームは2勝4敗1分で敗れたが、敢闘選手賞を受賞した。また、自身初となるシーズンMVP及び自身6度目・中日移籍後は初となるベストナイン(外野手部門)に選出された。11月24日の契約更改で、新たに3年総額12億円で契約を結んだ。なお、この年はレガースの未装着と自打球の直撃が重なり、骨折してしまうもフル出場を重ねている。

2011年に、独特な打撃フォームの腰への負担を考慮した監督の落合博満からのアドバイスにより、春季キャンプでオープンスタンスからスクエアスタンスへの打撃フォーム改造を敢行する[11]。しかし、打撃フォームの改造に加え、統一球の影響や視力低下もあって調子を落とし、年間を通じて成績は打率.232、12本塁打、54打点と低迷した。特に打率は西武時代にレギュラーに定着して以来、最低であった。また、シーズン終盤には前述の視力低下などの理由から中日入りして初めて二軍落ちを経験した。ソフトバンクとの日本シリーズでは3勝4敗で敗れ、第7戦攝津正から三振を喫し最後の打者になっている。同シリーズでは優秀選手賞に選ばれた。

2012年に前年の成績低迷により、前監督の落合と二人三脚で改造したスクエアスタンスの打撃フォームをオープンスタンスぎみに修正した。2年ぶりに全試合出場を果たしたものの、最終的に本塁打は9本に終わり、12年ぶりに二桁に届かなかった。2013年は打率.275と前年を下回り、この年で2011年からの3年契約が満了し、11月6日の契約更改で8,000万円減とプロ入り最大の減俸となった。

2014年4月8日の対ヤクルト戦(ナゴヤドーム)にてプロ通算300号本塁打を放ち、41歳9ヶ月での300本塁打達成は史上最年長となり[12]、大学卒業から社会人を経てプロ入りした選手としては史上初[13]の記録となった。7月1日の対DeNA戦で42歳としては史上7人目のシーズン2桁本塁打を記録[14]。7月は猛打賞4回を含む打率.397、7本塁打、21打点の活躍で月間MVPを受賞した。しかし8月6日の対広島戦(ナゴヤドーム)でブライアン・バリントンが投じた抜け球が右手に直撃し右手舟状骨を骨折[15]。ギプスで4 - 6週間固定が必要となり、結局2000安打まで15本残しシーズンを終えることになった[16]

2015年は6月11日の対ロッテ戦(QVCマリンフィールド)で、1回表に左前適時打、2回表に左翼線への安打を放ち、2,000安打を達成した。これは史上45人目、史上最年長42歳11か月での達成となった[17][18]

大学卒業と社会人経験を経てプロ入りした選手の2,000安打達成は古田敦也宮本慎也に次いで3人目で、20代で一度も規定打席に到達しなかったり、34歳までに1,000安打達成がなかった場合では初。また現役で2,000安打達成選手が同一球団に3人(和田、谷繁、小笠原道大)いるのもプロ野球史上初となった。8月15日の対巨人戦(ナゴヤドーム)において、大杉勝男、落合に次ぐ史上3人目のセ・パ両リーグ1,000安打を達成する[19]

2015年9月12日に今シーズン限りで現役を引退することが中日新聞などより報道され[20][21]、9月19日にナゴヤドーム内で正式に記者会見を開き、現役を引退することを表明した[22]。9月3日に落合ゼネラルマネージャー(GM)から来季の契約を行わない旨を明かされたという[23]。9月24日の阪神戦で引退試合が行われ、2回に阪神先発の秋山拓巳から放った通算2050本目の安打が、現役生活最後の安打になった[24]。その後、谷繁兼任監督の左前打で先制のホームを踏んだ[25]。試合後はマウンド付近で、背番号と同じ5度ナインに胴上げされ、ナゴヤドームに惜別の拍手と歓声が響く中、4人の子供たちから花束を受け取った[24]。11月30日付で、日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示された[26]

引退後

2016年からは、NHK野球解説者日刊スポーツ野球評論家として活動する。また2016年4月からは「スタイルプラス」(東海テレビ)にもタレントとして出演。

また、プロ野球OBが対戦する「」では、佐野慈紀小田幸平らと「ピッカリ芸」を見せるのがお約束となっている。

また、2018年オフには、阪神タイガースは打撃コーチとして、招聘するプランがあったが、実現しなかった[27]

選手としての特徴

打撃

バットを上段に構えて上下に揺らし、極端なオープンスタンスから左足を高く上げ、全身を回転させるようにしてバットを背中の後ろまで一気に振り抜く、独特のフォームから弾き出す安定した打撃が特徴[28]。いわゆる「掬い上げ打法」。中日移籍後から2010年までの通算の対右打率.315を残しており、左投手に対しても.310と左右を苦にしない上に目立った苦手コースもなく、独特の打撃フォームも手伝って右方向への打球が非常に良く伸びる[29]

背筋の強さと右手の押し込みにより、ボールをかなり引きつけても詰まらずに強い打球を放つことができる[29]。スイングの後は腰が落ちたような形になるので、ライト方向への長打を打ったのに三塁線へのファウルボールを打ったように見えることもあり、最後まで振り切るフォームであることとあまり足が速くない事から併殺打は多い。本人によるとこの打撃フォームは「テニスのフォアハンドを参考にしている」という[30]

2011年には落合監督にアドバイスされ、二人三脚で腰への負担を考慮したスクエアスタンスへの変更にも取り組んだ[31]。しかし、成績は大きく落ち込み、落合監督が退任した後、オープンスタンスに戻すことになったが、完全に戻したわけではない[32]

300本以上の本塁打を記録した強打者であるが、本人は「ホームランバッターではない」と語っている。本人曰く、「ホームランバッターは打ち損じがヒット。僕の場合はヒットの延長がホームラン」[33]。 また長打力のある選手にして三振が少なく年間で30本以上4回を含む25本以上6回の本塁打数を記録しながら3桁の三振を喫したことが一度もなく通算でも3桁の938三振に止まっている。

守備

2002年シーズンに和田を外野手に固定させた伊原は、捕手としての和田について後に「性格がよく、相手打者の裏をつくリードができなかった。それでは1シーズン通してでは問題がある」と語っている[34]。左翼手として得点換算で高い数値を記録している[35]。送球については送球を受けることが多かった捕手の谷繁元信によると「上品な球」を投げるという。「上品な球」を投げられる理由について和田は「肩が強くないので、スピンの効いた球を投げないと球が沈んでしまう」と説明している[36]

人物

既婚で、4児の父親である[37]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1997西武1722212410052001000040.190.190.238.429
19983657518172032883120400113.333.382.549.931
1999205348513210173301130081.271.308.354.662
20005518917020521001652492031501176.306.360.382.742
200182236206366372161223455522320236.306.372.592.965
2002115472439641402523326881532327317414.319.357.610.968
2003126540468871623453029689850366134610.346.428.6321.060
20041094733947912621130239896204711245914.320.425.6071.032
2005129542475801533232727269330560526617.322.397.573.969
2006131566484721443421923995330478908414.298.392.494.886
2007138548501771582311823749710242236522.315.370.473.843
2008中日136560520601573441624774120434027116.302.345.475.820
2009144592517731562442927587520568225616.302.382.532.914
2010144602505941712923731593500592707712.339.437.6241.061
2011131522444491032441217154630472626412.232.339.385.724
201214458650852145322920863200671117214.285.370.409.780
2013142581495631362121821576220777126326.275.370.434.804
20149035630240851221614965210545143811.281.376.493.870
2015792342181665805882610001402409.298.346.404.750
通算:19年19687731676697720503753731934561081763511638625229938223.303.381.511.892
  • 各年度の太字はリーグ最高

WBCでの打撃成績

















































2006日本2220000000000000010.000.000.000

年度別守備成績



捕手一塁外野














































1997西武1442612.9801752.286--
199818576021.0000220.000-13100001.000
19998421001.0000220.000-750001.000
2000820211.9570541.200151021418.9911924121.926
2001251281022.98631284.33310000----45523011.000
2002--6292410.990
2003--120195943.981
2004--1071732001.000
2005--128251531.988
2006--1222131021.991
2007--102195831.985
2008中日--1352281132.988
2009--1442161223.991
2010--1382288011.000
2011--1281821012.995
2012--142210310.995
2013--139207630.986
2014--78110220.982
2015--5376010.987
通算732892547.987428217.250161021418.99116822667942816.990
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:2004年5月30日、対北海道日本ハムファイターズ11回戦(函館市千代台公園野球場)、10回表に芝草宇宙から右中間へ決勝満塁本塁打 ※史上233人目
  • 150本塁打:2006年7月4日、対福岡ソフトバンクホークス9回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、2回表に和田毅からソロ ※史上142人目
  • 1000安打:2007年9月8日、対北海道日本ハムファイターズ23回戦(札幌ドーム)、2回表に吉川光夫から左前安打 ※史上247人目
  • 1000試合出場:2008年5月17日、対横浜ベイスターズ7回戦(ナゴヤドーム)、5番・左翼手として先発出場 ※史上427人目
  • 200本塁打:2009年4月25日、対読売ジャイアンツ5回戦(東京ドーム)、9回表に豊田清から左越2ラン ※史上92人目
  • 250本塁打:2010年8月1日、対阪神タイガース15回戦(阪神甲子園球場)、1回表に下柳剛から左越2ラン ※史上54人目
  • 1500安打:2010年9月3日、対読売ジャイアンツ22回戦(ナゴヤドーム)、5回裏に内海哲也から左越2ラン ※史上106人目
  • 300二塁打:2011年10月2日、対阪神タイガース24回戦(阪神甲子園球場)、7回表に藤原正典から左越二塁打 ※史上58人目
  • 1500試合出場:2011年10月4日、対広島東洋カープ21回戦(ナゴヤドーム)、6番・左翼手として先発出場 ※史上173人目
  • 3000塁打:2012年9月30日、対横浜DeNAベイスターズ23回戦(横浜スタジアム)、5回表に王溢正から左越3ラン ※史上51人目
  • 350二塁打:2013年8月18日、対読売ジャイアンツ18回戦(東京ドーム)、3回表に菅野智之から右越二塁打 ※史上37人目
  • 300本塁打:2014年4月8日、対東京ヤクルトスワローズ1回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に真田裕貴から左越2ラン ※史上39人目
  • 1000打点:2014年4月15日、対横浜DeNAベイスターズ2回戦(ナゴヤドーム)、4回裏に久保康友から左前2点適時打 ※史上41人目
  • 2000安打:2015年6月11日、対千葉ロッテマリーンズ3回戦(QVCマリンフィールド)、2回表に植松優友から左翼線安打 ※史上45人目
その他の記録
2004年限りで消滅した大阪近鉄を含む13球団からの本塁打は、史上5人目
  • オールスターゲーム出場:6回 (2003年 - 2005年、2008年、2010年、2012年)
  • 月間MVP(打者による最年長記録):42歳1か月(2014年7月)
  • 2000安打達成者による生涯打率:.303 ※落合博満長嶋茂雄に次ぐ右打者歴代3位
  • セ・パ両リーグ1000安打:2015年8月16日、対読売ジャイアンツ20回戦(ナゴヤドーム)、4回表に大竹寛から右前安打 ※史上3人目
  • 交流戦通算安打数304本 ※鳥谷敬に次ぐ歴代2位
  • 開幕戦本塁打数7本 ※長嶋茂雄に次ぐ歴代2位

背番号

  • 22 (1997年 - 1999年)
  • 5 (2000年 - 2015年)

登場曲

代表歴

関連情報

テレビ出演

CM

関連書籍

脚注

  1. ^ 巨人ドラ2はキラキラ君 背番号「61」和田恋は坂本2世”. Sponichi Annex. 2015年2月2日閲覧。
  2. ^ “ビッグベン”和田大忙し幹事”. nikkansports.com. 2005年5月5日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年2月2日閲覧。
  3. ^ [1]
  4. ^ 門倉健、日刊ゲンダイ、流れ流れて日韓米7球団、仙台六大学リーグ 東北福祉大だけは木製バットで戦った、2017年6月8日
  5. ^ 都市対抗野球大会80年史 毎日新聞社刊
  6. ^ 2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説 (ベースボールマガジン別冊夏祭号) 、ベースボール・マガジン社、伊原春樹の球界回顧録、第41回、追憶は回る右腕とともに、回顧テーマ、西武歴代ベストナイン、95頁
  7. ^ 捕手からコンバートされて活躍した選手とは…”. BASEBALL KING (2015年3月4日). 2018年1月3日閲覧。
  8. ^ 「逆シリーズ男」論評例シーズン中は大活躍も…00年以降の”逆シリーズ男”は?”. BASEBALL KING (2015年10月21日). 2018年1月3日閲覧。
  9. ^ 徳原麗奈「中日1位指名の東邦・石川「3冠王」宣言!生え抜き右打者初のナゴヤD30発狙う」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2019年10月19日。2019年10月21日閲覧。オリジナルの2019年10月21日時点におけるアーカイブ。
  10. ^ 中日1位石川「30本打てれば」将来4番候補の自覚十分」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2019年10月19日。2019年10月21日閲覧。オリジナルの2019年10月21日時点におけるアーカイブ。
  11. ^ スクエアスタンスに…和田、打撃改造で試行錯誤”. スポーツニッポン新聞社 (2011年2月6日). 2018年1月3日閲覧。
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  16. ^ 中日・和田、右手骨折で今季は絶望的…2千安打まであと15本デイリースポーツ 2014年8月8日
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関連項目

外部リンク

藪恵壹

藪 恵壹(やぶ けいいち、本名:藪 恵一〈読み同じ〉、1968年9月28日 - )は、三重県南牟婁郡御浜町出身の元プロ野球選手投手、右投右打)・コーチ1994年登録名藪 恵市(読み同じ)。愛称は「恵ちゃん」。

経歴

プロ入り前

小学校時代、野球の試合中に右腕を故障したが、病院にも行かずプレーした。治癒したが、その影響で雨が降ると痛みが出るのか、雨の日の登板では実力を出せないことが目立った。

高校時代は、同じ県内に杉浦正則がいたこともあり、注目されなかった。一年間の浪人生活を経て、一般入試で東京経済大学に進学し首都大学リーグに加盟している同校の硬式野球部でプレーした。

大学卒業後は朝日生命保険に入社、同社硬式野球部でプレーを続けたるかたわら、営業部員としても勤務。在籍時の営業成績は全社の中でもトップクラスだったという。

阪神タイガース逆指名し、ドラフト1位で入団。背番号にエースナンバーの18を与えられ、入団を機に、姓名判断で登録名を「恵市」とした。東京経済大出身のプロ野球選手は、藪が初となる。

阪神時代

1994年、新人ながら一軍の先発ローテーションにフルシーズン定着すると、チームトップの9勝(9敗)を挙げてセントラル・リーグ(セ・リーグ)新人王を獲得。前半戦は6連勝を記録するなど好調で、オールスターゲームにも、セ・リーグ投手部門のファン投票1位で出場した。公式戦デビューから7試合目に先発で登板した5月24日の対読売ジャイアンツ戦(阪神甲子園球場)では、阪神の日本人投手としては初めての「対巨人戦初登板初完封勝利」をマーク。シーズン全体では、先発で登板した25試合のう17試合でクオリティ・スタート(QS)、8試合で完投を記録した。もっとも、先発した試合では打線の援護に恵まれないことが多く、QSを満たしながら黒星が付いた試合が5試合もあった[1]

1995年、登録名を「藪 恵壹」に変更。前年に続いてセ・リーグの最終規定投球回に到達すると、リーグ6位の防御率2.98を記録した。先発で7勝を挙げたものの、前年に続いてチームの貧打に足を引っ張られる格好で、リーグ最多の13敗を喫した。

1996年、プロ入り後初めての開幕投手を務めたことを皮切りに、セ・リーグ最多の30試合の先発登板を記録。自身初の2桁勝利自己最多の11勝を挙げる一方で、被安打数はリーグ最多で、同じく阪神の湯舟敏郎と共に2年連続で最多敗戦投手になった。

1997年、チームトップタイの10勝を挙げ、2年連続の2桁勝利を達成。

1998年、2年ぶりに開幕投手。シーズン自己最多タイ11勝で3年連続の2桁勝利をマーク。10敗を喫しながらも、プロ入り初めてのシーズン勝ち越しに至った。

1999年、6勝16敗で、自身3度目のリーグ最多敗戦投手になった。

2000年、入団1年目から7年連続でセ・リーグの最終規定投球回に到達したが、6勝10敗という成績で、6年連続2桁敗戦を喫した。

2001年、右肩を故障した影響で、一軍公式戦17試合に登板したが、プロ入り後初の未勝利でシーズンを終えた。

2002年、NPBの投手としては珍しい1桁の背番号・4に変更。春季キャンプの前に電話で出演した『週刊トラトラタイガース』(読売テレビ)で、かつて背番号4を着用していた川藤幸三から、変更を勧められたことによる。開幕から好調だったが、故障で途中離脱した影響もありセ・リーグの最終規定投球回に達しなかったものの、4年振りに10勝を記録し阪神入団後初めてシーズンの貯金を2つ以上にした。

2003年、開幕からローテーション入りしたものの好不調の波が激しく、7月に中継ぎに降格。後半は中継ぎと谷間の先発を担い、8勝3敗という成績(貯金は自己最多を更新)で、チームの18年振りセ・リーグ優勝に貢献。しかし、福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは登板機会がなかった。

2004年、前年に続き好不調の波が激しく、防御率は1点近くも改善したが6勝9敗と負け越す。シーズン中に海外FA権を取得。シーズン終了後には、MLBへの挑戦を視野に、FA権の行使を宣言した。メジャー挑戦後から楽天での現役引退までは中継ぎで起用されたため、先発としてのキャリアはこの年が最後となった。

アスレチックス時代

2005年1月、オークランド・アスレチックスへの入団が決定。野球を始めた時に与えられた背番号13を再び着用した。逆指名でNPB球団へ入った選手が、FA権を行使したうえで他球団へ移籍した事例は、NPB他球団への移籍を含めても藪が初めてである。この年にMLB公式戦デビューを果たすと中継ぎで起用され40試合に登板し、シーズン通算で4勝をマーク。しかし、契約オプションの2年目保有権をチームが行使しなかったため、シーズン終了後に自由契約となった。

ポトロス時代

2006年コロラド・ロッキーズと契約したが3月31日付で退団した。6月29日にメキシカンリーグのティファナ・ポトロスと契約した。

無所属時代

2007年はどこの球団にも所属せず、トレーニングに費やした。この年は練習相手もいないのでネットや壁にボールを投げて投球練習をすることもあったという。アマチュア時代はあまり設備など野球環境が恵まれていなかったが、さすがに練習相手がいないのは堪えたという。 (ちなみに、このエピソードはジャイアンツに移籍した後に発売された実況パワフルメジャーリーグ3で実況音声を日本人の谷口広明にすると聞くことができる。)

ジャイアンツ時代

2008年、メジャー昇格を目指し、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約。キャンプ・オープン戦での背番号は72。同年3月30日に開幕メジャー枠に入ったことが球団から発表された。背番号は22[2]

4月14日の対アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で3年ぶりの勝利を記録した。39歳と199日での白星は、当時の日本人メジャーリーガーの最年長記録となった[3]。また同年の5月30日の対サンディエゴ・パドレス戦の8回、3対3の同点で無死一・二塁の場面でリリーフ登板し、打者ケビン・クーズマノフを1球でトリプルプレーに仕留める、という珍しい記録も作った[4]。トリプルプレーを記録した日本人投手は1996年の野茂英雄以来2人目のことだった。

2009年はメジャー契約でキャンプに臨むもオープン戦は不調で、3月5日にマイナー降格。メジャー40人枠を空けるための措置として3月20日(日本時間21日)にジャイアンツから戦力外通告を受け、翌21日に傘下のAAA級フレズノと再契約したが、7月11日に解雇された[5]

2010年はMLB球団からのオファーを待ちながら、アメリカ国内でトレーニングを続けていたが、7月26日から2日間にわたって千葉ロッテマリーンズの入団テストへ参加。ブルペンでの投球で最速146km/hを記録したことから、テストに立ち会った一軍監督の西村徳文は獲得に前向きな姿勢を示していた。しかし、(当時)42歳という年齢面がネックになったため、結局は獲得を見送られた[6]

楽天時代

2010年7月29日から2日間にわたって東北楽天ゴールデンイーグルスの入団テストを受けたところ、NPBにおけるシーズン中の支配下選手登録最終日に当たる同月31日に、球団から獲得を発表された。同年シーズン終了までの契約で、背番号は64[7]。ロッテの入団テストを受けたことを知った一軍監督のマーティー・ブラウンが、「一軍の試合で6回を任せられそうな救援投手が欲しい」と球団幹部に掛け合った末の緊急獲得であった[6]

入団後、8月10日の対埼玉西武ライオンズ戦(クリネックススタジアム宮城)7回表にNPB復帰後初の一軍戦登板を果たした。しかし、1アウトを取っただけで4点を失って降板。その後は10試合で10回1/2投げて自責点2点と中継ぎとして好投していたが、9月16日に札幌ドームの練習中のランニングで左足ふくらはぎを肉離れをしてしまい戦線離脱、シーズン終了後に戦力外通告を受けた[8]。通告の直後は他球団での現役続行も視野に入れていたが、12月7日に引退を表明。表明の場に選んだのは、当日にオークランドで開幕したばかりのMLBウィンターミーティングで、MLB時代に世話になった人々への挨拶を兼ねて「志半ばですが、ランディング(着陸)します。まだ(野球を)やれるが、もう42歳なので、(入団を)誘ってくれる球団はないでしょう」と述べていた[6]

現役引退後

2010年12月17日に、阪神との間で、二軍投手コーチとしての契約を締結。楽天からの戦力外通告直後からの就任要請を受ける格好で、現役時代以来7シーズン振りに阪神へ復帰した。背番号は、岡田彰布の一軍監督退任に伴う退団(2008年)以降空番として扱われていた80

2012年に一軍投手コーチを務めたが、一軍はシーズン5位に低迷。2013年に二軍投手コーチへ復帰したが、この年限りで退団する[9] と、神戸市東灘区スポーツクラブ「Japan Athlete Club STAY COOL」の講師へ就任した[10]

2014年からは、毎日放送MBSラジオ)・GAORA野球解説者として活動。2015年からは、読売テレビの阪神戦中継にゲスト解説者として出演するほか、J SPORTSのメジャーリーグ中継の解説も務めている。また、『週刊ベースボール』の名物企画「連続写真で見るプロのテクニック」で投手を取り上げる場合には、投球フォームの解説を担当している。

2018年の12月には、野球解説者としての活動と並行しながら、学生野球資格の回復に向けて講習会を受講[11]2019年2月5日付で日本学生野球協会から資格回復の適性を認定されたため、同協会に加盟する大学・高校の硬式野球部での指導も可能になった[12]。藪自身は、「(同協会加盟の高校の硬式野球部に所属する現役野手の)息子に(日本のプロ野球でのプレーを経験した選手では学生野球資格回復者にしか認められていない)アドバイスを送れるようにしたかった」とのこと[11] で、同年シーズン以降も野球解説者としての活動を続けている。

2019年3月22日には、アスレチックスのOBを代表して、岩村明憲と共にMLB開幕カード第2戦(東京ドームのアスレチックス対シアトル・マリナーズ戦)の始球式へ登場。岩村とバッテリーを組んだうえで、マリナーズOBのケン・グリフィー・ジュニアを相手にピッチングを披露した[13]。その一方で、同年の12月4 - 10日には、タンザニアで野球を指導している[14]

清原和博との関係

インコースを苦手としていた清原和博に対して徹底した内角攻めを行い、多くの死球を与えたことで知られる。1997年8月20日の対巨人戦(東京ドーム)でシーズン3個目の死球を与え、清原が憤慨しながら指を3本突き出し 「3回目やぞ」と怒声をあげた。これに対し藪は「年俸3億ってこと?」「内角は弱点だし、清原さんの技術があるならよけられるでしょ」と挑発し、ますます清原を怒らせてしまったという[15]。翌年の1998年7月10日の対巨人戦(東京ドーム)においても、シュートが内角高めに抜け、清原の右手親指をかすめ死球を与えてしまう。怒りで顔を紅潮させた清原はマウンドに歩み寄り藪を睨みつけ、睨み合いは約2分間も続いた[16]。通算では6つの死球を与え、対戦成績50打数8安打0本塁打と、清原を手玉に取った[15]

藪は引退後にこの「対清原」ともいえる執拗な内角攻めについて真相を明かしており、巨人移籍当時の清原は1995年の右肩脱臼の影響で内角を捌き切ることが出来ない状態だったため、阪神のスコアラーも「4、5月はインコースを攻めてくれ。芯に当たっても全部レフトの方にファウルになるから」と投手陣に指示、清原もそれに臆するタイプではなかったため死球になるケースが増えたと解説している[17]

引退後の2012年11月18日に甲子園球場で行われた巨人対阪神のOB戦では、清原がキャッチャーの矢野燿大に「当時みたいに当ててくれ。」と頼み、矢野はそれを藪に伝えに行ったが、藪は「当てるのは嫌だ。背中の後ろを通すので勘弁して。」と断った。藪が打席の清原に対し背中の後ろを通るようなとんでもないボールを投げ、清原がマウンドに詰め寄るという当時の再現パフォーマンスをし、球場を大いに沸かせた。清原→矢野→藪のやり取りはYouTube動画でも確認できる[18]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1994阪神2625810990--.500743181.11741242321102167643.181.19
199527277227130--.350813196.018519501101184173652.981.20
1996303061011140--.440834195.120414511111451197874.011.31
1997292641010120--.455768183.017223626101119079733.591.28
1998242432111100--.524692164.0159115108904274643.511.28
199928274216160--.273737173.11751657811954080763.951.34
200025241106100--.375638151.0162193044957076704.171.27
2001178000040--.00025055.05523345265032254.091.60
200220205221060--.625532131.2118143016973048463.141.12
20032315000830--.72740597.297132702674050433.961.27
20041919110690--.400480116.110883606755044393.021.24
2005OAK40000040111.00026258.06462638442034294.501.55
2008SF6000003609.33330268.06333248485133273.571.40
2010楽天1100000002----4811.092602600664.911.36
NPB:12年279245391368410602.44269401655.21618153475287710354857266583.581.26
MLB:2年100000076110.538564126.0127958716927167564.001.47
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

NPB

記録

NPB初記録
NPB節目の記録
NPBその他の記録

背番号

  • 18 (1994年 - 2001年)
  • 4 (2002年 - 2004年)
  • 13 (2005年)
  • 22 (2008年)
  • 64 (2010年)
  • 80 (2011年 - 2013年)

登場曲

関連情報

出演

野球解説者としてのレギュラー番組のみ記載。

  • withタイガース カワスポサタデー運動部!MBSラジオ、2013年度のナイターオフ番組) - 2014年最初の放送(1月4日放送分)から出演
  • MBSベースボールパーク(MBSラジオの阪神戦中継) - 2014年度から解説を担当。MBSとはラジオ中継のみ専属契約を結んでいるが、テレビ(MBSテレビ)の中継にもスポット契約で随時出演。ラジオでは、2019年度まで阪神戦中継にのみ出演していたが、2020年度からは(阪神との関西ダービーを除く)オリックス・バファローズ主催試合の(主にビジター地元局への裏送り向け)中継でも解説を担当する。(ビジター地元局への裏送り中継の初解説は2020年7月18日に福岡向けに放送されるRKBエキサイトホークスである)
  • GAORAプロ野球中継GAORA) - 2014年度から阪神戦の解説を担当
  • 子守康範 朝からてんコモリ!月曜日(2014年5月5日 - 2019年6月) - 月に1回のペースで、コメンテーターとして、「今朝の特盛りチェック」(6時台中盤のコーナー)からエンディングまで登場。2018年10月のリニューアルまでは、当時7時前に放送していた「てんスポ」(スポーツコーナー)にのみ出演していた。
  • せやねん!2015年3月28日 - ) - 第1部の「せやねん!スポーツ」から「どこいこ?」まで出演。

上記の番組以外にも、読売テレビの阪神戦中継や、同局が制作する『朝生ワイド す・またん!』などへ不定期で登場している。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ ベースボール・マガジン社(2021)『別冊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球PART.1(1994年編)』p.38「1994 時代の証言者IV 藪恵壹」
  2. ^ “藪39歳最終カット突破、開幕メジャー”. 日刊スポーツ. (2008年8月31日). http://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20080331-342494.html 2011年2月15日閲覧。 
  3. ^ 2017年現在の記録は、斎藤隆の41歳183日。
  4. ^ “藪初球で三重殺にガッツポーズ”. 日刊スポーツ. (2008年6月1日). http://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20080601-366815.html 2017年10月8日閲覧。 
  5. ^ “藪 ジャイアンツ傘下3Aを解雇に”. デイリースポーツ. (2009年7月14日). http://www.daily.co.jp/mlb/2009/07/14/0002126047.shtml 2011年2月15日閲覧。 
  6. ^ a b c 【7月30日】2010年(平22) 駆け込み入団 楽天 極秘テストで藪恵壹獲得(『スポーツニッポン2012年7月30日付「日めくりプロ野球」)
  7. ^ 藪恵壹選手との契約合意について
  8. ^ 来季の選手契約について
  9. ^ 来季のコーチ契約について 阪神球団公式サイト2013年10月5日配信
  10. ^ “阪神前2軍投手コーチの藪氏が小中学生を指導”. デイリースポーツ. (2013年12月30日). http://www.daily.co.jp/tigers/2013/12/30/0006605461.shtml 2014年1月1日閲覧。 
  11. ^ a b “藪氏、息子と「言葉交わすため」資格回復研修を受講”. 日刊スポーツ. (2018年12月15日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/201812150000076.html 2019年2月16日閲覧。 
  12. ^ 学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者 日本学生野球協会
  13. ^ “スレチックスOB藪氏&岩村氏が始球式に登場 打席にはグリフィー氏”. スポーツニッポン. (2019年3月22日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/03/22/kiji/20190322s00001007037000c.html 2019年3月23日閲覧。 
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  16. ^ ““死球王” 清原和博のブチ切れ伝説 「今度来たら顔ゆがめたる…」【久保田龍雄】”. AERA dot.. (2018年12月7日). https://dot.asahi.com/dot/2018120400053.html 2020年7月4日閲覧。 
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関連項目

外部リンク


 

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