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⚽|板倉滉はフル出場 オランダ1部リーグ


写真 フローニンゲンの板倉滉=2019年10月、オランダ・フローニンゲン(共同)

板倉滉はフル出場 オランダ1部リーグ

 
内容をざっくり書くと
ズウォレの中山雄太は2―4で敗れたアウェーのPSVアイントホーフェン戦にフル出場した。
 

【フローニンゲン(オランダ)共同】サッカーのオランダ1部リーグで13日、板倉滉の所属するフローニンゲ… →このまま続きを読む

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PSVアイントホーフェン

PSVアイントホーフェンPSV Eindhoven、正式名称: Philips Sport Vereniging, オランダ語発音: [ˈfi.lɪps ˌspɔrt fə.ˌreː.nə.ɣɪŋ])は、オランダアイントホーフェンに本拠地を置くスポーツクラブである。最もよく知られているのはサッカー部門であり、エールディヴィジ(1部)に所属している。単にPSVとも表記され、オランダ語発音をカタカナ表記すると、ペー・エス・フェーとなる。アイントホーフェンに本社を持つフィリップス(電機メーカー)の企業クラブとして創設され、2016年までメインスポンサーだったが経営面には立ち入らなかった[1]。株式公開会社(NV)だが上場せず、匿名の出資者に支えられている[1]

概要

1913年創設。エールディヴィジでは22回、KNVBカップでは9回、ヨハン・クライフ・スハールでは9回優勝している。アヤックスフェイエノールトとともに、UEFAチャンピオンズカップの優勝経験があるオランダの3大クラブのひとつである。1987-88シーズンの同大会では決勝でSLベンフィカ(ポルトガル)を破って優勝し、同時にエールディヴィジとKNVBカップも含めたトレブル(3冠)も達成した。1977-78シーズンにはUEFAカップで決勝に進出し、SCバスティア(フランス)を破って優勝した。

「ブーレン (Boeren, オランダ語発音: [ˈbuːrə(n)], オランダ語で百姓) 」というニックネームがある。アイントホーフェンはアムステルダムロッテルダムなどの都会から遠く離れた地方にあるため、当初はライバルクラブのサポーターが侮蔑的な意味合いで用いていたが、PSVのサポーターはブラバンティアン文化に対する誇りから、進んでこのニックネームを用いている。ユニフォームには北ブラバント州旗がデザインされており、スタジアム周辺にも州旗が掲げられている。ホームスタジアムは35,000人収容のフィリップス・スタディオンであり、アイントホーフェン市のストレイプ地区に位置する。

歴史

フィリップスとの関係

フィリップスの創業者であるヘラルト・フィリップスとヘラルトの弟であるアントン・フィリップスがクラブの設立を命じ、フィリップス系列各社の企業チームとして歴史が始まった。設立日は1913年8月31日であり、オランダの独立(ナポレオン戦争でのフランスの敗北)から100周年を記念して行なわれたフィリップス主催のスポーツ大会後に設立された(公式サイト)。クラブ創設と同時に、ホームスタジアムとしてフィリップス・スポルトパルクが建設された。このようにクラブ設立にフィリップスが密接にかかわっていたため、「胸スポンサー」の概念がエールディヴィジに導入された1982年以降は2016年まで例外なくフィリップスが胸スポンサーを務め、これはオランダの最長記録となっている。

1960年代以前

オランダサッカーリーグ選手権(エールディヴィジの前身となるアマチュアリーグ)が創設されたのは1888年であるが、PSVは1915年に初参戦した。10年間は下部リーグでプレーしていたが、1926年にトップリーグに初昇格し、AFCアヤックス(1917-18シーズンに初優勝)やフェイエノールト(1923-24シーズンに初優勝)に遅れて、1928-29シーズンにトップリーグ初優勝を果たした。1934-35シーズンには2度目の優勝を果たしたが、この時期のアヤックスやフェイエノールトは強豪としての地位を固めており、1930年代にはアヤックスが5回、フェイエノールトが3回優勝している。1949-50シーズンにはKNVBカップで初優勝し、1950-51シーズンにはリーグ戦で16年ぶり3回目の優勝を果たした。1950年代にはがエースとして活躍し、328試合出場288得点という驚きべき得点率を誇った。エールディヴィジが開始された1956-57シーズンのディレンは43得点を挙げているが、これは現在でも個人の1シーズン最多得点記録である。1962-63シーズンにはオランダリーグがプロ化されてから初めてのリーグ優勝を果たした。1960年代から1970年代にはヴィリー・ファン・デル・カイレンが活躍し、通算308得点を挙げてディレンの記録を塗り替えたが、これは現在でもオランダ記録となっている。この時代は給料面で他クラブに対して劣勢であり、才能ある選手たちにとってはPSVがプロとしての飛躍のための踏み台となった。

黄金期 (1970年代後半 - 1980年代後半)

1960年代半ばから1970年代初頭にはタイトルから遠ざかっていたが、1972年に監督が就任すると、1973-74シーズンのKNVBカップで24年ぶり2回目の優勝を果たし、1970年代中頃から後半にかけてPSVは1度目の黄金期を迎えた。ベテランのカイレン、ウィリーレネのケルクホフ兄弟(双子)、キーパーのヤン・ファン・ベベレン、若手ディフェンダーのやや、ストライカーの、ディフェンダーののような質の高い選手に牽引され、KNVBカップ優勝2回、エールディヴィジ優勝3回を果たした。1974-75シーズンと1975-76シーズンにはクラブ初のリーグ戦2連覇を達成し、1977-78シーズンのUEFAカップでは、準々決勝で1.FCマクデブルク(西ドイツ)を、準決勝でFCバルセロナ(スペイン)を下し、決勝でSCバスティア(フランス)を2試合合計3-0で破って優勝。初の欧州タイトルを獲得した[2]。オランダのクラブとしては1973-74シーズンに優勝したフェイエノールトに次ぐ2チーム目のUEFAカップ王者となった。1979年にはレイヴェルス監督が退任し、再びタイトルから遠ざかった。

1983年には監督が就任し、ルート・フリットエリック・ヘレツなどが在籍していた1985-86シーズンのリーグ戦で8年ぶり8回目の優勝を果たした。監督を間に挟み、1987年にフース・ヒディンク監督が就任すると、1988-89シーズンまでリーグ戦4連覇を達成した。ヘレツ、ロナルド・クーマンセーレン・レアビーウィム・キーフトなどの選手がチームを構成し、1987-88シーズンのUEFAチャンピオンズカップではクラブ史上初めて決勝に進出。決勝のSLベンフィカ戦は0-0で決着がつかずにPK戦に突入し、PK戦では両クラブとも5人ずつがPKを成功させたが、キーパーのハンス・ファン・ブレーケレンがベンフィカの6人目ののキックをセーブして初優勝を決めた[3]。準々決勝のFCジロンダン・ボルドー(フランス)戦は2試合とも引き分けであり、準決勝のレアル・マドリード(スペイン)戦も2試合ともに引き分けたが、アウェーゴール差で勝ち上がっていた。奇妙なことに、優勝したPSVは準々決勝からの5試合で1勝もできず、通算でも3勝5分1敗の成績だった。同シーズンはエールディヴィジ、KNVBカップ、UEFAチャンピオンズカップの3冠を達成したが、1988年末に行なわれたインターコンチネンタルカップではコパ・リベルタドーレス王者のナシオナル・モンテビデオ(ウルグアイ)と対戦し、試合自体は2-2の引き分けだったがPK戦の末に敗れた。ヒディンク政権下ではエールディヴィジで3回、KNVBカップで3回、UEFAチャンピオンズカップで1回優勝した。

1987-88シーズンのUEFAチャンピオンズカップ決勝

ロマーリオ、ロナウド、ニリス (1990年代)

1990年にはヒディンク監督が退任し、イングランド代表監督を務めたボビー・ロブソン監督が就任。1990-91シーズンと1991-92シーズンにはリーグ戦2連覇を果たしたが、欧州カップ戦では経営陣が期待したほどの成績を残せず、ロブソン監督は1991-92シーズン終了後に退任した[4]。ヒディンク政権下の1988年にはのスカウトによってロマーリオが加入して主力選手となっていたが、ロブソン監督はロマーリオとの関係に問題を抱えていた。ロマーリオは1993年までクラブに在籍し、3個のタイトルをもたらした。ロブソンの後任には監督が就任し、1992-93シーズンのリーグ戦では2位となった。1992-93シーズンにはUEFAチャンピオンズカップが大会形式を変更してUEFAチャンピオンズリーグとなったが、PSVは本選に出場した8クラブのうちのひとつである。1993-94シーズンはア・デ・モス監督が指揮を執り、ゲオルゲ・ポペスクニイ・ランプティアーサー・ニューマンなどの名選手がいたが3位に終わった。シーズン終了後にはブレーケレンが引退。ブレーケレンは10シーズンの間PSVのゴールを守り、クラブ史上最高のキーパーのひとりとみなされている。1994年夏にはロナルト・ヴァーテリュースとのふたりのキーパーが加入してポジションを争い、より若いワテレースがポジションを掴んだ。デ・モス監督は1994年10月に解任され、監督が暫定的にチームを指揮した後、12月にディック・アドフォカートが正式な監督に就任した。1994年夏に加入したロナウドは1994-95シーズンに30得点を挙げ、同じく新加入のルク・ニリスとコンビを組んだが、アヤックスとローダJCに次ぐ3位に終わった。1995-96シーズンはプレーの質を向上させて2位となり、UEFAカップでは準々決勝に進出。バルセロナに敗れた。守備的ミッドフィールダーのウィム・ヨンク、ニリス、ニューマン、センターバックのヤープ・スタムフィリップ・コクー、若手のボウデヴィン・ゼンデンなどが在籍していた1996-97シーズンには5年ぶりにリーグ優勝した。21得点を挙げたニリスがリーグ得点王となり、オランダ年間最優秀選手賞を受賞した。1997-98シーズンはアヤックスのシーズンとして記憶されており、ニリスとのベルギー人コンビが多くの得点を挙げたが、リーグ戦でもKNVBカップ決勝でもアヤックスに敗れた。UEFAチャンピオンズリーグでは1992-93シーズン以来となる本選に出場し、ニューカッスル・ユナイテッドFC(イングランド)とFCバルセロナ(スペイン)を上回る勝ち点を挙げたが、FCディナモ・キエフに次ぐ2位でグループリーグ敗退となった。

ケズマンとファン・ニステルローイ (1998年 - 2002年)

フランスで開催された1998 FIFAワールドカップオランダ代表は4位となり、PSVは代表の成功の代償を支払うこととなった。スタム、コクー、ヨンクなどの主力選手が相次いで移籍し、完全に新しいチームで1998-99シーズンに臨まざるを得なかった。6年ぶりにロブソン監督が復帰すると、ニリスと新加入のルート・ファン・ニステルローイが計55得点を挙げる活躍を見せ、得点ランキングの1位と2位を独占した。最終節のFCユトレヒト戦は前半終了時に0-2と劣勢だったが、後半に3点を挙げて大逆転し、UEFAチャンピオンズリーグ出場権内の3位に浮上した。

ロブソン監督は1999年夏に退任し、1980年代に選手として在籍したゲレツがクラブ・ブルッヘからPSVの新監督に就任。マルク・ファン・ボメルヨハン・フォーゲル、クラブ・ブルッヘでの教え子エリック・アッドなどを獲得した。ベルギー出身のゲレツ監督にとっては国外クラブの初采配となったが、ニリスとファン・ニステルローイにアルノルト・ブルッヒンクを加えた3トップは計67得点を挙げる抜群の破壊力を誇り、ファン・ニステルローイは2シーズン連続でリーグ得点王に輝いた。中盤のフォーゲルとファン・ボメルも成功の立役者のひとりであり、3シーズンぶり15回目のリーグ優勝を飾った。

2000年夏にはニリスが退団し、十字靭帯断裂の大怪我を負ったファン・ニステルローイは2000-01シーズンの大半を欠場したが、新加入のマテヤ・ケジュマンが大活躍してリーグ優勝に貢献し、同じく新加入のケヴィン・ホフラントジョン・デ・ヨングも実力を発揮した。ケズマンは2000-01シーズンに24得点を、2002-03シーズンに35得点を、2003-04シーズンに31得点を挙げてリーグ得点王に輝いている。2000-01シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではRSCアンデルレヒト(ベルギー)とマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)の後塵を拝したが、ケズマンのマンチェスター・U戦での美しい得点は多くのサポーターの心に残っている。グループ3位となったためUEFAカップに回ったが、準々決勝の1.FCカイザースラウテルン(ドイツ)戦では怒ったサポーターがピッチに侵入し、クラブの歴史の汚点となった。準決勝に進出できず、欧州サッカー連盟 (UEFA) によって罰金処分とホームゲーム開催禁止(中立地開催)の処分を科された。エールディヴィジでは2連覇を果たした。

2001年夏には怪我が完治したファン・ニステルローイがマンチェスター・Uに移籍し、FCトゥウェンテからヤン・フェネホール・オフ・ヘッセリンクを獲得。ケズマンとポジションを争った。2001-02シーズンは序盤戦に出遅れ、3連覇はならずアヤックスに戴冠を許した。UEFAチャンピオンズリーグではFCナント(フランス)に1-4で敗れるなどし、グループ3位でUEFAカップに回った。4回戦ではリーズ・ユナイテッドAFC(イングランド)を下し、欧州カップ戦の準々決勝ではオランダ史上初の同国対決が実現した。フェイエノールトとの試合は2試合とも1-1で引き分けたが、PK戦を制したフェイエノールトが準決勝に駒を進めた。ゲレツ監督はクラブからの信頼を失って解任された。

2度目のヒディンク監督時代 (2002年 - 2006年)

2002年夏、2002 FIFAワールドカップ韓国をベスト4に導いたフース・ヒディンク監督がPSVの新監督に就任した。韓国代表の朴智星李榮杓が加入し、2002-03シーズンにはアリエン・ロッベンなどのスター選手が誕生。リーグ戦では2シーズンぶりの優勝を果たしたが、UEFAチャンピオンズリーグではグループリーグ最下位に終わった。2003-04シーズンはリーグ優勝を逃し、UEFAチャンピオンズリーグのグループリーグではデポルティーボ・ラ・コルーニャ(スペイン)と同勝ち点ながら3位でグループリーグ敗退となった。UEFAカップに回り、準々決勝ではボビー・ロブソン監督率いるニューカッスル・ユナイテッドFCを破った。

キーパーのロナルト・ヴァーテリュースは1994年から10シーズン在籍してリーグ戦285試合に出場したが、2003-04シーズン終了後に退団し、2004年夏にはロッベン、デニス・ロンメダールマテヤ・ケジュマンなどの主力選手も退団した。センターバックのアレックス、キーパーのゴメス、フォワードのジェフェルソン・ファルファンダマルカス・ビーズリーなどを獲得し、ヒディンク監督は新しいチームを作り上げた。2004-05シーズンはマルク・ファン・ボメルヨハン・フォーゲル、コクーなどが中盤を構成し、ヤン・フェネホール・オフ・ヘッセリンクと朴智星がフォワードを構成。UEFAチャンピオンズリーグではアーセナルFC(イングランド)に次ぐグループ2位となり、大会名称変更後初めて決勝トーナメントに進出した。決勝トーナメント1回戦では前年度準優勝のASモナコ(フランス)に2連勝し、準々決勝のオリンピック・リヨン(フランス)戦は2試合とも1-1の引き分けに終わったが、PK戦に勝利して準決勝進出を決めた。オランダのクラブが同大会の準決勝に進出するのは1996-97シーズンのアヤックス以来の出来事だった。準決勝のACミラン戦のファーストレグには0-2で敗れたが、ホームで行なわれたセカンドレグでは朴智星とコクーの得点で2試合合計得点をタイに戻した。しかし、後半ロスタイムにマッシモ・アンブロジーニに得点を許し、その直後にコクーが2点目を決めて粘ったものの、アウェーゴール差での敗退が決定した。この試合はクラブ史に残る試合であり、多くのサポーターがタンク(戦車)の異名を持つアレックスの涙を記憶している。リーグ戦では2シーズンぶり18回目のリーグ優勝を飾り、またKNVBカップでは8回目の優勝を飾ったことから、2004-05シーズンは近年最高のシーズンとされている。

2005年夏にはファン・ボメル、フォーゲル、朴智星、李榮杓、ヴィルフレート・ボウマなど多くの主力選手がチームを離れ、マイケル・ボールミカ・ヴァイリネンベルギー代表ティミー・シモンスなどが加入した。イスマイル・アイサティイブラヒム・アフェレイなど下部組織出身の若手選手も加わった。2005-06シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ・グループリーグでは、ミラン、シャルケ04(ドイツ)、フェネルバフチェSK(トルコ)などと同居する難しいグループに組み込まれたが、ホームでミランを破るなどしてグループ2位で終え、2シーズン連続で決勝トーナメントに進出。決勝トーナメント1回戦ではリヨンと再戦し、今度は2連敗して大会から敗退した。国内リーグでは2連覇を果たしたが、KNVBカップでは決勝でライバルのアヤックスに敗れ、この試合がヒディンク監督のラストゲームとなった。ヒディンク監督は第1期 (1986年 - 1990年) と第2期 (2002年 - 2006年) に計6回のリーグ優勝、計4回のKNVBカップ優勝、1回のUEFAチャンピオンズカップ優勝を果たした。

経営面での混乱とスポーツ面での低迷 (2000年代後半)

2006年夏にはヒディンク監督の後任としてロナルド・クーマン監督が就任。エクアドル代表エディソン・メンデスメキシコ代表カルロス・サルシドと、いずれも2006 FIFAワールドカップに出場して決勝トーナメント進出に貢献した南米出身選手を獲得した。アンドレ・オーイェルヤン・フェネホール・オフ・ヘッセリンクはシーズン開幕後にクラブを離れ、代役としてヤン・クロムカンプパトリック・クライファートを獲得した。2006-07シーズンはジェフェルソン・ファルファンアルナ・コネがチーム内得点王を争い、一時は他クラブに大きな差を築いたものの、すぐに勝ち点差は消滅した。UEFAチャンピオンズリーグ・グループリーグではリヴァプールFC(イングランド)、FCジロンダン・ボルドー(フランス)、ガラタサライSK(トルコ)と同組となったが、リヴァプールに次ぐグループ2位で3シーズン連続の決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメント1回戦のアーセナルFC(イングランド)戦では自陣にも敵陣にも攻め込んだアレックスの活躍で勝利したが、準々決勝では再びリヴァプールと対戦して2試合合計0-4で敗れた。UEFAチャンピオンズリーグからの敗退後、スフイテマ会長は国内リーグで優勝を逃すことが濃厚だとしてクーマン監督を批判したが、PSVは最後まで優勝争いに加わった。最終節を前にしてAZ、アヤックス、PSVの3クラブが勝ち点72で並び、得失点差でAZが首位に立っていた。AZは最終節でSBVエクセルシオールに敗れて優勝を逃し、PSVとアヤックスは揃って勝利したが、得失点差でアヤックス (+49) を逆転したPSV (+50) が3位からの大逆転優勝を飾った。2006-07シーズンはリーグ史上もっとも刺激的で、僅差で優勝が決まったシーズンのひとつに数えられている。

2007年夏にはスフイテマ会長が退いてヤン・レケル会長が就任したため、クーマン監督は留任を決めた。中心選手のコクーやアレックスやA・コネがクラブを離れ、ケネス・ペレスダンコ・ラゾビッチダニー・クーフェルマンスなどが加入。レンタル移籍していたアイサティなどが復帰した。クーマン監督はPSVとの契約途中の10月31日にバレンシアCF(スペイン)監督に就任したため、ヤン・ボウタース暫定監督を経て元名古屋グランパスエイト(日本)監督のセフ・フェルホーセンがシーズン終了までの契約で正式な後任監督に就任した[5]。12月31日には、半年前に加入したばかりのペレスがアヤックスに移籍したが、レケル会長は移籍がペレス自身の選択だと断言した[6]。2008年2月26日には、2005年に負った怪我からリハビリ途中だったが30歳の若さで現役引退を発表[7]。このように人的な移動が激しいシーズンだったが、PSVは21回目の優勝を果たした。4連覇はリーグ史上3度目の偉業であり、HVVデン・ハーグ(1899-1900シーズンから1902-03シーズン)とPSV(1985-86シーズンから1988-89シーズン)しか達成していない。

2008年夏には監督が就任し、ヨハン・クライフ・スハールではフェイエノールトを破って優勝。リーグ戦でも順調な滑り出しを見せたが、UEFAチャンピオンズリーグ・グループリーグ初戦のアトレティコ・マドリード戦に0-3で敗れて歯車が狂いだした。リヴァプールFC(イングランド)やオリンピック・マルセイユ(フランス)などと同居したグループリーグでは、ホームでのマルセイユ戦にしか勝利できず、最下位でのグループリーグ敗退となった。欧州カップ戦で年を越せなかったのは2002-03シーズン以来6年ぶりのことだった。2009年1月にはステーフェンス監督が辞任し、ドワイト・ローデヴェーヘスが後任監督に就任したが、リーグ戦は最終的に4位で終えた。4位以下に終わったのは1980-81シーズン(5位)以来であり、偶然ではあるが、どちらのシーズンも優勝したのはAZアルクマールだった。1996-97シーズン以降では初めてUEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃し、代わりにUEFAヨーロッパリーグの第1回大会の出場権を得た。

2009年夏には元シャルケ監督のフレット・ルッテンが監督に就任し、2009-10シーズン前半戦は公式戦(国内リーグ、国内カップ、UEFAヨーロッパリーグ)無敗で終えた。FCトゥウェンテも前半戦のリーグ戦を無敗で終えていたため、年明け時点でトゥウェンテに次ぐ2位に付けていたが、後半戦には調子を落として取りこぼしを重ね(2010年最初の10試合は6勝2分2敗)、KNVBカップではフェイエノールトに、UEFAヨーロッパリーグではハンブルガーSVにアウェーゴール差で敗れて大会からの敗退が決まった。2月のNACブレダ戦でリーグ戦初黒星を喫し、3月14日時点ではまだ2位につけていたが、その後アヤックスに抜かれて3位に順位を落とした。引き分けの多さから勝ち点を伸ばすことができず、2シーズン連続でUEFAチャンピオンズリーグ出場権を得られなかった。

2010年10月24日のフェイエノールト戦には10-0で大勝。ジョナタン・レイスが3得点、オラ・トイヴォネンが1得点、イェレマイン・レンスが2得点、ジュジャーク・バラージュが2得点、オルランド・エンヘラールが1得点を挙げた(1点はオウンゴール)。PSVは1973年のゴー・アヘッド・イーグルス戦と1998年のFCフォレンダム戦でも同スコアを記録しており、10点差で勝利するのは3度目だった[8]。2010-11シーズンのUEFAヨーロッパリーグ・決勝トーナメント1回戦ではLOSCリール・メトロポール(フランス)と対戦し、2試合合計5-3で勝利。決勝トーナメント2回戦ではレンジャーズFC(スコットランド)に2試合合計1-0で勝利したが、準々決勝ではSLベンフィカに2試合合計3-6で敗れた。同シーズンの国内リーグ戦ではアヤックスやトゥウェンテとの優勝争いに競り負け、期待外れの3位に終わった。財政問題に悩まされ、資産差し押さえに発展する可能性を消すためにアイントホーフェン市議会から多額の援助を受けた。深刻な財政状況のため、名のある選手の獲得は不可能だった。キャプテンであり英雄的存在のイブラヒム・アフェレイは冬の移籍期間にFCバルセロナ(スペイン)に売却され、2011年夏にはハンガリー人ウインガーのジュジャークが金満クラブ化したFCアンジ・マハチカラ(ロシア)に移籍した。

2011年夏にはドリース・メルテンスティム・マタヴジュなどが加入し、レンタルで加入したポーランド人キーパーのプシェミスワフ・ティトンは後に買い取りオプションが行使されて完全移籍した。2011-12シーズンのUEFAヨーロッパリーグ・グループリーグでは5勝1分のグループ首位で決勝トーナメント進出を決め、決勝トーナメント1回戦ではトラブゾンスポル(トルコ)を破ったが、決勝トーナメント2回戦のバレンシアCF(スペイン)戦ファーストレグには2-4で敗れた。2012年3月12日には成績不振によるフレット・ルッテン監督の解任が発表され、アシスタントコーチのコクーがシーズン終了までの暫定監督に就任。選手やユースチーム監督としてPSVに在籍経験があるFCアイントホーフェン監督のがアシスタントコーチに就任した[9]。コクーの初采配試合となったバレンシア戦セカンドレグに引き分けて大会からの敗退が決まったが、KNVBカップでは決勝でヘラクレス・アルメロに3-0で快勝して7シーズンぶり9回目の優勝を決めた[10]。この試合には約17,000人のPSVサポーターが会場のロッテルダムに押し掛け、オラ・トイヴォネンが華麗なヒールシュートで先制点を決め、メルテンスとレンスが追加点を挙げた。リーグ戦は再び3位に終わってUEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃したが、約4年ぶりのトロフィーとなったKNVBカップの優勝が慰めとなった。4月6日にはオランダサッカー協会による財政指数区分でカテゴリー3に分類された。これは「健全」を表す区分であり、財政強度に基づいて各クラブが分類されている[11]。5月10日には以前にもPSVの監督を務めたディック・アドフォカートが1年契約で正式な監督に就任した[12]

現在 (2010年代 - )

2012年夏、下部組織出身の有望株であるザカリア・ラビアドスポルティングCPに売却され、既に契約を交わしていたデンマーク人のマティアス・イェルゲンセンが加入した。元キャプテンのファン・ボメルがミランから加入し[13]SCヘーレンフェーンからウインガーのルシアーノ・ナルシンを獲得。ヨハン・クライフ・スハールではアヤックスを4-2で下して優勝し[14]、UEFAヨーロッパリーグ・予選プレーオフのFKゼタ(モンテネグロ)戦では2試合合計14-0で圧勝してグループリーグ出場を決めた。グループリーグではFCドニプロ・ドニプロペトロウシク(ウクライナ)、SSCナポリ(イタリア)、AIKソルナ(スウェーデン)と同組となり、ナポリとのアウェーゲームには3-1で勝利したが、これはナポリにとって欧州カップ戦のホームゲームでの18年ぶりの敗北となった[15]。しかしPSVはドニプロとナポリに次ぐグループ3位で大会から敗退した。リーグ戦では前半戦だけで60得点を挙げ、ウィンターブレークの時点で首位に立っていた。2013年1月にはIFエルフスボリ(スウェーデン)からを獲得[16]。2013年夏にクラブOBでもあるフィリップ・コクーが監督に就任し、2014年夏にボルシアMGからルーク・デ・ヨングを完全移籍でバレンシアからアンドレス・グアルダードマンチェスター・シティからカリム・レキクをそれぞれ期限付き移籍で獲得した。2014-15シーズンではメンフィス・デパイやデ・ヨングなどの活躍によって、序盤から好スタートを決め中盤戦で10連勝を含むリーグ戦17戦負けなしを記録し、首位を独走した。2015年4月15日ヘーレンフェーンに4-1で勝利し2007-08シーズン以来となるリーグ制覇を果たした[17]

スタジアムと練習施設

1911年1月、5歳のフリッツ・フィリップス(後にフィリップス社のCEOとなる)によってフィリップス・エルフタルの落成式と初試合が行なわれたが、クラブはまだ創設されていなかった。スタジアムの近隣はフィリップスドルプ(フィリップス村)と呼ばれ、アイントホーフェンの中心部からほど近かった。1913年にクラブが創設してからも、ホームスタジアムは一貫して同じ場所にある。クラブ創設当初はフィリップス・スポルトパルクと呼ばれ、300人収容の小規模なグラウンドだった[1]。1941年には18,000人収容のスタジアムとなり、第二次世界大戦で被災したが、1958年には再び改築されて22,000人収容となった。2000年と2002年にも角部分の改修工事が行なわれ、現在のフィリップス・スタディオンという名称、サッカーの試合開催時の収容人数35,000人に落ち着いた。収容人数を45,000人まで拡張する計画があり、仮に2018 FIFAワールドカップの開催地がオランダ・ベルギーに決定していた場合には計画の実施が決定的だったが、2010年12月に行なわれた投票でFIFAワールドカップの開催地はロシアに決定した。

2000年にオランダとベルギーで共同開催されたUEFA EURO 2000の際には開催地のひとつとなった。2006年にはUEFAカップ決勝の開催地となり、セビージャFC(スペイン)がミドルズブラFC(イングランド)を下して優勝した。2000年代の10年間は1試合平均観客数が31,000人から34,000人で推移しており、アヤックス、フェイエノールトに次いでオランダ第3位である。観客席は全席固定座席で屋根に覆われ、全席が暖房設備を有している。2005年夏にはピッチ周りの高いフェンスが取り除かれ、高さ90cmの手すりに代えられた。許可なくピッチに侵入すると15,000ユーロの罰金と10年間のスタジアム入場禁止処分が科せられる。

スタジアム内にはレッドミシュランオランダ版で1つ星の認定を受けたレストラン (Avant Garde) があり、サッカーの試合を観戦しながら食事を行なうことが可能である。オランダ国内でレッドミシュランの星付きレストランを抱えるスタジアムはここだけである。スタジアムから約3.5km北西にはデ・ヘルドハンフ(De Herdgang)と呼ばれる練習施設があり、天然芝や人工芝のピッチを持つ複合施設である。トップチームは練習を一般公開することもあり、また下部組織(ヨング・PSV)の拠点もデ・ヘルドハンフである。デ・ヘルドハンフの近くにはフィリップス・ヨンフパルクという緑豊かな公園がある。

エールディヴィジのビッグ3の1試合平均観客数[18]
シーズン平均観客数
アヤックスPSVフェイエノールト
1997-9848,423人27,865人25,042人
1998-9941,275人26,550人31,231人
1999-0040,866人28,441人31,532人
2000-0136,280人31,735人37,609人
2001-0236,328人31,494人39,903人
2002-0347,571人33,106人43,124人
2003-0448,996人32,853人41,412人
2004-0548,031人31,806人39,329人
2005-0646,006人33,088人41,294人
2006-0748,551人33,601人40,676人
2007-0849,092人33,576人44,853人
2008-0949,014人33,406人44,044人
2009-1048,681人33,424人43,882人
2010-1147,316人33,612人42,124人
2011-1250,417人33,353人44,781人
2012-1350,490人33,082人45,147人
2013-1450,907人33,553人45,606人

タイトル

国内タイトル

  • エールディヴィジ:21回
    • 1962-63, 1974-75, 1975-76, 1977-78, 1985-86, 1986-87, 1987-88, 1988-89, 1990-91, 1991-92, 1996-97, 1999-00, 2000-01, 2002-03, 2004-05, 2005-06, 2006-07, 2007-08, 2014-15, 2015-16, 2017-18
  • KNVBカップ:9回
    • 1949-50, 1973-74, 1975-76, 1987-88, 1988-89, 1989-90, 1995-96, 2004-05, 2011-12

国際タイトル

親善タイトル

  • フィリップス・トーナメント:3回
    • 1982, 1984, 1985
  • トルネオ・インテルナシオナル・デ・フトボル・デ・マスパロマス:3回
    • 1984, 1985, 2000
  • トロフェオ・ビラ・デ・マドリード:1回
    • 1984
  • ポリッシュ・マスターズ・カップ:1回
    • 2012

成績

スポンサー

種類名称業種
メインスポンサーオランダの旗 フィリップス家電
オフィシャルパートナーアメリカ合衆国の旗 ナイキスポーツ用品
ドイツの旗 メルセデス・ベンツ自動車
オランダの旗 ババリアビールビール
オランダの旗 ラボバンク銀行
オランダの旗 VDL グループ工業品製造
ベルギーの旗 BDOインターナショナル会計事務
デ・ラーゲ・ランデン
バニング
フレオ
Driessen HRM Payroll
Menzis
オフィシャルサプライヤーアメリカ合衆国の旗 コカ・コーラ 飲料
アスロン・カー・リース自動車リース
GymnaUniphy[1]メディカルサポート
Gentiluomo
Maison van den Boer

現所属メンバー

2020-21シーズン 開幕戦フォーメーション
2021年1月16日時点[19]
No.Pos.選手名
4オランダの旗DFニック・フィールヘフェル
5ドイツの旗DFティモ・バウムガルトル
6コートジボワールの旗MFイブラヒム・サンガレ
7イスラエルの旗FWエラン・ザハヴィ (Flag of France.svg)
9オランダの旗FWドニエル・マレン (Flag of Suriname.svg)
10オランダの旗MFモハメド・イハッターレン (Flag of Morocco.svg)
11ドイツの旗MF
13ドイツの旗GKラース・ウンナーシュタル
14オランダの旗MFマルコ・ファン・ヒンケル
15メキシコの旗MFエリック・グティエレス
16ドイツの旗GK
17ブラジルの旗MFマウロ・ジュニオール
18オランダの旗MFパブロ・ロサリオ (Flag of Dominican Republic.svg)
19オランダの旗FWコーディ・ガクポ (Flag of Togo.svg)
No.Pos.選手名
20アルゼンチンの旗FWマキシ・ロメロ
21ベルギーの旗GK
22オランダの旗DFデンゼル・ダンフリース (Flag of Aruba.svg)
23イングランドの旗FWノニ・マドゥエケ (Flag of Nigeria.svg)
24オランダの旗DFアルマンド・オビスポ
27ドイツの旗MFマリオ・ゲッツェ
28フランスの旗DFオリヴィエ・ボスカリ
29オランダの旗FWヨエル・ピロー (Flag of Suriname.svg)
30ニュージーランドの旗MFライアン・トーマス (Flag of England.svg)
31ドイツの旗DFフィリップ・マックス
33オランダの旗DFジョーダン・テゼ (Flag of Congo.svg)
38スイスの旗GKイボン・ムボゴ (Flag of Cameroon.svg) ★
53ベルギーの旗FW

※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。

ローン移籍選手

in
No.Pos.選手名
11ドイツの旗MF (FCバイエルン・ミュンヘン)
No.Pos.選手名
38スイスの旗GKイボン・ムボゴ (RBライプツィヒ)
out
No.Pos.選手名
--オランダの旗DFデリック・ルカッセン (RSCアンデルレヒト)
--ベルギーの旗MFダンテ・リゴ (ADOデン・ハーグ)
--チェコの旗MFミハル・サジレク (FCスロヴァン・リベレツ)
No.Pos.選手名
--日本の旗FW堂安律 (アルミニア・ビーレフェルト)
--ポルトガルの旗FWブルマ (オリンピアコスFC)

新加入選手

No.Pos.選手名
--オーストリアの旗DFフィリップ・ムウェネ
No.Pos.選手名

欠番

12 - サポーター 99 - フォクシー(クラブのマスコット)

歴代会長

  • 1913-1920 J・W・ホフケス
  • 1920-1921 J・ファン・デル・レール
  • 1921-1925 J・W・ホフケス
  • 1925-1926 N・ハルベルツマ
  • 1926-1927 A・ブルークマン
  • 1927-1928 J・スミッツ
  • 1928-1932 A・カース
  • 1932-1939 A・ファン・アンローイ
  • 1939-1945 C・M・モレルス
  • 1945-1951 A・ヴォールウィンデ
  • 1951-1954 C・M・モレルス
  • 1954-1963 A・ファン・ストリーン
  • 1963-1970 M・J・ヤンセン・フラチョン
  • 1970-1983 A・P・フルーネヴェルト
  • 1983-1993 J・H・ルッツ
  • 1993-1996 W・G・マエイェル
  • 1996-2004 ハリー・ファン・ラーエイ
  • 2005-2010 フリッツ・スフイテマ
  • 2010- R・W・J・フェルケルク


歴代監督

在任期間名前獲得タイトル
国内
リーグ
国内
カップ
国内スー
パーカップ
欧州
カップ
その他
1914-1916オランダの旗 ケース・メインデルス
1916-1921オランダの旗 ワウト・バイテンウェフ
1921-1922オランダの旗 ヤン・ボス
1922-1926イングランドの旗
1926-1927オランダの旗 ベン・ホーフステーデ
1927-1928オランダの旗 イグナス・クレイン
1928-1929オランダの旗 ヨープ・クレイン・ウェンティンク1
1929-1935イングランドの旗1
1935-1938イングランドの旗
1938-1942オランダの旗 ヤン・ファン・デン・ブルーク
1942-1945オランダの旗 クーエン・デルセン
1945-1951イングランドの旗11
1951-1952イングランドの旗
1952-1956オランダの旗 ハイプ・デ・レーウ
1956-1957ユーゴスラビアの旗
1957-1958イングランドの旗
1958-1959オランダの旗 ケース・ファン・ダイケ
1959-1960ユーゴスラビアの旗
1960-1962オーストリアの旗 フランツ・ビンダー
1962-1967オランダの旗1
1967ユーゴスラビアの旗 ミラン・ニコリッチ
1967-1968オランダの旗 ウィム・ブロクランド
1968.7-1972.6ドイツの旗
1972.7-1979.12オランダの旗321 (UC)
1979.12-1980.6オランダの旗
1980.7-1983.6オランダの旗
1983.7-1986.6オランダの旗1
1986.7-1987.3オランダの旗
1987.3-1990.6オランダの旗 フース・ヒディンク331 (CC)
1990.7-1992.6イングランドの旗 ボビー・ロブソン2
1992.7-1993.6オランダの旗1
1993.7-1994.10オランダの旗 ア・デ・モス
1994.10-1994.12オランダの旗
1994.12-1998.6オランダの旗 ディック・アドフォカート112
1998.7-1999.6イングランドの旗 ボビー・ロブソン1
1999.7-2002.5ベルギーの旗 エリック・ヘレツ22
2002.7-2006.6オランダの旗 フース・ヒディンク311
2006.7-2007.10オランダの旗 ロナルド・クーマン1
2007.11-2007.12オランダの旗 ヤン・ボウタース
2008.1-2008.6オランダの旗 セフ・フェルホーセン1
2008.7-2009.1オランダの旗1
2009.1-2009.6オランダの旗 ドワイト・ローデヴェーヘス
2009.7-2012.3オランダの旗 フレット・ルッテン
2012.3-2012.6オランダの旗 フィリップ・コクー1
2012.7-2013.6オランダの旗 ディック・アドフォカート1
2013.7-2018.6オランダの旗 フィリップ・コクー32
2018.6-2019.12オランダの旗 マルク・ファン・ボメル
2019.12-2020.4オランダの旗
2020.4-ドイツの旗 ロガー・シュミット

歴代所属選手

歴代主将

選手背番号在籍期間在任期間
オランダの旗1927-19321928-
オランダの旗1926-1942
オランダの旗1937-1955
オランダの旗1954-19651954-1965
オランダの旗 ヴィリー・ファン・デル・カイレン1964-19811965-1973
オランダの旗 ヤン・ファン・ベベレン11970-19831973-1983
ノルウェーの旗91981-19881983-1986
オランダの旗 ルート・フリット101985-19871986-1987
ベルギーの旗 エリック・ヘレツ21985-19921987-1992
オランダの旗41986-19931992-1993
オランダの旗 エルウィン・クーマン31979-1982, 1990-19941993-1994
オランダの旗 アーサー・ニューマン51992-19981994-1998
ベルギーの旗 ルク・ニリス101994-20001998-2000
オランダの旗 マルク・ファン・ボメル61999-2005, 2012-20132000-2005, 2012-2013
オランダの旗 フィリップ・コクー81995-1998, 2004-20072005-2007
ベルギーの旗 ティミー・シモンス62005-20102007-2010
オランダの旗 イブラヒム・アフェレイ202003-20102010
オランダの旗 オルランド・エンヘラール82009-20132011
スウェーデンの旗 オラ・トイヴォネン72009-20132011-12
オランダの旗 ジョルジニオ・ワイナルドゥム102011-20152013-2015
オランダの旗 ルーク・デ・ヨング92014-20192015-2019
オランダの旗 イブラヒム・アフェレイ172019-2019-

クラブ記録保持者

通算得点数
1シーズン最多得点数
通算出場試合数
連続無失点時間
  • 1位 ブラジルの旗 ゴメス / オランダの旗 - 1159分 (2004年、オランダ記録)
  • 2位 ブラジルの旗 ゴメス - 957分 (2006年10月 - 12月)
  • 3位 ブラジルの旗 ゴメス - 817分 (2006年2月 - 4月)

GK


DF


MF


FW


サッカー以外のスポーツ

PSVアイントホーフェンと呼ばれているクラブは17あり、全てフィリップス・スポーツ・ユニオン(Federatie van Philips Sport Verenigingen)のメンバーである。20種類のスポーツに5000人以上の会員がいる(2003年現在)。

PSVアイントホーフェンの水泳クラブ所属であるピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドインヘ・デブルーインは、2000年シドニーオリンピック競泳で8つのメダル(内5個の金メダル)を占めた。水泳クラブはサッカーの次に知られているが、そのほかのクラブもそれぞれの国内競技会で高いレベルにある。

脚注

外部リンク

中山雄太

中山 雄太(なかやま ゆうた、1997年2月16日 - )は、茨城県龍ケ崎市出身のサッカー選手[1]エールディヴィジPECズヴォレ所属。ポジションはディフェンダーミッドフィールダー日本代表

来歴

プロ入り前

茨城県龍ケ崎市教員の両親のもとに生まれ、小学校1年時に兄が所属していた北文間スポーツ少年団に加入し、本格的にサッカーを始めた[2][3]。龍ケ崎市立愛宕中学校サッカー部でプレーしていた中学2年時に茨城県トレセンに選出され、練習試合で柏レイソルU-15と対戦した際にスカウトを受け、中学3年時から柏の下部組織に入団した[2]

下部組織時代は中盤からディフェンスラインまで様々なポジションを経験し[4]、高校2年時の2013年7月には、若干16歳ながらトップチームに2種登録された[5]。高校3年時にはチームの主将を務め[4]高円宮杯U-18サッカーリーグ プレミアリーグEASTでクラブ史上初の優勝を達成した[6]

柏レイソル

2015年、同期の大島康樹と共にトップチームへ昇格[7]。同年5月6日AFCチャンピオンズリーグ2015グループリーグ第6節ベカメックス・ビンズオン戦でプロデビューを飾り、6月23日J1 1stステージ第13節ガンバ大阪戦でリーグ戦初出場を果たした。8月25日のACL準々決勝第1戦広州恒大戦では大谷秀和の負傷欠場を受け、インサイドハーフのポジションで先発出場した[8]

2016年、下部組織時代に指導を受けた下平隆宏が監督に就任するとスターティングメンバーに定着[9]3月27日ヤマザキナビスコカップグループステージ第2節ベガルタ仙台戦で出場時間450分を達成し、プロA契約を締結した[10]。1stステージでは左サイドバックウイングバック)として出場することもあったが[9][11]、2ndステージに入ると同じ下部組織出身で1学年先輩の中谷進之介と共にセンターバックの定位置を確保し[12][13]7月13日の2ndステージ第3節サンフレッチェ広島戦でコーナーキックからプロ初得点を決めた[14]

2017年は引き続きセンターバックのレギュラーとして、FIFA U-20ワールドカップ出場による離脱期間と退場処分のサスペンションを除くリーグ戦全30試合に出場。同年のJリーグベストヤングプレーヤー賞を受賞し[15]、満23歳以下のJリーグ所属選手を対象としたTAG Heuer YOUNG GUNS AWARD・ベストイレブンにも選出された[16]

PECズヴォレ

2019年1月14日、PECズヴォレへの完全移籍が発表された[17]。3月31日、第27節のFCエメン戦で途中出場して移籍後初出場を果たした[18]。2020年1月17日、第19節のFCユトレヒト戦で移籍後初ゴールを決めた[19]

日本代表

2012年7月、U-16日本代表に初招集され、イラン遠征に参加[20]。以降は各年代別代表でキャプテンを務めるなど主軸として活躍し[1][21][22]、2016年10月のAFC U-19選手権では準決勝ベトナム戦を除く5試合で冨安健洋とセンターバックを組み、全試合を無失点に抑えて大会初優勝を達成した[23][24][25][26]

2017年、FIFA U-20ワールドカップのメンバーにも選出される。本大会でも再び冨安と共に全試合にフル出場し、グループリーグ第2戦ウルグアイ戦からはゲームキャプテンを務め、ベスト16進出に貢献した[27][28]

2019年5月23日キリンチャレンジカップの日本代表メンバーに選出[29]。その翌日に発表されたコパ・アメリカに臨む東京五輪世代中心で構成された日本代表にも選出された[30][31]。6月18日、コパ・アメリカ初戦のチリ戦でスタメン出場し、代表デビューを果たした[32]

人物

所属クラブ

ユース経歴
  • 2003年 - 2008年 北文間スポーツ少年団 (龍ケ崎市立北文間小学校)
  • 2009年 - 2010年 龍ケ崎市立愛宕中学校サッカー部 (龍ケ崎市立愛宕中学校)
  • 2011年 柏レイソルU-15 (龍ケ崎市立愛宕中学校)
  • 2012年 - 2014年 柏レイソルU-18 (千葉県立柏南高等学校)
プロ経歴

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグリーグ戦リーグ杯オープン杯期間通算
出場得点出場得点出場得点出場得点
日本リーグ戦リーグ杯天皇杯期間通算
201529J110100020
20162624020322
201753014040381
20181932000213
オランダリーグ戦リーグ杯KNVBカップ期間通算
2018-19PECズヴォレ4エールディヴィジ40-0040
2019-20142-10152
2020-21322--10332
通算日本J176611060936
オランダエールディヴィジ504-20524
総通算126101108014510
国際大会個人成績
年度クラブ背番号出場得点
AFCACL
20152920
2018530
通算AFC50
その他の公式戦
国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグリーグ戦期間通算
出場得点出場得点
日本リーグ戦期間通算
2015J-22-J3120120
通算日本J3120120
総通算120120
その他の国際公式戦

出場歴

タイトル

クラブ

柏レイソルU-15
柏レイソルU-18
柏レイソル

代表

U-19日本代表

個人

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 5試合 0得点(2019年 - )


日本代表国際Aマッチ
出場得点
201910
202040
2021
通算50

出場

No.開催日開催都市スタジアム対戦国結果監督大会
1.2019年6月17日ブラジルの旗サンパウロエスタジオ・ド・モルンビーチリの旗 チリ●0-4森保一コパ・アメリカ2019
2.2020年10月9日オランダの旗ユトレヒトスタディオン・ハルヘンワールトカメルーンの旗 カメルーン△0-0森保一国際親善試合
3.2020年10月13日オランダの旗ユトレヒトスタディオン・ハルヘンワールトコートジボワールの旗 コートジボワール○1-0森保一国際親善試合
4.2020年11月13日オーストリアの旗グラーツメルクール・アレーナパナマの旗 パナマ○1-0森保一国際親善試合
5.2020年11月17日オーストリアの旗グラーツメルクール・アレーナメキシコの旗 メキシコ●0-2森保一国際親善試合

脚注

  1. ^ a b “柏レイソル中山選手(U-19日本代表)が母校・愛宕中を訪問(9/14)【愛宕中学校】” (プレスリリース), 龍ケ崎市, (2016年9月12日), http://www.city.ryugasaki.ibaraki.jp/news/2016pressrelease/file_contents/280912b.pdf 
  2. ^ a b 川端暁彦 (2016年12月26日). “課題を成長の糧に変える中山雄太 東京五輪世代、過去と今と可能性 (2)”. スポーツナビ. 2016年12月31日閲覧。
  3. ^ a b c 高田文太 (2017年5月19日). “中山雄太「一流」夢見るミスターパーフェクト/連載”. 日刊スポーツ. 2017年8月22日閲覧。
  4. ^ a b 柏U-18MF中山雄太(2年) 「前で勝負」トップチームキャンプ参加の長身レフティーが先制ミドル”. ゲキサカ (2014年2月25日). 2014年12月24日閲覧。
  5. ^ “柏レイソルU-18所属中谷進之介選手、中山雄太選手がトップチーム選手登録” (プレスリリース), 柏レイソル, (2013年7月12日), http://blog.reysol.co.jp/news/2013/015453.html 
  6. ^ 日本一目指す柏U-18主将MF中山、プレミア制覇は「通過点」”. ゲキサカ (2014年11月30日). 2015年1月18日閲覧。
  7. ^ “柏レイソルU-18所属 中山 雄太選手 トップチームへ来季新加入” (プレスリリース), 柏レイソル, (2014年12月24日), http://blog.reysol.co.jp/news/2014/013207.html 
  8. ^ 鈴木潤 (2015年9月5日). “中山雄太が得たもの「負けて変わらないことはもっといけない」【柏レイソル】”. J論. 2016年10月16日閲覧。
  9. ^ a b 藤江直人 (2016年5月12日). “柏・監督交代後の快進撃。川崎F戦黒星も視線は前へ。主軸担うアカデミー出身者たち”. フットボールチャンネル. 2016年11月5日閲覧。
  10. ^ “中山 雄太選手 プロA契約へ変更” (プレスリリース), 柏レイソル, (2016年4月7日), http://blog.reysol.co.jp/news/2016/014526.html 
  11. ^ 山本昌邦 (2016年5月11日). “Jリーグ指導者に新しい波 清新なエネルギー発散”. 日本経済新聞. 2016年11月5日閲覧。
  12. ^ 川端暁彦 (2016年10月18日). “【コラム】無失点続くU19日本、守備の要は“冷静な闘志”を燃やすDF中山雄太”. SOCCER KING. 2016年11月5日閲覧。
  13. ^ 熊崎敬 (2016年9月11日). “底知れぬ大器。柏の19歳CBが吉田&森重の牙城を脅かす!?”. サッカーダイジェストWeb. 2016年11月5日閲覧。
  14. ^ 【柏】“東京五輪世代”19歳中山がプロ1号「日立台で取れたのは本当に良かった」”. スポーツ報知 (2016年7月14日). 2016年11月5日閲覧。
  15. ^ “中山 雄太選手が『2017Jリーグ ベストヤングプレーヤー賞』受賞” (プレスリリース), 柏レイソル, (2017年12月5日), http://blog.reysol.co.jp/news/2017/016145.html 
  16. ^ 受賞選手11人が決定!【TAG Heuer YOUNG GUNS AWARD】”. Jリーグ (2017年12月4日). 2017年12月5日閲覧。
  17. ^ “中山 雄太選手 PECズヴォレへ移籍” (プレスリリース), 柏レイソル, (2019年1月14日), https://www.reysol.co.jp/news/topteam/001558.html 
  18. ^ ようやくつかんだ出場機会…中山雄太、途中出場でオランダデビュー ゲキサカ(2019年3月31日)
  19. ^ 中山雄太がオランダ初ゴール。東京五輪世代の主将が2020年好発進フットボールチャンネル(2020年1月18日)2020年1月18日閲覧。
  20. ^ “U-16日本代表 イラン遠征(7/8~17)選手変更のお知らせ” (プレスリリース), 日本サッカー協会, (2012年7月10日), http://www.jfa.or.jp/national_team/topics/2012/343.html 
  21. ^ U-19代表のリーダー格、CB中山雄太(柏)がキャプテンマークを巻いた”. ゲキサカ (2016年3月11日). 2016年11月5日閲覧。
  22. ^ 安藤隆人 (2016年5月19日). “U-19代表がフランスに1-3完敗。ボランチ中山雄太は何を感じた?”. Number Web. 2016年11月5日閲覧。
  23. ^ U19アジア選手権 中山・冨安、将来担うセンターバック 4戦連続無失点チーム支える”. 毎日新聞 (2016年10月26日). 2016年11月5日閲覧。
  24. ^ 堅守支える中山と冨安=狙う無失点優勝-サッカーU19日本代表”. 時事ドットコム (2016年10月29日). 2016年11月5日閲覧。
  25. ^ 【U-19代表】全6試合を無失点でアジア初制覇! 守備の要・中山雄太が掴んだもの”. サッカーダイジェストWeb (2016年10月31日). 2016年11月5日閲覧。
  26. ^ 安藤隆人 (2016年10月31日). “U-19選手権は最強DFで無失点優勝!アジア最強チーム、今後の伸びしろ。”. Number Web. 2016年11月5日閲覧。
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  32. ^ 【日本代表スタメン発表】久保建英、中島翔哉ら先発! 大迫敬介など6人がデビューへ フットボールチャンネル 2019年6月18日
  33. ^ 柏レイソル (2016年9月14日). “2016/09/14 中山選手 学校訪問”. Facebook. 2016年10月16日閲覧。
  34. ^ 中山雄太が母校で講演 サッカーU-19主将の中学生活 龍ケ崎市”. 常陽新聞 (2016年9月14日). 2016年10月18日閲覧。
  35. ^ “中山 雄太選手が『U‐19日本代表』を辞退” (プレスリリース), 柏レイソル, (2016年3月17日), http://blog.reysol.co.jp/news/2016/014463.html 

関連項目

外部リンク


 

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