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🚗|【ヤマハ ナイケンGT 試乗】フツーの3輪とは決定的に違う、その「存在意義」…伊丹孝裕


写真 ヤマハ ナイケンGT

【ヤマハ ナイケンGT 試乗】フツーの3輪とは決定的に違う、その「存在意義」…伊丹孝裕

 
内容をざっくり書くと
レーシングライダーとしても活動し、これまでマン島TTやパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム、鈴鹿8時間耐久ロードレースといった国内外のレースに参戦。
 

試乗車を借りるため、ヤマハが管理するバイク倉庫へ向かっていた時のこと。「ナイケンGTって乗りやすいん… →このまま続きを読む

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鈴鹿8時間耐久ロードレース

鈴鹿8時間耐久ロードレース(すずかはちじかんたいきゅうロードレース)は、FIM世界耐久選手権の1戦として毎年夏に鈴鹿サーキットで開催される日本最大のオートバイレース。通称鈴鹿8耐(すずかはちたい)、8耐(はちたい)。

概要

夏の鈴鹿を彩る名物レースの一つで、オートバイによる8時間の耐久レースである。2017年現在は午前11時30分にスタートし、日暮れから日没をまたいで終盤はナイトレースとなり、午後7時30分を過ぎた直後にトップのチームがゴールラインを通過した時点で終了となる。

1978年から開催され、1980年からは世界耐久選手権レースのひとつとして組み込まれ、特に1980年代から1990年代初頭は日本のバイク人口のピークと相まって大いに盛り上がった。当時の鈴鹿市の人口は約14万人だが、1990年の決勝レースはそれをはるかに上回る16万人の観客動員を記録、さらに大会期間中の延べ入場者数は36万8,500人を記録した。時代と共に二輪車販売が大幅に減少してもなお、ロードレース界における夏の風物詩として国内有数の集客を誇るモータースポーツイベントである。

1984年より日本コカ・コーラ冠スポンサーとなっている。例年の冠タイトルは「コカ・コーラ」だが、一時期「コカ・コーラ ゼロ」、または姉妹品「スプライト」の冠だった年もある。

かつては世界を目指す若手ライダーの登竜門的な存在であった。ケビン・マギーケビン・シュワンツマイケル・ドゥーハンらは、鈴鹿8耐の活躍でWGPの切符をつかんだ。ワイン・ガードナーは、無名時代の1981年に初出場ながらポールポジションを獲得したことが名を知られるきっかけとなった(WGPデビューは1983年)。そうして成長を遂げた彼らの海外における活躍と相前後し、WGPを退いて間もないケニー・ロバーツと全日本の第一人者平忠彦によるコンビ結成(1985年)も大きな話題となり、以後日本の4大オートバイメーカーが威信を懸けてWGPやスーパーバイク世界選手権からトップライダーを送り込んだため、1980年代中盤 - 1990年代の8耐はさながら「レーシングライダー世界一決定戦」とも言うべき活況を呈していた。

近年は、MotoGP(旧・WGP)との日程重複やレース自体の過酷さによる消耗を嫌って海外ライダーの参戦が減少傾向にあるものの、レギュレーションの変更などによる運営上の試行錯誤や全日本選手権等を戦う日本人のエース級ライダーによって、以前に勝るとも劣らない熾烈な戦いが繰り広げられている。

決勝前日にはMFJの国内ライセンスあるいはフレッシュマンライセンス所有者のみが参加できる「鈴鹿4時間耐久ロードレース」も開催される。またオートバイによる来客が多いことにちなみ、二輪車をメインとした市内パレードも催される。かつては暴走族が数千台規模で集まり、警察が出動したこともあった。

前夜祭にはコース上で「ナイトピットウォーク」や「バイクパレード」などさまざまなイベントが行われ、家族連れで大変にぎわっている。2000年にはTRFがヘリコプターを使った演出とライブで前夜祭を盛り上げ、キャンギャルオンステージが行われるなど、盛大に行われた時代もあった。近年は『来場者とレースをもっと近くに』とのコンセプトから、大きなステージは作らず、ナイトピットウォークに時間を割くようになった。2010年からは、SKE48が「鈴鹿サーキットモータースポーツ応援団」として参加し、コース上でライブをするなど、新たな盛り上がりを演出している。非公式ながら『8耐マン』と呼ぶ2人組のキャラクターも出没し、来場者との思い出作りに花を添えている。

1980年に世界選手権シリーズに昇格するまでの(1977年以前は6時間耐久)時代はレギュレーションが緩やかであったため、ホンダ・CBX1000カワサキ・Z1000スズキ・GS1000、からまでの市販車改造車と、ホンダ・RSヤマハ・TZなどの純レーサーが、クラス分けもなく混走していた。その中で、500cc単気筒エンジンを搭載した40馬力ほどのプライベーター製車両(後のヤマハ・SRの原型となった「ロードボンバー」)が8位入賞(1978年)するなどの出来事もあった。TT-F1時代は前輪に片持ハブセンターステアのユニット、後輪に片持スイングアームユニットを持ち、かつメインフレームがないelfのような意欲的なマシンや、あえて軽量コンパクトさで勝負に挑んだホンダCBR600、トラストでチューンされたターボチャージャーを搭載するスズキGSX-R400、ヤマハのフレームを使用したBMW K75など、プライベーターでは個性豊かなマシンが出場していた。

近年は、学生を無料(要事前申込み)で招待する『ヤング割0円キャンペーン』や、大人1人分の料金で子供5人が無料入場できる『子どもと一緒にキャンペーン』、さらに2017年には国際レーシングコース横の交通教育センターでレース中にアーティストのライブを行う『8フェス』など、新規ファンの開拓にも力を入れている。

従来の鈴鹿8耐は選手権の序盤に行われてきたが、選手権のプロモーターであるユーロスポーツ・イベントの代表フランソワ・リベイロが、2017年の選手権は2016年9月に開催予定のボルドール24時間で開幕させ、年をまたいで2017年7月の鈴鹿8耐を最終戦にすることを発表した[2]

2019年2月、モビリティランドとフランス西部自動車クラブ(ACO)は鈴鹿サーキットとル・マンの友好協定を締結。これにより鈴鹿8耐でのヨーロッパトップチームに「ル・マンアワード」を、ル・マン24時間耐久ロードレースでのアジアトップチームに「鈴鹿アワード」を贈呈するなど取組を行っていくと発表した[3]

歴史

大会名

  • 1978年 - 1979年:インターナショナル鈴鹿8時間耐久オートバイレース
  • 1980年 - 1983年:世界選手権シリーズ 鈴鹿8時間耐久オートバイレース
  • 1984年 - 1987年:世界選手権シリーズ "コカ・コーラ"鈴鹿8時間耐久オートバイレース
  • 1988年:世界耐久選手権シリーズ "コカ・コーラ"鈴鹿8時間耐久ロードレース
  • 1989年 - 1990年:FIM耐久カップシリーズ "コカ・コーラ"鈴鹿8時間耐久ロードレース
  • 1991年 - 1996年:FIM世界耐久選手権シリーズ "コカ・コーラ"鈴鹿8時間耐久ロードレース
  • 1997年:FIM世界耐久選手権シリーズ "スプライト クール"鈴鹿8時間耐久ロードレース
  • 1998年 - 1999年:FIM世界耐久選手権シリーズ "スプライト"鈴鹿8時間耐久ロードレース
  • 2000年 - 2005年:FIM世界耐久選手権シリーズ "コカ・コーラ"鈴鹿8時間耐久ロードレース
  • 2006年:FIM世界耐久選手権シリーズ/FIMカップ エンデュランス・オブ・ネーションズ "コカ・コーラ"鈴鹿8時間耐久ロードレース[4]
  • 2007年:QMMF FIM世界耐久選手権シリーズ "コカ・コーラ ゼロ"鈴鹿8時間耐久ロードレース
  • 2008年 - 2012年:QTEL FIM世界耐久選手権シリーズ "コカ・コーラ ゼロ"鈴鹿8時間耐久ロードレース
  • 2013年 - 2016年:FIM世界耐久選手権シリーズ "コカ・コーラ ゼロ"鈴鹿8時間耐久ロードレース
  • 2017年 -:FIM世界耐久選手権 最終戦 “コカ・コーラ”鈴鹿8時間耐久ロードレース

優勝者&優勝チーム・マシン

ライダーチーム(マシン)ゼッケン周回数タイム
1978アメリカ合衆国の旗 ウェス・クーリー
アメリカ合衆国の旗 マイク・ボールドウィン
ヨシムラジャパン
スズキ・GS1000
21948:02'51"53
1979オーストラリアの旗
オーストラリアの旗
チームホンダ・オーストラリア
ホンダ・CB900F
61978:00'23"78
1980アメリカ合衆国の旗 ウェス・クーリー
ニュージーランドの旗 グレーム・クロスビー
ヨシムラ R&D
()
122008:01'03"54
1981アメリカ合衆国の旗 マイク・ボールドウィン
アメリカ合衆国の旗 デビッド・アルダナ
ホンダ・フランス
ホンダ・RS1000
11998:00'47"12
1982日本の旗
日本の旗
ブルーヘルメット MSC
(ホンダ・CB900F)
271206:02'55"83
1983フランスの旗
ベルギーの旗
HB スズキ・フランス
(スズキ・GS1000R)
61908:02'29"32
1984アメリカ合衆国の旗 マイク・ボールドウィン
アメリカ合衆国の旗 フレッド・マーケル
アメリカ・ホンダ
ホンダ・RS750R
11918:01'30"35
1985オーストラリアの旗 ワイン・ガードナー
日本の旗
チームHRC
ホンダ・RVF750
31958:01'40"102
1986オーストラリアの旗 ワイン・ガードナー
フランスの旗 ドミニク・サロン
チームHRC
(ホンダ・RVF750)
41978:01'30"738
1987西ドイツの旗 マーチン・ウィマー
オーストラリアの旗 ケビン・マギー
資生堂 TECH21 レーシングチーム・ヤマハ
ヤマハ・YZF750
212008:01'30"045
1988オーストラリアの旗 ケビン・マギー
アメリカ合衆国の旗 ウェイン・レイニー
チーム・ラッキーストライクロバーツ・ヤマハ
(ヤマハ・YZF750)
32028:02'21"384
1989フランスの旗 ドミニク・サロン
フランスの旗
Beams ホンダ with イクザワ
(ホンダ・RVF750)
22027:58'34"328
1990日本の旗 平忠彦
アメリカ合衆国の旗 エディ・ローソン
資生堂 TECH21 レーシングチーム・ヤマハ
(ヤマハ・YZF750)
212057:57'35"859
1991オーストラリアの旗 ワイン・ガードナー
オーストラリアの旗 マイケル・ドゥーハン
OKI ホンダ・レーシングチーム
(ホンダ・RVF750)
111927:59'25"924
1992オーストラリアの旗 ワイン・ガードナー
オーストラリアの旗 ダリル・ビーティー
OKI ホンダ・レーシングチーム
(ホンダ・RVF750)
112088:00'07"117
1993アメリカ合衆国の旗 スコット・ラッセル
ニュージーランドの旗 アーロン・スライト
伊藤ハムレーシング・カワサキ
カワサキ・ZXR-7
12078:01'13"713
1994アメリカ合衆国の旗 ダグ・ポーレン
ニュージーランドの旗 アーロン・スライト
チームHRC
ホンダ・RVF/RC45
111836:52'49"056
1995ニュージーランドの旗 アーロン・スライト
日本の旗 岡田忠之
チームHRC
(ホンダ・RVF/RC45)
112128:00'00"468
1996アメリカ合衆国の旗 コーリン・エドワーズ
日本の旗 芳賀紀行
ヤマハ・レーシングチーム
ヤマハ・YZF750SP
452148:02'06"411
1997日本の旗 伊藤真一
日本の旗 宇川徹
ホリプロ・ホンダ with HART
(ホンダ・RVF/RC45)
331868:02'03"722
1998日本の旗 伊藤真一
日本の旗 宇川徹
ラッキーストライク・ホンダ
(ホンダ・RVF/RC45)
332128:01'54"740
1999日本の旗 岡田忠之
ブラジルの旗 アレックス・バロス
ラッキーストライク・ホンダ
(ホンダ・RVF/RC45)
42138:01'59"918
2000日本の旗 宇川徹
日本の旗 加藤大治郎
チーム・キャビン・ホンダ
ホンダ・VTR1000SPW
42158:00'31"775
2001イタリアの旗 バレンティーノ・ロッシ
アメリカ合衆国の旗 コーリン・エドワーズ
日本の旗
チーム・キャビン・ホンダ
(ホンダ・VTR1000SPW)
112178:01'30"173
2002日本の旗 加藤大治郎
アメリカ合衆国の旗 コーリン・エドワーズ
チーム・キャビン・ホンダ
(ホンダ・VTR1000SPW)
112198:02'04"992
2003日本の旗 生見友希雄
日本の旗
チーム・桜井ホンダ
(ホンダ・VTR1000SPW)
712128:00'38"909
2004日本の旗 宇川徹
日本の旗 井筒仁康
セブンスター・ホンダ
ホンダ・CBR1000RRW
72108:01'35"115
2005日本の旗 清成龍一
日本の旗 宇川徹
セブンスター・ホンダ

ホンダ・CBR1000RRW

72048:01'22"351
2006日本の旗 辻村猛
日本の旗 伊藤真一
F.C.C. TSR ZIP-FM Racing Team
(ホンダ・CBR1000RR)
7782148:02'07"624
2007日本の旗 加賀山就臣
日本の旗 秋吉耕佑
ヨシムラ・スズキ with JOMO
スズキ・GSX-R1000
342168:01'35"077
2008日本の旗 清成龍一
スペインの旗 カルロス・チェカ
Dream Honda Racing Team 11
(ホンダ・CBR1000RRW)
112148:00'20"726
2009日本の旗 酒井大作
日本の旗
日本の旗 青木宣篤
ヨシムラ・スズキ with JOMO
(スズキ・GSX-R1000)
121838:01'59"916
2010日本の旗 清成龍一
日本の旗 中上貴晶
日本の旗 高橋巧
MuSASHi RT HARC-PRO.
ホンダ・CBR1000RRK
6342158:01'13.428
2011日本の旗 秋吉耕佑
日本の旗 伊藤真一
日本の旗 清成龍一
F.C.C. TSR Honda

(ホンダ・CBR1000RRW)

112178:00'50.922
2012日本の旗 秋吉耕佑
イギリスの旗 ジョナサン・レイ
日本の旗 岡田忠之
F.C.C. TSR Honda

(ホンダ・CBR1000RRW)

112158:01'35.450
2013日本の旗 高橋巧
イギリスの旗 レオン・ハスラム
オランダの旗
MuSASHi RT HARC-PRO.
(ホンダ・CBR1000RRW)
6342148:00'01.280
2014日本の旗 高橋巧
イギリスの旗 レオン・ハスラム
オランダの旗 マイケル・ファン・デル・マーク
MuSASHi RT HARC-PRO.
(ホンダ・CBR1000RRW)
6341726:56'13.056
2015日本の旗 中須賀克行
スペインの旗 ポル・エスパルガロ
イギリスの旗 ブラッドリー・スミス
YAMAHA FACTORY RACING TEAM
ヤマハ・YZF-R1
212048:00'29.708
2016日本の旗 中須賀克行
スペインの旗 ポル・エスパルガロ
イギリスの旗 アレックス・ロウズ
YAMAHA FACTORY RACING TEAM
(ヤマハ・YZF-R1)
212188:00'40.124
2017日本の旗 中須賀克行
イギリスの旗 アレックス・ロウズ
オランダの旗 マイケル・ファン・デル・マーク
YAMAHA FACTORY RACING TEAM
(ヤマハ・YZF-R1)
212168:00'32.959
2018日本の旗 中須賀克行
イギリスの旗 アレックス・ロウズ
オランダの旗 マイケル・ファン・デル・マーク
YAMAHA FACTORY RACING TEAM
(ヤマハ・YZF-R1)
211998:00'01.728
2019イギリスの旗 ジョナサン・レイ
イギリスの旗 レオン・ハスラム
トルコの旗 トプラク・ラズガットリオーグル
Kawasaki Racing Team Suzuka 8H
カワサキ・ニンジャZX-10R
102167:55'36.613
2020新型コロナウイルス感染症の影響で中止
2021
2022日本の旗 高橋巧
日本の旗 長島哲太
スペインの旗 イケル・レクオナ
Team HRC
(ホンダ・CBR1000RR-R SP)
332148:02'09.131

優勝回数の記録

ポールポジションの記録

  • 7回 - 伊藤真一(98, 99, 03 - 06, 08)
  • 5回 - ワイン・ガードナー(81, 84, 86, 87, 89)
  • 4回 - 中須賀克行(12, 13, 17, 19)
  • 3回 - グレーム・クロスビー(79, 80, 83)、マイケル・ドゥーハン(90, 91, 93)
  • 2回 - ポル・エスパルガロ(15, 16)
  • 1回 - (78)、ピエール・E・サミン(82)、ケニー・ロバーツ(85)、ウェイン・レイニー(88)、武石伸也(92)、スコット・ラッセル(94)、(95)、アーロン・スライト(96)、加藤大治郎(97)、芳賀紀行(00)、梁明(01)、アレックス・バロス(02)、カルロス・チェカ(07)、秋吉耕佑(09)、酒井大作(10)、加賀山就臣(11)、津田拓也(14)、ジョナサン・レイ(18)、長島哲太(22)

レギュレーションの変遷

  • 1980年 - 1983年 TT-F1(4ストローク1,000cc以下)
  • 1984年 - 1993年 TT-F1(4ストローク750cc以下、2ストローク 500cc以下)
  • 1994年 - 2003年 スーパーバイク(4ストローク4気筒750cc以下、3気筒900cc以下、2気筒1,000cc以下)
  • 2004年 - 2006年 スーパーバイク(2006年はワークスのみJSB・4ストローク1,000cc以下)、スーパープロダクション、スーパーストック
  • 2007年 スーパーバイク・JSB1000(8耐のみ参戦の国内チームのみJSB・4ストローク1,000cc以下)、スーパープロダクション、スーパーストック
  • 2008年 Formula EWC(4ストローク 4気筒1,000cc以下 2気筒1,200cc以下)およびスーパーストック

主な出来事

  • 1982年 台風の接近でレースを6時間に短縮して開催。6時間後に振られたのは、チェッカーフラッグではなく赤旗であった。
  • 1989年 126周目周回遅れのマシンを抜き損なったマイケル・ドゥーハンが周回遅れと接触し転倒。ドゥーハンは左手薬指と小指を切断するケガをしてリタイアとなる。
  • 1989年 8時間経過後、全車に対してチェッカーフラッグが振られる前に観客がコースへ乱入し、赤旗が提示されてしまった。このためレース結果は1ラップ前でのコントロールライン通過順位となり、3位と4位の順位が入れ替わってしまい、最終ラップにヤマハのピーター・ゴダード/組を抜いたはずのカワサキの/組が涙を呑む。また、優勝のサロン/ビエラ組も203周回しながらも記録は202周回となった。その後、「全てのライダーにチェッカーを」を合言葉にマナーアップキャンペーンが始まった。
  • 1993年 トップを快走していたエディ・ローソンがオイルにのってコースアウト転倒、かわりにトップに立ったドゥーハン/ビーティ組のドゥーハンも独走中にオイルにのって転倒。いずれもオイル旗の処理がなかった。
  • 1994年 スタートから30分後に周回遅れの1台のマシンがオイルを吹き転倒して炎上。そこへトップグループが差しかかり、オイルに乗って数台が転倒し炎上する炎の中に突っ込んだ。このため赤旗中断となり、史上初の2ヒートレースとなる。優勝候補の一角、辻本聡/加藤大治郎組は不運にもマシンが炎上し、さらにスペアマシンがなかったためリタイヤを余儀なくされた。また、岡田忠之/宇川徹組は転倒した宇川が負傷したため第3ライダーので再スタートした。中断によりレース進行が遅れたため、観客の帰りの交通手段の確保を優先し、19時30分に赤旗が振られレース終了となった。
  • 1995年 この年のレーススタートから当時のレース実況アナウンサーのが観客に呼びかけて10秒前からの全員でのカウントダウンが始まった。それ以前からもアナウンサーがカウントダウンをしたり観客が自発的に手拍子を取ることはあったが、サーキット観客が一体となって行われたのはこの年が最初であった。このカウントダウンはライダーのフライング防止にも一定の効果があった。また同時に8時間の経過の10秒前からのカウントダウンもこの年から行われ、カウント0とともにアーロン・スライトが前人未到となる鈴鹿8耐3連覇のチェッカーフラッグを受け、10秒前カウントダウンは鈴鹿8耐の定番として定着していった。
  • 1997年 この年は台風がレースウィーク中に直撃し、スペシャルステージが中止。そのため、金曜日に行われた計時予選の記録でグリッドが決定された。
  • 2000年 決勝レース中の12時46分にが130Rで転倒。病院収容後に死亡。享年47。鈴鹿8耐史上初の死亡事故となった。
  • 2002年 最長周回数レコードである219周の記録が樹立された。マシンはいずれもホンダ・VTR1000 SPW加藤大治郎コーリン・エドワーズ組、玉田誠岡田忠之組、アレックス・バロス武田雄一組が記録
  • 2003年 決勝レースのスタート直後、オーヴァーレーシングのマシンがオイルを吹きながら最後尾を走行し、2周目の1コーナーでこのオイルにトップ集団の数台が乗ってクラッシュしペースカーが入る。その際、渡辺篤や岡田忠之やニッキー・ヘイデンが回収車に乗ってピットに戻ってきたために失格となる。オフィシャルとしては当然の裁定であったが、失格したにもかかわらずそれを無視して岡田が数周にわたり抗議の走行をした。ちなみに岡田が優勝した1995年のレースでは、1コーナーでクラッシュした加賀山と田村がオフィシャル判断にて回収車でピットロードまで運ばれているが、この際には「東コースショートカット」の扱いで当該周回抹消+1周減算で済んでいる。
    • その後、トラブルが起こり回収車を使用した場合でも失格とはならなくなった。当該周回がキャンセル扱いにはなるが、これを使用した事によるペナルティは設けられていない。
  • 2007年 過去にホンダ系チームで監督を務めた俳優の岩城滉一が大会の名誉顧問に就任している。ポールポジションの岡田忠之が8耐史上初のフライングペナルティをとられた。
  • 2011年 東日本大震災を原因とする電力供給不足を考慮し、この年のみスタート時間を例年より1時間繰り上げて10時30分とした。これに伴ってゴール時間も18時30分となり、夜間走行時間はなくなった。
  • 2014年 決勝スタート直前に西コースで降雨があり史上初のスタートディレイとなった。これによりスタート時間が12時35分となるが、ゴール時間は従来通り19時30分となった為6時間55分のレースとなった。またレース中4度のセーフティーカーランが発生した。またこの年から車両番号の発光デバイスに蓄光式がNGとなり電気による自光式のみ認められるようになり、夜間走行時の車両番号の識別がしやすくなった。自光式であれば光源や表示方式は問われないが、重量や消費電力の兼ね合いで光源はLEDや有機ELが主流である。
  • 2016年 この年からレギュレーション変更により車両のライト常時点灯となる。ただし以前からの恒例であるオフィシャルからのライトオンサインは継続して実施されており車両番号の発光の合図と意味合いが異なるようになった。レースはセーフティーカーランが1度も発生せず、優勝したYAMAHA FACTORY RACING TEAMと2位のTeam GREENは現行のコースレイアウトとしては最多の218周回を記録した。また、ホンダ勢はトップチームが低迷し、1988年以来27年ぶりに表彰台を逃す事態となった。
  • 2018年 土曜日のTOP10トライアル(公式予選上位10チームより1台ずつのタイムアタック)が台風12号の影響により40分間・10台同時の計時予選に変更となった。レースはYAMAHA FACTORY RACING TEAMと同チームの中須賀克行が4連覇を達成し、共に連勝記録を更新した。但し、中須賀はこの年のみ予選で転倒した影響で決勝レースに出走していない。
  • 2019年も台風6号の影響でTOP10トライアルは中止となった。レースは終了2分前にトップを走行していたKawasaki Racing Teamが最終ラップで転倒。直後に赤旗中断となり終了した。EWC規定によりKawasaki Racing Teamは未完走、2位を走行していたYAMAHA FACTORY RACING TEAMが優勝と発表され、この順位で表彰式を実施した[5]。しかし後に規定の運用を巡る抗議が認められ、赤旗が提示された1周前の順位が適用されることになり、一転してKawasaki Racing Teamが優勝という結果となった[6]
  • 2020年の第43回は当初、2020年東京オリンピックの開催期日を考慮し例年の7月最終週開催から変更し、2020年7月19日が決勝日となる予定だった[1]が、新型コロナウイルス感染症の拡大防止対策の一環で10月30日から11月1日に順延[7]。しかし、『海外からの渡航に関する規制解除の見通しが立っておらず海外チームの入国が難しい』として、8月12日に大会の中止が発表された[8]
  • 2021年も延期された東京五輪の開催日程を考慮したスケジュールだったが、3月17日に国内外の感染状況や渡航規制の見通しなどを受け「鈴鹿8時間耐久ロードレース」の延期と「全日本ロードレース選手権シリーズ MFJグランプリ」の開催日を変更。7月15日~18日に開催予定だった鈴鹿8耐が11月5日~7日に、当初11月6日・7日に予定していたMFJグランプリは7月17日・18日に開催される[9]。しかし、2020年同様8月19日に大会の中止が発表された[10]
  • 3年越しで「第43回大会」が開催された2022年、ビザ申請の問題で入国できなかった選手やチーム体制が整わず出場辞退したチームもあり、45台の参加にとどまった[11]。また、フリー走行や予選と悪天候が重なったため転倒したり108%ルールを突破できないライダーが続出。特別措置として108%ルールは適用除外となり、TOP10トライアルも40分間・10台同時の計時予選となった。原因は発表されていないがF.C.C. TSR Honda Franceのが予選前のフリー走行中、シケインで転倒しドクターヘリで緊急搬送される事態となっている[12]。レースは予選でも唯一の2分04秒台を記録したTeam HRCが全車を周回遅れにする圧勝。Hondaとして8年ぶり28回目の優勝を飾った[13]。なお、ジーノ・リアは事故から1か月後の2022年9月5日、搬送された三重県立総合医療センターを退院。今後は母国でリハビリを続ける[14]

テレビ・インターネットによる中継

記録映像

  • 1985年にホンダランド(後の鈴鹿サーキット)と飛鳥映像により公式記録ビデオが制作される。

生中継

  • 1986年にはホンダランドと飛鳥映像による初の同時衛星中継が行われ、多摩テックホンダ青山本社に送られた。また、1985年と1986年の模様を一つにまとめたレーザーディスクが発売された。
  • 1989年からしばらくの間NHK-BSによる完全生中継が行われた。しかし、スポンサー名を放送しないなどの自主規制を行って放送した。また、1992年と1994年は中盤の4時間が野球中継に切り替わる、1996年はアトランタオリンピックのため生中継が行われないなど完全放送とは言いがたい内容であった。
    • 1989年 - 1997年までNHKによるハイライトが8月下旬に放送されるようになった。その一部がレーザーディスク(1990年、1991年はBGM変更版)やビデオで販売された。
  • NHK-BS、スカイスポーツ(CS放送、後のJ SPORTS)を経て、1996年からはTBSが放送権を取得、2002年にはTBS系BSデジタル局BS-iで8時間完全生中継を行った[要出典]
  • 2002年からは鈴鹿サーキットがIT企業などの協力を得て、独自のストリーミングによるインターネットライブ動画配信が行われたこともあり、2005年はYahoo! Japanがインターネットライブ中継を実施。なお、2006年のライブ中継では、CS・ネット共にサーキット内での実況音声が使われていた。
  • 2003年からはペイ・パー・ビュー(PPV)番組として、パーフェクト・チョイスにて事前番組及び8時間完全生中継を実施。また、鈴鹿サーキットの公式パートナー局であるテレビ大阪制作のダイジェスト番組がテレビ東京系列で放送されていた。
  • 2013年から2018年の間は、BS12 トゥエルビで中継放送(CBCテレビ制作協力)を実施した。2013年は13時からの遅れ録画放送だったが、2014年からは完全生中継による放送を実施しており、トゥエルビでは数少ない自社制作の生放送番組となっていた。
    • 2017年以降は2音声体制を実施。主音声ではサーキットの場内実況、副音声ではトゥエルビ独自実況となっており、副音声では八代俊二、高橋名人といったゲストを招き、鈴鹿8耐の魅力やTwitterによる質問を募集していた。CM前とCM明けのそれぞれ数秒間は全てトゥエルビ独自音声に統一し、CM明けでは懸賞品の応募電話番号などを通知していた。
    • レース数週間前から番宣が放送される他、2015年は土曜日夜に1時間の特番を放送した。
  • 2015年・2016年に鈴鹿サーキット公式Ustreamで、4耐を含む全セッションのインターネット中継(8耐決勝を除く)を、2017年の公式Facebookでの配信では特別スポーツ走行・8耐決勝のタイミングモニター配信を含む全セッションのインターネット中継を行った。またニコニコ生放送が公式生放送(2013年分以降トゥエルビ協力)で、2012年のフリー走行・予選・4耐の予選決勝の生中継、2013年・2014年の録画中継(2015年開催時)、2005年 - 2015年のダイジェスト放映(2016年開催時)、2015年・2016年の全セッションの生中継(8耐決勝を除く)を行った。
  • 2018年は、鈴鹿8耐と、併催される鈴鹿4時間耐久ロードレースにアジア圏からのエントリーが増加していることを受けて、Facebookを通じた日本国外へのライブ配信を実施。鈴鹿8耐は英語とタイ語、鈴鹿4耐はタイ語での実況配信が行われる[15]
  • 日本テレビは、鈴鹿8耐を含めたFIM世界耐久選手権の2018 - 2019年、2019 - 2020年の2シーズンの放映権を取得[16]。鈴鹿8耐についてはBS日テレ[17]Huluでのライブ中継を、他のレースはBS日テレ・日テレジータスでのハイライト放送を予定している(ただし2019年5月に行われたル・マン24時間は、ゴール前後を含め日テレジータスにて25時間半連続生中継した)。先行して2018年は8耐ハイライトと併せて2017 - 2018年シーズンハイライトが放送された。2021年は、BS日テレでのハイライト放送のみ継続されている。
  • 2021年は、EWCの放映権をJ SPORTSが取得したと発表。なお発表時点では「全5戦のハイライト番組を放送・配信。一部生中継・LIVE配信予定」としており鈴鹿8耐の中継に関しては明言されていない(前述の通り後に鈴鹿8耐の開催は中止となった)[18]
  • 2022年は同年に開局したBS松竹東急が鈴鹿8耐の放映権を取得し、同年8月7日に9時間完全生中継することを同年7月に発表した[19]

番組内での企画・放送

  • 1985年 - 1999年は、自動車情報番組『MOTORLAND』(テレビ東京系列)でダイジェスト版が放送されていた。
  • Do!スポーツ』(テレビ東京系列)では1983年より毎年8耐の特集企画を放送。番組内でモリワキエンジニアリングの全面協力を得て参戦チームを組織し、4耐・8耐に参戦もした。
  • CLUB紳助』(朝日放送)で、毎年8月の番組終了後に島田紳助率いるチーム・シンスケの参戦ドキュメントが放送された(1988年 - 1995年)。また紳助は、当時レギュラー出演していた日曜日朝の生番組『サンデープロジェクト』(テレビ朝日系列)を休んで参戦していたが、同番組が毎回チーム紳助の様子を番組の冒頭とエンディング時に中継で結んでいた。
  • 1986年 - 1988年はTBSテレビで関連番組が放送された。
  • 2009年より、CBCテレビがレース数週間後に「鈴鹿8耐 ドキュメント」として30分のドキュメント番組を放送している。

鈴鹿8耐が登場する作品

文学・漫画

  • ふたり鷹』(新谷かおる週刊少年サンデー、1981年 - 1985年) - バイク漫画で初めて耐久レースを主題に取り上げた作品。本作では鈴鹿8耐を舞台にした物語が物語中盤と後半に2回描かれている。
  • 『冬のひまわり』(五木寛之、1985年) - 1984年の8耐を舞台とした禁じられた恋愛物語。グランドスタンドの1コーナー寄りには遠野麻子と森谷透の出会いの場所として五木の歌碑のプレートがあったが、スタンドの改修工事中に紛失された[20]
  • 風よ、鈴鹿へ』(島田紳助、1988年) - 1986年に初参戦したチーム・シンスケの挑戦を題材にした小説。
  • D-LIVE!!』(皆川亮二週刊少年サンデー、2002年 - 2006年) - 主人公のスーパーマルチドライバー・斑鳩悟が、メカニック・清水初音の依頼で、怪我をした8耐ライダーの代わりに出場する。(第5巻 Episode 17「オン・ザ・ロード」)

映画・テレビドラマ

  • パッセンジャー 過ぎ去りし日々』(1987年) - 劇中の本田美奈子(主演)のコンサートシーンは、1987年の8耐前夜祭で撮影された。
  • 『風よ、鈴鹿へ』(TBS、1988年) - 同名の上記小説を原作としたテレビドラマ。
  • ガチンコ! 』(TBS、2001年) - 素人を数カ月の特訓で鈴鹿8耐に参戦させる企画「バリバリ伝説」を放送。
  • 紳助社長のプロデュース大作戦! 』(TBS、2011年)- 一度は引退したライダー・中木亮輔の依頼に応える形で、『がんばろう日本』をスローガンに16年ぶりにチーム・シンスケを復活させた。

ゲーム

  • 『コカコーラ スズカエイトアワーズ』(ナムコ…後のバンダイナムコゲームス、1992年) - 業務用体感ゲーム機。最大4人まで同時プレイ可能でセンターモニターで中継さながらのレースの模様が流れる。8耐冠スポンサーの「コカコーラ」とタイアップしている。
  • 『スズカエイトアワーズ2』(ナムコ…後のバンダイナムコゲームス、1993年) - 全4コースが選択可能となった続編。
  • 『スズカエイトアワーズ』(ナムコ…後のバンダイナムコゲームス、1993年) - スーパーファミコンへの移植作品。

音楽

鈴鹿8耐のテーマソングとして白井が作詞・作曲した楽曲である。決勝レースの前夜祭として、白井貴子&CRAZYBOYSが鈴鹿サーキット内の特設野外ステージでライブ『NEXT GATE LIVE』を敢行、大成功を収める。レースの前夜祭に野外ライブが行われるのは鈴鹿サーキット史上初めてである。このライブの大成功がきっかけとなり、以後の鈴鹿8耐では、毎年必ずミュージシャンによる前夜祭ライブが行われることとなった。
  • 「風の旅人」 作詞:五木寛之、作曲:海つばめ(山崎ハコ
  • 「boys on the road」/中村あゆみ 作詞:中村あゆみ/作曲:古村敏比古
  • 「少年の瞳」/中村あゆみ 作詞・作曲:中村あゆみ
  • 風よ、鈴鹿へ」 作詞:島田紳助/作曲:高原兄 - 同名の上記テレビドラマの主題歌として制作された曲。実際の8耐でも、表彰式終了後に場内に流されるのが恒例となっている。
  • 「風がうねる日」 作詞・作曲:BORO
  • 「8耐」 作詞・作曲:左嵜啓史
  • 「明日へのONE MORE TRY」 作詞:松比良直樹/作曲・ルーディミッドナイトランナーズ
  • 「Lock ON SUMMER」(2003年八耐イメージソング)/ソルティータ
  • 「サーキット音頭」作詞 高原兄
  • 「rush 〜その先の何か」/エリアンナ
  • RIDE ON」/J-WALK

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 2019-2020 FIM世界耐久選手権最終戦 ”コカ・コーラ”鈴鹿8時間耐久ロードレース第43回大会 開催日決定のご案内 (PDF) 株式会社モビリティランド(2019年7月18日)
  2. ^ 【鈴鹿8耐】2017年はFIM 世界耐久選手権シリーズ最終戦に、その理由とは”. Response (2016年3月30日). 2016年3月31日閲覧。
  3. ^ フランス西部自動車クラブ(ACO)・株式会社モビリティランド ル・マン&鈴鹿サーキットに関する友好協定 締結について(PDFファイル 719KB)”. モビリティランド (2019年2月23日). 2019年2月24日閲覧。
  4. ^ 鈴鹿サーキットモータースポーツライブラリー”. 鈴鹿サーキット. 2016年3月9日閲覧。
  5. ^ 鈴鹿8耐:トップ快走のカワサキが残り2分で悲劇。ヤマハが暫定優勝オートスポーツweb. 2019年7月28日閲覧
  6. ^ 2019 "コカ·コーラ" 鈴鹿8耐 レース結果に関するご案内鈴鹿サーキット. 2019年7月29日閲覧
  7. ^ 辻野ヒロシ (2020年4月27日). “鈴鹿8耐が仰天の秋開催 11月1日決勝に延期”. 2020年7月26日閲覧。
  8. ^ “"コカ・コーラ" 鈴鹿8時間耐久ロードレース第43回大会の開催中止について” (プレスリリース), 株式会社モビリティランド, (2020年8月12日), https://www.mobilityland.co.jp/pressroom/suzuka/2020/08/0812_8tai.pdf 2020年8月12日閲覧。 
  9. ^ 「2021 FIM世界耐久選手権 “コカ・コーラ”鈴鹿8時間耐久ロードレース 第43回大会」の延期および「2021 MFJ全日本ロードレース選手権シリーズ最終戦 第53回 MFJグランプリ」の開催日程変更について株式会社モビリティランド・鈴鹿サーキット(2021年3月17日)
  10. ^ 「"コカ・コーラ" 鈴鹿8時間耐久ロードレース第43回大会」の開催中止について株式会社モビリティランド・鈴鹿サーキット(2021年3月17日)
  11. ^ 2022鈴鹿8耐:MOTO AIN、Wojcik Racing Teamが辞退で45チームに。海外チーム、外国人ライダーが参戦しづらい背景autosport web 2022年8月12日閲覧
  12. ^ F.C.C. TSR Honda France 2022鈴鹿8耐 【ジーノ・リア選手の容態について】TSR(Technical Sports Racing)公式サイト 2022年8月12日閲覧
  13. ^ 「Team HRC」が鈴鹿8時間耐久ロードレース 第43回大会で優勝Honda.Racing 2022年8月12日閲覧
  14. ^ 【ジーノ・リア選手の最新情報について】TSR(Technical Sports Racing)公式サイト 2022年9月5日閲覧
  15. ^ 鈴鹿サーキット、『“コカ・コーラ”鈴鹿8耐』第41回大会の各種チケットを4月28日に発売 オートスポーツweb・2018年3月9日・同日閲覧
  16. ^ 鈴鹿8耐をシリーズに組み込むEWCの放映権を日本テレビが獲得。2020年までの配信/放送が決定 - autosport web
  17. ^ 但し、2019年シーズン(7月28日)は一部時間帯でプロ野球中継『Fun!BASEBALL!! 巨人×阪神』を放送するため、該当時間帯はサブチャンネル(142ch)にて放送した。
  18. ^ モータースポーツ2021シーズン放送/配信ラインアップ決定!今シーズンもSUPER GTをはじめとした国内外の注目レースを徹底放送/配信!!~新たに「FIM世界耐久ロードレース選手権」、「エクストリームE」を追加~ J SPORTS・2021年3月24日・同日閲覧
  19. ^ 国内最大級のバイクの祭典「鈴鹿8耐」が3年ぶりに帰ってくる!! 8月7日(日)9時間完全生中継!!”. BS松竹東急 (2022年7月11日). 2022年7月12日閲覧。
  20. ^ 中日スポーツF1特別号17面、2016年10月

 

外部リンク

マン島TTレース

マン島TTレース(マンとうティーティーレース、英:The Isle of Man TT )は、1907年からイギリス王室属国のマン島 (Isle of Man) で開催されているオートバイ競技である。TTはTourist Trophyツーリスト・トロフィー)の略称。

競技は世界最古の議会で『青空議会』としても知られるマン島議会ティンワルドが制定した公道閉鎖令に基づき公道を閉鎖して行なわれる。2020年現在で240人以上の参加者が死亡しており、世界で最も危険な競技とも言われている。

概要

Tourist Trophy(ツーリスト・トロフィー)という賞杯が最初に懸けられのは、1905年9月14日にマン島で開催された自動車レース (1905 International Tourist Trophyからであった[1]。この王立自動車クラブ (RAC) 後援による英語版はモータースポーツ界で現存する最古のタイトルとして現在も続いている[注釈 1]。一方、1905年5月31日に同じマン島で開催されたモーターサイクルの英国代表選抜レースが、1907年よりマン島TTレースとして例年開催されるようになり[2]、TTレースといえばこちらを指すような名物イベントに成長していった。

ツーリストとは旅行者ではなく「遠征するスポーツ選手」という意味で、マン島TTレースの場合はライダーのことを指す。レースの形態が現在のようなサーキット(周回コース)を使用して行われるようになるまで、ヨーロッパの都市と都市を結ぶ公道を使用して行う都市間長距離移動レースという形態であったことに由来しており[3]、自転車競技のステージレースで「ツアー(フランス語では「ツール」)」という語が用いられるのと同様である。

開始当初はツーリング・マシンと呼ばれる市販車と同じオートバイのために開催されており[4]、市販車の改良を目的としていた。やがて、レースに出場するオートバイは年々スポーツタイプと進化していった[5]

伝統的に5月最終週から6月第1週にかけて開催され、コースは島の南東部にある首都ダグラスを始点として、西へ北へと大きく曲がりながら、北東海岸部の町まで往復する。1周の長さは37 3/4マイル(60.7km)で、200以上のカーブが存在し、海抜0ftから1,300ft(396m)を超える高低差がある。コースは普段一般道として日常生活や観光のために使われており、レーサー達が通行する際は一般車両を規制する。参加車両の最高速度は300km/h以上であり、平均速度は200km/hを超え、1周を20分弱で走破してしまう。

サーキットのように完全に整備された舗装路ではないごく普通の一般道のため、わずかな段差で十数メートルをジャンプする事もあれば、トップスピードで前後サスペンションが激しく動いて振動を吸収している姿も見られる。超高速コーナーでのパワースライドウィリー走行、市街地部分やヘアピンコーナーでのオーバーテイクもごく当たり前に行われており、それを目当てにして観覧禁止区域に侵入してしまうギャラリーも多い。公道のためエスケープゾーンがほとんど存在せず、事故の際のライダーは「運が良ければ生還」という例が大半であり、基本的には死亡事故である。参加者は過度なアドレナリン分泌により、レース中は一切の恐怖を感じないという。完走後は緊張の糸がほぐれた影響により、へたり込んだり泣き出してしまうライダーも多い。

授与されるトロフィーは創設者の一人であるマルキ・ド・モウジリ・サン・マルス(the Marquis de Mouzilly St. Mars )が寄贈したもので、その銀のフィギュアはオリンピックの神ヘルメースが羽の生えている車輪にまたがっているものである。このトロフィーは、マン島・ツーリスト・トロフィー・自動車レースの勝者に授与されるモンタギュー・トロフィーに似ている。順位以外でも、完走したライダーには最大級の栄誉が与えられる。

近年、初参加選手にはマンクス・グランプリでの実績と経験が求められる[6]

はじまり

マン島のレースは1904年ゴードン・ベネット・カップの出場者を選抜するトライアルとして始まり、当初は自動車のみのレースだった。1903年に英国にて自動車法が施行されて20mphの速度制限が実施された。英国・アイルランド・自動車クラブ(後の王立自動車クラブ)の代表は、マン島上層部に接触して公道での自動車レースの許可を要請し、1904年の公道(軽蒸気機関)法でマン島52.15マイルの"ハイランド(高地)"コースの使用が許可された。

1905年のゴードン・ベネット・カー・トライアルで、国際モーターサイクルカップレースに出場する英国代表チームを選出するためのトライアル競技を開催することが決定した。険しい山岳セクションの登坂がモーターサイクルには難しく、ラムゼイ・ヘアピンでは事故も起きたことから、競技委員は最終的にゴードン・ベネット・トライアルコース中の25マイルセクションをコースとして設定した。マン島の首都、ダグラス市の南部からキャッスルタウンを抜けて北上し、A3道路でバラクレイン方面に向かう途中で折り返し、コルビーとグレン・バインを経由してスタート地点のダグラスに戻るという、現在のルートを逆にたどる設定だった。このレースではJ.S.キャンベルが4時間9分36秒で優勝している。

1906年、国際モーターサイクルカップがオーストリアで開催されたが、このレースでは不正行為や策略が横行して混迷した。列車で帰還する際にオート=サイクル・クラブの代表とフレディ・ストレート、コリエル兄弟(マチレス・モーターサイクル)、マルキ・ド・モウジリ・サン・マルスといった面々が話し合った結果、翌年のレースは公道用のモーターサイクルを使い、マン島での公道閉鎖コースでの自動車競技をベースに行なうことが決まった。この新式競技方法は1907年1月17日にロンドンで開催されたオート=サイクル・クラブの年次夕食会で雑誌『モーターサイクル』の編集者から提案された。競技は単気筒で平均燃費が90mpgのクラスと2気筒で平均燃費75mpgとの2クラスにわけて行われた。公道仕様車両のレギュレーション(規定)としてサドル、ペダル、マッドガード、排気サイレンサーに対して指定がなされた。

1907年5月28日に第1回競技が開催され、15マイル1,470ヤードのセント・ジョン・ショート・コースをサドル、ペダル、マッドガード(泥よけ)などを装備して公道での保安基準を満たしたツーリング用モーターサイクルで10周した。マチレスに乗ったが4時間8分8秒/平均時速38.21mph(約61km/h)で単気筒クラスと総合クラスで優勝。2気筒クラスはプジョーエンジンを載せたノートンでが4時間21分52秒/平均時速36.21mphでの優勝だった。『マルキ・ド・モウジリ・サン・マルス』トロフィーはこの年から授与されるようになった。

1908年には燃費が単気筒は100mpg、2気筒は80mpgに上げられ、ペダルの使用は禁止された。ジャック・マーシャルがトライアンフで優勝し、平均時速は40.49mphだった。1909年は燃費規定が改正されて排気サイレンサーの使用が廃止された。単気筒マシンは500ccまでと規定され、2気筒マシンは750ccまでとされた。周回速度の高速化に伴い、1910年から2気筒マシンは670ccまでとされた。

マウンテン・コース時代

新コースとして設定された37.5マイルのスネーフェル・マウンテン・コース(Snaefell mountain course)での第1回目は1911年に行なわれた。ジュニアTTレースとセニアTTレースの2つに分離され、ジュニアTTレースは300ccの単気筒または340ccの2気筒で4周し、セニアTTレースは500ccの単気筒または585ccの2気筒でを5周した。この年、ジュニアTTレースで35台がエントリーし、ハンバーに乗ったパーシー・J・エバンズが3時間37分7秒/平均時速41.45mphで優勝した。

マウンテン・コースでは乗員と車両の双方に技術的な挑戦が求められた。インディアンは2速ギアボックスとチェーン駆動を採用し、1911年マン島セニアTTでオリバー・ゴドフレイが3時間56分10秒/平均時速47.63mphで優勝した。これに対して、マチレスは6速ベルト駆動で、チャーリー・コリエルが乗り2位となったが、レース後、規定外の給油により失格している。1911年の予選中にビクター・サリッジがに乗りグレン・ヘレンでクラッシュを起こし亡くなっている。

1912年には、単気筒と2気筒の別なく350ccまでがジュニアTTレースとなり、500ccクラスがセニアTTレースとなった。1913年、オートサイクル・クラブの代表がトミー・ラフボローからフレディ・ストレートになり、すぐにレースがより難しく変更された。ジュニアTTレースは2つのレースに分離され、2周と4周になった。セニアTTレースは7周で、ジュニアTTレースの4周組と一緒にスタートした。1914年、ジュニアTTは5周となり、スタート地点もブレイ・ヒルに移動した。これにより競技者のパドックスペースが広く取れるようになった。クラッシュに備えてヘルメット着用が義務付けられた。1914年、ジュニアTTは豪雨の中で開催され、マウンテンコースは霧が発生していた。AJSに乗ったエリック・ウィリアムズが4時間6分50秒/平均時速45.58mphで優勝した。この年、に乗ったフランク・ウォーカーが事故で亡くなっている。

1920年代-1930年代

マン島でのモーターサイクルレースは第一次世界大戦終了後、1920年に再開した。スネーフェル・マウンテン・コースに変更が加えられ、スタートとゴールはグレンクラチェリーロードに置かれた。コース長は37.75マイルとなった。ジュニアTTレースでは250cc軽量クラスも新設された。1923年のコース変更で議会広場からラムゼイのメイヒルにかけての私道が含まれて、コース長は37.73マイルとなった。スネーフェル・マウンテン・コース の一部は、Creg-na-BaaとHillberryの途中でクラッシュし足の骨を折ったライダー、ウォルター・ブランディシュにちなみ、ブランディシュと名づけられた。

1923年のセニアTTレースは悪天候と地元出身の地の利でがダグラスに乗り2度目の優勝を果たしている。1923年ジュニアTTレースはがコットンに乗って優勝した。サイドカーレースの第1回も同時に行なわれ、TTコースを3周した。優勝は運転と同乗ウォルター・ペリーの組で、特注のダグラス製で2時間7分4秒/平均時速53.15mphだった。1924年、175ccの超軽量TTレースも行なわれるようになった。これはタイムトライアル形式の2組毎のスタートである他のレースと異なり、競技者全員が一斉スタートした。初回優勝者はに乗ったジョック・ポーターで平均時速51.20mphだった。1924年のジュニアTTレースではケン・テムローがに乗り優勝し、平均時速は55.67mphだった。同じレースで、がAJSで35分5秒/64.54mphの新周回記録を出した。これは初めて平均時速が60mphを超えた記録であった。軽量TTおよびセニアTTレースではケン・テムローの兄弟、エディ・テムローがニュー・インペリアルで優勝し、6周を4時間5分3秒/55.44mphで走行した。セニアTTレースもジュニアと同様に記録を更新し、がノートンで6周を3時間40分24.6秒/61.64mphで60mph台を達成した。

1926年はサイドカーと超軽量にエントリーが無かったため廃止となった。スネーフェル・マウンテン・セクションを含め、ほとんどのTTコースは舗装された。1926年の変更はアルコールベースの燃料が禁止され、車両用ガソリンの使用が求められた。1927年には予選中にアーチー・バーキン(ティム・バーキンの兄弟)が事故を起こしたカーク・マイケルのコーナーがバーキンズ・ベンドと命名され、1928年から予選時も道を閉鎖して行われるようになった。

1930年(昭和5年)、多田健蔵ヴェロセットKTT(350cc)でジュニアクラスに出場してマウンテン・コースを走り、15位になった。初出場で完走し、年齢が42歳であったことを高く評価されてレプリカ賞を獲得した[7]

WGP

第二次大戦後の1949年FIMロードレース世界選手権(WGP)を開始して、マン島TTレースはイギリスラウンドとして世界選手権シリーズの一戦に組み込まれた。その後もWGPの中でも最も重要な一戦として位置づけられていた。

1954年から1959年まではクリプス・コース(Clypse Course)が使われた。マウンテン・コースの南東に位置する1周17.38kmの公道を使用したロードコースで、マウンテン・コースの一部も使用した。コース名は、人造湖の(Clypse Resevoir)を周回することに因んで名付けられた[8]。1960年からは再びスネーフェルマウンテンコースが使用された。

年々のマシンの性能向上は著しく、1957年にはボブ・マッキンタイヤが初めて100mphを超える平均速度(オーバー・ザ・トン)を記録した。

1959年は日本のホンダが初めて125ccクラスに参戦して完走して谷口尚己が6位入賞、2年後の1961年にはマイク・ヘイルウッドの手によりマン島初優勝を記録した。1963年の50ccクラスではスズキ伊藤光夫が日本人として初優勝した。

マン島TTレースはグランプリの一戦となってからも世界最大のロードレースイベントであり続けたが、一方では60kmに及ぶマウンテン・コースやインターバルスタートといった他のグランプリとは異質な要素が、近代的なサーキットに慣れたGPライダーたちから敬遠されるようになった。また、舗装が荒れていてもコースが長距離に及ぶために改修費用は莫大なものとなる一方で、観客から入場料収入を得ることができない公道コースでは費用の捻出ができなかった。そして、オートバイの速度向上にコースの整備が追いつかず、安全性を重視するライダーはマン島TTレースへの出場を拒否するようになった。ヤマハ1972年はマン島TTレースのみ参加せず、同年ジャコモ・アゴスチーニは「コースが改修されない限り、1973年は出場しないつもりだ」と語った。1973年は有力なチームとライダーは出場しなかった。

そして1976年、FIMは翌年からマン島TTレースをロードレース世界選手権のカレンダーから外し、代わりにイギリスGPとしてシルバーストンでのレースをカレンダーに加えることを発表した。

80年代以降

WGPシリーズから外れたマン島TTレースは市販車ベースのマシンによるレースとなり、1977年からはTTフォーミュラのレギュレーションに沿ったクラスでレースを開催した。1977年のマン島には、WGP時代にマン島レース批判し続けたフィル・リードがエントリーして物議を醸した。しかし、翌年のマイク・ヘイルウッドらトップライダーたち参戦の呼び水ともなり、またジョイ・ダンロップをはじめとする新たなスターライダーも誕生した。

現在[いつ?]、代表的なTTレースのオートバイは空力特性の優れる流線型カウルと技術の向上によりスネーフェル・コースを平均120mph(193km/h)を超えるスピードで駆け抜けていく。平均速度の記録は年々塗り替えられ、2002年にが127.29mph(204.81km/h)を記録し、2004年にがヤマハYZF-R1で127.68mph(205.43 km/h)を記録、2006年にマクギネスは129.451mph(208.33km/h)と更に記録を更新した。

TT Zero

2008年には世界的な環境問題への関心の高まりから、ティンワルドでゼロエミッションカテゴリが提案され、2009年にテストとして特別レース「TTX」が開催された。チームの参加数や走行性能が未知数であったため、「50分以内にマウンテン・コースを一周(37.773 Miles)」「フロントタイヤを覆うカウル(ダストビン)を許可」など緩い規定が採用された。参加チームも、市販車を改造した大学生チームや地元の有志、フレームまで自社で設計したITベンチャー経営者など多種多様なチームが参戦することになった。なおライダーは他のカテゴリの出走者がボランティアで担当した。

レース当日には多くのチームで漏電やバッテリー上がりなどのトラブルが発生したが、主催者側の予想よりも車体の完成度や平均速度が高いチームが多かったため、2010年からは正式カテゴリの「TT Zero」として継続が決定した。またテストではあったが、アメリカ人ライダー(Thomas Montano)がアメリカ製のバイク(Mission One)で初めて優勝した。

TT Zero第一回レースでは、アメリカ人ライダー(マーク・ミラー)がアメリカに本社を置くモトシズ社のオリジナル車両E1pcで優勝、地元チームの「Man TTX Racing」が3位、キングストン大学の学生チームが4位になっている。

環境PRのイベントとしてスタートしたが、2012年にはM-TECが、2013年からはヤマハが参戦するなど、現在では本格的なレースに発展している。

なお、出走するバイクは「CO2の排出量がゼロ」という条件だったが、事実上は電動バイクのカテゴリとなった。

パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムでも電動バイクのカテゴリが新設され、TT Zeroに参戦するチームも出走している。

公道レースならではの危険性

TTは安全面から常に将来が危ぶまれている。レース専用のサーキットとは異なり、コースのすぐ脇に民家の石壁などが存在する上、郊外の直線路ではマシンが非常に高い速度に達するため、転倒やコースアウトを喫したライダーは重傷あるいは死亡に至る例が多い。特に、マッド・サンデーといわれる誰でも一般参加が可能な走行枠で、オートバイで来場した観客が亡くなる事故が問題視されている。1907年から2009年まで239人のライダーが亡くなっている(マンクス・グランプリを含む)。日本人の参加者では、高橋国光が1962年の世界GP第3戦の決勝でスタートして間もなく激しく転倒し、意識不明の重体に陥り一時は生命も危ぶまれた。今でも右目じりに傷が残る。1966年には元スズキワークスライダーの藤井敏雄がカワサキ車で個人出場した際、公式練習中の事故で死亡している。2006年には前田淳が練習走行中に何らかの理由でスロー走行していたところを後続車に追突され亡くなっている。2013年には松下ヨシナリが予選走行中の事故で死亡している[9]

東京都三宅島の公道を使用したモーターサイクルレースの開催をめざし、石原慎太郎都知事が2006年のマン島ツーリスト・トロフィーを視察したこともあったが、結局、安全面での懸念などからレースとしての開催は断念し、チャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバルとしてオートバイによるフェスティバルを開催することとなった。

優勝者

競技者回数
ジョイ・ダンロップ26
ジョン・マクギネス23
マイケル・ダンロップ18
デイブ・モリヌー17
イアン・ハッチンソン16
マイク・ヘイルウッド14
ブルース・アンステイ12
スティーブ・ヒスロップフィリップ・マッカレン11
ジャコモ・アゴスチーニロブ・フィッシャースタンレー・ウッズイアン・ルーガー10
ミック・ボッディスデビッド・ジェフェリースジークフリート・シャウズデイブ・サバイルベン・バーチャル & トム・バーチャル9
ジム・ムーディーチャス・モーティマーフィル・リードチャーリー・ウィリアムズ8
ミック・グラントトニー・ラッターマイケル・ラター7
ジェフ・デュークジミー・ガスリージム・レッドマンジョン・サーティース6
ロバート・ダンロップブライアン・リードカルロ・ウッビアリアレク・ベネットニック・クロウ5
ジョン・ウィリアムズタルクィニオ・プロヴィーニフレディー・フリスデイブ・リーチレイ・ピックレルビル・スミスウォルター・ハンドレイクラウス・エンダーズジョック・テイラー、トレバー・アイルソン4
クリス・パーマー、エイドリアン・アーチバルドイアン・シンプソン、サイモン・ベック、カール・フォガーティーレイ・アンルイジ・タベーリトム・ヘロンボブ・マッキンタイヤトニー・ジェフェリース、アラン・ジャクソンJr.、アレックス・ジョージデイブ・モリスロブ・マケルネアグラエム・クロスビーハロルド・ダニエルフィル・メローバリー・ウッドランドバリー・スミスロルフ・ステインハウゼンウォルター・シュナイダーマックス・デューベルライアン・ファーカークラウス・クラフェンベック、ディーン・ハリスン、ピーター・ヒックマン3
キャメロン・ドナルド、シャウン・ハリス、イアン・ダフス、チャーリー・コリアーセシル・サンドフォードファーガス・アンダーソンヒュー・アンダーソン、エドウィン・トウェムロウ、マンリフ・バリントンケル・カルザース、コン・ロウ、エリック・ウィリアムズ、トム・シェアード、ティム・ハント、マルコルム・アップヒル、チャーリー・ドドソン、ハワード・デイビースビル・ロマス、エディ・レイコック、アーティー・ベルギャリー・ホッキングジョン・ハートルジョック・ポーター、トレバー・ナティソン、フリッツ・ヒレブラント、ディック・グレイスレイ、ロウリー・バートン、ジェフ・ベル、フレディ・ディクソン、スティーブ・カル、マーク・フリン、ジョン・ホールデン、ビル・アイビー、ゲーリー・ジョンソン、アリスター・キングアイヴァン・リンティン、グレイム・マクレガー、ブライアン・モリソン、ゲイリー・パジェット、デイブ・サビル、ナイジェル・ピアシー、スティーブ・プラター、ポール・ウィリアムズ、デイブ・サバイル2
マイケル・ルッター、ニック・ジェフェリース、ハリー・コリアー、ハリー・リード、ジャック・マーシャル、レム・フォウラー、クロミー・マッキャンドレスレスリー・グラハム、スティーブ・アボット、ダリオ・アンブロシーニ、フランク・アップルビー、イボー・アーバー、レグ・アームストロング、ゲオルグ・アウアーバシャー、ロス・ウィリアムズ、ピーター・ウィリアムズ、シリル・ウィリアムズ、モンティー・ロックウッド、ケン・カバナレイ・ナイト、エバルド・クルーゲ、ゲオルグ・マイヤー、ジョニー・リー、オリバー・ゴッドフリー、ティム・ウッド、フランク・ホワイトウェイ、シリル・プリン、トミー・デ・ラ・ヘイ、フリッツ・シェイダガー、ノーマン・ブラウン、トレバー・バージェス、ラルフ・ブライアンズ、ロジャー・バーネット、ジャック・フィンドレイ、フィル・カーペンター、デイブ・クロクスフォード、グラハム・ペニー、エルンスト・デグナー, 伊藤光夫、スチュアート・グラハム、ロン・ハスラム、ビル・シンプソン、マーティン・シャープ、キース・マーティン、マーク・ロジャース、オモボノ・テッニ、フロリアン・カマティアス、マーク・ボールドウィン、イアン・ベル、ディーター・ブラウン、エリック・ブリッグス、ジミー・バカン、モーリス・カーン、ハロルド・クラーク、ロッド・コールマン、シド・クラブツリー、レオ・ダベンポート、エディ・ダウ、パーシー・J・エバンズ、ヘルムート・ファス、シド・グリーブ、ヴェルナー・ハース、コンラッド・ハリスン、ジェームス・ヒリアー、マック・ホブソン、ロバート・ホールデンルパート・ホラースデニス・アイルランド、C・W・ジョンストン、ボブ・キーラー、ニール・ケリー、フランク・ロングマン、ジャック・マーシャル、ヒュー・メイソン、テッド・メラーズマーク・ミラーデレク・ミンター、ジョージ・オデル、エリック・オリバー、マット・オックスレイ、レス・パーカー、デニス・パーキンソン、デレク・パウエル、ブライアン・パースロー、リチャード・クエール、ティム・リーヴス、ハリー・リード、トミー・ロブ、ブレット・リッチモンド、マイク・ロジャース、ナイジェル・ローラソン、デイブ・ローパー、デイブ・シモンズジミー・シンプソン、スティーブ・トンキン、ケネス・トウェムロー、ヘンリー・タイレル・スミスクリス・ヴィンセント、テリー・ヴィニコンベ、グラハム・ウォーカー、フランク・ホワイトウェイ1

ラップレコード

カテゴリ競技者オートバイ年度レコードタイム平均速度
Outright(全カテゴリ総合)ピーター・ヒックマンBMW S1000RR201816:42.778135.452 mph(217.989 km/h)
Superbike TTディーン・ハリスンKawasaki ZX-10R201816:50.384134.432 mph(216.347 km/h)
Supersport TTマイケル・ダンロップYamaha YZF-R6202217:29.070129.475 mph(208.370 km/h)
Lightweight TTマイケル・ダンロップPaton S1-R201818:26.543122.750 mph(197.547 km/h)
Senior TTピーター・ヒックマンBMW S1000RR201816:42.778135.452 mph(217.989 km/h)
Superstock TTピーター・ヒックマンBMW S1000RR201816:50.601134.403 mph(216.301 km/h)
TT Zeroマイケル・ラター無限 神電201918:34.172121.91 mph(196.20 km/h)
Sidecar TTベン・バーチャル & トム・バーチャルHonda CBR Sidecar201818:59.018119.250 mph(191.914 km/h)

その他

マン島にはツーリスト・トロフィーを頂点として3つの大きなレースがある。ツーリスト・トロフィーは通常、マン島TTレース(The Isle of Man TT Race)と表記される。"TT"は、ブランドロゴのような使用のされかたをしている。各国で行われるレースにはマン島TTレースを真似て、ツーリスト・トロフィーレースと命名されているレースがある。日本語で表記される場合は「マン島TTレース」とも記されるが、"TT"が省略されて「マン島レース」と呼ばれることも多い。

オックスフォード・ワールド・スポーツ・アンド・ゲームスでは、「最古のモーターサイクルレースサーキットはスネーフェル・マウンテン・コースであり、マン島・ツーリスト・トロフィー・レースでいまだ使われている」と記述されている。

TTレースの期間中は道路閉鎖のため島内の旅は困難となるが、TTへのアクセス道路はダグラス市内にあり、マウンテン・コースの中心部にアクセスが可能である。

2007年にはツーリスト・トロフィーは百周年を迎えたが、その前後には「100周年を区切りにマン島TTは廃止されるのではないか」という風説も存在した[要出典]

テレビゲーム

マン島TTレースにちなんだゲームが発売されている。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 2013年以降はFIA 世界耐久選手権 (FIA WEC) のシルバーストン6時間レースに懸けられている。

出典

  1. ^ 1905 Tourist Trophy Race - Grace Guide
  2. ^ Isle of Man TT Races - Grace Guide
  3. ^ 『百年のマン島』(p143 - p145)
  4. ^ ENCYCLOPEDIA Britannica "Tourist Trophy races"[1]より。
  5. ^ 『百年のマン島』(p147)
  6. ^ Competitors"Isle of Man TT OfficialWebsite"[2]より。
  7. ^ 『百年のマン島』(p194 - p198)
  8. ^ 『百年のマン島』(p98 - 99)
  9. ^ nikkansports.com (2013年5月28日). “日本人レーサーがオートバイレース事故死”. 2013年5月28日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク


 

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