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✈|ジブリ制作の愛知・観光動画、あいち航空ミュージアムも登場


写真 Echo-Kiloさん 2018年11月25日撮影 52-1152 日本航空機製造 YS-11-103P 航空自衛隊

ジブリ制作の愛知・観光動画、あいち航空ミュージアムも登場

 
内容をざっくり書くと
ジブリ作品「風立ちぬ」は、零式艦上戦闘機、通称「ゼロ戦」の設計者として知られる堀越二郎をモデルに創作されました。
 

スタジオジブリが手がけた愛知県の観光動画「風になって、遊ぼう。」に、あいち航空ミュージアムと日本で開… →このまま続きを読む

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零式艦上戦闘機

A6M 零式艦上戦闘機

零式艦上戦闘機

零式艦上戦闘機

零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は、第二次世界大戦期における日本海軍(以下、海軍と表記する)の艦上戦闘機。略称、零戦(ぜろせん、れいせん)(以下、零戦と表記)。試作名称は十二試艦上戦闘機[1]。(略称は十二試艦戦)。

概要

投入された日中戦争から太平洋戦争初期にかけ、3,000 kmの長大な航続距離・20ミリ機銃2門の重武装・優れた運動性能、そして空力的洗練と軽量化を徹底追求した機体設計は1000馬力級の「栄」エンジンの性能を極限まで引き出し、一躍世界の戦闘機の頂点に立ったが、大戦中期以降は、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、F4UコルセアF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の投入で劣勢となるも、後継機烈風の開発が遅れたことにより終戦まで日本海軍航空隊の主力だった。格闘戦を重視した軽量設計であったが、戦闘爆撃機特攻機としても使用された。

開発元は三菱重工業(以下「三菱」)。三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産、総生産数の6割以上は中島製である。生産数は日本の戦闘機では最多の1万機以上[2]

特徴

名称

当時の日本の軍用機の名称は採用年次の「皇紀」の下2桁を冠する規定があり、零戦の制式採用された1940年(昭和15年)は神武天皇即位紀元(略称・皇紀)2600年にあたり、その下2桁の「00」から「零式」とされた[3][注釈 1]

「零戦」と略され「れいせん」「ぜろせん」と呼ばれる。このうち「ぜろせん」と読むことについて「戦時中、英語は敵性語として使用を制限されていたから『ぜろせん』と読むのは誤り」「“ゼロファイター”の和訳が戦後に一般化した」[要出典]と言われることがあるが、戦時中の1944年(昭和19年)11月23日付の朝日新聞で初めて零戦の存在が公開された際には「荒鷲[注釈 2]などからは零戦(ゼロセン)と呼び親しまれ」とルビ付きで紹介されていることから、「ぜろせん」が誤りという訳ではない。

当初、発動機の換装は一号、二号、機体の改修は一型、二型と表されていた(○○式○号艦上戦闘機○型)が、1942年夏に連続した二桁の数字(最初の桁が機体の改修回数、次の桁が発動機の換装回数を示す)で示すように変更されたため、既存の一号一型/一号二型は一一型/二一型と改称、二号零戦/二号零戦改と仮称されていた新型零戦は三二型/二二型と命名された[要出典]。後に武装の変更を示す甲乙丙を付与する規定を追加。

連合軍が零戦に付けたコードネームZeke(ジーク)だが、パイロットからは直訳調のZero Fighter(ゼロファイター)やZero(ゼロ)と呼ばれた。ただし三二型は出現当初、それまでの二一型とは異なり翼端が角張っていたためか別機種と判断され、Hamp(当初はHap)というコードネームが付けられた。

構造

零戦は、速力、上昇力、航続力の各数値を優れたものとするため、軽量化を徹底している[4]。同時期の艦上戦闘機であるF4Fワイルドキャットが構造で機体強度を確保していたのに対し、零戦はより強度の高い素材を使用して部材の肉を抜き重量を削減した[5]。軽量化は骨格にとどまらず、ボルトねじなどに至るまで徹底したという。

しかしながらこれら軽量化策は想定外の強度低下を招き、初期の飛行試験では設計上耐えられるはずの条件下での機体の破壊を招いた。1940年(昭和15年)3月、十二試艦戦2号機が昇降舵マスバランスの疲労脱落によるフラッタにより空中分解しテストパイロットの奥山益美が殉職、さらに1941年(昭和16年)4月、二一型135号機と140号機がバランスタブ追加の改修をした補助翼と主翼ねじれによる複合フラッタにより急降下中に空中分解し下川万兵衛大尉が殉職、開戦直前まで主翼の構造強化や外板増厚などの大掛かりな改修が行われている。設計主務者の堀越技師は、設計上高い急降下性能があるはずの零戦にこのような事態が発生した原因として、設計の根拠となる理論の進歩が実機の進歩に追い付いていなかったと回想している[6]。操縦席の横に補強した脚置き場を設置し胴体フィレット下と胴体側面に引き込み式のハンドルとステップを取り付けている。そのステップと一部のハンドルは操縦席から手が届かず、離陸前に整備員が押し込む必要があった。

生産段階でも多数の肉抜き穴や、空気抵抗を減らす目的で製造工程が複雑な沈頭鋲を機体全面に使用するなど、生産工程が増える設計となっているが、少数精鋭の艦戦ということで工数の多さが許容されたからである。大戦中期以降は後継機の開発が遅れたため生産数を増やす必要に迫られたことで設計を変更し、工数を減らす努力が続けられたが、設計段階から生産効率を考慮したP-51マスタングと比較すると零戦の生産工数は3倍程度もあり、生産側の負担となった[注釈 3]

米軍が鹵獲した零戦二一型機体の調査に携わったチャンス・ヴォートのエンジニアから、V-143戦闘機と引き込み脚やカウリング・排気管回りなどが類似していると指摘されたため、零戦そのものがV143のコピー戦闘機であるという認識が大戦中のみならず現在でも一部海外で存在する。だがこの説は、開発開始時期の相違により否定されている。降着装置が半引き込み式で、尾部の突起が少々長いが、外形、寸法、各種数値が似ているグロスター社のF.5/34をコピー元とする説もあるが、零戦の寸法は、翼面荷重や馬力荷重を九六式艦戦と同程度に収めるように決められた数値である。またグロスターのF.5/34が前近代的な鋼管骨組み構造であるのに対し、零戦は九六式艦戦と同じ応力外皮(モノコック)構造であり、コピー説は否定されている。似ているのは、機体形状に関して冒険を避け、当時主流の設計にまとめられた結果である。

零戦には九六式艦上戦闘機同様、全面的な沈頭鋲の採用、徹底的な軽量化と空気力学的洗練、主翼翼端の捻り下げ、スプリット式フラップ、落下式増槽などがある。主翼と前部胴体の一体化構造は、陸軍の九七式戦闘機(中島製)に採用された技術で、フレーム重量を軽減するが、翼の損傷時の修理に手間取るという欠点がある。

降着装置

零戦の降着装置は、油圧作動式の引き込み脚であり、空気抵抗を削減するために主脚及び尾輪を機体内へ引き込む設計とした。引き込み式の降着装置は日本の艦上機としては九七式艦上攻撃機に次いで2番目の採用となる。主脚は萱場製作所製のオレオ式緩衝装置を備えていた。主脚は主翼中程から胴体側へと内側に折りたたまれた。これは主翼の構造がやや複雑になる反面、強度や安定性に優れ安全性が高い。油圧が少なくて済むよう、主脚は左脚が引き込まれた後、右脚が引き込まれた。降着装置の作動状態は知らせ灯(電球)ではなく、主翼上面から棒が飛び出して知らせる方式となっている。また主脚の車輪カバーは、引き込んだ主脚が爪を押して閉める機械式ロックを採用した。トラブルで脚が出せないときは、応急脚出し引手(応急用手動ポンプ)で脚を下ろした。なお、零戦のライバルであるF4F ワイルドキャットの引き込み脚は、パイロットがハンドルを回転させる、手動式である。

超々ジュラルミン

住友金属工業が開発した新合金である超々ジュラルミンを主翼主桁に使用した。後に米国でも同様の合金が実用化されている。日本・英語圏ともESDと呼ばれるが、日本では「超々ジュラルミン」の英訳である「Extra Super Duralumin」の略であるのに対し、英語圏では「E合金」と「Sander合金」をベースに作られた「Duralumin」という意味の略号である。ちなみに現在のJIS規格では、7000番台のアルミ合金に相当する。

剛性低下式操縦索

人力の操舵では操縦装置を操作した分だけ舵面が傾くが、高速飛行時と低速時では同一の舵角でも舵の利きが異なるため、操縦者は速度に合わせて操作量を変更しなければならない。そこで零戦では操縦索を伸び易いものにして、もし高速飛行時に操縦桿を大きく動かした場合でも、気流の抵抗で動きにくくなっている舵面との間で操縦索が引き伸ばされることで舵角が付き過ぎないよう補正されるようにしている。この仕組みは昇降舵につながる操縦索にのみ用いられた。

従来は、主任設計者である堀越二郎の記述により、剛性低下操縦方式の採用は零戦からだと思われていた。しかし近年、曽根嘉年が残した資料によって、剛性低下操縦方式はすでに九六式艦上戦闘機二号二型から導入されていたこと、この発想の原点は本庄季郎が設計をとりまとめた九六式陸上攻撃機の先行試作機である八試特殊偵察機だったこと[注釈 4]などが明らかになっている[7]

光像式照準器(九八式射爆照準器、俗称OPL)

海軍では1932年(昭和7年)にOPL製照準器を試験的に輸入して以来、慣例的にOPLと呼称していた光像式照準器を日本の戦闘機で初採用した。従来の照準器は「眼鏡式」と呼ばれ、照準用望遠鏡が前面風防から突き出ていたため空気抵抗が増し、搭乗員はスコープを覗き込む際に窮屈な姿勢となり視界も制限された。これに対し光像式照準器は、ハーフミラーに遠方に焦点を合わせた十字を投影するもので、キャノピー内に配置されるので、空気抵抗を低減できる上に照準操作もしやすく、また望遠鏡式とは異なって照準器を覗き込まないので、視界が狭くなることもない。九八式照準器は輸入したハインケルHe 112に装備されていたレヴィ2b光像式照準器をコピーしたものであるが、大戦後半には、輸入したユンカースJu 88に装備されていたレヴィ12C光像式照準器をコピーした四式射爆照準器に更新されている。

発動機

零戦の性能向上が不十分だった原因として、発動機換装による馬力向上の失敗がある。雷電紫電の穴埋めとして零戦の武装・防弾の強化及び高速化を図った五三型(A6M6)の開発を開始、水メタノール噴射装置の追加によって出力向上を図った栄三一型(離昇1,300馬力を予定)の搭載が予定されており、武装・防弾を強化しても最高速度を580 km/h台までの向上が可能と試算されていた。栄三一型の開発は比較的順調に進み、五三型試作一号機を用いて実用審査が行われていた。しかし、1944年(昭和19年)秋頃に多発した零戦のプロペラ飛散事故の原因が栄二一型の減速遊星歯車の強度不足であることが判明し、対策を必要とする零戦(五二型系列約300機)の改修に海軍の栄三一型審査担当者が追われ、栄三一型の審査は一時中断された。そしてこの時に始まったフィリピン戦に対応するため、審査未了で生産できない栄三一型の代わりに栄二一型が零戦に装備されることになったものの、審査と平行して生産されていた栄三一型用の調整は困難かつ実効がほとんど認められず、性能低下の一因ともなる水メタノール噴射装置は倉庫で埃を被ることになった。同時期に陸軍の栄三一型審査担当者は審査完了しており、水メタノール噴射装置の可能性を実感した結果、これを改良した栄三二型(離昇1,300馬力)を搭載した一式戦闘機三型を1944年(昭和19年)7月から量産開始した。この結果、大量生産された零戦五二型丙(A6M5c)は栄二一型(離昇1,130馬力)装備のまま武装・防弾のみを強化したため正規全備重量が3,000 kg近くに増加し、急降下性能の向上は見られたが、零戦の持ち味であった運動性能と上昇力がともに低下した機体が量産されるに至った。この混乱が治まった後に栄三一型の審査は再開されたものの、既に審査終了が1945年(昭和20年)の初頭になっていた。その後、零戦六二型(A6M7)には栄三一型甲/乙(離昇1,210馬力)、これと併行して零戦六三型(A6M7)には栄三一型(離昇1,300馬力を予定)を1945年(昭和20年)2月から量産開始させたが、その大多数は水メタノール噴射装置を廃した栄三一型甲/乙を搭載した零戦六二型(A6M7)で、一部は保管され審査完了待ち状態だった栄三一型を零戦六三型(A6M7)に装備した。2機種を競合させて零戦六二型(A6M7)の生産を優先させた理由は、水メタノール噴射装置自体の重量が約100 kgと70 Lの水メタノールタンクで合わせて約170 kg以上の重量があったため、零戦の運動性能が損なわれると判断されたからである。水メタノール噴射装置の不具合とそれによって引き起こされる稼働率の低下も問題になったと考えられる。運動性能を重視して稼働率の高い零戦六二型(A6M7)か、速度性能を重視して稼働率の低い零戦六三型(A6M7)を競合させた結果、前者の方を量産するに至った。

零戦に栄より大馬力を期待できる金星を装備するという案は、十二試艦戦の装備発動機選定以降も繰り返し浮かび上がっている。まず、零戦二一型の性能向上型であるA6M3の装備発動機を検討する際に栄二一型と共に金星五〇型が候補として挙がったが、最終的には栄二一型を採用、次に1943年(昭和18年)秋に中島飛行機での増産に伴って栄の減産が計画されたため、零戦にも金星六〇型への発動機換装が検討されたが、航続距離の低下とより高速重武装の雷電二一型(J2M3)の生産開始が近く、中止になっている。1945年(昭和20年)、中島飛行機において誉のさらなる増産に伴い、中島での栄は生産中止となり、再び零戦の金星六二型への発動機換装が計画された。零戦五四型(A6M8)発動機換装型は、艦上爆撃機彗星三三型のプロペラとプロペラスピナーを流用した間に合わせ的な機体だが、発動機換装により正規全備で3,100 kgを超える機体に零戦各型で最速となる572.3 km/hの速度と五二型甲(A6M5a)並みの上昇力となったが航続距離は大幅低下、局地戦闘機的な性格が強い機体となる。性能向上型としては成功したように思える五四型だが、試作一号機が1945年(昭和20年)4月に完成する数ヶ月前に、金星を生産する三菱の発動機工場がB-29の爆撃(名古屋大空襲)によって壊滅、結局試作機2機が完成したに過ぎず、零戦は最後まで栄を搭載せざるを得なかった。

また開戦前の海軍は栄二一型に換装した性能向上型の零戦、後の零戦三二型に期待しており、三菱の他にライセンス生産を行う中島飛行機でも三二型の大量生産計画が立てられていた。しかし、いわゆる「二号零戦問題」と栄二一型の不調もあって、中島飛行機での零戦三二型のライセンス生産は中止、1944年(昭和19年)前半まで零戦二一型の生産を続けている[注釈 5]

設計者の堀越は昭和19年9月の社内飛行試験報告において軍へ、工作精度の低下、劣悪な燃料から生産機は設計値から25%の性能低下、とした試算、実験報告をしている。アメリカ軍が現代のハイオクガソリンと遜色ない100オクタンの燃料を安定的に使用できたのに対し、日本軍の航空91揮発油は額面上では91オクタンであるが実際には87程度、航空87揮発油(87オクタン)は85程度という証言もあり[8]、品質悪化により不調や性能低下が誘発された。

定速回転プロペラ

恒速回転プロペラとも呼ばれ、回転数を一定に保つため、プロペラピッチ変更[注釈 6]を自動的に行うもので、操縦席にあるプロペラピッチ変更レバーにより任意でのピッチ変更も可能である[注釈 7]。日本の艦上機としては九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機についで3番目に装備された。零戦に使用されたのは当時多くの機体に使われていたハミルトン・スタンダード製の油圧式可変プロペラを海軍向けのプロペラを生産していた住友金属工業がライセンス生産したものである[注釈 8]

アメリカの参戦により以降に開発された改良型や新型の情報、より精密な加工に必要な工作機械が入手できなくなった。対策として住友金属では独自に改良型の試作が行われ一〇〇式司令部偵察機三型にピッチの変更範囲を35度に拡大したペ26が採用されたが[9]、素材や工作機械の精度により性能の向上は限定的であった。住友金属ではドイツのVDM社からライセンス生産権を得た電動式ガバナーを備えた定速4翅プロペラも生産しており雷電などに採用されたが、構造が複雑で生産工程数や部品点数が多く振動問題もあったため、零戦は旧式ではあるが信頼性の高いハミルトン式の採用が続いた。大戦前の旧式プロペラが改良されなかったことは発動機と共に速度向上の足かせとなった。

機銃

爆撃機など大型機を一撃で撃墜するため、当時としては強力な20mm機銃搭載が求められており、初期型から機首の7.7mm機銃(九七式七粍七固定機銃)2挺に加え翼内に20mm機銃2挺を搭載しており、当時としては高火力な機体となった。

7.7mm機銃は当時のイギリス軍の歩兵銃、また日本海軍でも国産化していた留式七粍七旋回機銃と同じ7.7x56R弾(.303ブリティッシュ弾)使用で、これは輸入した複葉機の時代からのもので、この歩兵用の重機関銃を航空機用に改良したヴィッカースE型同調機銃を、毘式七粍七固定機銃(後に九七式固定機銃)として国産化したものであった。7.7mm機銃を機首上部に配置したため、操縦席の正面パネルは計器類を下に寄せたレイアウトとなっている。

零戦搭載の20mm機銃はエリコンFFをライセンス生産した九九式一号銃、FFLをライセンス生産した九九式二号銃及び両者の改良型で、初速は一号銃 (FF) が600m/s、二号銃 (FFL) が750m/s、携行弾数は60発ドラム給弾(九九式一号一型・一一型 - 三二型搭載)/100発大型ドラム弾倉(九九式一号三型または九九式二号三型・二一型 - 五二型搭載)/125発ベルト給弾(九九式二号四型・五二型甲以降搭載)となっていた。

20mm機銃は大型機対策として搭載したものだが、防御力が高く7.7mmでは効果の薄いF4Fにも有効であり、空戦でも活躍したことは多くの搭乗員が認めている。しかし携行弾数60発(初期型)を二斉射で全弾消費するパイロットもおり、多数のF4Fを相手にする際は弾数が不足しがちであった[10]。他にも7.7mmとの弾道の違い、旋回による発射G制限などが欠点として指摘されている。これに対応して携行弾数を増加させる改修が施されている。大戦中盤からは一号銃から銃身を長くして破壊力を上げた二号銃が搭載されるようになった。 九九式一号銃の初速では、弾丸の信管の不具合もあってB-17フライングフォートレスの防弾板を至近距離でなければ貫通できないことを海軍鹵獲の実物で確認、高初速の二号銃の採用で弾道、貫通力改善、先行し信管の改良も実施。

携行弾数は、初期の60発ドラム弾倉が、改良され最終的にベルト給弾化、125発に増加。エリコンFFシリーズは弾倉が機銃構造の一部に含まれ、ベルト給弾化は困難で、本家スイスのみならず技術先進国のドイツでも実施されておらず、日本の九九式二号四型が唯一の事例であった。

20mm機銃は威力を活かし重装甲のB-17やF4Fを数発で撃墜し米軍に脅威を与えた。しかし「照準が難しく、修正しているうちに弾がなくなる」ため、戦闘機との格闘戦においては使い難いという欠点があり用兵側は一号銃に不満を持っていた。また威力に関してもF6Fなど防御力が向上した戦闘機が登場したこともあり、ミッドウェー海戦で沈んだ空母「加賀」の直掩隊は、さらなる威力増大を求めている[11]

大戦後期にアメリカ軍が12.7mm機関銃6 - 8門を装備したF6FやP-51を投入してくると、機首の九七式7.7mm機銃二挺に替えて、三式13.2mm機銃を1 - 3挺(機首1、翼内2)搭載した型も登場した。

防弾

零戦は、徹底した軽量化のために防弾燃料タンク・防弾板・防弾ガラス・自動消火装置などは搭載されなかった。初陣から防弾装備の追加は要望されていたものの、重量増によって運動性や航続距離とのトレードオフになること、各種装備の実用化が遅れたこと、さらに連合国軍の反撃に対応するため改修による生産数や飛行性能の低下が許容できなかったことなどから先送りされた。それでも、1943年(昭和18年)末からは翼内タンクの炭酸ガス噴射式自動消火装置が、1944年(昭和19年)からは操縦席の防弾ガラスや防弾鋼板が順次装備され、一部の機体は胴体タンクを自動防漏式としていたが、最後まで不足が指摘されていた。

零戦は涙滴型の風防を備えており、特に後方視界が広く取れた点では同時期の他国戦闘機と比して後方警戒がしやすい利点があった。そのため運動性能と視界の良さを生かして、攻撃を受ける前に避けるという方法で防御力の弱さをカバーするパイロットも多かったが、それには熟練の技術が必要で短期間の訓練で投入された新人には難しく、気象条件や位置に左右されるなど限界もあった。

設計者の堀越は、開発時に防弾を施さなかったことは優先順位の問題であり、戦闘機の特性上仕方がないと語っている[12]。当時は大馬力エンジンがなく、急旋回等で敵弾を回避することもできる戦闘機では、防弾装備は他性能より優先度が低く、海軍からも特に注文はなかったという。防弾装備が必要とされたのは搭乗員練度の低下によるもので、分不相応なものだったと回想している[13]。技術廠技術将校岸田純之助は「パイロットを守るために速力や上昇力、空戦性能を上げて攻撃を最大の防御にした。防弾タンクやガラスを装備すれば敵に攻撃を受けやすくなる[14]、日本の工業力から見ても零戦の設計が攻撃優先になったのは仕方ない選択。日本は国力でアメリカに劣っていたため、対等に戦うにはどこか犠牲にしなければならない、防御装備には資金がいるので限られた資源でどう配分するか常に考える必要があった」と語っている[15]

通信装置

零戦には前作の九六式艦戦同様に無線電話・電信機が装備され、当初は九六式空一号無線電話機(対地通信距離100km、電信電話共用)を搭載していた。ミッドウェー海戦の戦訓は「直衛機は電話を工用し、制空隊・直衛隊の電波を同一となすの要あるものと認む」と述べている[16]。大戦後半はより高性能の(対地通信距離185km、電信電話共用)に変更している。アメリカ軍は、アリューシャンで鹵獲した二一型に装備されていた九六式空一号無線電話機を軽量化のため最小限の装置のみを搭載していると評価し、マリアナで鹵獲した五二型に装備されていた三式空一号無線電話機を自軍無線機に匹敵する性能を持つと評価した。但し、取付方法や防湿対策に問題があるとも評価していた。事実、信頼性が低いため高度や気温で不調となることが多いため、軽量化目的で無線機(約40kg)を下ろすベテランもおり、現場では手信号が多用された。

この他に艦上機型である二一型からは、単座機では困難な洋上航法を補助する装置として無線帰投方位測定器が新たに搭載されている。これはアメリカのフェアチャイルドが開発したものを輸入・国産化したもので、輸入品はアメリカでの呼称そのままにク式(クルシー式の略)無線帰投方位測定器と呼ばれ、後に国産化されたものは一式空三号無線帰投方位測定器と呼ばれた。これらも絶縁処理やノイズ対策の未熟さや整備マニュアルの不徹底により不調となる例が多かった。

同時期の多くの単発戦闘機と同様、電探敵味方識別装置は装備されていない。

性能

格闘性能

高い運動性能を持ち、同世代の戦闘機よりも横、縦とも旋回性能がズームを除いて格段に優れる。20mm機銃2挺という強力な武装。気化器が多重の弁(0Gバルブ/中島製)を持つために、マニュアル上背面飛行の制限がない[注釈 9]。これは戦闘機にとっては非常に重要で、急激な姿勢変化に対するエンジンの息継ぎを考慮しないで済むため、機体の空力特性=旋回性能限界としての操縦が可能である。ただし、持続的なマイナスG状態での飛行では米軍機同様のエンジンストールが発生することが米軍の鹵獲機試験で判明しており、大戦後期の攻略戦法に取り入れられている。初期の米国戦闘機に「ゼロとドッグファイトを行なうな」「零戦と積乱雲を見つけたら逃げろ」という指示があったのは、同じ姿勢変化を追随して行なうとエンジン不調につながるからでもあった。一方、低速域での操縦性を重視し巨大な補助翼を装備したため、低速域では良好な旋回性能の反面、高速飛行時には舵が重く機動性が悪かった。

零戦は操縦は極めて容易なため搭乗員の養成、戦力向上が比較的短時間に行えた[17]

搭乗員の藤田怡与蔵は「零戦は戦闘機として必須のあらゆる特性を一身兼備、一千馬力から100パーセントの効率をしぼり出して再現したようなバランスのよくとれた高性能を持っていた。特に昇降舵操舵に対してはどこまでも滑らかで崩れず、いかなる速度と迎え角においても、ピシッときまる天下一品の応答をしてくれた。調教の行きとどいた駿馬とでもいったふうにパイロットの動かす通りに動いてくれた」と語っている[18]

零戦の格闘性能は、後継機にも影響を与えた。烈風(当時は十七試艦戦)の研究会において、少佐(横須賀航空隊戦闘機隊長)は実戦で零戦が敵を制しているのは速度だけではなく格闘性能が優れているためで、次期艦戦でも速度をある程度犠牲にしても格闘性能の高さに直結する翼面荷重を低くすべきと主張し、空技廠飛行実験部の小林淑人中佐もこれを支持している[19]

速力

軽量化のため、500 km/h (270kt) 超の最高速度。急降下に弱いのは徹底した軽量化により機体強度の限界が低く、初期型の急降下制限速度は、F4Fなどの米軍機よりも低い629.7 km/h (340kt) であった。試作二号機や二一型百四十号機と百三十五号機が急降下試験の際に空中分解事故を起しており、原因解析の結果を受けて、以降の量産機では、主翼桁のシャープコーナーの修正・昇降舵マスバランスの補強・主翼外板厚の増加などの対策が施され、急降下性能の改善が図られた[6]。五二型以降では更に外板厚増加などの補強が行われ、急降下制限速度は740.8 km/h (400kt) まで引き上げられている。

航続力

零戦は大戦初期において、長航続距離で遠隔地まで爆撃機を援護し同時侵攻できた数少ない単発単座戦闘機である。陸軍の一式戦闘機隼も航続距離は長い方だが、実戦では零戦の方が長距離作戦に投入されることが多かった。もともと艦隊防空を主任務とする艦戦は、常に艦船上空に滞空させて対空監視(戦闘哨戒)を行う必要がある。零戦が開発された1936年(昭和11年)当時、レーダーは実用段階まで至っていない。艦戦が運用される航空母艦は、陸上基地とは異なり早期警戒のための対空見張り網を構築できないためである。このような運用を前提とする場合、滞空時間が長ければ長いほど、交代機が故障で上がれないなどの突発的な事態において防空網に穴が空きにくいという利点がある。後述の十二試艦上戦闘機計画要求書にあるように、航続力が距離ではなく滞空時間で指定されている事も、こうした運用に基づくものである。当時の米軍戦闘機ではF4F-3(2,285km)でも長い部類であった。

また、長大な航続力は作戦の幅を広げ戦術面での優位をもたらす。実際、開戦時のフィリピン攻略戦などは、当時の常識からすると空母なしでは実施不可能な距離があったが、零戦は遠距離に配備された基地航空隊だけで作戦を完遂した。ただし自動操縦装置や充分な航法装置のない零戦で大航続力に頼った戦術は搭乗員に過度の負担と疲労を与えた。また洋上を長距離進出後に母艦へ帰還するには、搭乗員が高度な技量と経験を持つ必要があった。

航続力において二一型は傑出しているが、これは落下式増槽に加え、胴体内タンクに正規全備時の62Lの倍を超える135Lの燃料を搭載するという例外的な運用を行った場合のことである。これと同じ条件、即ち落下式増槽を含む全燃料タンクを満載にした状態での航続距離を比較すると、燃料タンクの小さい三二型や栄より燃費の悪い金星を搭載した五四型を除く零戦後期型(二二型や五二型各型)と二一型の間に大きな差はなく、三二型でも二一型の85%程度となる。また、二一型以前の零戦は機体内燃料タンクを満載にした状態では飛行制限があるが、三二型や二二型、五二型にはそういった制限はない。三二型は開戦からおよそ半年後に配備が開始されたが、この時期はガダルカナル戦の開始直前にあたり、二一型より航続距離の短い三二型はガダルカナル戦に投入できず、せっかくの新型機がラバウルで居残りになっていた。このため、この時期のラバウルの現地司令部は上層部に二一型の補充を要求している。また、これは海軍上層部でも問題となって、海軍側の三二型開発担当者が一時辞表を提出しただけには止まらず、零戦の生産計画が見直されるほどの事態となっている。

零戦はそれまでの単座戦闘機とくらべ長大な航続力のため、長距離飛行の技術が操縦員に求められた。単座戦闘機搭乗員にとって、誘導機なしの戦闘機のみの洋上航法は、ベテランでも習得困難な技術だった。しかし1940年(昭和15年)の龍驤戦闘機隊分隊長の菅波政治大尉、1941年(昭和16年)の瑞鶴戦闘機隊分隊長の佐藤正夫大尉らは、単座戦闘機の洋上航法の技量に優れ熱心だった[20]。当時の洋上航法は、操縦しながら航法計算盤を使って計算し、海面の波頭、波紋の様子を観察してビューフォート風力表によって『風向、風力』を測定して[注釈 10]、風で流された針路を『偏流修正』し、『実速』(実際の対地速度、当時の呼称)を計算し飛行距離、飛行時間を算出予測する航法だった。その航法精度は、洋上150海里を進出して変針し、そののち方向、時間を距離計算して帰投し、その地点からの矩形捜索によって晴天目視で母艦艦隊位置確認可能な誤差範囲(例えば20海里)におさめる程度の精度だった。単座戦闘は複座・多座の攻撃機爆撃機に比較し無線電信電話機能も弱く、ジャイロ航法支援機器もなかったが、実戦で母艦に単機帰投した例も多かった。

アメリカ軍による評価

太平洋戦争末期のアメリカ軍航空技術情報センター(ADRC)による零戦への評価は下記の通り[21]

零戦の高い旋回率、機動性、優れた飛行特性は、戦闘機の特性として最も望ましいものである。貧弱な性能、劣った武装、高速時の重い操舵性、過度の脆弱性は戦闘機として望ましくないものである。アメリカの水準と比べると非常に軽い構造で、装甲板、セルフシーリング燃料タンクを装備していない。このような特徴から、戦闘機としては非常に脆弱なものとなっている。

歴史

十二試艦上戦闘機

零戦の仕様は「昭和十一年度 航空機種及性能標準」の艦上戦闘機の項に基づいて決定されている[22]

「昭和十一年度 航空機種及性能標準」
機種:艦上戦闘機
使用別:航空母艦(基地)
用途:1. 敵攻撃機の阻止撃攘/2. 敵観測機の掃討
座席数:1
特性:速力及び上昇力優秀にして敵高速機の撃攘に適し、且つ戦闘機との空戦に優越すること
航続力:正規満載時全力1時間
機関銃:7.7mm 700発 ×2。
機関砲:20mm 60発 ×2。
通信力:電信300浬、電話30浬
実用高度:3,000m乃至5,000m
記事:1. 離着陸性能良好なること。離艦距離 合成風力10m/sにおいて70m以内/2. 増槽併用の場合6時間以上飛行し得ること/3. 促進可能なること/4. 必要により30kg爆弾2個携行し得ること

開発は1937年(昭和12年)10月5日に海軍から提示された「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発する。

「十二試艦上戦闘機計画要求書」[23]
  1. 用途:掩護戦闘機として敵軽戦闘機より優秀な空戦性能を備え、要撃戦闘機として敵の攻撃機を捕捉撃滅しうるもの
  2. 最大速力:高度4000mで270ノット以上
  3. 上昇力:高度3000mまで3分30秒以内
  4. 航続力:正規状態、公称馬力で1.2乃至1.5時間(高度3000m)/過荷重状態、落下増槽をつけて高度3000mを公称馬力で1.5時間乃至2.0時間、巡航速力で6時間以上
  5. 離陸滑走距離:風速12m/秒で70m以下
  6. 着陸速度:58ノット以下
  7. 滑走降下率:3.5m/秒乃至4m/秒
  8. 空戦性能:九六式二号艦戦一型に劣らぬこと
  9. 銃装:20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺、九八式射爆照準器
  10. 爆装:60kg爆弾又は30kg2発
  11. 無線機:九六式空一号無線電話機、ク式三号無線帰投装置
  12. その他の装置:酸素吸入装置、消火装置など
  13. 引き起こし強度:荷重倍数7、安全率1.8

「十二試艦上戦闘機計画要求書」は1937年5月に原案がメーカーに提示され、10月に正式な文書として交付された。そのため、変更点もあって内容が微妙に違うものも残っている[24]。「目的」が「攻撃機の阻止撃攘を主とし尚観測機の掃蕩に適する艦上戦闘機を得るにあり」というものもある。堀越二郎によれば、5月のものに比べて特に航続距離の要求が強くなったという[25]。十二試艦上戦闘機に対する海軍の要求性能は、堀越技師らが「ないものねだり」と評するほど高いものであり、中島飛行機が途中で辞退、零戦は三菱単独開発となった。前作の九六式艦上戦闘機に続き堀越二郎技師を設計主務者として開発した。

1938年(昭和13年)1月17日、十二試艦戦計画要求に関する官民研究会で、日中戦争から帰還した第二連合航空隊航空参謀源田実少佐が飛行機隊の集団使用、遠距離進出などの新境地を開拓した経験から実戦での96式艦戦や95式艦戦の働きを説明して格闘性能と航続距離の必要を訴える[26][27]

1938年4月10日、三菱A6M1計画説明書を海軍に提出した堀越二郎は、3日後(4月13日)に開かれた十二試艦戦計画説明審議会において、格闘力、速度、航続距離のうち優先すべきものを1つ上げてほしいと要望した。すると横須賀航空隊飛行隊長の源田実には日中戦争の実戦体験から「どれも基準を満たしてもらわなければ困るがあえて挙げるなら格闘性能(空戦性能)、そのための他の若干の犠牲は仕方ない」と返答された。一方で、航空廠実験部の柴田武雄には実地経験から「攻撃機隊掩護のため航続力と敵を逃がさない速力の2つを重視し、格闘性能は搭乗員の腕で補う」と返答された。どちらも平行線ながら正論であり、堀越は真剣な両者の期待に応えることにした[28][29]

1938年秋、前線の戦闘機部隊である12空から提出された意見は、速力・航続力よりも軽快な運動性に重点をおくこと、機銃口径は10mm~13mmを適度とし、初速の小さい翼上20mm機銃は戦闘機に百害あって一利なしというものであり、大航続力、20mm機銃に伴った機体の大型化にも反対だった[30][31]

1939年(昭和14年)3月16日A6M1試作一号機完成。4月1日に岐阜県の陸軍各務原飛行場で試作一号機が初飛行。試作2号機までは瑞星13型だったが出力不足で[要出典]試作3号機からエンジンを換装した。5月1日栄12型を装備した三号機をA6M2とした。翌1940年(昭和15年)7月24日A6M2零式一号艦上戦闘機一型が11型として制式採用された。

太平洋戦争開始前の日中戦争(支那事変)

1940年(昭和15年)7月15日、大陸戦線(中国戦線)にて101号作戦のため、第二連合航空隊に横山保大尉と進藤三郎大尉率いる零戦13機が進出した。零戦はまだ実用試験中のもので、全力空中戦闘をするとシリンダーが過熱し焼けつくおそれがあった。またGが大きくなると脚が飛び出すこと、Gがかかると20mm機銃が出なくなることがまだ未解決であった。そのため、技術廠から飛行機部の高山捷一技術大尉、発動機部の永野治技術大尉がそれにあたり、技術者、整備員、搭乗員が一体となって解決した[32]

最初の出撃は8月19日の九六式陸上攻撃機護衛任務だったが、会敵しなかった[33]。翌日にも伊藤俊隆大尉指揮のもと出撃したが会敵せず、悪天候のため出撃は翌月に延ばされた。なお、第一回出撃時に燃料補給のため宜昌飛行場に着陸する際、1機(藤原喜平二空曹)が着陸に失敗し転覆。これが事実上最初の喪失となった。

9月12日、ようやく三度目の出撃となり、重慶上空に1時間も留まったが、これも会敵しなかった。基地に戻ると、敵は交戦を避け、去った後に大編隊を飛ばせて日本軍機を追い払っているように見せているということが判明した[34]。進藤大尉はこれを逆手に取り、翌日再び出撃、ようやく敵機の大編隊と遭遇した。相手は日本機を初撃墜した国民党空軍の精鋭である第四大隊(志航大隊、指揮官・鄭少愚少校)、および第三大隊率いるアメリカ・ソ連・国民党の戦闘機34機(I-15×19、I-16×15、I-15、I-16とも初飛行が1933年で、零戦より旧式機)で、うち1機がこの直前急激な発進による故障のため帰還しており実際に戦闘に参加したのは33機である。初陣で動揺していた日本軍とは対照的に、経験豊富だった国民党軍は奇襲で撃墜されてもすぐさま編隊を立て直し奥地へ誘い込もうとしたが、やがてスピード・火力ともに優れた新鋭機の前に圧倒され次々と撃墜されていった[35]

この戦闘で初陣を飾った13機の零戦は、味方機に損失を出さずに、機銃が故障した白根斐夫中尉以外の12機全てが一機以上を撃墜する戦果を上げた。進藤大尉はそれぞれの戦果を加味した結果、撃墜は27機と判断[36]、マスコミはこの戦果を一斉に報じた。ただし実際の中国側記録によると、被撃墜13機、被撃破11機(うち10人戦死、負傷8人)である。また、零戦隊は13機中3機(大木芳男二空曹、三上一禧二空曹、藤原喜平二空曹)が被弾、また一機(高塚寅一一空曹)が主脚故障のため着陸に失敗し転覆した[37]。 この際、パイロットたちから防弾について「攻撃機にあるような防弾タンクにしてほしい」と不満が出たが、高山捷一技術大尉は零戦の特性である空戦性能、航続距離が失われるので高速性、戦闘性を活かし活動し、効果を発揮するべきと説明した。大西瀧治郎はそれに対し「今の議論は技術官の言う通り」と言って収めてパイロットたちは黙った[38]

その後も大陸戦線での零戦の活躍は続き、初陣から1年後の1941年(昭和16年)8月までの間、戦闘による損失は対空砲火による被撃墜3機[39]のみで、空戦による被撃墜機は無いまま、 太平洋戦争開戦前の中国大陸では零戦の一方的勝利に終わった[40][41]

太平洋戦争緒戦

太平洋戦争の中期まで、空戦性能において優越する零戦を装備した日本海軍航空隊は、グラマンF4FワイルドキャットやカーチスP-40などを装備する連合国軍に対し優勢だった[42][43]。また、零戦は約2200キロの航続距離を持っていた(当時連合軍の戦闘機がロンドンベルリン間(片道約900キロ)を飛行し空戦を実施して帰還することは困難であった)[44]。零戦は太平洋戦争初期に連合軍航空兵力の主力を撃破した。その空戦性能と長大な航続距離によって連合軍将兵の心の中に零戦に対する恐怖心をうえつけた[45]

当時、主に交戦した米海軍機のグラマンF4Fワイルドキャットは、零戦に対して防弾と急降下性能で勝っていたが速度・上昇力・旋回性能に関して零戦に劣っていた[46]。海軍は真珠湾奇襲攻撃の1941年(昭和16年)12月8日から、1942年(昭和17年)3月までのジャワ作戦終了までに、合計565機の連合軍機を空中戦で撃墜ないしは地上で破壊した。この数のうち零戦の戦果は471機、83%を占めるとされる。太平洋戦争のはじめの一カ月の全作戦中、陸上基地・空母からの零戦による敵の損害は65%であった[47]

対アメリカ戦の始まりとなった真珠湾攻撃は奇襲であったためアメリカ軍戦闘機との空戦の機会の少なかった零戦は主に飛行場へ機銃掃射をおこなった。その直後のフィリピン爆撃では台湾から出撃する陸攻隊を掩護しフィリピンを攻撃するという当時の単座戦闘機としては例の無い長距離作戦を成功させ、植民地フィリピン駐留のアメリカ陸軍航空隊を制圧した。南太平洋においてもラバウルからガダルカナル島ニューギニアへの攻撃に活躍した。

オーストラリアのポートダーウィン侵攻時(日付記載なし)、イギリス連邦軍(イギリス空軍オーストラリア軍)のスーパーマリン スピットファイアに対する零戦隊の勝利。その空戦での零戦の損失2スピットファイアの損失は17、被撃墜比率2対17。これに対してフライングタイガーズの司令官だったクレア・シェンノート将軍は「英空軍の戦術はカルワザ的な日本軍に対しては自殺行為だった」と発言[48]

太平洋戦争初期の1942年(昭和17年)3月までの米陸軍航空部隊のジャワ作戦での消耗と零戦隊の優勢、同部隊のオーストラリアへの撤収があった[49]。ラエ基地では1942年(昭和17年)の5・6・7月の間、ほとんど連日空戦があったという。ラエの零戦隊は連日奮戦していた。彼我の機数では零戦隊が劣勢であった[50]

1942年5月8日の珊瑚海海戦がある。米軍第17任務部隊は空母「ヨークタウン」と「レキシントン」上空の戦いで、日本軍機動部隊攻撃隊69機(零戦18機・九九式艦上爆撃機23機・九七式艦上攻撃機18機)に対し零戦22機・艦爆11・雷撃機31機を直掩航空隊(F4FワイルドキャットSBDドーントレス爆撃機)と対空砲火で撃墜したと記録している[51]。日本軍機動部隊に帰投した機は46機で、零戦17機が帰投するも1機が不時着した[52]。この戦闘における戦果は日本側も過大に見積もっており、グラマン戦闘機32機、ダグラス急降下爆撃機17機撃墜を記録したが、実際の損害はF4F 6機、SBD 15機喪失である[53]

「1942年(昭和17年)6月におこなわれたミッドウエー海戦における米陸海軍戦闘機への零戦の優勢」[54]。「当時ブリュースター・バッファロー とグラマンF4Fワイルドキャットが使用されていた」[55]

アメリカ戦略空軍司令部作戦部長補佐代理ジョン・N・ユーバンク准将は「ニューギニアやラバウルで我々が遭遇した日本軍は、本当に熟練した操縦士だった。我々は最優秀の敵と戦っているのだということを一時も疑ったことはなかった」と回想している[56]

アメリカ軍の公式記録によれば、大戦初期の零戦対連合国軍機(主に英国連邦軍と中華民国軍並びに義勇軍)とのキルレシオは12:1とされている。対米軍機でいえば、太平洋戦争開戦時からミッドウェー海戦までの零戦対F4Fワイルドキャットとのキルレシオは1:1.7としているが、前述の通りミッドウェー海戦以前で零戦とF4Fの対決はウェーク島の戦いと珊瑚海海戦のみであり、前者なら第二航空戦隊の零戦 6機は損失無しに対しF4Fは2機撃墜され[57]、 後者はMO機動部隊の零戦は日本軍攻撃隊は喪失機無し、MO機動部隊直掩隊の2機喪失に対し第17任務部隊はF4Fを上空直掩隊の6機、及びMO機動部隊攻撃隊の8機の計14機が喪失している。なお両者共に不時着機や行方不明機を除いた数値である[58][59]。このため実数とは合わない。 真珠湾攻撃に参加した「飛龍」所属の1機がニイハウ島不時着する事件が発生したが、アメリカ軍の調査が行われる前に機体は燃やされたため弱点も露見せず、対策は行われなかった。

零戦鹵獲と大戦中期

1942年(昭和17年)6月、アメリカ軍はアリューシャン列島ダッチハーバーに近いアクタン島の沼地に不時着した零戦(アクタン・ゼロ[注釈 11])をほぼ無傷で鹵獲することに成功した。この機体の徹底的な研究により、零戦が優れた旋回性能と上昇性能、航続性能を持つ一方で、高速時の横転性能や急降下性能に問題があること[注釈 12]が明らかとなり、アメリカ軍は「零戦と格闘戦をしてはならない」「背後を取れない場合は時速300マイル以下で、ゼロと空戦をしてはならない」「上昇する零戦を追尾してはならない」という「三つのネバー (Never)」と呼ばれる勧告を、零戦との空戦が予想される全てのパイロットに対して行った。

また、不要な装備を除きなるべく機体を軽くするように指示した[30]。弱点を衝いた対抗策として優位高度からの一撃離脱戦法と「サッチウィーブ」と呼ばれる編隊空戦法がアメリカ軍に広く普及することになった。一撃離脱戦法とサッチウィーブが徹底された1942年年間の零戦とF4Fのキルレシオは1:5.9とされたが、上述のようにアメリカ軍の公式撃墜数と被撃墜数を合わせたものであり、裏付けは取れていない。

1942年8月からガダルカナル島の戦いが始まる。前進基地が整備されるに従い、三二型もガダルカナル戦に投入可能となった。32型は翼幅を1m切断して最高速度1.5kt向上し、増産も簡易化したが、他の性能が低下、操縦性、格闘戦の上から改悪であると、藤田怡与蔵坂井三郎といったパイロットを始め、ガダルカナル攻防戦で航続力、空戦性能の劣化に対して反対の声が上がった。結局、翼は元に戻され、左右に45リットルタンク各1を増設することになった[60]

1942年12月までにはスピットファイアを含む英陸軍航空部隊は、西南太平洋戦域で零戦によって壊滅されていた[61]

1943年(昭和18年)にオーストラリアのダーウィンにてスピットファイアMk.Vと戦闘が数度生起している。この一連の戦闘では、一式陸攻を援護して単発機の限界に近い長距離を進攻する零戦隊を自隊の基地近くで待ち伏せし迎撃するというスピットファイアMk.V隊に有利な状況であったが、零戦隊が優勢に戦っている。戦闘は一般に零戦有利といわれる低空に限らず高高度でも行われ、また当初格闘戦であったスピットファイア隊の戦闘スタイルも一撃離脱へと切り替えられたが、最後まで零戦隊の優勢は変わらなかった。

ジョン・ベダー著『スピットファイア』によると、初期の戦闘においては大きな差はなかったものの、次第に零戦が優位に変わり、また、スピットファイアには燃料切れやエンジントラブルで帰投できない機体が相次いだという。また、豪英空軍の証言として「エンジンの出力低下が激しかった」「機関砲が凍結した」などがあり、スピットファイアが南太平洋の環境に適応できず、次第に劣化していったと記載されている[62]

なお、零戦隊を率いていた鈴木少佐はスピットファイアの優秀性を認めており、侵攻に際しては飛行時間1,000時間以上のベテランパイロットのみで隊を編成したとの談話を残している。最終的にこの一連の戦闘における喪失機の総計は零戦5機(未帰還機は3機)に対し、スピットファイア42機(未帰還機は26機)となり、零戦隊の圧倒的な勝利で終わっている[63]。ただし、1942年当時スピットファイアはMk. XIIまで改良が重ねられていたが、当時インド洋の制海権は日本軍が握っていたために改良型の供給が不可能であり、オーストラリア軍は改良前のMk.Vを継続して使用していた。

1943年に入ると、零戦の優位に陰りが見られるようになっていた。1943年4月に連合艦隊長官山本五十六大将のもとで、連合艦隊、軍令部、航空本部、航空隊などが揃って行った「い号作戦」研究会での戦訓には、零戦の優秀性を認めつつも「戦闘機と言えど将来においては防御を考慮すべき。被撃墜の大半は火災による。これを防げば戦闘能力は驚異的に向上する」というものも含まれていた。そのため重量と効果の問題など研究が進められ、1943年末生産の五二型には翼内燃料タンクに自動消火装置が装備され、五二型乙には風防前部に防弾ガラス、座席後部に防弾鋼板を装備するなど、この頃から零戦に防弾が導入されていった。

また、連合軍も次々と新鋭機を投入し零戦を脅かし始めた。大型・高速・重武装の米陸軍機ロッキードP-38ライトニングはその長大な航続距離から太平洋戦域に多数投入されていたが、当初は零戦を含む軽快な日本軍機にドッグファイトに持ち込まれて苦戦することも多く、零戦搭乗員からは「ぺろハチ」などとあだ名を付けられる程であったが、戦闘を重ねるに連れて対策を講じ、その高速性や重武装を活かした戦術に転換して零戦の難敵になっていった[64]。また、アメリカ海軍と海兵隊は2,000馬力級エンジンを装備する、チャンスヴォートF4UコルセアとグラマンF6Fヘルキャットを戦場に投入した。しかし、F4Uコルセアも戦場投入当初はP-38と同様に、その機体特性を活かすことができず、零戦に対して苦戦している。1943年2月14日、ガダルカナル島に進出していた海兵隊戦闘機隊 英語版 のコルセア12機が、PB4Y4機の爆撃任務を、陸軍のP-38、P-40と協同で行ったが、ブーゲンビル島上空で零戦に迎撃され、アメリカ軍各機は零戦の運動性に翻弄されて、コルセア2機、PB4Y2機、P-40とP-38の陸軍機6機の合計10機を撃墜されたのに対して零戦は1機撃墜と惨敗を喫している。コルセアの初陣はほろ苦いものとなったが、この日がバレンタインデーであったことから「聖バレンタインデーの虐殺」と呼ばれることとなった[65]

日本軍の一大航空拠点となったラバウルには、1943年末から1944年初めにかけて、アメリカ軍が連日に渡って戦爆連合の大編隊を差し向け続けたが、その機数は1週間の間に延べ1,000機にも及んだ[66]。ラバウル基地に集結した日本軍航空隊はラバウル航空隊とも呼ばれたが、ラバウル航空隊の零戦とアメリカ軍新鋭戦闘機隊との間で死闘が繰り広げられ、零戦は数も性能も勝るアメリカ軍戦闘機相手に善戦し、多数の撃墜を報告している。1944年1月17日の迎撃戦では、合計117機のアメリカ軍戦爆連合[67]を零戦79機で迎撃し[68]、69機の撃墜を報告しながら全機無事に帰還している [1]。 この日の様子を報道した日本ニュースのフィルムにも登場したエースパイロット岩本徹三は、自身の撃墜記録202機のうち142機をラバウルで撃墜したとされ「零戦虎徹」と呼ばれた[69]。ラバウルでは他にも、西沢広義[70]杉田庄一[71]坂井三郎[72]奥村武雄[73]など零戦による多くのエースパイロットが誕生することとなった。

しかし、アメリカ軍パイロットも次第に、新鋭戦闘機の性能を活かした零戦対策を確立しつつあった。零戦に攻撃されたときにはまずは高速急降下を行い、その後急上昇してかわして、その後は高速性能と頑丈な機体を最大限活用して、水平、上昇、下降のあらゆる局面での飛行速度で零戦の機動性を打ち破る戦術が取られ、零戦は苦戦するようになっていく[74]。また、機体性能や戦術のほかにも、前線が伸び切り補給が行き届かなくなった日本と、莫大な生産力を有するアメリカを中心とした連合国軍との戦況は完全に逆転しており、補給や補充も含めて総合的にも零戦の優位は完全に揺らいでいた[75]

大戦末期

零戦の実用化に目処が立った頃、海軍は三菱に十四試局地戦闘機(J2M1。後の雷電)の開発を指示している。しかし、試算により十四試局戦の性能が今ひとつであることが判明すると、より大馬力の発動機に換装した十四試局戦改/試製雷電 (J2M2) の開発を三菱に命じ、これを次期主力戦闘機(艦上戦闘機ではない)として零戦の減産と雷電の大増産計画を立てる一方、同じ頃に川西が提案してきた十五試水上戦闘機 (N1K1) の局地戦闘機化(後の紫電一一型、紫電二一型(紫電改))を許可している。しかし、雷電が数々のトラブルで早期戦力化が不可能、紫電一一型・二一型の実用化はまだ先という状況になったことから、この両機種の代替として零戦の武装・防弾の強化及び高速化に泥縄的に取り組まざるを得なくなってしまった。そのため、アメリカ軍が投入した新鋭戦闘機F6FヘルキャットF4Uコルセアなどに対して零戦は劣勢を強いられていたが、雷電や烈風など零戦の後継機の開発に遅れた日本海軍は零戦の僅かな性能向上型[注釈 13]でこれらに対抗せざるを得なかった。

しかし、武装強化や防弾装備の強化は却って零戦の最大の強みでもあった運動性の低下を招くこととなり、藤田怡与蔵によれば「操縦性、格闘力は何といっても二一型が優れていたので、二一型に若いパイロットたちを乗せ、五二型には自分たち古参のパイロットが乗って邀撃戦を展開した。その効き目は予期以上だった。空中でやられたのは五二型に乗っていた歴戦のベテランばかりで、その反対に、何機落とした、おれは二機だ、などと鼻息荒く帰投してくるのは、二一型で戦ってきた若い操縦者たちだった」という[76]

さらに、1943年から続々と就航したエセックス級航空母艦で編成されたアメリカ軍機動部隊搭載の大量の艦載戦闘機が日本軍を圧倒していく[77]。また、これまでの激戦による消耗で戦闘機搭乗員の質の低下が著しく、その後継の育成にも失敗しアメリカ軍戦闘機パイロットとの質の格差は拡大する一方であった[78]。日本軍戦闘機搭乗員によれば、1944年に入ると戦場の雰囲気はこれまでと一変して、零戦では性能が勝る大量のアメリカ軍戦闘機に対して防戦一方となってしまったという[79]。特にF6Fヘルキャットは零戦にとって最大の難敵となり、コルセアと同様の機体の頑丈さと高速性能に加えて、機動性、運動性にも優れていたため、エースパイロット坂井三郎少尉は「零戦でF6Fヘルキャットから逃れられるのは、アメリカ軍パイロットが経験不足のときだけだ」と述べている[80]。また、アメリカ軍の対空能力も飛躍的に進化しており、各空母に設置された戦闘指揮所(CIC)が、充実したレーダーを活用して、効率的な艦載戦闘機による迎撃戦闘を管制・指揮し、新兵器近接信管(VT信管)も含めた圧倒的な対空兵器によって日本軍の通常の航空攻撃を実質的に無力化してしていた[81]

大戦末期において零戦の運用にかなりの混乱も見られている。艦上爆撃機彗星が、小型空母や商船などを改修した改造空母では運用困難であったため、零戦に大型爆弾用懸吊・投下装置を設置、艦上爆撃機の代用(戦爆)として運用することとした[82]。零戦戦爆はマリアナ沖海戦で勇躍して出撃したが、アメリカ軍機動部隊の戦闘指揮所(CIC)に管制された大量のF6Fヘルキャットが迎撃に飛来したため、爆装した零戦はその動きの鈍さから一方的に撃墜されて壊滅的な損害を被り、その様子は後日「マリアナの七面鳥撃ち」とアメリカ軍側から揶揄されてしまうこととなった[83]

あ号作戦のためマリアナ諸島に配置される予定であった第301海軍航空隊戦闘316飛行隊には、アメリカ軍機動部隊艦載機迎撃のため、当時最新型の52型が優先的に配備されたが[84]、飛行長であった美濃部正少佐が、戦闘機搭乗員の消耗により、水上機から配置転換された熟練搭乗員の訓練において、「水上機パイロット出身者は零戦で訓練すれば、空中戦もすぐに上達する」などと楽観的に考えて、戦爆の訓練を優先し、空戦の訓練を殆ど行わせなかった。そのため、戦闘316飛行隊の練度に向上が見られず、訓練方針を問題視した航空隊司令の中佐が、美濃部を問い質したところ、「そんなに短期間で空戦訓練ができるわけがない」「戦闘機の任務は空中戦ばかりではありません」などと反抗したため、八木は美濃部を更迭している[85]。結局、戦闘316飛行隊の戦闘機搭乗員は技術的には未熟のまま前線に出ることとなり、1944年6月11日、サイパンの戦いの前のアメリカ軍機動部隊による空襲の迎撃戦闘で、F6Fヘルキャットに一方的に撃墜されて、出撃した全機が未帰還となる惨敗を喫した[84]

その後、美濃部は夜間戦闘機部隊「芙蓉部隊」の指揮官となり、重武装、重装甲型の零戦52型丙型を配備されたが[86]、ここでも美濃部は、空戦の訓練を一切行わせず、芙蓉部隊の戦闘機搭乗員は空戦技術を殆ど持たなかった。この美濃部の方針によって、戦艦大和による海上特攻の際には、第五航空艦隊司令部からの戦艦大和の護衛要請を、多数の零戦を擁していたのにも拒否している[87]沖縄戦で美濃部は、1945年4月下旬より芙蓉部隊の零戦をアメリカ軍飛行場への機銃掃射に投入したが[注釈 14]、アメリカ軍の激烈な対空砲火で、戦果はなかったのにも拘わらず損害が続出したため、まもなく任務継続不可能となり[88]、早くも5月5日以降には艦船や潜水艦を発見したら銃撃するという索敵攻撃任務に回している[89]しかし、夜間戦闘機隊と称しても芙蓉部隊の零戦に夜間戦闘用の装備はなかったため、その後も芙蓉部隊の零戦夜戦隊はめぼしい戦果のないまま、夜間戦闘の装備が充実していたアメリカ軍の対空砲火や夜間戦闘機に撃墜されて損害が積み重なり、空戦では1機の撃墜戦果もなかったのに対し[90]、1945年5月15日までに戦闘内外で零戦39機を失い[91]、搭乗員の戦死率も60%と非常な高率となった[92]。このように大戦初期から中期には見られなかった零戦の大きな損害が見られるようになっていく。

零戦によるアメリカ軍飛行場攻撃で大きな戦果を挙げた例も存在する。第二五二海軍航空隊で編成された、「第1御盾隊」の12機の零戦は、1944年11月27日に硫黄島から出撃し、偵察機「彩雲」 2機の誘導で、B-29が展開するサイパン島イズリー飛行場を襲撃した[93]。奇襲は成功し、午前10時40分から、零戦は地上に並んでいたB-29を3度にも渡って徹底的に機銃掃射し、4機爆破炎上、6機大破、23機損傷という大戦果を挙げている。零戦は最後まで攻撃を続け、激しい対空砲火と迎撃してきたP-47に撃墜されて1機だけが生還したが、不時着基地として指定されていたパガン島に到達したとき、執拗に追跡してきたP-47に撃墜され全滅した[94]

零戦戦爆がアメリカ軍機動部隊に通用しないのは明らかであったが[95]、日本軍は捷一号作戦の作戦準備として、フィリピンにおいて零戦戦爆に反跳爆撃の訓練を行わせていた。しかし、ダバオ誤報事件で零戦を多数損失すると、もはや戦爆での運用は困難となり[96]、やがてフィリピンに連合軍が侵攻してくると、関行男大尉ら戦爆として訓練していた零戦搭乗員によって、1944年10月20日最初の神風特別攻撃隊が編成され、それ以降も終戦まで零戦は特別攻撃隊に使用された。フィリピンの戦いや硫黄島の戦いで零戦は、護衛空母セント・ロー」や「ビスマーク・シー」の撃沈を含めて、多数のアメリカ軍艦船を撃沈破するといった戦果を挙げている。沖縄戦では、特別攻撃隊に対応してさらに強化された連合国軍の警戒網を突破するために日本陸軍側も戦術を工夫して突入を成功させ、零戦の特攻による確実な戦果としては、空母「エンタープライズ」や「バンカーヒル」を大破炎上させて、再起不能となる損害を与えている。沖縄戦で零戦は特攻機の主力として、延602機が出撃し、内320機が未帰還となったが、[97][98]公式記録上、沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と甚大なものであり[99]、その大部分は特攻による損害で[100]、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている[101]

アメリカ軍に占領されたマリアナ諸島からは、新型爆撃機ボーイングB-29が日本本土に来襲し、日本本土空襲が激化した。また、海上からも日本本土に接近した連合軍機動部隊の艦載機が来襲したため、それらを迎撃する日本本土の各航空隊に零戦は配備されたが、性能の劣後は明らかになっており、迎撃戦の主力は海軍は雷電、紫電改、陸軍は三式戦闘機四式戦闘機五式戦闘機などとなっていった。

しかし、熟練搭乗員が操縦する零戦は空戦においても依然として活躍しており、真珠湾攻撃にも参加したエースパイロット岡嶋清熊大尉が率いた戦闘303飛行隊は、制空任務や特攻機護衛任務で敢闘、1945年3月18日に開始された九州沖航空戦では、3月18日-19日の2日間で12機の敵機撃墜を報告している[102]。岡嶋自身も出撃しているが、機銃が故障で射撃ができなくなってしまったのにも関わらず、2機のF4Uコルセアと空戦を行い、技量の劣る部下の安部正治一飛曹をF4Uコルセアが捉えようとするたびに、岡嶋は攻撃をするふりをして追い払い、最後はF4Uコルセアは諦めて帰還したため、岡嶋は故障した機銃で見事に自機と安部機を守りきっている[103]。また、後日には、鹿児島県鹿屋市上空で邀撃戦を行い、単機で侵入してきたF6Fヘルキャットを撃墜、その後に新たに現れたF6Fも巧みにかわして生還している[103]。その後は沖縄戦に参加。岡嶋は「戦闘機乗りというものは最後の最後まで敵と戦い、これを撃ち落として帰ってくるのが本来の使命、敵と戦うのが戦闘機乗りの本望なのであって、爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道だ」という信念の持ち主であり、最後まで空戦任務に拘り続けた。岡嶋が率いた戦闘303飛行隊は連日の激戦で、沖縄戦中に89名の戦闘機搭乗員のうち38名を失ない戦死率は43%にも上ったが、これは特攻隊として編成された第二〇五海軍航空隊の103名の特攻隊員中戦死者35名(戦死率34%)よりも高い戦死率となっている[104]

硫黄島硫黄島の戦いでアメリカ軍に攻略されると、P-51マスタングP-47サンダーボルトといったアメリカ陸軍の新鋭戦闘機も来襲するようになった。特にP-51マスタングは、最高速度が704㎞/hと零戦を133㎞/hも上回り、上昇力も急降下速度も比較にならないほどの高性能であり[105]、第二次世界大戦中の最優秀戦闘機とも評され[106]、もはや零戦には対抗困難な次世代の戦闘機であった[105]。日本軍は本土決戦を見据えた戦力温存策で、損害に対して戦果が少ない小型機相手の迎撃は回避するようになっており[107]、零戦とP-51の交戦記録は少ないながらも、第三〇二海軍航空隊のエースパイロット大尉らが撃墜を記録している[108]

零戦は終戦時まで戦い続け、1945年8月15日午前5時30分に、房総沖から来襲したアメリカ・イギリスの艦載機約250機を第三〇二海軍航空隊の零戦8機、雷電4機、第二五二海軍航空隊が零戦15機で迎撃、F6Fヘルキャット4機、シーファイア1機、TBFアベンジャー1機を撃墜したが、零戦8機を失っている[109]。また、終戦後の8月17日にアメリカ軍爆撃機B-32 ドミネーターを攻撃したのも零戦と言われ、B-32 ドミネーターは被弾しながらも撃墜は免れたが、第二次世界大戦におけるアメリカ兵最後の戦死者となるアンソニー・マルキオーネ軍曹を出している[110]

戦後

終戦時に残存していた零戦は1,166機であり[111]、これは日本軍航空機では九三式中間練習機に次ぐ機数であった。残った零戦は、イギリスやアメリカ、オーストラリアなど連合国軍によりテスト用に持ち去られた分以外はすべて廃棄処分にされ、完全な形で日本に残っていた機体は少ないが、廃棄された機体や残骸から復元した機体が展示品として国内に複数存在する。

2017年時点で飛行可能な復元機は5機(二二型2機と、五二型、二一型、複座二二型、各1機)存在するが全てアメリカにある。またオリジナルのエンジンを搭載するのは五二型61-120号機1機のみで、これも破損やFAA(アメリカ連邦航空局)の安全基準に適合させるため、キャブレターなどはB-25R-2600から取り出した部品を使っている。他はP&WR-1830など、サイズが近く入手性の良いエンジンで代用している。

アメリカ国内での操縦には飛行機の操縦士(単発ピストン)の他、FAAが定めた零式艦上戦闘機の機種限定ライセンス『MI-A6M』が必要となる[112]ポール・アレンは個人で3機(飛行可能1機)を所有、全てフライング・ヘリテージ・コレクションで公開し、飛行可能な1機は定期的にデモ飛行を行っている。

2016年(平成28年)1月27日、ゼロエンタープライズ・ジャパンが「零戦里帰りプロジェクト」で復元しアメリカで登録した機体(N553TT)を海上自衛隊鹿屋航空基地で試験飛行させた[113][114]。戦後の日本国内で、日本人所有の零戦が飛行するのは初[115][116]。また2017年にはレッドブル・エアレース・ワールドシリーズ千葉大会でデモ飛行を行った[117]

諸元

出典: 野沢正 編著『日本航空機総集』1981年 [118]

制式名称零式艦上戦闘機二一型零式艦上戦闘機五二型零式艦上戦闘機五四型
機体略号A6M2bA6M5A6M8
全幅12.0m11.0m
全長9.05m9.121m9.237m
全高3.53m3.57m
翼面積22.44m221.30m2
自重1,754 kg1,856 kg2,150 kg
正規全備重量2,421 kg2,733 kg3,150 kg
翼面荷重[緒元注 1]107.89 kg/m2128.31 kg/m2147.89 kg/m2
発動機栄一二型(離昇940hp)栄二一型(離昇1,130 hp)金星六二型(離昇1,560 hp)
最高速度533.4 km/h (288kt)[緒元注 2]@高度4,700m565 km/h (305kt)@高度6,000m572.3 km/h (309kt)@高度6,000m [緒元注 3]
上昇力6,000mまで7分27秒6,000mまで7分1秒6,000mまで6分50秒
降下制限速度629.7 km/h (340kt)666.7 km/h (360kt)740.8 km/h (400kt)
航続距離巡航3,350 km(増槽あり)
巡航2,222 km(正規)
全速30分+2,530 km(増槽あり)
全速30分+1,433 km(正規)
全力30分+2,560 km(増槽あり)
1,921 km(正規)
全力30分+1200 km(増槽あり)[緒元注 4]
850 km(正規)
武装翼内九九式二〇ミリ機銃2挺(携行弾数各60発)[緒元注 5]
機首九七式七粍七固定機銃2挺(携行弾数各700発)
翼内九九式二〇ミリ機銃2挺(携行弾数各100発)
機首九七式七粍七固定機銃2挺(携行弾数各700発)
翼内九九式二〇ミリ機銃2挺(携行弾数各125発)
翼内三式十三粍固定機銃2挺(携行弾数各240発)
爆装30kg又は60kg爆弾2発250kg又は500kg爆弾1発
30kg小型ロケット弾4発
以上より選択
試作機完成1940年7月1943年4月1945年4月
  1. ^ 正規全備時の値。
  2. ^ 主翼外板増厚後の数値。制式化当時は同高度で509.3 km/h (275kt)。
  3. ^ 高度5,600mの最高速度は563km/h (304kt)。
  4. ^ 増槽分の航続距離は三菱重工業による試算値。
  5. ^ 後期生産型は携行弾数各100発に増加。

型の変遷

派生型
発動機型式主翼
栄一二一一翼端折り畳みなし
└→二一四一(計画のみ)翼端折り畳みあり
栄二一└→三二翼端切り落とし(角型)
└→二二二二甲翼端折り畳みあり
栄二一
栄三一甲
栄三一乙
└→五二五二甲五二乙五二丙六二翼端切り落とし(丸型)
栄三一├→五三六三
金星六二└→五四六四
装備九九式一号機銃九九式二号機銃20mm機銃の形式
60発100発125発ベルト給弾20mm機銃の弾数
九七式7.7mm機銃三式13.2mm機銃副兵装
防弾装備なし防弾装備あり防弾装備
小型爆弾のみ250 kg500 kg爆装

この他、引き込み式主脚の代わりにフロートを付けた水上戦闘機型の「二式水上戦闘機」や複座練習機型の「零式練習戦闘機」、胴体に20mm斜銃1挺を追加した夜間戦闘機型(通称「零夜戦」)がある。また、陸上基地での運用を前提に、二二型の翼端折り畳み機構と着艦フックを廃止した「零戦一二型」と呼ばれる型が存在していたとする説が雑誌「丸」において発表されている。その他にも、翼内の九九式20mm機銃を二式30mm機銃に換装した試験機が数機試作され、ラバウルにおいて実戦テストに投入されている。

生産推移

塗装について

帝国海軍において塗装は「塗粧」と呼称されていたが、本項ではより一般的な「塗装」として表記する。

十二試艦上戦闘機に関しては、M2灰緑色と呼ばれる塗料で塗装を施されたと言われており、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に展示されているレプリカはこれに従ったものである[要出典]。制式採用時には当時の標準塗装であったP1銀色による塗装を改め、防錆のためA3赤褐色の下塗りの上に中塗りとしてM2灰緑色を2回[要出典]、その上から全面をJ3灰色で塗装し、カウリングはQ1黒色で塗装している。なお、機体内側は軽金属用特殊塗料であるE4淡青色透明という透明なブルーで塗装され、操縦席内部などの一部はその上から淡緑色で塗装[要出典][信頼性要検証] された。

後に1942年(昭和17年)10月5日より実施された「軍用機味方識別に関する海陸軍中央協定」に従い、翼前縁の内側約半分を橙色ないし黄色に塗装し、これを敵味方識別帯としている。また、協定に従って日の丸には白縁がつくようになった。

なお1942年末頃には、D1現地で暗緑色と思われる塗色による現地応急迷彩が実施されていたことが複数の写真より確認できる[要出典]。これは戦局悪化に対応し、地上撃破を防ぐための処置である。

1943年(昭和18年)2~3月頃の工場完成機では中島・三菱共に上面をD2暗緑色に塗装した機体が確認でき、以降は上面暗緑色、下面灰色が標準となっている。

また、三菱と中島では塗装の塗り分けが異なる。三菱製は胴体側面から見た時に胴体後部に灰色は殆ど見えないが、中島製は主翼後部より水平尾翼前縁をつなぐように塗り分けのラインが続く。塗料についても三菱製機体の暗緑色は青色がかっており、中島製は黄緑がかっている[120][信頼性要検証]

また、しばしば論じられる灰色の色味についてだが、この色は海軍の文書では「灰色」「灰白色」、三菱社では「灰鼠色」「鼠色」と表現される[要出典]。J3灰色は主にジンカイトとアタナーゼの白色顔料及びカーボンブラックの黒色顔料を混ぜたベンジルセルロース塗料であり、この塗料は黄変しやすい性質を持つ軽金属用特殊塗料である。

そのため、時間経過と共に黄変したものが「飴色」として誤認された経歴があり、空技報0266に見られる「現用零式艦戦用塗色J3(灰色)のわずか飴色がかりたるもの」という記載から、白色飴色[要出典]や飴色と呼ばれる色とする説も多い[誰によって?]

E4淡青色透明に関しても同様のベンジルセルロース塗料であり、現存機でブルーがグリーンに変色している様子を確認できる[要出典]

また、例外的に日の丸の白縁を緑色や黒色で塗りつぶしたり、個人で自機に撃墜マークなどの塗装をする者もいた。

海外の運用国


インドネシアの旗 インドネシア

独立派ゲリラによって少数が鹵獲され、1945-1949年のインドネシア独立戦争においてオランダ軍に対して使用された。

中華民国の旗 中華民国

中国国民党は1941年に2機の二一型を鹵獲してフライング・タイガースに引き渡し、終戦後は台湾でも1機の五二型を鹵獲して1948年から福建省で練習機として使用された[122]中国共産党も1945年10月に東北民主連軍が3機の三二型を接収して日本軍人による東北民主連軍航空学校で練習機として修理して使用された[123]

現存する機体

国内

国外

  • この他にも、太平洋やアジア・オセアニアの各地に零戦が眠っている。

参考

関連作品

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ なお日本陸軍(以下、陸軍)では同じ年に採用した兵器を一〇〇式と命名している(例:一〇〇式司令部偵察機一〇〇式重爆撃機一〇〇式輸送機)。
  2. ^ 海軍飛行予科練習生出身パイロットの通称
  3. ^ P-51では工程の多い沈頭鋲ではなく通常のリベットを電動工具で削るなど、最終的に短時間となる手段を選択している。
  4. ^ 完成を急いだためユンカース社の標準部品を使用したところ、操縦装置の剛性が不十分なのに、かえって操縦性がきわめてよいという怪我の巧妙のような結果になった。
  5. ^ 1944年(昭和19年)頃になると中島製二一型は訓練や防空、爆撃などの任務に用いられることが多く、マリアナ沖海戦でも爆戦として投入されている。
  6. ^ 自動車のギヤシフトに相当する。
  7. ^ プロペラピッチの変更は29-49度の間で変更が可能である。
  8. ^ 陸軍向けは日本楽器製造(現:ヤマハ)が生産している。
  9. ^ アメリカ軍機には背面飛行を数秒以上行うとエンストするとの制限が飛行マニュアルにあった。
  10. ^ 洋上飛行では、視界内に陸地の断片がなければ、飛行している高度の実際の風速風向を知る手段はない。
  11. ^ 搭乗員の古賀忠義一飛曹は頭部を強打して死亡していた。
  12. ^ 珊瑚海海戦で急降下からの引き起こしで分解する零戦をF4Fのパイロットは目撃し、零戦の急降下性能が低いことをすでに知られていた。
  13. ^ 武装強化や防弾装備の追加等を行ったが、その重量増加に見合う発動機出力の向上ができなかったため、最高速度や上昇力などの飛行性能を大幅に向上させることができなかった。
  14. ^ 戦闘316飛行隊では零戦を爆装させて、戦爆による夜襲や特攻による運用を検討していた美濃部であったが、芙蓉部隊においては原則零戦には爆装させず機銃掃射による攻撃を行わせていた。
  15. ^ 機体|河口湖自動車博物館・飛行舘DVD復元記録|河口湖自動車博物館・飛行舘
  16. ^ 零式艦上戦闘機計器板
  17. ^ 密林に眠る零戦「報国515号」 浮上した4人の搭乗者:朝日新聞デジタル
  18. ^ 機体|河口湖自動車博物館・飛行舘DVD復元記録|河口湖自動車博物館・飛行舘
  19. ^ 白浜御苑のZEROパーク嵐山美術館と白浜零パークの思い出
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出典

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参考文献

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  • 柳田邦男「飛翔篇」 『零戦燃ゆ』文藝春秋、1984年。 
  • 柳田邦男ほか 著、高野弘 編 『零戦よもやま物語』光人社、1982年。 
  • 吉野泰貴 『海軍戦闘第八一二飛行隊―日本海軍夜間戦闘機隊“芙蓉部隊”異聞 写真とイラストで追う航空戦史』大日本絵画、2012年。ISBN 978-4499230964 
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  • ロバート・グリンセル 『P‐51マスタング (世界の偉大な戦闘機)』(訳)、河出書房新社、2000年。ISBN 978-4309705828 
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関連項目

外部リンク

保存施設

スタジオジブリ

株式会社スタジオジブリ: STUDIO GHIBLI INC.)は、日本アニメ制作会社日本動画協会準会員。通称は「ジブリ[注 1]。長編アニメーション映画の制作を主力事業としている。

1990年代中期以降は、短編アニメーションの制作および実写映画の企画、日本国外のアニメーションの公開やDVDの販売、小冊子『』[2]の発行を行う出版事業や音楽事業、加えて三鷹の森ジブリ美術館への展示物定期制作など、関連事業は多岐にわたる。また、他社テレビ作品の動画グロスも請け負っている。

1985年6月15日、東映動画出身の原徹が設立したトップクラフト社(『風の谷のナウシカ』を制作)を前身に、徳間書店の出資によって子会社として株式会社スタジオジブリ設立[3][4]。同社社長(当時)の徳間康快が初代代表取締役社長に就任した。ただし、実質的な経営財務責任者はトップクラフトに引き続き原徹のままであった[注 2]。当時はスタジオジブリ関連書籍の大半が徳間書店から出版され、同社の他メディア展開推進の中核的存在でもあった。

設立当初からしばらくの間は映画興行が水物であることを鑑みて、いつでも終わりにできるよう社員の雇用はせず、作品ごとに70人ほどのスタッフを集めて完成すると解散する方式を取っていた[3]。アニメーターは他社同様に業務委託契約による歩合制で、場所も吉祥寺の貸しビルのワンフロアーだった[3]。しかし、1989年の『魔女の宅急便』の邦画No.1ヒットを機に、宮崎駿の提案によってスタッフの社員化と固定給の導入、新人の定期採用と育成という方針に転換した[3]。またスタジオの安定経営のために、宣伝にも積極的に取り組むようになった[3]

1997年に徳間書店の社内制カンパニー導入により一旦は徳間書店に吸収合併されるが、2005年に鈴木敏夫、宮崎駿、高畑勲が取締役である株式会社ジブリが、過去の作品も含めたジブリ作品の営業権を100億円から200億円の対価で徳間書店から譲渡されることで再び分離・独立する[4][5]

2014年に映画制作部門を解体し、一時アニメ制作から撤退[6]。以降、会社本体は存続させるが主な事業形態を「三鷹の森ジブリ美術館」の運営管理や作品関連グッズや版権の管理事業に移行し、新たに作品制作に動き出すときに再びスタッフを集めるという体制となる[6]

2022年11月、愛知県の愛・地球博記念公園ジブリパークを開業予定となっている。

沿革

  • 1985年6月15日 - 株式会社スタジオジブリ(初代)設立。当初の場所は、吉祥寺駅付近の第2井野ビル。
  • 1989年10月 - 徳間書店を退社した鈴木敏夫がスタジオジブリ専従の製作部長に就任。
  • 1989年11月 - スタッフの社員・常勤化、研修生制度、定期新人採用の開始。
  • 1991年 - 宮崎駿の新スタジオ建設案で、経営方針の対立が勃発。原徹が常務を辞任して退社し、後任に鈴木敏夫が就任。
  • 1992年 - 東小金井駅付近の新社屋に移転。
  • 1997年6月 - 経営悪化した徳間書店の収益確保の一環で徳間書店に吸収合併され、株式会社スタジオジブリは解散。徳間書店の社内カンパニー株式会社徳間書店スタジオジブリ・カンパニーに改組。同年『もののけ姫』完成後、宮崎が退社。
  • 1999年 - 徳間書店が事業部制を導入し、株式会社徳間書店スタジオジブリ事業本部に改称。さらに、宮崎がスタジオジブリ所長として復帰。
  • 2004年 - 株式会社徳間書店スタジオジブリ事業本部を、有限会社スタジオジブリに分割。
  • 2005年 - 徳間書店からの分離・独立により[4][5]、組織形態を有限会社から株式会社へ変更[7]。株式会社スタジオジブリ(2代)が、株式会社徳間書店スタジオジブリ事業本部の業務すべてを継承。鈴木が代表取締役社長に、宮崎とがそれぞれ取締役に就任した。
  • 2008年 - 鈴木が代表取締役社長を退任し、後任に元ウォルト・ディズニー・ジャパン社長の星野康二が就任。
  • 2009年 - トヨタ自動車本社内に、新スタジオとして西ジブリを開設[8][9]
  • 2010年 - 西ジブリを閉鎖。
  • 2014年 - 制作部門の休止が発表。社内では、年内をもって制作部門スタッフ全員の退職が発表される[10]
  • 2015年 - 第20回釜山国際映画祭で、アジア映画人賞が授与される[11]
  • 2017年 - 宮崎の新作長編アニメーション映画の本格的な始動にともなう制作部門の活動再開、および新人スタッフの募集開始を発表。代表取締役社長に三鷹の森ジブリ美術館館長を務めていた中島清文が就任し、2008年から社長を務めていた星野は代表取締役会長に就任した[12]。また現在、宮崎の新作長編アニメーション映画『君たちはどう生きるか』と、宮崎吾朗のテレビアニメーション『アーヤと魔女』を2本同時で制作していることを発表[13]
  • 2019年11月1日 - 中日新聞社と共同で、「ジブリパーク」(愛知県長久手市、2022年11月開業予定)の管理運営を担う新会社「株式会社ジブリパーク」を設立[14]
  • 2021年2月 - 新型コロナウイルス禍に対応するため、社長の中島が退任し、三鷹の森ジブリ美術館の専従の総責任者として第2代館主に就任[15]。会長の星野が社長を兼任することとなった[15]。美術館の設立時から館主であった宮崎は名誉館主となった[15]

名称

「スタジオジブリ」の名称は、サハラ砂漠に吹く熱風(Ghibli)に由来しており、第二次世界大戦中のイタリアカプローニの偵察爆撃機の名前(Caproni Ca309 Ghibli)でもある。宮崎駿の思い込みから「ジブリ」となったが、「ギブリ」の方が原語に近い発音である[注 3]

スタジオジブリのマークは、『となりのトトロ』に登場するトトロがデザインされている。スタジオジブリの第2レーベルで実写映画部門の「スタジオカジノ」の名称は、スタジオの所在地である梶野町から命名された。

2005年徳間書店傘下からの独立に際して、「ジブリ」の名称を徳間書店から買い取らなければならなくなった。宮崎が買い取りに消極的な姿勢を示して鈴木敏夫もそれに同意し、新しい名称として宮崎が「シロッコ[注 4]という案を出したが社内での評判がよくなく、結局「ジブリ」の名称を継続することとなった[注 5][16]

レーベル

映画

スタジオジブリ
1985年の株式会社スタジオジブリの設立とともに発足したレーベル。自社で制作した長編アニメーション映画を手がけており、同社を代表するレーベルの1つである。
スタジオカジノ
株式会社スタジオジブリの第2レーベルとして設立された。設立当初はスタジオジブリが従来手がけてこなかった実写分野を中心に活動していたが、のちにアニメーション分野にも進出している。
スタジオギブリ
ギブリーズ』および『ギブリーズ episode2』に登場する架空のアニメーションスタジオ。スタジオギブリのマークはスタジオジブリのマークと大抵は同様のデザインだが、同作に登場する野中くんが描かれている。また、同作のエンドロールでは「製作 スタジオギブリ」と表記されている。
三鷹の森ジブリ美術館ライブラリー
2007年に、株式会社スタジオジブリと財団法人徳間記念アニメーション文化財団により設立されたレーベル。徳間記念アニメーション文化財団傘下の三鷹の森ジブリ美術館により運営されており、他社が制作した映画の公開およびDVDの販売を行っている[17]。主に日本国外のアニメーションを担当しており、宮崎駿高畑勲の推薦などに基づき、三鷹の森ジブリ美術館が作品を選定している[17]

ビデオ

ジブリがいっぱいCOLLECTION
1996年に、ウォルト・ディズニー・カンパニー並びに日本法人のウォルト・ディズニー・ジャパンの間で、日本国内でのスタジオジブリ作品のビデオの販売および海外でのスタジオジブリ作品配給に関わる事業提携を締結した。これにともない、ジブリがいっぱいCOLLECTIONのシリーズが創設され、1997年発売の『となりのトトロ』よりVHSビデオの販売をウォルト・ディズニー・ジャパン(旧:ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント、ウォルト ディズニー スタジオ ホーム エンターテイメント、ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン)が行うようになった。また、2001年からはDVD版、2009年からはBlu-ray Disc版のパッケージ展開も開始している。発売時のテレビCMなどの宣伝についても、ウォルト・ディズニー・ジャパンが行う。なお、販売・レンタル店向け営業はウォルト・ディズニー・カンパニーと提携関係にあるポニーキャニオンが行っている。
これ以前に発売された『耳をすませば』までのVHSビデオは、「TOKUMA VIDEO」のレーベルで徳間書店が発売元、販売元は徳間ジャパンコミュニケーションズが担っていた。徳間書店によって発売されたスタジオジブリの旧作品についても、ジブリがいっぱいCOLLECTIONシリーズとしてVHSビデオおよびDVDで順次発売されている。DVDとBlu-ray Discについては、本編以外に絵コンテ集などの特典映像が収録されたディスクを含んだセルパッケージで発売されるタイトルがある[注 6]。なお、レーザーディスクにおいては、徳間書店との関係が継続されたため、1998年発売の『もののけ姫』については徳間書店からの発売・販売となった。
「スタジオジブリ」の名を冠したレーベルではあるが、『ルパン三世 カリオストロの城』や『じゃりン子チエ』などのスタジオジブリ以外の宮崎・高畑監督作品もラインナップに組み込まれている。

ジブリライブラリー

ジブリ学術ライブラリー
過去に放送されたドキュメンタリー番組や、過去に公開されたノンフィクション映画のビデオを販売するレーベル。他社が制作した作品が中心である。
ジブリCINEMAライブラリー
他社が制作した映画のビデオを販売するレーベル。三鷹の森ジブリ美術館ライブラリーに移管された作品もある。

音楽

スタジオジブリレコーズ
徳間ジャパンコミュニケーションズと提携して設立したレーベル。主に、スタジオジブリ作品のサウンドトラックと主題歌を含んだアルバムCDをリリースしている。以前は、「アニメージュレコード」のレーベルで事業を行っていた。2006年の『ゲド戦記』より主題歌制作とシングルCD販売についてはヤマハミュージックコミュニケーションズ[注 7]に移管された[注 8]

出版

文春ジブリ文庫
2013年創刊で、文藝春秋より毎月出版している。宮崎・高畑自身の著作の再刊や新装版[注 9]に加え、作品論『』などオリジナル出版も行っている。

服飾

仕立屋スタジオジブリ
が、スタジオジブリとGHIBLIブランドの洋服および服飾小物の企画・製造・販売のライセンス契約を締結し、2004年から販売開始したメンズ・ブランド。イメージモデルは、『紅の豚』の主人公であるポルコ・ロッソ。本物志向の40歳代以上の男性がターゲットである。

作品一覧

長編アニメーション映画

#タイトル公開日原作脚本監督上映時間備考
1天空の城ラピュタ1986年8月2日宮崎駿124分同時上映
ミセス・ハドソン人質事件
ドーバー海峡の大空中戦!
2となりのトトロ1988年4月16日86分2本立て
3火垂るの墓野坂昭如高畑勲88分
4魔女の宅急便1989年7月29日角野栄子宮崎駿102分
5おもひでぽろぽろ1991年7月20日岡本螢高畑勲119分
6紅の豚1992年7月18日宮崎駿93分
7平成狸合戦ぽんぽこ1994年7月16日高畑勲119分
8耳をすませば1995年7月15日柊あおい宮崎駿近藤喜文111分同時上映
On Your Mark
9もののけ姫1997年7月12日宮崎駿133分
10ホーホケキョ となりの山田くん1999年7月17日いしいひさいち高畑勲104分
11千と千尋の神隠し2001年7月20日宮崎駿125分
12猫の恩返し2002年7月20日柊あおい吉田玲子森田宏幸75分同時上映
ギブリーズ episode2
13ハウルの動く城2004年11月20日ダイアナ・ウィン・ジョーンズ宮崎駿119分
14ゲド戦記2006年7月29日アーシュラ・K・ル=グウィン丹羽圭子
宮崎吾朗
宮崎吾朗115分
15崖の上のポニョ2008年7月19日宮崎駿101分
16借りぐらしのアリエッティ2010年7月17日メアリー・ノートン宮崎駿
丹羽圭子
米林宏昌94分
17コクリコ坂から2011年7月16日佐山哲郎宮崎吾朗91分
18風立ちぬ2013年7月20日宮崎駿126分
19かぐや姫の物語2013年11月23日竹取物語高畑勲
坂口理子
高畑勲137分
20思い出のマーニー2014年7月19日ジョーン・G・ロビンソン丹羽圭子
安藤雅司
米林宏昌
米林宏昌103分
21レッドタートル ある島の物語2016年9月17日マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット
パスカル・フェラン
マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット81分
22劇場版 アーヤと魔女2021年8月27日ダイアナ・ウィン・ジョーンズ丹羽圭子
宮崎吾朗83分
23君たちはどう生きるか未発表宮崎駿

テレビアニメーション

#タイトル放映日放映局原作脚本監督上映時間備考
1海がきこえる1993年5月5日日本テレビ系列氷室冴子丹羽圭子望月智充73分1993年12月25日より中野武蔵野ホールにて上映
2ギブリーズ2000年4月8日百瀬義行13分
3アーヤと魔女2020年12月30日NHK総合テレビジョンダイアナ・ウィン・ジョーンズ丹羽圭子
郡司絵美
宮崎吾朗82分2021年6月4日から8月26日まで三鷹の森ジブリ美術館にてテレビ放映版を上映
劇場版は2021年8月27日より全国の劇場にて上映

短編アニメーション

#タイトル公開年監督備考
1On Your Mark1995年宮崎駿同時上映『耳をすませば』
2フィルムぐるぐる2001年
3くじらとり
4コロの大さんぽ2002年
5めいとこねこバス
6空想の空飛ぶ機械達
7空想の機械達の中の破壊の発明庵野秀明
8ギブリーズ episode2百瀬義行同時上映『猫の恩返し』
9ポータブル空港2004年百瀬ヨシユキ同時上映『キューティーハニー
10space station No.92005年
11空飛ぶ都市計画同時上映『タッチ
12水グモもんもん2006年宮崎駿
13星をかった日
14やどさがし
15百瀬ヨシユキ同時上映『立喰師列伝
16ちゅうずもう2010年山下明彦
17パン種とタマゴ姫宮崎駿
18たからさがし2011年不在[注 10]
19毛虫のボロ2018年宮崎駿

長編実写映画

#タイトル公開日配給監督上映時間
1式日2000年12月7日徳間書店庵野秀明120分
2サトラレ TRIBUTE to a SAD GENIUS2001年3月17日東宝本広克行130分

短編実写

#タイトル公開年監督備考
1巨神兵東京に現わる2012年樋口真嗣
2巨神兵東京に現わる 劇場版同時上映『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

テレビCM

ラジオ番組

その他

制作協力

スタジオジブリも一アニメーションスタジオであり、常に映画を制作しているわけではない。そのため、様々なアニメーションの下請けとしてクレジットされることもある。

長編アニメーション映画

テレビアニメーション

長編実写映画

ゲーム

他社作品のビデオ化など

日本国内歴代作品収入ランキング

日本映画製作者連盟によるデータ。

順位作品配給収入興行収入観客動員数
1千と千尋の神隠し 3080316億円23502350万人
2もののけ姫1130113億円204億円14201420万人
3ハウルの動く城1960196億円15001500万人
4崖の上のポニョ 1550155億円12001200万人
5風立ちぬ 0925120.2億円0750810万人
6借りぐらしのアリエッティ 092592.5億円0750750万人
7ゲド戦記 076578.4億円0588588万人
8猫の恩返し/ギブリーズ episode2 064664.6億円0550550万人
9紅の豚028028億円047647.6億円0304304万人
10平成狸合戦ぽんぽこ026526.5億円044744.7億円0325325万人
11コクリコ坂から 044644.6億円0355355万人
12おもひでぽろぽろ018718.7億円038138.1億円0216216万人
13魔女の宅急便021521.5億円036536.5億円0264264万人
14思い出のマーニー 035335.3億円 
15耳をすませば/On Your Mark018518.5億円031531.5億円0208208万人
16かぐや姫の物語 024724.7億円0080185万人
17ホーホケキョ となりの山田くん00797.9億円015615.6億円0115115万人
18となりのトトロ/火垂るの墓00595.9億円011711.7億円008080万人
19天空の城ラピュタ00585.8億円011611.6億円007777万人
20劇場版 アーヤと魔女005801162.4億円0077
21レッドタートル ある島の物語 00090.9億円

日本では1999年まで配給収入が用いられてきたが、2000年から興行収入に切り替わっている。

日本のアニメーション映画の興行収入トップ10のうち、6作品はスタジオジブリ制作である。

評価

日本国内での評価

日経BPコンサルティングが、2001年から毎年実施しているブランド・ジャパンのコンシューマー市場調査結果によると、スタジオジブリは2002年から2006年まで消費者から最も評価されているブランド部門の上位5位以内に毎年ランクされていた。共感するブランド部門では、2002年から5年連続で1位に選ばれている。

電通ヤング・アンド・ルビカムが、2007年に実施したブランドに関する世界最大の消費者調査ブランド・エナジーのパワーランキングにおいて、スタジオジブリは2位に選ばれた。

日本国外での作品公開と評価

ベルリン国際映画祭金熊賞アカデミー賞長編アニメーション賞[注 11]ヴェネツィア国際映画祭金オゼッラ賞[注 12]を受賞するなど、国際的にも高い評価を受けているスタジオジブリ作品であるが、そこに至る道のりは平坦ではなく、現在もその評価は一様ではない。

スタジオジブリ作品は早くから日本国外の映画祭に何度も出品したが、一般大衆レベルでスタジオジブリ作品が早くから受容されていたのは香港である。1987年に『天空の城ラピュタ』が『天空之城』のタイトルで公開され、興行収入はその年の香港における外国語映画2位となる1300万香港ドルのヒットとなった。1988年には『風の谷のナウシカ』が『風之谷』のタイトルで1070万香港ドル、同年に『となりのトトロ』が『龍猫』のタイトルで1100万香港ドルの興行収入を挙げた。いずれも、1997年時点で香港における日本映画の上位に食い込む好成績だった。以後も『魔女の宅急便』が『魔女宅急便』のタイトルで1990年に公開されるなど、スタジオジブリ作品は香港で上映されていった[18]

その後、スタジオジブリ作品はニューヨーク近代美術館などで回顧展が開かれたり[19]、『千と千尋の神隠し』が映画批評を集計するサイトRotten Tomatoes[20]でほぼパーフェクトに近い点を記録したり、同作がアカデミー賞の長編アニメーション賞を受賞したり、国際的なフランス人漫画家メビウスが自分の娘に「ナウシカ」と命名したり[21]と高い評価を受ける一方、『ゲド戦記』の原作者で小説家でもあるアーシュラ・K・ル=グウィンは、本作の原作改変部分やディティールの弱い絵などに強い違和感を示した[22]

フランスでも宮崎駿監督作品の正式な紹介は遅れ、1993年アヌシー国際アニメーション映画祭では『紅の豚』が長編部門の作品賞を受けるものの、1995年の劇場公開では興行的に惨敗した。

アメリカにも『風の谷のナウシカ』が輸出されているが、配給権を得たのは低予算C級映画で知られるロジャー・コーマン配下の会社であった。116分の本編は95分にカット、ストーリーも大幅に改竄されて『Warriors of the Wind』と題して、アメリカ国内で短い期間劇場公開されたのちにビデオで販売され、さらにはヨーロッパ各国にも転売された[注 13]。この『Warriors of the Wind』は、宮崎監督作品のファンたちの間では悪評が高い[注 14]。このアメリカ向け短縮版は宮崎に無断で作成されたものだったが、この一件で宮崎とスタジオジブリは自社作品の輸出に当たってはノーカット公開を要求するようになった。その後のアメリカでは、1989年に『天空の城ラピュタ』が『Castle in the Sky』のタイトルで小規模な劇場公開があったが[23]欧米では本格的な劇場公開は行われず、正規ルートでのビデオ発売も遅れたため、不法コピーの海賊版が出回っていた[24]。アメリカでの興行収入は、スタジオジブリ作品では『借りぐらしのアリエッティ』が1920万ドルで1位[25]、『崖の上のポニョ』が1509万ドルで2位[26]、『千と千尋の神隠し』が1005万ドルで3位[27]となっている。これは公開館数の違い[注 15]もあるが、『借りぐらしのアリエッティ』のポスターや予告編は、旧来のスタジオジブリ作品に比べてディズニー色が強くなっている[28]。『崖の上のポニョ』公開時から、キャスリーン・ケネディフランク・マーシャルが英語吹き替え版の製作総指揮を務めるようになった[29][30][31]。後述のGKIDSとスタジオジブリの新たな結びつきが生まれる中、『風立ちぬ』はそれまで公開された宮崎監督作品や『借りぐらしのアリエッティ』と同様、ディズニー北米の配給権を取得している[32][33]

2018年に、『となりのトトロ』が北京上海など中国の約50都市で劇場公開[34][35][36]。中国本土で約6000館におよぶ、スタジオジブリ作品初の大規模な上映となった[37][38][39]。2019年には、約9000館で『千と千尋の神隠し』が初公開された[40][41][42][43]

GKIDSとの関係

アメリカで独立系の配給会社GKIDSとスタジオジブリの関わりは、2011年にニューヨークIFCセンターで開催された特集上映に始まり[44]、2012年から『コクリコ坂から』の劇場公開と2013年にはビデオ販売が行われた[注 16][45][46][47]。続いて『かぐや姫の物語[注 17]と『思い出のマーニー[注 18]が公開され[48][49]、2013年にタッチストーン・ピクチャーズで配給された『風立ちぬ』から[50]、2016年にソニー・ピクチャーズ クラシックスで配給された『レッドタートル ある島の物語』まで、4年連続でスタジオジブリ作品がアカデミー賞の長編アニメーション賞にノミネートされた。

北米でGKIDSは過去のスタジオジブリ作品全ての配給権を保有して[51]、レトロスペクティブ上映を実施[49]。2016年から2017年にかけて『もののけ姫』や[52]、2日間に400館以上で『千と千尋の神隠し』のリバイバル上映が行われ[53]、それまで一般の劇場では上映されていなかった『おもひでぽろぽろ』や『海がきこえる』が初公開された[54][55]。さらに、2016年からイベント上映を共同で手掛けるファゾム・イベンツとは、毎月1本のスタジオジブリ作品を上映するスタジオジブリ・フェスト[56][57]、2017年から2019年にかけて毎年開催[58][59][60]。2日から3日間の日程で、『天空の城ラピュタ』は648館[61][62]、『風の谷のナウシカ』は751館[63][64]、『魔女の宅急便』は753館で公開されるなど[65][66]、吹き替え版と字幕版の両方が上映されている。

2017年よりGKIDSは北米で、それまでディズニーによってビデオが販売されていたスタジオジブリ作品の再発売を開始した[67]。アメリカ国外ではフランスなどで、引き続きディズニーによってスタジオジブリ作品の流通が手掛けられた[68]

ワイルドバンチとの関係

2016年にスタジオジブリと『レッドタートル ある島の物語』を共同製作したワイルドバンチは2020年、フランスにおけるスタジオジブリ作品のすべての権利を取得した。新作である『アーヤと魔女』も含まれる。フランスで、スタジオジブリ作品をリリースしていたディズニーのライセンス契約は失効した。ワイルドバンチはこれまでにも、スタジオジブリ作品の海外販売を担当していた[69]

動画配信

2019年まで、スタジオジブリはインターネットでの動画配信に消極的だったが、動画配信サービスの爆発的な普及を受け、動画配信サービス会社と組むことで今までDVD購入または海賊版での鑑賞手段しかなかった海外におけるスタジオジブリ作品の認知度向上にもつながると判断した[24][70]

2019年、GKIDSアメリカにおいて、ワーナーメディアHBO Maxとスタジオジブリ作品のストリーミング配信における独占契約を締結したと発表した[71]。サービスが開始される2020年から21作品が配信されている[72][73][74][75][76][77][78]。GKIDSは2019年から北米で、HBO Maxと同じ21作品のダウンロード販売を開始した。販売されるプラットフォームはAmazon.comApple TVGoogle PlayソニーマイクロソフトVuduFandangoNOWである[79]

2020年に、Netflixフランスワイルドバンチより、アメリカと日本を除く世界約191か国での配信権を獲得。2月から4月にかけて21作品を順次配信すると発表した[注 19][70][78][80][81][82]

2021年現在、日本向けの動画配信はダウンロード、ストリーミングともに行われていない。

なお、スタジオジブリ作品のうち、『火垂るの墓』は著作権の権利を新潮社と原作者の野坂昭如が保有しており、スタジオジブリは原作の出版権を保有していない事情から、インターネットでの動画配信の対象外となっている[78][83]

声優の配役の特徴

1980年代までは脇に俳優が起用されることもありつつ[注 20]、主役級には主に声優事務所に所属する専業声優が起用されていたが、1990年代以降の作品では主役や主要人物の声はテレビドラマ等で有名な俳優が多く起用されており[注 21]、これらは往々にしてスタジオジブリ作品の特徴として語られるが、舘野仁美によれば「俳優さんの仕事の中で声の仕事だけが専門化していったのは、1970年代くらいから」であり、宮崎駿高畑勲は「昔ながらのやり方で役に合う俳優さんを選んでいるだけ」であったという[84]。また、宮崎は特に高畑のキャスティングのセンスには全幅の信頼を置いていたという。しかし、名前が売れている俳優を起用すればテレビ番組などで勝手に映画の宣伝をしてくれるため、宣伝費や広告費が必然的に浮くからとも鈴木敏夫は述べている。声優の選考に関して、『千と千尋の神隠し』の完成報告記者会見で宮崎は、「自分の中のイメージができあがったあと、プロデューサーが次々に持ってくる声から選んでいる」と答えている[85]

外国メディアからのインタビューの中では、「日本の女性声優はコケティッシュで男性の気を引きたがっているかのような声の持ち主しかいないので、(『ハウルの動く城』の荒地の魔女役について)我々は日本の女性声優をまったく欲しくなかった」と述べている[86]。『』には、ナウシカ役などを演じた島本須美が、職業上の仮面を引き剥がせず宮崎の要求する演技に応えられない様子が収録されている。

もののけ姫』以後も、役名がクレジットされないキャラクターに文学座所属の俳優[注 22]が多く起用される傾向にある。

後継者の育成

もともと、スタジオジブリは『風の谷のナウシカ』の商業的な成功をきっかけに設立されたプロダクションであり、当初は同作制作の中心人物であった宮崎駿高畑勲が監督する長編アニメーション映画の制作を主力事業としていた。そのため、社内では常に宮崎・高畑を頂点にして回っている一面があった。しかし、1990年代の時点で宮崎・高畑両監督ともすでにベテランであり、とりわけ国民的映像作家としての地位を固めていた宮崎の後継者の確保はスタジオジブリの経営にとっては大きな長期的課題の1つであり、比較的早い段階からさまざまな試みがなされていた。スタッフの正社員登用の開始に併せて演出家育成を制度化し、村田和也らを輩出した。

1995年近藤喜文監督作品『耳をすませば』が公開。近藤はスタジオジブリの設立以前から数多くの宮崎・高畑監督作品を支え、また当時のスタジオジブリ作画陣の代表格ともいえる敏腕アニメーター・キャラクターデザイナーとして、同作の成功により宮崎・高畑の最良の後継者と認知され、スタジオジブリの内外から大きな期待を集める存在になった。しかし、その近藤は1998年に47歳で病死してしまう。

その後のスタジオジブリでは、長編アニメーション映画で宮崎・高畑の後釜を担える力量を認められた監督候補推として近藤に代わるだけの人材が決定的に不足しており、組織内の人材育成も難航を極めていた。また、それまでも含めて育成だけではなく外部からも今までに主に若手・中堅世代で注目したクリエイターを何名か監督候補として招いて制作作業に携わらせているものの、スタジオジブリの社風に馴染めず降板したケースが少なくなかったという。過去には『天空の城ラピュタ』の次作に企画されていた『』の押井守[注 23][注 24][87]、『魔女の宅急便』の片渕須直、『ハウルの動く城』では東映動画から[注 25]出向していた細田守の降板などが伝えられている。劇場長編実写映画では、『式日』の庵野秀明と『サトラレ TRIBUTE to a SAD GENIUS』の本広克行を制作し、こちらは公開している[注 26]

このような状況を指して、庵野は1996年の時点で既に「宮さん(宮崎)におんぶにだっこのジブリの環境では、後継者は育ちませんよ」[88]と指摘しており、のちには「当のジブリ経営陣であるはずの鈴木敏夫をして、ジブリは宮崎と高畑の2人のためのスタジオであり、人材が育つわけがない」と発言している。鈴木はスタジオジブリの若手・中堅世代のアニメーター育成のためにテレコム・アニメーションフィルムからベテランアニメーターの大塚康生[注 27]を招聘したが、その大塚の主なアドバイスは「宮さんの言うことは、右から聞いたら左へ流しなさい。自分の好きなように描け」というものであったといい、前述の近藤はその発言を受け入れたことで頭角を現した1人だったという[89]。近藤没後の2001年、『千と千尋の神隠し』の作画監督をした安藤雅司もまた「ある意味、ジブリを壊していかなくてはいけない」と、スタジオジブリの方法論に従うだけの現状を危惧し、実際に制作中スタジオジブリの外からアニメーターを積極的に受け入れるなどしていた[90]

鈴木は2006年、『ゲド戦記』の制作にあたって、当時三鷹の森ジブリ美術館の館長でそれまでアニメーション制作の仕事は実質未経験であった宮崎の長男の宮崎吾朗を監督に起用する人事を行った。これは鈴木が「前提としてジブリの今後を考え、当の鈴木を含め宮崎や高畑が高齢であるため」と発表当初のインタビューで述べており、つまりは事実上の後継者の育成の一策として起用したものであると認めている[91]。しかし、この吾朗の監督起用については、宮崎と鈴木の意見が真っ向から対立しており、2010年にも鈴木は質疑応答の中で「宮崎はいまだに『ゲド戦記』を吾朗くんに撮らせたことについて、僕のことを許していないんですよ」と明かしている[92]

2009年頃からは、宮崎の主導によるスタジオジブリ経営5か年計画がスタート。最初の3年間は若手の起用[注 28]、最後の2年間は超大作の制作に充てるというプランで、この計画の第1弾としてスタジオジブリ生え抜きの米林宏昌の『借りぐらしのアリエッティ』が、第2弾として吾郎の『コクリコ坂から』が制作された[92]。超大作として『風立ちぬ』が制作され、宮崎は長編映画からの引退を発表[注 29]2014年には『思い出のマーニー』制作終了後に制作部門が解体され[10]、以降の長編アニメーション映画は、他のアニメーションスタジオと同じようにフリーのアニメーターを作品ごとに集め制作するスタイルに変わり、その最初の作品である『レッドタートル ある島の物語』は、海外のアニメーターであるマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットを監督に抜擢している。

『借りぐらしのアリエッティ』を試写室で観た宮崎の第一声は、「ジブリ育ちの演出がはじめて誕生した」[93]とコメントを寄せている。宮崎・高畑は東映アニメーション出身、他の監督たちも他社からの移籍であり、純粋なスタジオジブリ出身の監督としては米林が初となった。

他方で鈴木は、経営再建中だった徳間書店の傘下から2005年にスタジオジブリが独立した際の資本金が1000万円であったのは、それが宮崎、高畑、鈴木の3人で拠出できる金額であったからで、宮崎と高畑の2人が引退したらスタジオジブリも終わるのが基本という旨のことも述べている[94]

2016年には、鈴木と鈴木の下で仕事を学んだ石井朋彦により、スタジオジブリ初の公開師弟対談が行われた。

ロケーション・ハンティング

スタジオジブリでは、制作にあたって多くの作品でロケーション・ハンティングを行ってきた。ただし、それらはあくまで架空世界のイメージを得るためであり、客観的現実世界をなぞった設定を作るためではない。実在の風景もまた、原作に向き合う態度と同様に、インスピレーションを得るための素材に過ぎない。宮崎駿は、ロケーション・ハンティング中に写真を撮る習慣がないとも言われている。あくまで自己の両眼で確認した情報・印象を主観的に記憶する思考パターンであるという[95]

一方で、高畑勲リアリズムを重視し、『火垂るの墓』や『平成狸合戦ぽんぽこ』などでは現実舞台に忠実な物語を展開した。

歴代社長・経営者

期間社長経営者
1985年6月1991年7月徳間康快原徹
1991年7月2000年9月鈴木敏夫
2000年9月2001年1月
2001年1月2005年3月松下武義
2005年4月2008年1月鈴木敏夫
2008年2月2017年11月星野康二
2017年11月2021年2月中島清文
2021年2月現職星野康二

スタジオジブリは、1997年徳間書店に吸収合併された。徳間書店は社内カンパニー制を導入していたため、スタジオジブリは徳間書店の一カンパニーとなった。その後、徳間書店は1999年事業部制を導入したため、スタジオジブリは徳間書店の一事業本部となった。徳間書店から分離・独立した2005年からは、再び株式会社となった。

関連人物

監督・アニメーター

美術・彩色

撮影

音響・録音

製作・制作

その他

関連項目

関連展覧会・イベント

展覧会

ジブリがいっぱい スタジオジブリ原画展
1996年8月31日から9月16日日本全国の三越で開催。『もののけ姫』までの原画が展示された。徳間書店ウォルト・ディズニー・カンパニーとの業務提携およびスタジオジブリ作品の世界進出のニュースが大きな話題となった。
ジブリがいっぱい スタジオジブリ立体造型物展
2003年6月14日から9月7日東京都現代美術館で開催。『ハウルの動く城』までの世界を立体造型物として再現しており、公開当時の新聞記事と一体化したディスプレイが展示された。この展覧会では、22万人以上の動員を記録した。
ジブリの絵職人 男鹿和雄展
2007年7月21日から2010年2月7日、東京都現代美術館や松坂屋美術館など計9か所で開催された。東京都現代美術館では30万人に迫る動員を記録した。
スタジオジブリ・レイアウト展
2008年7月26日から2011年11月27日、東京都現代美術館やサントリーミュージアムなど計9か所で開催された。東京都現代美術館では12万5000人以上の動員を記録した。『崖の上のポニョ[注 31]までの原画やレイアウト約1300点が展示された。
借りぐらしのアリエッティ×種田陽平展
2010年7月17日から10月3日、東京都現代美術館で開催された。
ジブリの動画家 近藤勝也展
2012年7月20日から8月26日新居浜市立郷土美術館で開催された。
新潟が生んだジブリの動画家 近藤喜文展
2014年7月4日から8月31日、新潟県立万代島美術館で開催された。
ジブリの立体建造物展
2014年7月10日から12月14日江戸東京たてもの園で開催された。解説は、建築家である藤森照信が担当した。
スタジオジブリ『思い出のマーニー』監督 米林宏昌原画展
2014年7月18日から7月28日西武池袋本店で開催された。
思い出のマーニー×種田陽平展
2014年7月27日から9月15日東京都江戸東京博物館で開催された。
この男がジブリを支えた。近藤喜文展
2015年8月4日から9月27日香川県立ミュージアムで開催された。
ジブリの大博覧会
2015年9月12日から11月8日愛・地球博記念公園で開催された。
ジブリの“大じゃない”博覧会
2020年7月22日から9月3日愛知県美術館で開催された。
アニメージュとジブリ展
2021年4月15日から5月5日松屋銀座で開催された。

イベント

スタジオジブリ総選挙
レッドタートル ある島の物語』の公開を記念したスタジオジブリ総選挙が行われた。イベントは、2016年8月13日午前0時から8月28日午後12時59分までの期間内に同作の公式サイト内の特設ページにて投票を募集し、『風の谷のナウシカ』から『思い出のマーニー』までのスタジオジブリ長編アニメーション映画全21作品の中で、最も得票数が多かった1作品を全国5都市5劇場[注 32]で上映するという内容である[96]。中間発表では、上位5作品が『風の谷のナウシカ』、『天空の城ラピュタ』、『魔女の宅急便』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』であることが発表された[97]。この5作品は、全て宮崎駿監督作品である。そして、9月には最終結果が発表され、1位に輝いた『千と千尋の神隠し』が1週間限定で全国5都市5劇場でリバイバル上映された[98]
なお、2位以下の作品の順位は未発表であるため不明となっている。
一生に一度は、映画館でジブリを。
2020年、「一生に一度は、映画館でジブリを。」と題し、『風の谷のナウシカ』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』、『ゲド戦記』の4作品が全国の劇場でリバイバル上映された[99]。初週末の映画ランキングでは上位3位をこれらが独占するなど、新型コロナウイルス感染拡大の中、異例の大ヒットを記録した[100]

関連施設・店舗

施設

三鷹の森ジブリ美術館
2001年10月1日オープン。スタジオジブリの世界を展示している。また、毎年内容が変わる企画展も好評である。
サツキとメイの家
2005年竣工。『となりのトトロ』の草壁家を忠実に再現している。
ジブリパーク
2022年11月1日に「青春の丘」「ジブリの大倉庫」「どんどこ森」の3エリアが開園し、2023年秋頃に「もののけの里」「魔女の谷」の2エリアが開園する予定[101]

店舗

日本各地にスタジオジブリグッズを販売する専門店は多数ある。東京駅八重洲口地下の東京キャラクターストリート内に営業するどんぐりガーデン、名古屋市に営業するめっせ、日向市に営業するむさしや[注 33]鹿児島市に営業するあみゅの森、高知市に営業するどんぐり共和国などである。また、金曜ロードショーでスタジオジブリ作品を独占的に放映する日本テレビのグッズを扱う日テレ屋でも、スタジオジブリグッズが販売されている。

一方で、ゲーマーズアニメイトではほとんどスタジオジブリグッズが販売されていない[注 34]

スタッフ・OBが独立・起業した会社

現在

過去

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 由来などについては、#名称も参照。
  2. ^ 原は、初代常務に就任。
  3. ^ イタリアのマセラティ社の乗用車Ghibliは、日本でも1970年代から「ギブリ」と呼ばれている。
  4. ^ これもサハラ砂漠に吹く風に由来。
  5. ^ 鈴木は、「『ジブリ』という名前を捨てるのは、もう全然気にならない」と記している。
  6. ^ レンタルDVD仕様は本編ディスクのみ。
  7. ^ 販売元はエイベックス・エンタテインメント
  8. ^ 2013年公開の『風立ちぬ』主題歌の松任谷由実による『ひこうき雲』は、ユニバーサルミュージック
  9. ^ 過去に徳間書店のシネマ・コミックや、同アニメージュ文庫などで出版された書目。
  10. ^ 監督は存在しないが宮崎が構成を、稲村武志が演出アニメーターをそれぞれ担当している。
  11. ^ 千と千尋の神隠し』が受賞。
  12. ^ スタジオジブリの技術に対する評価。
  13. ^ 『風の谷のナウシカ』の#海外版も参照のこと。
  14. ^ 朝日新聞の記事によれば、ロサンゼルス国際アニメーション映画祭の長編部門で1位になるなど、オリジナル版の評価はされていた。
  15. ^ 『借りぐらしのアリエッティ』が1522館、『崖の上のポニョ』が927館、『千と千尋の神隠し』が714館。
  16. ^ 興行収入は100万ドル。
  17. ^ 2014年公開、興行収入は70万ドル。
  18. ^ 2015年公開、興行収入は56万ドル。
  19. ^ カナダについては、6月から8月にかけて順次配信している。
  20. ^ 寺田農など。
  21. ^ おもひでぽろぽろ』・『耳をすませば』の本名陽子、『千と千尋の神隠し』の入野自由は現在は専業声優だが、出演当時は子役だった。
  22. ^ つかもと景子(『もののけ姫』から『崖の上のポニョ』まで5作品に出演)、斉藤志郎山像かおり山田里奈八十川真由野山本道子山本郁子など(複数作品出演者のみ)、洋画から韓国ドラマの吹き替えで活躍している顔ぶれが並ぶ。
  23. ^ 宮崎は1987年公開の『紅い眼鏡/The Red Spectacles』のパンフレットに、自身が脚本で押井が監督するはずだった長編アニメーション映画がつぶれてスケジュールが空いたときに、2人で知床まで自動車旅行をした話を寄稿している。
  24. ^ 脚本は宮崎。宮崎の構想によると、舞台は当時の東京。お姫様のような不思議な少女が何者かに追われて、偶然に出会った少年がその少女を逃がすためにある場所まで送り届けると、また違う人間が別の場所まで送り届けるという恋愛要素を含んだ冒険もの。
  25. ^ 宮崎・高畑も東映動画からキャリアをスタートしており、後輩にあたる。
  26. ^ これ以前に、スタジオジブリと合併した二馬力で製作が宮崎、監督が高畑で1987年公開の実写映画『柳川堀割物語』を制作している。
  27. ^ 東映動画での宮崎・高畑の先輩であり、数多くの作品でともに仕事をしてきた。また、宮崎・高畑の指導者的な立場でもあった。
  28. ^ 企画と脚本だけは宮崎が用意。
  29. ^ ただし、のちに撤回している。
  30. ^ 宮崎の長男。
  31. ^ 2010年頃の会場からは『借りぐらしのアリエッティ』も。
  32. ^ 札幌シネマフロンティアTOHOシネマズ六本木ヒルズTOHOシネマズ名古屋ベイシティTOHOシネマズ梅田TOHOシネマズ天神
  33. ^ 宮崎市にもあったが閉店した。
  34. ^ アニメイトでは、グループ企業のムービックが関わるグッズのみ販売。

出典

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外部リンク


 

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