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🇯🇵|大相撲 寺沢改め朝乃若、平戸海が新十両、荒篤山が再十両 九州場所編成会議


写真 新十両昇進しリモート会見で笑顔の平戸海(日本相撲協会提供)

大相撲 寺沢改め朝乃若、平戸海が新十両、荒篤山が再十両 九州場所編成会議

 
内容をざっくり書くと
日本相撲協会は29日、九州場所(11月14日初日、福岡国際センター)の番付編成会議を行い、寺沢改め朝乃若(26)=高砂、平戸海(21)=境川=の新十両昇進を決めた。
 

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番付

番付(ばんづけ)は、大相撲における力士の順位表。正式には番付表という。ここから転じてその他さまざまなものの順位付けの意味でも用いられる(長者番付など)。

由来

古くは興行の場所に「興行札」という木の掲示板を立て、興行日時と、出場力士の名前と序列を明らかにした。古番付が基本的に写本の形式で伝承されているのはそのためである。しかし、興行の規模が拡大し、広く告知する必要が生じたために、木版印刷の形式で番付を発行(享保年間(17161735年)に木版印刷となる)し、直接相撲場に行く前に、興行の概要を知ることができるようにした。現在でもこの流れを継いで、行司による毛筆書きを写真製版して印刷している。江戸の相撲では、現在宝暦年間(1755年頃)以来の印刷された番付が確認されている。日本相撲協会によれば、1757年(宝暦7年)に縦一枚形式の番付が初めて発行され[1]2007年(平成19年)は発行250周年にあたるという。大坂相撲では、1869年(明治2年)3月場所より江戸時代からの横東西二枚番付を、初めて縦一枚番付の江戸風に改めて発行した[2]。古番付の記録として最古のものは、1699年(元禄12年)5月に京都岡崎天王社において勧進相撲が興行された時のもので、三役の名称もこの番付が初見である。大坂で最古の番付は1702年(元禄15年)4月、大坂堀江勧進相撲公許興行の時のもので、以後享保年間の頃より大坂・京都番付を多くみる。

特徴

番付は単なる順位表ではない。その特徴は以下のようなものである。

  • 対象物(力士など)を順位によって並べる。この順位は、最も新しい結果を反映させる。
  • 大きくランクに分ける。いわゆる横綱から序ノ口までのような段階に分けてある。この区分は総合的な評価によって行われ、勝負結果などを単純に反映しない。紙上での表記にその差は反映され、格が上の力士ほど字が大きく、立派に描かれる。
  • 全体を東西に分け、紙面上ではそれを左右に振り分け、ほぼ同格のものを対称の位置に並べる。

すでに江戸時代にはこの形式を借りて、古典園芸植物の品種や各地の名所、温泉三味線演奏家、遊女、本拳(数拳/崎陽拳/豁拳)や藤八拳(東八拳)といった拳遊び落語講談などの寄席芸人歌舞伎役者など、ありとあらゆるものをランク付けし、それを番付表として出版することが盛んに行われた。これら相撲以外の様々なものを番付にしたものは「見立て番付」「変わり番付」などと呼ばれる。

格下のものが上位のものを倒す「番狂わせ」などの言葉はここから発している。

大相撲の番付

大相撲に所属する力士は本場所の成績によって地位が序列づけられており、毎場所後に行われる番付編成会議で地位が上下する。

現行制度における番付の地位・定員一覧
地位定員
関取幕内横綱不定(不在でもよい)42名
大関不定(下限2名)[3]
関脇不定(下限2名)
小結不定(下限2名)
前頭不定
十両28名
力士養成員幕下120名[4]
三段目200名[5]
序二段不定
序ノ口不定
番付外[6]不定

番付編成

毎場所後に番付編成会議が招集され(明文化された規定では「千秋楽から3日以内」とされており、慣例上3日後に開かれることが多い)、場所の成績をもとに翌場所の番付が編成される。

会議は審判部長が主宰し、副部長以下審判部員、副理事が出席し、発言権はないが書記として行司も同席する[7]

編成された番付はその場では発表されず、翌場所の直前に発表される。従来は初日の8日前の土曜日に発表していたが、1970年(昭和45年)からは、他のスポーツ行事が少ない月曜日なら新聞の扱いが大きくなることを考慮して、番付発表を本場所初日の13日前の月曜日発表に変更した。1月場所の番付発表は、年末年始の繁忙期に配慮して13日前よりも早まる。

力士の地位やそれに伴う待遇は、原則翌場所の番付発表までは前場所の地位に応じたものとなる。例外として、横綱・大関に昇進する力士については番付編成会議終了後直ちに昇進伝達式を行い、該当力士はこの時点から横綱・大関としての待遇を受けるようになる。また、十両昇進力士(新十両・再十両問わず)についても、本人の待遇が幕下以下と大きく変化することや化粧廻しの新調といった準備に配慮して、昇進の事実のみが公式に発表される(1971年(昭和46年)より開始)。ただし、この例はあくまで「内示」であり、該当力士の扱いは番付発表まで幕下力士のままである。

新番付は発表日まで極秘とされているが、朝日新聞相撲記者の抜井規泰はこれを「建前」であると述べており[8]、報道関係者が事前に新番付を把握していることを示唆している。インターネットの普及した現代では発表時刻である午前6時を過ぎた直後から各社のサイト上に番付発表関連の記事が掲載され、特に共同通信社の運営する携帯電話サイト「スポーツアイランド」には全力士の番付が掲載されるなど、実際に「極秘」であるとすれば説明のつかない事態となっていることからもこうした状況がうかがえる。

番付の昇進・陥落の基準・目安
  • 横綱
    • 横綱への昇進基準は、横綱審議委員会(横審)の内規では、「品格、力量が抜群であること」と示されている。
    • 審判部がある力士を横綱に昇進させたいと判断した場合、理事長は審判部長からの要請を受けて横審に当該力士の横綱推薦について諮問する。諮問を受けた横審は当該力士が横綱にふさわしいか、「品格」「力量」それぞれについて審査する。「力量」については「大関で2場所連続優勝」が原則とされ、これに準ずる成績の力士を昇進させることも可能である。「品格」については土俵上の振る舞いのみならず日常の生活態度までもが審査の対象である。横審からの答申を受けて理事長は臨時理事会を招集し、理事会において横綱昇進について決議し、正式に昇進の可否を決定するが、理事会で答申が覆された例はないので、横審の答申後に事実上決定することになる。
    • 横綱は本場所の結果を理由として下位に陥落することはないが、それゆえ不振が続けば引退を迫られる。成績不振の横綱に対しては横審の決議により「激励」「注意」「引退勧告」等がなされる。
    • 詳細は横綱及び横綱審議委員会を参照。
  • 大関
    • 大関への昇進については明確に定められている基準はないが、目安としては、近年は「直近3場所が三役(関脇・小結)で、その合計の白星数が33勝以上」というものが定着している(関脇への陥落直後の大関特例復帰は例外)。
    • 審判部がある力士を大関に昇進させたいと判断した場合、審判部長は理事長に当該力士の大関昇進の可否を審議する臨時理事会の開催を要請するが、理事会で昇進が見送られた例はないので、審判部長が臨時理事会の開催を要請した時点で事実上決定すると言われる。
    • 大関からの陥落については、現在「2場所連続の負け越しで関脇に陥落する」という明確に定められている規定が存在し、その際関脇の中では最下位に据えられるのが通例である。1場所目に負け越した後の、もう1場所負け越せば陥落する状況を角番と呼ぶ。大関陥落直後の関脇については、10勝以上を挙げると大関特例復帰となることが規定されている。
    • 大関#大関への昇進の項目も参照。
  • 関脇以下の関取(関脇・小結前頭(平幕)・十両
    • 昇進及び陥落について、明確な基準はない。勝ち越し1点につき1枚上がり、負け越し1点につき1枚下がるのが目安と言われているが、「番付は生き物」と言われるように、他の力士との兼ね合いや番付運などでその目安から多少外れることも多い。幕内上位では大勝ちしても(現在では関脇以下がいきなり横綱に昇進することはもちろん、小結以下がいきなり大関に昇進することもよほど特殊な状況にならない限りありえず、)上昇幅がそれほど大きくないのは当然として、幕内下位や十両でも大体12勝以上の大勝ちや、大体12敗以上の大負けの場合、昇降幅が勝ち越し・負け越し点数より若干少なくなる傾向がある。
    • 関脇・小結については、横綱・大関に比べると同じ地位に3人以上の力士が在籍する(かつての張出に相当)ことは少ない。近年でも時として3関脇が発生することがある(大関からの陥落者や小結の好成績者がいる場合など)が、3小結以上は近年ではかなり珍しい。
  • 力士養成員幕下三段目序二段序ノ口番付外
    • 昇進及び陥落については、以下の規定、また昇進確実とされる状況が存在する。
      • 幕下15枚目以内で7戦全勝した力士は、優先的に十両昇進の対象となる内規がある。
      • 内規ではないが、東幕下筆頭で勝ち越した力士は、翌場所の十両昇進が確実とされる。
      • 幕下の16枚目以下で7戦全勝した力士は、翌場所の番付は幕下の15枚目以内となる。
      • 三段目以下で7戦全勝した力士は、1つ上の段に昇進する。
      • 番付外から序ノ口への昇進(出世)は、1番でも前相撲を取った力士(全休力士以外)が全員対象となる。
      • 序ノ口から番付外への陥落は、全休力士のみが対象となる。
    • これらに当てはまらない場合の昇進及び陥落については、明確な基準がなく、「番付は生き物」と言われるように、成績と翌場所の地位との関係は一定ではないが、関取と比べると1番の重みが大きく、例えば幕下上位で勝ち越した場合の上昇幅は勝ち越し点の2倍が目安となるし、三段目や序二段では勝ち越し・負け越し1点につき10枚ないし数十枚上下するなど、番付が急激に変化する。
    • 序ノ口では負け越しても、新弟子に押し上げられる形で序二段に昇進するなど、番付が上昇することが起こり得る。
    • 幕下及び序ノ口で八番相撲を取った力士の場合、八番相撲での白星は番付編成に反映されるが、八番相撲での黒星は番付編成に反映されない。これを勝ち得・負け得と呼ぶ。
  • 休場は負けと見なして番付が編成されるが、全休の場合は全敗より低い成績という扱いとなる。すなわち関脇以下の力士の場合、全休力士は全敗力士より下降幅が大きくなる。[要出典]
  • 特殊な状況では、通常と大きく異なる番付編成がなされることもある。実例としては、1932年の春秋園事件で大量の脱退者が出た影響で幕下から直接幕内に昇進した力士がいた例、1967年の番付の定員削減で勝ち越したにもかかわらず番付が降下した力士がいた例、2011年の大相撲八百長問題で大量の引退者が出た影響で幕内下位・十両・幕下上位で負け越したにもかかわらず番付が上昇した力士がいた例などがそれである。また実例はないが横綱と大関の合計人数が1人以下になった場合も、前述の大関昇進の目安に関係なく関脇以下からの穴埋めによって大関が強引にでも作られることになる。

番付は生き物

現行の番付編成では上位から順に該当力士を決定していくが、各階級には定員が設けられているため、上位の階級に昇進するに充分な成績を挙げながら定員に阻まれて昇進できなかった例も、上位の階級の定員を充足できないために成績が不足している力士を繰り上げで昇進させた例も数多く存在する。降格の場合も同様である。該当力士が複数存在する場合にどの力士を上位の階級に昇進させるか、同階級内でもどの力士をより上位に遇するか、番付編成ごとに編成会議出席者は頭を悩ませる。

成績と翌場所の番付の昇進・降格幅は一定ではなく、他力士の成績や昇進・降格幅に大きく左右される。そのため、同地位・同成績でありながら翌場所の番付に大差がつくこともある。こうした番付編成の状況を表す言葉を「番付は生き物」と言い、この言葉は全ての階級で適用されている。力士自身は決定された番付に異を唱えることはできず、結果として力士にとって昇進・降格に際し多少の誤差や運・不運が含まれることはこの言葉で甘受すべきであると認識されている。

番付表

力士記載

番付表には力士の地位、出身地、四股名が表記される。

最上部には力士の地位が記載される。幕内力士については、そのまま「横綱」「大関」「関脇」「小結」「前頭」と表記されるが、十両以下についても番付表記上は全員「前頭」の扱いとなる。十両力士については一人ずつ「前頭」と明記されるが、幕下以下の力士については数個の「同」表記で済ませる(幕下については文字同士をつなげて「同司司…」と表記され、三段目以下はさらに文字が簡略化される)。

地位の下に書かれる出身地は、江戸時代名(お抱え大名の地域)で書かれることもあったが、明治以降は該当力士の出身地が表記されることになった。当初は律令国別だったが、1934年(昭和9年)5月場所より横綱以下全力士の国別出身地名が表記され、1948年(昭和23年)5月場所より出身地名を含む都道府県名の表記、1956年(昭和31年)3月場所より全て都道府県名で表記されるようになった。幕下以下の場合は、実際の出身地にかかわらず、〈江戸〉(江戸時代)または〈東京〉(明治以降)の表示でまとめられることが昭和初期まで多かった。外国出身力士については国や地域名で表記されており、アメリカ合衆国は「米国」、大韓民国は「韓国」、中華人民共和国は「中国」、台湾は「台湾」、その他の国は日本語発音に基づくカタカナ表記となっている。

出身地として表記される地名・国名に厳密な定義はなく、自己申告に基づき、本人と何らかの縁のある地名を表記している。このため本人の意向により変更されることがある。外国を出身地としていた力士が日本国籍を取得しても出身地が日本国内に変更されることは稀であるほか、当時在日韓国人であることを公表し韓国名を本名としていた金開山栃乃若なども生まれ育った日本国内を出身地としており、番付上の出身地は必ずしも国籍を表すものではない。また、幕下付出力士の場合は初土俵を踏んだ場所の取組において本籍地がそのまま場内に紹介されてしまうことがあり、上林(番付上の出身地は山形県)は近畿大学の所在地である大阪府、山口(当時の番付上の出身地は東京都、のちに番付上も福岡県に変更)は祖父の出身地である福岡県が出身地としてアナウンスされ、いずれも場所中に訂正された。

下半分に四股名が表記される。その表記について、過去の番付においては「高」の字をはしご高(髙)で書くことがあったり(現在の番付では「高」と「髙」は完全に区別して書かれている)、また番付の字はおおむね極端な長方形でできている。そのためデザイン的な理由から、(へん)と(つくり)を上下に並び替えることなど自由自在である。バランスをとるために〈木へん〉や〈山へん〉をかんむりのように書く(松→枩、峰→峯、嶋→嶌などのように、同様に「梅」の字も「木」の下に「毎」を書くことがある。また「海」の字の場合は「毎」の下に「水」を書く(𣴴)。平安時代初期の空海もこのような字を書いたことがあり、これらは実際に昔からある書き方である)、特に番付下位では略字を使うような、本来の正確な四股名とは異なることがあるので注意が必要である。

改名力士及び年寄名跡に変更がある場合は、改名力士は出身地と新しい四股名の間に小さく「〇〇〇(旧四股名)改」(以前は「〇〇〇改メ」と書かれた)と書かれるが、幕内だけは出身地の右側に小さく書かれる。現役引退して年寄になる場合や、名跡変更の場合は新しい名跡(年寄名)の上に同様に書かれる。下の名のみの改名の場合は記載されない。

番付表の構成

現行の番付表は、中軸を上下縦長に貫いた後で、左右をそれぞれ五段に分けた枠構成になっている。横書きで書かれる文字はすべて右から書かれている(例:「司行」、「事理」)

  • 中軸 - 上から順番に
    • 蒙御免(ごめんこうむる)」 - 江戸時代に相撲興行(勧進相撲)の許可を寺社奉行から得たことを公言したことの名残。昭和5年(1930年)4月29日に行われた天覧相撲のおりに発行された番付には「賜天覧(てんらんをたまわる)」と書かれた。
    • 開催年月日と開催場所 - 両国国技館の場合は「国技館」と記載。地方会場で施設命名権の制度を取っている場合はそれに準じて記載される[9]
    • 行司、審判委員[10]一覧
    • 公益財団法人日本相撲協会」の文字および所在地[11]
  • 最上段 - 幕内力士。右半分に東方、左半分に西方力士を配しており、右端から左端に向けて地位が下がるように順番づけられている(二段目以下も同様)。地位に応じて文字幅を変化させており、横綱が幅7分5厘(約2.8cm)、大関が6分5厘(約2.5cm)、関脇・小結が5分5厘(約2.1cm)取って、残りを平幕の枚数で割る。
  • 二段目 - 十両・幕下力士。十両力士が幕下力士よりも大きく太い字で書かれている。
  • 三段目 - 三段目力士。
  • 四段目 - 序二段力士。
  • 最下段 - 序ノ口力士及び役員
    • 東西ともに右から約5分の1に序ノ口力士、残りの部分に役員を書く。
    • 右側 - 右から順番に役員(理事[12]・副理事・役員待遇・委員)・若者頭・世話人
    • 左側 - 右から順番に
      • 役員(委員の続き・主任・年寄・参与)・呼出し(十枚目(十両)呼出し以上のみ掲載)・特等および一等床山(2012年(平成24年)1月場所より。これにより若者頭と世話人の記載場所が東へ回る)
      • 「此外中前相撲東西ニ御座候(このほかちゅうまえずもうとうざいにござそうろう)」 - 番付外に本中、前相撲力士が東西にいる、という意味で、このうち本中は廃止され前相撲のみが現在も残っている。江戸時代には前相撲→→本中と進み、相中・本中を「中(ちゅう)相撲」といい、明治になって相中がなくなった。1973年(昭和48年)3月場所までは前相撲→本中と進み(1986年(昭和61年)より番付外の取組は全て前相撲として扱う)、新序出世披露を受けると翌場所の番付に四股名が記載される。なお、幕下付け出し及び三段目付け出しも初土俵の場所は番付には記載されないが「番付外」とは呼ばれない。
      • 「千穐万歳大々叶(せんしゅうばんざいだいだいかのう)」 - 千秋楽までの土俵の無事と大入り満員を祈願する言葉。

番付に四股名が書かれるときの文字のサイズは、横綱が一番大きく書かれており、大関は一回り小さく、関脇・小結はもう一回り小さくという風に、地位が下になるほど小さく細くなっていき、序ノ口の力士はもはや肉眼で見ることが困難なことから俗に「虫眼鏡」と呼ばれるほどである。最下段の親方衆も、理事長の名前が最も大きく書かれ、役職が下になるほど字が小さい。行司や呼出しも同様に、上の地位の者は大きく、地位が下になるほど小さく書かれている。

1994年(平成6年)5月場所までは、三役の各地位に3人以上いる場合は、3人目以降を左右の余白に枠をぶら下げて記載していた(張出)。横綱については、一人横綱の場合でも張り出して表記し、ほかの力士よりも枠・文字ともに若干大きくした(大関以下の張出および横綱が3人以上いるときの張出横綱は、枠内の力士と同じ大きさで表記する[1])。張出が多い時には二段目の枠外に書かれており、直近の例では1972年(昭和47年)9月場所の東張出小結富士櫻である。1990年代に力士数が急増すると余白を取る余裕がなくなったため、1994年(平成6年)7月場所以降は張出制度が廃止された。

若者頭・世話人・呼出に関しては、1960年(昭和35年)1月場所からしばらくは記載されていなかったが1994年(平成6年)7月場所から復活。番付中央の行司の欄の下に若者頭・世話人・呼出の順に記載された(呼出は立呼出・副立呼出・三役呼出・幕内呼出・十両呼出が記載されて幕下呼出以下は記載されない)。これに伴い審判委員を削除して最下段の委員の欄に一括した。

2004年(平成16年)3月場所より審判委員(職階は主任や年寄・参与であっても〈審判委員〉に一括される)を10年ぶりに行司の下に記載し、若者頭・世話人・呼出は最下段の年寄欄の左に記載された。また2008年(平成20年)1月場所からは、床山の最上位である特等床山(床邦、床寿)の名も記載されることになった。ちなみに若者頭・世話人・呼出が1950年代に記載された頃、「部長」、「桟敷部長」(1956年(昭和31年)3月場所の番付より、名称を一括にして「主任」に改称される。それまでは一時「木戸主任」「桟敷主任」と表記されたこともある)という役職も番付に記載されたことがあった。「若者頭」は1910年(明治43年)1月場所に初めて番付に記載され、大坂相撲では1914年(大正3年)5月場所に初めて番付に記載された。「呼出」は1949年(昭和24年)5月場所に初めて番付に16人が掲載されたが、寛政年間(1789~1801年)の番付に「呼出し」の文字が確認されている。

また理事長が停年前に理事長職を辞し、停年退職まで相談役として番付に掲載(2000年(平成12年)以降では境川尚時津風勝男武蔵川晃偉放駒輝門)されることもある。1959年(昭和34年)10月に発行された『大相撲』に「定年(停年、以下同)制実施の要綱」の記事に「定年になって種々の関係から残ってもらいたい、というときに相談役とするのであるが、従来による功労による相談役ではなく(中略)、相談役は番付にも掲載されない」とあり、時津風理事長の時代、武藏川(当時、出羽海)らが中心になって停年制実施を改革の一環として行ってきたが、1974年(昭和49年)3月場所の番付に、「相談役 武藏川喜偉」とある。当時新理事長に就任した春日野の要請で、皮肉にも自らが“停年延長”を前例として残すことになり、停年を迎えたにも関わらず相談役という肩書で番付に年寄名のまま残すこととなった。

2014年(平成26年)1月27日内閣府が相撲協会を1月28日付で公益財団法人として認定したのに伴い、同年3月場所の番付より「日本相撲協会」の右上に「公益財団法人」と記載されるようになった。また公益法人となったため、役員の規定が変更され評議員として、当時の評議員のうち年寄でもあった南忠晃(湊川)、平野兼司(山響)、佐藤忠博(大嶽)の3名が、番付の左側(西方)最下段の序ノ口の左隣に「評議員」と書かれ本名で記載された。また、これまでの「日本相撲協會」の「會」(旧字体)が「会」新字体)に改められた。なお、力士出身の評議員は、現役年寄以外の者が就任した場合には番付には記載されない。

字体

江戸時代中期の元禄年間(16881703年)には、歌舞伎寄席、相撲の看板はいずれも御家流青蓮院流、尊円流ともいい尊円法親王書法を伝えたもの)の文字で肉太に記されていた。1757年宝暦7年)の江戸最初の番付もそれで書かれているが、寛政年間(17891800年)には現在の番付の原型にほぼ落ち着いている。以降、幕末から明治にかけて横棒(横画)の運筆が太くなるなど、歌舞伎(勘亭流)や寄席(寄席文字)の番付とは一線を画するようになった。その名を番付の版元根岸家(江戸時代の三河屋)にちなみ「根岸流」と呼ばれ、現在では主に「相撲字」と呼ばれる独特な書体で書かれる。

作成手順

行司が書く番付表(原版)を「元書き」[2] 大きい方の番付)といい、ケント紙(縦109cm、横79cm)を鯨尺で測って線引き(枠書き)をして、以下の順番で書き込んでゆく。

  • 「××○○年○○月○○日発表 不許複製」 - 枠外左下。年次は元号利用。昭和40年代頃より記載。以前は印刷日も書かれていた。
  • 序ノ口 - 左から書く(ほかの段も同じ)。
  • 序二段
  • 年寄ほか
  • 中軸(上から記載)
  • 三段目
  • 幕下、十両
  • 幕内

原版の「元書き」は、愛媛県産の川之江和紙(縦58cm、横44cm)に、縦横それぞれ約半分、面積にして約4分の1の大きさに縮小印刷され、毎場所約60万部ほど発行される。「元書き」は開催場所の会場(国技館など)に掲出される。

その他の番付表あるいはそれに類似するもの
  • 本場所興行の際、東京場所では国技館の中ほどに、地方場所では開催会場の入り口付近に「板番付」2014年(平成26年)1月場所[3])が興行する場所に宣伝として掲げられる。総ヒノキ製で高さが約2m、幅が1.5mあり、幕下格行司と三段目格行司が3人がかりで4~5日かけて書き上げる(製作中[4][5]、完成[6])。なお板番付では出身地と四股名の間を詰めて書かれるので、改名力士についての「〇〇〇(旧四股名)改」は書かれない。場所が終わるとかんなで削って文字を消し、また同じ板に翌場所の番付が書かれる。板番付は紙番付よりも歴史は古く、興行地において力士の顔ぶれを記したいわば立看板的な役割を果たしていた[13]。現在の板番付は、屋根に当たる部分が「入山形」と呼ばれる「入」の字形に作られるが、これは大入り満員を祈念したものである。
  • 相撲部屋の稽古場の壁に下げられる木製の札を「番付札」伊勢ヶ濱部屋の番付札)といい、一枚ごとに所属部屋力士の四股名が書かれている。横綱を先頭にして地位の順に並べられる。部屋によって並べ方が違うが、親方(年寄)、行司、呼出床山の名も同様に並べられる。歴代の関取の四股名を揚げている部屋もある。
  • 1957年(昭和32年)以前に部屋単位、またはいくつかの部屋の合同など、小集団の巡業を行うときは「巡業番付」が作られることがあった[7]1879年(明治12年)~1881年(明治14年)頃の巡業番付、14代横綱境川浪右エ門の名がある[14]。横綱、大関など上位力士がいない場合は、その中の一番上位の力士を大関に据えるようにした。1939年(昭和14年)5月に角界一の大部屋、出羽海一門で巡業が行われ、その時作られた巡業番付には鏡岩のほかに、1月場所で優勝した出羽湊が大関に据えられている。現在では協会全体で巡業が行われるため巡業番付は作られない。
  • 引退相撲や、年寄名跡の襲名披露興行などのために作成された番付も存在する。
番付表の歴史

江戸の中期から後期には紙番付があったが発行はせいぜい場所ごとに数百枚程度であったとされ、番付自体も厳密な序列表ではなく、地位の変動を知らせるというより力士を宣伝する媒体であった[13]。同じ理由で、当時対戦表と共に有料で販売されていたと推測される勝負付と呼ばれる勝負結果表も一般の相撲ファンが欲しがるものというよりマニア層向けのアイテムであった[15]

享保年間より番付は木版刷だったが、1917年(大正6年)からは幕内のみ木版刷として、十両以下を凸版印刷に変更。間もなくすべて凸版印刷に移行し、1948年(昭和23年)からはオフセット印刷に改められた。また幕末から明治にかけて、絵師による絵番付(版画で描かれている[8])や明治以降には写真番付も製作された。

現存する絵番付としては、1860年(万延元年)2月に回向院境内で興行されたとき、絵師の一恵斎芳幾によって描かれた絵番付がある。写真番付は相撲版画がすたれ、写真が世に出回るようになった明治後期に出現し、戦後時代まで約60年、好角家の目を楽しませた。1978年(昭和53年)11月場所、久し振りにカラーの写真番付が販売されたが、その後現在に至るまで発行されていない。

明治時代からは、大相撲の世界で番付は絶対的な上下関係であったことから序列表としての役割を持つようになり[15]、番付上の地位の区別がより明確になった時期は1888年(明治21年)1月場所、十両(十枚目)がやや肉太に書かれ幕下との区別を明確にし、翌1889年(明治22年)5月場所には十両を個別に「前頭」と頭書きしてなお肉太に書き、関取格を判然と明示するようになった。

東京相撲で「横綱」の文字が初めて番付上に記載された時期は1890年(明治23年)5月場所であるが、大坂相撲ではそれ以前の1868年(明治元年)7月場所のことで、陣幕久五郎(12代横綱)が東方欄外に「薩州 陣幕久五郎 横綱土俵入仕候」と記載された。本場所で「横綱」の文字を表した時期は大坂でこの頃が初めてである。これ以降、大坂相撲では「横綱土俵入仕候」の文字が番付上に記載されるようになり、不知火諾右衛門(光右衛門改め、11代横綱、1870年(明治3年)3月~1872年(明治5年)7月)、八陣信藏1872年(明治5年)7月~1874年(明治7年)6月)、高越山谷五郎1873年(明治6年)7月~1874年(明治7年)6月)の3例が挙げられる。「横綱土俵入仕候」の文字は江戸相撲の巡業番付には見られ、阿武松緑之助(6代横綱)、秀ノ山雷五郎(9代横綱)のものが確認されている。

これ以前の番付で特筆されるものとして、弘化嘉永年間(1845-1854年)、江戸相撲を引退した稲妻雷五郎(7代横綱)がお抱えの関係で雲州藩内で巡業を行ったとき、番付で「横綱」と明記されたものがある(東張出)。この番付表では「大関」はなく、代わりに「中関」となっていて、メンバー的には大相撲ならぬ「小相撲」の感が強い。

番付の版元としての権利は、相撲司家のひとつである根岸家が、年寄名跡「根岸」とともに受け継いでいたが、戦後、相撲界の合理化、民主化をはかるため、根岸家が自らこれらを相撲協会に返上した(相撲字が苦手で年寄名跡を返上したともされる)。相撲協会ではこの英断をたたえるため、「根岸」の名跡を「止め名」、廃家とした。これは年寄名跡が(一代年寄準年寄は別にして)現在の数(105名跡)に定まった時でもある。

1917年(大正6年)1月の大坂相撲の番付には右側余白のところに「謹賀新年」の文字がある。これはスタンプではなく番付そのものに刷り込まれたもので、大坂相撲では番付は部外者が印刷、発行していたが、1913年(大正2年)1月より「大坂相撲協會番附部」の発行となった。つまりこの「謹賀新年」は協会公認のものである。当時、1月の番付は正月明けに発行され、年賀の代役を果たしていた。

番付表の販売

番付表は相撲の本場所の会場で、1枚50円で販売されている。

特殊事情の場合

番付編成後から発表までの間に、通常の引退以外の事情で力士が力士でなくなった場合(現役力士の解雇・死亡など)は番付を再編成せず、その力士がいた地位を空位にすることとなっている。

ただし、1971年(昭和46年)10月に急死した横綱玉の海の場合は、本来ならば翌11月場所の番付は西横綱に掲載される予定であったが、結果11月場所の新番付では玉の海の四股名ごと外されることとなり、又西横綱の番付も空位としなかった。これにより、北の富士ただ一人が東横綱の地位で番付に掲載され、この1971年11月場所から北の富士が名実共に、史上4例目の一人横綱として扱われることとなった。結果的に形式上は不自然な番付にはならず、このケースは一般的には空位の事例として考えられていない。

玉の海とは全く逆のケースとして、1990年(平成2年)1月場所で新入幕を果たし、西前頭10枚目で9勝6敗と勝ち越しながら、同年2月に急死した龍興山の場合は、翌3月場所の新番付は自己最高位の東前頭5枚目に載っていた。これは現役力士が場所後死亡しながらも空位にせず、番付に四股名が掲載されるという珍しい出来事である。この理由には、3月場所は龍興山の出身地である地元大阪で大相撲が開催されるため、「四股名だけでも故郷に錦を飾らせたい」という相撲協会の配慮により、異例ながらも番付に龍興山の四股名がそのまま残された。

1976年(昭和51年)10月に朝日山部屋の相続をめぐっての騒動でトンガ王国出身の幕下以下の力士が廃業に追い込まれた際、11月場所の番付表では幕下以下のそれぞれの部分が空位とされた。

2007年(平成19年)11月場所では、場所前に時津海が引退して年寄・時津風を襲名、番付表では時津風として表記されたため、重複を避けるため西前頭11枚目を空位とした(1人分のスペースが空白となった)。これは幕内では1873年(明治6年)11月場所に、高砂浦五郎とそのグループ(改正組)を除名した際以来134年ぶりの措置であった(この時は、該当者が黒で塗りつぶされていた)。

2008年(平成20年)9月場所では、若ノ鵬大麻所持で逮捕、8月21日付で解雇され、東前頭8枚目を空位とした(1人分のスペースが空白となった)。番付発表後に露鵬白露山の2力士が同じく大麻関連で解雇されたが、9月14日付の番付表では同じく空白となっている。2009年(平成21年)3月場所の番付表では若麒麟が2月2日付で解雇されたため、西十両筆頭が空位となった。

2008年(平成20年)1月場所、時津風部屋力士暴行死事件に関連して心労を理由に休場した時津風部屋の3力士の番付は3月場所において据え置かれた[16]。戦後公傷を除き全休力士の番付が据え置かれたことはない[17]。この異例の判断は理事長の北の湖によると「3力士とも捜査に協力しているため、社会通念上決めた」ということだった[18]

2010年(平成22年)1月場所後、西横綱朝青龍が同場所中の不祥事により引退。形式上は自らの意思による通常の引退であり、番付編成会議後の引退であったが、番付発表まで約3週間の余裕があったために、敢えて四股名ごと削除することとなった。これに伴い、本来なら西横綱に載るはずだった白鵬の地位は、1月場所と同じく3月場所も東横綱に掲載され、番付編成会議後の引退届提出により番付が変動するという極めて異例の措置となり[19]、この場所では幕内全体の人数も定員の42人より1人少ない41人となった。

2011年(平成23年)3月場所は大相撲八百長問題の影響により開催が中止されたことにより番付の発表も行われなかった。番付の編成そのものは完了しており、3月場所で十両への昇進が決定していた力士を初めとする全力士はこの番付に基づいて遇されることになった。これによって決定された地位は2月28日に番付の代わりとなる「順席」として十両以上のみを掲載したものが各相撲部屋に配布され、5月6日に5月技量審査場所用の新地位表が、解雇された蒼国来(後に復帰)、星風の名前を削除して幕下以下も含めて発表された。

2020年(令和2年)5月場所は、番付発表直後に新型コロナウイルス感染症の流行による緊急事態宣言延長を理由に開催が中止。同年7月場所の番付は新規に作成・発表されず、基本的に5月場所のものがそのまま有効(据え置き)となったが、5月場所番付編成会議後に引退・年寄を襲名した幕下の蒼国来と豊ノ島、5月13日に新型コロナウイルス感染症により亡くなった三段目の勝武士に相当する地位は事実上の空位となった。

2021年(令和3年)9月場所では、貴源治の大麻使用(7月20日判明)により7月30日付けで懲戒解雇となったことに伴い、2008~2009年の大相撲力士大麻問題の場合と同様、貴源治の名前が掲載されるはずだった西十両9枚目が空位となった。

番付表を書いてきた行司等の歴代

番付に纏わるエピソード

江戸時代

  • 1726年(享保11年)の番付に4代木村庄之助(史実としての初代とされる)の名前が見られる。ちなみに初代式守伊之助の名前は1767年明和4年)の番付に見られる。
  • 江戸相撲の最初期の番付(現存最古の1757年(宝暦7年)10月場所から数場所)は7段編成で、それには本中(中)や前相撲(前)の力士もそれぞれ下から2段目(上から6段目)・最下段(上から7段目)に掲載されている。
  • 1767年3月場所、が西方幕内格番付外で出場(相撲番付の歴史上、宝暦以降では初めて)した。これ以降、幕内格番付外で出場した力士は1932年5月場所の出羽ヶ嶽までのべ70人がいる。この中には1859年(安政6年)1月場所の陣幕、1882年(明治15年)1月場所の初代西ノ海がいる。西ノ海はこの場所が新入幕だった。
  • 1768年(明和5年)11月場所は番付を欠き(番付が未発見のため)、2大関(、?、2人とも看板大関)の他幕内10力士は地位が不明。
  • 1790年(寛政2年)11月場所で、西関脇に付け出された雷電爲右エ門が江戸本場所に初登場したが、東前頭3枚目にがいたため、東西に“雷電”が相対する珍番付となった。
  • 1794年(寛政6年)11月場所の番付で、当時6歳の大童山が怪童という触れ込みで、西方前頭に張り出された。これ以降、怪童で番付に載ったのは嘉永年間(18481854年)の鬼若、、。安政年間(1854-1860年)には、、がいる。他に巨人力士として、1844年天保15年)10月場所の生月1863年文久3年)11月場所のがおり、いずれも前頭に張り出されている。
  • 1798年(寛政10年)3月場所の番付から、二段目以下の地位表示が「同」で一括されるようになった。それまでは二段目(宝暦年間は場所によっては三段目・四段目の一部も)の地位表示は1人ずつ「前頭」と書かれていた。
  • 1819年文政2年)11月場所の番付より、それまで番付上段に書かれていた「東ノ方」「西ノ方」(または「東の方」「西の方」)が、「東」「西」とだけ書かれるようになった。
  • 1863年7月場所、新関脇に昇進した陣幕は番付上では張出関脇となり、関脇の張出はこれが最初となった。ちなみに張出横綱(一人横綱の張出は除く)は1904年(明治37年)1月場所の大砲、張出大関は1890年5月場所の剣山、張出小結は1888年5月場所の嵐山、張出前頭は1793年(寛政5年)3月場所のがそれぞれ張出の最初である。

明治時代

  • 大坂相撲において1869年(明治2年)3月場所の番付は、横綱(番付上は大関)陣幕以下幕内が22人。そのうち新入幕が17人もおり、その中にはいきなり小結に据えられた初代梅ヶ谷がいた。
  • 1882年6月場所より、成績に応じて番付を編成するようになった。
  • 1888年5月場所、京都相撲より東京相撲に編入した一ノ矢鶴吉は、当時関脇に一ノ矢藤太郎(のち大関)がいたため「達ノ矢」と改名した。
  • 1890年5月場所では、横綱免許をうけた大関初代西ノ海(16代横綱)が、張出大関になることに不満をもらしたため、これをなだめるために同年5月場所で番付にはじめて「横綱」の文字をいれ、東に張出の形式で配置した。これをきっかけに、東西で東が上位の扱いを受けることになった[20]
  • 1892年(明治25年)6月場所新入幕の大砲は、番付には「大炮」と書かれた(読み方は同じ「おおづつ」、序二段時代の1888年5月場所に改名)。幕内で「大炮」と書かれたのは、この場所を含め1898年(明治31年)5月場所まで13場所中4場所あった。
  • 1900年(明治33年)1月場所で常陸山が新関脇に昇進以降、1959年(昭和34年)1月場所の横綱千代の山の引退まで、出羽海部屋(常陸山の当時は「出羽ノ海部屋」)は約60年間138場所の間番付上に役力士の四股名を欠かすことがなかった。
  • 大坂相撲において1905年(明治38年)6月場所の番付で、前頭6枚目にが新入幕。四股名が平仮名一字の「い」で、読み方は「かながしら」と呼ぶが、番付には「い助治郎」と書かれている。東京相撲で初めて「横綱」の文字が載った1890年(明治23年)5月場所の番付で、序ノ口西最下位にも「イ吉三」なる力士の四股名が載っている。1906年(明治39年)5月場所の番付では、前頭10枚目のが、この場所5日目より四股名を「ステッセル」と改名している。「ステッセル」は場所中の改名だったため、この場所の番付には載らず、翌(場所の)1907年(明治40年)1月場所には、元の四股名「白川」に戻している(四股名#変わった四股名の項参照)。

大正時代

1909年(明治42年)6月場所、旧両国国技館開館とともに始まった優勝制度および東西制によって大正時代には変則番付が多くみられる。

  • 1915年1月場所の番付は、西方に正横綱の太刀山、張出横綱の2代梅ヶ谷を据え、東方には横綱がいないという、変則番付となった。同様の番付は翌1916年1月場所の太刀山(西方正横綱)、(同張出横綱)、1921年(大正10年)1月場所の大錦(西方正横綱)、栃木山(同張出横綱)など(逆に東方のみに横綱を据えた番付もある)がある。大錦、栃木山の場合は同じ出羽ノ海部屋の力士であり、さらに当時は東西制のため2人を東西に分けることは出来ない。違う変則番付として1918年(大正7年)5月場所の番付で、四横綱(大錦、鳳、栃木山、2代西ノ海)のうち張出横綱2人(栃木山、2代西ノ海)が同じ東方に張り出された(相撲番付の歴史上、横綱2人が同じ方屋に張り出されたのはこの場所のみ)。また四大関(九州山千葉ヶ嵜伊勢ノ濱2代朝潮)のうち張出大関2人(伊勢ノ濱、2代朝潮)は同じ西方に張り出されている
  • 大坂相撲において1917年1月場所、大関昇進を果たした朝日松は、前年暮れにトラブルを起こし師匠から破門され、晴れ姿は幻に終わった。この場所の番付には西大関朝日松清治郎の箇所に、「朝日松清治郎ハ昨冬除名仕候」という張り紙がされた。朝日松は以前にも東京相撲において1913年(大正2年)5月場所初日、控え力士として物言いをつけたものの受け入れられず、相撲を取らずに退場し破門され大坂相撲に復帰したことがあった。朝日松は翌6月場所に復帰を許され、前頭筆頭格として番付外で出場し、その後関脇まで番付を上げたが、再び大関にはなれなかった。
  • 1918年1月場所で、史上初めて横綱・大関・関脇・小結・前頭の全てに張出(横綱-2代西ノ海、鳳、大関-伊勢ノ濱、関脇-両國、小結-黒瀬川、前頭-鶴渡)が設けられた番付が発行された。
  • 大坂相撲において1923年(大正12年)5月場所前、「龍神事件」と呼ばれる大紛擾が起こり、幕下以下の力士らにて興行。紛争は大もめとなり、上州山との両大関をはじめ多数の廃業力士が出た(幕内だけで20人の廃業、のち3人が復帰)。よって同年6月場所の番付は横綱宮城山をはじめ残留力士(幕内は横綱以下、関脇、小結が各1人、平幕13人の計16人)によって番付が改訂され幕内のみ片番付で興行した。
  • 1924年(大正13年)5月場所、先(1月)場所優勝した栃木山は西の正横綱であったが、この場所の番付は東の張出横綱となった。東西制だったので東西が入れ替わって、西の正横綱は3代西ノ海、東の正横綱は新横綱の常ノ花で、優勝した栃木山が張出となった。この場所10勝1敗で8回目の優勝、翌1925年(大正14年)1月場所も同地位で10勝1分で9回目の優勝を3連覇で飾ったが、番付上では最後の場所となった翌同年5月場所は西の張出横綱であった。一説には1923年の関東大震災による両国国技館焼失の際、常ノ花後援会から多額の再建資金が寄付されたことに報いるためだったともされる。栃木山をなだめるため、彼の名は東西正横綱の常ノ花、3代西ノ海よりこころもち太く書き出され、「別格横綱」の意味合いが与えられたが、3連覇後の突然の引退表明には、これらの処置への不満があったのではないかとも言われている。
  • 大坂相撲最後の本場所となった1926年1月場所は、当時日本の領土となっていた台湾台北市で興行したが、番付には興行地は記載されなかった。

昭和時代

  • 1927年(昭和2年)の東西合併から春秋園事件が起こった1932年までの間、番付編成の基準はめまぐるしく変化し(東京開催と関西開催を交互に行う年4場所制だったが、東京場所の番付は東京場所の成績を基準に作成され、関西場所も同様に作成された、など。)、力士の地位・出世にも影響を及ぼした。
  • 東西相撲合併後の1927年1月場所、年寄定員88名に大阪方17名を加え105名に増員(うち2名は一代年寄)。この場所の番付の「年寄」の欄には現在の番付と違い、「年寄」と書かれた下部に小さく「イロハ順」と書かれており、いろはの順番に年寄名が記載されていた。
  • 1928年(昭和3年)10月、広島に於いて晴天11日間興行されたが、今後関西本場所は番付を発表せず、直前の東京場所番付をもってすることとなった(1932年10月、関西本場所廃止まで)。
  • 1931年(昭和6年)1月場所千秋楽、横綱宮城山が引退を表明し、次に編成された5月場所の番付は、1890年5月場所に『横綱』の地位記載を始めて以来初めて横綱不在の番付(翌1932年10月場所まで)となった。
  • 1931年5月場所の番付は、西方幕内を出羽海部屋力士が独占した。大関大ノ里以下20人がすべて出羽海部屋所属である。これは大相撲史上空前絶後の記録で、十両も22人中10人と半数近くを占めた。対する東方幕内は立浪部屋の3人が最多だった。
  • 1933年(昭和8年)1月場所の番付は前年に起きた春秋園事件で発足した、錦洋一派のから脱退し、協会へ帰参した幕内格12名、十両格8名は協会脱退当時(1932年1月)の順位で東西を分けず、地位も記さず別席として四股名を連ねた番付を別に添付した。この場所の番付は従来より小型となった。翌5月場所には元の大きさに戻った。
  • 1933年2月、天竜一派のが「」を結成。大阪で第一回本場所開催のおり発行された番付(東西制はなく片番付様式)には大関天竜、関脇大ノ里、小結錦洋以下力士41人。行司(番付には行司ではなく「審判員」と書かれている)7人(この中にのちの24代木村庄之助(当時は初代式守伊三郎)がいる)。他に「事務員」「拡声係」「桟敷係」「世話人」が書かれている。
  • 1934年(昭和9年)5月場所の番付より、幕下以下の力士全員の出身地名が記載された。
  • 相撲界を揺るがした「春秋園事件」も1937年(昭和12年)暮れに関西角力協会がついに解散。それに伴い帰参した力士の番付編入は厳しい扱いだった。1938年1月場所の番付では帰参力士は脱退時の番付地位より一段下に編入。関西の入門者で幕内・十両となった者は幕下に、それ以下の者は新弟子扱いとなった。
  • 1939年1月場所、日中戦争支那事変)の激化で応召入営力士が増え、番付にはその力士の上に「応召」・「入営」と書き加えた。1940年5月場所には応召・入営力士は番付の欄外に一括された。
  • 1939年5月場所の番付編成において、1月場所4日目の前頭3枚目安藝ノ海戦で、連勝記録が「69」で止まった横綱双葉山は9勝4敗と振るわなかったが、11勝2敗と双葉山より成績の良かった横綱男女ノ川を差し置いて、連勝記録の実績を評価され東正横綱に据えられた。
  • 1941年(昭和16年)1月場所で安藝ノ海、五ツ嶌の同時大関昇進で、前田山を含めて番付の東方に3大関が並んだ(西方は羽黒山1人)。これは1919年(大正8年)1月場所(西方に2代朝潮、千葉ヶ嵜、伊勢ノ濱。東方は九州山1人)以来22年ぶりの変則番付となった。
  • 1942年(昭和17年)1月場所の番付より、機密隠匿のため応召および入営力士の欄外張出はされなくなった。
  • 1944年(昭和19年)11月場所後の番付編成会議は、力士の応召などの関係から次場所(1945年(昭和20年)5月場所)開催の1ヶ月前に行うことになった。その5月場所は空襲の影響により6月に順延となった。
  • 戦後初の1945年(昭和20年)11月(秋)場所の番付はザラ紙の小型版で序ノ口力士はなく、記載力士はわずか216人だった。またその次の1946年(昭和21年)11月場所も序ノ口力士が1人もおらず、その次の1947年(昭和22年)の番付では3場所ぶりに序ノ口力士が復活したが、その場所のみ例外的に序二段力士と序ノ口力士が同じ下から2段目(上から4段目)に書かれた。
  • 1948年5月場所で、横綱・大関・関脇各3人の番付ながら張出を設けず、すべて枠内に四股名が記載された番付となった。翌10月場所も横綱・大関各3人がすべて枠内に書かれた。このときはこの2場所のみだったが、1994年(平成6年)7月場所に張出制度が休止されて以降、番付は張出なしのまま現在に至っている。
  • 1951年(昭和26年)5月場所の番付編成で、三役格行司の8代木村庄三郎(のち19代式守伊之助)を新設された副立行司に昇格させ、立行司の13代木村玉之助が同じ副立行司に格下げとなった。同年9月場所にも三役格行司2代木村正直(のち23代木村庄之助)が副立行司に昇格となった。
  • 1955年1月場所と3月場所の番付で、いずれも4横綱の番付ではあるが、両場所とも東方は正横綱(1月、3月場所=千代の山)、張出横綱(1月場所=鏡里、3月場所=吉葉山)各1人、西方は2人とも正横綱(1月場所=栃錦、吉葉山、3月場所=栃錦、鏡里)という珍しい番付となった。これは二場所とも東方に大関が三根山1人で西方には大関が不在のためである。
  • 1956年(昭和31年)3月場所の番付は1918年1月場所以来38年ぶりに、横綱・大関・関脇・小結・前頭に張出(横綱-栃錦、千代の山、大関-松登、関脇-羽嶋山、小結-鶴ヶ嶺、前頭-星甲)がある番付となった。翌5月場所も同様(横綱-鏡里、千代の山、大関-松登、関脇-出羽錦、小結-羽嶋山、前頭-二瀬山)に各地位に張出がある番付となった。
  • 1957年3月場所の番付で、平幕が東西23枚と史上最多(同年9月場所も)となった。ちなみに、戦後において一場所最多の幕内力士数は、同場所より11月場所まで4場所続いた58人。また十両もこの4場所は東西23枚46人(十両は1958年(昭和33年)のみ6場所連続、東西24枚48人が最多)おり、関取が実に104人という時代であった。同じく一場所最多の横綱及び三役の力士数は1961年(昭和36年)9月場所と翌11月場所の15人。逆に一場所最少の幕内力士数は、1967年5月場所から1971年11月場所の34人。
  • 1959年5月場所は、東横綱栃錦と東張出横綱初代若乃花がともに14勝1敗で優勝決定戦となり、若乃花が優勝したが、翌7月場所の番付では優勝同点の栃錦が東横綱にとどまり、若乃花は西横綱だった。「優勝決定戦での勝敗それ自体は番付に影響しない」原則がはじめて明確に示された形であり、その後も同様のケース(1971年1月場所の大鵬-玉の海1988年3月場所の大乃国-北勝海など)のたびに、優勝力士が同点力士の下位に留めおかれるのは不合理ではないかとの議論を呼んだ。1997年9月場所後の理事会での改定により、現在では同地位の力士同士の決定戦で下位の力士が優勝した場合、翌場所の番付では優勝力士を上位にまわすことになっている。
  • 1960年1月場所、これまでの番付を改め「取締」「理事」を東方の最下段に、「勝負を司る者を中央に」という考察で「勝負検査役」を中央部の「行司」の欄の下部に配した。「若者頭」については51年ぶり、「世話人」「呼出」については11年ぶりに削除した。また協会の所在地を番付に初めて記載した。
  • 1960年1月場所の番付で、1959年10月3日春日野(元横綱栃木山)が亡くなり、弟子の横綱栃錦が現役のまま春日野を襲名することになり、1958年に廃止された二枚鑑札を特例として認められ、現役引退する5月場所まで年寄の欄にも「春日野清隆」と記載された。
  • 1960年7月場所後に興行された、秋田県大館巡業において作られた板番付には、東方張出大関の柏戸は枠外に書かれているのに、同じ東方で枠内に書かれている関脇の若三杉(のち大豪)は、普通なら東の正関脇のはずが何故か「関脇」の文字の上部に、小さく「張出し」と書かれている。
  • 1961年11月場所、大関・関脇・小結は張出がある番付で、横綱(初代若乃花大鵬柏戸、3代朝潮の4人)のみ、張出を設けず4人を正横綱とし枠内に記載された番付となった。途中朝潮の引退もあったが、この様式の番付は翌年3月場所まで続いた。
  • 1963年3月場所の番付は西前頭9枚目宇多川の四股名が誤記により「宇田川」で発行。番付発表後、部屋より苦情があり一門用に「宇多川」と訂正した番付を少数だけ再印刷した。
  • 1972年5月場所、前場所直前に25代木村庄之助が廃業、協会は11月場所まで庄之助を空位にすると発表したため立行司が22代式守伊之助1人となった。1960年1月場所以降立行司(2人)と三役格行司(3人)は二段に分けて書かれていたが、バランスをとるため伊之助の横に三役格3人を並べて書いた。その後庄之助と伊之助が揃っても5人並べて書かれていたが、1985年1月場所から再び立行司と三役格行司は二段に分けて書かれるようになった。
  • 1972年9月場所、十両で初の公傷制度が適用され、大潮鷲羽山が前場所の番付と同地位で張り出された(大潮は東5枚目、鷲羽山は西10枚目)。その後、1976年(昭和51年)5月場所に十両の公傷休場力士の張出扱いを休止した。
  • 1972年11月場所の番付で東前頭14枚目福の花の四股名が行司の誤記により「福ノ花孝一」と書かれた。
  • 1974年1月場所の番付で西大関大受の出身地が誤記により「青森」に。石油危機により再印刷をせず、既に印刷済みの番付に「北海道」と正しい出身地を書いた紙を貼り訂正した。関係者には訂正再印刷した番付を発行。
  • 1975年3月場所の番付は、1948年10月場所以来27年ぶりに張出のない番付となったが、横綱から小結まで2名ずつという純粋に人数ぎりぎりになったのは昭和以降初めてであった。
  • 1980年9月場所5日目より幕内格行司木村筆之助糖尿病により長期の病気休場となった。取組中力士と接触したり、勝負が決まる前に転倒するなど失態が多かった。晩年の1984年(昭和59年)1月場所より“別格扱い”となり、番付の行司欄最下位に記載されるようになり、土俵に復帰することなく同年5月場所前に亡くなった。
  • 1981年9月場所の番付は大関不在のため東西の正横綱、北の湖と千代の富士が「横綱大関」となる。大関不在の変則番付は1905年(明治38年)1月場所(2代梅ヶ谷、常陸山の東西正横綱が「横綱大関」となる)以来76年ぶり。
  • 1983年(昭和58年)5月場所の番付編成において、大関にも公傷制度を適用することとなった。同年9月場所8日目に朝潮が横綱隆の里戦で膝を痛めて休場し、大関公傷適用第1号となった。
  • 1984年1月場所の番付で、西方序ノ口に張出(公傷扱いによる)が書かれた番付が発行された。最下段の「千穐万歳大々叶」と書いてある左側(西方)欄外にごく小さく「小岩井昭和[21]」と書かれてあった。当時は番付に公傷制度による張出が幕下以下にも度々見られたが、序ノ口の張出はごく稀なケースである。
  • 1985年(昭和60年)1月場所より新国技館で開催されたが、番付には「両国國技館」ではなく「國技館」と、「両国」の文字は入らなかった(蔵前国技館時代の番付には「藏前國技館」と書かれていた)。

平成時代

  • 1989年1月場所の番付において、前場所序二段東114枚目で7戦全勝だった二子桜(のちの幕内・力櫻)は、内規により三段目に昇進できるはずだったが、発表された番付では序二段東44枚目に据え置かれていた。これに師匠の二子山理事長(元横綱初代若乃花)が抗議し、二子桜は1月場所を三段目最下位格扱いで相撲をとった。審判部が、前場所の序二段の優勝決定戦での二子桜の敗戦を本場所でのそれと勘違いしていたことによるミスであった。
  • 1992年5月場所の番付より、立行司の代数が記載されるようになった。当時木村庄之助は28代、式守伊之助は26代であった。
  • 1994年(平成6年)5月場所の番付で、同じ四股名の力士が記載されるミスがあった。序二段西101枚目と序ノ口東30枚目の力士はいずれも「小谷」。二人は兵庫県出身の兄弟で、序二段が兄で二子山部屋、序ノ口が大鵬部屋の力士。弟は3月場所初土俵で、5月場所初めて番付に四股名が載った。弟は「大小谷」で四股名を届けたはず、と首をかしげたが、結局急遽改めて改名届を提出し、5月場所は「大小谷」で土俵に上がった。またこの場所の番付に掲載された力士は934人となり史上最多となった。
  • 1994年7月場所の番付で、前場所までの「審判委員」(1968年1月に「勝負検査役」より改称)が、1887年(明治20年)1月場所の番付に初めて「勝負検査役」を記載以来番付から消え、1959年11月場所以来、「若者頭」「世話人」「呼出」が番付上に復活した。同時に、「委員」「年寄」は就任年月日順に番付に記載されるようになった。なお、「呼出」は立呼出・副立呼出・三役呼出・幕内呼出・十両呼出が記載されて幕下呼出以下は記載されない。
  • 1994年10月20日、2日前に停年退職した若者頭・伊勢錦の後任として同年9月場所、西幕下15枚目で1勝6敗に終わった花ノ国が若者頭に就任する事が承認され同年11月場所は現役力士と若者頭の同一人物の番付面での重複を避けるため、幕下は東方が従来の60枚目まであったのに対し、西方は花ノ国の名が抜かれ1枚減らされ、59枚になっている。
  • 2000年9月場所後、序二段力士持丸は四股名を「挑持丸(ちょうじまる)」と改名する旨届け出たが、番付には「持丸」と誤記され(読みはちょうじまる)、それを正式名として一場所を勤めた。翌11月場所終了後に再び改名届けを出し2001年1月場所から改めて「挑持丸」となった。この一場所限りの改名は誤記によるものとはいえ正式に協会の記録として残っている[22]
  • 2008年9月場所の番付より前場所までの「呼出」の表記を、1950年代に記載された頃の「呼出し」と改めた。
  • 2009年3月場所の番付より、三段目格行司を幕下格行司と同列にして文字の大きさも前場所より若干大きく書き、序二段格行司以下にスペースが広くなったため、同様に序二段、序ノ口格行司も前場所よりやや大きめに書かれるようになった。
  • 2010年7月場所の番付は、一連の野球賭博問題で1週間遅れの7月5日発表(番付には「平成22年6月28日発表」と書かれてある)。新番付に掲載されたまま解雇となった大関琴光喜以下、謹慎となった幕内力士7人、十両・幕下力士7人が休場。大嶽(元関脇貴闘力)親方は解雇、時津風(元前頭時津海)・阿武松(元関脇益荒雄)両親方は降格の懲戒処分、武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)以下11人の親方は当面の間謹慎という異常事態の場所となった。この際「謹慎処分を受けた力士の名前が番付に残ったままになる異例の事態」などという誤った報道が全ての民放キー局[23]でなされた。これらの報道について訂正等は一切なかった。
  • 2012年1月場所の番付で、「若者頭」・「世話人」が右側(東方)左下に記載されるようになり、「呼出し」・「床山」は枠が拡大され、「床山」については前場所までは特等床山2名のみの記載だったが、この場所より一等床山13名が追加記載されるようになった。
  • 2015年4月、グルジア政府からの要請を受けて通常国会で審議・可決された在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律の改正法が公布・施行され、同国の日本語での呼称がロシア語読みの「グルジア」から英語読みの「ジョージア」に改められることになった。同年5月場所の番付はすでに作成済で、同国出身の西前頭筆頭栃ノ心剛、東6枚目臥牙丸勝の出身地は「グルジア」のままだったが、相撲協会公式サイト[24]や本場所の場内アナウンスなどでは「ジョージア」に改められ、7月場所からは番付表記も「ジョージア」となった。
  • 2016年11月場所番付から年寄欄に「参与」が復活、停年後の再雇用者が記載された。なお、再雇用者の中でも、勝負審判をつとめている桐山(元黒瀬川)は、審判委員のところに名前が記載されている。
  • 2017年3月場所千秋楽、西山-翠富士戦で取組中に西山のまわしの前袋が土俵につき、勝負審判の指摘により反則負けとされたが、相撲規則の勝負規定上では前袋が土俵についても負けにならないとされていた。 審判部長の二所ノ関(元若嶋津)は誤審を認め謝罪、担当の勝負審判5人は厳重注意となった[25]。この勝敗が覆ることはなく、西山は西三段目17枚目で4勝3敗と通常では幕下に昇進できない成績となったが、翌5月場所の番付では西幕下60枚目に置かれた[26]
  • 2018年3月の役員改選で、評議員のなかの力士経験者が現役年寄ではなく協会員のOBにすべて交代した結果、5月場所番付には「評議員」の記載がなくなった。

令和時代

  • 令和最初の本場所となった2019年(令和元年)5月場所の番付は、番付編成会議後元書きを作成した段階では新元号がまだ発表されておらず、「蒙御免」の下の開催年を記載する場所をいったん空欄のままとした上で、新元号発表を待ってそこに「令和元年」と書かれたが、その番付の発表日は平成31年4月30日だったので、その番付は発表年月日の「平成三十一年」と開催年の「令和元年」の新旧元号が同居する番付となった。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 1761年(宝暦11年)10月場所より、それまでの「勧進相撲」を「勧進大相撲」と記す。なお大坂、京都は横番付。
  2. ^ 一時、1871年(明治4年)4月場所から1877年(明治10年)9月場所まで元の横二枚番付に戻る。
  3. ^ 横綱がいる場合は、横綱と大関の合計人数が下限2名という条件で、大関が1名または不在になることもありうる。その場合は、大関1名の場合は東西どちらか1名の横綱が、大関不在の場合は東西両方の合わせて2名の横綱が、「横綱大関」として番付の表記上大関を兼ねることになっている。
  4. ^ 幕下付出の力士は実際の番付面に載らず、この定員にも含まれない。
  5. ^ 三段目付出の力士は実際の番付面に載らず、この定員にも含まれない。
  6. ^ 序ノ口より下で、前相撲を取る実際の番付面に載らない力士。
  7. ^ ただし、何らかの理由で審判部長、審判部副部長、審判委員の一人が本場所(一部、または全日)を欠場した場合はその人は会議に参加できない場合がある。
  8. ^ 抜井規泰 [@nezumi32]. "で、番付編成会議なんですが。番付編成会議は、東京場所だと国技館地下1階の審判部屋で行います。東西の支度部屋の中間にあり、NHKのインタビュールームの斜め前あたりにあります。相撲記者は、その扉の前で待機しています。新番付は極秘なんですが、それはあくまで建前でして…。" (ツイート). Twitterより2020年10月22日閲覧
  9. ^ 大阪府立体育会館(3月場所)は「BODYMAKERコロシアム」(2014年・2015年)→「エディオンアリーナ大阪」(2016年以降)、愛知県体育館(7月場所)は「ドルフィンズアリーナ」(2018年以降)と記載している。
  10. ^ 1968年までは「勝負検査役」。
  11. ^ 2014年(平成26年)3月場所の番付より。その年の1月27日内閣府が相撲協会を1月28日付で公益財団法人として認定したことによる。それまでは「財団法人日本相撲協會」(「公益」の文字がなく「會」が旧字体)。
  12. ^ 理事長は太字で筆頭に置かれ、「理事長」と明記される。
  13. ^ a b 大空出版『相撲ファン』vol.4 25頁
  14. ^ また東西の最下段の左側に、「初切」(「行司」、「年寄」の文字は右から書かれているにもかかわらず、「初切」の文字は誤って左から書かれている。「番付を書く」の項参照)とあり、巡業の余興で行われる初切をする力士の名がある。
  15. ^ a b 大空出版『相撲ファン』vol.4 28頁
  16. ^ 力士急死:時津風部屋の兄弟子3人の番付据え置き 2008年1月30日
  17. ^ 昭和の戦中期、軍隊に徴用された力士について、ただし書きとともに番付外に張り出して、地位を留保した例はある。やがて軍部から「軍機に触れる」の咎めがあって、1942年(昭和17年)1月場所から廃止され、兵役についた力士は番付から名前を消し、復帰時に元の成績相当の地位で出場させることにした。
  18. ^ 兄弟子3人、全休なのに番付据え置き…序ノ口力士死亡事件 2008年1月30日
  19. ^ 白鵬、重責の1人横綱 新番付から朝青龍の名前消える スポーツ-ZAKZAK 2010年3月1日
  20. ^ 1909年(明治42年)6月場所の東西制実施のときに、優勝した方屋を翌場所東に配置したことで、東が半枚上ということが確定して、現在に至っている。ただし春秋園事件に際して発行された改定番付(1932年(昭和7年)2月場所)では大関3人(東方に玉錦能代潟、西方に武藏山)で張出をつくらなかったために、幕内では「関脇以下は西が上位」とされていたため東方上位が完全に確定した時期はこれ以降である。
  21. ^ 後の幕内・小城ノ花で、現在の年寄・出羽海。当時は本名を四股名としていた。
  22. ^ 飛天龍 貴信日本相撲協会大相撲名鑑
  23. ^ 情報ライブ ミヤネ屋(読売テレビ・日本テレビ)、ANNニュース(テレビ朝日)、FNNスーパーニュース(フジテレビ)、NEWS FINE(テレビ東京)(いずれも2010年7月5日放送分)、みのもんたの朝ズバッ!(TBS、2010年7月6日放送分)など
  24. ^ この時点で引退済みであった黒海太の出身地も「ジョージア」に差し替えられている(力士プロフィール - 黒海 太 - 日本相撲協会公式サイト)
  25. ^ 三段目取組で誤審=勝負結果は変わらず-大相撲春場所 - 時事ドットコム(時事通信社、2017年3月26日)
  26. ^ 3月場所において西山より番付上位の西15~東17枚目で4勝3敗だった力士はいずれも5月場所では三段目に留め置かれている。

関連項目

外部リンク

本場所

本場所(ほんばしょ)は、公益財団法人日本相撲協会によって定期的に行われる大相撲の興行。力士にとっては技量審査の性質があり、本場所での結果に基づき番付の昇降や力士褒賞金の加算が行われる。本場所における取組は公式戦とされ、通算の成績などは本場所のものを採用している。

概要

1958年(昭和33年)以降は年6回の興行で固定されている(下表)。開催地の命名権名称は2018年(平成30年)時点のもの。

開催月正式名称[注釈 1]通称会場開催地初日
01月一月場所初場所両国国技館東京都墨田区第1もしくは第2日曜日
03月三月場所春場所
大阪場所
エディオンアリーナ大阪
(大阪府立体育会館)
大阪府大阪市浪速区第2もしくは第3日曜日
05月五月場所夏場所両国国技館東京都墨田区第1もしくは第2日曜日
07月七月場所名古屋場所ドルフィンズアリーナ
(愛知県体育館)
愛知県名古屋市中区第1もしくは第2日曜日
09月九月場所秋場所両国国技館東京都墨田区第1もしくは第2日曜日
11月十一月場所九州場所福岡国際センター福岡県福岡市博多区第1もしくは第2日曜日

三月場所(大阪)[1]と七月場所(名古屋)[2]の会場では施設命名権が売却されており、主催者である日本相撲協会では上記のように施設命名権に基づく名称と正式名称を併記して使用している。施設名の扱いに関してはメディアごとに対応が分かれている。本場所のテレビ・ラジオ中継を行うNHK(日本放送協会) は本場所の会場名について正式名称のみを使用している。一方、新聞報道などでは報道機関により施設命名権による名称を使用する場合[3]、正式名称を使用する場合[4]、両名称を併記する場合[5]に分かれている。

江戸時代には本場所は各地で個別に行われており、力士は場所を主催する勧進元と自身の抱え大名の都合がついた本場所に個別に参加していた。その中でも三都(江戸・京都・大坂)の相撲がとくに盛んで、江戸で年2回、京都と大坂で年1回ずつ行われることが多かったが、天災や天候不順、不入りによる中止や打ち切りも頻発していた。江戸時代の川柳に「一年を二十日で暮らすいい男」というものがあるように、その当時は江戸の本場所が年に2回それぞれ10日のあわせて20日しかなかった[6]

明治時代になると各地の相撲集団は法人化して個別の力士を抱えるようになり、大正時代には相撲集団は東京と大阪に収斂し、それぞれ常設の国技館で年2回興行、さらに合同でも興行するようになる。昭和時代になると東西協会が合同して日本相撲協会となり、戦後には大阪・名古屋・福岡でそれぞれ興行を行うようになって現在に至る。

1場所は江戸時代は晴天10日間興行だったが徐々に延ばされ、現在は15日間連続で行われる。1日目は「初日(しょにち)」、8日目は「中日(なかび)」、最終日にあたる15日目は「千秋楽(せんしゅうらく)」と呼ばれる。初日は1場所15日制になって以降、昭和天皇崩御に伴い1日延期された1989年一月場所を除き、日曜日に設定されている。原則として初日は第2日曜日だが、3月・5月・9月・11月場所では日曜日が5週ある時は第3週から始まることもある。7月場所は夏巡業の期間確保のため6月から行われていたこともあり、現在も第1週から始まることがある。

番付は各場所初日の約半月前に日本相撲協会より発表される。1970年頃に、年末年始を挟む一月場所を除いては初日の13日前の月曜日と定められた。ほかのスポーツ行事の少ない曜日を選んだということである。例外として一月場所の番付発表については、直前が年末年始の期間に当たるため近年は前年12月下旬頃に行われている[7]

本場所の土俵進行(土俵入りや力士呼び出しの順序)は奇数日目が東方から、偶数日目が西方からとなっている。

本場所の進行

本場所は毎日8:00頃、呼出が会場前に設営された高櫓から打ち出す寄せ太鼓で始まる。この後序ノ口から順番に取組が始まるが、3日目(新弟子が多い3月場所は2日目から)から中盤にかけては、その前に前相撲が行われる。

序ノ口、序二段三段目幕下と取組が進み、幕下の相撲が残り5番(幕下上位五番)になった時点で、十両力士の土俵入りが行われる。かつては幕下取組終了後に行われていたが、昭和40年代末のオイルショックの際に光熱費節減のため、土俵入り後の休憩時間省略を目的に時間が変更された。この時点で14:20頃になる。その後十両の取組に入るが、初日と千秋楽は十両残り3番を残して日本相撲協会理事長からの挨拶(協会御挨拶)が入る。

十両取組終了後の概ね15:50頃に幕内力士の土俵入り・横綱土俵入りが行われる。千秋楽では十両以下各段の優勝決定戦および優勝力士の表彰が行われる。土俵入り後は中入の休憩時間に入り、初日は賜杯優勝旗返還式が行われる。また、1・5・9月場所初日では優勝額除幕式、1月場所初日では年間最優秀力士の表彰式も行われる。2日目から13日目まで(以前は14日目にも行われていたが、千秋楽の取組編成が14日目の打ち出し後に行われるようになったため、時間的に不可能になっている)は、時間に余裕がある時は翌日の幕内取組を紹介する「顔触れ言上」が行われる。幕内取組が半分消化したところで、時間調節のための小休止がある(17:00頃)。

幕内取組終了後に弓取式が行われ打出となり、1日の興行はすべて終了となる。時刻はこの時点で大相撲中継終了の18:00になるように調節されている。千秋楽は弓取式後に幕内最高優勝の表彰式(場所によっては先立って優勝決定戦)が行われるため、全日程が30分ほど繰り上がる。

かつて使われていた会場

1909年6月場所以前は回向院での晴天時興行の形を取っており、雨天中止となった場合その後2日続けて晴天とならなければ開始できない規則となっていた。 戦前は戦時戦後の一時期を除き旧両国国技館が使われ、1927年から1932年までの地方本場所は大阪市京都市名古屋市福岡市広島市で開催の実績がある。第二次世界大戦中には軍による接収、空襲による被災、そして戦後アメリカ軍による接収で国技館が使用できずに後楽園球場(番付上の表記は「小石川後樂園球場」)や神宮外苑相撲場等で晴天時限定で開催、その後仮設国技館(当時の表記は「假設國技館」)時代を経て蔵前仮設国技館へと本場所開催地を移した。

場所ごとの逸話など

1月場所(初場所)

  • 古くは1月場所は「春場所」と呼ばれた。1953年に大阪場所が出来て年4場所制となった時には1月場所は「初場所」か「春場所」かで協会発表に混乱があり、騒動になった。後で当時責任者だった年寄楯山(元幡瀬川)の明かしたところでは、マスコミを利用した話題づくりだった。
  • この場所で大関横綱への昇進を果たした力士は多く、「祝儀場所」の異名もある。
  • 中日8日目は天覧相撲になることが多い。特に平成31年初場所8日目における平成最後の天覧相撲において明仁天皇美智子皇后(いずれも当時)が退席するときに、自然発生的に観衆による万歳が行われた。
  • 1989年の初場所(=平成最初の場所)は1月8日日曜日)に初日の予定であったが、昭和天皇の崩御の関係で翌日の1月9日月曜日)に変更。初日が日曜日以外の曜日に行われたのは戦後の15日制復活後、初めてのことであった。
  • マーガレットコミックスベルサイユのばら第13巻』(集英社)が2017年初場所の懸賞として掲出し、話題となった。
  • 2016年から2021年まで6年連続で初優勝が続いている。
名勝負
新鋭安藝ノ海が双葉山を外掛けで下し、双葉山の連勝が69で止まった。
新入幕で連勝する大鵬に、小結柏戸が「止め男」として当てられた柏鵬初顔合わせ。後の柏鵬戦とは逆に攻めまくる大鵬を、柏戸が逆転の出し投げで下した。
北の富士の外掛けを貴ノ花が爪先立ちで弓なりの体勢でうっちゃりを狙い、北の富士の右手が先についた。行司軍配は貴ノ花に上がったが、物言いの結果北の富士の右手は「かばい手」とみなされ、軍配差し違えで北の富士の勝ちとなった。貴ノ花の勝ちを主張した25代木村庄之助は責任を取り退職。
ウルフフィーバーの巻き起こった場所。14連勝の千代の富士を1敗で追う北の湖が吊り出しに破って決定戦に持ち込んだが、この時北の湖の左足首が悪いのを見破った千代の富士が上手出し投げで決定戦を制し初優勝。大関昇進も果たす。
この前の取り組みで、日馬富士が敗れ、白鵬がこの取り組みに勝てば、大相撲の日本新記録となる33回の優勝が決まる一番だったが、本割では両者同体となり、物言い・協議の上取り直し。その取り直しで白鵬が勝ち、日本新記録の33回優勝が決定した。白鵬はこの場所を15連勝の全勝で、新記録達成に花を添えた。

3月場所(春場所)

  • 呼称については1月場所も参照。
    • 地元大阪を中心にほかの地方場所と同じく「大阪場所」の名称を使用することもあり、中継を行うメディアにおいてはAbemaTVが「大阪場所」を主に名称に使っている。
  • 1973年に中学生力士が禁止されて以降、中学卒業見込みの入門者が多い関係で6場所の中で最も初土俵を踏む新弟子が多く、「就職場所」の異名がある[9]。平成以降では1992年の151人が最多、2000年代に入ってからは100人を超えない年が続いている。
  • 「荒れる春場所」と呼ばれ[10]、番付上位が負けるいわゆる波乱の結果が多いとされる。
  • もともと大阪には大坂相撲の歴史があって相撲人気の根強い土地であり、毎年大いに盛り上がる場所である。
  • 3代目朝潮がこの場所で強く1956年から3連覇するなど通算5回の優勝のうち4回を大阪で達成、「大阪太郎」と呼ばれた。他に北勝海が通算8回優勝のうち4回が大阪での優勝。
  • 初の女性大阪府知事となった太田房江が在任中に幾度となく「大阪府知事賞の贈呈を自らの手で贈りたい」と土俵上は女人禁制と決めている協会と悶着を起こし、ファンや国民の間で議論を呼んだ。
  • 2011年の開催は、力士の八百長メール問題の外部委員会調査に時間がかかることと、世論動向から不祥事による初の開催中止となった。
  • 2014年は場所期間中に、大阪市長選挙が執行された(告示が初日、投票日が千秋楽と同じ)ため、「もう一つの春場所」とも言われ、(優勝力士に贈られる)市長賞が職務代行者によって贈られた。
  • 2020年の開催は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため無観客で開催。本場所が一般公開されないのは戦時中に傷病軍人を招待して開かれた1945年6月の夏場所以来75年ぶりで、観客を一切入れない興業は初(テレビ中継があったので「完全非公開」ではない)。
  • 2021年の開催は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、大人数での移動を避けるため、大阪での開催を取りやめ、特別に東京の両国国技館での開催となった。
名勝負
史上初めて、全勝力士同士が千秋楽結びの一番で優勝を争う形になった。栃錦が無理にまわしをきりにいったところを若乃花が一気に寄り、自身初の全勝優勝。栃若最後の一番にもなった。
  • 1975年千秋楽 横綱北の湖 - 大関貴ノ花(優勝決定戦)
本割で北の湖に敗れた貴ノ花が、決定戦では寄り切りで北の湖を破り初優勝。この時期の北の湖は優勝決定戦に弱く、同年の秋場所でも貴ノ花に敗れ、決定戦4連敗となった、
水入り10分後、結びの一番の後に取り直しを行い、計11分に渡る熱戦の末魁傑が掬い投げで勝利。打ち出しは18時20分。魁傑は前日にも大関若三杉と水入りの一番を取っている。

5月場所(夏場所)

  • 1946年の夏場所は戦争によって被災した国技館の修理が工事の遅延によって完了しなかったため、戦後初の開催中止となった(番付は発表されなかった)。
  • 2001年首相就任直後の小泉純一郎総理大臣杯の授与を行い前日の負傷を押して出場し22回目の幕内最高優勝を勝ち取った横綱貴乃花に対して「痛みに耐えてよく頑張った! 感動したっ! おめでとう!」との賛辞を送った。小泉の「感動したっ!」は流行語ともなった。なおこの負傷が原因となり、貴乃花はこの優勝を最後として2003年に現役を引退し、貴乃花親方を経て2018年に日本相撲協会を退職した。
  • 2011年は前場所の開催中止に引き続き八百長問題の影響で、通常の興行としてではなく技量審査場所として開催された(成績は正式記録として残る)。この場所は無料公開され、NHKはこの場所の生中継を行わず、総合テレビと衛星放送でのダイジェスト放送も行わない(ニュースでの報道は行う)。優勝額もなし。一方でニコニコ生放送ひかりTV等のネット配信で、前相撲から結びの一番まで完全生放送が行われた(詳しくは技量審査場所を参照)。
  • 2012年は、関脇鶴竜の大関昇進で1横綱6大関時代と話題になったが、前頭7枚目の旭天鵬が同4枚目栃煌山との史上初の平幕同士の優勝決定戦を制すると同時に初優勝の最年長記録を更新した。
  • 令和最初の大相撲開催となった2019年は千秋楽に国賓として来日していたアメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプが国技館に来場し、メラニア・トランプ夫人や安倍晋三内閣総理大臣安倍昭恵夫人と共に相撲を観戦。幕内優勝力士となった朝乃山に特別杯「アメリカ合衆国大統領杯」を贈呈した[11]。なお、この大統領杯は来年以降も夏場所の幕内最高優勝力士に贈呈する予定となっている[12]
  • 2020年は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため当初は日程を2週間遅らせることとして、その日程で番付も発表されたが、その後緊急事態宣言の延長を受けて開催中止を決定[13]。本場所の中止は1946年(昭和21年)夏場所、2011年(平成23年)春場所に続き3回目[14]
名勝負
ともに全勝で迎えたこの一番で双葉山は寄り倒しで玉錦に初勝利。双葉山はこの場所を11戦全勝で初優勝しその後5連覇を達成、この一番は覇者交代の一番と言われた。
  • 1971年5日目 小結貴ノ花 - 横綱大鵬
貴ノ花に寄り倒された大鵬はこの一番を最後に現役を引退した。
天覧相撲に組まれたこの一番で、両者は27秒に渡り計54発の突っ張り合いを展開した。
  • 1991年初日 前頭筆頭貴花田 - 横綱千代の富士
1980年代、昭和最後の大横綱・千代の富士と後に貴乃花として平成の名横綱になる貴花田の初顔合わせの一番。この一番で、千代の富士は寄り切られて完敗。貴花田は初金星を獲得。一方、千代の富士は2日後に現役引退。力士の世代交代の時を世間に知らしめた一番となった。

7月場所(名古屋場所)

  • 本場所となったのは1958年で、6場所の中では一番後である。
  • 日本相撲協会中日新聞社の共催となっている。九州場所が相撲協会の完全自主興行に移行した1974年以降(後述)、相撲協会以外の団体が本場所の主催元になっているのは名古屋場所だけである。中日新聞社関連では以下の特記事項がある。
    • 場所中、会場の愛知県体育館の館内には中日新聞社の社旗が掲げられる。
    • 毎年3月中旬頃から中日新聞社(北陸本社北陸中日新聞)・東京本社東京新聞)・東海本社福井支社日刊県民福井・編集自体は北陸本社で行っている)を含む)で桝席の販売が行われている。
    • 場所中、毎日必ず1本は中日新聞社が懸賞を出す。懸賞を出した取組は当日の中日新聞(北陸中日新聞・日刊県民福井・東京新聞を含む)のスポーツ欄及び中日スポーツ東京中日スポーツを含む)の大相撲欄で「本日の好取組」として展開予想が掲載される。
    • 本場所を共催している縁もあってか、1987年以降、加藤巳一郎、大島宏彦、大島寅夫と歴代の中日新聞社社長が横綱審議委員会の委員を務めている。
    • 関係会社の中部日本放送→CBCテレビで直前に「大相撲名古屋場所前夜祭」を開催している。但し、九州場所前夜祭(後述)と違い、自局の施設であるCBCホールで行っている。
    • 関係会社でもある中日ドラゴンズは球団創設80周年にあたる2016年にプロ野球チームとしては初となる懸賞を提供した。「80」に因み中入り後の8番目の取組に懸賞が掛けられている。
  • 「荒れる名古屋」で知られる。夏場の開催となって、とりわけ気温が高いことで知られる名古屋ということもあり、「熱帯場所」、「南国場所」の異名をとるほどの暑さのため体調管理が難しいことから調子を落とす上位力士も多いのが、その要因と言われている[15]。生涯ただ一度の優勝をこの場所で果たした力士も多い。
  • かつては場所後の夏巡業の日程を確保するために6月下旬から始まったこともあった。
    • また、同様の理由で、1960年代後半から1990年代までは第2日曜日になることのない7月1日~7日(即ち、必ず第1日曜日)から始まっていた。2000年代以降は概ね他の場所と同じ第2日曜日から始まっている[16]
  • 夏巡業を控えていることも有って、かつては名古屋場所では夏巡業の目玉となる新横綱を確保するために、やや甘い基準で名古屋場所で横綱昇進を果たす力士が少なからず存在した。しかし双羽黒光司が廃業騒動を起こすと横綱昇進の基準が厳格化。1993年7月場所の貴乃花光司、1994年7月場所の武蔵丸光洋、2006年7月場所の白鵬翔などは、双羽黒廃業騒動以前の基準なら、場所後に横綱昇進を果たしていた可能性がある[15]
  • 1923年関東大震災による東京の国技館焼失のため、翌年の1月場所が名古屋市内の仮設国技館で行われた。また、昭和初年の年4場所時代にも名古屋での本場所興行が行われた。
  • 1972年高見山大五郎が外国人力士として初めての優勝を遂げた。
  • 2010年は大相撲野球賭博問題の為NHKの生中継が中止となり(ダイジェスト版のみ放送)、協会が外部からの表彰を辞退した為表彰式は優勝旗と賞状のみとなった。
  • 2020年は新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、大人数での移動を避けるため、名古屋での開催を取りやめ、特別に東京の両国国技館での開催となった[13][14]。初日は従来より2週間遅い7月19日で、千秋楽は8月2日となり、1965年7月場所以来に本場所が月をまたぐこととなった。当初無観客での開催を予定していたものの、観客を入れてのイベント制限が緩和されたことで2500人程度の観客を入れて開催が行われている。主催については、通常通り中日新聞社との共催で行われ[17]、報道などでも正式名の「七月場所」が使用された。
  • 2021年2020年東京オリンピック開催に伴い第1日曜日(7月4日)が初日となった。
名勝負
連続優勝と横綱昇進を目指す北の湖を星一つの差で追う輪島の対戦は、本割で輪島が下手投げで勝ち2敗で並ぶと、優勝決定戦でも勝ちを急ぐ北の湖をまたも下手投げで破り逆転優勝。優勝を逃した北の湖だが場所語横綱に昇進。
  • 1978年14日目 横綱北の湖 - 横綱輪島
3連覇中の北の湖と輪島がともに全勝で14日目に対戦。水入りの熱戦となった一番は体力に勝る北の湖が勝ち、これを境に輪湖時代から北の湖一強の時代へ変わっていった。
史上2度目、横綱同士では初となる同部屋相星決戦。場所前に娘を亡くし、この場所は数珠を首にかけながら場所入りしていた千代の富士が、右上手投げで先輩横綱の意地を見せ28度目の優勝を果たす。
1988年春場所が初土俵の同期生3人による巴戦。横綱昇進のかかる大関・貴ノ花が結びの一番に勝って決定戦に持ち込んだが曙が連勝、横綱初優勝を決めた。場所後若ノ花は大関昇進。優勝 - 優勝同点の貴ノ花の昇進は見送られた。
  • 2020年13日目 大関朝乃山 - 前頭17枚目照ノ富士
上述の通り特別に両国国技館で開催された。元大関で序二段まで陥落し、幕内に戻ってきた照ノ富士と新大関の朝乃山が対戦した一番。結果は照ノ富士が撃破し、千秋楽にも御嶽海を破って幕尻優勝を果たした。
  • 2021年千秋楽 横綱白鵬 - 大関照ノ富士
前場所も優勝して完全に復活し、綱取りに挑む照ノ富士と休場明けの白鵬が全勝同士で対決した一番。結果は白鵬が勝って全勝優勝。照ノ富士は敗れて優勝を逃したが、翌9月場所に横綱昇進を果たした。結果的にこれが白鵬の現役最後の一番となった。

9月場所(秋場所)

  • 長期に及ぶ夏巡業の後の本場所であるため、ここで大きく「化ける」力士も多い。
  • 同様に夏巡業を経て再起を目指す、連続休場明けの横綱がよく登場する。
  • 大阪で10月に開催された1949年秋場所、6日目まで1勝5敗と不振の横綱前田山は7日目に休場届を提出するとその日のうちに帰京し、後楽園球場で行われた巨人シールズ日米野球を観戦。後日これが発覚し、前田山は引退に追い込まれた。
  • 1955年は勤務で本場所を観戦できないビジネスマンにも会社帰りに大相撲を楽しんでもらおうとの配慮から、午前10時30分から取組開始、午後5時30分に中入り、午後8時に打ち出しという「ナイター興行」で行われた。ナイター興行はビジネスマンには好評だったが、力士にとってはコンディション作りが難しく、体調を崩す力士が続出、また遠隔地向けの版に間に合わないという理由で新聞社からクレームが入り、1場所限りで取りやめとなり、2015年1月現在では、現状唯一のナイター本場所である[18]
    • しかも、このナイター本場所の11日目において、横綱千代の山対関脇若乃花の取り組みが、史上最長となる合計17分15秒の「大相撲」となる珍事があった。本割で2回にわたり水入りの中断があり、更に力士の疲労を考えて、次の2番を先に消化してから取り直しとなり、結果引き分けとなった。このため、打ち出しは夜8時15分と最も遅いものとなった[18]
  • 2000年シドニーオリンピック開催に伴い第1日曜日(9月3日)が初日となった。
  • 俳句では相撲の季語。
名勝負
ともに大関昇進を目指す両者の対戦は水入りを挟み約4分の熱戦の末輪島の勝ち。場所後両者は揃って大関に昇進。
入幕2場所目で上位力士をなぎたおし優勝を争っていた「小錦旋風」を、三役陣最後の砦として琴風が止めた一番。結果、蔵前国技館最後の優勝は平幕の前頭12枚目多賀竜となった。

11月場所(九州場所)

  • 東西合併以降1930年に九州地方初の本場所が行われており、以降太平洋戦争が激化するまで九州場所は行われていた。1955年から2年間は準場所として施行され、1957年から本場所に昇格した[19]。昇格した年から4年連続で大関以下が優勝、「横綱が優勝できない場所」と言われたが1961年に大鵬が優勝してようやくそのジンクスが破られた。その大鵬は32回の優勝の内7回を九州場所で果たしており、大鵬にとって九州場所が最も験の良い場所となった[19]
  • 福岡スポーツセンターで開催されていた1973年までは同名の運営会社(西鉄グループ)との共催だったが、1974年から日本相撲協会単独主催の自主興行となり、同時に九電記念体育館に移った。
  • 1970年代前半に九州場所は存亡の危機に立たされたが、西鉄ライオンズの身売り騒動に危機感を覚えたの国民的なスポーツを九州に残したいという気持ちからなる奔走によって、九州場所は継続に至った[20]
  • 千代の富士の1981年から1988年までの8連覇は同一場所連続優勝の最多記録。
  • 地方で行われる本場所の中でも、最も地元出身力士への声援が大きい。毎年初日の数日前に、相撲協会とNHK福岡放送局の共催で前夜祭が開かれ九州出身力士が紹介される。とりわけ魁皇が現役力士だった頃には福岡県直方市出身ということもあって大きな声援が飛び、相撲の観客からは珍しい「魁皇コール」が場内から起こるほどであった。これは相手力士には相当なプレッシャーであり、魁皇はこの場所だと好調ではあったが、遂に九州場所で幕内最高優勝を果たすことなく引退した。その後は福岡県柳川市出身の琴奨菊が大関に昇進、魁皇人気を引き継いだ。
  • 2008年からは観客の座布団投げ(座布団の舞。主に横綱が平幕に敗れた(金星)場合に観覧席から土俵に向けて座布団が飛ばされていた)を、危険行為とみなして厳しく取り締まることになり、マス席の座布団はこれまでの1人用の正方形4枚から2人用(縦1メートル25、横50センチ)の座布団2枚に変更しさらに2枚をひもで結んでつなげた形に変わった。これにより、1人でも座布団に座っていれば座布団を投げられない仕組みになった。しかし重さが2枚計4.8キロとなって投げられた場合の危険性が増したということで、同場所以降、座布団投げが確認された場合は警察へ110番通報するという非常に厳しい措置(警察沙汰)がとられた。
  • なるほど・ザ・ワールドフジテレビ)が2005年九州場所の懸賞として提出され、同年12月28日放送の『年末の祭典スペシャル』で視聴者プレゼントした[21]
  • コンサートで来日した元ビートルズポール・マッカートニーが2013年九州場所を観戦した。この場所に登場したポールの懸賞が話題になった。
  • 週刊少年ジャンプ(集英社)が2014年九州場所の懸賞として掲出され、話題となった。
  • 九州場所が開催される「福岡国際センター」は、地方3本場所の中で、1万席と最も観客席の数が多く、チケットが売れ残る現象が長く続いていたが、2017年(平成29年)の場所で久しぶりに前売りが完売。
  • 集客が悪い状態が長年続いており、「不入の場所」とよく言われており満員御礼の連続記録が途切れるのも九州場所が多い。主な原因として九州には相撲茶屋が無く、チケット手配は「大相撲売店」と呼ばれる商店とプレイガイド委託による販売が主でありそれに伴う大手の顧客、贔屓筋が無いのも要因である。時期的にも一年の締めくくりであるがゆえにこの一年の相撲人気、または優勝争いの行方が売上に直接影響する場所でもある。[22]
  • 2020年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、大人数での移動を避けるため、福岡での開催を取りやめ、特別に東京の両国国技館での開催となり、マスコミ報道などでの通称も正式名称と同じ「十一月場所」が使用された。
名勝負
一年納めの九州場所千秋楽結びの一番が、年間最多勝の決定戦となった例。それぞれ栃錦77勝、北の富士63勝で最多勝を獲得。なお、どちらも同場所の優勝に直接かかわる相撲ではなかった。
他に九州場所千秋楽まで年間最多勝を争った例として1967年の横綱柏戸がおり、横綱大鵬が同年九州場所終盤を3休したためもあるが千秋楽に前頭5枚目福の花に勝って70勝20敗、70勝6敗14休の大鵬と年6場所以降はじめての最多勝同点となった。なお柏戸は12日目にこの場所優勝の横綱佐田の山にも勝っており、この勝敗が逆であったら佐田の山(この年69勝)が大鵬と同点になっているところだった。
千代の富士の53連勝を、久しく脇役に甘んじていた大乃国が止めた一番。千代の富士はこれに勝っていれば54連勝、翌初場所で双葉山の成した69連勝への挑戦権を得られるはずだった。大乃国はこの一番のために千代の富士の相撲をビデオで研究し尽くしたという。結果的にこれが昭和最後の一番にもなった。
  • 1995年千秋楽(優勝決定戦) 横綱貴乃花 - 大関若乃花
当時一大ブームを起こしていた、元大関・貴ノ花の長男・若乃花と次男・貴乃花の花田兄弟による最初で最後の対決。同門(二子山部屋)のため本割での取り組みは組まれないため優勝決定戦ではあるが、唯一本場所の土俵での2人の対戦が実現した。取り組みは若乃花が貴乃花を下し、2度目の優勝を飾った。ちなみに貴乃花はのちに同門の貴ノ浪との2度の優勝決定戦にも敗れ、同門の優勝決定戦には勝利していない。
前日に横綱若乃花に敗れたもののこの場所の初日から11連勝と好調の琴錦と貴乃花の対戦。結果は琴錦の完勝で金星獲得。この大金星がきっかけとなり琴錦は自身2度目の平幕優勝を果たした。
白鵬の63連勝を稀勢の里が止めた一番。白鵬はこれに勝っていれば64連勝、この場所の7日目で双葉山の成した69連勝への挑戦権を得られるはずだった。前場所まで4場所連続で全勝優勝をしていた白鵬が敗れるといった大一番であるが、上述の理由で座布団は1枚も飛ばなかった。

準場所

年6場所制が定着する前には、本場所の間の時期を利用して、本場所が開催されない土地で興行をすることがあった。

その頃は、巡業も一門ごとに別の土地を回るのが普通だったので、全力士が集合して行われる興行は、準場所と呼ばれ、1959年10月大阪準場所までは持ち給金の加算も行われた(番付の昇降には関係しない)[23]

15日間興行が多く、北海道では8日興行となっていた[23]。1940年代には、満洲で、3箇所5日間ずつ開催で15日興行としたこともあった。

観戦マナーについて

一般に、大相撲の本場所観戦では、集団で一方の力士の名をコールすること、力士の体に触れること、出待ち力士にサインや握手を求めること、取組中にみだりに席を離れること、物を投げること、他の観客の観戦の邪魔になるものを身に着けることが禁止されている[24]

脚注

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注釈

  1. ^ 1958年(昭和33年)に制定された内規によると、大相撲の本場所の名称は、それぞれの場所が開催される月の名で表したものを正式名称としている。これに元号による開催年を冠して、例えば「昭和五十六年一月場所」「平成二十年七月場所」などのようにする(数字も正式には漢字表記)。実際に、協会が発行する番付や・取組表・星取表などはすべてこの「〜月場所」という表記方で書かれている。新聞テレビなどの媒体では、近年民放を中心に内規通りの名称を用いているところがあるが、「春場所」「夏場所」など四季名や、「名古屋場所」「九州場所」など開催地名での通称が広く用いられており、NHKの大相撲中継では、「大相撲夏場所三日目」「大相撲九州場所千秋楽」などとタイトルテロップが用いられている。

出典

  1. ^ 大阪場所 観戦案内”. 日本相撲協会. 2018年7月25日閲覧。
  2. ^ 名古屋場所 観戦案内”. 日本相撲協会. 2018年7月25日閲覧。
  3. ^ 例として、“優勝の御嶽海が2敗目 名古屋場所千秋楽”. 日本経済新聞. (2018年7月22日). https://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK00296_S8A720C1000000/ 2018年7月25日閲覧。 “優勝の御嶽海が2敗目 名古屋場所千秋楽”. 時事通信. (2018年7月22日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2018072200270&g=spo 2018年7月25日閲覧。 
  4. ^ 例として、“初優勝の御嶽海、豊山に敗れ2敗…豪栄道10勝”. 読売新聞. (2018年7月22日). https://www.yomiuri.co.jp/sports/sumo/20180722-OYT1T50067.html 2018年7月25日閲覧。 。なお、読売新聞は紙面ではウェブサイトと異なり両名称を併記する場合がある。
  5. ^ 例として、“【大相撲名古屋場所】優勝の御嶽海は13勝2敗 来場所、大関へ挑戦”. 産経新聞. (2018年7月22日). https://www.sankei.com/sports/news/180722/spo1807220020-n1.html 2018年7月25日閲覧。 
  6. ^ 白鵬、鶴竜は休みすぎ? 歴代横綱の休場率を調べてみた(3/3ページ) 日刊SPA! 2020年11月20日 (2021年1月8日閲覧)
  7. ^ 本場所の年間日程表”. 財団法人日本相撲協会. 2017年3月3日閲覧。
  8. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年12月号p40
  9. ^ 田中亮『全部わかる大相撲』(2019年11月20日発行、成美堂出版)p.8
  10. ^ 「荒れる大阪場所」のルーツ 大相撲コラム集(大相撲あんなこと・こんなこと) - goo 大相撲
  11. ^ 日米首脳、大相撲を観戦=トランプ氏が大統領杯授与”. 時事通信(2019年5月26日作成). 2019年6月2日閲覧。
  12. ^ 来年以降の夏場所も米大統領杯授与へ 力士に大きな励み”. スポーツニッポン(2019年5月27日作成). 2019年6月2日閲覧。
  13. ^ a b “理事会発表事項” (プレスリリース), 公益財団法人日本相撲協会, (2020年5月4日), http://www.sumo.or.jp/IrohaKyokaiInformation/detail?id=364 2020年5月4日閲覧。 
  14. ^ a b “夏場所中止、7月の名古屋場所は東京で無観客開催へ 日本相撲協会”. 産経新聞. (2020年5月4日). https://www.sankei.com/sports/news/200504/spo2005040005-n1.html 2020年5月4日閲覧。 
  15. ^ a b 『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p41
  16. ^ 例外として、2002年〜2004年、2013年、2019年は第1日曜日から始まっている。また、2020年も東京オリンピックに配慮して第1日曜日から始める予定であった。
  17. ^ 19日に大相撲7月場所初日 名古屋から離れても… - 中日新聞、2020年7月19日 5時00分配信、5時01分更新。
  18. ^ a b 1場所限りのナイター興行 大相撲コラム集(大相撲あんなこと・こんなこと) - goo 大相撲
  19. ^ a b 『大相撲ジャーナル』2017年12月号p39
  20. ^ 田中亮『全部わかる大相撲』(2019年11月20日発行、成美堂出版)p.130
  21. ^ 九州場所ではネット局であるテレビ西日本との共同で懸賞幕を製作した。
  22. ^ 不入りが続く九州場所。その打開策はあるのか?~販売力改善と、土俵内の充実を~-2015年1月14日閲覧。
  23. ^ a b 大相撲準本場所”. sumohima.web.fc2.com. 2021年2月4日閲覧。
  24. ^ 田中亮『全部わかる大相撲』(2019年11月20日発行、成美堂出版)p.18

外部リンク


 

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