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⚽|ドイツで復活のアンヘリーノ「グアルディオラ監督、もうたくさん」


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ドイツで復活のアンヘリーノ「グアルディオラ監督、もうたくさん」

 
内容をざっくり書くと
いくつかのローン移籍を経てPSVアイントホーフェンへと放出されたが、オランダでの活躍を受けてシティに買い戻されるという経験をした選手だ。
 

16歳でマンチェスター・シティに加入したDFアンヘリーノ。いくつかのローン移籍を経てPSVアイントホ… →このまま続きを読む

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期限付き移籍

期限付き移籍(きげんつきいせき)は、サッカーなどのプロスポーツにおいて、選手が現在所属しているクラブとの契約を保持したまま、期間を定めて他のクラブへ移籍する制度。英語ではloan deal(ローン取引)と言う。なお、日本のメディアではしばしば『レンタル移籍』という表現が用いられるがrentalは動産・不動産など物を対象とした貸与に使用される言葉であり英語では人を対象とした移籍にrentalは用いられない。

期限付き移籍では、通常の移籍(完全移籍)にしばしば見られる移籍金が発生しない代わりに、移籍先のクラブから移籍元のクラブに対して貸与料を支払う、選手報酬の支払いを肩代わりするという形態が一般的である。

利点・欠点

利点

  • 移籍先チームの立場では、高額の移籍金を支払うリスクを避けつつ戦力を補充できる。特に資金力の乏しいクラブは期限付き移籍を多用する傾向がある。
  • 選手の立場では、出場機会の増加が見込める。また移籍先クラブと選手の双方にとって、期限付き移籍は一種の「試行期間」であり、期限付き移籍先のクラブでの活躍が認められて、後に完全移籍するケースも多々ある。なお、将来的な完全移籍を前提としている場合、期限付き移籍の際に定めた移籍金を支払えば完全移籍に変更できるという契約を結ぶケースがあり、報道などでは「買取オプション」と表現される。
  • 移籍元クラブの立場では、出場機会を与えづらい若手選手に試合経験を積ませることができる。
  • 余剰戦力となっている、あるいはクラブに合わない外国籍選手を期限付き移籍させることによって外国人枠を空け、新たな外国籍選手を獲得することができる。

欠点

  • 選手は移籍元クラブとの契約を維持しているため、仮に選手が活躍して名声を上げた場合にも移籍先クラブの潜在的財産とはならない。また、移籍元と移籍先が同じリーグの場合、移籍元のクラブとの対戦では契約により出場できず戦力にならないこともある。
  • 活躍しても移籍元クラブの意向に左右され、原則として元のクラブに戻るため、期限付き移籍による戦力補強を多用したクラブは期限付き移籍期間終了後に戦力ダウンとなる。
  • 毎年レンタル移籍を繰り返すリスクが伴うため、いわゆる「たらい回し」状態になりやすく一つのクラブに長く在籍するケースが少ない。

日本サッカー協会の期限付き移籍制度

日本サッカー協会ではJリーグおよびJFL旧JFL含む)所属のプロサッカー選手について、期限付き移籍制度を定めている。期限付き移籍がJFAの定める正式な名称であるが、レンタル移籍という用語も同義として一般に用いられる。

期限付き移籍の場合、まず移籍元クラブ、移籍先クラブ、および選手の3者が合意に基づいて期限付き移籍契約を結ぶ。この際、移籍金は「移籍元クラブと移籍先クラブの合意による」と規定されているが、慣例としては発生しない。これに続いて、選手は移籍先クラブとの間に選手契約を結ぶが、契約の諸条件は原則として移籍元クラブとの契約条件と同じでなければならない。また、選手は移籍先クラブのA契約25名枠に含まれることとなる。

期限付き移籍期間が終了した場合、選手は自動的に移籍元クラブに再移籍する。ただし、3者の合意により期限付き移籍の延長や完全移籍に変更することも可能である。完全移籍に移行する場合、移籍元クラブに契約延長の意思がある場合には移籍金が発生するが、この場合年齢係数が半分になり通常の完全移籍より金額は低くなる。また、移籍元クラブが契約を延長しない場合には移籍金が発生しない。

期限付き移籍期間における契約の解除については規定がなく、両クラブの事情などを勘案し3者間の交渉によって解除を決定することになる。

2013年シーズンから、「移籍元クラブとの試合には出場できない」などの出場制限契約を結んでいる場合、条件を公表することが義務付けられた。

Jリーグでは1994年からこの制度が導入された。適用第1号は当時ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)に在籍していた菊原志郎で、浦和レッズに1年間の期限付きで期限付き移籍した。その後も多くの選手が期限付き移籍によって活躍の場を得ており、現在では移籍の一手段として完全に定着している。

セレッソ大阪からスペイン・マジョルカへ移籍した大久保嘉人京都パープルサンガからフランス・ルマンへ移籍した松井大輔FC東京からイタリア・チェゼーナへ移籍した長友佑都など、海外のクラブに移籍する選手が、移籍最初のシーズンは完全移籍ではなく期限付き移籍で移籍し、実績を挙げれば完全移籍に移行する事例も多い。

育成型期限付き移籍

18-23歳の選手が所属クラブより下位カテゴリ所属クラブ(例:所属元がJ1クラブの選手はJ2以下)へ移籍する場合に限り、移籍期限外での期限付き移籍を可能にする「育成型期限付き移籍」を2013年シーズンから試験導入した。

これを導入した背景について、日本サッカー協会は、2016年に再開されたトップチームの若手育成大会「Jサテライトリーグ」が2009年に廃止されたことによって、若手選手の実践機会が大幅に減ってきていることから、より多くの公式戦への出場機会を提供し実践を積むことを念頭に置いている。2013年は試験導入としており、2014年以後は2013年の試験導入の結果などを踏まえて判断するとしていた[1]

なお、J3リーグ発足当初の2014年から2015年において、J2以上に所属するクラブに在籍する選手でトップチームの出場機会が少ない選手を対象として編成されていた「JリーグU-22」については、期限付き移籍のルールとは別に、各試合ごとに各クラブから無作為で選手を選抜する方式がとられ、事実上所属クラブとU-22の「二重登録」としていたが、U-22の累積警告・退場は所属元クラブへは反映しないことになっていた。また、2016年から参加が認められた各クラブ単位のU-23チームについても、これらの期限付き移籍とは別に、トップチームとの明確な選手登録の線引き・区分けはしないで、プロ野球と同じように一つのチームでトップとU-23を自由に選手登録ができるようにする方式が計画されている。背番号はトップ・U-23同じでも、別々でもよいことになっているが、シーズン途中の変更は禁止されている。

その他

世界のサッカー界においては、日本での導入以前から期限付き移籍は広く行われてきた。ヨーロッパではその他の一部スポーツでも、期限付き移籍が導入されている。

日本では上述のサッカーに加え、アイスホッケーバレーボールラグビーにおいて期限付き移籍制度が導入されている。プロレスにおいては団体同士の交渉によって期限付き移籍となることがある。

また、現在野球協約の規定で行えないプロ野球でも、同様の制度を国内で導入する検討が行われている。なお、日本のプロ野球ではかつて、一部の球団で「野球留学」という名目で、任意引退の扱いで日本国内の球団が選手の所有権利を持ちながら大リーグ傘下のマイナーリーグでプレーする、期限付き移籍に近い概念の選手がいたが、1998年11月の野球協約第68条第2項の改正により、任意引退の制度を利用した海外移籍は禁止された。また、国内でも他球団に移籍後、短期間で元の球団に復帰した事例が(小林誠二入来智など)、事実上の期限付き移籍ととらえられた。 2012年より育成選手独立リーグへの「派遣」という名目の期限付き移籍が認められた[2]

2011年にはプロバスケットボールのbjリーグにおいて東日本大震災の影響で活動休止となった3球団(仙台埼玉東京)の選手を救済する目的で緊急導入され、2013年に発足したNBL、そのNBLとbjリーグが統合したBリーグにおいて本格導入されている。

アメリカのプロスポーツ界においては、選手の労働組合との兼ね合いやフリーエージェント制度などとの関連もあり、期限付き移籍制度は導入されていない。

スポーツ業界以外では、日本の防衛省が民間企業の社員研修をかねて、民間企業の社員を2年から3年ほど防衛省に期限付き移籍させる、「任期制自衛官」制度の設立を検討していると報じられた(防衛省、人材確保に民間からの「レンタル移籍制度」(読売新聞)より参照)。

出典

[脚注の使い方]
  1. ^ サッカー協会:「育成型期限付き移籍」試験的に導入へ(毎日新聞2012年11月23日 2014年3月10日閲覧)
  2. ^ “独立リーグが果たすべき役割とは 求められるNPBとの連携強化”. 東奥日報. (2012年8月31日). http://www.toonippo.co.jp/news_kyo/entertainment/20120831010023821.asp 2015年4月21日閲覧。 

関連項目

PSVアイントホーフェン

PSVアイントホーフェンPSV Eindhoven、正式名称: Philips Sport Vereniging, オランダ語発音: [ˈfi.lɪps ˌspɔrt fə.ˌreː.nə.ɣɪŋ])は、オランダアイントホーフェンに本拠地を置くスポーツクラブである。最もよく知られているのはサッカー部門であり、エールディヴィジ(1部)に所属している。単にPSVとも表記され、オランダ語発音をカタカナ表記すると、ペー・エス・フェーとなる。アイントホーフェンに本社を持つフィリップス(電機メーカー)の企業クラブとして創設され、2016年までメインスポンサーだったが経営面には立ち入らなかった[1]。株式公開会社(NV)だが上場せず、匿名の出資者に支えられている[1]

概要

1913年創設。エールディヴィジでは22回、KNVBカップでは9回、ヨハン・クライフ・スハールでは9回優勝している。アヤックスフェイエノールトとともに、UEFAチャンピオンズカップの優勝経験があるオランダの3大クラブのひとつである。1987-88シーズンの同大会では決勝でSLベンフィカ(ポルトガル)を破って優勝し、同時にエールディヴィジとKNVBカップも含めたトレブル(3冠)も達成した。1977-78シーズンにはUEFAカップで決勝に進出し、SCバスティア(フランス)を破って優勝した。

「ブーレン (Boeren, オランダ語発音: [ˈbuːrə(n)], オランダ語で百姓) 」というニックネームがある。アイントホーフェンはアムステルダムロッテルダムなどの都会から遠く離れた地方にあるため、当初はライバルクラブのサポーターが侮蔑的な意味合いで用いていたが、PSVのサポーターはブラバンティアン文化に対する誇りから、進んでこのニックネームを用いている。ユニフォームには北ブラバント州旗がデザインされており、スタジアム周辺にも州旗が掲げられている。ホームスタジアムは35,000人収容のフィリップス・スタディオンであり、アイントホーフェン市のストレイプ地区に位置する。

歴史

フィリップスとの関係

フィリップスの創業者であるヘラルト・フィリップスとヘラルトの弟であるアントン・フィリップスがクラブの設立を命じ、フィリップス系列各社の企業チームとして歴史が始まった。設立日は1913年8月31日であり、オランダの独立(ナポレオン戦争でのフランスの敗北)から100周年を記念して行なわれたフィリップス主催のスポーツ大会後に設立された(公式サイト)。クラブ創設と同時に、ホームスタジアムとしてフィリップス・スポルトパルクが建設された。このようにクラブ設立にフィリップスが密接にかかわっていたため、「胸スポンサー」の概念がエールディヴィジに導入された1982年以降は2016年まで例外なくフィリップスが胸スポンサーを務め、これはオランダの最長記録となっている。

1960年代以前

オランダサッカーリーグ選手権(エールディヴィジの前身となるアマチュアリーグ)が創設されたのは1888年であるが、PSVは1915年に初参戦した。10年間は下部リーグでプレーしていたが、1926年にトップリーグに初昇格し、AFCアヤックス(1917-18シーズンに初優勝)やフェイエノールト(1923-24シーズンに初優勝)に遅れて、1928-29シーズンにトップリーグ初優勝を果たした。1934-35シーズンには2度目の優勝を果たしたが、この時期のアヤックスやフェイエノールトは強豪としての地位を固めており、1930年代にはアヤックスが5回、フェイエノールトが3回優勝している。1949-50シーズンにはKNVBカップで初優勝し、1950-51シーズンにはリーグ戦で16年ぶり3回目の優勝を果たした。1950年代にはがエースとして活躍し、328試合出場288得点という驚きべき得点率を誇った。エールディヴィジが開始された1956-57シーズンのディレンは43得点を挙げているが、これは現在でも個人の1シーズン最多得点記録である。1962-63シーズンにはオランダリーグがプロ化されてから初めてのリーグ優勝を果たした。1960年代から1970年代にはヴィリー・ファン・デル・カイレンが活躍し、通算308得点を挙げてディレンの記録を塗り替えたが、これは現在でもオランダ記録となっている。この時代は給料面で他クラブに対して劣勢であり、才能ある選手たちにとってはPSVがプロとしての飛躍のための踏み台となった。

黄金期 (1970年代後半 - 1980年代後半)

1960年代半ばから1970年代初頭にはタイトルから遠ざかっていたが、1972年に監督が就任すると、1973-74シーズンのKNVBカップで24年ぶり2回目の優勝を果たし、1970年代中頃から後半にかけてPSVは1度目の黄金期を迎えた。ベテランのカイレン、ウィリーレネのケルクホフ兄弟(双子)、キーパーのヤン・ファン・ベベレン、若手ディフェンダーのやや、ストライカーの、ディフェンダーののような質の高い選手に牽引され、KNVBカップ優勝2回、エールディヴィジ優勝3回を果たした。1974-75シーズンと1975-76シーズンにはクラブ初のリーグ戦2連覇を達成し、1977-78シーズンのUEFAカップでは、準々決勝で1.FCマクデブルク(西ドイツ)を、準決勝でFCバルセロナ(スペイン)を下し、決勝でSCバスティア(フランス)を2試合合計3-0で破って優勝。初の欧州タイトルを獲得した[2]。オランダのクラブとしては1973-74シーズンに優勝したフェイエノールトに次ぐ2チーム目のUEFAカップ王者となった。1979年にはレイヴェルス監督が退任し、再びタイトルから遠ざかった。

1983年には監督が就任し、ルート・フリットエリック・ヘレツなどが在籍していた1985-86シーズンのリーグ戦で8年ぶり8回目の優勝を果たした。監督を間に挟み、1987年にフース・ヒディンク監督が就任すると、1988-89シーズンまでリーグ戦4連覇を達成した。ヘレツ、ロナルド・クーマンセーレン・レアビーウィム・キーフトなどの選手がチームを構成し、1987-88シーズンのUEFAチャンピオンズカップではクラブ史上初めて決勝に進出。決勝のSLベンフィカ戦は0-0で決着がつかずにPK戦に突入し、PK戦では両クラブとも5人ずつがPKを成功させたが、キーパーのハンス・ファン・ブレーケレンがベンフィカの6人目ののキックをセーブして初優勝を決めた[3]。準々決勝のFCジロンダン・ボルドー(フランス)戦は2試合とも引き分けであり、準決勝のレアル・マドリード(スペイン)戦も2試合ともに引き分けたが、アウェーゴール差で勝ち上がっていた。奇妙なことに、優勝したPSVは準々決勝からの5試合で1勝もできず、通算でも3勝5分1敗の成績だった。同シーズンはエールディヴィジ、KNVBカップ、UEFAチャンピオンズカップの3冠を達成したが、1988年末に行なわれたインターコンチネンタルカップではコパ・リベルタドーレス王者のナシオナル・モンテビデオ(ウルグアイ)と対戦し、試合自体は2-2の引き分けだったがPK戦の末に敗れた。ヒディンク政権下ではエールディヴィジで3回、KNVBカップで3回、UEFAチャンピオンズカップで1回優勝した。

1987-88シーズンのUEFAチャンピオンズカップ決勝

ロマーリオ、ロナウド、ニリス (1990年代)

1990年にはヒディンク監督が退任し、イングランド代表監督を務めたボビー・ロブソン監督が就任。1990-91シーズンと1991-92シーズンにはリーグ戦2連覇を果たしたが、欧州カップ戦では経営陣が期待したほどの成績を残せず、ロブソン監督は1991-92シーズン終了後に退任した[4]。ヒディンク政権下の1988年にはのスカウトによってロマーリオが加入して主力選手となっていたが、ロブソン監督はロマーリオとの関係に問題を抱えていた。ロマーリオは1993年までクラブに在籍し、3個のタイトルをもたらした。ロブソンの後任には監督が就任し、1992-93シーズンのリーグ戦では2位となった。1992-93シーズンにはUEFAチャンピオンズカップが大会形式を変更してUEFAチャンピオンズリーグとなったが、PSVは本選に出場した8クラブのうちのひとつである。1993-94シーズンはア・デ・モス監督が指揮を執り、ゲオルゲ・ポペスクニイ・ランプティアーサー・ニューマンなどの名選手がいたが3位に終わった。シーズン終了後にはブレーケレンが引退。ブレーケレンは10シーズンの間PSVのゴールを守り、クラブ史上最高のキーパーのひとりとみなされている。1994年夏にはロナルト・ヴァーテリュースとのふたりのキーパーが加入してポジションを争い、より若いワテレースがポジションを掴んだ。デ・モス監督は1994年10月に解任され、監督が暫定的にチームを指揮した後、12月にディック・アドフォカートが正式な監督に就任した。1994年夏に加入したロナウドは1994-95シーズンに30得点を挙げ、同じく新加入のルク・ニリスとコンビを組んだが、アヤックスとローダJCに次ぐ3位に終わった。1995-96シーズンはプレーの質を向上させて2位となり、UEFAカップでは準々決勝に進出。バルセロナに敗れた。守備的ミッドフィールダーのウィム・ヨンク、ニリス、ニューマン、センターバックのヤープ・スタムフィリップ・コクー、若手のボウデヴィン・ゼンデンなどが在籍していた1996-97シーズンには5年ぶりにリーグ優勝した。21得点を挙げたニリスがリーグ得点王となり、オランダ年間最優秀選手賞を受賞した。1997-98シーズンはアヤックスのシーズンとして記憶されており、ニリスとのベルギー人コンビが多くの得点を挙げたが、リーグ戦でもKNVBカップ決勝でもアヤックスに敗れた。UEFAチャンピオンズリーグでは1992-93シーズン以来となる本選に出場し、ニューカッスル・ユナイテッドFC(イングランド)とFCバルセロナ(スペイン)を上回る勝ち点を挙げたが、FCディナモ・キエフに次ぐ2位でグループリーグ敗退となった。

ケズマンとファン・ニステルローイ (1998年 - 2002年)

フランスで開催された1998 FIFAワールドカップオランダ代表は4位となり、PSVは代表の成功の代償を支払うこととなった。スタム、コクー、ヨンクなどの主力選手が相次いで移籍し、完全に新しいチームで1998-99シーズンに臨まざるを得なかった。6年ぶりにロブソン監督が復帰すると、ニリスと新加入のルート・ファン・ニステルローイが計55得点を挙げる活躍を見せ、得点ランキングの1位と2位を独占した。最終節のFCユトレヒト戦は前半終了時に0-2と劣勢だったが、後半に3点を挙げて大逆転し、UEFAチャンピオンズリーグ出場権内の3位に浮上した。

ロブソン監督は1999年夏に退任し、1980年代に選手として在籍したゲレツがクラブ・ブルッヘからPSVの新監督に就任。マルク・ファン・ボメルヨハン・フォーゲル、クラブ・ブルッヘでの教え子エリック・アッドなどを獲得した。ベルギー出身のゲレツ監督にとっては国外クラブの初采配となったが、ニリスとファン・ニステルローイにアルノルト・ブルッヒンクを加えた3トップは計67得点を挙げる抜群の破壊力を誇り、ファン・ニステルローイは2シーズン連続でリーグ得点王に輝いた。中盤のフォーゲルとファン・ボメルも成功の立役者のひとりであり、3シーズンぶり15回目のリーグ優勝を飾った。

2000年夏にはニリスが退団し、十字靭帯断裂の大怪我を負ったファン・ニステルローイは2000-01シーズンの大半を欠場したが、新加入のマテヤ・ケジュマンが大活躍してリーグ優勝に貢献し、同じく新加入のケヴィン・ホフラントジョン・デ・ヨングも実力を発揮した。ケズマンは2000-01シーズンに24得点を、2002-03シーズンに35得点を、2003-04シーズンに31得点を挙げてリーグ得点王に輝いている。2000-01シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではRSCアンデルレヒト(ベルギー)とマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)の後塵を拝したが、ケズマンのマンチェスター・U戦での美しい得点は多くのサポーターの心に残っている。グループ3位となったためUEFAカップに回ったが、準々決勝の1.FCカイザースラウテルン(ドイツ)戦では怒ったサポーターがピッチに侵入し、クラブの歴史の汚点となった。準決勝に進出できず、欧州サッカー連盟 (UEFA) によって罰金処分とホームゲーム開催禁止(中立地開催)の処分を科された。エールディヴィジでは2連覇を果たした。

2001年夏には怪我が完治したファン・ニステルローイがマンチェスター・Uに移籍し、FCトゥウェンテからヤン・フェネホール・オフ・ヘッセリンクを獲得。ケズマンとポジションを争った。2001-02シーズンは序盤戦に出遅れ、3連覇はならずアヤックスに戴冠を許した。UEFAチャンピオンズリーグではFCナント(フランス)に1-4で敗れるなどし、グループ3位でUEFAカップに回った。4回戦ではリーズ・ユナイテッドAFC(イングランド)を下し、欧州カップ戦の準々決勝ではオランダ史上初の同国対決が実現した。フェイエノールトとの試合は2試合とも1-1で引き分けたが、PK戦を制したフェイエノールトが準決勝に駒を進めた。ゲレツ監督はクラブからの信頼を失って解任された。

2度目のヒディンク監督時代 (2002年 - 2006年)

2002年夏、2002 FIFAワールドカップ韓国をベスト4に導いたフース・ヒディンク監督がPSVの新監督に就任した。韓国代表の朴智星李榮杓が加入し、2002-03シーズンにはアリエン・ロッベンなどのスター選手が誕生。リーグ戦では2シーズンぶりの優勝を果たしたが、UEFAチャンピオンズリーグではグループリーグ最下位に終わった。2003-04シーズンはリーグ優勝を逃し、UEFAチャンピオンズリーグのグループリーグではデポルティーボ・ラ・コルーニャ(スペイン)と同勝ち点ながら3位でグループリーグ敗退となった。UEFAカップに回り、準々決勝ではボビー・ロブソン監督率いるニューカッスル・ユナイテッドFCを破った。

キーパーのロナルト・ヴァーテリュースは1994年から10シーズン在籍してリーグ戦285試合に出場したが、2003-04シーズン終了後に退団し、2004年夏にはロッベン、デニス・ロンメダールマテヤ・ケジュマンなどの主力選手も退団した。センターバックのアレックス、キーパーのゴメス、フォワードのジェフェルソン・ファルファンダマルカス・ビーズリーなどを獲得し、ヒディンク監督は新しいチームを作り上げた。2004-05シーズンはマルク・ファン・ボメルヨハン・フォーゲル、コクーなどが中盤を構成し、ヤン・フェネホール・オフ・ヘッセリンクと朴智星がフォワードを構成。UEFAチャンピオンズリーグではアーセナルFC(イングランド)に次ぐグループ2位となり、大会名称変更後初めて決勝トーナメントに進出した。決勝トーナメント1回戦では前年度準優勝のASモナコ(フランス)に2連勝し、準々決勝のオリンピック・リヨン(フランス)戦は2試合とも1-1の引き分けに終わったが、PK戦に勝利して準決勝進出を決めた。オランダのクラブが同大会の準決勝に進出するのは1996-97シーズンのアヤックス以来の出来事だった。準決勝のACミラン戦のファーストレグには0-2で敗れたが、ホームで行なわれたセカンドレグでは朴智星とコクーの得点で2試合合計得点をタイに戻した。しかし、後半ロスタイムにマッシモ・アンブロジーニに得点を許し、その直後にコクーが2点目を決めて粘ったものの、アウェーゴール差での敗退が決定した。この試合はクラブ史に残る試合であり、多くのサポーターがタンク(戦車)の異名を持つアレックスの涙を記憶している。リーグ戦では2シーズンぶり18回目のリーグ優勝を飾り、またKNVBカップでは8回目の優勝を飾ったことから、2004-05シーズンは近年最高のシーズンとされている。

2005年夏にはファン・ボメル、フォーゲル、朴智星、李榮杓、ヴィルフレート・ボウマなど多くの主力選手がチームを離れ、マイケル・ボールミカ・ヴァイリネンベルギー代表ティミー・シモンスなどが加入した。イスマイル・アイサティイブラヒム・アフェレイなど下部組織出身の若手選手も加わった。2005-06シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ・グループリーグでは、ミラン、シャルケ04(ドイツ)、フェネルバフチェSK(トルコ)などと同居する難しいグループに組み込まれたが、ホームでミランを破るなどしてグループ2位で終え、2シーズン連続で決勝トーナメントに進出。決勝トーナメント1回戦ではリヨンと再戦し、今度は2連敗して大会から敗退した。国内リーグでは2連覇を果たしたが、KNVBカップでは決勝でライバルのアヤックスに敗れ、この試合がヒディンク監督のラストゲームとなった。ヒディンク監督は第1期 (1986年 - 1990年) と第2期 (2002年 - 2006年) に計6回のリーグ優勝、計4回のKNVBカップ優勝、1回のUEFAチャンピオンズカップ優勝を果たした。

経営面での混乱とスポーツ面での低迷 (2000年代後半)

2006年夏にはヒディンク監督の後任としてロナルド・クーマン監督が就任。エクアドル代表エディソン・メンデスメキシコ代表カルロス・サルシドと、いずれも2006 FIFAワールドカップに出場して決勝トーナメント進出に貢献した南米出身選手を獲得した。アンドレ・オーイェルヤン・フェネホール・オフ・ヘッセリンクはシーズン開幕後にクラブを離れ、代役としてヤン・クロムカンプパトリック・クライファートを獲得した。2006-07シーズンはジェフェルソン・ファルファンアルナ・コネがチーム内得点王を争い、一時は他クラブに大きな差を築いたものの、すぐに勝ち点差は消滅した。UEFAチャンピオンズリーグ・グループリーグではリヴァプールFC(イングランド)、FCジロンダン・ボルドー(フランス)、ガラタサライSK(トルコ)と同組となったが、リヴァプールに次ぐグループ2位で3シーズン連続の決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメント1回戦のアーセナルFC(イングランド)戦では自陣にも敵陣にも攻め込んだアレックスの活躍で勝利したが、準々決勝では再びリヴァプールと対戦して2試合合計0-4で敗れた。UEFAチャンピオンズリーグからの敗退後、スフイテマ会長は国内リーグで優勝を逃すことが濃厚だとしてクーマン監督を批判したが、PSVは最後まで優勝争いに加わった。最終節を前にしてAZ、アヤックス、PSVの3クラブが勝ち点72で並び、得失点差でAZが首位に立っていた。AZは最終節でSBVエクセルシオールに敗れて優勝を逃し、PSVとアヤックスは揃って勝利したが、得失点差でアヤックス (+49) を逆転したPSV (+50) が3位からの大逆転優勝を飾った。2006-07シーズンはリーグ史上もっとも刺激的で、僅差で優勝が決まったシーズンのひとつに数えられている。

2007年夏にはスフイテマ会長が退いてヤン・レケル会長が就任したため、クーマン監督は留任を決めた。中心選手のコクーやアレックスやA・コネがクラブを離れ、ケネス・ペレスダンコ・ラゾビッチダニー・クーフェルマンスなどが加入。レンタル移籍していたアイサティなどが復帰した。クーマン監督はPSVとの契約途中の10月31日にバレンシアCF(スペイン)監督に就任したため、ヤン・ボウタース暫定監督を経て元名古屋グランパスエイト(日本)監督のセフ・フェルホーセンがシーズン終了までの契約で正式な後任監督に就任した[5]。12月31日には、半年前に加入したばかりのペレスがアヤックスに移籍したが、レケル会長は移籍がペレス自身の選択だと断言した[6]。2008年2月26日には、2005年に負った怪我からリハビリ途中だったが30歳の若さで現役引退を発表[7]。このように人的な移動が激しいシーズンだったが、PSVは21回目の優勝を果たした。4連覇はリーグ史上3度目の偉業であり、HVVデン・ハーグ(1899-1900シーズンから1902-03シーズン)とPSV(1985-86シーズンから1988-89シーズン)しか達成していない。

2008年夏には監督が就任し、ヨハン・クライフ・スハールではフェイエノールトを破って優勝。リーグ戦でも順調な滑り出しを見せたが、UEFAチャンピオンズリーグ・グループリーグ初戦のアトレティコ・マドリード戦に0-3で敗れて歯車が狂いだした。リヴァプールFC(イングランド)やオリンピック・マルセイユ(フランス)などと同居したグループリーグでは、ホームでのマルセイユ戦にしか勝利できず、最下位でのグループリーグ敗退となった。欧州カップ戦で年を越せなかったのは2002-03シーズン以来6年ぶりのことだった。2009年1月にはステーフェンス監督が辞任し、ドワイト・ローデヴェーヘスが後任監督に就任したが、リーグ戦は最終的に4位で終えた。4位以下に終わったのは1980-81シーズン(5位)以来であり、偶然ではあるが、どちらのシーズンも優勝したのはAZアルクマールだった。1996-97シーズン以降では初めてUEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃し、代わりにUEFAヨーロッパリーグの第1回大会の出場権を得た。

2009年夏には元シャルケ監督のフレット・ルッテンが監督に就任し、2009-10シーズン前半戦は公式戦(国内リーグ、国内カップ、UEFAヨーロッパリーグ)無敗で終えた。FCトゥウェンテも前半戦のリーグ戦を無敗で終えていたため、年明け時点でトゥウェンテに次ぐ2位に付けていたが、後半戦には調子を落として取りこぼしを重ね(2010年最初の10試合は6勝2分2敗)、KNVBカップではフェイエノールトに、UEFAヨーロッパリーグではハンブルガーSVにアウェーゴール差で敗れて大会からの敗退が決まった。2月のNACブレダ戦でリーグ戦初黒星を喫し、3月14日時点ではまだ2位につけていたが、その後アヤックスに抜かれて3位に順位を落とした。引き分けの多さから勝ち点を伸ばすことができず、2シーズン連続でUEFAチャンピオンズリーグ出場権を得られなかった。

2010年10月24日のフェイエノールト戦には10-0で大勝。ジョナタン・レイスが3得点、オラ・トイヴォネンが1得点、イェレマイン・レンスが2得点、ジュジャーク・バラージュが2得点、オルランド・エンヘラールが1得点を挙げた(1点はオウンゴール)。PSVは1973年のゴー・アヘッド・イーグルス戦と1998年のFCフォレンダム戦でも同スコアを記録しており、10点差で勝利するのは3度目だった[8]。2010-11シーズンのUEFAヨーロッパリーグ・決勝トーナメント1回戦ではLOSCリール・メトロポール(フランス)と対戦し、2試合合計5-3で勝利。決勝トーナメント2回戦ではレンジャーズFC(スコットランド)に2試合合計1-0で勝利したが、準々決勝ではSLベンフィカに2試合合計3-6で敗れた。同シーズンの国内リーグ戦ではアヤックスやトゥウェンテとの優勝争いに競り負け、期待外れの3位に終わった。財政問題に悩まされ、資産差し押さえに発展する可能性を消すためにアイントホーフェン市議会から多額の援助を受けた。深刻な財政状況のため、名のある選手の獲得は不可能だった。キャプテンであり英雄的存在のイブラヒム・アフェレイは冬の移籍期間にFCバルセロナ(スペイン)に売却され、2011年夏にはハンガリー人ウインガーのジュジャークが金満クラブ化したFCアンジ・マハチカラ(ロシア)に移籍した。

2011年夏にはドリース・メルテンスティム・マタヴジュなどが加入し、レンタルで加入したポーランド人キーパーのプシェミスワフ・ティトンは後に買い取りオプションが行使されて完全移籍した。2011-12シーズンのUEFAヨーロッパリーグ・グループリーグでは5勝1分のグループ首位で決勝トーナメント進出を決め、決勝トーナメント1回戦ではトラブゾンスポル(トルコ)を破ったが、決勝トーナメント2回戦のバレンシアCF(スペイン)戦ファーストレグには2-4で敗れた。2012年3月12日には成績不振によるフレット・ルッテン監督の解任が発表され、アシスタントコーチのコクーがシーズン終了までの暫定監督に就任。選手やユースチーム監督としてPSVに在籍経験があるFCアイントホーフェン監督のがアシスタントコーチに就任した[9]。コクーの初采配試合となったバレンシア戦セカンドレグに引き分けて大会からの敗退が決まったが、KNVBカップでは決勝でヘラクレス・アルメロに3-0で快勝して7シーズンぶり9回目の優勝を決めた[10]。この試合には約17,000人のPSVサポーターが会場のロッテルダムに押し掛け、オラ・トイヴォネンが華麗なヒールシュートで先制点を決め、メルテンスとレンスが追加点を挙げた。リーグ戦は再び3位に終わってUEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃したが、約4年ぶりのトロフィーとなったKNVBカップの優勝が慰めとなった。4月6日にはオランダサッカー協会による財政指数区分でカテゴリー3に分類された。これは「健全」を表す区分であり、財政強度に基づいて各クラブが分類されている[11]。5月10日には以前にもPSVの監督を務めたディック・アドフォカートが1年契約で正式な監督に就任した[12]

現在 (2010年代 - )

2012年夏、下部組織出身の有望株であるザカリア・ラビアドスポルティングCPに売却され、既に契約を交わしていたデンマーク人のマティアス・イェルゲンセンが加入した。元キャプテンのファン・ボメルがミランから加入し[13]SCヘーレンフェーンからウインガーのルシアーノ・ナルシンを獲得。ヨハン・クライフ・スハールではアヤックスを4-2で下して優勝し[14]、UEFAヨーロッパリーグ・予選プレーオフのFKゼタ(モンテネグロ)戦では2試合合計14-0で圧勝してグループリーグ出場を決めた。グループリーグではFCドニプロ・ドニプロペトロウシク(ウクライナ)、SSCナポリ(イタリア)、AIKソルナ(スウェーデン)と同組となり、ナポリとのアウェーゲームには3-1で勝利したが、これはナポリにとって欧州カップ戦のホームゲームでの18年ぶりの敗北となった[15]。しかしPSVはドニプロとナポリに次ぐグループ3位で大会から敗退した。リーグ戦では前半戦だけで60得点を挙げ、ウィンターブレークの時点で首位に立っていた。2013年1月にはIFエルフスボリ(スウェーデン)からを獲得[16]。2013年夏にクラブOBでもあるフィリップ・コクーが監督に就任し、2014年夏にボルシアMGからルーク・デ・ヨングを完全移籍でバレンシアからアンドレス・グアルダードマンチェスター・シティからカリム・レキクをそれぞれ期限付き移籍で獲得した。2014-15シーズンではメンフィス・デパイやデ・ヨングなどの活躍によって、序盤から好スタートを決め中盤戦で10連勝を含むリーグ戦17戦負けなしを記録し、首位を独走した。2015年4月15日ヘーレンフェーンに4-1で勝利し2007-08シーズン以来となるリーグ制覇を果たした[17]

スタジアムと練習施設

1911年1月、5歳のフリッツ・フィリップス(後にフィリップス社のCEOとなる)によってフィリップス・エルフタルの落成式と初試合が行なわれたが、クラブはまだ創設されていなかった。スタジアムの近隣はフィリップスドルプ(フィリップス村)と呼ばれ、アイントホーフェンの中心部からほど近かった。1913年にクラブが創設してからも、ホームスタジアムは一貫して同じ場所にある。クラブ創設当初はフィリップス・スポルトパルクと呼ばれ、300人収容の小規模なグラウンドだった[1]。1941年には18,000人収容のスタジアムとなり、第二次世界大戦で被災したが、1958年には再び改築されて22,000人収容となった。2000年と2002年にも角部分の改修工事が行なわれ、現在のフィリップス・スタディオンという名称、サッカーの試合開催時の収容人数35,000人に落ち着いた。収容人数を45,000人まで拡張する計画があり、仮に2018 FIFAワールドカップの開催地がオランダ・ベルギーに決定していた場合には計画の実施が決定的だったが、2010年12月に行なわれた投票でFIFAワールドカップの開催地はロシアに決定した。

2000年にオランダとベルギーで共同開催されたUEFA EURO 2000の際には開催地のひとつとなった。2006年にはUEFAカップ決勝の開催地となり、セビージャFC(スペイン)がミドルズブラFC(イングランド)を下して優勝した。2000年代の10年間は1試合平均観客数が31,000人から34,000人で推移しており、アヤックス、フェイエノールトに次いでオランダ第3位である。観客席は全席固定座席で屋根に覆われ、全席が暖房設備を有している。2005年夏にはピッチ周りの高いフェンスが取り除かれ、高さ90cmの手すりに代えられた。許可なくピッチに侵入すると15,000ユーロの罰金と10年間のスタジアム入場禁止処分が科せられる。

スタジアム内にはレッドミシュランオランダ版で1つ星の認定を受けたレストラン (Avant Garde) があり、サッカーの試合を観戦しながら食事を行なうことが可能である。オランダ国内でレッドミシュランの星付きレストランを抱えるスタジアムはここだけである。スタジアムから約3.5km北西にはデ・ヘルドハンフ(De Herdgang)と呼ばれる練習施設があり、天然芝や人工芝のピッチを持つ複合施設である。トップチームは練習を一般公開することもあり、また下部組織(ヨング・PSV)の拠点もデ・ヘルドハンフである。デ・ヘルドハンフの近くにはフィリップス・ヨンフパルクという緑豊かな公園がある。

エールディヴィジのビッグ3の1試合平均観客数[18]
シーズン平均観客数
アヤックスPSVフェイエノールト
1997-9848,423人27,865人25,042人
1998-9941,275人26,550人31,231人
1999-0040,866人28,441人31,532人
2000-0136,280人31,735人37,609人
2001-0236,328人31,494人39,903人
2002-0347,571人33,106人43,124人
2003-0448,996人32,853人41,412人
2004-0548,031人31,806人39,329人
2005-0646,006人33,088人41,294人
2006-0748,551人33,601人40,676人
2007-0849,092人33,576人44,853人
2008-0949,014人33,406人44,044人
2009-1048,681人33,424人43,882人
2010-1147,316人33,612人42,124人
2011-1250,417人33,353人44,781人
2012-1350,490人33,082人45,147人
2013-1450,907人33,553人45,606人

タイトル

国内タイトル

  • エールディヴィジ:21回
    • 1962-63, 1974-75, 1975-76, 1977-78, 1985-86, 1986-87, 1987-88, 1988-89, 1990-91, 1991-92, 1996-97, 1999-00, 2000-01, 2002-03, 2004-05, 2005-06, 2006-07, 2007-08, 2014-15, 2015-16, 2017-18
  • KNVBカップ:9回
    • 1949-50, 1973-74, 1975-76, 1987-88, 1988-89, 1989-90, 1995-96, 2004-05, 2011-12

国際タイトル

親善タイトル

  • フィリップス・トーナメント:3回
    • 1982, 1984, 1985
  • トルネオ・インテルナシオナル・デ・フトボル・デ・マスパロマス:3回
    • 1984, 1985, 2000
  • トロフェオ・ビラ・デ・マドリード:1回
    • 1984
  • ポリッシュ・マスターズ・カップ:1回
    • 2012

成績

スポンサー

種類名称業種
メインスポンサーオランダの旗 フィリップス家電
オフィシャルパートナーアメリカ合衆国の旗 ナイキスポーツ用品
ドイツの旗 メルセデス・ベンツ自動車
オランダの旗 ババリアビールビール
オランダの旗 ラボバンク銀行
オランダの旗 VDL グループ工業品製造
ベルギーの旗 BDOインターナショナル会計事務
デ・ラーゲ・ランデン
バニング
フレオ
Driessen HRM Payroll
Menzis
オフィシャルサプライヤーアメリカ合衆国の旗 コカ・コーラ 飲料
アスロン・カー・リース自動車リース
GymnaUniphy[1]メディカルサポート
Gentiluomo
Maison van den Boer

現所属メンバー

2020-21シーズン 開幕戦フォーメーション
2021年1月16日時点[19]
No.Pos.選手名
4オランダの旗DFニック・フィールヘフェル
5ドイツの旗DFティモ・バウムガルトル
6コートジボワールの旗MFイブラヒム・サンガレ
7イスラエルの旗FWエラン・ザハヴィ (Flag of France.svg)
9オランダの旗FWドニエル・マレン (Flag of Suriname.svg)
10オランダの旗MFモハメド・イハッターレン (Flag of Morocco.svg)
11ドイツの旗MF
13ドイツの旗GKラース・ウンナーシュタル
14オランダの旗MFマルコ・ファン・ヒンケル
15メキシコの旗MFエリック・グティエレス
16ドイツの旗GK
17ブラジルの旗MFマウロ・ジュニオール
18オランダの旗MFパブロ・ロサリオ (Flag of the Dominican Republic.svg)
19オランダの旗FWコーディ・ガクポ (Flag of Togo.svg)
No.Pos.選手名
20アルゼンチンの旗FWマキシ・ロメロ
21ベルギーの旗GK
22オランダの旗DFデンゼル・ダンフリース (Flag of Aruba.svg)
23イングランドの旗FWノニ・マドゥエケ (Flag of Nigeria.svg)
24オランダの旗DFアルマンド・オビスポ
27ドイツの旗MFマリオ・ゲッツェ
28フランスの旗DFオリヴィエ・ボスカリ
29オランダの旗FWヨエル・ピロー (Flag of Suriname.svg)
30ニュージーランドの旗MFライアン・トーマス (Flag of England.svg)
31ドイツの旗DFフィリップ・マックス
33オランダの旗DFジョーダン・テゼ (Flag of the Republic of the Congo.svg)
38スイスの旗GKイボン・ムボゴ (Flag of Cameroon.svg) ★
53ベルギーの旗FW

※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。

ローン移籍選手

in
No.Pos.選手名
11ドイツの旗MF (FCバイエルン・ミュンヘン)
14オランダの旗MFマルコ・ファン・ヒンケル (チェルシーFC)
No.Pos.選手名
38スイスの旗GKイボン・ムボゴ (RBライプツィヒ)
out
No.Pos.選手名
--オランダの旗DFデリック・ルカッセン (RSCアンデルレヒト)
--ベルギーの旗MFダンテ・リゴ (ADOデン・ハーグ)
--チェコの旗MFミハル・サジレク (FCスロヴァン・リベレツ)
No.Pos.選手名
--日本の旗FW堂安律 (アルミニア・ビーレフェルト)
--ポルトガルの旗FWブルマ (オリンピアコスFC)

欠番

12 - サポーター 99 - フォクシー(クラブのマスコット)

歴代会長

  • 1913-1920 J・W・ホフケス
  • 1920-1921 J・ファン・デル・レール
  • 1921-1925 J・W・ホフケス
  • 1925-1926 N・ハルベルツマ
  • 1926-1927 A・ブルークマン
  • 1927-1928 J・スミッツ
  • 1928-1932 A・カース
  • 1932-1939 A・ファン・アンローイ
  • 1939-1945 C・M・モレルス
  • 1945-1951 A・ヴォールウィンデ
  • 1951-1954 C・M・モレルス
  • 1954-1963 A・ファン・ストリーン
  • 1963-1970 M・J・ヤンセン・フラチョン
  • 1970-1983 A・P・フルーネヴェルト
  • 1983-1993 J・H・ルッツ
  • 1993-1996 W・G・マエイェル
  • 1996-2004 ハリー・ファン・ラーエイ
  • 2005-2010 フリッツ・スフイテマ
  • 2010- R・W・J・フェルケルク


歴代監督

在任期間名前獲得タイトル
国内
リーグ
国内
カップ
国内スー
パーカップ
欧州
カップ
その他
1914-1916オランダの旗 ケース・メインデルス
1916-1921オランダの旗 ワウト・バイテンウェフ
1921-1922オランダの旗 ヤン・ボス
1922-1926イングランドの旗
1926-1927オランダの旗 ベン・ホーフステーデ
1927-1928オランダの旗 イグナス・クレイン
1928-1929オランダの旗 ヨープ・クレイン・ウェンティンク1
1929-1935イングランドの旗1
1935-1938イングランドの旗
1938-1942オランダの旗 ヤン・ファン・デン・ブルーク
1942-1945オランダの旗 クーエン・デルセン
1945-1951イングランドの旗11
1951-1952イングランドの旗
1952-1956オランダの旗 ハイプ・デ・レーウ
1956-1957ユーゴスラビアの旗
1957-1958イングランドの旗
1958-1959オランダの旗 ケース・ファン・ダイケ
1959-1960ユーゴスラビアの旗
1960-1962オーストリアの旗 フランツ・ビンダー
1962-1967オランダの旗1
1967ユーゴスラビアの旗 ミラン・ニコリッチ
1967-1968オランダの旗 ウィム・ブロクランド
1968.7-1972.6ドイツの旗
1972.7-1979.12オランダの旗321 (UC)
1979.12-1980.6オランダの旗
1980.7-1983.6オランダの旗
1983.7-1986.6オランダの旗1
1986.7-1987.3オランダの旗
1987.3-1990.6オランダの旗 フース・ヒディンク331 (CC)
1990.7-1992.6イングランドの旗 ボビー・ロブソン2
1992.7-1993.6オランダの旗1
1993.7-1994.10オランダの旗 ア・デ・モス
1994.10-1994.12オランダの旗
1994.12-1998.6オランダの旗 ディック・アドフォカート112
1998.7-1999.6イングランドの旗 ボビー・ロブソン1
1999.7-2002.5ベルギーの旗 エリック・ヘレツ22
2002.7-2006.6オランダの旗 フース・ヒディンク311
2006.7-2007.10オランダの旗 ロナルド・クーマン1
2007.11-2007.12オランダの旗 ヤン・ボウタース
2008.1-2008.6オランダの旗 セフ・フェルホーセン1
2008.7-2009.1オランダの旗1
2009.1-2009.6オランダの旗 ドワイト・ローデヴェーヘス
2009.7-2012.3オランダの旗 フレット・ルッテン
2012.3-2012.6オランダの旗 フィリップ・コクー1
2012.7-2013.6オランダの旗 ディック・アドフォカート1
2013.7-2018.6オランダの旗 フィリップ・コクー32
2018.6-2019.12オランダの旗 マルク・ファン・ボメル
2019.12-2020.4オランダの旗
2020.4-ドイツの旗 ロガー・シュミット

歴代所属選手

歴代主将

選手背番号在籍期間在任期間
オランダの旗1927-19321928-
オランダの旗1926-1942
オランダの旗1937-1955
オランダの旗1954-19651954-1965
オランダの旗 ヴィリー・ファン・デル・カイレン1964-19811965-1973
オランダの旗 ヤン・ファン・ベベレン11970-19831973-1983
ノルウェーの旗91981-19881983-1986
オランダの旗 ルート・フリット101985-19871986-1987
ベルギーの旗 エリック・ヘレツ21985-19921987-1992
オランダの旗41986-19931992-1993
オランダの旗 エルウィン・クーマン31979-1982, 1990-19941993-1994
オランダの旗 アーサー・ニューマン51992-19981994-1998
ベルギーの旗 ルク・ニリス101994-20001998-2000
オランダの旗 マルク・ファン・ボメル61999-2005, 2012-20132000-2005, 2012-2013
オランダの旗 フィリップ・コクー81995-1998, 2004-20072005-2007
ベルギーの旗 ティミー・シモンス62005-20102007-2010
オランダの旗 イブラヒム・アフェレイ202003-20102010
オランダの旗 オルランド・エンヘラール82009-20132011
スウェーデンの旗 オラ・トイヴォネン72009-20132011-12
オランダの旗 ジョルジニオ・ワイナルドゥム102011-20152013-2015
オランダの旗 ルーク・デ・ヨング92014-20192015-2019
オランダの旗 イブラヒム・アフェレイ172019-2019-

クラブ記録保持者

通算得点数
1シーズン最多得点数
通算出場試合数
連続無失点時間
  • 1位 ブラジルの旗 ゴメス / オランダの旗 - 1159分 (2004年、オランダ記録)
  • 2位 ブラジルの旗 ゴメス - 957分 (2006年10月 - 12月)
  • 3位 ブラジルの旗 ゴメス - 817分 (2006年2月 - 4月)

GK


DF


MF


FW


サッカー以外のスポーツ

PSVアイントホーフェンと呼ばれているクラブは17あり、全てフィリップス・スポーツ・ユニオン(Federatie van Philips Sport Verenigingen)のメンバーである。20種類のスポーツに5000人以上の会員がいる(2003年現在)。

PSVアイントホーフェンの水泳クラブ所属であるピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドインヘ・デブルーインは、2000年シドニーオリンピック競泳で8つのメダル(内5個の金メダル)を占めた。水泳クラブはサッカーの次に知られているが、そのほかのクラブもそれぞれの国内競技会で高いレベルにある。

脚注

外部リンク


 

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