ポータルフィールドニュース

ポータルフィールドニュース

in ,

🛏|“おもてなし役”が地元の魅力再発見を…ホテルが『ツアー型の社員研修』 能登の観光資源を再確認


写真 

“おもてなし役”が地元の魅力再発見を…ホテルが『ツアー型の社員研修』 能登の観光資源を再確認

 
内容をざっくり書くと
その後、従業員たちは穴水町にある来迎寺を訪れ、江戸時代の絵師・円山応挙が書いたとされる掛け軸など、あまり知られていない観光資源を再確認しました。
 

石川県七尾市にあるホテルの従業員が、地元の観光地を実際に見て回る「ツアー型の社員研修」に臨みました。… →このまま続きを読む

 石川テレビ

「石川テレビ放送」(フジテレビ系列)ニュースのアカウントです。石川県の最新ニュースを発信します。


Wikipedia関連ワード

説明がないものはWikipediaに該当項目がありません。

円山応挙

円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字表記では圓山應擧享保18年5月1日1733年6月12日)- 寛政7年7月17日1795年8月31日))は、江戸時代中期~後期の絵師

近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。

諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている。[1]

経歴

本姓は藤原、後に、姓は円山、名は岩次郎、後に主水。夏雲、雪汀、一嘯、仙嶺、僊斎、星聚館、鴨水漁史、攘雲、洛陽仙人と号す。石田幽汀の門人。享保18年(1733年)、丹波国南桑田郡穴太(あなお)村(現在の京都府亀岡市曽我部町穴太)に農家の次男として生まれた。穴太は、西国三十三所の札所寺院である穴太寺があることで知られる。少年時代のことはあまり詳しくわかっていないが、遅くとも10代の後半には京へ出て、狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家、石田幽汀の門に入っている。

20代の修行期の頃にはいわゆる「眼鏡絵」の制作に携わっていたことが知られる。この頃、京都四条通柳馬場の尾張屋中島勘兵衛という玩具商に勤めていた。そこでオランダ渡来の眼鏡絵を見て、宝暦9年(1759年)頃、「四条河原遊涼図」、「石山寺図」、「賀茂競馬図」、「円山座敷図」、「三十三間堂図」など京都風景の眼鏡絵を制作した。眼鏡絵とは、風景などを西洋画の遠近法を応用して描き、これを「覗き眼鏡」という凸レンズを嵌めた箱を通して見ると立体的に見えるというものである。応挙が見た眼鏡絵は、45度傾けた鏡に映した絵をレンズを通して眺める。そうすると、遠近が深く感じることが出来る。よって、この原画及び図上の文字は左右反対に描いてあった。作品は木版墨摺りで、手で着色したものであった。画面には小さな孔を開け、薄紙を張って裏から光を当てるという工夫が見られた。

明和3年(1766年)から「応挙」を名乗り始める。「応挙」の意は「銭舜挙(中国末 - 初の画家)に応ずる」ということであり、中国の大家に劣らぬ水準の絵を描こうとする意が込められていると思われる。またこの頃から三井寺円満院の祐常門主の知遇を得る。祐常は公家の二条家から門跡寺院に入って僧となった人物で、『萬誌』(ばんし)という日常雑事を記録した書物を残しているが、その中に応挙の言動が詳細に書き留められており、同時代の貴重な記録となっている。

この祐常や豪商三井家が応挙の主要なパトロンであった。代表作の『七難七福図』、『孔雀牡丹図』などは第二次大戦後まで三井寺円満院に伝来したものであり、『雪松図』は三井家に伝来したものである。また、兵庫の大乗寺、郷里穴太の金剛寺の障壁画群も代表作に数えられる。応挙最晩年の作品に属する『見立江口の君図』や『四季遊戯図巻』などは、純然たる意味での肉筆浮世絵とは言えないまでも、浮世絵的雰囲気を持つ作品として、また上方風俗図として挙げることが出来る。享年63。墓所は京都市右京区太秦悟真寺法名は円誉無之一居士。円山派は長男の応瑞が継いだが、後述の弟子たちの方が有名である。

大本教祖の出口王仁三郎は応挙の家系から出ている。[2]

宅址(四条通堺町東入ル南側)に石標が一本建てられている[3]

画風

応挙の画風上の特色として第一に挙げるべきことは、近世の日本の画家のなかでも際立って「写生」を重視したことである。前述の祐常著『萬誌』によれば、応挙は常に懐中に写生帖を忍ばせ、暇さえあればスケッチに余念がなかったようである。現存する『花鳥写生図巻』(千總蔵、重要文化財)や東京国立博物館蔵の『写生帖』などには動物、昆虫、植物などがさまざまな角度から客観的に描写されている。応挙画は、こうした写生の技術を基礎としつつも、日本絵画の伝統的な画題を扱い、装飾性豊かな画面を創造しているところが特色である。一例として根津美術館蔵の『藤花図』屏風を見ると、藤の幹や枝は輪郭線を用いず、付立て[4] の技法で大胆に描き出す一方で、藤の花房は写実的かつ繊細に描かれ、全体としては琳派を思わせるような装飾性豊かな大画面をつくり出すことに成功している。卓越した画技と平明で親しみやすい画風から、応挙画は三井家をはじめとする富裕な町人層に好まれた。

著名な弟子には呉春長沢蘆雪森徹山源琦などがいる。応挙を祖とするこの一派は「円山四条派[5]と称され、現代にまでその系譜を引く京都画壇の源流[6]となっている。

後世の作品で応挙を取り上げたもの

応挙の絵は大衆に受け入れられたため、大衆娯楽で取り上げられることが多い。また池波正太郎鬼平犯科帳」では、盗賊の人相書きを四条円山派の絵師・石田竹仙に描かせており、写実的画風で幕府お抱えの狩野派に勝るとも劣らないと劇中で描写されている。

  • 落語「応挙の幽霊」- 応挙が描いた幽霊の美人画を元にした落語。応挙を左甚五郎のような神格化された名人として扱っており、「応挙の幽霊の絵は他の絵師とは違う。とても美人だ」「応挙の幽霊は掛け軸から出て来る。左甚五郎の彫った龍が夜な夜な水を飲みに行くのと同じだ」と描写されている。『古典落語8 怪談・人情ばなし』所収。落語協会編、角川文庫/新版・ハルキ文庫

応門十哲

応挙の門人のうち、最も優れた10人をいう。

代表作

作品名技法形状・員数寸法(縦x横cm)所有者年代落款印章文化財指定備考
白鷹図絹本墨画1幅50.5x81.4大雲院 (京都市)「圓一嘯」「氐印」白文方印・「一嘯」朱文方印初期作[7]
源氏物語図屏風紙本金地著色六曲一双161.0x352.0個人「洛陽處士/圓山主水」(左右隻)白文方印・朱文方印(左右隻)希少な初期の大作。しかし、まだ師・幽汀の影響から抜けきれていない[8]
猛虎図紙本金地著色六曲一双175.6x372.2個人「平安圓山主水」(左右隻)「平安人員氐字仲均」白文方印・「夏雲」朱文方印(左右隻)希少な初期の大作。改装時に錯簡があったらしく、古写真と虎の配置が変わっている[9]
山水図紙本墨画襖10面園城寺法明院1765年(明和2年)頃「仙嶺」「平安人員氐字仲均」白文方印・「僊嶺」白文方印大津市指定文化財応挙と号する直前の作[10]
淀川両岸図巻絹本著色1巻42.0x1690.01765年(明和2年)1763年(宝暦13年)に描かれた下絵が付属[11]
湖山烟靄図紙本墨画淡彩1幅159.5x174.3相国寺1767年(明和4年)「明和丁寅夏日寫/平安藤應舉」
大石良雄絹本著色1幅189.3x133.6百耕資料館1767年(明和4年)[12]「丁寅夏日/應舉寫」
七難七福図巻 紙本著色3巻322x1420.6(天災巻)
31.9x1062.3(人災)
32.2x1209.1(福寿)
相国寺承天閣美術館1768年(明和5年)「明和五戊子年仲秋圓應舉圖/應舉」「應舉之印」白文方印重要文化財滋賀・円満院、萬野美術館旧蔵
蘭亭曲水図襖・壁貼付紙本墨画淡彩9面167.5x68.5(4面)
169.5x93.0(4面)
168.7x137.3
個人1768年(明和5年)元の所在地は不明[13]
孔雀牡丹図絹本著色1幅131.5x191.3相国寺承天閣美術館1771年(明和8年)「辛卯夏日/應舉」「應舉之印」白文方印重要文化財滋賀・円満院、萬野美術館旧蔵
写生図鑑紙本著色2巻31.8x1009.0(甲巻)
44.0x277.0(乙巻)
千總コレクション1770年-72年(明和7年~安永元年)重要文化財円山派4代・旧蔵
大瀑布図紙本淡彩1幅362.8x144.5相国寺1772年(安永元年)「壬辰孟夏寫/應舉」「應舉之印」白文方印・「仲選」白文方印重要文化財滋賀・円満院、萬野美術館旧蔵
竹鶴稚松図屏風紙本金地著色六曲一双153.5x357.8(各)福岡市美術館1772年(安永元年)「壬辰仲冬寫/應舉」
雲龍図屏風紙本淡彩六曲一双176.0x365.0(各)岐阜・法人1773年(安永2年)「安永癸巳仲夏寫/應舉」(左右隻)「應舉之印」白文方印・「仲選」白文方印(左右隻)重要文化財東寺観智院伝来
山水図屏風絹本著色六曲一双158.5x355.0(各)三井文庫三井記念美術館保管)1773年(安永2年)
百蝶図絹本著色1幅104.4x143.4徳川ミュージアム1775年(安永4年)「安永乙未暮秋寫/應舉」[14]白文方印2顆
雨竹風竹図屏風紙本墨画六曲一双160.5x354.0(各)京都・円光院1776年(安永5年)「安永丙申季夏應舉画於/圓光精舎」「應舉之印」白文方印・「仲選」白文方印(左右隻)重要文化財
藤花図屏風紙本金地著色六曲一双156.7x359.7(各)根津美術館1776年(安永5年)「安永丙申初秋寫/應舉」(左右隻)「應舉之印」白文方印・「仲選」白文方印(左右隻)重要文化財
江州日野村落図屏風紙本墨画六曲一双154.5x350.4(各)三の丸尚蔵館1776年(安永5年)
牡丹孔雀図絹本著色1幅130.4x98.8三の丸尚蔵館1776年(安永5年)「安永丙申暮秋寫/應舉」「應舉之印」白文方印・「仲選」白文方印
双鶏図紙本金地著色衝立1基114.0x164.0八坂神社1776-77年(安永5-6年)「應舉」「應舉之印」「仲選」朱文方印描かれた鶏のリアルさが京で評判となった応挙の出世作。鶏が中から抜け出すのではと心配され、長らく画面を金網で覆っていたとされ、その釘跡が今も残る[15]
華洛四季遊戯図巻絹本著色2巻28.2x561.2(下巻)徳川美術館1777年(安永6年)以前重要美術品
陶淵明図屏風紙本金地著色二曲一隻175.0x190.0個人1777年(安永6年)重要美術品[16]
富士三保図屏風紙本墨画淡彩六曲一双153.8x357.6(各)千葉市美術館1779年(安永8年)
拡元先生[17]・端淑孺人像[18]絹本著色2幅91.8x32.3(拡元先生)
100.1x32.4(端淑孺人像)
東京国立博物館1779年(安永8年)
敲氷煮茗図紙本金地著色1幅113.6x166.3大阪天満宮1780年(安永9年)「敲氷煑茗/庚子初春寫應舉」「應舉之印」白文方印・「仲選氏」朱文方印[19]
嵐山春暁図紙本淡彩1幅87.5x126.5逸翁美術館1780年(安永9年)「庚子仲春寫/應舉」「應舉之印」白文方印・「仲選」白文方印
幽霊図絹本淡彩1幅97.8x26.0個人(カリフォルニア大学バークレー校美術館寄託[20]1772-81年(安永年間)「戯図」「應舉之印」白文方印・「仲選」白文方印数ある伝応挙筆「幽霊図」のなかで、真筆と認められている数少ない作品[21]。他に真筆とされるものに、青森県弘前市久渡寺本がある。
群鶴図紙本金地著色六曲一双152.0x350.0個人1772-81年(安永年間)「應舉」「藤應舉印」白文方印・「仲選氏」朱文方印[22]
深山大澤図屏風紙本淡彩六曲一双119.7x256.0(各)仁和寺40代末から50代前半頃「應舉寫」(左右隻)
源氏四季図屏風紙本金地著色六曲一双171.3x364.6(各)三の丸尚蔵館1781-82年(天明元-2年)頃「源應舉」(各隻)「應舉之印」白文方印(各隻)[23]
朝顔図・薔薇文鳥図紙本銀地著色(朝顔図)
紙本金地著色(薔薇文鳥図)
2幅119.4x109.0(各)相国寺1784年(天明4年)萬野美術館旧蔵
明眼院旧蔵障壁画東京国立博物館1784年(天明4年)元は愛知県海部郡大治町にある明眼院書院の障壁画。現在は東京国立博物館内の応挙館所在。
神州和尚像絹本著色1幅107.9x41.6南禅寺慈氏院[24]1785年(天明5年)「應舉」朱文方印[25]
竹雀図屏風紙本淡彩六曲一双165.5x373.0(各)静岡県立美術館1785年(天明5年)
草堂寺本堂障壁画紙本墨画7面・3幅187.3x92.0(6面)
189.3x173.2
254.0x79.0
255.0x179.0
254.0x79.0
草堂寺1785年(天明5年)「應舉画」「應舉之印」白文方印・「仲選」白文方印重要文化財
無量寺本堂障壁画無量寺1786年(天明6年)「天明丙午初冬寫/平安應舉」「應舉之印」白文方印・「仲選」白文方印重要文化財
秋月雪峡図屏風紙本墨画淡彩六曲一双154.6x348.2(各)千葉市美術館1786年(天明6年)
富士巻狩図屏風紙本金地著色六曲一双155.0x361.0(各)個人1786年(天明6年)「天明丙午初夏寫/應舉」(左右隻)[26]
木賊兎図絹本着色1幅104.5x42.0静岡県立美術館1786年(天明6年)「丙午仲秋寫/應舉」「應舉之印」白文方印・「仲選」白文方印
雪松図屏風紙本淡彩六曲一双155.7x361.2(各)三井文庫三井記念美術館保管)1786年(天明6年)頃「應舉寫」(各隻)「應舉之印」白文方印・「仲選」白文方印国宝
金刀比羅宮障壁画金刀比羅宮1787年(天明7年)および1794年(寛政6年)重要文化財三井家注文。床(とこ)貼付絵の『瀑布図』が有名
大乗寺障壁画165面兵庫・大乗寺1787年(天明7年)および1795年(寛政7年)重要文化財
青楓瀑布図紙本著色1幅178.0x91.9サントリー美術館1787年(天明7年)
四季草花図屏風紙本著色六曲一双155.2x559.2袋中菴挿華 山階御流1787年(天明7年)「天明丁未孟秋寫/應舉」(左右隻)[27][28]
布袋図紙本墨画1幅210.0x108.2名古屋市博物館1788年(天明8年)「模古画/天明戊申初冬平安源應舉」「應舉之印」白文方印誠拙周樗、松雪渓賛。「模古画」の通り、『集古十種』「名物古画」所載「妙心寺什物梁楷筆布袋図」の模写か[29]
金剛寺障壁画53幅・二曲一双金剛寺 (亀岡市)東京国立博物館寄託)1788年(天明8年)
波上白骨座禅図紙本墨画淡彩1幅132.6x59.0兵庫・大乗寺1781-89年(天明年間)
三美人図絹本著色1幅92.1x64.9徳願寺1781-89年(天明年間)「平安仲選齋畫」「應舉之印」白文方印・「仲選」白文方印
氷図紙本墨画二曲一隻60.5x182.1大英博物館1781-89年(天明年間)「應舉」「應舉」朱文方印
見立江口の君図絹本著色1幅静嘉堂文庫1794年(寛政6年)
保津川図屏風紙本淡彩八曲一双154.5x483.0(各)千總コレクション1795年(寛政7年)「乙卯晩夏寫/應擧」(右隻)
「應擧」(左隻)
「應舉之印」白文方印(左右隻)重要文化財
竹鶏図紙本金地著色襖2面163.5x165.5(各)岡山・蓮台寺1795年(寛政7年)皆川淇園識語
群獣図屏風六曲一双三の丸尚蔵館
梅の枝を持つ立美人図絹本著色城西大学水田美術館

作品画像

関連文献

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 例えば、吉川観方『絵画に見えたる妖怪』では、土佐光起の足のない幽霊画の模写が伝わっていることから、少なくとも元禄期には足のない幽霊画が存在していた可能性を示唆している。「円山応挙が足のない幽霊を初めて描いた説」に疑問(妖怪専門誌・「怪」の掲示板の記事)
  2. ^ 出口京太郎『巨人出口王仁三郎』1967,講談社,P23
  3. ^ 杉立義一『京の医史跡探訪』思文閣出版、1984年、292、293頁。
  4. ^ 「付立て」(つけたて)とは、1本の筆の全体に淡墨(淡彩)、先端の部分に濃墨(濃彩)を含ませて、一筆で濃淡を表現する技法。
  5. ^ 聚美編集部編『聚美 創刊号 特集:円山応挙と呉春』(青月社、2011年10月)ISBN 978-4-8109-1241-8
  6. ^ 『円山応挙から近代京都画壇へ』(求龍堂)に詳しい。
  7. ^ 『円山応挙 〈写生画〉創造への挑戦』第107図。
  8. ^ 『円山応挙 ―叙情と革新―』 第17図。
  9. ^ 『円山応挙 〈写生画〉創造への挑戦』第58図。
  10. ^ 滋賀県立近代美術館 京都新聞社編集・発行 『湖国滋賀と京都画壇』 1989年2月18日、第1図。
  11. ^ 『円山応挙―空間の創造』第20図。
  12. ^ 百耕資料館 »所蔵品 »美術資料 »日本画 »大石良雄図
  13. ^ 『円山応挙―空間の創造』第23図。
  14. ^ 「大徳川展」主催事務局編集・発行 『大徳川展』 2007年10月10日、第255図。
  15. ^ 『円山応挙 〈写生画〉創造への挑戦』第13図。
  16. ^ 『円山応挙展 江戸時代絵画 真の実力者』第22図。
  17. ^ C0056828 拡元先生像 - 東京国立博物館 画像検索
  18. ^ C0056830 端淑孺人像 - 東京国立博物館 画像検索
  19. ^ 『円山応挙 〈写生画〉創造への挑戦』第76図。
  20. ^ Art Collection _ CollectionSpace
  21. ^ 『円山応挙 〈写生画〉創造への挑戦』第68図。
  22. ^ 『円山応挙 〈写生画〉創造への挑戦』第4図。
  23. ^ 『円山応挙 ―「写生」を超えて―』第19図。
  24. ^ 『円山応挙 ―叙情と革新―』第52図
  25. ^ 『円山応挙 〈写生画〉創造への挑戦』第68図。
  26. ^ 『円山応挙展 江戸時代絵画 真の実力者』第61図。
  27. ^ 『円山応挙 ―叙情と革新―』第26図
  28. ^ 『円山応挙 江戸時代絵画 真の実力者』第63図。
  29. ^ 名古屋市博物館編集 『特別展 画僧月僊』 「画僧月僊」実行委員会、2018年、第11図。
  30. ^ Leonard C. Hanna, Jr. Fund 1973.156

参考文献

各・展覧会図録

関連項目

穴水町

穴水町(あなみずまち)は、石川県能登半島中央に位置するで、鳳珠郡に属している。

概要

隣接する旧鳳至郡門前町と合併し鳳町(おおとりまち)になる計画で法定合併協議会が開かれていたが、協議はまとまらず、やがて解散。その後前述の門前町、さらに旧輪島市(合併前)を加えた三者対等合併も計画されたが、旧輪島市議会の否決によって実現できず単独町政が続いている。

星空の町108市町村の一つとして選ばれ、1992年環境庁(当時)などが主催する第4回「星空の町・あおぞらの街」全国大会が開催された。

地理

町の北部、西部は丘陵地で南部は七尾北湾、東部は富山湾に面する。

気候は1月、2月には降雪はあるが、丘陵が風をさえぎるため冬でも比較的穏やかといえる。

隣接する自治体

歴史

人口

Demography17461.svg
穴水町と全国の年齢別人口分布(2005年)穴水町の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 穴水町
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性

穴水町(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より

行政

町長

第二次穴水町歴代町長
氏名就任退任備考
11樋爪啓太郎1908年(明治41年)7月3日1912年(明治45年)7月2日
21912年(明治45年)7月3日1916年(大正5年)7月1日
32佐藤実1916年(大正5年)7月13日1918年(大正7年)3月2日
43清水省三1918年(大正7年)5月18日以降不明
??日吉宗能1947年(昭和22年)4月5日1950年(昭和25年)1月15日[4]
歴代町長
氏名就任退任備考
黒川理輔1954年(昭和29年)3月31日1954年(昭和29年)4月23日[5]
11布施丑雄1954年(昭和29年)4月24日1958年(昭和33年)4月23日
21958年(昭和33年)4月24日1962年(昭和37年)4月23日
31962年(昭和37年)4月24日1966年(昭和41年)4月23日
42瀬那重雄1966年(昭和41年)4月24日1970年(昭和45年)4月23日
51970年(昭和45年)4月24日1974年(昭和49年)4月23日
61974年(昭和49年)4月24日1978年(昭和53年)4月23日
71978年(昭和53年)4月24日1982年(昭和57年)4月23日
81982年(昭和57年)4月24日1984年(昭和59年)6月6日[6]
93小泉進一1984年(昭和59年)7月8日1986年(昭和61年)1月3日[7]
104坂本明1986年(昭和61年)2月2日1990年(平成2年)2月1日
111990年(平成2年)2月2日1994年(平成6年)2月1日
121994年(平成6年)2月2日1998年(平成10年)2月1日
131998年(平成10年)2月2日2002年(平成14年)2月1日
142002年(平成14年)2月2日2006年(平成18年)2月1日
155石川宣雄2006年(平成18年)2月2日2010年(平成22年)2月1日
162010年(平成22年)2月2日2014年(平成26年)2月1日
172014年(平成26年)2月2日2018年(平成30年)2月1日
182018年(平成30年)2月2日現職
  • 町長 - 石川 宣雄(いしかわ・のぶお)

議会

定数:10[8]

経済

産業

  • 主な産業
農林水産業が主な産業で、農産物ではスイカ、栗、水産物では牡蛎貝、ナマコ、メバル、クロダイなどが特産品である。
  • 産業人口(2010年国勢調査)[9]
    • 第1次産業 519人
    • 第2次産業 1,915人
    • 第3次産業 2,754人

商業地区

  • 穴水商店街
穴水駅と穴水町役場に挟まれる地域に商店や飲食店が多く集まる地区があり、特に輪島警察署穴水庁舎から穴水小学校の間には穴水の商店通りが展開している。しかし道が狭く大きな駐車場もないので近所の人以外はやや利用しにくい状況になっている。
のと里山海道の終点にもなっている穴水IC(以前は此木ICといった)のある交差点は、能登有料道路の先が珠洲道路になり、それに交差して石川県道1号七尾輪島線が通っていて、能登中部の重要な交通の要所になっている。ここに多数のお店が並んでおり、郵便局のATMおよび無料の大駐車場も完備して、穴水のみならず、奥能登全体から人が集まる拠点として近年注目されている。

町の活性化

  • 合宿誘致
穴水町では、合宿等誘致事業費補助金交付制度を整えており[10]、町外の人と町民との交流人口の拡大を図り[11]、成果を挙げている[12]
  • 「落語のまち」づくり
落語家初代林家三平の妻海老名香葉子が終戦前後に穴水に疎開したことなど林家一門とつながりがあることから[2]、「落語のまち」づくりに生かし、笑いを町の活性化につなげようという町の施策。講師として林家一門を招き、落語会や「三平堂塾」などを開催している[13]

姉妹都市・提携都市

国内

地域

公共機関

警察

消防

国の行政機関

学校教育

高等学校

中学校

小学校

  • 穴水町立(2校)
    • 穴水小学校
    • 向洋小学校

社会教育

図書館

  • 穴水町立図書館(穴水町さわやか交流館プルート内)

博物館・美術館等

  • 能登中居鋳物館
  • 穴水町歴史民俗資料館

交通

空港

  • 能登空港
    空港所在地は輪島市であるが、滑走路の大半が穴水町にある。
    羽田空港から全日空便が1日2便あり、約70分で結んでいる。

鉄道

過去の鉄道路線

道路

バス

港湾

地方港湾

  • 穴水港

漁港

  • 第1種
    • 古君漁港
    • 宇加川漁港
    • 前波漁港
    • 沖波漁港
    • 甲漁港
    • 曽良漁港
    • 鹿波漁港
    • 岩車漁港
    • 新崎漁港

観光

祭り・イベント

名所・旧跡

特産品

著名な出身者・ゆかりの人物

ゆかりの人物

関連項目

脚注

  1. ^ 図典 日本の市町村章 p105
  2. ^ a b c ◎「穴水が私の原点」 海老名香葉子さん「ふるさとお話会」 仮設住宅に報恩行脚 47NEWS2007年10月9日(2014年3月20日閲覧)
  3. ^ 震度が過大に観測され、実際は6弱だった可能性がある。「震度計:26地点で運用停止 軟弱地盤で過大観測」 毎日新聞 2010年3月30日
  4. ^ 日吉は1950年1月15日実施のリコール投票で解職が決定し、町選挙管理委員会異議申立てしたが却下された。その後、解職請求の無効を求めて最高裁まで争い、1951年12月に、最高裁は日吉の任期が同年4月4日で終了していて、訴えの利益が失われていることを理由に上告棄却した。『昭和26年12月28日 最高裁判所第二小法廷 判決 昭和26年(オ)149号』
  5. ^ 町長職務執行者、旧住吉村長
  6. ^ 収賄容疑で逮捕され辞職
  7. ^ 在職中死去
  8. ^ 穴水町議会議員選挙”. 選挙ドットコム. 2019年5月8日閲覧。
  9. ^ 穴水町人口ビジョン”. 穴水町. 2019年5月8日閲覧。
  10. ^ 合宿等誘致事業費補助金交付制度
  11. ^ 穴水町合宿等誘致事業費補助金交付要綱
  12. ^ 能登穴水「田舎の豊かな暮らし」推進事業落研合宿の第1号、学習院大生ら到着 穴水 柳家小団治師匠ら講師『北国新聞』2010年8月23日。
  13. ^ 穴水「落研」合宿、林家一門が支援 町の誘致事業 8月、第1号で「三平堂塾」『北国新聞』2010年7月26日。林家一門が落語指導 穴水の中学生に『北国新聞』2011年10月27日。
  14. ^ a b 穴水町長コラム第67号
  15. ^ 「海老名文庫」千冊超える 穴水総合病院 北国新聞2014年1月31日(2014年3月20日閲覧)
  16. ^ 広報あなみず2010年1月号
  17. ^ 林家三平さん夫婦が殿と奥方に 穴水で長谷部まつり北国新聞2012年7月23日(2014年3月29日閲覧)。ちなみに、奥方役は妻の国分佐智子が務めている。

外部リンク


 

Back to Top
Close