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🏛|政治が教育に介入する実態に迫る 映画「教育と愛国」大分市で公開へ


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政治が教育に介入する実態に迫る 映画「教育と愛国」大分市で公開へ

 
内容をざっくり書くと
ドキュメンタリー映画「教育と愛国」は大分市のシネマ5で21日から公開されます。
 

教科書が政治の力によって書き換えられていく実態に迫ったドキュメンタリー映画「教育と愛国」が21日から… →このまま続きを読む

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ドキュメンタリー

ドキュメンタリー英語: documentary)は、事実の特定の主題についてリポートする映画テレビ番組ラジオ番組[1]

特定の主題を設定して(選択的に)事実を記録した映画・テレビ番組・ラジオ番組、ということである。

ちなみにドキュメンタリーという用語がどのように誕生したか説明すると、そもそも英語で「ドキュメント document」というのは「情報や証拠、あるいは公式記録などを提供する、手書きの文書・印刷物・電子媒体などによる、一品[2]」という意味であり、それの形容詞が「ドキュメンタリーdocumentary」であり、つまり「ドキュメント的な」という表現、ドキュメントに準ずる、という表現であり、それが名詞化したのが、つまり形容詞が名詞化したのがドキュメンタリー という用語であり、もとは、ドキュメントに準ずるもの、という表現である。

ドキュメントというものは歴史が非常に長く、文字が発明されて以降、もともともっぱら文字で記録されていたものなのだが、(19世紀末あたりに)映像を記録する技術が開発された後には、その技術を使って、従来は文字だけで行われていたドキュメント作成を映像でも行うようになり、それをドキュメンタリーと呼ぶようになった、ということなのである。

なお特定の主題を設定して事実を記録しているのがドキュメンタリーなので、たとえば定点カメラで街頭の光景などがただベタに長時間記録されただけの映像(データ)は、事実が映像化されてはいるが主題が無いので、ドキュメンタリーにはカテゴライズされない[要出典]

映画に関しては「記録映像」「記録映画」とも言われる。テレビ番組の場合は「ドキュメンタリー番組」「ドキュメンタリー」「記録映像」などと呼ばれる。ドキュメンタリーには、録音してラジオで放送するもの、たとえば街頭録音やナレーション録音などで構成したラジオ番組もあり、それは「[3][4] radio documentary」と呼ばれている。

媒体ごと、作品ごとに、さまざまな手法がある。

なお、一般的にドキュメンタリーは「 "制作者の意図や主観を含まぬ"事実の描写」と認識され、他方「劇映画 (Drama filmドラマは創作・フィクションである」と認識されているが、制作者の意図が入り込む、一種の嘘をついてしまうことがある、という点では差が無いと森達也など実務者らからは指摘されている[5]ドキュメンタリーは「意図が入らない」事実の記録だと思い込んでいる人が多いのを利用して、特に独裁者・権力者や、その手先となった者たちが、国民を騙したり操るためのドキュメンタリーを制作して放送することもあるので、そこには注意が必要なのである[要出典]

ドキュメンタリーの歴史

黎明期

ドキュメンタリーの歴史は映画と共にはじまった。リュミエール兄弟による歴史上最初の映画『工場の出口』(1895年)は、その名の通り工場の出口にカメラを設置して、従業員らが出てくる様子をワンショットで撮影しただけのものである。続く『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1896年)では観客はスクリーンの映像を現実のものと見間違えて大騒ぎしたという。これらは上記の定義においてはドキュメンタリーである[6]。リュミエールらが撮影したその他の映像(家族で会食している場面など)も一種の記録映画と言える。

初期の映画においては世界各地の風景が盛んに撮影され、大衆に向けて興業された。これも紀行ドキュメンタリーのさきがけともいえる。

初期の映画におけるフィクション・ノンフィクションの境界は曖昧であり、のちに生まれる様々なジャンルへは未分化に状態にあった。この段階ではただ映像が映っていること、物珍しいものが映っていることに観客の関心が始終した(この流れの中で、演劇を固定カメラによって撮影した映像から劇映画が生まれていくことになる)。

パイオニアたちの時代

やがて映画という媒体の持ついくつかの可能性が明確になるなかで、記録媒体という要素を重視しながら自らの問題意識を作品に投影する意志を持った制作者が現れてきた。ドキュメンタリーの父と言われたロバート・フラハティ(アメリカ、1884年 - 1951年)やヨリス・イヴェンス(オランダ、1899年 - 1989年)、ジガ・ヴェルトフ(ソビエト、1896年 - 1954年)などである。

フラハティは代表作である『極北の怪異 (Nanook of the North』(1922年)を、イヌイットナヌーク一家と一年間共に生活しながら制作した。イヴェンスは当初『橋』(1928年)や『雨』(1929年)によってアヴァンギャルド映画作家としての評価を得たが、これらの映像制作はその後の一貫した記録映画作家としての活動の序章となっている。ヴェルトフは代表作『カメラを持った男 (en:Человек с киноаппаратомの制作などを通して、現実の徹底的な記録を至上とする記録映画主義「」を提唱し、後の記録映画作家達に影響を与え続けている。

こうした1920年代の成果をもとに1930年代に至って、イギリスの記録映画作家 (Paul Rotha (John Griersonらが提唱した「」など、映画のもつ教育効果、宣伝効果を利用して社会を変革する意図をもった映画制作が隆盛した。現代の「ドキュメンタリー」という用語はこの運動が発祥とされる。

二つの世界大戦とドキュメンタリー

こうしたドキュメンタリーの技法や技術が確立されるにともなって、映画の大衆宣伝能力が注目され、国家的なプロパガンダを目的とした作品も多くあらわれた。特に第一次世界大戦以降、総力戦を遂行可能にする施策の一つとしてプロパガンダ映画の製作が重視された。

たとえば、レニ・リーフェンシュタール(ドイツ、1902-2003)の作品『意志の勝利』(1935年)はナチスの党大会を記録した映像であるが、当時としては究めて洗練された映像作品として仕上げられており、その美的印象によって大衆をナチズムに誘導したとされる。そのため未だにドイツでは上映が禁止されている[7]

ナチス・ドイツは自らの活動について詳細に映像記録を残したが、このなかにはユダヤ人強制収容所の映像なども含まれていた。こうした、もともとはナチスの記録・宣伝用として撮られた記録映像を素材として使用し、反対にその犯罪性を告発した記録映画の代表作がアラン・レネ(フランス、1922-2014)の『夜と霧』である。

人類学映画

1930年代から、映画カメラは文化人類学のフィールドワークにも活用されるようになった。こうした映像を活用した人類学は特に映像人類学 (Visual anthropologyと呼ばれ、撮影された映像を人類学映画と呼ぶ。ここでは映像は記録者の主観的な解釈に影響される事のない絶対的な客観性をもった記録手段として捉えられている。

人類学映画は純粋に学術的記録であり、今日的な意味でのドキュメンタリーとは一線を画するが、ドキュメンタリー映画作家たちに一定の影響を与えてきたと言われる。

現代のドキュメンタリー

第二次世界大戦後、ドキュメンタリーは、産業映画・教育映画と呼ばれる分野から、新植民地主義資本主義への異議を唱えるものにいたるまで多様化し、さらにテレビジョンの登場・普及によってテレビ・ドキュメンタリーという放送を前提とした作品分野が登場した。

その中で、古典的スタイルのドキュメンタリー制作は深刻な社会的問題に連動して盛んに制作された。たとえばベトナム戦争の時代にはヨリス・イヴェンスは米軍の北爆に曝されるハノイに入り、市民の日常を撮影し て『ベトナムから遠く離れて』(1967年)や『』(17e parallèle: La guerre du peuple 1968年)を制作した。なかでも『ベトナムから遠く離れて』はクリス・マルケルジャン=リュック・ゴダールなどフランスの気鋭の映画作家たちとの共作となった。

日本人では、牛山純一がテレビドキュメンタリーとして『南ベトナム海兵大隊戦記』を制作した。日本においてはほかに『』を制作した羽仁進水俣病を追及し続けた土本典昭三里塚闘争を描いた小川紳介、『ゆきゆきて、神軍』の原一男などが活躍した。

さらに8ミリ映画16ミリ (16 mm film映画、ビデオカメラなど廉価に扱える機材が普及したことで、極めて私的な世界を扱った個人映画も勃興した。たとえばジョナス・メカス (Jonas Mekasの『リトアニアへの旅の追憶』(Reminiscences of a Journey to Lithuania 1972年)はアメリカに暮らす作者自身が生まれ故郷であるリトアニアを訪ねる様子を自らの撮影で構成した。一見ホームビデオ的な作品であるが、世界中で個人映画の記念碑的作品として支持された。

一方で、観客の劣情に訴える娯楽としてのドキュメンタリー映画もテレビ・ドキュメンタリーの普及以前には流行した。これらは世界各地の大都市の夜の風俗、退廃的・奇怪なイベント、欧米以外のアジア(日本も含む)やアフリカの民族の「野蛮な」風習を切り取ったものである。特にグァルティエロ・ヤコペッティの『世界残酷物語』(1962年)は海外旅行の珍しい時代に世界の奇習を紹介して大ヒットを記録し、以後1980年代前半に衰退するまでこの手のドキュメンタリーは数多く制作された(これらの映画はモンド映画と呼ばれている)。

これらのモンド映画は当初から多くのやらせを含んでいたほか、ヨーロッパの側から劣った東洋やアフリカを見るというオリエンタリズム的な視線があったことが批判されている。モンド映画ブームの後半にはやらせの手の内を見せる半ばフィクション的なものが登場したほか、観客もやらせの存在を暗黙の了解として楽しむようになり、やがてテレビによるショッキングな特集番組などに吸収されて消えていった。

また、ドキュメンタリーの制作技法がステレオタイプ化し、手持ちカメラなどドキュメンタリーに特有の技法を逆手に取って臨場感・本物感のあるフィクション(ドラマ)が制作されるようなケースが1970年代以降現れ、こうした手法はすでにハリウッドなどでも一般化している。さらに日本においては1980年代頃から伝統的な取材・構成形式の他に、ドラマとともに構成された「ドキュメンタリードラマ (Docudrama(アメリカでは1970年代に確立された形式である)、クイズやスタジオでのトークショーなどを織り交ぜた「」などが登場し、それぞれ一般化している。

1990年代以降、テレビ放送では「リアリティーショー」と呼ばれる、一定の極端な設定のもとでの、台本なし(という建前)の、視聴者から募った素人出演者など登場人物の言行を固定カメラで観察するというスタイルが世界的に流行した。この技法は真実らしく表現するという意味では、その監視カメラ的な映像故に斬新であったが、演出された(または虚構の)撮影対象を表現手法よって真実らしく見せてしまう実例が目立つ。

リアリティー番組や実話再現番組、警官密着番組(日本の警察24時、アメリカでは全米警察24時 コップス)などの隆盛により、人々が台本のあるドラマよりも真実やドキュメンタリーらしく見えるものを好みつつある傾向が明らかになってきた。また、2001年アメリカ同時多発テロ事件の影響でドラマは打撃を受け、一方で監督本人や素人が社会問題などに突撃するリアリティー番組に似たスタイルのドキュメンタリー映画が良い興行成績を出すようになった。『華氏911』や『スーパーサイズ・ミー』などはその例である。

ラジオ・ドキュメンタリー


ドキュメンタリーと報道の違い

社会問題を取り上げるという点においてはドキュメンタリーも報道も同じだが、森達也は、ドキュメンタリーは制作者の主観や世界観を表出することが最優先順位にあるのに対して報道は可能な限り客観性や中立性を常に意識に置かなければならないという違いがあると述べている[5]

また森は、中国人が作ったドキュメンタリー映画文化庁が助成したことを自民党一部議員が疑問視した結果として複数の映画館で上映が中止になった事案の発生に際し、ドキュメンタリーの本質について以下のように述べた[8]

自民党の有村治子議員が国会で、被写体となった刀匠が自分の映っている場面を削除してほしいと主張していると発言して、大きな波紋を広げています。ドキュメンタリーを作る立場から言えば、これはとても重要な問題を提起しています。事前に被写体に見せて了解をとる。これが前提なら映画をつぶすのなんて簡単ですね。ドキュメンタリーというジャンルは確実に滅びます。僕も、原一男マイケル・ムーアもみんな転職せねばならなくなる。自作の映画「A」を引き合いに出します。中盤に警察官による不当逮捕のシーンがあります。あの警官が「俺の映っているシーンは使うな」と言ってきたら、ぼくはどうすればいいのでしょうか。あるいは映り込んでいる多くのメディア関係者、彼らの了解も得ていません。もちろん編集済みの映像も見せていない。ならば上映できないのでしょうか?ドキュメンタリーは現実を切り取って、その断片を素材に再構成した自己表現です。人権や規範を最優先にしていては何も撮れなくなる。稲田議員は試写会の前にこう言いました。「客観的でなければドキュメンタリーではない」と。僕はこれでキレました。冗談じゃない。ドキュメンタリーは主観です。作る側の思いです。メディアについてもっと鋭敏な感覚を持たなければならない政治家が、この程度のリテラシーしか持て得ないのならあまりに情けない。 — 森達也、創出版『映画靖国上映中止をめぐる大議論』「2008年4月14日MIC/JCJ主催の集会での講演」p58-60

サブジャンル

ドキュメンタリーにはいくつかの小ジャンルが存在する[9]。 (リアリティ番組#「構成のない」ドキュメンタリーも参照のこと)

  • 英語版(direct cinema)- ナレーションインタビューBGMを排除したドキュメンタリー。日本では想田和弘観察映画と称して制作している。
  • (Self documentary/Participatory documentary)- 作者が自らや家族などの周辺人物を撮影対象としたドキュメンタリー。参加型ドキュメンタリーとも。
  • フェイクドキュメンタリー (Mockumentary)- モキュメンタリ―とも。ドキュメンタリー調に制作されたフィクション。
  • リアリティーショー(Reality television) - 現実に起こっている劇的な状況に一般人出演者たち(無名の芸能人なども含む)が直面するさまを映し出したドキュメンタリー。主にテレビ番組で放送される。恋愛リアリティーショーや調査・捜索番組などが主な例である。
  • インタビュードキュメンタリー(Interview documentary) - インタビューを基調として構成されたドキュメンタリー。TBSの「日の丸」(1967年2月9日)など。
  • エッセイスティックドキュメンタリー(Essayistic documentary) - 作者によるエッセイのようなナレーションによって進行するドキュメンタリー。
  • リフレクシブドキュメンタリー(Reflexive documentary) - ドキュメンタリーの信憑性を懐疑し、作品の構成に注意を向けさせるドキュメンタリー。
  • ハイブリットドキュメンタリー(Hybrid documentary) - 何を理解するべきか明確ではない、作者と視聴者の間に対話が生まれるドキュメンタリー。
  • パフォーマンスドキュメンタリー(Performative documentary) - コンサート演劇を記録したドキュメンタリー。
  • アニメーションドキュメンタリー(Animation documentary) - アニメーションによって構成されたドキュメンタリー。
  • 教育ドキュメンタリー(Educational films) - 教育目的に制作されたドキュメンタリー。

日本以外の代表的ドキュメンタリー

日本の代表的ドキュメンタリー作品

映画


テレビ


インターネット番組

ドキュメンタリーも対象とする映画祭・映像祭、賞

(テレビ・ドキュメンタリーも含む)

日本以外

毎年長編ドキュメンタリー賞短編ドキュメンタリー賞が授与されている。
  • International Documentary Film Festival Amsterdam、オランダ)
  • (Asian Television Awards、シンガポール)
  • オーバーハウゼン国際短篇映画祭(International Short Film Festival Oberhausen、ドイツ)
  • ミュンヘン国際ドキュメンタリー映画祭(Munich International Documentary Film Festival、ドイツ)
  • クレテイユ国際女性映画祭(Creteil International Women's Film Festival、フランス)
  • シェフィールド国際ドキュメンタリー映画祭(Sheffield International Documentary Festival、英国)
  • ワイルドスクリーン(Wildscreen、英国)
  • テサロニキ・ドキュメンタリー映画祭(テサロニキ・ドキュメンタリー映画祭、ギリシャ)
  • アテネ国際映画祭(Athens International Film Festival、ギリシャ)
  • トロイア国際映画祭(Troia International Film Festival、ポルトガル)
  • ビルバオ国際映画祭(Bilbao International Festival of Documentary and Short Films、スペイン)
  • キエフ国際映画祭(Molodist Kyiv International Film Festival、ウクライナ)
  • クラクフ国際映画祭(Cracow Short Film Festival、ポーランド)
  • アンカラ国際映画祭(Ankara International Film Festival、トルコ)
  • テルアビブ国際ドキュメンタリー映画祭(Tel Aviv International Documentary Film Festival、イスラエル)
  • ニューヨーク国際ドキュメンタリー映画祭(The New York International Documentary Festival、アメリカ)
  • ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭(WorldFest Houston International Film Festival、アメリカ)
  • ホットスプリングス・ドキュメンタリー映画祭(Hot Spring Documentary Film Festival、アメリカ)
  • サンタフェ映画祭(Santa Fe Film Festival、アメリカ)
  • シネマ ドゥ リール (Cinéma du réel、フランス)
  • DCインディペンデント映画祭(DC Independent Film Festival、アメリカ)
  • 新ラテンアメリカ国際映画祭(Festival Internacional del Nuevo Cine Latinoamericano、キューバ)
  • 南アフリカ国際ドキュメンタリー映画祭(South African International Documentary Festival、南アフリカ共和国)
  • 北京国際科学映像祭(中国)
  • 台湾国際ドキュメンタリー映画祭(Taiwan International Documentary Festival、台湾)
  • ソウル・インディペンデント・ドキュメンタリーフェスティバル(Seoul Independent Documentary Festival、韓国)
  • ムンバイ国際映画祭(Mumbai International Film Festival、インド)

日本

  • アース・ビジョン地球環境映像祭(東京)
  • ATP賞(東京)
  • 科学技術映像祭(東京・科学番組を対象)
  • 門真国際映画祭
  • 教育映像祭(東京・教育映画を対象)
  • ギャラクシー賞(東京・テレビ番組を対象)
  • 世界自然野生生物映像祭(富山)
  • 地方の時代映像祭(川越市)
  • 日本賞(東京・教育番組を対象・テレビ番組を対象)
  • 飛騨高山ドキュメンタリー映像祭(岐阜)
  • 放送文化基金賞(東京・テレビ番組を対象)
  • ゆふいん文化・記録映画祭
  • 山形国際ドキュメンタリー映画祭(山形市)
  • (大阪市阿倍野区)
  • TBSドキュメンタリー映画祭(東京・TBSテレビ主催)

関連文献

  • 河村雅隆 『ドキュメンタリーとは何か--テレビ・ディレクターの仕事』 ブロンズ新社、1995年8月。ISBN 4893091026
  • 佐藤真『ドキュメンタリー映画の地平--世界を批判的に受けとめるために〈上〉』 、2001年1月。ISBN 4773625058
  • 佐藤真『ドキュメンタリー映画の地平--世界を批判的に受けとめるために〈下〉』 凱風社、2001年1月。ISBN 4773625066
  • 今野勉 『テレビの嘘を見破る』 新潮社、2004年10月。ISBN 4106100886
  • 森達也 『ドキュメンタリーは嘘をつく』 草思社、2005年3月22日。ISBN 4794213891
  • 竹林紀雄 『日本映画史叢書5 映画は世界を記録する』(村山匡一郎編)より10章「テレビ・ドキュメンタリーの新しい相貌」 森話社、2006年9月20日。ISBN 4916087674
  • 『現代思想 2007年10月臨時増刊号 総特集=ドキュメンタリー』 青土社、2007年10月。ISBN 479171170X

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ Lexico, documentary, NOUN
  2. ^ [1]A piece of written, printed, or electronic matter that provides information or evidence or that serves as an official record.
  3. ^ 丸山友美「ラジオ・ドキュメンタリー「録音構成」の成立:NHK『街頭録音』と『社会探訪』」『マス・コミュニケーション研究』第95巻、日本マス・コミュニケーション学会、2019年、 143-162頁、 doi:10.24460/mscom.95.0_143ISSN 1341-1306NAID 130007733954
  4. ^ ラジオドキュメンタリーって何だろう 2011.10.18 東京大学大学院情報学環・学際情報学府
  5. ^ a b 森達也 『ドキュメンタリーは嘘をつく』 草思社、2005年3月22日、85-95・160頁。ISBN 4794213891
  6. ^ 被写体となった群衆のなかにリュミエールらが仕込んだ関係者が含まれることは映画における史上最初の演出ともいわれる。
  7. ^ こうした映画では必ずしも現実をありのままに記録しているとは限らず、制作者や体制の思想に沿うように現実が歪曲して描かれる傾向が強い。
  8. ^ 森達也鈴木邦男宮台真司田原総一朗 著、篠田博之 編(日本語) 『映画靖国上映中止をめぐる大議論』(初版)有限会社創出版、東京都、2008年6月23日 (原著2008年4月14日)、58-60頁。ISBN 9784924718883。"「靖国」上映中止問題の〝ねじれ〟4月14日MIC/JCJ主催の集会での講演"。 
  9. ^ [2]Documentary genres
  10. ^ 辻典子本人が出演しているが、一部はフィクションである。

関連項目

大分市

大分市(おおいたし)は、大分県の中部に位置する。大分県の県庁所在地及び最大の都市で、中核市に指定されている。

人口では、大分県内及び東九州(大分県及び宮崎県)で最大、九州では福岡市北九州市熊本市鹿児島市に次ぐ第5位の都市である。

概要

大分県の沿海部のほぼ中央に位置し、大分県の行政・経済・交通の中心地で、大分都市圏の中心地でもある。県内の総人口の42.7%が集中する首位都市であり、これは九州地方の県庁所在地の中では、熊本市(42.7%)と並んで最も高い。人口が微増していた本市も、2017年度には1981年の統計開始以来、初めて減少に転じたが、減少率は県内の市町村の中では最も少ない。現在の市域は、かつて大分郡及び北海部郡(明治初期までは海部郡)に属していた。

古くは豊後国国府が置かれ、府内(ふない)と呼ばれた。中世には大友氏の城下町として発展し、戦国時代にはキリシタン大名大友義鎮(宗麟)の庇護のもと、日本におけるキリスト教布教の中心地となり、南蛮文化が花開いた。

高度経済成長期に、鉄鋼業化学工業などの重化学工業の進出に伴い工業都市として急成長し、近年では電子工業の立地が進んでいる。

地理

瀬戸内海別府湾に面し、東部には南から大野川が、西部には西から大分川が流れ、瀬戸内海に注いでいる。大分川及び大野川が形成した三角州及び沖積平野からなる大分平野と、その周りの丘陵とを抱え、中心市街は、大分川の河口西側に位置する。別府市との境界付近にあってニホンザルで知られる高崎山地区、及び、豊予海峡に浮かぶ高島地区は、瀬戸内海国立公園に指定されている。森林セラピー基地認定地域。

高速道路大分自動車道及び東九州自動車道が市域をほぼ東西に貫通し、一般国道国道10号国道210号等と接続している。

市内の郊外地域ではニュータウンショッピングセンターなどの開発により、人口の増加が著しい。

  • 東端 - 東経131度57分46秒
  • 西端 - 東経131度25分07秒
  • 南端 - 北緯 33度04分11秒
  • 北端 - 北緯 33度17分24秒

気候

瀬戸内海式気候に属し、年間を通じて温暖、少雨である。平均気温は16.8℃、降水量1727.0mm(平年値)。ただし、旧大分郡野津原町地域は障子岳、等の600~800m級の山々が連なり、内陸部への入り口に当たるため内陸性気候に属し、平地より気温が若干低くなる。

  • 気温 - 最高37.8℃(2013年(平成25年)7月24日、最低-7.8℃(1918年(大正7年)2月19日
  • 最大降水量 - 443.7ミリ(1908年(明治41年)8月10日
  • 最大瞬間風速 - 44.3メートル(1999年(平成11年)9月24日
  • 夏日最多日数 - 152日(2005年(平成17年))
  • 真夏日最多日数 - 75日(1990年(平成2年)、2010年(平成22年))
  • 猛暑日最多日数 - 24日(2013年(平成25年))
  • 熱帯夜最多日数 - 35日(2010年(平成22年))
  • 冬日最多日数 - 67日(1918年(大正7年)、1936年(昭和11年))


大分地方気象台(大分市長浜町、標高5m)の気候
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
最高気温記録 °C°F24.6
(76.3)
25.5
(77.9)
29.3
(84.7)
31.2
(88.2)
32.7
(90.9)
35.3
(95.5)
37.8
(100)
37.6
(99.7)
36.5
(97.7)
32.8
(91)
28.0
(82.4)
25.0
(77)
37.8
(100)
平均最高気温 °C°F10.7
(51.3)
11.5
(52.7)
14.6
(58.3)
19.7
(67.5)
24.1
(75.4)
26.5
(79.7)
30.9
(87.6)
32.2
(90)
28.2
(82.8)
23.3
(73.9)
18.1
(64.6)
13.0
(55.4)
21.1
(70)
日平均気温 °C°F6.5
(43.7)
7.2
(45)
10.2
(50.4)
14.8
(58.6)
19.3
(66.7)
22.6
(72.7)
26.8
(80.2)
27.7
(81.9)
24.2
(75.6)
19.1
(66.4)
13.8
(56.8)
8.7
(47.7)
16.8
(62.2)
平均最低気温 °C°F2.6
(36.7)
3.0
(37.4)
5.9
(42.6)
10.3
(50.5)
15.0
(59)
19.3
(66.7)
23.5
(74.3)
24.3
(75.7)
20.9
(69.6)
15.2
(59.4)
9.5
(49.1)
4.6
(40.3)
12.8
(55)
最低気温記録 °C°F−7.3
(18.9)
−7.8
(18)
−5.2
(22.6)
−2.1
(28.2)
1.7
(35.1)
7.2
(45)
14.0
(57.2)
14.1
(57.4)
8.8
(47.8)
2.0
(35.6)
−2.0
(28.4)
−6.1
(21)
−7.8
(18)
降水量 mm (inch)49.8
(1.961)
64.1
(2.524)
99.2
(3.906)
119.7
(4.713)
133.6
(5.26)
313.6
(12.346)
261.3
(10.287)
165.7
(6.524)
255.2
(10.047)
144.8
(5.701)
72.9
(2.87)
47.1
(1.854)
1,727
(67.992)
降雪量 cm (inch)0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
1
(0.4)
平均降水日数 (≥0.5 mm)5.97.710.010.09.714.012.010.611.17.76.95.5111.0
平均降雪日数6.44.61.50.00.00.00.00.00.00.00.14.617.3
湿度62636565687777757470696469
平均月間日照時間149.4149.1175.0190.1194.6135.7180.8202.8151.5164.2148.2151.21,992.4
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1887年-現在)[1][2]


隣接する自治体

地名

歴史

古代

古代には、現在の大分市周辺は大分郡(おほきたのこほり)と呼ばれ、現在の市の中心部からやや南に外れた大分川下流沿い(現在の古国府)に、豊後国国府が置かれたと推測されている。

「大分」の名は、『豊後国風土記』によれば、景行天皇がこの地を訪れた際に「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきたのくに)と名づくべし」と言って名づけたもので、「碩田」が後に「大分」と書かれるようになったとされる。実際には大分平野はさほど広大であるとは言えないため、今日では、景行天皇の言葉は、平野の広大さではなく、多くの田が並ぶ様子を描写したものと解されているが、いずれにしても大分平野に古くから田圃が開けていたことを示すものと言える。

中世

鎌倉時代には大友氏が豊後国守護に任じられ、第3代当主大友頼泰貞応元年(1222年) - 正安2年(1300年))の代に豊後国に下向して土着した。元弘3年(1333年)には豊後国の守護職に任ぜられている。室町時代に入ると、第7代当主大友氏泰は、拠城をわずかに北にずらして大分川河口付近に館を構えた(現在の市の中心部の東側で、顕徳町等にあたる)。これが現在の大分市に連なる城下町のはじまりで、町の名を府内といった。現在の大分市街地中心部に残る「府内町」という地名や「府内5番街」という商店街はこの名残である。

戦国時代の府内は、最盛期には九州の過半を手中に収めた第21代当主大友義鎮(宗麟)のもとで、日本で初めての西洋式の病院が開設されるなど、南蛮文化を受容し栄えた。しかし、大友氏は島津氏等との抗争に敗れて衰退し、府内は1586年天正14年)の島津家久の侵攻(豊薩合戦)によって炎上し壊滅したとされる。近年、大分駅付近の連続立体交差事業および区画整理事業に伴い、大友氏館跡をはじめとする中世から戦国時代にかけての府内の遺跡が発掘され、2001年平成13年)には大友氏館跡として国の史跡に指定されている。

義鎮(宗麟)の跡を継いだ大友義統文禄の役での失態のために改易された後、豊後国は細分され諸侯に封じられた。1597年慶長2年)に府内を封じられた福原直高府内城(大分城)の築城を開始した。

近世

1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いの戦功により府内藩(大分藩)の藩祖となった竹中重利によって府内城は大規模な改修が行われ、1607年(慶長12年)に近世大名の居城としての規模となった。その城下町もまた重利によって整備され、後の繁栄の基となった。

江戸時代の府内は、1712年正徳2年)の調査によると5,591人の人口を擁しており、豊後最大級の城下町であった。

幕末時点では、現在の市域に、府内藩のほか、臼杵藩岡藩延岡藩熊本藩・幕府の領地が存在した。

近代

明治になると府内には大分県の県庁が置かれ、1889年明治22年)の町村制施行により大分町となった。明治の大合併と呼ばれる市町村合併が進む中、1907年(明治40年)に3町村を編入。1911年(明治44年)には市制を施行した。1920年大正9年)の人口は、4万3,150人であった。

戦後・現代

全国の都市の中でも、大分市は高度経済成長期以降に急激に成長した都市のひとつである。

1950年代には大分市の人口は10万人弱で、宮崎市よりもわずかに少なく、九州(沖縄県を除く)では佐賀市に次いで2番目に小さな県庁所在地であった[3]

1960年代(昭和35年頃)からの高度経済成長期に入ると、工業化による地域振興を図り大分地域の発展計画のために新産業都市指定を目指した。人口要件を満たすために1963年(昭和38年)に鶴崎市大南町などとの大合併(新設)に踏みきり、1964年(昭和39年)1月に新産業都市に指定されると、沿岸部に新日鉄などの大工場が進出した。それまでの鄙びた小都市から九州を代表する工業都市へと急速に開発が進み、大分市は「新産都の優等生」と呼ばれた。

人口も1960年代以降急激に増加し、1963年(昭和38年)の合併時には21万人であった人口が1970年(昭和45年)には26万人、1980年代には36万人、1990年代には40万人を突破し、ほぼ倍増するという著しい増加を見せた。周辺部の丘陵地帯には次々に大規模な住宅団地が造成され、城南団地明野団地敷戸団地などのニュータウンスプロール化して連なる特異な郊外環境が誕生した[4]

新産業都市としての発展にともない、1970年代には長崎屋ダイエーニチイジャスコ西友など関東・関西資本の大型スーパーが大分駅前に多数進出し、地場百貨店のトキハなどとともに九州では珍しい首都圏の郊外都市のような駅前型の繁華街が形成された。しかし、その後、商業のドーナツ化が進み郊外ではショッピングモールが開発された一方、2009年までに中心部の大型スーパーはすべてが業態転換または撤退[5]。中心部では、大分駅の高架化に伴い2015年(平成27年)春にアミュプラザおおいたが開業している。

1997年(平成9年)4月1日には中核市に指定されている。

平成の大合併では、2005年(平成17年)1月1日、佐賀関町及び野津原町が大分市に編入された。

市政

市長

歴代市長[6]
氏名就任日退任日備考
官選旧大分市長
11911年(明治44年)7月26日1917年(大正6年)7月25日
2三浦数平1917年(大正6年)8月9日1926年(大正15年)2月6日
31926年(大正15年)4月23日1929年(昭和4年)4月10日
41929年(昭和4年)7月11日1932年(昭和7年)6月8日
5高田保1932年(昭和7年)6月20日1933年(昭和8年)6月29日
61933年(昭和8年)12月23日1937年(昭和12年)12月22日
7小野廉1938年(昭和13年)6月16日1942年(昭和17年)6月15日
8高田保1942年(昭和17年)7月1日1944年(昭和19年)5月2日
9武藤一彦1944年(昭和19年)6月24日1945年(昭和20年)3月31日
10三好一1945年(昭和20年)4月1日1945年(昭和20年)10月9日
11木下郁1945年(昭和21年)1947年(昭和22年)
公選旧大分市長
12上田保1947年(昭和22年)4月7日1963年(昭和38年)3月9日
大分市長
1安東玉彦1963年(昭和38年)3月1975年(昭和50年)4月
2佐藤益美1975年(昭和50年)4月1991年(平成3年)4月
3木下敬之助1991年(平成3年)4月2003年(平成15年)4月
4釘宮磐2003年(平成15年)4月2015年(平成27年)3月2日
5佐藤樹一郎2015年(平成27年)4月26日

議会

市議会

  • 定数:44名
  • 議長:野尻哲雄(自由民主党)[7]
  • 副議長:髙野博幸(社会民主クラブ)[7]
  • 任期:2017年(平成29年)3月10日 - 2021年(令和3年)3月9日
会派名議席数所属党派
自由民主党16
社会民主クラブ8
公明党6
新市民クラブ5
おおいた民主クラブ3
日本共産党3
新政クラブ2
無所属1

大分県議会(大分市選挙区)

  • 定数:13名
  • 任期:2019年(平成31年)4月30日 - 2023年(令和5年)4月29日
議員名会派名備考
衛藤博昭自由民主党
麻生栄作自由民主党
阿部英仁自由民主党
平岩淳子県民クラブ党籍は社会民主党
木田昇県民クラブ党籍は無所属
河野成司公明党
守永信幸県民クラブ党籍は社会民主党
吉村哲彦公明党
堤栄三日本共産党
後藤慎太郎県民クラブ党籍は社会民主党
藤田正道県民クラブ党籍は国民民主党
小嶋秀行県民クラブ党籍は国民民主党
浦野英樹県民クラブ党籍は立憲民主党

衆議院

選挙区議員名党派名当選回数備考
大分県第1区(旧佐賀関町野津原町域を除く大分市)吉良州司無所属6選挙区
大分県第2区(旧佐賀関町・野津原町の大分市など)衛藤征士郎自由民主党14選挙区
吉川元立憲民主党4比例復活

行政区域の変遷

  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、以下の各町村が発足する。
    • 大分郡大分町・西大分町・鶴崎町・別保(べっぽ)村・三佐(みさ)村・桃園村・松岡村・高田村・明治村・荏隈(えのくま)村・豊府(ほうふ)村・東大分村・八幡村・日岡村・戸次(へつぎ)村・判田村・河原内(かわらうち)村・竹中村・吉野村・稙田(わさだ)村・東稙田村・西稙田村・賀来(かく)村・諏訪村・野津原村
    • 北海部郡佐賀関町・川添村・一尺屋(いっしゃくや)村・大志生木(おおじうき)村・神馬木村・佐加村・市村・小佐井村(こざい)・丹生(にう)村・西大在(にしおおざい)村・東大在村
    • 大野郡今市村
  • 1892年(明治25年)10月28日 - 佐加村が佐賀村と改称する。
  • 1907年(明治40年)4月1日
    • 大分町が西大分町・荏隈村・豊府村を編入する。
    • 河原内村を竹中村に編入する。
    • 西稙田村を稙田村に編入する。
    • 諏訪村を野津原村に編入する。
  • 1907年(明治40年)6月1日 - 西大在村と東大在村が合併(新設合併)し、大在村となる。
  • 1907年(明治40年)7月1日
    • 佐賀村と市村が合併(新設合併)し、佐賀市村となる。
    • 大志生木村と神馬木村が合併(新設合併)し、神崎村となる。
  • 1911年(明治44年)4月1日 - 大分町が市制施行し、大分市となる。
  • 1920年(大正9年)1月1日 - 佐賀市村が町制施行し、坂ノ市町となる。
  • 1921年(大正10年)1月1日 - 戸次村が町制施行し、戸次町となる。
  • 1922年(大正11年) - 東大分村のうち、大分川左岸の地域(中島裏・弁天島)を編入する[9]
  • 1938年(昭和13年)4月1日 - 別保村を鶴崎町に編入する。
  • 1939年(昭和14年)8月15日 - 八幡村・滝尾村・東大分村を編入する。
  • 1941年(昭和16年)11月3日 - 小佐井村・丹生村を坂ノ市町に編入する。
  • 1943年(昭和18年)4月1日 - 三佐村を鶴崎町に編入する。
  • 1943年(昭和18年)11月11日 - 日岡村を編入する。
  • 1944年(昭和19年)2月11日 - 桃園村を鶴崎町に編入する。
  • 1950年(昭和25年)1月1日 - 川添村・今市村の所属郡を大分郡に変更する。
  • 1954年(昭和29年)3月31日
    • 鶴崎町・松岡村・高田村・明治村・川添村が合併(新設合併)、同時に市制施行し、鶴崎市となる。
    • 戸次町・判田村・竹中村・吉野村が合併(新設合併)し、大南町となる。
  • 1955年(昭和30年)1月1日
    • 佐賀関町・神崎村・一尺屋村が合併(新設合併)し、新たに佐賀関町となる。
    • 東稙田村の一部・賀来村の一部を編入する。
  • 1955年(昭和30年)2月1日 - 稙田村・東稙田村・賀来村が合併(新設合併)し、大分村となる。
  • 1955年(昭和30年)3月31日 - 今市村を野津原村に編入する。
  • 1955年(昭和30年)7月1日 - 鶴崎市の一部、挾間町の一部を編入する[10]
  • 1957年(昭和32年)4月1日 - 大分村が町制施行し、大分町となる。同日、一部地域が分離され、挾間町に編入される。
  • 1959年(昭和34年)2月1日 - 野津原村が町制施行し、野津原町となる。
  • 1963年(昭和38年)3月10日 - 大分市・鶴崎市・大分町・大南町・大在村・坂ノ市町が合併(新設合併)し、新たに大分市となる。
  • 2005年(平成17年)1月1日 - 北海部郡佐賀関町・大分郡野津原町を編入する。

公共機関

国の出先機関

警察庁

総務省

法務省

財務省

厚生労働省

  • 大分労働局
    • (ハローワーク大分)
      • OASISひろば21職業相談窓口[11]
  • 大分・佐賀関出張所

農林水産省

国土交通省

防衛省

裁判所

県の行政機関

経済

大分市の市内総生産は約1兆9千億円と、大分県の総生産の46.8%を占めている[13]。産業別に見ると、第2次産業の総生産が31.3%と、日本全体(国内総生産)での26.2%(2015年)[14]に比べ高い比率を占めている。

産業別総生産(カッコ内は構成比。平成24年度 大分の市町村民経済計算(大分県)より)[13]

事業所数(産業(大分類)別事業所数上位5位まで。カッコ内は構成比。2014年経済センサス基礎調査より)[15]

  1. 卸売・小売業 - 5,256 (25.8%)
  2. 宿泊業、飲食サービス業 - 2,541 (12.5%)
  3. 建設業 - 2,001 (9.8%)
  4. 生活関連サービス業、娯楽業 - 1,896 (9.3%)
  5. 医療、福祉 - 1,664 (8.2%)

産業人口(産業(大分類)別就業者数上位5位まで。カッコ内は構成比。2010年国勢調査報告より)[15]

  1. 卸売・小売業 - 39,987人 (18.1%)
  2. 製造業 - 27,556人 (12.5%)
  3. 医療、福祉 - 27,298人 (12.4%)
  4. 建設業 - 21,832人 (9.9%)
  5. サービス業(他に分類されないもの) - 13,412人 (6.1%)

農林水産業

主要農産物生産量(2015年(平成27年))[15]

  1. 水稲 - 7,755トン
  2. にら - 1,821トン
  3. みつば - 649トン
  4. 温州みかん - 600トン
  5. おおば - 544トン

畜産物生産数(2015年度(平成27年度))[15]

工業

1964年(昭和39年)に新産業都市の指定を受け、鉄鋼、化学、石油等基礎素材産業が進出したことにより、大分臨海工業地帯を中核に工業都市へと発展した。近年では、集積回路等の加工組立産業が進出するとともに、物流団地の整備、地域輸入促進計画のもと大分港大在コンテナターミナルが設置され、物流の拠点としても成長を続けている。2014年(平成26年)の製造品出荷額等は約3.1兆円で、全国の市町村で11位に位置する[16]

また、メガソーラーの進出が進んでおり、2014年(平成26年)4月末時点の太陽光発電の発電容量(10kW以上の太陽光発電設備の合計)は130,288kWで、全国の市町村で1位となっている[17][18]

製造品出荷額等(2014年(平成26年)。産業(中分類)別製造品等出荷額上位5位まで。)[15]

  1. 石油製品・石炭製品 - 74,887,039万円
  2. 化学 - 60,050,403万円
  3. 鉄鋼業 - 56,791,479万円
  4. 非鉄金属 - 55,849,724万円
  5. 電子部品・デバイス・電子回路 - 17,977,543万円

商業

大分駅北側には、九州では珍しい駅前型の繁華街が広がっており、大型店のほか、アーケード商店街のセントポルタ中央町及びガレリア竹町が位置している。近年、中心部の大型小売店舗が閉鎖する一方、郊外でショッピングモールが開発されている。

市内に拠点のある主要企業

市内に本社を置く主要企業

建設・製造業
卸売業
小売業・飲食業
電気
情報通信業
金融機関

銀行

協同組織金融機関

信販会社

その他金融

サービス

市内に拠点事業所等のある主要企業

建設・製造業
電気
金融機関

銀行

信託銀行

政策金融機関

協同組織金融機関

姉妹都市・提携都市

姉妹都市・友好都市・交流促進都市は以下の通り[20]

日本国内

1966年10月26日に東亜国内航空(当時)が羽田-大分線と羽田-帯広線を同時に開設したことを機に空港姉妹都市として提携[21][22]

日本国外

大友義鎮(宗麟)の時代からのポルトガルとの交流の縁[24]。1977年、大分日本ポルトガル協会が設立された際に、ペドロ・マディラ・デ・アンドラーデ前駐日ポルトガル大使が仲介となり、アヴェイロ市との姉妹都市提携が進められた[23]
大分県とテキサス州の交流が活発であった(1985年に別府市ボーモント市が姉妹都市提携、1987年に湯布院町で第14回日本・テキサス会議開催、など)ことに加え[23][26]、オースチン市と大分市が産業・文化面で類似する(半導体産業など)ことから[25]
1974年以後、武漢鉄鋼コンビナート(武漢鋼鉄公司)の設備近代化を新日本製鐵大分製鐵所(現在の新日鐵住金大分製鐵所)が中心となって指導し[23]、双方の技術者が往来したことが契機[27]
にともに参加していることが縁[28]

地域

人口

Demography44201.svg
大分市と全国の年齢別人口分布(2005年)大分市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 大分市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性

大分市(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より

県内人口占有率は2005年国勢調査で38.22%、2010年調査で39.62%、2012年2月1日付の大分県の人口推計で40%を突破するなど、顕著に集積が進んでいる。

教育

学校名等は基本的に五十音順

小学校

国立

公立

中学校

国立

県立

市立

私立

高等学校

県立

私立

高等専門学校

国立

短期大学

公立

私立

大学

国公立大学

  • 大分大学
    • 旦野原キャンパス(事務局、教育学部・教育福祉科学部、経済学部、理工学部等)
    • 王子キャンパス(附属学校(幼、小、中、特別支援)、附属教育実践総合センター)
    • 挾間キャンパス(医学部 医学科/看護学科・附属病院等)
  • 大分県立看護科学大学

私立大学

特別支援学校

国立

公立

学校教育以外の施設

公共職業能力開発施設

社会教育施設

文化施設

スポーツ関連施設

歴史施設

研修施設

交通

空港

最寄の空港は大分空港(大分県国東市)。

鉄道路線

なお、1900年から1972年まで、別府市との間に市電(路面電車大分交通別大線(旧豊州電気鉄道)が運行していた。当路線は九州地方では初の路面電車である。

路線バス

  • 大分バス - 大分市内のバス路線の多くを運行する。大分市以南の竹田市・臼杵市・佐伯市と大分市を結ぶ路線がある。
  • 大分交通 - 別大国道を経由し、大分市以北の別府市・日出町国東市と大分市を結ぶ路線を運行する。大分駅の北側や、市域北西部などに市内路線もある。

高速バス・特急バス

航路

道路

高速道路・有料道路

一般国道

県道

その他の主要地方道及び一般県道については、大分県の県道一覧参照。

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

主な史跡・旧跡等

観光

祭り

スポーツ

スポーツチーム

かつて拠点を置いたスポーツチーム

スポーツ関連の大会・試合

出身有名人

政治

経済界

法曹

学術

芸術

スポーツ

野球

(球団名は最終所属球団)

サッカー

J3リーグ以上のカテゴリのクラブに在籍経験がある選手のみ記載する。

その他

芸能

音楽

俳優

お笑い

その他

マスコミ

大分市を舞台とした作品

小説
漫画
映画
ゲーム
  • Fate/stay night奈須きのこ、2004年- ) - 作中の舞台となる冬木市には大分県大分市をモデルに描かれたことが示唆される部分がある。

不祥事

大分市が2019年6月に発行した広報誌「6月1日号」において、大分ゆかりの戦国武将を紹介するため掲載したイラストが、「信長の野望シリーズ」のキャラクターのデザインと酷似していることが、2020年5月に明らかになった。酷似していたのは、立花道雪・高橋紹運・立花宗茂・立花誾千代の4人であった。また、4人のイラストは同市発行の観光ガイドブックにも使用されていた模様である。ゲームの運営主体のコーエーテクモゲームスは、「信長の野望シリーズに登場するキャラクターを参考にしていることは明らかだ」としており、広報誌の制作を委託した印刷会社の担当デザイナーが「ゲーム画像を参考にした」と認めた。ただコーエーテクモゲームスは、これらのイラストは非営利で配布されていることも踏まえ、市に対し謝罪や回収は要求しないとしている[32]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 東京都新宿区との2本社制。

出典

  1. ^ 平年値ダウンロード”. 気象庁. 2021年6月閲覧。
  2. ^ 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値)”. 気象庁. 2021年6月閲覧。
  3. ^ 石黒正紀、「戦後における九州地方の人口構造変化」『福岡教育大学紀要,第二分冊,社会科編』 2006年 第55号 p.1-8, 福岡教育大学
  4. ^ レファレンス事例集 大分県内の(住宅)団地開発について 大分県立図書館
  5. ^ a b デパート 商店街とデパートの競争”. 大分歴史事典. 大分放送. 2002年2月19日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2019年5月27日閲覧。
  6. ^ 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第3巻、歴代知事編纂会、1985年。『朝日新聞』。
  7. ^ a b 正副議長が就任しました 大分市
  8. ^ 会派とは 大分市
  9. ^ 大分今昔(7)中島かいわい (PDF)”. 大分合同新聞. 2018年4月14日閲覧。
  10. ^ 大分市報 昭和30年7月1日号 (PDF)
  11. ^ OASISひろば21職業相談窓口 厚生労働省大分労働局
  12. ^ 大分家畜保健衛生所 - 大分県
  13. ^ a b 大分市総合計画「おおいた創造ビジョン2024」基本計画総論 (PDF) 大分市、2016年6月
  14. ^ 年次推計主要計数 4.生産 (PDF) 内閣府
  15. ^ a b c d e 統計年鑑(平成28年版) 大分市
  16. ^ 第2次大分市商工業振興計画 資料編 3.データでみる本市商工業の現況 (PDF) 大分市
  17. ^ 太陽光発電:大分市がナンバー1 13万キロワット - ウェイバックマシン(2014年8月13日アーカイブ分) 毎日新聞、2014年8月12日
  18. ^ 太陽光発電導入件数日本一!! 浜松市
  19. ^ “100億企業 3社増 16年度”. 大分合同新聞. (2017年10月6日). オリジナルの2017年10月5日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171005222221/https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2017/10/06/JD0056213592 (以下の売上高順位もこの記事に基づく)
  20. ^ 姉妹都市・友好都市・交流促進都市”. 大分市. 2016年3月27日閲覧。
  21. ^ a b 《姉妹都市》帯広市”. 大分市. 2016年3月27日閲覧。
  22. ^ a b c 国内姉妹都市紹介”. 帯広市. 2016年3月27日閲覧。
  23. ^ a b c d e f 姉妹(友好)提携情報”. 自治体国際化協会. 2012年10月27日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2016年3月27日閲覧。
  24. ^ a b 《姉妹都市》アベイロ市”. 大分市. 2016年3月27日閲覧。
  25. ^ a b 《姉妹都市》オースチン市”. 大分市. 2016年3月27日閲覧。
  26. ^ アメリカ合衆国”. 国際一村一品交流協会. 2016年3月27日閲覧。
  27. ^ a b 《友好都市》武漢市”. 大分市. 2016年3月27日閲覧。
  28. ^ a b 《交流促進都市》広州市”. 大分市. 2016年3月27日閲覧。
  29. ^ 関あじ・関さばまつり”. 2020年10月10日閲覧。
  30. ^ <中止>関あじ・関さばまつり”. 2020年10月10日閲覧。
  31. ^ “衛藤美彩 ミスマガンGP ふるさとPRしたい”. 大分合同新聞 夕刊 第40351号 (大分合同新聞社). (2011年7月13日) 
  32. ^ 大分市広報誌キャラ、「信長の野望」と酷似 著作権侵害疑い 毎日新聞 2020年5月10日

外部リンク


 

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